賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

三つの忠告

2020-11-03 14:04:55 | デボーション

    神を信じる者として、あなたがたは、あらゆることにおいて他ならぬ神一人に忠実で、あらゆる物事について、神の心に沿わなければならない。だが、皆がこの教えを理解していても、無知・不条理・堕落といった人間の中にある厄介なものがその原因で人間にとって最も明らかで基本的なこの真理を十分に皆の中で具現化されているのを見ることはできない。したがって、あなたがたの最終的な結末が決定される前に、まず、あなたがたにとって最も重要なことをいくつか話しておかなければならない。その前に、まず、次のことを理解しておきなさい。わたしの語る言葉は、特定の人や特定の種類の人に対するものではなく、すべての人に向かって示す真理である。だから、真理という観点からわたしの言葉を受け取ることにただ集中しなさい、そして集中心と誠意を常に持ち続けなさい。わたしの語る言葉、また語る真理のひとつでも無視したり、軽蔑したりしてはいけない。わたしはあなたがたが日々の生活の中で、真理と無関係なことを数多く行っていることを分かっている。だから、わたしはあなたがたにはっきりとお願いしておきたい。真理のしもべとなり、邪悪さや醜さの奴隷となることがないように。真理を踏みにじって、神の家の片隅でも汚すことのないようにしなさい。これが、あなたがたへの忠告である。さて、主題に移ろう。

    第一に、あなたがたの運命のため、神に認められることを求めなさい。それはつまり、神の家の一員であることを自覚しているのなら、あらゆる事において神に心に安らぎと満足をもたらさなければならない。つまり、自らの行いを律し、真理にそわなければいけないということである。もしそれが到底できないというのであれば、神に嫌われ、見捨てられ、みなから拒まれることになる。ひとたびそのような状態に陥ると、神の家の一員であることはできない。これが神の承認を受けられないということである。

    第二に、神は正直な人を喜ぶということを知っておきなさい。神は本質的に信実で、その言葉は常に信頼できる。さらに、神の業には誤りも疑問の余地もない。だから神は、自分に絶対的に正直な者を愛する。正直であるとは、神に心を捧げること──何事においても神を偽らないこと、あらゆることにおいて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わさないこと、そして、神に取り入る為だけに何かを決してしないこと。つまり、正直であるということは、言動において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである。わたしの言っていることはまことに単純なことだが、あなたがたにとっては二重に困難なことである。言行において正直であるよりは、地獄に落とされたほうがましだと思う人は多いだろう。当然ながら、不正直な人々のために別の処遇が用意されている。もちろん、あなたがたが正直な人間であるために直面する大きな困難は、わたしも分かっている。あなたがたはとても賢く、自分の観点から他人を裁くのに巧みだ。それだからわたしの仕事はずっと簡単だ。あなたがたは、それぞれ心に秘密を抱いている。それでは、あなたがたに一人ずつ災害をもたらし、火をもって「訓練」を行ない、わたしの言葉への信仰に心から従うように仕向けよう。最後に、あなたがたの口から「神は信実な御方である」という言葉をねじり取ろう。そうすれば、あなたがたは自分の胸をたたいて、「人間の心は曲がっている」と嘆くことになる。そうなると、あなたがたの心はどういう状態になるだろう。今のように自尊心にまかせて行動することはなくなるだろう。今のように「自分は深遠すぎて理解されない」と言っているわけにはいかなくなるだろう。神の前ではきちんと振る舞い、とりわけ「礼儀正しい」けれど、霊の前では反抗的で放埒な行いをする者もいる。そのような人をあなたがたなら正直な者の数に入れるだろうか。もしあなたが偽善者で「社交」上手であるなら、あなたは神を軽んじていると断言しよう。もしあなたの言葉が言い訳と無価値な正当化だらけだとしたら、あなたには、真理を行おうという気持ちがないのだ。もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える覚悟があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、神を満足させることだけを考え、自分のことは考えず、自分のためには何も求めないほど正直なら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きる人である、とわたしは言おう。真の信仰と真の忠実さとが内にあるかどうか、神のために苦難を受けたことがあるかどうか、神に心から従っているかどうか、自分の心に尋ねればわかるだろう。もし、そうしたものが欠けているのなら、あなたの心の内には、不服従、欺き、貪り、不満が残っている。心が正直でないから、神に認められたこともなく、光の中で生きたこともない。人間の運命が最後にどうなるかは、正直で赤い血の通った心があるか、清い魂があるかどうかにかかっている。極めて不正直で、悪意に満ちた心と汚れた魂をもっているなら、あなたの運命帳に記されているように、最後は必ずや人間が罰せられる場所に置かれる。もし自分は正直だと言いながら、真理に適う行いをすることも、真実を語ることもないとしたら、それでも神があなたを報いてくれるのを期待するのか。それでも神が、あなたを目に入れても痛くないものとして扱ってくれるのを期待するのか。そんな考えは非常識ではないだろうか。あらゆることで神を欺いていながら、どうしてあなたのように手の汚れた者を神の家が受け入れることができようか。

    第三の忠告だが、まず神を信じる者はみな、これまでたどってきた道のどこかで神に逆らい、神を欺いたことがある。過ちの中には、不正として記録する必要のないものもあるが、赦されないものもある。その多くは行政に背くものであり、神の性質に逆らうものだからである。自分の運命を心配する多くの人々は、それはどういう行いかと尋ねるだろう。あなたがたは、自分が本来、傲慢で尊大であり、事実を受け入れることを望んでいないということを知らなければならない。だから、まずあなたがたが自らを省みた後、少しずつ教えていこう。行政の内容をよく理解し、神の性質を知るようにしなさい。そうでなければ、唇を閉じていることができず、いつまでも偉そうなことをまくしたてるだろうから。無意識の中に神の性質に逆らい、闇に落ち、聖霊と光とを失うことになる。あなたがたは、行いにおいて無原則だからだ。してはいけないことをし、言ってはいけないことを言うなら、相応の罰を受けることになる。あなたは言葉と行いにおいて無原則であっても、神はそのいずれにおいても、まことに原則がある。あなたが罰を受けるのは、人にではなく、神に背いたからだ。もし、あなたの人生で神の性質に背くようなことを幾度もしたのであれば、あなたは地獄の子ということになる。人間の目には、真理に沿わないことを少ししただけのことと見えるだろう。しかしながら、神の目からすると、あなたのためには、もう罪を贖う捧げ物がないのだということは、わかっているだろうか。あなたは行政に何度も背いていながら、悔い改めようとしなかった。そのため、地獄に落とされ、神の懲罰を受けるしかないのだ。神に従ってきた僅かな人達は、原則に背く行いをしたけれども後に取り扱われ、導きを受け、徐々に自らの堕落を知り、現実の正しい道を歩み、今も正しい基礎の上にしっかりと立っている。そうした人々は、最後までその道から外れることはないだろう。わたしは正直な人を求めている。もしあなたが正直で、正しい行いをするのなら、あなたは神の心を知ることができる。行いにおいて神の性質に背かず、神の意志を求め、神を敬う心を持つなら、あなたの信仰は基準に達している。神を崇め、震えるほど神を恐れる心がない者は、容易に神の行政に背いてしまうだろう。多くの人が感情に基づいて神に仕え、神の行政をも知らず、ましてや神の言葉の深い意味など分からずにいる。そして良いことをしているつもりが、神の計画を妨げているようなことがしばしばある。深刻な妨げをする者は見捨てられ、もはや神に従う機会は与えられない──彼らは地獄に投げ込まれ、神の家とは何の関係もなくなる。そうした人は、神の家で無知な善意をもって働き、結果、神の怒りを引き起こしてしまう。人々は、役人や主君に仕えるやり方を神の家に持ち込み、そういうやり方がここで通用すると、無益に思い込んでいる。彼らには、神は羊ではなく、獅子の性質を持っているとは、思いもつかない。そのため、初めて神と関わった者は、神と交わることができない。神の心は人間のそれとは異なっているのだから。多くの真理を理解して初めて、いつでも神を知っていられるようになる。この認識は文字や教義ではなく、神の心を知る宝、神があなたを喜んでいる証となるものである。真の認識を欠き、真理を自らのものとしていないのなら、あなたの感情に基づいた奉仕は神に嫌われ、憎まれるだけである。このように、あなたは、神を信じることが、単に神学を学ぶことではないということを理解できるだろう。

    わたしの忠告は短いものではあるが、これらはみな、あなたがたに最も欠けているものだ。今、話をしていることは、人間の中での最後の働きのためであり、人間の結末がどうなるかを決定するものなのだ。これ以上、無意味なことは、もうしたくない。枯れ木のようにどうしようもない人々、ましてや邪悪な意図をもつ人々を導き続けることも、したくない。おそらく、いつの日か、わたしの言葉に込められた心からなる願いと、わたしが人類のために行ったことが、あなたがたに理解されることだろう。おそらくいつか、あなたがたが自分の最終的な運命を決定する原理をはっきりと理解する日が来ることだろう。


