賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

幸せな結婚生活は神の救いを受け入れて始まる

2020-02-29 14:21:28 | 信仰生活

   私は美容師で夫は農業をしています。私たちはマレーシアで、オレンジを投げる伝統行事にて出会いました。これは良縁を求める女性のための行事です。一年後、私たちの結婚式は牧師の立会のもと、教会で執り行われました。私はその牧師による私たちの婚姻のための祈りにとても深く感動しました。私は信心深くありませんでしたが、声に出さずに神に懇願しました。「この人がずっと変わらず私を慈しみ、私を大切に思ってくれますように。そして一生私の伴侶でいてくれますように」

 

 

   結婚生活が始まると、夫婦間の対立がひとつまたひとつと生じてきました。夫は毎朝四時に家を出て野菜を売りに行き、午後七時までは帰宅せず、私は午後十時過ぎまで仕事が終わりません。私たちは一緒に過ごす時間がほとんどありませんでした。疲れきった体を引きずって帰宅するたびに、私は夫から気遣いや思いやり、理解を少しでも受けられたらと強く願っていました。仕事はどうだったか、楽しかったかどうか、夫に尋ねてほしかったのです。しかし残念なことに、私が仕事から帰ると夫はほぼ毎回テレビを見ていなければ携帯電話をいじっていて、私にお帰りとすら言わないこともありました。私が存在すらしていないかのようでした。私はこれに本当に落胆して、次第に夫に対して不満を募らせていきました。

   あるとき私はお客さんと意見の行き違いがあり、とてもいら立ち、不当な扱いを受けたと感じていました。帰宅後、そのことを夫に愚痴りました。夫が私を慰めてくれるだろうと期待していたのです。しかし驚いたことに夫は携帯電話をもてあそびながら、ただ私に気づいてうなずいただけで、私に意識を向けないではありませんか。うなずいた後はすぐにうつむいてまた携帯電話を見始めました。夫の私に対する完全な無関心に我慢できず、私は夫に向かって怒鳴りました。「あなた石でできてるの?話さえできないの?誰かのことも気に留めるってことある?」ひどく怒る私を見て、夫は答えるのを拒否しました。夫に無言でいられればいられるほど、私の怒りはヒートアップしました。私は夫をしつこく責め立て、何か言わせてやろうとすっかり躍起になっていました。思いがけず夫が突然「まだ言い足りないのか」と怒鳴り返してきました。これで私は余計に怒りを感じ、さらに不当に扱われたと思い、夫にわからせようと話し続けました。結局、夫は何も言おうとしないため、私たちの口論は話になりませんでした。また別の時に、職場であった腹立たしいことについて夫に愚痴を言って、夫が私の気を楽にしてくれることを期待したことがありました。しかしその代わりに夫の返事はぶっきらぼうで氷のように冷たかったのです。「どっちもどっちだろう。君は他人の問題しか見えてないんだな。なんで自分のことを省みないんだ?」私は瞬間的に不機嫌になり、一言言ってやらずには気がすみませんでした。憤りで頭がいっぱいになり、思いました。「この人どんな人種なの。私、なんでこんな人と結婚しちゃったの。私の気持ちをこれっぽっちも考えないじゃない。一言だって私を慰めようとしない」この時から私は、職場でのことを夫に話すのをほとんどすっかりやめました。しばらく後になって夫は私に仕事のことを訊こうとしてきましたが、私は夫に注意を向けたいとは決して思いませんでした。夫は次第に私に質問するのをやめていきました。私たちの間には共通の話題がどんどんなくなっていき、失望するような出来事が起こると、私は耳を貸してくれる友達に当たってみるのでした。時には遅くまで外で話し込み、夜半過ぎまで帰宅しないこともありました。それほど遅くに帰宅しても、夫は私を気遣う様子など見せず、ただ「うちをホテル扱いしてるみたいだ」と言うのです。私はひどく気分を害し、夫への不満が大きくなり、私たちはしょっちゅう口げんかするようになりました。二人とも苦しんでいました。私はこれ以上こんな生活を続けたくないと思い、夫ときちんと話せるチャンスを見つけようと決めました。

