賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

教会の人間関係-4つの原則を把握すれば他人との付き合いが楽になる

2019-07-31 16:51:23 | 信仰生活

 多くの人にとって、他人の相手をすることは極めて大きな問題です。私たちは実生活において多くの人々に遭遇します。波長の合う人がいれば、合わない人もいます。私たちはクリスチャンとして、周りの人々をどう扱うべきでしょう?主の御心に従うには、主のどのような要件を実践するべきなのでしょう?私は真理の本にこれらの疑問の答えを発見した上に、この本に記されている通りに振る舞っていると、自分自身の人間関係が本当に解決しました。なので、私は自分の実体験に基づく理解を皆さんにお話したいと思います。

第1に、私たちは個人的な感情と好みにまかせて振る舞うのではなく、皆を平等かつ公平に扱うべきです


 主イエス様はこう仰りました:「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書 5:46-48). 主の御言葉は、私たちはクリスチャンとして次に挙げることをしてはならないと明確に仰っておられます:「自分の利益となるものをもらえる時だけ人々と正直に接し、傷つけられたら無視をする。気質の合う人たちと出会えば距離を縮め、気の合わない人たちは差別して遠ざける。高い地位に就く人または大きな権力を持つ人の機嫌を伺い、地位や権力のない人はのけ者にして見下す。」こんなことをしていては、私たちは未信者と同じで、主の信者と呼ばれるに相応しくないのです。

教会,人間関係,他人との付き合いが楽になる

 例えば、私たちは自分たちと気質の合う人に自分の欠陥を提起されても受け入れられますが、自分たちの好きじゃない人にされると、それに耳を傾けずに自分たちのことを正当化し、反感を抱えて葛藤を感じたり、攻撃することすらあります。これは、私たちが感情と好みにまかせて振る舞っていること、そして人々に不公平であることを示しています。これは主の御心と一致していません。私たちは主を信仰しているのだから、主に従って自らを愛するように他人を愛するべきです。人が自分たちと気質が合う合わないに関係なく、彼らが普通の兄弟姉妹もしくは教会の指導者であろうとなかろうと、私たちは彼らを騙したり、彼らに対して偏見を抱いたりせず、誠意を持って、かつ公平に彼らを扱い、寛大な心、辛抱強さ、そして愛情を持つべきです。こうしてこそ、私たちは主の御心に沿うことができるのです。

第2に、私たちは他人の欠点と堕落を正しく扱うべきで、恣意的に他人のことを説明したり非難するべきではありません


 主イエス様はこう仰りました:「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書7:1-2)。主イエス様は、もし他人が罪過や堕落を明らかにすることがあっても、私たちは彼らのことを恣意的に非難したり、説明したりすべきではないと教えてくださりました。聖書を読んで主イエス様がどのように罪過を取り扱いになるかを見てみましょう。パリサイ人が不貞の女性を主イエス様の前に連れて行って、主イエス様が彼女をどのように取り扱われるかを見ようとしたことがありました。律法によると、この女性は石打の刑で殺されるところでしたが、主イエス様は彼女を非難せず、これ以上は罪を犯さないようにと彼女に仰っただけでした。この実例より、主イエス様は人間の弱さを特に憐れんでくださることが分かります。私たちが罪過を犯しても、心からそれを悔い改めさえいれば、主は私たちをお許しくださり、変化を遂げる時間と機会を与えてくださります。従って、私たちは他人の欠点や堕落を正しく扱い、成長の可能性を探りながら他人を評価するべきです。これは当然と言えるでしょう。サタンのような堕落した性質にまかせて他人を扱い、他人に厳しい要求を課し、些細なことに時間を浪費し、恣意的に他人を非難し定義していたら、それは主の御心に沿っていないし、私たちは間違いなく他人と普通の関係を持つことはできないでしょう。

 例えば、私たちの教会には消極性と弱さが原因で決して時間通りに集会に参加しない姉妹がいました。私は彼女と何度も交流しましたが効果はありませんでした。私はこれにとても腹を立てて、彼女は神の誠実な信者ではないと決めつけていました。So, これ故に、私はもう彼女を支えるのも、彼女に気を配るのも止めてしまいました。その後、私は聖書にこう記されているのを目にしました:「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ人への手紙14: 3-4)。私はこれを読んでとても恥ずかしくなりました。私が否定的で弱気で挫折していた時に、私がしっかり立っていたれるようにと神が兄弟姉妹を動かして私のサポートをさせてくださったことを振り返りました。これと同様に、今私はあの姉妹が家族や世俗的なことのごたごたが理由で時間通りに集会に参加できないことを知っているのだから、彼女を優しく支えてあげるべきなのです。しかし、私は彼女の生活を心配したり、気に掛けたりせず、彼女を冷たくあしらい、彼女のことを神に誠実でない信者だと決めつけていたのです。私はとても邪悪で思いやる気持ちを全くもっていませんでした。私のとった行動は基本的に主の御旨に適っていなかったのです。私はこう気が付いた後、神の前に行って自ら犯した罪を告白し、それを悔い改め、姉妹を支え続け、愛情を持って彼女と交流し、自分の実体験を彼女に話す決意をしました。交流を何度か行った後、彼女は定期的に集会に参加するようになり、教会の仕事をするようにもなりました。この経験を通じ、私は、神が人間を救う働きをなさる間、私たち信者がどのような弱さと欠点を持ち、どのような種類の堕落を示そうとも、神の誠実な信者であり、神の前で悔い改めができる限り、神は私たちに変化を遂げる機会を与えてくださるのだと理解しました。従い、私たちは愛情をもって他人を助け、許し、そして皆を神の要件に従って扱うべきなのです。私たちは他人を恣意的に定義したり、非難したりしてはならないのです。他人をこのように扱うことのみが公平であり、主の御心と合致しているのです。

第3に、私たちは他人を過大評価も過小評価もせず、他人の長所を発見して自らの欠点を補うことを学ぶべきです。


 聖書にこの記述があります:「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」(ピリピ人への手紙 2:3-5)。兄弟姉妹と触れ合う時、私たちには自分たちに一定の能力があり力量と才能も少しあるからといって才能がない、または愚かで力量が乏しい人たちを見下していたら、私たちはサタンの性質である傲慢さを表していることになります。主イエス様はこう仰りました:「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイによる福音書 23:12)。私たちは謙遜して他人の長所を生かしながら自分たちの欠点を補うためべきです。こうしてのみ、神は私たちに満足してくださり、私たちのいのちも継続的に成長していくのです。

 加えて、私たちは人の愚かさや賢明さ、力量の良し悪し、貧乏なのか裕福なのかに関係なく、他人に対して偏見を抱いたり、自分の好みにまかせて彼らを扱うべきではないことを知っておかなければなりません。私たちがどのような外見をしていても、どのような力量、長所、そして才能を持っていても、それは神から事前に定められているものであるため、私たちが他人のあら探しをするべき理由などはありません。神が人を救われるかどうかはこのような外面的なことで決まるものではありません。従って、私たちはこのようなことを気にするべきではないのです。むしろ、私たちは皆の欠点を正しく扱い、他人を尊重することを学ぶべきなのです。

