賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

第六の日、創造主が言葉を述べると、神の心にあった生物すべてが次々と現れた

2020-03-31 10:44:42 | 聖書の奥義を開く

   気付かれることなく創造主の万物創造の業は5日間にわたって続き、創造主による万物創造の業は、6日目に入った。この日もまた新たな始まりの日であり、特別な日であった。それでは、6日目前夜における創造主の計画は、どのようなものであったのだろうか。神は、どのような生物を造る予定であったのだろうか。神の言葉は次の通りであった。

   「神はまた言われた、『地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ』。そのようになった。神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。」(創世記1:24-25)これにはどのような生物が含まれるであろうか。聖句では、その種類に従って家畜、這うもの、地の獣とある。つまり、この日はあらゆる地上の生物が生み出されたのみならず、それらの生物は種類により分類され、前日と同様に「神は見て、良しとされた。」

   この日の前日までの5日間と同様の調子で、6日目は、神が望んでいた生物の創造を命じ、その種類に従ってそれらの生物が地上に出現した。創造主が自身の権威を行使した時、神が述べた言葉には全く無駄な部分が無かった。したがって、6日目に神が造ろうとしていた生物が、指定した時間に出現した。創造主が「地は生き物を種類にしたがっていだせ。」と言うと、すぐにあらゆる種類の生物が地上に出現して、その生物で満たされた。草に覆われた荒野には、頑強な牛が次々と現れて尾を振り、羊が鳴き声を上げながら群れ、馬がいななきながら早駆けをしていた。静寂だった広大な草原は、一瞬にして生物で溢れかえった。こうした家畜の出現は、静寂な草原の美しい光景であり、限りない活気をもたらした。家畜は草原で互いに仲間となり、その主となり、互いに依存し合い、さらに家畜は、草原の守衛的な存在となった。草原は家畜の恒久的な棲息地となり、家畜に必要とされる全てを与える、家畜の生活における永遠の育みの源であった。

 

 

   創造主の言葉により家畜が生まれた日には、無数の昆虫も次々と出現した。昆虫は全生物の中で最も身体が小さかったが、昆虫の生命力は創造主の驚異的な創造物であり、昆虫の出現も遅れることは無かった。昆虫には、羽ばたきをするものや、ゆっくりと地を這うもの、跳ね回るもの、よろよろと歩くもの、高速で移動するもの、逃げ足の速いもの、横向きに歩むもの、高く跳ねるもの、低く跳ねるものなどがあった。全ての昆虫は慌てて棲息する場所を探した。草の中に分け入るもの、地に穴を掘るもの、木に飛び入るもの、森に潜むものなどがあった。昆虫は小さいながら、空腹に耐えることを好まず、すみかを見つけるとすぐに、食物を探して出て行った。草を登って柔らかい草の葉を食べるもの、泥を口いっぱいにほおばり、おいしそうに胃に詰め込むもの(昆虫にとっては泥でさえもご馳走であった)、森に隠れているものもあったが、決して休むことは無く、艶のある葉の汁を食料としていた。昆虫は、食べ飽きても休むことはない。身体は小さいが、大量のエネルギーと無限の活力を備え、全ての生物のなかで最も活発であり、勤勉な生物である。昆虫は、怠けることも、ゆっくり休むことも、決して無い。十分な食事を摂った後も、将来のために骨折って働き、明日のため、生存するために忙しく働き続ける。昆虫は、様々な旋律やリズムのバラードを口ずさみながら、働き続ける。昆虫もまた、草木や土に喜びをもたらし、その日、その年を特別なものにする存在であった。昆虫は独自の言葉と方法により、地上の動物すべてに知らせを伝えた。そして、昆虫独自の生涯を通じて、あらゆる物事に印をつけ、その痕跡を残した。昆虫は土や草、森と懇意にし、土や草、森に生命力と活力をもたらし、あらゆる生物に、創造主の訓戒や知らせを伝える。