神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道

2020-11-01 20:41:00 | デボーション

神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道

    あなた方はみな、自分が生涯を通じて神のどのように信じてきたかを新たに吟味し直し、神に付き従う過程で自分が真に神を理解し、認識し、本当に神を知るようになったかどうか、様々な種類の人間に対して神がどのような姿勢で臨むかを知っているかどうか、また、神が自分にどのような働きを為しているか、自分の一つ一つの行為をどのように定義するかを理解しているかどうか確かめるべきである。あなたの隣におり、あなたの前進する方向を導き、あなたの運命を定め、あなたに必要を満たす神――あなたはよく考察してみた結果、この神について、実のところ、どの程度理解し、どの程度知っているであろうか。神があなたに対して毎日どのような働きを為しているかをあなたは知っているか。神のあらゆる働きの根底となる原則と目的をあなたは知っているか。神があなたをどのようにして導くかをあなたは知っているか。神がどのようにしてあなたに与えるかをあなたは知っているか。神があなたを導く方法をあなたは知っているか。神があなたから得たいと思っていること、そして神があなたの中で達成したいと思っている事をあなたは知っているか。あなたが取る様々なふるまいに対して、神がどのような態度で臨むかをあなたは知っているか。あなたが神に愛される人間であるかどうかをあなたは知っているか。神の喜び、怒り、悲しみ、歓喜の根源と、その背後にある思いや考え、そしてその本質をあなたは知っているか。究極的に、あなたが信じる神とはどのような神であるかをあなたは知っているか。このような質問またその他の疑問は、あなたが全く理解したことがないもの、考えたことのないものではないだろうか。神を信じることを追求する上で、神の言葉を真に味わうこと、経験することで、あなたの神に関する誤解がとけたことは、かつてあるだろうか。あなたは、神の訓練と懲らしめを受けた後に、真に神に服従し、神を思うようになったことがあっただろうか。あなたは、神の刑罰と裁きのただ中で、人間の反抗とサタンのような本性を知り、神の聖さについてほんの少しでも理解するようになったことがあっただろうか。神の言葉による導きと啓示によって、あなたが新たな人生観を持ち始めただろうか。あなたは、神から送られた試練のなかで、神が人間による侵害を容赦しないことや、神があなたに要求していることや、いかにして神があなたを救っているかを感じただろうか。神を誤解するということがどういうことか分からず、また、その誤解をとく方法を知らないのであれば、今まであなたは神との真の交わりの中に入ったことが一切無く、神を全く理解しておらず、少なくとも、あなたが神を理解したいと望んだことは一度もないと言える。神の訓練と懲らしめが何であるかを知らないのであれば、決してあなたは神への服従と神を思うこととはどのようなことかを知らないのだ。あるいは、少なくとも本当に神に服従すること、神を思うことがけっして無かったのである。かつて神の刑罰と裁きを受けたことが無いのであれば、あなたは決して神の聖が何であるか分からず、ましてや、人間の反抗とは何であるかなどということは、あなたにはさらに曖昧になるであろう。未だに正しい人生観、あるいは人生の正しい目的を本当に持っておらず、いまだに自分の人生の将来についてとまどい、決断に迷い、前に進むことを躊躇さえしているのであれば、あなたが神の導きと啓示を真に受けたことがないことは確かであり、また神の言葉によって本当に与えられたことも、満たされたことも無いと言ってもよい。まだ神からの試練を受けたことが無いのであれば、あなたは、神が人間による侵害を容赦しないことが何なのか、究極的に神があなたに何を要求しているのかについては、決して分からないし、ましてや、人間を経営し救う神の働きとは究極的には何かなど分からないことは、言うまでもない。人が何年神を信じているかに関わらず、その者が神の言葉を経験することも認識することも無かったなら、その人が救いへの道を歩んでいないこと、その人の神に対する信仰は内容の無いものであること、また神に関する認識が皆無であることは確実である。そして、その人は神を敬うことが何か、全く見当もついていないことは言うまでもない。

    神が所有するもの、神の存在そのもの、神の本質、神の性質――これら全ては神の言葉の中で人間に知らしめられている。神の言葉を体験する時、人間は、神の言葉を実行する過程において、神が語る言葉の背後にある目的、神の言葉の根源と背景を理解し、神の言葉の意図されている効果を理解し察するようになる。これらの事は全て、真理といのちを獲得し、神の意図を把握し、性質が変えられ、神の支配と采配に服従できるようになるために、人間が経験し、把握し、獲得しなければならないものである。これらのことを経験し、把握し、獲得すると同時に、人間は徐々に神を理解し、その時、様々な度合いで神に関する認識を獲得するようにもなる。この理解と認識は人間が想像したり構築したりした物事からではなく、むしろ人間が自分自身の内部で理解し、経験し、感じ、確証した物事から生まれる。これらの事を理解し、経験し、感じ、確証したとき初めて、人間の神に関する認識が中身のあるものとなる。この時人間が得る認識のみが実際的であり、現実的であり、正確であるのだ。そして神の言葉を理解し、経験し、感じ、確証することにより神に関する真の理解と認識を得る過程こそが、まさしく人間と神との真の交わりとなるのである。こうした交わりのなかで、人間は神の意図を真に理解し、把握し、神の所有するものと神の存在そのものを本当に理解し、知るようになり、神の本質を真に理解し、知り、神の性質を徐々に理解し、知るようになり、神があらゆる創造物を支配しているという事実についての真の確信と正しい定義に達し、神の身分と地位についての本質的な理解と認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の神に関する考えが徐々に変化し、何の根拠も無く神のことを想像しなくなり、また神への疑念を勝手に膨らませたり、神を誤解したり、罪に定めたりしなくなり、あるいは神を裁いたり、疑ったりしなくなる。結その果、神と議論することや、神と対立することが減り、神に反抗することも減るだろう。逆に、神を思いやり、神に服従することがさらに多くなり、神に対する畏敬がより実際的で深遠なものとなるだろう。こうした交わりのなかで、人間は真理の備えといのちのバプテスマを受けるだけでなく、それと同時に、神に関する真の認識を得るであろう。こうした交わりのなかで、人間は、性質が変えられて救いを得るだけではなく、同時に、被造物として神を畏敬し礼拝することを獲得するだろう。こうした交わりの後、神への信仰はもはや、白紙の状態、あるいは言葉だけの約束、一種の盲目的な追求や偶像化では無くなるだろう。こうした交わりによってのみ、人間のいのちは成熟に向かって日々成長するのである。そして、その時初めて、人間の性質は次第に変えられ、神への信仰が徐々に漠然とした不確実なものから、真の服従と思いやりと、本当の畏敬へと変化し、また人間は、神に付き従う過程で、しだいに消極的な態度から積極的な態度へ、受け身の姿勢から能動的姿勢へと移行する。こうした交わりによってのみ、人間は神に関して真の理解と把握、真の認識に達する。大部分の人たちが神と真に交わることが無いので、神に関する彼らの認識は理論的レベル、文字と教理のレベルに留まる。つまり、大多数の人が、何年神を信じてきたかに関わらず、神を知ることに関しては、まだ信じ始めた頃といっこうに変わらず、伝説的色合いと封建的迷信の虚飾を伴う、伝統的な形式の敬意という土台の上で身動きできないようになっている。神に関する認識が始めの段階に留まっているということは、その認識が事実上不在であるということを意味する。人間による神の身分と地位への肯定とは別にすれば、神への信仰は未だに漠然とした不確かな状態にある。これでは、人間は神に対する真の畏敬の念をどれほど持ち得ようか。

    あなたが神の存在をどれほど固く信じていようと、それは神に関する認識や神に対する畏敬に取って代わることはできない。どれほど多く神の祝福と恵みを享受してきたとしても、それは神に関する認識に取って代わることはできない。神のために自らの全てを捧げ、費やす意欲がどれだけあろうと、それは神に関する認識に取って代わることはできない。たぶんあなたは神が語った言葉に非常に精通し、それを暗記していて、反対から読み上げることさえ出来るかもしれないが、それが神に関する認識に取って代わることはできない。神に従う意欲がいかに強かったとしても、神との真の交わりや、神の言葉を真に経験したことが無かったなら、神に関する認識は全くの空白であるか、終わりのない夢想に過ぎない。たとえどこかであなたが神とすれ違ったとしても、あるいは、神と直接対面したとしても、神に関するあなたの認識は皆無であり、神に対するあなたの畏敬は空しい標語や理想に過ぎない。