第4に、私たちは他人が自分の考えと合わない行為をしているのを見ても、先ずは他人の問題には注目せず、自分たちを知ることを学ぶべきです。


 主イエス様はこう仰りました:「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイによる福音書7:3-5)。他人と触れ合う上で、小さな衝突はつきものです。私たちはむやみに他人に執着したり、善し悪しにこだわったり、他人を責めようとせず、自分自身の問題を見つけることを学ぶべきです。自らを知れば、他人に対する偏見は自然と脇に置くことができるでしょう。

 私はこの経験は沢山してきました。例えば、私がペアを組んでいた姉妹が、私は教会の仕事で何の責任も担っていないと言いながら私の欠点を何度も指摘してきたことがありました。私はこれを神から受け入れなかっただけでなく、彼女は私を意図的に虐め、面倒な状況を作り上げていると思ったのです。私はこれが理由でこの姉妹に対して先入観を持つようになり、彼女と教会の仕事をするのが嫌になりました。その後、私は探求により、私が他人のアドバイスを拒否していたのは自分のサタンのような傲慢な性質に支配されていたことを知りました。同時に、私はこう気が付きました;「実際に、私が毎日のように遭遇する人々、出来事、そして物事は神が私を変えて救うために用意してくださっているのです。あの姉妹が私にとって面倒な状況を作り上げていた訳ではなかったのです。私は神の行いを受け入れ、姉妹と調和を取りながら協調できるように自分を脇に置き、姉妹の正しいアドバイスを受け入れ、前向きに心を開いて彼女に自分の堕落を見せることを学ぶべきなのです。」これは教会の仕事に有益なことで、私たちが真理を得られるようにしてくれます。こうして、私は神の要求通りに実践し始めました。私はこの姉妹もまた自分自身の欠点を知っているとは思っていませんでした。ついに、私たちは精神的に繋がり、以前のようにまた調和がとれるようになったのです。

 上述した4つの原則は私の実体験に基づく理解です。神の教え通りに皆を扱って、周囲の人々に利益をもたらすことができてこそ、私たちは真の人間らしさを貫くことができ、神を讃え、神の証言をすることができるのです。


主イエス様は終わりの日にどのように再臨されるのか

2019-07-30 21:33:26 | キリスト教ミニストーリー

 【編集者メモ】主イエス様は終わりの日にどのようにして再臨なさるのかという話しになると、主イエス様は雲に乗って公然と私たちの前に現れると大抵の兄弟姉妹は信じています。しかし、これについて当惑している兄弟姉妹もいます。なぜなら聖書には主は盗人のようにこっそり来られると預言されているからです。主は一体どのようにして終わりの日に再臨なさるのでしょうか。この疑問は私たちが主の再臨をお迎えできるかどうかに関わることなので、探求するにふさわしい事柄です。

 スーシンは同労者会議の場で絶望的な表情を見せながら言いました。「兄弟姉妹の皆さん、私は最近ある問題についてよく考えているんです。私たちは主を信仰するようになって以来、主が終わりの日に雲に乗って来られて、私たちを携挙してくださるのを待ちわびています。2000年に、牧師と長老たちは主の再臨が迫っていると言いました。でも、もうすぐ2019年になるという今、主の再臨についての様々な預言が基本的に成就されているというのに、私たちは未だに主が雲に乗って降臨される御姿を見ていません。一体何が起こっているのでしょうか?」
 主イエス様は終わりの日にどのように再臨されるのか

 ウーがスーシンに続いて言いました。「そうです。最近、宗教界は広範囲に渡って荒廃しています。教会の多くが閉鎖してしまいました。ただ空を見上げながら待っているだけで主の再臨をお迎えすることが一体できるのでしょうか?」

 スーシンとウーをちらっと見ながら、フー・ユエは聖書を閉じ、抑えた口調で言いました。「スー姉妹、ウー兄弟、あなた方は心配し過ぎです。聖書には明確にこう書かれています。『そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。』(ルカによる福音書 21:27)。『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。』(ヨハネの黙示録 1:7)。主イエス様は再臨されるとき、雲に乗って公然と降臨なさり、皆が主を目撃することになるのです。どうしてこれを疑えるのですか?」

 リー・チーは少し考えてから言いました。「以前、私も主イエス様がまた来られる時は雲に乗って公然と降臨されると思っていました。でも、それ以降、それが実現するのを見ていません。なので、私は主の再臨に関する聖句を全て詳しく調べた結果、この二つの節を聖書に見つけました。『見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。』(ヨハネの黙示録 16:15)。『その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。』(マルコによる福音書 13:32)。これらの節から、『盗人のように』 『誰も知らない』は、主が秘かに来られることを意味しているのだとわかりました。それで、私は混乱しているんです。主が雲に乗って公然と降臨されるという預言と、主が秘かに来られるという預言は矛盾していないでしょうか?ならば、主は終わりの日にどうやって来られるのでしょうか?」

 フー・ユエは「これらの聖句は主がいつ来られるかは誰も知らないということを意味しているのです」と主張しました。フー・ユエとリー・チーの言葉を聞いた後、スーシンとウーは共に当惑した様子でした。

 その時、チェン・リーがこう言いました。「主に感謝します!終わりの日に主が再臨されることについて、私も以前はリー兄弟と同じように困惑していました。私はしばらく前に他の地域の教会で働いていたとき、同労者のある姉妹と出会ったのですが、これについて彼女はたくさんの光明をもって話してくれました。彼女の理解は私たちのとは異なりました。私は彼女の話を聞けば聞くほど、増々それが聖霊の啓示から来ているものだと感じました。私は彼女との交流を通じて、主がどのように再臨されるかについて違った識見をついに得たのです。」

 スーシンは目を輝かせて、興奮しながら言いました。「主に感謝します!チェン姉妹、早く聞かせてください!」

 「分かりました!」チェン・リーは続けてこう言いました。「主イエス様は『天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。』(マルコによる福音書 13:31)と仰りました。神様の御言葉は一旦語られると、確実に一つずつ現実となり、成し遂げられていきます。主は再臨なさるときは雲に乗って来られると預言されただけでなく、盗人のように秘かに来られるとも預言されましたので、これらの御言葉は間違いなく実現します。ならば、主はどのようにして来られるのでしょう?実は、主の再臨は段階的になされるのです。最初の段階で、主は受肉して人の子として秘かに再臨されます。その後、雲に乗って公然と降臨され、全ての人々にお現れになります。これで、聖書にある主イエス様の再臨の預言は共に矛盾していないということになります。」