   創造主の視線は、神の創造物すべてを見渡し、この時神の視線は、森と山に止まり、神の心に考えが生まれた。神が深い森と山々に対して言葉を述べると、それまで存在しなかった種類の生物が出現した。これらの生物は、神が述べた「野生動物」であった。かなり遅れて、それぞれ独特な顔つきの野生動物は頷き、尾を振った。野生動物には、毛皮のあるもの、甲羅のあるもの、むき出しの牙があるもの、歯がむき出しのもの、はにかむもの、首の長いもの、尾が短いもの、野生的な眼を持つもの、臆病な眼差しのもの、身体を曲げて草を食べるもの、口の周りに血が付いているもの、2本足で跳ねるもの、4つの蹄で駆けるもの、木のこずえから見下ろすもの、森で横たわり待ち続けるもの、休むためのほら穴を探すもの、草原で跳ね回るもの、森を徘徊するものがいた。また、うなるもの、遠吠えするもの、吠えるもの、鳴くものがいた。鳴き声が高いものと低いもの、鳴き声が大きい物、明るく歌うように鳴くものがいた。厳めしいもの、可愛らしいもの、醜いもの、愛らしいもの、恐ろしいもの、純粋な顔つきのものなどがあった。こうした野生動物も、次々と出現した。こうした野生動物は、意気揚々としていたり、自由奔放であったり、互いに興味を示さなかったり、見向きさえしなかったりする。こうした野生動物は、それぞれ創造主から授けられた命、独自の野生、残酷さがあり、森や山に出没する。野生動物は、極めて横柄である。こうした動物は、山や森の主であるからだ。創造主がこうした野生動物の出現を命じた時から、こうした動物達は、森や山を我が物としていた。なぜなら、創造主は既に野生動物の棲息範囲を決め、封じ込めていたからである。山や森の真の主は、野生動物のみであり、それが、野生動物達の野蛮さや傲慢さの理由となっている。野生動物は、単にあらゆる生物のなかで最も野蛮であり、飼い慣らすことが困難であるため、「野生動物」と呼ばれる。野生動物を飼い慣らすことはできないので、飼育することはできず、人間と調和した生活ができず、人間に代わって働くこともできない。野生動物が人間から離れて生活し、人間が野生動物に近づけないのは、野生動物が飼育不可能であり、人間のために働くこともできないからである。また、野生動物が人間から離れて生活し、人間が野生動物に近づけないので、野生動物は創造主から与えられた役割、すなわち山や森を守る役割を果たすことができるのである。野生動物の野蛮さが山や森を守り、それが山や森の存在や繁栄にとって最適な守護となった。それと同時に、その野蛮さにより万物の調和が維持されていた。野生動物が出現して山々や森に住み着いたことにより、拠り所と支えがもたらされ、静寂で空虚だった山々や森に活気がもたらされた。この時点以降、山々や森は野生動物の恒常的な棲息地となり、野生動物は棲息地を失うことが無い。なぜなら、山々や森は野生動物のためにあり、野生動物はその役割を果たし、山々や森を保護するために、出来る限りのことをしたからである。そうしたわけで、野生動物もまた、創造主の訓戒を遵守し、自分達の領域に留まり、その獣的性質により創造主が造った万物の調和を維持し、創造主の権威と力を示しているのである。

 

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ラザロの復活が神を褒めたたえる

2020-03-30 22:55:06 | 聖書の奥義を開く

   こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。(ヨハネによる福音書11:43-44)

   あなたがたは、この聖句を読んで、どのような感想を持つであろうか。主イエスが行ったこの奇跡の意味は、この前に検討した奇跡よりもはるかに重大である。なぜなら、死人を墓から蘇らせること以上に驚異的な奇跡は存在しないからである。主イエスがこのような業を行ったことは、この時代において極めて意義深かった。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、神の実際的な側面、わずかな神の側面しか見ることができない。たとえ一部の人々が神の性格や神が持っているであろうと考えられる力を見て理解したとしても、主イエスがどこから来たか、主の真髄は何か、自分達が見る以上にイエスが行うことのできる物事が何かを知る者は誰も居なかった。そうしたことは人類にとって未知であった。こうした事柄の証拠を求め、真実を知ることを望む者が大勢居た。神は、何らかの業を行い、神の身分を証明することが出来たであろうか。それは神にとって極めて容易であった。神はいつでもどこでも、何らかの業を行い、神の身分と真髄を証明することが出来たが、神は計画通りに、段階的に業を行った。神が無分別に業を行うことはなく、神は最適な時期と機会が到来するのを待って、人間が目の当たりにするのが最も有意義な業を行った。こうした方法により、神の権威と身分が証明された。それでは、ラザロの復活は主イエスの身分を証明出来るものであっただろうか。その点について、「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は…出てきた。」という聖句を検討する。主イエスがこの業を行った時に言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」のひと言であった。その後ラザロが墓から出て来たが、これは主のひと言で達成された事であった。この時、主イエスは祭壇を作ることも、それ以外の業を行うこともなかった。主は、そのひと言を述べただけであった。これは奇跡と呼ぶべきであろうか、それとも命令と呼ぶべきであろうか。それとも、これは何らかの魔術であったのだろうか。これは表面的には奇跡であると言うことができ、現在の観点から見ても、奇跡だと言えるであろう。しかし、無論これを、魂を死人から呼び戻す呪文とも魔術とも呼べないことは確実である。この奇跡は、創造主の権威を実証する、ごく普通の些細な証明である、というのが正しい。これは神の権威であり、能力である。神には、ある者を死なせ、その魂を身体から出してハデスその他の然るべき場所へ還らせる権威がある。ある者がいつ死ぬか、その者がどこへ向かうかを決めるのは、神である。神は、こうした事柄をいつでもどこでも行うことができる。神は人間や物事、空間、場所の制約を受けない。神は望むままに事を行うことが出来る。なぜなら、あらゆる物や生き物は神の支配下にあり、あらゆる物が神の言葉と権威により生き、死ぬからである。神は死者を復活させることができるが、これもまた、神が時間と場所を問わず、いつでも出来ることである。これが、創造主のみが持つ権威である。

 

 