    多くの人々が神の言葉を日々読み、場合によってはその中にある代表的な言葉を、最も貴重な財産として注意深く暗記しようとしたり、その上随所で神の言葉を説教して言葉によって他の者たちに糧を与え、援助している。彼らは、これを行うことは神を証しし、神の言葉について証しすることであり、また神の道に従うことであると考えている。さらに彼らは、これを行うことは神の言葉に従って生きることであり、神の言葉を実生活に活かすことであり、こうすることにより、神の称賛を得て、救われ、全き者とされることだと考えているのだ。しかし、彼らは、神の言葉を説教する一方で、実践では神の言葉に従うことも、神の言葉により啓示されているものに自らを一致させようとすることも決してない。彼らはむしろ策略により他人からの敬服と信頼を得て、自らの経営の中に入り、神の栄光をかすめ取るために神の言葉を用いている。彼らは、神の言葉を広めることにより得られる機会を利用して、神の働きと称賛を得ることをいたずらに願っている。彼らは神の言葉を説教する過程で神の称賛を得ることもできないだけでなく、神の言葉を証しする過程で従うべき道を見いだすことも出来ず、神の言葉により他の人に与えたり助けたりする過程で自分自身に与えることも助けることもなく、これら全てを行う過程で神を知ることも、真に神を畏れる心に目覚めることもできないまま、いったい何年が過ぎ去ったことだろうか。しかし、それとは反対に彼らの神に関する誤解は深くなる一方であり、神に対する不信感は深刻になるばかりであり、神に関する想像は大げさになるばかりである。彼らは、神の言葉に関する理論に満たされ、方向付けられて、まるで水を得た魚のようであり、何の苦もなく自分の能力を発揮しているようであり、あたかも自分の人生の目的や使命を見出し、新しい命を得て救われたかのようであり、まるでリサイタルのように神の言葉を饒舌に語りながら真理に辿り着き、神の意図を把握し、神を知る道を見出し、また神の言葉を説教する過程の中で、あたかも神と顔を合わせることがしばしばあるかのようである。また彼らは、しばしば「感極まって」涙を流し、しばしば神の言葉の中にある「神」に導かれ、神の真摯な配慮と優しい思いやりに絶えず掴まっているように見え、同時に、人間に対する神の救いと経営を理解し、神の本質を知るにいたり、神の義なる性質を理解しているかのように見える。こうした土台に基づき、彼らは、神の存在をより固く信じ、神の誉れ高い地位について熟知し、また神の荘厳さ、超越性をより深く感じているように考えられる。彼らは、神の言葉に関する表面的な認識に耽溺し、信仰が成長し、苦難に耐える決意が強まり、神に関する認識が深まったかのように見えはする。彼らは、神の言葉を実際に体験するまでは、神に関する彼らの認識や、神に関する考えは、すべて彼らの勝手な想像と推測から生まれたものであることに、殆ど気付かない。彼らの信仰は神のいかなる試練にも耐えず、彼らの言うところの霊性と背丈は、神の試練にも検証にも耐えることは全くできない。彼らの決意は砂上の楼閣以外の何物でもなく、彼らのいわゆる神に関する認識もまた、自分の空想による虚構にすぎない。事実、これらの、いわば神の言葉に対して多くの努力をした人々は、真の信仰、真の服従、真の思いやり、あるいは神に関する真の認識とは何かを悟ることが全くない。彼らは、理論、想像、知識、賜物、伝統、迷信、そして人類の道徳的価値観さえも利用して、それらを神への信仰や神を求めるための「投資資産」や「武器」に変え、また神への信仰や神を求めるための基盤にさえ変えてしまう。また同時に、彼らはこうした資産と武器を利用して、神を知るための、また神による検証、試練、刑罰、裁きなどに対処し取り組むための魔法の護符へと作り変える。最終的に、彼らが蓄えたものはいまだに、宗教的暗示や封建的迷信と、ロマンチックで異様で謎めいたことの全てが深く染みわたった、神に関する結論でしかなく、彼らが神に関して知り神を定義する方法は、天上や、天の神のみを信じる人々と同じ型に嵌まったものである。一方、神の実在性、神の本質、神の性質、神の所有するもの、神の存在そのものなど――真の神自身に関する事すべて――は、彼らの認識では把握出来ないことであり、全く無関係で、正反対な事である。こうして、彼らは、神の言葉による供給や栄養により生活しているにもかかわらず、神を畏れ、悪を避ける道を、本当の意味ではたどることが出来ない。こうしたことの真因は、彼らが神と親しくなることが決してなく、神と真に接することも、交わることもなく、したがって彼らにとって、神との相互理解を達成することは不可能であり、神を真に信仰し、神に付き従い、神のために礼拝することを、自らのうちに目覚めることができないことである。彼らがこのように神の言葉を見なし、神をこのように見なすこと――この見方や態度により、彼らは努力の末に何も手に入れることが出来ず、また神を畏れ、悪を避ける道へと進むことが永遠に出来ないように運命付けられているのである。彼らが目指す目標と彼らが進んでいる方向は、彼らが永遠に神の敵であり、永遠に救いを得られないことを示している。

    ある人が長年にわたり神に従い続け、神の言葉による満たしを長年享受してきた場合、もしその人による神の定義が、本質的に、偶像に敬意を払ってひれ伏す者の定義と同じであるなら、これは、その人が神の言葉の現実に達していないことを示している。それは、その人が神の言葉の現実の中へ入ったことが無く、そのために、現実、真理、意図、そして人類に対する要求など、神の言葉の中に含まれるすべてが、その人にとって全く無関係なものだからである。つまり、こうした人が神の言葉の表面的な意味についていかに熱心に働いたとしても、全ては無益である。なぜならば、その人が追求しているのは、単なる言葉であり、したがってその人が得るのも必然的に言葉のみだからである。神の言葉は、外見上平易であるか深遠であるかに関わらず、人がいのちに入るには全て必要な真理であり、人間が霊と肉の両方において生存することを可能にする生ける水の泉である。神の言葉は、人間が生き続けるために必要なことがら、日常生活を送るための教義と信条、救いを得るために進むべき道、目標、方向、神の前に造られた者として持つべき一つひとつの真理、そしてどのように神に服従し、神を礼拝すべきかに関する一つひとつの真理を与える。神の言葉は、人間の生存を保証するものであり、人間の日々のパンであり、また人間が強くあり、立ち上がることを可能にする頑強な支えでもある。神の言葉には、被造物である人類がそれを実際に生きる際、正常な人間性に関する真理の現実が豊かに含まれており、人間が堕落から解き放たれ、サタンの罠を避けるための真理と、創造主が被造物である人間に与えるたゆみない教え、訓戒、励まし、慰めが豊富に含まれている。神の言葉は、肯定的な事のすべてを理解するよう人間を導き啓発する灯台であり、人間が全ての正しいこと良いことを実際に生き、所有するための保証であり、人々、出来事、物事を測る基準であり、また人間を救いと光の道へと導く道標である。人間は、神の言葉の実体験の中でのみ、真理といのちを与えられ、その中でのみ、正常な人間性とは何か、有意義な生涯とは何か、真の被造物の存在とは何か、神への真の服従とは何かを理解するようになる。その中でのみ、人間がいかにして神を思いやるべきか、被造物としての本分をいかにして尽くすか、真の人間らしさをいかにして身につけるかを理解するに至る。そうしてはじめて、人間は真の信仰や真の礼拝とは何を意味するのか、天と地と万物の支配者が誰であるかを理解するようになる。そうしてはじめて、全ての創造物の主人である方がいかなる手段で万物を支配し、導き、与えるかを理解するようになる。人間は、そうしてはじめて、全ての創造物の主人である方がいかにして存在し、現れ、働きを行うかを理解し把握するようになる。……神の言葉を実際に経験することから離れるなら、人間は神の言葉と真理に関する真の認識と洞察を持つことがない。そうした者は、まさしく生きる屍であり、まさしく抜け殻であり、また創造主に関する認識は、その者とは一切無関係である。神の目から見れば、こうした者は決して神を信じたことも神に従ったことも無く、したがって神は、その人を信者とも従う者とも認めず、まして真の被造物として認めることなどはない。

    真の被造物は、創造主が誰であるのか、人間はなぜ創造されたのか、被造物としてどう責任を果たすのか、全ての創造物の主をどう礼拝するかを知り、創造主の意図、願い、要求を理解し、把握し、知り、思いやらなければならない。そして創造主の道――神を畏れ、悪を避ける道に沿って行動しなければならない。