 「主が受肉されて、秘かに来られると言われましたが、それには聖書上の根拠がありますか?」とフー・ユエが聞きました。

 チェン・リーは言いました。「その面に関しては、聖書にとても明確に記述されています。例えば、ルカによる福音書12:40には『あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである』と書かれていますし、ルカによる福音書17:24-25には『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』とも書かれています。これらの聖句は共に人の子に言及しています。人の子とは人間から生まれ、普通の人間性をもつ人であることを意味しています。霊を人の子と呼ぶことはできません。なので、ヤ―ウェ神を人の子と呼ぶことはできませんが、受肉なさった主イエス様をキリストおよび人の子と呼ぶことはできます。これはなぜなら、主イエス様は普通の人間性をもって人間からお生まれになられたからであり、さらに主の本質は神性であり、主は現れ働くために肉となられた神の御霊であるからです。さらに、この聖句は終わりの日に肉となった人の子は拒絶されることを示しています。少し考えてみましょう。主イエス様が雲に乗って直接降臨されるのであれば、全ての人々は主の御前にひれ伏して、主を礼拝するでしょう。なぜなら霊的な体はもちろん超自然的な存在であり、奇跡的なしるしや不思議を行うことがおできになるからです。一体だれが主に抵抗し、主を拒絶するというのでしょう?一体どのようにして神様が苦しみを受けて、この時代の人々に拒絶されるというのでしょう?受肉された神様が人の子として働くために現われ、そのときその人が肉となられたキリストであると人々が気が付かないということがあれば、人々は自分たちの観念と想像にそってキリストを非難し、拒絶するでしょう。」

 「主は先ず最初に秘かに働きをされ、それから公然と御姿をお見せになるということですね。こう見ると、これらの預言は本当に矛盾していません。神様が秘かに降臨なさるときにどのような働きをされるかは私には分かりませんが、神様がこのようになさるのですから、それには神様の知恵が込められていると思います。では、チェン姉妹、これについてもっと話していただけますか?」とスーシンが尋ね、他の同労者たちも賛同しました。

 チェン・リーは頷いて言いました。「私はこの疑問についてその姉妹と話し合った結果、神様はおもに新たな御言葉を伝えて勝利者の集まりを作るために、先ずは肉として秘かに再臨されるということをやっと理解しました。聖書のヨエル書2:29-31には『その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。』と記録されています。この『大いなる恐るべき日』とは終わりの日に起こる大災害を指しています。そして『その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。』という節は、大きな災いが起る前に神様の御霊が新たな御言葉を仰せられ、そのしもべとはしために水を注がれ、最終的には勝利者の集まりを作って彼らを天国に連れて行かれるということを意味しています。これはヨハネの黙示録7:14-15に記された『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。』という内容を成就します。神様が勝利者の集まりをお作りになる間は常に秘かに働きをなさるので、雲に乗って公然と降臨される主を私たちが目撃することはまずありません。神様の偉大な働きが完成され、神様の人間のもとへの秘密の降臨が完了し、善人を報い悪人を罰するために大災害を起こした後に、初めて神様は雲に乗って地上の全ての国々の前に公然と降臨なさいます。その時点で、人類を救う神様のお働きは完全に成就します。神様が秘かにお働きになるとき、心から神様を信仰して真理を愛する人々は終わりの日の神様の働きを受け入れ、神様に清められ、完全にされ、神様によって勝利者にしていただくことができます。反対に、真理を嫌う偽信者たちはむやみに独自の観念と想像に固執し、再臨された主の隠された働きを受け入れず、受肉された神様に抵抗や非難さえします。このような人々は救われる機会を完全に逃し、最終的には神様の義なる懲罰を受けることになります。このようにして、全ての人がそれぞれの種類によって分けられます。これは『そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。』(マタイによる福音書 24:30)。『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。』(ヨハネの黙示録 1:7)といった預言を完全に成就します。」

 リー・チーは頷いて言いました。「そうです。チェン姉妹のお話しは啓発的で、聖書の預言に即しています。私はちょうど今、神様が大洪水を起こして世界を滅ぼされる前に、先ず最初にノアに箱舟を建てて、その間に福音を宣教するように命じられたことを思い出しました。その100年後、ノアは箱舟の建設を完了させましたが、依然として誰もノアの言ったことを信じていませんでした。そして、その後すぐ、神様は災害を起こしたのです。人々が実際に押し寄せてくる洪水を見た時はもう手遅れでした。なぜなら、人類を救う神様の働きは既に完結していたからです。最終的に、ノアとその家族の八人だけが助かり、他の人々は全て洪水に流され、溺れ死んでしまったのです。神様を讃えます。私はこれで、神様は終わりの日に先ずは秘かに降臨され、神様を心から信仰する人々を救うためにたゆまずお働きになり、その人々を神様の玉座の前に導いて、災害の前に勝利者とされるということを理解しました。神様がそうなさったとき、人類を救う神様の働きは完了します。従って、神様は災害を起こされ、善人を報われ、悪人を罰せられてから、雲に乗って地上の全ての国々の前に公然とその御姿をお見せになります。その時が到来すると、神様の敵である偽信者、毒麦、邪悪なしもべ、そして全ての悪人たちは神様の怒りによって滅ぼされます。私たちは今、終わりの日の末期にいます。災害は様々な国で増々悪化しています。世の中は今まで以上に混乱に陥っています。主が再臨される預言が成就されたのです。しかし、私たちはまだ主をお迎えしていません。主はお働きになるために既に秘かに降臨されておられると思いますか?もしそうであれば、私たちはただ何もせず主が雲に乗って降臨されるのを待っているべきではありません。そんなことをしていたら、主の再臨をお迎えする機会を簡単に逃してしまいます。」

 スーシンは続けて言いました。「その通りです。私たちは皆、主が既に到着されていると感じています。神様の秘かな働きについていかないと、主が公然と御姿をお見せになる時は手遅れになってしまいませんか?ですが、どうすれば私たちは主の隠された働きを受け入れることができるのでしょうか?」

 チェン・リーは笑顔で言いました。「心配しないでください。聖書は主の秘かに来臨の働きについてとても明確に記しています。主イエス様はこう仰せられました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。』(ヨハネによる福音書 16:12-13)。『父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。』(ヨハネによる福音書 5:22)。そして他の聖句にも、こう記録してあります。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(ヨハネの黙示録 2:7)。『さばきが神の家から始められる時がきた。』(ペテロの第一の手紙 4:17)。『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。』(ペテロの第一の手紙 1:5)。これらの聖句から、主が秘かに働きをされるとき、私たちが終わりの日の主の救いにあずかることができるよう、真理を語られ、裁きの働きをされ、以前には理解していなかった真理を全て私たちに教えてくださるということが分かります。これより、再臨される主イエス様がなさる秘かな働きを見つける方法が分かります。それは、主の御言葉とこれらの聖句によって示されています。ですから、神様が裁きの働きをするために御言葉を仰せられたと誰かが証言するのを耳にしたら、私たちは賢明なおとめたちに見習って、謙虚に探求、調査し、その道に真理があるのかどうか、そしてその言葉は神様の御声であるのかどうかを確認しなければなりません。こうしてのみ、私たちは主をお迎えし、災害が起こる前に神様に清められ、完全にされ、そして勝利者にしていただき、最終的には天国に入って主の祝宴にあずかることができるのです。」