   ラザロを死から復活させるなど、主イエスが業を行った時、イエスは、人間やサタンに対して、人間の生死など、人間の全ては神によって決められているということ、そして神が受肉している場合であっても、目に見える物質的世界も、目に見えない霊的世界も、依然として神が支配していることを、人間とサタンに対して証明し、知らしめることを目的としていた。これは、人間の全てはサタンの支配下にはないことを、人間とサタンに対して知らしめるためである。またこれは神の権威の啓示であり、証明であり、さらに人間の生死に関する事柄は、全て神により支配されていることを全てのものに示す手段である。主イエスによるラザロの復活のような業は、創造主が人間を教え導くひとつの手段であった。これは、神が自身の力と権威を用い、人間を指導し、人間に対して施す、実際の行為であった。またこれは創造主が言葉を用いずに、創造主が万物を支配しているという真理を人間が理解できるようにするための手段であった。さらに、これは神による以外に救いは存在しないということを、実際の業により人間に対して伝える手段であった。こうした神が言葉無しで人間に教えを授ける手段は永遠に続く。こうした教えは消える事がなく、人間の心に色あせる事のない衝撃と啓示が与えられる。ラザロの復活は神を褒めたたえた。神に付き従う者すべてに、それは大きな衝撃を与えるものである。ラザロの復活により、この出来事を深く理解する人々すべての心に「人間の生死を支配できるのは神のみである」という理解と認識が定着する。神にはこの種の権威があり、また神はラザロの復活により人間の生死に関する自身の権威を示したが、これは神の主要な業ではなかった。神は無意味に業を行わない。神が行う業には、その全てに貴重な価値があり、その全てが不朽の宝である。神は、ある者を墓から復活させることを主要ないし唯一の目的や事項として業を行うことはない。神は、無意味なことは一切行わない。ラザロの復活は神の権威を証明するに十分である。またそれは主イエスの身分を証明するに十分である。主イエスがこの種の奇跡を繰り返されることがなかったのは、このためである。神は、神自身の原則に従って業を行う。人間の言葉で言うならば「神は業の重要性に配慮されている」と言えるであろう。すなわち、神が業を行う時、神はその業の目的から外れることがない。神はこの段階において行いたい業が何であり、完遂したい業が何かを知っており、自身の計画に厳密に従って業を行う。腐敗した人間がこうした能力を持っていたとしたら、その者が考えることは、自身の能力を示し、高い能力を持つことを他人に知らしめ、他人を服従させ、支配して滅ぼす方法のみであろう。それはサタンに由来する邪悪であり、腐敗と呼ばれる。神には、そうした性質が無く、またそうした真髄も無い。神が業を行うのは自己顕示のためではなく、人間に対してより多くの啓示と導きを授けるためであるため、聖書においては、この種の業はごく僅かしか見られない。それは、主イエスの能力が限定されていたことを意味するものでも、その種の業を行えなかったことを示すものでもない。それは、単に神が行おうと思わなかっただけである。なぜなら、主イエスがラザロを復活させたことには、極めて現実的な意味があり、また受肉した神の主な業は、奇跡の業を行うことでも、人間を死から復活させることでもなく、人間に対する贖いの業であったからである。そうしたわけで、主イエスが完遂した業の大部分が、人々に教え、施し、助けることであり、ラザロを復活させたような業は、主イエスが行った業のうちごく僅かであった。さらに、「自己顕示すること」は神の真髄には含まれていない、ということも出来るだろう。したがって、それ以上の奇跡を示さなかったのは、故意に制限していたためでも、環境的な制約のためでも、無論能力が不足していたためでもない。

   主イエスがラザロを死から復活させる時、主が使った言葉は「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけである。主はそれ以上の言葉を用いなかったが、そのことは何を意味するであろうか。こうした事柄は、死者を復活させることを含めて、神があらゆる事を言葉により実現可能であることを示している。神が万物と世界を創造した時、神はこれらを言葉により創造した。神は言葉で命じ、すなわち権威ある言葉を用い、その言葉通りに万物が創造された。創造は、このようにして行われたのである。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した時に神が述べた言葉と同じであり、主イエスの言葉には神と同じ権威、創造主と同じ力があった。万物が神の言葉により形成され、存在したのと全く同じようにして、主イエスの言葉によりラザロが墓から出たのである。ラザロの復活は、受肉した身体により証明され、実現された神の権威であった。この種の権威や能力は、創造主と、創造主が形あるものとなった人の子のものである。神がラザロを死から復活させることにより、人間に啓示された知識は、その事実である。この件の検討は以上である。次に、下記の聖句について検討する。


第五の日、様々な生物の命により、創造主の権威が様々な形で示された

2020-03-29 22:43:18 | 聖書の奥義を開く

   聖句には、「神はまた言われた、『水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ』。神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。」(創世記1:20-21)とある。聖句では、神がこの日に水の中の生物や空の鳥、つまり様々な魚や鳥を創造し、それぞれの種類により分類したことが明示されている。こうして、神の創造物により、地、空、水が豊かにされた。

   神の言葉が述べられると、それぞれ異なる形をした新たな生命が、神が言葉を述べる間に、瞬時に生まれた。こうした生物は、歓喜で飛びはね、我先にと新たな世界に入っていった。様々な形や大きさの魚が水の中を泳ぎ、様々な形の貝が砂の中で育ち、うろこのあるものや、殻を持つもの、脊椎の無いものなどが、大小、長短の様々な形の生物へと我先に成長していった。同様に、様々な海藻類も繁殖し、様々な水生生物の動きに揺られ、淀んだ水に対して、あたかも「さあ踊ろう。友達も一緒に踊ろう。もう孤独では無いのだから。」と言っているようであった。神が創造した様々な生物が水の中に出現した時点から、新たな生物は、それまでずっと静まりかえっていた水の中に活気をもたらし、新たな時代へと移り変わっていた。それ以降、こうした様々な生物は快適に共生し、差別することは無かった。水は、水中の生物のために存在し、水中に棲む生物に栄養を与えた。全ての生物は自分達を育ててくれる水のために存在した。様々な生物が共生し、それぞれの生物は、創造主の創造の驚異と素晴らしさと、創造主の権威が持つ至高の力を、等しく証していた。