   ある日の夕食後、私は夫に頼みました。「私のこと本当に我慢ならないんでしょ。どうなの。どうして私のこと少しも気にしてくれないのよ。私のことで何か問題があるなら直接言ってよ」夫が何とも答えないので、私は夫に迫り続けました。すると驚いたことに夫はいら立って私に怒鳴ったのです。「そんな質問をするのはやめろ。君とのことは全部が問題だよ。うんざりなんだよ」こんな風に言い返され、私は怒りで頭に血が上り、私たちはまた言い合いを始めました。何か言っては言い返されるというように、しばらく口論を続けていましたが、最後は夫が立ち上がり私をドンと押しました。私はバランスを崩し、ソファに倒れ込みました。夫が私に手を挙げたことに、私は胸が張り裂けそうでした。「これがあんなに慎重に選んだ夫?これが私があれほど望んでいた結婚?この人はどうして私をこんなふうに扱えるんだろう」この時から私は夫に何かを期待するのをやめました。

   2014年4月、ほんの偶然から、ある姉妹が私に主イエスの福音を分かち合ってくれました。姉妹は主が私たちを愛していて私たちを救うために十字架にかけられたのだと言いました。私は主の愛に心から感動したので、主の福音を受け入れました。その後、私は牧師に結婚生活の問題について話したところ、牧師は言いました。「私たちは、まず自分自身が変わらない限り、他の誰も変えることはできないのです。主イエスの例に倣い、他者への寛容さと忍耐強さを実践すべきなのです」それで私は自分自身を変えようとし始めました。仕事が終わるとすぐに帰宅し、家を掃除し、時には夫が私を無視するとかっとしそうになりましたが、寛容さと忍耐強さを私にお授けくださるよう主に祈りました。自制心を失って夫と口論を始めてしまった時には、その口論を丸く収めようと私の方から働きかけました。私に起こった変化を見て、夫も主を信じるようになりました。双方が信徒になると、口論は減り、意思の疎通が増えました。主が直接私たちをお救いくださったのがわかり、私は主への感謝でいっぱいになりました。

   しかし時は流れて、私たちはなお自分の感情をコントロールできずにいました。家庭内不和はまだ時々起こり、そして特に一人が不機嫌だともう一人も寛容さと忍耐強さを実践することができず、結果として私たちの口論は激しさを増していきました。口論の後は毎回、私は心が痛み苦しくなりました。そして主に祈りました。「主よ、寛容で忍耐強くなるようにと教えてくださいますが、私はどうしてもそうできないようです。夫が私の嫌なことをするのを見ると、夫への不満が本当にひどくなります。主よ、私はどうすべきなのですか」その後、私は実践の道を見つけたくて教会が主催するあらゆる勉強会に参加し始めました。しかし望んでいたものは得られませんでした。グループのリーダーに助けを求めても、ただこう言うだけです。「妻と私もしょっちゅう口論しますよ。パウロでさえ『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』(ローマ人への手紙7:18)と言っていますしね。たえず罪を犯しては告白するというサイクルに直面した私たちの問題の解決法を誰も持っていません。私たちにできるのは、主に祈り、憐れみくださいとお願いすることだけです」それを聞いて私は途方に暮れました。対立の泥沼にはまったまま二人とも残りの人生を過ごすのが運命だ、ということなのでしょうか。