 スーシン、リー・チー、そして他の信者たちはお互いを見つめながら、「主に感謝します。今やっと道がみつかりました」と、それぞれが言いました。


カトリックの信仰:主は本当に再臨された

2019-07-29 21:26:39 | 天国への道

 私の家族は全員が神様を信仰しています。私は子どもの頃から母と一緒にミサに参列し、神様は私たちに本当にたくさんの恵みを与えてくださいました。私たちは神様への感謝の気持ちで満たされ、主の再臨を切望していました。しかし、主が働き私たちを救うために本当に再臨された時、自分が主の働きに気づかないどころか、自分の傲慢な本性に頼り、古い観念にしがみついて危うく主の救いを逃しそうになるとは想像しませんでした。私はこれについて考える度に自責の念に駆られ、また同時に喜びも感じます。主イエスは私をあわれんでくださり、兄弟姉妹が根気強く主の新たな御言葉について語ってくれたおかげで、私は主の新たな働きについての認識を得て主の足跡についていけるようになったのです。私は主の救いによって神の国の時代行きのいわば最終列車に乗ることができたことをとても感謝しています。いま、主を受け入れる過程での様々な場面が私の頭に浮かんできます。

 ある日、母の教会友達のリー叔母さんが、終わりの日の神の福音について話すために教会友達を何人が連れて私たちの家にやって来ました。私は叔母さんたちは私たちをプロテスタントに転会させるために来たのだと思ったので、あまり歓迎しませんでした。しかしリー叔母さんは言いました。
カトリックの信仰:主は本当に再臨された

 「主は既にお戻りになりました。主は全能神で、終わりの日のキリストです。全能神は真理を表され、神の家から始まる裁きの働きをされました。恵みの時代は終わって、今は神の国の時代です。罪を犯しても、もう神父様の所に行って告解しなくていいんです。代わりに直接全能神の御言葉を読み、その裁きと刑罰を受け入れ、神様の御言葉から自分の堕落した性質についてよく考えて、それを認識し、神様の要求事項に従って振る舞えばいいのです。こうすれば、私たちは徐々に罪の束縛から解放されて、清らかになり、神の御心に沿った人になれるのです」。私はこれを聞いてショックを受けました。そして心の中で、「全能神が主の出現?でも、私は今まで何年も主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かった。全能神の新たな働きを受け入れたら、主イエスに背くことになるんじゃない?」と思いました。私は少し混乱しました。私は自分の考えを何も言いませんでした。それで、私の態度を見た叔母さんたちもそれ以上は何も言いませんでした。

 その後、私は姉が頻繁に一人で外出するようになり、帰宅した後には母と一緒に何やらこそこそ話しをしているのを目にしました。それから、二人は一緒に外出するようになり、帰宅するといつも満面の笑みを浮かべていました。二人は以前よりも調子が良いようでした。私はこれにとても困惑し、二人は何かを隠しているんだと思いました。しばらくした後、二人は終わりの日の全能神の働きを受け入れ、全能神は主の出現であることを見極めたとまじめに私に告げたのです。二人は私にこれを真剣に検討するように勧めました。私は二人がそう言うのを聞いて理解に困りました。私は「お母さんとお姉ちゃんはとても敬虔な信者なのに、どうして今では全能神を信じているの?これは主の道から離れてカトリックの信仰に背くことにならない?二人はたった数日で変わってしまった」と思いました。私は顔をしかめて何も言いませんでした。その私を見た姉は言いました。

 「その気持は分かるわ。リー叔母さんが来て終わりの日の福音の話をした時、私も間違った信仰を取り入れてしまうのが怖かった。でも、叔母さんたちが宣教していることは十分に筋が通っているし、聖書の預言にも一致していることがわかったの。世界中で災害がどんどん大きくなっていることも知ったわ。これはみな主の再臨のしるしよ。もし全能神が本当に主の再臨ならば、その全能神を受け入れるのを拒否したら、主の救いの恵みを逃してしまうことになるんじゃない?だから、私は『全能神が本当に主の再臨であるなら、主の足跡を辿って、全能神の福音について話してくれたあの姉妹たちにもう一度会えるよう、私を啓き導いてください』と主に毎日祈りを捧げたの。そしたら、不思議なことに叔母さんたちがまたやって来て、私に全能神の国の福音について話してくれたので、これは主の意図で采配だって分かったの。それで私は終わりの日の全能神の働きを調べ始めたの。叔母さんたちはそれから私に全能神の御言葉をたくさん読ませてくれたの。そのすべてに権威と力があって、そのすべてが真理で神の御声であると知ったの。全能神は、神様の経営計画の目的、神様が人を救われる方法、人類の堕落の根源、人間はどうやって悪を振り払って救われるべきか、私たちの最終的な結末と終着点といったすべてについて私たちに語ってくださった。全能神の御言葉を読んで、私は真理と聖書の奥義をたくさん理解したわ。私の心の中はすごく明るくなって、私は全能神は主イエスの再臨だって心の中で判断したの」 姉の言ったことを聞いて、私の心のわだかまりが少しほぐれました。姉はむやみに終わりの日の全能神の働きを受け入れていたのではなく、主の導きを求め続けていたのです。主の再臨を待ち続けていながらも、主が本当に再臨されていると人々が証言するのを聞いた時に謙虚な気持ちで探求しようとは思わなかった自分を考えると、その時私は少し恥ずかしくなり、自責の念も感じました。そんなことで、どうして主の啓きと導きを得ることができるでしょうか。全能神が本当に主の再臨であり、それを私が探求も考察もしなかったならば、私は本当に主の救いを逃してしまうのではないでしょうか。そう気づいた時、私は終わりの日の全能神の働きを考察することを姉に約束しました。

 その二日後、母と姉は見学できるようにと私を全能神教会に連れて行ってくれました。私はまだ警戒していたので、人が話し合っている間、どうしても静かにしていられなかったのですが、母と姉が一緒だったので、恥をかかせないようにと無理して「真面目に」話を聞きました。その間に、私はそこの教会の兄弟がこう話すのを聞きました。

 「ミサに参列しても司祭はいつも聖書から同じことばかり話し、つまらなくて何の光もないとほとんどの人が感じでおり、教区民は何の喜びも得られません。彼らは毎日告解していますが、抜け出すことができない罪の中にいまだに生きています。たくさんの人が信仰を失って闇に陥りました。宗教界全体が荒廃し、聖霊の働きを欠いていることは誰もが知っています。これは広く認められている事実です。ですが、宗教界が荒廃している理由はご存知でしょうか。これは、主イエスの再臨をお迎えできるかどうかに直接関わることです。実は、宗教界が聖霊の働きを失い荒廃した理由はおもに二つあります。一つ目は、司祭と指導者たちが主の戒めに従わず、主の御言葉を実践してもおらず、代わりに人間の作った伝統を守り、神学的議論や聖書に関する知識に注目してばかりいることです。彼らは人から尊敬されるように、これを利用して自己顕示して自らの証しを立てているのです。彼らは主を証ししたり高く掲げたりすることもなく、人々が真理を理解して主を知ることができるように人々が主の御言葉を実践したり体験したりするように導くことも全くありません。彼らは主の道から完全に外れてしまったので、主から見捨てられ、排除されてしまったのです。これが宗教界が荒廃している第一の理由です。もう一つの理由は、主イエスが再臨されたからです。主は受肉して全能神となり、主イエスのなされた贖いの働きを土台にして、神の家から始まる裁きの働きをされ、終わりの日の全能神の働きを受け入れたすべての人々裁き清めるために真理を表されています。これに伴い、聖霊の働きも終わりの日の神様の裁きの働きに移行したのです。この働きを受け入れる人は聖霊の働きを受けられるほか、生ける水の供給と潤しも得ることができます。しかし、宗教界の中にはまり込み終わりの日の神の働きを受け入れない人は聖霊の働きを失って、闇に陥り、否定的で弱くなってしまいました。これは聖書にあるこの預言を成就しています。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)