   海が静穏でなくなったのと同様に、空にも生物が溢れた。大小様々な鳥たちが、次々と地上から空へ飛び立った。海の生物とは異なり、鳥たちには翼と羽根があり、細長く美しい身体を覆っている。鳥たちはその翼を羽ばたかせ、華麗な羽根と、創造主により授けられた特別な機能と能力を誇らしげに披露した。鳥たちは、天と地、そして草原と森の間を巧みに行き交いながら、自由に飛び回った。鳥たちは空に愛され、またあらゆる物に愛された。鳥たちは、やがて天と地を結ぶ役割を担うようになり、全ての物に知らせを伝えるようになる。鳥たちはさえずり、楽しそうに飛び回り、空虚であった世界に、喜びと笑い、活気をもたらした。鳥たちは澄んだ鳴き声で歌うように鳴き、心の言葉で、与えられた命に対して創造主を讃美する。鳥たちは陽気に踊り、創造主の創造の完璧さと驚異を示し、創造主の権威を証することに、その創造主に与えられた特別な一生を捧げる。

   こうした溢れんばかりの生物は、創造主の命令により、そのすみかが水中となった場合も、空中となった場合も、様々な形態で生活している。またこうした生物は、創造主の命令により、種ごとに群れている。こうした律法ないし規律は、いかなる生物も変えることができない。こうした生物は創造主により定められた範囲を敢えて超えることは無く、またその範囲を超えることができない。生物は、創造主により定められたとおり生活し、繁殖し、創造主が定めた生涯と律法に厳密に従い、神が黙示する命令、天からの命令や訓告に意識的に、今なお従い続けている。こうした生物は創造主と独自の方法で対話し、創造主の意図を理解して、神の命令に従っている。創造主の権威を超えた生物は全く存在せず、生物に対する神の支配と命令は、神の心の中で行使される。つまり、言葉は述べられないが、人間とは違い、物を言わないものの全てが、創造主のみにある権威によって支配される。こうした特殊な方法による神の権威の行使により、人間は新たな認識を得て、創造主のみにある権威について、新たな解釈を行うことを余儀なくされる。この日、神の権威の行使により、創造主の独自性が再び示されたことを、ここで述べる必要がある。

 

 

   次に、この聖句の最終文を検討する。「神は見て、良しとされた。」これはどのような意味であろうか。この部分では、神の感情を垣間見ることができる。神は、神が造った全ての物が出現し、神の言葉により確立し、そして徐々に変化し始めたのを見た。この時、神は、神が言葉により創造した様々な物や、神が遂行した様々な業について、満足していたであろうか。その答えは、「神は見て、良しとされた。」である。ここでは、何が分かるであろうか。「神は見て、良しとされた。」とは、何を示し、何を象徴するものであろうか。神には、神が計画したことや、指定したことを実現させ、実現させると決めた目的を達成するだけの力と知恵がある。神がそれぞれの作業を完了した時、神は後悔していたであろうか。その答えも、「神は見て、良しとされた。」である。つまり、神は後悔の念を感じないだけでなく、むしろ満足していた、ということである。神は一切後悔しないとは、どのような意味であろうか。それは、神の計画や力、知恵は完璧であること、そしてこうした完璧さは、神の権威のみが達成可能であることを示している。人間が作業を行う時、人間は、神と同様に、その作業が良いと思うことができるであろうか。人間が行う作業が全て完璧となり得るだろうか。人間が1度だけで完璧にすることのできる作業は、あるだろうか。人間が言うように、「完璧は有り得ず、比較的優れているに過ぎない」ので、人間が行う作業が完璧となることは、有り得ない。神が、神自身が行なった業が良いと判断した時、神が創造した物は、すべて神の言葉により造られたものであり、すなわち神が造った物全てに永久的な形があり、種類により分類され、恒久的に一定の位置、目的、機能が与えられたことについて、「神は見て、良しとされた。」のである。さらに、特にそうした創造物の役割と、神による万物の経営のなかで、それらの物が進むべき旅路は、神により既に命令され、変わることが無い。これは、創造主が万物に与えた、天の律法であった。

   「神は見て、良しとされた。」この簡潔であり、それほど重視される事がなく、往々にして無視される言葉は、神がすべての生物に授けた、天の律法と天の命令である。この言葉は、創造主の権威を、より実践的かつ深く具現化したものである。創造主は、言葉により神が求めていることの全てを得て、実現しようとしていることの全てを実現することができるだけでなく、神が創造した全ての物をその手中に収め、神の権威により造った全ての物を支配することも可能である。さらに、すべてが系統的かつ規則正しいものである。また、神の言葉により全ての物が生き、死に、さらに、神の権威により神が定めた律法の中に存在した。これについては例外は無かったのである。この律法は「神はこれを見て、良しとされた」瞬間に始まり、創造主により廃止される日まで、神の経営(救いの)計画のために継続的に存在し、機能する。創造主のみにある権威は、万物を創造し、全ての物を出現させるよう命令する神の能力だけでなく、万物を支配し主権を握ることのできる能力、命と活力を与える能力、さらに、神の計画において神が創造する万物を、神が創造した世界の中で出現させ、完璧な形、完璧な生涯の構成、完璧な役割で、その世界に永遠に存在させる能力においても現れた。また、神の権威は、創造主の考えが時間、場所、地理など、いかなる制約も受けない方法で現れた。神の権威と同様、創造主のみにある身分は、永遠に変わることが無い。神の権威は、常に神のみにある身分を表し、その象徴であり、神の権威は、神の身分と共に、永遠に存在するのだ。


復活後のイエスによる弟子達に対する言葉

2020-03-28 00:21:07 | 聖書の奥義を開く

   八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書20:26-29)

   またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」(ヨハネによる福音書21:16-17)

 

 

