【編集者メモ】多くのキリスト教徒は、洗礼とは主イエスによって罪が赦され、生まれ変わることであると信じています。しかし私たちの多くが困惑していることに、なぜ洗礼を受けた後でも罪という足かせを取り払うことができず、罪を犯す状態で生きることが多いのか、ということです。洗礼は生まれ変わりを意味するのでしょうか。
寄稿家:セドリック(カナダ)
幼少期に父が洗礼について説明してくれました。父はこう言いました。「洗礼を受ける時は、全身を水に浸すのさ。これは主イエスと共に『死んだ』ことを意味するんだ。水から引き上げられると、その人は生まれ変わっており、過去の罪から完全に脱して新しい人生を始める。その人は死を迎えるまで主イエスのために生きるんだ。主イエスは、『信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。』(マルコによる福音16:16)と言われた。主イエスは罪のためのいけにえとして、人類のために十字架につけられた。人は洗礼を受けて初めて、主イエスによって罪が赦され、主イエスの御名の下に新たないのちを得ることになる。だから、キリスト教徒は洗礼を受けないといけないんだよ。」その時から、洗礼を通してキリスト教徒は完全に変わり、生まれ変わり、救われ、キリストと融和できると信じるようになりました。
しかし、私の周りの人たちは幼少期に洗礼を受けていますが、私が不思議に感じたことに、彼らは古いいのちを捨てずに未だに非信者のように生きていることに気づきました。たとえば、私の父はまだ赤ん坊だった頃にカトリック教会で受洗し、プロテスタントのキリスト教に転会したときに再び洗礼を受けたにもかかわらず、未だに罪の束縛を取り払うことができませんでした。たとえば、私の弟が決まった場所に物を置くのを忘れると、父は弟を叱ったものでした。家族が父の好まない行動を取れば、激怒しました。父は家庭の調和のためによく断食し夜更けまで祈っていましたが、怒りを抑えることができませんでした。新生した人のようには行動しませんでした。受洗後も罪の中に生きている人々を見て、「ほとんど罪を犯さない段階に達したら、その時こそ私は洗礼を受けよう」と思ったものです。
何年もの歳月が流れましたが、私はまだよく罪を犯しました。実生活では、主の御言葉を忠実に守ることができませんでした。他人に小言を言うだけで、自らの行動を省みることなく、最大の問題は自分自身の中にあることが分かりませんでした。父が私に対して激しい怒りをあらわにしたとき、忍耐や寛容さを欠片も示すことなく、父に憎しみを覚え、口論を始めたものです。一番になりたかったために、他人と競うこともよくありました。自分より劣っている人々を見下し、自分より優れている人々を見れば嫉妬しました。さらに私は見栄っ張りで、自分を高く評価してもらいたがり、他人から褒められれば非常に高慢になったものです。集会中にキリスト教の映画を観たことを思い出しました。映画の中の牧師は、『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。』(マタイによる福音書23:12)という聖句をよく引用していました。主の御言葉に従って実践し、謙虚であることを学び、自分をひけらかしたり、高慢になったりしたくなかったので、この聖句を強く肝に銘じました。しかし実生活では未だにスケートボードで一番上手になりたいと思う気持ちが捨てられず、毎日8時間のトレーニングを積み、できるだけ早く一番になり、他人から尊敬されるようになろうとしました。教会のキャンプ中は神を称えるためではなく、名声のために舞台でパフォーマンスをしました。私の振る舞いは神の御心と相容れないことは知っていましたし、断食や祈りも試してみましたが、抑えきれずに罪を犯しました。
その後、あるキリスト教の映画で次のような聖句を見かけました。「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブライ人への手紙12:14)「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。」(ヘブライ人への手紙10:26)「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書8:34-35)これらの聖句についてじっくりと考え、神は聖なる存在であり、罪に生きている人々は天の御国に入ることができないことが分かるようになりました。私は自分の行動を反省し、他の人々と良い関係を築けていないことに気づきました。たとえば、些細なことで肉親とよく口論をしました。他の人々に傷つけられれば彼らに憎しみを覚え、主イエスに祈った後に表向きは彼らを赦しましたが、心の中では憎悪を募らせていました。