 私はこの話を無理やり「真面目に」聞きましたが、心配が邪魔をして兄弟の話をあまり理解できませんでした。家に帰った後も、教会に行って祈りを捧げたり、聖書を読んだり、ミサに参列するということを続けましたが、心を落ち着かせることが全然できませんでした。あの日の話が頭の中に浮かび続け、私は考えました。

 「あの兄弟の話は筋が通っていたし、私も教会は聖霊の働きを欠いていると感じていた。主が新たな働きをするために本当に再臨されているってことがありえるのだろうか。でも、私はずっと主を信仰してきて、主は私にたくさんの恵みを与えてくださった。私に主を裏切ることなんてできない」

 私は強い葛藤を感じ、終わりの日の全能神の働きを考察し続けたいのかどうかが分からなくなってしまいました。

 ある時、私はミサに行ったのですが、教会に到着して唖然としました。以前だと到着した時にはミサはいつも既に始まっていたのですが、その日はまだ教会の中の明かりがいくつか消えたままになっていて、中は真っ暗でした。人は数人ちらほらといるだけで、ただ座って世間話をしていました。司祭の姿はどこにも見当たりませんでした。目の前の光景は私にとって非常に残念なもので、私は思いました。

 「教会は本当にどんどん荒廃している。全能神教会の兄弟姉妹たちが言ったように、主はお戻りになって新たな働きをされ、それに付いて行けない人たちは聖霊の働きを失ってしまったということなんだろうか。あぁ、主の働きは本当に移行してしまったのか」

 ミサの後、私は家に帰り、主イエスの肖像画の前に立って静かに祈りました。

 「あぁ、主よ!本当に肉となり新たな働きをされたのですか?全能神は本当に主の再臨なのですか?主よ!どうか私をお導きください」

 この祈りの後、のしかかっていた大きな重りが引き上げられたように感じました。私は息をついて、思いました。

 「この教会にはもう聖霊の働きが宿っていないから、聖霊の働きのある教会を探さなきゃ。そうよ、終わりの日の全能神の働きを調べ続けなきゃ。全能神が本当に主イエスの再臨なら、受け入れなければ!」

 私はこう思った時、気持がとても楽になりました。

 その後、私は母と姉と一緒に終わりの日の全能神の働きを勉強し続けました。驚いたことに、もう一度説教を聞きに行ったときに心を静めることができることに気づきました。そして、私は心の中の困惑を打ち明けました。

 「以前、教会が荒廃する理由についてのお話を聞いた時、私も全く同じ意見でした。教会は本当に荒廃していて、聖霊の働きを欠いています。でもまだ気掛かりなことがあるんです。私は長年に渡って主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かりました。主イエスから離れて全能神を信仰したら、主イエスに背くことになりませんか?これについて話していただけませんか?」

 私の質問を聞いたリュウ姉妹は笑顔で言いました。

 「姉妹、それは本当に重要な質問ですね。その心配はおもに神の働きの理解が足りないために生じるものです。それはちょうど律法の時代末期に神が主イエスとして受肉され、律法の時代の基盤の上に恵みの時代の働きを完成された時と同じです。主の御言葉を聞き、それが神の御声であることに気づいて主の働きを受け入れた人たちは皆、主と共に歩んでいた人たちでした。ペテロ、ヨハネ、サマリア人の女と同じように、彼らは主イエスの御言葉を聞いて、主がメシアであることに気づいたのです。彼らは神の足跡を辿り、神の御言葉の潤しと霊的な糧を授かり、聖霊の働きを得ました。彼らはヤ―ウェに背かなかっただけでなく、神の足跡について行きました。それがヤ―ウェ神に忠実でいられる唯一の方法だったからです。しかし、律法にしがみついて主イエスの御言葉と働きを受け入れなかった司祭長、律法学者、パリサイ人はヤ―ウェ神の称賛を得られなかった上に、神に抵抗する人となり、主の働きによって排除されてしまったのです。同様に、終わりの日の主は神の経営(救いの)計画および人類の必要に合わせて、主イエスの働きを土台に裁きと清めの段階の働きをされました。終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなくて、むしろ神の足跡を辿ることです。それは神の道を守り忠実に神に従うことです。これはヨハネの黙示録にある『そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。(ヨハネの黙示録14:4)』という預言を成就しています。これは全能神の御言葉を何節か読めばもっと良く理解できます。全能神はこう仰いました。

 「人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)「ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)「現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)

 「三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。」「ひとつの霊によって行なわれる。」これほど新鮮な言葉を聞いたのは初めてのことで、私はそれに深く引き込まれました。私は思いました。

 「これら三つの段階の働きは律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代ですね。この三段階はすべて主がなさるのですか。なぜ主は三段階の働きをおもちなのですか。この三段階はどのように完成されるのですか」

 私はとても興奮していて、そこにある奥義を理解したかったので、自分の困惑を言葉にしました。

 リー姉妹はコンピューターで三段階の働きの解析図を開いてから、話してくれました。

 「主が人類を救う働きには合計で三段階あると全能神の御言葉は私たちに教えてくださいます。一つ目は旧約聖書の律法の時代、二つ目は新約聖書の恵みの時代、そして三つ目はヨハネの黙示録に預言されている神の国の時代です。これら三段階は、神様が異なる時代になさる異なる働きであり、時代、働き、神様の御名、神様が表現される性質はすべて異なりますが、これらはすべて一つの御霊による働きです。この三段階はそれぞれが次の時代に綿密につながっており、それぞれが前の段階よりも高く、奥深いのです。このうちどの段階を欠いても、人類をサタンの支配から完全に救い出すことは不可能です。旧約聖書の律法の時代の間、神様はヤ―ウェという御名で働きをされました。神様は威厳、怒り、慈しみ、そして呪いといった性質を表現されました。神様はモーセを通じて戒めと律法を発布され、創造されたばかりの人間の地上での生活を導き、人々は罪とは何か、どのようにして神様を礼拝すべきか、ヤ―ウェの律法を守ることで神様の祝福と恵みを受けられるということを知りました。律法を破る人は石で撃ち殺されたり、火あぶりにされました。律法の時代末期に近づくと、人々はますます堕落して罪深くなり、もはや律法を守りませんでした。人々は皆、律法によって断罪され処刑される危険にさらされていたのです。そして、神様は人類の必要に合わせて新しい段階の働きをなされ、働くためにイエスとして受肉されました。イエスは恵みの時代を迎え入れ、律法の時代の幕を閉じられました。イエスは愛と慈しみの性質をお見せになりました。神様は悔い改めの道をもたらし、寛容で忍耐強い心を持つこと、敵を愛すること、そして人を何度でも許すことを人々に教えられました。イエスはまた人々に豊かな恵みを与えられ、最後には人類を救うために十字架にはりつけられ、私たちをサタンの支配から救ってくださいました。それ以降、私たちは罪を犯すたびに主イエスに呼び掛けて罪を告白し悔い改めることができるようになり、それにより私たちの罪は許され、私たちは神がお与えくださる平安と喜びを受けられるようになったのです。私たちの罪は主イエスの贖いによって消し去られますが、私たちは未だに堕落したサタン的な性質から抜け出すことができていません。それ故に、私たちは依然として頻繁に罪を犯してしまうので、神様に得られていないのです。私たちを罪から完全に救い出すために、神様はもう一度肉となられ、全能神の名において神の家から始まる裁きの働きをされ、人類の堕落した本性を明らかにし、私たちの不義を裁き、私たちが神の御言葉をとおして自分たちの本性を知り、自分たちがどれだけ深くサタンに堕落させられているかという真理を明確に知り、堕落の根源を知り、不可侵である神の義なる性質を認識できるように、無数の御言葉を表現されました。神様の御言葉はまた、私たちがサタン的な性質から自らを解放するために実践するべき道を指し示してくださっています。神様の御言葉の裁きと刑罰を受け入れて自省し、神様の御言葉が明らかにする自分のサタン的な性質を知り、真理を実践するならば、私たちは次第に罪の束縛から脱却し、物事の見方も徐々に変わり、いのちの性質も時間とともに変化を遂げます。最終的に、私たちは神様を畏れ、悪を避け、神様の御心に沿った人となり、ついには神様に素晴らしい終着点へと連れていっていただけるようになるのです。三段階の働きは神の経営計画と人類の堕落に基づいて実行されています。各段階はその前の段階を基に築かれており、前の段階よりも高く、奥深いものとなっています。もし神様が一つか二つの段階の働きしか行われなかったならば、人類を完全にお救いになることはできないでしょう。三段階すべての働きを行なわれることによってのみ、神様は人類をサタンの支配から完全に救い出すことができるのです。この三段階の働きこそ、神様による人類の完全なる救いの働きなのです。だからこそ、終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなく、子羊の足跡を辿ることなのです。そうする人のみが神に心から忠実な人です。」