   これらの聖句により述べられている事柄は、主イエスが復活した後に、弟子達に対して行った業と言葉である。まず、復活の前後における主イエスの相違点について検討する。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わりないであろうか。この聖句には、復活後のイエスに関する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」という件が含まれている。この時の主イエスは肉にある存在ではなく、霊の存在となっていたことは明らかである。なぜなら、主が肉の限界を超越し、扉が閉ざされていたにもかかわらず、主は人々の前に来て自身の姿を見せたからである。これが復活前の肉にあった主イエスと、復活後の主イエスの、最大の相違点である。その時の霊的存在の外観と、それ以前の主イエスの外観には何ら相違はなかったが、その時のイエスは人々にとって見知らぬ人と感じられるような存在となっていた。なぜなら、主は死から復活した後に霊的存在となり、従前の身体と比較すると、その霊的存在は人々にとって謎めいた理解し難い存在となっていたからである。またそれが原因となり、主イエスと人々との間に、一層の隔たりが生じ、人々はその時の主イエスが一層不思議な存在になったと感じた。人々のこうした認識と感覚により、人々は、目に見えず触れることの出来ない神を信仰していた時代へと、突如として戻された。そうしたわけで、主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。

   主は霊の存在であったとすると、なぜ人々は主に触れ、主を見ることが出来たのであろうか。それは主イエスが人間の前に現れたことの意味に関連する問題である。これら2つの聖句について、何か気付くことがあるだろうか。通常、霊の体は見ることも触れることも出来ず、また主の復活後、主イエスの業は既に完了していた。したがって理論的には、主が復活前の姿で人々の前に再び現れ、人々に会う必要は全く無かった。しかし、主イエスの霊の存在がトマスなどの人々の前に現れたことにより、その意味が一層具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれた。主がトマスの前に現れた時、疑念を抱いていたトマスに自身の手に触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言った。この言葉や業は、主イエスが復活した後に伝えたい、行いたいと思ったものではなく、主が十字架にはり付けられる前に伝え、行いたいと思っていたものである。十字架にはり付けられる前の主イエスが、トマスのような者に関して理解していたことは明らかである。このことから何が分かるであろうか。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わらなかった、ということである。主の真髄は、変わっていなかった。トマスの疑念は、この時始まったのではなく、主イエスに付き従っている時分からあったものだが、主は死から復活して霊的世界から、復活前の外観、性質、そして肉にあった時の人間に対する認識で戻って来た。故に主イエスはまず最初にトマスのこところへ行き、自身のわき腹をトマスに触れさせて復活後の主の霊的存在に触れさせるだけでなく、主の霊的存在に触れて実感させ、トマスの疑念を完全に払拭させたのである。主イエスが十字架にはり付けられる前、トマスは常に主がキリストであるということに疑念を抱き、信じることが出来なかった。トマスの神に対する信仰は、トマスが見ること、手で触れることが出来ることのみに基づいていた。主イエスは、この種の人間の信仰について、よく知っていた。この種の人々は天の神のみを信じ、神が送った肉にあるキリストを受け容れることが出来なかった。主イエスの存在と、イエスが真に受肉した神であることをトマスに理解させ、信じさせるため、イエスはトマスに対し、手で自身のわき腹に触れさせた。主イエスの復活の前後で、トマスの疑念に異なる点はあったであろうか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊的存在がトマスの前に直接現れ、トマスに自身の身体に残された釘あとを触れさせる以外に、トマスの疑念を払拭することは誰にも出来なかった。そうしたわけで、主イエスがわき腹と残された釘あとをトマスに触れさせてからは、トマスの疑念は消え、トマスは主イエスが復活されたことを真に知り、また主イエスが真のキリストであり、受肉した神であったことを理解し、信じるようになった。この時トマスに疑念はなかったが、キリストに会う機会を永遠に失ってしまった。トマスはキリストと共にあり、キリストに付き従い、知る機会、そしてキリストにより全きものとされる機会を永遠に失ってしまった。主イエスの現れと言葉により、疑念を抱いている者の信仰に対する主の結論と審判が下された。主は自身の言葉と業により、疑念を抱く者に対して、天の神のみを信じ、キリストを疑う者に対し、そうした者の信仰や、疑念を抱きつつ付き従うことを好まないということを伝えた。そうした者たちが神とキリストを完全に信じるようになる時、それは他でもない、神の大いなる業が完了した時である。もちろん、大いなる業が完了した時は、そうした者たちの疑念に対する審判が下る時でもある。その者たちのキリストに対する態度により、その者たちの運命が決められ、そうした頑なな疑念の結果としてその者達が得るものは無く、頑固さゆえ、そうした者たちの希望は報われない。そうした者たちの天の神に対する信仰は幻により育まれており、またそうした者たちのキリストに対する疑念がそうした者たちの神に対する実際の態度であるため、そうした者たちは実際に主イエスの釘跡に触れたにもかかわらず、そうした者たちの信仰は無駄であり、そうした者たちの結末は無駄な努力をしているとしか言いようが無い。主イエスがトマスに対して述べたことにより、全ての者に対して、復活した主イエスが人間の中で33年と半年にわたって業を行っていた主イエスである、と明確に伝えられている。イエスは十字架に釘ではり付けられ、死の陰の谷を歩んだ後に復活したにもかかわらず、イエスのあらゆる側面は変わることがなかった。イエスの身体には釘あとが付き、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨は全く変わることがなかった。また、イエスは十字架から下ろされ、罪や苦難、そして死に打ち克ったと人々に伝えた。その釘あとは、サタンに対する勝利の証しであり、人類すべてを贖うための罪のいけにえとなった証であった。イエスは、人類の罪を既に負い、贖いの業を成し遂げたことを人々に告げていた。イエスが使徒たちの前に戻って来た時、イエスが出現されたことによって、使徒たちに対して「依然としてわたしは生きている。わたしは、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共に居る」と伝えた。また、主イエスはトマスの例を「主イエスを信じていたとしても、主を見ることも、主に触れることも出来ないが、あなたは、あなた自身の真の信仰により祝福され、あなたの真の信仰により主イエスを見ることが可能であり、それが可能な人は恵まれている」という、その後の人々に対する警告として用いたいと考えた。