    神を畏れるとは、どのようなことなのか。また人はいかにして悪を避けられるのか。

    「神を畏れる」とは、得体の知れない恐れや恐怖でも、回避することでも距離をおくことでもなく、偶像化することでも迷信でもない。「神を畏れる」こととは、むしろ、敬慕、尊敬、信頼、理解、思いやり、服従、献身、愛であり、無条件かつ不平のない礼拝、報い、帰服である。神に関する真の認識なくしては、人間に真の敬慕、真の信頼、真の理解、真の思いやりと服従は存在せず、ただ恐怖と不安、懐疑、誤解、回避、逃避があるのみである。神に関する真の認識なくしては、人間に真の献身や報いはあり得ない。神に関する真の認識なくしては、人間に真の礼拝や帰服はあり得ず、盲目的な偶像化と迷信があるのみである。神に関する真の認識なくしては、人類は神の道に沿って行動することも、神を畏れることも、悪を避けることもとうてい出来ない。反対に、人間が関与するあらゆる活動や行為は、反抗や挑戦、神についての中傷的な非難や中傷的な裁き、そして真理や神の言葉の真の意味に反する悪行に満ちるであろう。

    いったん真に神を信頼すると、人類は真に神に従い、神を頼る。真に神を信頼し、頼ってはじめて、人類は真の理解と認識を得る。神に関する真の理解には、神に対する真の思いやりが伴う。神に対する真の思いやりがあってはじめて、人間は真に服従できるようになる。神に対する真の服従があってはじめて、人類は真に献身することができる。神に対する真の献身があってはじめて、人類は無条件に、不満なく報いることができる。真の信頼と依存、真の理解と思いやり、真の服従、真の献身と報いがあってはじめて、人類は神の性質と本質を本当に知り、創造主の身分を知ることができる。創造主を本当に知ってはじめて、人類は真の礼拝と帰服を自らのうちに目覚めさせることができる。創造主に対する真の礼拝と帰服があってはじめて、人類はその悪の道を脇へ置くこと、つまり悪を避けることが本当にできるようになる。

    これらのことが「神を畏れ、悪を避ける」ことの全過程を成し、またこれらが神を畏れ、悪を避けるということの全容であり、それは神を畏れ、悪を避けることに達するために辿らなければならない道である。

    「神を畏れ、悪を避ける」ことと神を知ることは、無数の線で綿密に繋がっており、またその関連性は自明である。悪を避けたいならば、人はまず神を真に畏れなければならない。神を真に畏れることを望む者は、まず神に関する真の認識を得なければならない。神に関する真の認識を得たいのであれば、まず神の言葉を体験し、神の言葉の現実の中に入り、神の懲らしめと訓練、神の刑罰と裁きを経験しなければならない。神の言葉を経験したいと望むのであれば、まず神の言葉と向き合い、神と顔を合わせ、人、出来事、物事に関連するあらゆる環境の中で神の言葉を体験する機会を神が備えてくれるよう求めなければならない。神や神の言葉と向き合うことを望むのであれば、人はまず単純かつ正直な心を持ち、いつでも真理を受け入れる準備をし、苦難に耐える意志、悪を避ける決意と勇気、真の被造物になりたいという志を持たなければならない。……このようにして、一歩ずつ前進すれば、あなたは神にますます近づき、あなたの心はますます純粋になり、あなたの人生と生きる価値が、神に関わる認識とともに一層有意義で、輝かしいものとなってゆくだろう。いつの日か、創造主はあなたにとって不可解なものでなく、隠された存在でもないと感じることができ、創造主があなたの前から隠れていたことは一切無く、決してあなたから遠く離れた存在でもないと感じることができ、また、創造主は、あなたが絶えず心の中で切望する方ではなく、あなたの感情が届かないような方ではなく、実際にあなたの左右に立ってあなたを見守り、あなたのいのちを満たし、あなたの運命を支配する方であると感じることができるようになるまで。神は遠く離れた地平線の彼方に存在するのでも、また雲の上に隠れている存在でもない。神は、あなたのすぐ側におり、あなたのすべてを支配し、あなたが持っているすべてであり、あなたが持っている唯一の方である。こうした神は、あなたが神を心から愛すること、神にすがりつくこと、神に寄り添うこと、神を敬愛することを許し、あなたに神を失うことを恐れさせ、あなたが神を放棄すること、神に従わないことを望まないようにし、また神を避けること、神から遠ざかることを望まないようにさせるのだ。あなたの唯一の望みは、神を思いやり、神に服従し、神が与えるすべてに報い、彼の支配に従うことだけになる。もはやあなたは、神に道を示され、神に与えられ、見守られ、保護されることを拒まなくなり、もう神が命じること、定めることを拒まなくなる。あなたの唯一の望みは、神に従い、神の左右を共に歩み、自分にとって唯一のいのち、唯一の主、唯一の神として神を受け入れることのみである。

z2014年8月18日


神について何を理解しているのか

2020-10-31 22:06:00 | デボーション

神について何を理解しているのか

    人々は長いこと神の存在を信じてきたが、ほとんどの人は「神」という言葉を理解していない。単にぼんやりと後について行くだけである。彼らは一体なぜ神を信じるべきなのか、あるいは一体神とは何かについてまったくわかっていない。人々が神を信じ、従うことだけは知っていても、神が何かを知らなければ、そしてまた神を理解していなければ、これは世界最大の笑い話ではないだろうか。たとえ人々が今までに多くの天の奥義を目撃しており、これまで決して把握していなかったたくさんの深遠な知識について聞いていたとしても、最も初歩的だが、いまだ熟慮されていない多くの真理に関しては何も知らない。「私たちは何年にもわたり神を信じてきた。神が何かわからないわけがない。私たちを見くびっているのではないか」と一部の人は言うだろう。しかし実際には、今日誰もがわたしに従っているものの、誰もこの現在の働きを何も理解していない。もっとも明白で簡単な問題ですら理解できず、まして神に関する問題のような極めて複雑な問題は言うまでもない。自分が払いのけて、見つけだすことのできないこれらの問題こそが、もっとも理解すべき問題であることを知るべきである。なぜならあなたは群衆に従うことしか知らず、自分が身に着けておくべきものに注意を払わず、配慮しないからである。なぜ神を信仰するべきか、本当にわかっているのか。神が何であるか、本当にわかっているのか。人が何であるか、本当にわかっているのか。神を信仰している人としてこれらのことを理解できなければ、神の信者としての尊厳を失わないだろうか。今日のわたしの働きは以下の通りである。人々に自分自身の本質を理解させること、わたしの行うすべてを理解させること、および神の本当の顔を知らせること。これはわたしの経営(救いの)計画の最終行動、わたしの働きの最後の段階である。だからわたしは前もって人生の奥義のすべてをあなたたちに語り、あなたたちのすべてがそれらをわたしから受け入れることができるようにしているのである。これは最後の時代の働きなので、わたしはあなたたちがこれまで決して会得することのなかったいのちの真理のすべてを語らなければならない。あなたたちはあまりにも不完全で、あまりにも準備不足なので、それらを吸収することやそれらに耐えることができなくても、わたしは語らなければならない。わたしはわたしの働きを完了し、わたしのすべての必要な働きを終わらせ、わたしがあなたたちに行うよう任せていることを十分に知らせて、暗闇が降りてきたとき、あなたたちがふたたび迷って、邪悪な者の策略にだまされないようにしたい。あなたたちの理解力の及ばない道、あなたたちが理解しない事柄がたくさんある。あなたたちはそれほど無知なのだ。わたしはあなたたちの霊的背丈と欠点をよく知っている。従って、たとえあなたたちが吸収できないであろう言葉がたくさんあっても、わたしはあなたたちがこれまで決して会得しなかったこれらの真理のすべてをあなたたちに話したい。あなたたちの現在の背丈では、わたしの証人になれるかどうか心配し続けているからである。あなたたちをみくびっているわけではない。あなたたちは皆、わたしの正式な訓練を受けていない獣であり、あなたたちの中にどのくらい栄光があるかは実に疑わしい。あなたたちに取り組むためにわたしは膨大なエネルギーを費やしてきたが、あなたたちには積極的な要素はほとんど存在しないようである。一方、消極的な要素は指折り数えることができ、それらはサタンを恥じ入らせる証しに向けられるだけである。それ以外にあなたたちのなかにあるもののほとんどすべてはサタンの毒である。わたしにはあなたたちが救いようもないように見える。目下のところ、わたしはあなたたちのさまざまな表現や態度を見て、ようやくあなたたちの本当の背丈を知った。だからわたしはあなたたちのことを心配し続けている。思うままに暮らすよう放置されたら、人は本当に最終的には今日よりも良い、あるいは今日と同じくらいの状態でいられるだろうか。あなたたちは自分の子供じみた背丈が心配ではないのか。あなたたちは本当にイスラエルの選民のようになり、どのようなときでもわたしに、わたしだけに忠実になることができるのか。あなたたちが今見せているのは、親の目の届かないところにいる子供のいたずら好きな特質ではなく、主人のむちの届かないところで動物に沸き起こる獣性である。あなたたちは自分の本質を知るべきで、それはあなたたちすべてが共有している弱点、共通の病気でもある。したがって、今日わたしからあなたたちへの唯一の忠告は、わたしの証人になることである。いかなる事情があろうとも、古い病気を再発させてはいけない。もっとも重要なのは、証しをすることである。それがわたしの働きの核心である。あなたたちは、マリアが夢に現れたヤーウェの告知を受入れ、信じて、従ったように、わたしの言葉を受け入れるべきである。これだけが精神的に純潔であるとみなされる。なぜならあなたたちはわたしの言葉を一番多く聞く人々であり、わたしによってもっとも祝福される人々だからである。わたしはあなたたちにわたしの貴重な所有物すべてを与え、すっかり何もかもあなたたちに授けよう。しかしながら、あなたたちの地位とイスラエルの人々の地位は非常に異なり、完全に天と地ほどもかけ離れている。それにもかかわらず、彼らに比べると、あなたたちはずっと多くのものを受け取っている。彼らが必死にわたしの出現を待っている一方、あなたたちはわたしと共に愉快な日々を過ごし、わたしの富を共有している。比較すると、何があなたたちに、不平を言い、わたしと口喧嘩し、わたしの所有物の分け前を要求する権利を与えているのか。あなたたちは十分受け取っていないのか。わたしは多くを与えているが、あなたたちがお返しにわたしにくれるものは悲痛な悲しみと不安、それに手に負えない恨みと不満である。あなたたちはあまりにも不快だが、同時に哀れでもある。よってわたしは憤りをすっかり吞み込んで、あなたたちに繰り返し反対の声を上げるしかない。この数千年にわたる働きにおいて、これまでわたしが人類にまったく異論を唱えなかったのは、人類の発展の歴史上で、あなたたちの間の偽りだけがもっとも有名であることに気づいたからである。偽りは、古代の有名な先祖によってあなたたちに残された貴重な継承物のようなものである。わたしはそれらの人間以下の豚と犬をどれだけ憎むことか。あなたたちはあまりにも良心に欠けている。あなたたちの性格はあまりにも卑劣である。あなたたちの心はあまりにも無情である。もしわたしがこれらのわたしの言葉、わたしのこの働きをイスラエル人にもたらしたら、わたしはずっと以前に栄光を獲得していただろう。しかし、あなたたちの間ではそうはいかない。あなたたちの間には、残酷な無視、あなたたちの冷たい態度、あなたたちの言い訳しかない。あなたたちはあまりにも感情がなく、あまりにも価値がない。