 神様の御言葉と姉妹の話を聞いた後、私の心はとても明るくなりました。私は嬉しくなって言いました。

 「では三段階の働きはすべて一つの神によってなされましたが、それはただ異なる時代にあったので、働き、神様の御名、そして神様が表現される性質もそれぞれ同じではなかったということですね。神様は私たちをサタンの支配から完全に救い出すために三段階の働きをなさっただけですね。神の国の時代における全能神の働きは、主イエスの働きを土台に築かれていて、それはさらに高次の新しい段階の働きであり、私たちが全能神の新たな働きを受け入れる限り、罪深い本性を脱却し、清らかになり、神様に救っていただけるのですね。全能神を信仰することは主イエスに背くことではなくて、神様の新たな働きに付いて行って、主をお迎えするということだと今回は理解できます」

 これを聞いたリー姉妹は嬉しそうに言いました。

 「そのような理解が得られるのは神様のお導きです。主に感謝します!神様は終わりの日に人間を清めて救うために受肉され、すべての真理を表され、神が人類を救う六千年の経営計画の奥義を明らかにされました。神様は人類を救う三段階の働きの目的、受肉の奥義、サタンはどのように人類を堕落させたのか、神様はどのように人類を救われるのか、人類の最終的な終着点とは何なのか、私たちは救われて天国に行くにはどのように探求すべきかなどの真理のすべてを私たちに教えてくださいました。真理を愛し神様の御声を聞くことができる人々は、神様の御言葉からそれが主の御声であることに気づき、神様の玉座の前に立ち返ることができます。真理を求めることで、私たちは清らかになり、神様に完全にしていただくことができます。しかし、真理を愛さず終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れず、依然として終わりの日のキリストに抵抗して非難する人々は、災難に遭い、涙しながら悔しさのあまり歯ぎしりすることになります。その人々はさらけ出され、排除されます。神様はこのような実際的な働きによって人々をそれぞれの種類によって分類し、最後には善人を報い、悪人を罰されます。神様の経営計画における働きはすべて神様御自身が実行なさり、その代わりをすることは誰にもできないのです」

 ヤン兄弟が神様の御言葉から二節を読みました。「もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

 「三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

 ヤン兄弟は言いました。

 「三段階の働きを知ることは、私たちの信仰において最大のビジョンであり、神様を知る唯一の道でもあります。もし神様の三段階の働きを理解しないままであれば、あるいはもし働きの一段階をとおしてのみ神様を知らずに、神様は単に人類の罪を贖い恵みを与えてくれるだけの神様であるとか神様の御名はイエスだけであるなどと信じていたら、私たちはおそらく神様というものを勝手に定め、神様を自分たちの観念と想像の中に制限してしまうことになります。これはちょうどユダヤ教の司祭長、律法学者、パリサイ人が傲慢にも自分たちの観念と想像を頼りに主イエスの働きを決めつけて、「メシア」と呼ばれないのなら神であるはずがないと信じたのと同じです。彼らはあらゆる機会を利用して主イエスに抵抗し、非難し、最終的には主を十字架に釘付けにするという最も凶悪な罪を犯して神に罰せられました。これはイスラエルの民が二千年近くにも渡って国を失うという事態を引き起こしたのです。現在、宗教界の牧師、長老、司祭、指導者たちの多くは神の働きを認識せず、それぞれの傲慢な本性を頼りに自分たちの観念と想像に執着して、全能神の働きに抵抗し、非難を向けています。彼らはパリサイ人が犯したのと同じ過ちを犯しているのではないでしょうか。神様の三段階の働きのビジョンを認識することができなければ、私たちは宗教界の司祭や指導者に従って神様の働きを裁き、非難し、神様に反抗することをしやすくなってしまいます。これは極めて深刻なことで、確実に神に救われる機会を逃すという結果を招くでしょう」

 神様の御言葉とこの兄弟の話を聞いた後、私は興奮して言いました。

 「今、本当に理解できました。人類を救うための三段階の働きを行なえるのは神様御自身のみで、神様の三段階の働きを理解していないと私たちは自分の観念と想像をもって神様の働きの範囲を決めつけて、神様に抵抗することしかできず、神様の再臨による救いを逃す可能性が極めて高くなってしまうということですね。ということは、私のこれまでの神様への信仰は無駄ではなかったのでしょうか。私は神様に認めていただけないだけでなく、神様を信仰しながらも神様に抵抗する人になってしまいました。考えるだけでもゾッとします。私は謙虚で従順な人になって、自分の観念と想像を捨てて、急いで終わりの日の全能神の働きを考察して受け入れなければなりません」

 私がこう言うのを聞いた母は喜びを込めて「その通りよ!」と言いました。私の姉と他の兄弟姉妹たちも嬉しそうに私に拍手をしてくれました。

 その後、私は積極的に全能神の御言葉を読み、全能神教会ウェブサイトで福音映画を観賞し、兄弟姉妹と集会を開いて一緒に全能神の御言葉を読み、神様の御言葉についての自分たちの理解を話し合うようになりました。神様が肉として現れて働きをされることの奥義、神様はどのようにして裁きの働きをなさるのか、そして神様が御名をお変えになることの意義など、私の以前の信仰生活では分からなかった真理をたくさん徐々に理解できるようになりました。集会に参加したり、全能神教会の福音映画を見ることで、神様の新たな働きをもはや疑うことはなくなり、神様との関係もどんどん近くなっているように感じました。私は心の中でもどんどん解放されていく気がして、全能神は本当に主イエスの再臨であることを確信しました。私が全能神の福音を受け入れてからまだあまり時間は経っていませんが、その期間に今までの二十数年の神様への信仰生活で理解した以上の真理を理解していると感じます。私をお救いくださった神様に感謝します。