   ……

   これが疑い深い者に対する主イエスの姿勢である。それでは、主イエスを心から信じて付き従う者に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ったであろうか。次に、その言葉と業について、主イエスがペテロに対して述べた言葉を検討する。

   この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ペテロよ、わたしを愛するか」と尋ねている。これは、主イエスが復活した後に、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような者に対して主イエスが求めた、比較的高い基準である。この質問は、ある種の調査であり、ある種の尋問であったが、それ以上に、ペテロのような者に対する要求であり、期待であった。イエスはこのような方法により、人々に自分自身を省みて「主イエスが人々に要求していることは何であろうか。私は主を愛しているか。私は神を愛する者であろうか。私はどのように神を愛するべきであろうか。」と自問自答させた。主イエスがこう質問したのはペテロだけであったが、神はその心の中で、神を愛することを追い求める更に多くの人々に、同様の質問を投げかけることを望んでいた。ペテロは、この種の人々の代表として、主イエスから直接この質問を受ける祝福にあずかったというだけのことである。

   主イエスがトマスに対して「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と復活後に述べたのに対し、ペテロに対しては3回「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか。」と尋ねている。この質問により、主イエスの厳格さと、主が質問した時の切迫性を、一層感じ取ることができる。狡猾で不正な性格のトマスの疑念について、主イエスはトマスを主の釘あとに触れさせることで、主イエスが復活した人の子であり、主イエスがキリストであることをトマスに確信させた。主イエスはトマスを厳しく非難することも、審判を明確に述べることもなかったが、イエスは実際の行動により、自分がトマスを理解していることをトマスに知らせつつ、この種の人々に対する主の姿勢と判断を示した。この種の人々に対する主イエスの要求は、主の言葉には見られない。これは、トマスのような人々には真の信仰が全く無いためである。こうした人々に対する主イエスの要求は真の信仰あるのみであるが、ペテロのような人々に対する啓示は全くこれと異なる。イエスは、ペテロに対して釘あとに触れるよう要求することも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言うこともなかった。そのかわりに、イエスはペテロに対し、同じ質問を繰り返した。これは、思考を刺激すると同時に、キリストに付き従う者すべてが自責の念にとらわれ、畏れを感じ、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じざるを得ないような、意味深い問いかけであった。そして、キリストに付き従う者たちは、大いなる痛みと苦しみに苛まれている時に、主イエス・キリストの懸念と労り一層深く理解することが出来るで、イエスの純粋で誠実な人々に対する熱心な教えと厳格な要求を認識する。主イエスの問いかけにより、人々はこうした簡潔な言葉により啓示された主の人々に対する期待は、主を信じ、付き従うことだけでなく、愛ある人間となり、主を愛し、神を愛することであることを感じることができる。この種の愛は、慈しみと服従である。それは人類が神のために生き、死に、全てを神の前に差し出し、尽くし、捧げることである。また、この種の愛により、神は慰めを得、自身に対する証を喜び、そして安息を得る。この種の愛は、人類の神に対する返報であり、責任であり、義務であり、本分であり、人類がその生涯を通して従うべき道である。この3回の問いかけは、ペテロをはじめとする完全な存在となる人々に対する主イエスの要求であり、警告であった。ペテロがその人生の道を完遂するよう導き、励ましたのは、この3回の問いかけであった。また、完全な存在となる道を歩み始めるようペテロを導いたのも、ペテロの主に対する愛ゆえに、主の心を労り、主に服従し、主に慰めを与え、この愛ゆえに自分の生涯と自分自身の全てを捧げるようペテロを導いたのも、主イエスが去る際の、この問いかけであった。

   恵みの時代では、神の業は専ら2種類の人々を対象とするものであった。その2種類の人々のうちの1つは、神を信じて付き従い、神の戒めを守り、十字架を負い、恵みの時代の道を守ることのできる人々であった。この種の人々は、神の祝福を得て、神の恵みを享受した。2つ目の種類の人々は、ペテロのように完全な存在となる人々であった。そうしたわけで、主イエスが復活した後、主は最初にこの2つの極めて有意義な業を行ったのである。そのうちの1つはトマスに対してであり、もう1つはペテロに対してであった。この2つの業は何を表しているであろうか。神が人間を救う真の旨を表しているであろうか。神の人間に対する誠実さを表しているであろうか。神がトマスに対して行った業は、疑うことなく、ひたむきに信じるよう人々に警告するためのものであった。主がペテロに対して行った業は、ペテロのような人々の信仰を強化し、この種の人々に対する要求を明確化し、この種の人々が目指すべき目標を示すためのものであった。