    あなたたちはわたしの働きに対してあなたたちのすべてを提供するべきである。あなたたちはわたしのためになる働きをするべきである。わたしはあなたたちにとってあいまいなことすべてについてあなたたちに話し、あなたたちに欠けているすべてをわたしから獲得できるようにしたい。たとえあなたたちの欠点が数えきれないほど多いとしても、わたしはあなたたちに対してするべき働きを行い続けることをいとわず、あなたたちにわたしの最後の慈悲を与え、あなたたちがわたしから利益を得て、あなたたちには欠けていて、世界がこれまでに見たことのない栄光を獲得できるようにしたい。わたしは長年にわたり働いてきたが、人々のうちでわたしを知るにいたったものは誰もいない。わたしはほかの誰にも話したことのない秘密をあなたたちに話したい。

    人々の間で、わたしは見ることのできない霊、決して接触することのできない霊であった。地上におけるわたしの三段階の働き(天地創造、贖い、破壊)のために、わたしは異なる時代に人々の真っただ中に現れ(決して公然とではない)、彼らの間でわたしの働きを行う。わたしが最初に彼らの中に出現したのは贖いの時代であった。もちろんわたしはユダヤ民族の中に出現した。従って神が地上に来るのを初めて見たのはユダヤ人であった。わたしがこの働きを直接行った理由は、わたしの贖いの働きの中で罪の捧げものとして、人となったわたしの肉体を使いたかったからである。そこでわたしを最初に見たのは恵みの時代のユダヤ人たちであった。わたしが肉体で働きを行ったのはそれが初めてであった。神の国の時代では、わたしの働きは征服し、完全なものにすることであるので、わたしはふたたび肉体の形で羊飼いとしての働きを行う。これはわたしが肉体の形で行う二回目の働きである。働きの最後の二段階では、人々が接触するものは、もはや目に見えない、触れることのできない霊ではなく、霊が肉体として実現化された人である。従って、人の目には、わたしはふたたび人になり、神の容貌も雰囲気も持たない。そのうえ、人々が見る神は男性だけでなく女性でもあるので、彼らには非常に驚異的で不可解である。再三再四、わたしの途方もない働きは、長年にわたり抱かれていた古い信念を粉砕し、人々は動転している。神は、聖霊、霊、7倍に強化された霊、すべてを包み込む霊であるだけでなく、人、普通の人、ことのほか平凡な人でもある。神は男性だけでなく、女性でもある。彼らはどちらも人間に生まれたという点で同じであるが、一人は聖霊によって受胎され、もう一人は生まれながらに人間であるが、霊から直接生じているという点で異なっている。彼らはどちらも神の肉体化した形で、父なる神の働きを実行するという点で同じであるが、一人は贖いの働きを行い、もう一人は征服の働きを行うという点で異なっている。どちらも父なる神を表すが、一人は親愛の情と慈悲に満たされた贖い主であり、もう一人は怒りと裁きに満たされた義の神である。一人は贖いの働きを開始するための最高司令官であり、もう一人は征服の働きを完了させる義の神である。一人は始まりであり、もう一人は終りである。一人は罪のない肉体であり、もう一人は贖いを完成させ、働きを続行し、罪によらない肉体である。彼らはどちらも同じ霊であるが、異なる肉体に宿り、異なる場所で誕生する。また、彼らは数千年も隔てられている。しかし、彼らの働きはすべて相互に補完し合っており、決して対立せず、同じ次元で語られる。どちらも人であるが、一人は男の赤子であり、もう一人は女の幼児である。長い年月のあいだ、人々が見てきたものは霊だけでなく、また人間、男性だけでなく、人間の観念と合致しない多くのことでもあり、従って、人々は決して十分にわたしを理解することはできない。彼らは、あたかもわたしは確かに存在するが、幻想的夢でもあるかのように、半ば信じ、半ば疑い続ける。そういうわけで今日まで、人々は神が何であるかをまだ知らない。あなたは単純な一文でわたしを要約することが本当にできるのか。本当に「イエスは他ならぬ神であり、神は他ならぬイエスである」とあえて言うのか。本当に大胆にも「神は他ならぬ霊であり、霊は他ならぬ神である」と言うのか。「神は肉を着ている人にすぎない」と抵抗なく言えるのか。「イエスの姿はまさに神の偉大な姿である」と断言する勇気が本当にあるのか。あなたの言葉の能力を頼りにして神の性質と姿を完全に説明することができるのか。本当に「神は自分の姿に合わせて男性だけを造り、女性は造らなかった」とあえて言うのか。もしそう言うなら、女性は誰もわたしが選んだ者の中に入らず、いわんや女性は人類の一種ではなくなるであろう。さて、あなたは本当に神が何であるか知っているのか。神は人間だろうか。神は霊だろうか。神は本当に男性だろうか。イエスだけがわたしのしたい働きを完成させることができるのか。わたしの本質を要約するために上記のうちひとつしか選ばないとしたら、あなたは非常に無知で忠実な信者であろう。わたしが一度、しかもたった一度だけしか受肉して働かないなら、あなたたちはわたしの境界を定められるだろうか。あなたは本当に一目見て、わたしを完全に理解することができるのか。生きている間に経験したものだけに基づいてわたしを本当に完全に要約できるのか。そして二回の受肉でわたしが同じ働きをすれば、あなたはわたしをどのように認識するのだろうか。永久にわたしを十字架に釘で打ち付けたままにしておくのだろうか。神はあなたが言うほど単純なものなのだろうか。