キリスト教徒映画「いつも誠実な心を」クリスチャンは職場で神様に栄光をもたらす

2019-07-28 20:50:47 | キリスト教映画

王欣宇と彼女の夫は衣料品店を経営し、最初は誠実で良心的に店を切り盛りしようとしていますが、あまり儲からず、生活が大変苦しくなります。一方、同輩たちは嘘や詐欺で商売を成り立たせており、夫妻は彼らがそうして車や家を買って贅沢な生活を送っているのを見ると、「取り残されるものか」と決心します。同輩たちに唆されて社会の風潮に従い、嘘とぺてんによる商売を始めます。数年経つと、いくらかお金ができても良心は不安になることが多く、心は空っぽな気分です。そんな中、終わりの日の神の福音を受け入れ、神の御言葉を読むことで、神が正直者を好み、不実な者を忌み嫌われることを知り、正直者が神の祝福を受けることを学びます。しかし同時に、世界の悪と闇を目の当たりにし、「誠実に商売しても金にならないのではないか。むしろ金がなくなってしまうのでは」と懸念しますが、尚も嘘とぺてんで顧客を欺き続ければ、「これだから神に嫌われるんだ」と自覚します。…幾度かの奮闘と失敗を経て、最後には神の御言葉通りの正直者になることを選び、神からの祝福に驚嘆します。商売はもちろん繁栄し、正直者であることによる平和と安心も享受するのです。



ヨハネの黙示録における「書き加えるな」という箇所の意味

2019-07-27 18:42:50 | 聖書と神

 自動車のクラクションの「ビ4ーッ、ビーッ」という鋭い音が狭い路地で鳴り響いたため、徐敏は考え事から我に返りました。振り向くと、「私ったら、牧師が今朝言ったあのことを考え込んでぼーっとしている間、後ろの車の邪魔になっていたのに気づかなかったのね」と悟りました。急いで謝って、車を通る場所ができるように横に移動したので、そこには彼女の細身の姿だけが残りました。冬の寒さもまったく平気であるかのように、彼女はゆっくり歩きました。

 やがて彼女はまた考え込みました。ここ数年の間に、教会がますます荒れ果て、兄弟姉妹の信仰と愛が次第に消えつつあり、彼女自身も霊的な闇と弱さをますます感じていました。何度も涙を流して主イエスに呼びかけましたが、主の臨在は感じられませんでした。これは彼女にとって非常に辛いことでした。また、様々な教会を何軒か回りましたが、収穫はありませんでした。それでも主の臨在を感じられなかったのです。そんな中で、親友が彼女に本を送り、「主が再臨して新たな言葉を発せられた」と伝えてくれました。彼女は大変喜び、これを求めて学ぶのが待ち遠しくなりました。この本は読めば読むほど、「とても実際的で、人々の神への信仰での多くの誤りを正してくれる」と感じたのです。読むと心が明るくなり、素晴らしい霊的な享楽を得ました。「これらの言葉は普通の人には語れるはずがない。きっと聖霊の啓きから来たのだわ」と信じたのです。しかしその日、このことを知った牧師が、彼女にそれを学ぶのをやめさせようと何度も何度も試み、言いました。「こう書かれている。『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる』(ヨハネの黙示録二十二章18~19節)。

 聖書黙示録における「書き加えるな」という箇所の意味

 黙示録には、聖書には何も加えたり取ったりしてはならないとある。主が再臨して新たな言葉を発したなどと証ししている者たちがいるなら、それは聖書に何かを加えていることになる。だから、そんな主張はどれも絶対に学んではならない。そうすれば主への裏切りになる。」

 これを聞いて徐敏は少し怖くなり、どうすべきかわかりませんでした。心が重く、きつく縛られたように感じました。

 帰宅してからもまだ腑に落ちなかったので、彼女は友人に電話して自宅に招き、交わりを共にしました。友人が徐敏の家に来たとき、二人であれこれと歓談してから、徐敏は自分の困惑を打ち明けました。

 友人はこう答えました。「聖書に『もしこれに書き加える者があれば…』とあるからといって、主が再臨されたときの働きや言葉に関ることを一切敢えて学ばないのは本当に混乱を招くわね。というのも、私たちは黙示録のその箇所を純粋に理解していないのだから。その本当の意味を理解すれば、あなたの混乱は解決できる。でも、この問題をはっきり理解するには、まず黙示録のこの言葉の背景を知らないといけない。実際、黙示録が書かれたのは主の時代から約九十年後だった。パトモス島でヨハネが終わりの日のまぼろしを見た後、それを記録した。当時は、旧約聖書と新約聖書を1冊の本にした全聖書どころか、新約聖書が存在しなかったのよ。

 新約聖書がまとめられたのは、主の時代から三百年後だった。だから、黙示録22章18節と19節で触れられている「この書」は、聖書全体のことではなく、黙示録でのその預言のことだった。それにもう少し細かく見てみると、この聖句で言われているのは、聖書ではなくてその預言に何かを書き加えるということなの。この二つの事柄からわかるのはつまりこういうことね。何も加えるなと言っているのは、『聖書の外には神からの新たな働きや言葉がない』という意味ではなく、『黙示録の預言には恣意的に何か加えたり取ったりしてはいけない』と説いているのよ。」

 これを聞いて、徐敏は急いで聖書を手に取って黙示録のページにめくり、それがまさにそうであると知りました。 黙示録には、その預言に何も書き加えてはならないとはっきり述べられていますが、聖書全体に何も書き加えてはならないとはありません。その聖句に基づいて、「聖書の外で神からの更なる言葉などがあるはずがない」と断定するのはまったく適切ではなかったのです。それは何と、一目瞭然でした。彼女にそれまでわからなかったのはなぜでしょうか。

 友人は続けて言いました。「それに、私たちは黙示録のこの言葉の本当の意味をはっきりさせる必要がある。『もしこれに書き加える者があれば…』と書かれているけど、私たちにはこれが人間に対する警告であることが分かる。人間は預言に何も加えてはいけない。なぜなら、預言とは神ご自身が将来なさる事柄だからよ。だから神ご自身が働きに来られるまで、預言が実際にどのように成就されるかは人間にはわからない。もし人間がこの土台の上に自分の観念を恣意的に重ねたりしたら、神の御言葉を歪め、神の性質を侵し、神の罰を受けることになる。黙示録のこの言葉は神ではなく私たち人類を対象としていたことを私たちは知っておかないといけない。神は創造主で、すべてが神の手の中にある。預言の範囲外でご自身の働きをする権限があり、これはどんな創造物にも妨げられるはずがないことだし、創造物にはこれを勝手に制限することはできない。例えば、聖書の申命記12章32節には、『あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない』とある。