   主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生のなかでこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼすであろうか。その出来事は、神を信じる生活において最も素晴らしい、至高のビジョンである、と認識するであろうか。人生において神に付き従い、神を満たすために努力し、神への愛を追求する上で励みになると認識するであろうか。この至高のビジョンを広めるため、一生涯をかけて努力するであろうか。主イエスの救いを広めることを、神から授けられた命令として受け入れるであろうか。あなたがたはこうした業を経験していないが、トマスとペテロの業の事例は、現代の人々にとって、神の旨と、神自身を明瞭に理解するに十分である。神が受肉して人間として人間の中で生活を経験し、人間の腐敗や人間生活の惨状を目の当たりにした後、受肉した神は、人間の絶望や悲しみ、哀れさを深く感じた。受肉して生活した際の人性と直感が原因となって、神は人間の惨状に対する憐れみを一層深めた。その結果として、神は、神に付き従う者に対する懸念を深めた。こうした事柄は理解できないかもしれないが、神に付き従う者全てに対する受肉した神の懸念と慈しみは、「極めて強い懸念」という表現で表わすことができるであろう。強い懸念という言葉は人間の言葉であり、極めて人間的な言葉ではあるが、神に付き従う者に対する神の気持ちを真に表現している。人間に対する神の強い懸念は、経験を重ねてゆくにつれて感じ取ることができるであろう。しかし、それを感じ取るには、あなたがた自身の性質の変化を追求することによって神の性質を徐々に理解することによるほかにない。主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。


復活後にパンを食べ、聖句を説明するイエス

2020-03-27 00:17:07 | 聖書の奥義を開く

   一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。(ルカによる福音書 24:30-32)

   こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。(ルカによる福音書24:36-43)

   次に、上記の聖句を検討する。前者は復活後の主イエスがパンを食べながら聖句について説教している部分の説明、後者はイエスが焼き魚を食べている部分の説明である。神の性質を知る上で、これらの聖句はどのように役立つであろうか。パンを食べている主イエスと、焼き魚を食べている主イエスの描写から、そのような場面を想像することが出来るであろうか。主イエスがあなたがたの前に現れ、パンを食べているとしたら、あなたがたは何を感じるであろうか。あるいは、イエスがあなたがたと同じ食卓で人々と共に魚とパンを食べているとしたら、あなたはどのように感じるであろうか。イエスはあなたがたに極めて親しく、懇意な存在であると感じるとしたら、その感情は正しい。復活後にイエスが大勢の人々の前でパンと魚を食べることにより主イエスが求めていた結果は、正にそうした感覚を与えることであった。仮に復活後の主イエスが人々と話をするだけであり、イエスの身体を感じることが出来ず、イエスが触れることの出来ない霊であると感じたとしたら、人々はどのような印象を抱いていたであろうか。人々は落胆していたのではないだろうか。人々が落胆した時、人々は見捨てられたように感じていたのではないだろうか。主イエス・キリストとの間に隔たりを感じていたのではなかろうか。こうした隔たりは、神と人々の間に、どのような悪影響を与えるであろうか。人々は、間違いなく恐怖を感じ、敢えて主に近づかず、イエスに対する敬意を示すに十分な距離を置く態度を取るであろう。その後、人々は主イエス・キリストとの親しい関係を絶ち、恵みの時代以前における、人間と天の神との関係へと戻るであろう。人々が見ることも触れることも出来ない霊的存在が原因となり、神との親密な関係が解消されてしまい、受肉した主イエス・キリストが人間と密接にかかわることにより築き上げられた懇意な関係もまた消滅するであろう。霊的存在に対し、人々は、恐怖、回避を感じ、目を丸くして絶句するような感覚となる。人々は、霊的存在に近づいたり、会話したり、ましてや従ったり、信じたり、望みを持ったりはしないであろう。神は、人々が自身に対してこうした感覚を持つことについて、難色を示した。神は、人々が自身を回避したり、自身の前から立ち去ったりするのを望まなかった。神は、人々が自身を理解し、自身に近づき、自身の家族となることを望んでいた。あなたの家族や子ども達が、あなたを見て、あなたであることを認識せず、あなたに敢えて近寄らず、常に回避していたとしたら、あなたが家族や子のために尽くしたことを、家族や子ども達に理解してもらえなかったとしたら、あなたはどのように感じるであろうか。それは辛いことではなかろうか。あなたの心が痛むのではなかろうか。人々が神を避けた時に神が感じるのは、まさにそうした感覚である。そこで、復活後、主イエスは肉と血のある姿で人々の前に現れ、人々と飲食を共にしたのである。神は人々を家族と考え、また人々にも神を家族と考えることを望む。なぜなら、神が真に人々を得て人々が真に神を愛し、礼拝することが出来るのは、この方法によるほかはないからである。これで、主イエスが復活後にパンを食べながら聖句について説明している聖句と、使徒がイエスに焼き魚を差し出している聖句の2つをわたしが取り上げた趣旨が理解できたであろうか。

 

 