    あなたたちの信仰はとても誠実だが、あなたたちの中のだれもわたしを完全に説明することはできないし、あなたたちの中のだれもあなたたちが見る現実のすべてを十分に立証することはできない。考えてもみなさい。現時点ではあなたたちのほとんどは自分の義務を怠っており、その代わりに肉のことを追い求め、肉を満足させ、貪欲に肉を楽しんでいる。あなたたちは真理をほとんど所有していない。ではどうやってあなたたちはこれまで見てきたものすべてを証言することができるのか。あなたたちは本当にわたしの証人になれる自信があるのか。今日見てきたすべてのことをいつの日か証言できないならば、そのときまでには創造された人間として機能を失っているだろう。あなたの存在には何の意味もなくなってしまうだろう。人間である価値がなくなる。人間ではないとさえ言うことができる。わたしはあなたたちに膨大な量の働きを行ってきた。しかし、現在あなたは何も学んでおらず、何も知らず、無駄に働いているので、わたしが働きを拡大する必要があるとき、あなたはぽかんと見つめているだけで、口もきけず、まったく役に立たないだろう。それではあなたは稀代の罪人になってしまわないだろうか。その時が来たら、あなたはとてつもなく深い後悔を感じないだろうか。意気消沈してしまわないだろうか。わたしがこの働きのすべてを行っているのは暇つぶしや退屈しのぎからではなく、わたしの将来の働きの基礎を築くためである。わたしは行き詰っていないし、何か新しいことを考え出さなければならないわけでもない。わたしが行う働きを、あなたは理解するべきである。それは路上で遊ぶ子供が行うものではなく、わたしの父の表象が行う働きであることを理解するべきである。あなたたちはこのすべてを行っているのはただわたしではないことを知るべきである。それどころかわたしは父の代理を務めているのである。その一方で、あなたたちの役割はひたすら後に続き、服従し、変化を遂げ、証しをすることである。あなたたちが理解するべきことは、なぜわたしを信じなければならないかである。これはあなたたち一人ひとりが理解するべきもっとも重要な問題である。わたしの父は、その栄光のために、世界を創造した瞬間からわたしのためにあなたたちすべてを運命づけた。わたしの父があなたたちに運命づけたのは、他ならぬわたしの働きのためとわたしの父の栄光のためであった。あなたたちがわたしを信じるのはわたしの父によるのである。あなたたちがわたしに従うのはわたしの父が運命づけたことによる。このどれもあなたたちが自分で選んだものではない。さらに重要なことに、あなたたちはわたしの証しをするためにわたしの父がわたしに授けた者たちであることを理解しなければならない。わたしの父があなたたちをわたしに授けたので、あなたたちはわたしがあなたたちに授ける道、わたしがあなたたちに教える道や言葉に従うべきである。わたしの道に従うことがあなたたちの本分だからである。これが、あなたたちがわたしを信じる最初の目的である。そこで、わたしはあなたたちに言う、あなたたちはわたしの道に従うためにわたしの父がわたしに授けた人々にすぎない。しかし、あなたたちはわたしを信じるだけである。あなたたちはわたしに属していない。あなたたちはイスラエルの一族に属しておらず、その代わりに古代の蛇の種族に属しているからである。わたしがあなたたちにするよう要求することは、わたしの証人になることだけであるが、今日あなたたちはわたしの道を歩かなければならない。このすべては将来の証しのためである。あなたたちがわたしの道に耳を傾ける人々としてのみ機能するならば、あなたたちには何の価値もなく、わたしの父がわたしにあなたたちを授けたことの意義は失われるだろう。わたしがあなたたちに強く言いたいのは次のことである。「あなたたちはわたしの道を歩かなければならない。」


キリストと融和する道を探せ

2020-10-04 23:55:23 | デボーション

   わたしは人々の間で多くの働きをしてきた。わたしがその間に発した言葉は数多くある。これらの言葉は人間の救済のためで、人間がわたしと融和するようにと発したものである。しかし、わたしと融和する者は、地上ではほんの数名しか得ていない。だから、人間はわたしの言葉を重んじないとわたしは言う。人間はわたしと融和しないのだから。このように、わたしのしている働きは単に人間がわたしを崇めるようにするためだけではなく、もっと重要なことには、人間がわたしと融和するようにである。堕落した人々は、みなサタンの罠に囚われている。彼らは肉に生き、利己的な欲求をもって生きていて、彼らの中には、わたしと融和する者は、ただの一人もいない。わたしと融和すると言う者もいるが、みな漠然とした偶像を拝んでいる。彼らはわたしの名を聖いものとしているが、わたしに反する道を歩んでいる。そして、彼らの言葉は傲慢とうぬぼれに満ちている。心の底では、みなわたしに敵対しており、わたしと融和していないからである。毎日、彼らは聖書にわたしの痕跡を探し、適当に「都合の良い」句をみつけては、いつまでも読み続け、それを聖句として唱える。彼らはわたしと融和する方法を知らず、わたしに敵対するということが何を意味するかを知らず、単に闇雲に聖句を読んでいるだけである。彼らは見たことがなく、見ることもできない漠然とした神を聖書の中に閉じ込めて、暇な時に取り出して眺めている。彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、あくまで言葉に固執した人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。聖書の影響力を擁護するため、聖書の権威を維持するため、聖書の評判を守るため、彼らは慈悲深いイエスを十字架につけることまでした。彼らは、ただ単に聖書を守るため、人々の心の中にある聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのである。だから、彼らは未来と罪のための捧げ物を見捨て、聖書の教義に従わなかったイエスを罪に定めて殺したのである。彼らは聖書の一字一句に隷属していたのではないか。

 


   では、今日の人々はどうだろう。キリストは真理を解き放つために来た。しかし、人々は天に入って恵みを受けるために、キリストを人間の間から追い出したいくらいなのである。彼らは聖書の権益を守るために真理の訪れを完全に否定し、聖書の永続を確実にするため、再び肉となったキリストをもう一度十字架に釘付けにしたいくらいなのである。あれほど悪意に満ちた心をもち、わたしに対してあれほど敵意のある本性をもつ人間が、どうしてわたしの救済を受けられるのか。わたしは人間の間に生きているが、人間はわたしの存在を知らない。わたしが人間に光を照らしても、人間はわたしの存在を知らずにいる。わたしが怒りを人間の上に放つと、人間はますます強くわたしの存在を否定する。人間は言葉、聖書との融和は求めるが、真理と融和しようとわたしの前に来る者はただの一人もいない。人間は天のわたしを見上げ、天にいるわたしについて、とりわけの関心を向けるが、肉におけるわたしを心にかける者は誰一人いない。人間の間で生きるわたしがあまりに平凡だからである。聖書の言葉に合致するものだけを求める人々、漠然とした神に合致することだけを求める人々は、わたしには哀れに見える。それは、その人たちが崇めているのは死んだ言葉と、計り知れない宝を与えられる神だからである。その人々が崇めているのは、人間の思いのままになる神なのだが、それは存在しない。では、そうした人々はわたしから何を得られるのか。人間はただ言いようもなく低劣である。わたしに敵対する人々、わたしに限りない要求をする人々、真理を愛さない人々、わたしに反抗心をもつ人々──どうしてそんな人々がわたしと融和できるのか。

   わたしに敵対する人々は、わたしと融和しない。真理を愛さない人々も同じである。また、わたしに反抗する人々は、いっそうわたしに敵対し、わたしとは融和不可能である。わたしと融和しない人々をみな、わたしは邪悪な者の手に引き渡す。そうした人々を邪悪な者による堕落に任せ、自分たちの有害さを自由にあらわにさせ、最後には、邪悪な者に手渡し、食い尽くされるに任す。どれだけの人がわたしを崇めるかは気にしない。つまり、どれだけの人がわたしを信じているかは気にしないということである。わたしが問題にするのは、どれだけの人がわたしと融和するかということである。それは、わたしと融和しない人々はみな、わたしを裏切る邪悪な者だからだ。彼らはわたしの敵であり、わたしは自分の敵を自分の家に「納め」はしない。わたしの味方である人々は永遠にわたしの家でわたしに仕える。そして、わたしに敵対する者たちは、永遠にわたしの罰を受けて苦しむ。聖書の言葉だけを大事にする人々、真理やわたしの足跡を求めることに関心のない人々、そうした人々はわたしに敵対する。なぜなら、聖書に従ってわたしを限定し、聖書の中にわたしを閉じ込め、わたしに対して、この上ない冒瀆行為をするからである。そうした人々がどうしてわたしの前に来ることができるであろうか。その人たちはわたしの行い、わたしの心、真理に耳を傾けず、言葉、殺す言葉に執着している。どうして、そうした人たちがわたしと融和できるであろうか。