   2017年3月、これまでずっと無口な人だった夫が突然、生き生きとした話し好きになりました。それに加えて聖書に書いてあることで自分が理解したことを、たびたび私と分かち合ってくれるようになりました。さらに驚いたことに夫の話は本当に光に満ちていたのです。私は不思議に思いました。夫が突然別人になったかのようだったからです。それに夫の言うことは本当に識見に飛んでいました。私は一体何が起こっているのか知りたいと強く思いました。ある日、夫があるSNSのグループのメンバーだと偶然に知り、すぐに夫に仲間とどんなことを話しているのか尋ねました。夫はとても真剣な面持ちで、終りの日の全能神の働きのことを検討しているのだと、主イエスが既に再臨されていて、それが全能神なのだと言いました。夫が言うには、全能神は既に何百万語もの御言葉を発せられ、終りの日における人類の裁きと清めの働きをされているとのことでした。また、それは聖書の預言「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙4:17)を完全に成就していると言いました。神の出現と働きを求めるなら、自分の観念と想像に盲目的に執着するのではなく、神の御声を聞くことに集中しなければならない。真理を追求せずにただ神の啓示を消極的に待っていたら、主の再臨を歓迎することはできないだろう、とも言うのです。これを聞いて私は衝撃を受け、信じられない気持ちでした。その後、私はかつてインド人牧師が言っていたことをふと思い出しました。神の再臨のことを耳にしたら、心を開いて真剣に吟味して求めるべきだと。自分の観念と想像を頼りにして盲目的に物事を決め付けてはいられないのだと。そこで私は主に祈りました。「主よ、もし全能神が本当に再臨された主であるなら、心を開いて真理を追求し、このことを吟味できるよう、どうか私をお導きください。そうでないならば、私が主から逸れないよう、私の心をお守りください。アーメン」

   こう祈った後、聖書を開くと、ヨハネの黙示録3章20節にこうありました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これは私によって突然の天啓の瞬間で、主が私に話されている、再臨したらあなたの戸を叩こうと仰っているのだ、と感じました。主の声に耳を傾けて戸を開けよという主のご指示だと感じました。それはまるで聖書にある花婿の声を聞いて花婿を迎えに急いだ賢いおとめたちのようでした。それから私はヨハネによる福音書16章12-13節のことを考えました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」聖書のこのような節について熟考していると、高揚感が湧き上がってきました。主が遠い昔に、ご自身の再臨に際し私たちにさらに多くの御言葉を発し真理を授けてくださると教えてくださっていたのだと気づきました。そして終わりの日の全能神の働きは、人類を裁き清めるために御言葉を発せられることです。全能神は本当に再臨された主イエスなのだろうか。もし主が本当に再臨され、人類のあらゆる困難を解決するために真理を表されているなら、罪の束縛から逃れる希望があります。ならば私と夫の間の問題も解決できるのではないでしょうか。私はすぐさま、全能神教会の兄弟姉妹と連絡を取らせてほしいと夫に頼みました。私も終わりの日の全能神の働きを吟味したいと思ったのです。

   集会では全能神教会の兄弟姉妹が聖書からいくつか節を選んで、真理のさまざまな側面について私に話してくれました。それは主の再臨の仕方、主の新しい名前、主がどのような働きをなさるのか、といったことでした。兄弟姉妹の説教はとてつもなく説得力があり、私には全く新しいものでした。私は終わりの日の神の働きについてもっと知りたいと切望したので、何度も何度も神に祈り、神の御言葉を理解できるように私を照らしてくださいとお願いしました。神の御言葉を読み、兄弟姉妹の説教を聴くことにより、私は次第に人類を経営する神の目的、人類を救う神の働きの三段階、人類の結末と終着点について、次第に理解するようになりました。終わりの日の神の働きについて調べている間も、私はごくごく些細なことでいまだに夫と言い争ってしまうことがあり、その後でひどい罪悪感に苛まれ動揺し自問しました。「なぜ私は神の御言葉を実践できないの」私は当惑したままでした。集会で、私はある姉妹に質問しました。「私と夫はなぜいつも口げんかしてしまうのでしょうか。なぜ平和に仲良くやっていけないのでしょうか」姉妹は神の御言葉の数節を私のために見つけてくれました。「人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