 ここではヤーウェ神が、神の命令に何も加えてはならないと私たちに明確に仰っているけど、恵みの時代の主イエスの働きと言葉は聖書には記録されていないし、律法の一部の要求と全く違ってさえいた。たとえば、律法の時代には『目には目を、歯には歯を』と求められたけど、主イエスが働かれていた時、主はこう仰った。『「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい』(マタイによる福音書五章38~40節)。

 それに、ヤーウェ神は律法の時代の人々に敵を憎めと仰ったけど、恵みの時代に主イエスは仰ったのはこうだった。『しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ』(マタイによる福音書五章44節)

 旧約聖書に執着した人々が見るかぎり、主イエスが仰ったことの多くは律法の枠を外れていて、律法への付け加えだったので、彼らは主に従わなかった。特にパリサイ人は、主イエスを断罪するために旧約聖書の律法に固執し、聖霊を冒涜するというとんでもない罪を犯した。それは人間側の大きな反抗ではないかしら。

 神が何も加えたり取り除いたりしてはならないと御言葉で仰っているのは、人類に対する要求なのよ。神の御言葉の要求をどうして私たちが神御自身に課すことができるのかしら。神は万物の支配者で、神の働きは御自身の計画に従ってなされる。それはどんな人にも制約されないし、聖書の言葉に限定されることもない。」

 そう言った後、彼女はタブレットを取り出して、器用にウェブページを開き、続けました。「これは福音サイトの文章よ。『新約の時代にイエスの行った働きは新たな働きを開いた。イエスは旧約の働きに沿った働きはしなかった。また、旧約のヤーウェが語った言葉に従わなかった。イエスは自分の働きをし、新たな働きをし、律法よりも上位の働きをした。そしてイエスは言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」だから、イエスの成就したことによって、多くの教義は廃棄された。イエスは弟子たちを連れて麦畑を通り、麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。当時、イスラエル人の規則によると、誰でも安息日を守らなかった者は石で打ち殺された。しかしながら、イエスは神殿に入りも安息日を守りもしなかったし、その働きは旧約の時代にヤーウェがしなかったことだった。だから、イエスの行った働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、掟に沿ったものではなかった』

 神が規則を守られないことは明らかね。 どの時代にも、神は新たな働きをなさり、新たな言葉を発せられる。前の時代の法令にはとらわれない。御自身の働きの要求と、私たち人間が何を必要としているかに従って行動される。常に新たな言葉を発せられている。これだけが、人類をより高い域に引き上げ、私たちがサタンの力から完全に逃れて、最終的に神の救いを得られるようにする道なのよ。だから私たちは神の働きと言葉を聖書の内容に限定されていると考えてはいけないし、特に神の人間に対する要求に基づいて、神に『何も書き加えるな、取り除くな』と要求してはいけない。それに『聖書の外に神からの新たな言葉などありえない』と断定してもいけない。そうではないかしら。」

 徐敏はうなずきました。友人からこのことを聞いて、彼女はこの上なくはっきり理解できたのです。 黙示録で、何も付け加えるな、取り除くなと言われているのは、「人間が神の御言葉をいたずらに削除したり追加したりしてはならない」という事実を指しているのであり、神自身がその後さらに言葉を発してはならないという意味ではなかったのです。 もし人々がその箇所の純粋な理解に欠けて、自分たちの不条理な観念に固執した上に、それによって神の働きを限定すれば、恐らく神の性質を侵してしまうのではないでしょうか。それに気づいた徐敏はひどく冷汗をかきました。パリサイ人は旧約律法に固執し、主イエスの言葉が律法につけ加わえていると考えたため、主が人々を惑わしたと結論付けしました。彼女はパリサイ人が犯したのと同じ間違いを犯すのをかろうじて免れたのです。

 友人は続けて言いました。「ヨハネ福音書16章12節と13節で言われていることを覚えているかしら。」

聖書黙示録における「書き加えるな」という箇所の意味

 徐敏はためらわずに言いました。「覚えている。 私たちがよく暗唱した箇所でしょう。主イエスは言われた。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書十六章12~13節)」

 友人は続けて言いました。「この聖句では非常にはっきり述べられている。神は終わりの日に戻られた時、もっと多くの言葉を発することで私たちを潤し養って、私たちがすべての真理を理解してそれらに入れるようにしてくださる、とね。黙示録にはこういう預言もある。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』(ヨハネの黙示録二章17節)、『わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」』(ヨハネの黙示録五章1~5節)。

 ここで触れられている『御霊が諸教会に言うこと』『隠されているマナ』、開かれる七つの封印の巻物などはすべて、神が終わりの日に戻られたときにもっと多くの言葉を発し、もっと多くの働きをなさることを証明している。神は私たちがこれまで理解したことのない奥義をすべて明らかにしてくださる。

 ということは、私たちは『もしこれに書き加える者があれば…』という言葉を理由に、「聖書の外にあるものはどれも神の御言葉ではありえない」なんて本当に結論付けられるのかしら。こうも書かれているわ。『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う』(ヨハネによる福音書二十一章25節)

 この聖句からも、『主イエスが働いている間に多くのことを語られ、多くの御業を行われたこと』と、『聖書に記録されていることが限られている』ことがわかる。主イエスの言葉と働きがすべて記録されているわけではないのよ。主イエスの働きと御言葉のすべてすら聖書に記録されていないのだから、私たちが『聖書の外にあるものは神の御言葉ではありえない』と言うのは、主御自身の御言葉と御業を否定することにならないかしら。」

 これを聞いて、徐敏は興奮のあまり立ち上がって言いました。「あらあら、私は毎日聖書を読んでいたのよ。どうしてこの奥義に気づかなかったのかしら。あなたの交わりのおかげで、自分の中でどんどんはっきりしてきたし、もう完全に分かったわ。聖書に記録されている神の働きが限られていて、神の働きと御言葉の完全な記録ではないことがね。それは主イエスの働きと御言葉の完全な記録ですらない。主イエスが三年余り働かれていたことを考えると、主がある特定の日に仰ったことは、現在聖書に記録されていることよりもはるかに多かったでしょうね。主は終わりの日に戻られるとき、新たな働きを行い、新たな言葉を発せられる。これは否定できない事実で、預言にとてもはっきり書かれている。人間は神の働きを決して限定することはできないし、特に神を聖書の範囲内で定義することはできないことは今の私にはわかる。真の道を探るときは特に、私たちは主をお迎えするために本当に聖霊の導きに従って、広い心でそれを求めて学ばなくてはならない。さもないと、パリサイ人のようになってしまう。彼らは聖書の文字通りの言葉にこだわったために、神に逆らって最後には滅ぼされた。そんなときに後悔しても遅すぎるわ。」

 友人は微笑んでうなずきました。「その通りよ。私たちは子羊の足跡について行きたいなら、義に飢え渇く心と、真理を求める心を保たなくてはいけない。自分たちのどんな観念や想像にも妨げられてはいけない。それだけが、終わりの日の主の現れをお迎えし、賢いおとめとなって、神の御座の前に携挙される道なのよ。主イエスが仰った通りね。『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。…義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。…心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう』(マタイによる福音書五章3、6、8節)徐敏は激しくうなずきました。混乱がすっかり晴れて、信じられないほどうれしく感じました。 彼女たちが交わりを続けている間、二人の幸せで快活な笑い声が時々外に漏れました…