   わたしは実に多くの言葉を発した。また、わたしの心と性質を明らかにしてきた。それなのに、人々はまだわたしを知り、わたしを信じることができずにいる。あるいは、人々はまだわたしに従えずにいると言える。聖書の中に生きる人々、律法に囲まれて生きる人々、十字架上で生きる人々、教義に従って生きる人々、わたしが今日している働きの中で生きている人々──この中の誰がわたしと融和しているであろうか。あなたたちは、祝福とねぎらいを受け取ることだけを考え、どうしたらわたしと融和できるか、どうしたらわたしの敵になることがないかということを少しも考えようとしたことがない。わたしは、ほんとうにあなたたちに失望した。わたしは実に多くをあなたたちに与えてきたのに、ほとんど何もあなたたちから受けていないのだから。あなたたちの欺き、あなたたちの傲慢、あなたたちの貪欲、あなたたちの途方もない欲求、あなたたちの裏切り、あなたたちの不服従──このどれにわたしが気づかずにいるのか。あなたたちはわたしをごまかし、わたしをからかい、わたしを侮辱し、わたしを欺き、わたしに要求し、わたしに犠牲を強要する──そうした悪行がどうしてわたしの罰を免れることができようか。あなたたちの邪悪な行為は、わたしへの敵意の証拠、あなたたちがわたしと融和しない証拠である。あなたたちの一人一人が、自分はわたしの心にかなうと信じているが、もしそうなら、誰にその反論できない証拠が適用されるのか。あなたたちは、自分はわたしにこのうえなく誠実で忠実だと信じている。あなたたちは、自分はまことに親切で、思いやりがあり、わたしに多くを捧げてきたと思っている。あなたたちは、自分はわたしに十分奉仕したと思っている。しかし、そうした考えを自身の行いに引き比べてみたことがあるだろうか。わたしに言わせれば、あなたたちはひどく傲慢で、ひどく貪欲でひどくいい加減だ。あなたたちがわたしをばかにする手口は、とても狡猾で、愚かな意図や愚かしい手段をいろいろもっている。あなたたちの忠誠はごくわずかでしかなく、あなたたちの誠意はあまりに薄く、あなたたちの良心は、さらに乏しい。あなたたちの心にはあまりに多くの悪意があって、誰もあなたたちの悪意から逃れられない。わたしでさえ。あなたたちは、自分の子ども、夫、あるいは自己保存のためにわたしを締め出す。わたしのことを気にする代わりに、あなたたちは自分の家族、子供、地位、将来、自分の欲求充足を気にかけている。あなたたちは、話し行動しながらわたしのことを考えたことがいつあったであろうか。寒いとき、あなたたちは自分の子供、夫、妻、あるいは親のことを思う。暑いときもまた、わたしはあなたたちの思いの内に入っていない。務めを果たしている時、あなたは、自分の利益、自分の身の安全、自分の家族のことを考えている。あなたがわたしのために何をしたことがあるというのか。あなたは、いつ、わたしのことを考えたのか。あなたは、わたしとわたしの働きのために惜しむことなく身を捧げたことがいつあったであろうか。あなたがわたしの味方である証拠はどこにあるのか。あなたのわたしへの忠誠はどこに実在しているのか。あなたのわたしへの従順さはどこに実在しているのか。あなたの意図が、わたしから祝福を受けるためではなかったことがいつあったであろうか。あなたたちはわたしをだまし、欺き、真理を弄び、真理の存在を隠し、真理の本質を裏切る。あなたたちはわたしに敵対している。それでは、あなたたちの未来には何が待っているのか。あなたたちはただ、漠然とした神の心にかなおうとして、単に漠然とした信仰を追究しているが、あなたたちはキリストと融和しない。あなたたちの悪事は、邪悪な者たちが当然受けるものと同じ報復を受けるのではないか。その時、あなたたちは、キリストと融和しない者で、怒りの日を免れることのできる者はいないことに気づくであろう。あなたたちはまた、キリストに敵対する者にどのような報復が行われるかを知ることになるであろう。その日が来れば、神への信仰によって祝福され、天に入るというあなたたちの夢は、すべて砕かれるであろう。しかしながら、キリストと融和する者は別である。その人たちは、まことに多くを失い、多くの苦難を経てきたが、わたしが人間に与える嗣業をみな受けるであろう。あなたたちは最後には、わたしだけが義なる神であり、わたしだけが人間を美しい終着点に導けるということを理解するであろう。


落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう

2020-10-03 23:42:28 | デボーション

   あなた方は皆、わたしがあなた方の間で行った働きを自ら見、わたしが語った言葉を自ら聞き、あなた方に対するわたしの態度も知っている。それ故に、わたしがこの働きをあなた方の内に行っている理由を知っているはずだ。あなた方に真実を話そう─あなた方は、終わりの日におけるわたしの征服の働きの道具に過ぎない。あなた方は、異邦人の国々にわたしの働きを広げるための手段である。わたしの名が異邦人の国々、つまりイスラエル以外のあらゆる国々に広まるよう、わたしの働きを広めるために、わたしはあなた方の不義、汚れ、抵抗と反抗を通じて語るのである。それは、わたしの名、わたしの行い、わたしの声が異邦人の国々全体に広まり、それによりイスラエルではないそれらの国々すべてがわたしにより征服され、わたしを崇拝し、イスラエルとエジプトの地の他にもわたしの聖地となるためである。わたしの働きを広げるのは、実際はわたしの征服の働きを広げ、わたしの聖地を広げ、わたしの地盤を広げることである。あなた方は、わたしが征服する異邦人の国々にある単なる被造物に過ぎないことをよく知っておくべきである。あなた方は、元来何の身分も持たず、用いられる価値も持たず、全く無用であった。ひとえにわたしが糞の山から蛆虫を引き上げ、わたしの全土征服のための見本とし、わたしの全土征服のための唯一の「参考物」としたおかげで、あなた方は幸運にもわたしに接し、今わたしと共に集ってきたのである。あなた方の身分の低さゆえに、わたしの征服の働きの見本、ひな形となるようわたしはあなた方を選んだ。わたしが働き、あなた方の間にあって語り、わたしが生きてあなた方と留まるのは、それのみが理由である。わたしがあなた方の間にあって語っているのは、糞の山の蛆虫であるあなた方に対するわたしの経営であり、わたしのあなた方に対する憤るほどの極度の嫌悪ゆえのみであることを、あなた方は知るべきである。わたしがあなた方の間にあって働いているのは、ヤーウェがイスラエルで働いているのとは全く違い、イエスがユダヤで働いているのとは殊更に違う。わたしは非常な忍耐を持って語りかつ働き、裁きと共に怒りをもってこうした堕落した者どもを征服する。それはヤーウェがイスラエルでその民を導くのとは全く違う。イスラエルにおけるヤーウェの働きは、食べ物と生ける水を授けるためであり、ヤーウェはその民に施すに当たり、民への憐みと愛に満ちていた。今日の働きは選ばれていない、呪われた国において為される。食べ物は豊富になく、渇きを鎮めるための生ける水もない。さらに、物質的な品物も十分にない。裁き、呪い、刑罰の供給が十分にあるだけである。そうした糞の山の蛆虫は、わたしがイスラエルに与えたような牛や羊のいる丘や巨大な富、国中で最も美しい子供らを得られるだけの価値は全くない。現代のイスラエルは、わたしが与える牛や羊、そして金銀の品を、律法の下でヤーウェにより定められた十分の一よりも多く祭壇に捧げる。そこでわたしは彼らにさらに多く、律法の下でイスラエルが得る百倍以上を与えた。わたしがイスラエルを養うための物は、アブラハムやイサクが得た物を超える。わたしはイスラエルの家族を豊穣にして増やし、わたしのイスラエルの民を全世界に広げる。わたしが祝福し労る者は、未だにイスラエルの選ばれし民、つまり、わたしにすべてを捧げ、わたしからすべてを得る民である。それは、彼らがわたしを心に留め、わたしが戻ってくることを心待ちにしてわたしの聖なる祭壇に生まれたての子牛と子羊を生贄として捧げ、わたしの前に持てる物すべて、生まれたての長男でさえをも捧げるからである。しかし、あなた方はどうであろうか。あなた方はわたしの怒りを呼び起こし、わたしに対して要求し、わたしに捧げものをする人々の生贄を盗んでいるにもかかわらず、わたしを怒らせていることを知らない。ゆえに、あなた方が得るのは暗黒の中での嘆きであり刑罰である。あなた方は何回もわたしの怒りを呼び起こし、わたしは燃え盛る火を降らせたので、多くの者が悲劇的な結末を迎え、その幸福な家庭は荒れ果てた墓となった。そうした蛆虫に対し、わたしは終わりのない怒りしか持たず、祝福を与える気は全くない。わたしが例外としてあなた方を引き上げ、あなた方の間で働くという大いなる屈辱に耐えてきたのは、わたしの働きのためだけである。もし父の旨のためでなかったならば、どうして糞の山の中で転げまわる蛆虫と同じ家で生きられたであろうか。わたしはあなた方のあらゆる行いや言葉に対し極めて嫌悪を感じるが、いずれにせよあなた方の汚れと反抗にいくらかの「関心」があるため、それはわたしの言葉の偉大なコレクションとなった。さもなければ、わたしは決してあなた方の間にかくも長い間留まらなかったであろう。そこで、あなた方に対するわたしの態度は同情と憐みに過ぎず、全く愛のない、忍耐だけであることをあなた方は知るべきである。なぜなら、わたしはそれをわたしの働きのためだけに行っているからである。そして、あなた方にわたしの行いが見えたのは、わたしが汚れと反抗を「原材料」として選んだために過ぎない。さもなければ、そうした蛆虫にわたしの行いを見せることは決してない。わたしは嫌々ながらあなた方の間で働いているだけであり、わたしが喜び進んでイスラエルで働いたのとは全く違うのである。わたしは怒りをこらえて、嫌々あなた方の間で語っているのである。わたしのより大きな働きのためでなかったら、そうした蛆虫を見続けることにどうして耐えられようか。わたしの名のためでなければ、とうの昔に最高の高みに昇り、そうした蛆虫と糞の山を完全に焼き尽くしていたであろう。わたしの栄光のためでなければ、そうした邪悪な悪魔がわたしの前で頭を揺らしながらわたしに公然と反抗するのを、どうして許せたであろうか。わたしの働きが何の障害もなくスムーズに実行されるためでなかったら、そうした蛆虫のような者らが気の向くままにわたしを虐待するのを、どうして許せたであろうか。もしイスラエルで百人の村人らがそのように立ち上がり、わたしに反抗したならば、例え彼らがわたしに生贄を捧げていようと、彼らを地の割れ目の下へと消し去り、他の都市の人々がそれ以上抵抗することのないようにしていたことであろう。わたしは燃えつくす火であり、侮辱に耐えることはしない。人間はすべてわたしから作られたのであるから、わたしのすべての言葉や行いに人々は従わなければならず、抵抗してはならない。人々はわたしの働きに干渉する権利はなく、特にわたしの働きや言葉の何が正しく何が間違っているかを分析する資格はない。わたしは創造の神であり、被造物はわたしに対し畏敬の念を持って、わたしが求めるすべての事を成し遂げるべきである。また、わたしに対し理を説くべきでもないし、抵抗はなおさらするべきではない。わたしは自らの権威をもって我が民を統べ、わたしの創造の一部を成す者はすべてわたしの権威に従うべきである。今日あなた方はわたしの前にあって大胆で厚かましく、わたしがあなた方を教えるのに用いる言葉に従わず、恐れを知らないが、わたしはただあなた方の反抗に耐えているだけである。取るに足らない蛆虫が糞の山で汚物を掘り返しているからといって、わたしは怒りを爆発させてわたしの働きに影響を及ぼすようなことはしない。わたしは父の旨のために、わたしが言葉を発し終えてわたしの最後が来るまで、忌み嫌うものすべてが存在し続けるのに耐える。だが、心配することはない。わたしは名もない蛆虫と同じ程度に成り下がることはできず、あなたと技を比べ合うこともない。わたしはあなたを心から嫌うが、耐えることができる。あなたはわたしに従わないが、父がわたしに約束したあなたへの刑罰の日を逃れることはできない。創造された蛆虫は、万物を創造した神と比べ得るであろうか。秋には、落ち葉は土に還り、あなたは「父」の家に帰り、わたしは父の傍らに戻る。わたしは父の優しい愛と共にあり、あなたは父に踏みにじられる。わたしは父の栄光を手にし、あなたは父の辱めを受ける。わたしはあなたに向けるのをずっと控えてきた刑罰を用い、あなたは既に何万年も腐敗し続けている悪臭を放つ肉体をもってわたしの刑罰を受け止める。わたしはあなたの内にあって忍耐を伴ったわたしの言葉の働きを終え、あなたはわたしの言葉により苦悩の災いを受ける役割を果たし始める。わたしはイスラエルにあって大いに喜び、働くが、あなたは悲嘆にくれて歯噛みをし、泥の中に生きて死ぬ。わたしは元の姿を取り始め、もはやあなたと共に汚れの中に留まることはないが、あなたは元の醜い姿のままであり、糞の山の中でうごめき続ける。わたしの働きと言葉が完了する時、わたしには喜びの日が訪れる。あなたの抵抗と反抗が終わる時、あなたには悲嘆の日が訪れる。わたしはあなたに同情することはなく、あなたがわたしを見ることは二度とないであろう。わたしはもはやあなたと言葉を交わすことはなく、あなたはもはやわたしに出会うことはないであろう。わたしはあなたの反抗を憎み、あなたはわたしの愛を懐かしむであろう。わたしはあなたを打ち、あなたはわたしを懐かしむであろう。わたしは喜んであなたから離れ、あなたはわたしに対する負い目に気付くであろう。わたしはあなたに二度と会うことはないが、あなたは常にわたしを待ち望むであろう。あなたが今わたしに抵抗するので、わたしはあなたを憎むであろうが、わたしが今あなたに刑罰を与えるので、あなたはわたしを懐かしむであろう。わたしはあなたと共に生きるのに気が進まないが、あなたはわたしにしたすべての事を悔やむので、わたしがあなたと共に生きるのを激しく切望し、永遠に悲嘆にくれるであろう。あなたは自分の抵抗と反抗を後悔し、後悔のあまりその顔を地に伏せ、わたしの前に身を投げ出して、これ以上わたしに逆らわないと誓うであろう。しかし、あなたは心の内でわたしを愛するだけで、わたしの声を二度と聞くことはできない。なぜなら、わたしはあなたを辱めるからである。