   姉妹はそれから、説教をしてくれました。「最初、アダムとイブはエデンの園で神の御前にて幸せに暮らしていました。口論などありません。苦しみもありませんでした。しかしヘビの言うことを聞いて善悪の知識の木になる実を食べた後、彼らは神からどんどん離れ、神を裏切り、神によるお世話と保護を失ってサタンの権力下で生きるようになります。悲しみと苦しみの日々の始まりです。これが今日まで続いているのです。そして私たちはサタンによりどんどん深く堕落しています。私たちは堕落したサタン的な性質に満ちています。私たちはとてつもなく傲慢で利己的で嘘つきで、強情です。あらゆる物事において自己中心的で、常に人に自分のことを聞かせたいのです。だから闘ったり殺し合ったりするのです。親子、夫婦ですらお互いへの寛容さと忍耐強さを持たず、互いに調和して仲良くやっていくことができないでいます。私たちには最も基礎的な良心と理知さえも欠けているのです。主イエスが私たちを贖ってくださり、私たちが主に祈り、告白し、悔い改め、頑張って主の教えに従ってもなお、私たちはどうしても罪を犯し神に背いてしまいます。これは主イエスが人類を贖うという働きのみをされたからなのです。主イエスは人類を完全に救い清めるという働きはなさいませんでした。主イエスの救いを受け入れることは、ただ、もはや私たちに罪はなく、祈りにおいて主の御前に来て、主の憐れみを受けて罪を許される機会があることを意味するだけです。でも、私たちの堕落した性質はまだ清められていません。私たちの罪深い本性はまだ私たちの中に深く根付いたままです。私たちにはまだ、終わりの日に主が再臨なさり、人類を清め変容させる段階の働きを行なうことで私たちの罪深い本性の問題を解決していただくことが必要なのです。そして今や神は再び受肉され、私たちを堕落した性質から完全に救い、サタンの影響から逃れさせて完全に救うために、裁き清める働きを行うための御言葉を発せられています。神の新しい働きに遅れずついていき、神の御言葉の裁きと罰を受け入れ、真理を追求し、神の御言葉を実践する限り、私たちの堕落した性質は次第に変容します。これが真の人の似姿を生きられる唯一の道であり、そうすることで初めて他者とのかかわり合いにおいて調和を実現できるのです」

   神の御言葉と姉妹の説教から、私はようやく気づきました。私たちが罪を犯しては告白するという状況に常に生きているのは、主イエスが人類を贖うという働きはされても、私たち信徒の罪が赦されただけで、私たちの中の罪深い本性は非常に深く揺るぎなく存在しており、私たちのサタン的な性質はまだ清められていないからなのです。その好例が、私が主の教えに沿って忍耐強さと寛容さを実践しようとしても、夫が私の嫌な言動をするやいなやどうしても腹を立ててしまうことです。どうしても自分を制御できないのです。私たちを救う神の働きなくして、自身のサタン的な堕落した性質を自身の努力だけで拭い去ることは不可能です。そして今、人類を裁き清める働きを行なうために神が再び受肉されました。神の新しい働きを受け入れ、真理を本当に追求することで、私たちには性質の変容を達成する機会があります。私は御声を聞かせてくださった主の憐れみに心から感動し、とてつもなく感謝しました。しかし私にはまだわからないことがありました。神が私たちを清め変容させる目的で御言葉を発するために今回再臨されたのはわかりましたが、どうして御言葉が私たちの堕落した性質を裁き清めることができるのでしょうか。そこで私は自分の混乱を説明しました。