   イエスが復活後に述べた言葉と行った業は、思いやりがあるものであり、親切な旨をもって行ったものである、と言えるであろう。こうした言葉や業は、人間に対する親切さと愛情、イエスが受肉した時に築き上げられた人間との親密な関係に対する認識と周到な慈しみに満たされていた。さらに、そうした言葉と業は、受肉したイエスが自身に付き従う者と飲食を共にしていた頃に対するイエスの懐古と希望で満たされていた。そうしたわけで、人間が神との間に距離を感じることも、人間が神から距離を置くことも、神は望まなかった。さらに、神は復活した主イエスが、もはや人間と親密であった時の主ではない、また主が霊の世界、人間が決して見ることも触れることも出来ない神の元へ戻ったので、もはや人間と共にはいない、と感じることを望まなかった。神は、自身と人間との立場に相違があると人間が感じることを望まなかった。神に付き従いたいと望みながら、神との間に敬意として相応しい距離を置いていた人間を神が見た時、神は心を傷めた。なぜなら、それは人間の心が神から遠く離れていること、神が人間の心を得るのは極めて困難であることを意味するからである。そうしたわけで、仮にイエスが誰も見ることも触れることも出来ない霊的存在として人々の前に来ていたとしたら、再び人間を神から遠ざけてしまい、またその結果として、復活後のキリストは、高尚な、人間とは違う存在となり、人間は罪深く、汚れ、決して神には近づくことの出来ない存在であるから、人間と食卓を共にできない存在となった、といった人間の誤解を招いていたことであろう。こうした人間の誤解を払拭するため、聖書に「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられる。」とあるとおり、主イエスは、受肉していた時に頻繁に行っていた多くの業を行った。また主は、従前のように、人々に聖句を説明した。こうしたイエスの業により、主イエスと会った人々は皆、イエスが変わっていないと感じ、またイエスが依然として主イエスであると感じた。イエスは十字架にはり付けられ、死んだのだが、復活し、人間から去っては居なかった。イエスは人間の中に戻り、しかも全く変わっていなかった。人々の前に現れた人の子は、依然として人々が従前知っていた主イエスであった。イエスの態度や人々との会話は、なじみ深いものであった。イエスは依然として親愛、恵み、そして寛容さに溢れていた。自らと同様に人々を愛し、人間を七の七十倍赦すことのできる主イエスであった。従前通り人間と食事を共にし、人々と聖句について話し、またとりわけ重要なこととして、従前と同様に、見て触れることのできる肉と血のある姿であった。こうした人の子の姿により、人々はそうした親密さを感じ、くつろぎを感じ、失った何かを取り戻した喜びを感じ、また人々は安心できたので、果敢かつ確信をもって、人類の罪を贖うことのできる人の子を頼りとして敬うようになった。また人々は、主の恵みと祝福を得、主からの平和と喜び、そして慈しみと保護を得るため、ためらいなく主イエスの名に祈りを捧げるようになり、また主の名において癒しを行い、悪魔を追い出すようになった。

   受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。

   主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。人間から見ると、復活した後に主イエスが行った業は、極めて小さなことであるものの、わたしから見ると、それら全てが有意義であり、貴重であり、またそうした業はすべて極めて重要である。

   主イエスが受肉して業を行っていた時期は苦難に満ちていたものの、肉と血のある霊的存在たる主イエスの顕現により、イエスは肉にあった人類を贖うというその時期の業を完全に遂行した。イエスは、その業で最初に受肉し、締めくくりとして肉のある存在として人々の前に現れた。イエスは恵みの時代を告げ、キリストの身分により恵みの時代を開いた。キリストの身分により、主イエスは恵みの時代の業を行い、恵みの時代にあって自身に付き従う人々すべてを強くし、導いた。神の業について、神は自身が始めた業を真に完遂すると言えるであろう。その業には段階と計画があり、神の知恵、全能、偉大な業で満たされている。また神の業は神の愛と憐れみで満ちている。当然ながら、神の業の中核として一貫している事は、神の人間に対する慈しみであり、神の業には神が無視することの出来ない懸念が染みわたっている。これらの聖句では、主イエスが復活後に行った業の全てで啓示されていることは、変わることのない神の人間に対する望みと懸念、そして神の人間に対するきめ細やかな慈愛であったことが示されている。現在に至るまで、それらはいずれも変わっていない。あなたがたは、それが理解できるであろうか。そのことを理解した時、あなたがたの心は、おのずから神に近づいて行くのではないだろうか。仮にあなたがたが、この時代に生きていて、イエスの復活後に、あなたがたが理解できるように物理的な姿であなたがたの前に現れ、あなたがたの前に座ってパンと魚を食べ、あなたがたに聖句について教えを授け、話をしたとしたら、あなたがたはどう感じるであろうか。あなたがたは幸福になるであろうか。罪悪感はあるだろうか。従前における神に対する誤解や回避、神との衝突、神に対する疑念などは、全てすぐに消え去るのではなかろうか。神と人間との関係は、一層適切なものとなるのではなかろうか。

   これらの僅かな聖句を解釈することにより、あなたがたは神の性質に関して何らかの欠点を見出したであろうか。神の慈愛に、何らかの不純を見出したであろうか。神の全能たる存在や知恵に、何らかの狡猾さや邪悪さを見出したであろうか。そうしたことを見出せないのは当然である。あなたがたは、神は聖なる存在であると、確信を持って言えるようになったであろうか。神の感情は、神の真髄と性質の啓示であると、確信を持って言えるであろうか。これらの聖句を読んだ後、そこから得た知識が、あなたがたが自らの性質を変えようとする取り組みと、神を畏れる努力において役立つことを願っている。また、これらの言葉により、あなたがたに何らかの成果をもたらし、それが日々成長し、そうした取り組みのなかで、あなたがたが真理を追究してゆく上で退屈しないよう、また真理の追究と性質を変化させる取り組みが面倒なこと、不要なことであるなどと感じることのないよう、あなたがたを神へと近づけてゆくものであること、そして神が人間に求められている基準に近づけてゆくものであることを願っている。あなたがたに光や正義を求めること、真理の追求や神の旨を満足させることを追求すること、神のものとされること、真の人間となることを追求することは、むしろ神の真の性質と聖なる真髄により奨励される。