 


   今、わたしを欺くあなたの束縛のない肉体を見るに当たり、あなたに対してはささやかな警告しかない。わたしは決してあなたに「仕える」ために刑罰を通じて行動を起こすのではない。あなたはわたしの働きにおける自分の役割を知っているべきである。そうすれば、わたしは満足するであろう。さらに、あなたがわたしに抵抗しわたしの金銭を費やし、わたし、ヤーウェの生贄を食べるのであれば、蛆虫であるあなた方は互いに噛みつき合ったり、犬のような被造物であるあなた方の間には対立や暴行が起こったりする─しかし、わたしはそのような事には一切関心を持たない。あなた方は、ただ自分がどのような者であるのか知ればよい。それでわたしは満足するであろう。こうした事を別として、あなた方が剣や槍でお互いを突いたり、言葉によって争い合ったりするのは構わない。わたしはそうした事に一切干渉したくないし、人間の事に一切関わりはしない。あなた方の間の対立を気に掛けないわけではないが、わたしはあなた方とは同じではなく、それ故にあなた方の間の事には加わらないのである。わたし自身は被造物ではなく、この世界の者ではない。そこで、わたしは人々の騒々しい生活と人々の厄介で不適切な関係を心から嫌うのである。わたしは特に騒々しい群衆を心から嫌う。しかし、わたしはそれぞれの被造物の心の内にある不純を深く知っており、あなた方を創造する前に、人間の心の内に深く存在する不義を既に知っており、偽りと不正も全て知っていた。それ故に、人々が不義を行う時にその痕跡が全くなくとも、あなた方の心の内に秘められた不義はわたしが創造したすべての物の豊かさを超えることを知っているのである。あなた方一人ひとりは、群衆の最高の高みに昇りつめた。あなた方は昇りつめて群衆の祖先となった。あなた方は極めて身勝手であり、蛆虫の間で暴れまわりながら、安らぎの場所を求め、自分よりも小さい蛆虫を貪ろうとしている。あなた方は海底に沈んだ幽霊にも増して心の内に悪意と邪悪を持っている。あなた方は糞の最下層に住み、蛆虫を上から下まで邪魔して心穏やかにさせないようにし、争い合っているかと思えば静かになっている。あなた方は自分の身分も知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのであろうか。あなた方がわたしに対し真に畏敬の念を持っているならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどんなに高くても、あなたは糞の中にいる臭く取るに足らない虫であることに変わりはないではないか。あなたは、羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか。臭く取るに足らない虫であるあなた方は、わたし、ヤーウェの祭壇から生贄を盗む。そうする中で、堕落し、衰えている自らの名を回復して、イスラエルの選民になることができようか。あなた方は恥知らずの哀れな存在である。祭壇の生贄は人々がわたしにささげた物であり、わたしを恐れる人々の情け深さを表している。それらはわたしが支配するためのものであり、わたしが用いるためのものであるのに、人々が捧げた小さなキジバトをどうしてわたしから奪うことができようか。あなたはユダになることを恐れないのであろうか。あなたの地が血に染まった荒野となることを恐れないのであろうか。恥知らずな者よ。あなたは、人々が捧げたキジバトが蛆虫であるあなたの腹を養うためだけの物であると思っているのか。わたしがあなたに与えた物は、わたしが喜んで与えた物である。わたしがあなたに与えなかった物はわたしが好きなようにできるのであって、あなたがわたしへの捧げ物をただ盗むことはできない。働く者はわたし、ヤーウェ─創造の神であり、人々が生贄を捧げるのは、わたしのためである。あなたは、それがあくせくしているあなたへの報酬であると思うのか。あなたは本当に恥知らずである。あなたがあくせくするのは、誰のためであるか。自分のためではないか。なぜわたしの生贄を盗むのか。なぜわたしの金袋から金を盗むのか。あなたはユダ・イスカリオテの息子ではないか。わたし、ヤーウェの生贄は、祭司が享受するものである。あなたは祭司であるのか。あなたは、うぬぼれてわたしの生贄を食べ、食卓に並べさえするのか。あなたには何の価値もない。あなたは何の価値もない、哀れな存在である。わたし、ヤーウェの火は、あなたを燃えつくすであろう。