また、二度の洗礼を受け、長年にわたって神を信じ、多くの集会を主催し、福音を説いたにもかかわらず、些細なことに怒りを示す父についても思いを巡らせました。父も自分は腹を立てるべきではないと分かっているし、心を入れ替えたいが、短気を抑えられないと真摯に私たちに話してくれたこともあります。実際に、父も私も主の要求を知っていましたが、どうしても罪を犯さずにはいられなかったのです。このことについて考え、私は途方に暮れていました。「神は聖なる存在であり、卑劣で堕落した人間は神を見るのに相応しくない。受洗しながら、それでもなお罪を犯し、神の御言葉を実践できない私たちが、主にお目にかかることができるのか。それにもかかわらず、聖書には『信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。』(マルコによる福音書16:16)と書いてある。それならどうして、洗礼を受け、新たないのちを得てもなお罪を犯すのか」と考えました。これらの問いかけへの答えを見つけることはできませんでした。
ひょんなことから、私はインターネット上で主を信じる数人の兄弟姉妹と知り合いになりました。彼らは聖書に対して独自の識見をもち、私の混乱を解決する手助けもしてくれました。いくつかの福音のウェブサイトも勧めてくれました。あるとき、福音の映画で、次のような言葉を見ました。「あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望むとは、――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」
この言葉を読んだ後、私は啓発されたように感じました。洗礼による新生は、贖われたことのみを意味することに気が付いたのです。告白や悔い改めるために主に祈る限り、主から恵みと祝福を享受し、私たちの罪は主によって赦され、それ以上律法で裁かれることはありません。これは、救われるだけです。しかし、それでもなお私たちは汚れていて堕落しています。表向きは自分を抑え、断食し、祈り、振る舞いを通して重大な罪を犯さなくても、罪深い本性は私たちに深く根ざしています。ですから私たちは罪を犯しては告白する状態で生きているのです。私たちは皆、このような存在ではありませんか。自分自身について言えば、誰かが私の利益を損なうことを口にしたら、私は腹を立て、ときには表面上は怒りを見せなくともに心の中ではその人を憎んでいたこともありました。家族やクラスメートと共に過ごしていたとき、いつも全員に話を聞いてもらい、高く評価してもらいたいと考えていました。自我を捨てて謙虚であろうと努めながらも、心の中ではやはり自分の方が優れていると思い、自分より劣っている人たちを見下すことさえありました。私は自分が罪を犯していると知りながら、また祈りや悔い改めのために主の御前に立ちながらも、その後は結局私は変わりませんでした。父や他の兄弟姉妹も皆似たようなものでした。私たちは昼に罪を犯し、夜には告白するという悪循環の中に生きていました。このような生活は私が本当の意味で新生し、救われたわけでも、新たないのちを手に入れたわけでもないことを示しました。私はかつて、洗礼によって新生し救われると思っていました。そのとき初めて、神への反抗と抵抗を排除して初めて、本当の意味で新たないのちを得て、新生することができると理解したのです。
その後、聖書の勉強会で学んだいくつかの聖句を思い出しました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:29)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47-48)これらの聖句についてじっくりと考え、主は御言葉を話し、私たちが耳にしたことがない真理を伝え、私たちを裁き、清めるために終わりの日に再臨されると感じました。ペテロの第一の手紙の第四章十七節にはこのように記されています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」これは、主が裁きと清めの働きを行なうために再臨されることを示しています。この働きを通して、私たちは堕落した性質を捨て去り、新たないのちを得て、本当の意味で新生することができるのです。
このことについて考え、私は大喜びしました。主の啓発に感謝いたします。新たないのちを得て、本当の意味で新生することを望むなら、主に裁きの働きを遂行していただく必要があることが分かりました。そうして初めて、私たちは罪深い本性を手放し、新たに創られた人類となり、神の国に入ることができるのです。