   姉妹は、神の御言葉の別の一節を読んでくれました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

   姉妹はさらに私と説教を分かち合ってくれました。「神の御言葉は、神がどのように裁きの働きをされるのか明確に私たちに説明しています。神は人類を裁き清めるために御言葉を使われるのです。神は御言葉によりおもに私たちの堕落した本性と本質、サタン的な性質を直接明らかにされ、細かく分析されます。また、どのように神に服従し神を崇拝すればよいのか、正しい人としてどう生きればよいか、どのように真理を追求し、性質の変化を達成すればよいか、どうすれば正直な人でいられるか、そして神が何を人に望まれ要求されるかを明確に説いてこられました。神はどのような人を好まれ、どのような人を排除されるか、また他に多くのことも告げられてきました。また、私たちを刈り込み取り扱い、試し、精錬するための人々、出来事、物事、環境を準備されます。こうして私たちの堕落した性質が明らかにされ、私たちは神の御前に行き真理を追求し、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、自らを顧み、自らを知ることを余儀なくされます。神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れると、まるで神が私たちと面と向かって生き生きと話されているように感じられるのです。そこで神に対する私たちの不従順と抵抗、私たちの不正な動機、私たちの観念と想像を余すところなく明らかにされます。それで初めて私たちは自らの本性と本質が傲慢さとうぬぼれ、欺瞞、腹黒さ、身勝手さ、卑劣さに満ちていることを知ることができます。私たちは神への畏敬の心が全く欠けていること、サタン的で堕落した本性に完全に基づいて生きていること、露呈するものすべてがサタン的性質であること、ただただ人の似姿に欠けていることを知るのです。すると自分を憎み始め、心から自分を嫌悪し、これ以上サタンの影響下で生きていたくないと、サタンにもてあそばれ傷つけられるのはもうたくさんだと思います。何よりも、神の裁きと刑罰をとおして神の神聖な本質と罪を一切許容しない神の義なる性質とを知ります。神への畏敬の心が私たちの中で生まれ、神に御満足いただくために真理を実践しようと意欲的になります。ひとたび真理を実践し始めると、神の善に満ち憐れみ深い性質が私たちに明かされます。神の御言葉を読み続け、神の裁きと刑罰を経験し続けることにより、自身の堕落した本性についての認識を深め、神が表現される真理をさらに認識し、神の裁きと刑罰を受け入れ服従すること、肉を見捨て真理を実践し神に満足していただくことをさらにいとわなくなります。堕落の露呈が減っていき、真理を実践するのがどんどん容易になり、神を畏れ悪を遠ざける道へと次第に歩みを進めていきます。神の御言葉による裁きと刑罰を経験すると、これが堕落した性質から私たちを救い癒す万能薬であることを誰もが心から確信することができます。これが私たち堕落した人間に対する神の至高の真の愛であり、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければ、真の人の似姿を生きることは決してできません」

   神の御言葉と姉妹の説教は、私にとってとても大きな衝撃でした。終わりの日の裁きと刑罰という神の働きは本当に実際的だと思い、また自分の堕落した性質が変容するよう願うなら、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければならないのだと思いました。そうでなければ、罪を犯しては告白するという循環の中に永遠に生き続け、罪の束縛から決して逃れられないのです。ですから心の中で神に祈り、御言葉で私を潤し糧を与えてくださいと、そして自分自身を知り、堕落した性質が近い将来変容して真の人の似姿を生きられるように私を裁き罰する環境を整えてくださいとお願いしました。

   終りの日の神の働きを受け入れた後、私はまた神が私のために整えてくださったこの結婚について、新たな認識を得ました。ある時、ある姉妹が私のために神の御言葉の数節を読んでくれたのです。「人間は、自分が結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱き、その幻想は全て美しい。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような者と結婚することを想像する。こうした空想により、人間には、それぞれに結婚の条件、数件の要求事項、基準事項があることが示される。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 3」より)「結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 3」より)「したがって、ある者が結婚した場合、その者の人生の旅路は、その者の配偶者に関与して影響を与え、同様にその者の配偶者の人生の旅路はその者の人生の運命に関与して影響を与える。換言すると、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことが出来る者はいない。人間の出生は、極めて幅広い関係の結びつきに影響を与える。また、成育にも複雑な関係の結びつきが含まれる。それらと同様、必然的に結婚もまた、極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、維持されて、その関係に含まれる全ての者の運命に影響する。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 3」より)姉妹はそれから私と説教を分かち合ってくれました。「私たちの結婚はどれもがみな、神によって予定されていて、私たちが誰と家庭を持つかを神がずっと前に決められているのです。みな神ご自身の知恵により采配されています。神が私たちのためにお選びになった結婚は、私たちの社会的地位や外見や能力によるのではなく、両人の人生における使命により決定されます。しかし、私たちは自身の堕落した性質にコントロールされているので、たえず自分の片割れにたくさん要求し、いつも相手が物事を自分のやり方で行なってほしいのです。相手がそうしないと、私たちはそれを受け入れるのを拒否し、不満に感じます。相手と口論したり怒ったり、不平をぶつけたりもし、また神を責めたり誤解したりもします。こうして両人とも苦しんで生きることになります。この種の痛みは他の誰からももたらされるものではなく、神の支配や編成によるものでもなく、ただ私たちが傲慢でうぬぼれた堕落した性質で生きているがゆえなのです。このような堕落した性質により、私たちは神の支配に抗います。神の采配や編成に服従できずにいるのです」

   姉妹のこの説教を聴いて、私は夫との今までの関係を思い返しました。私はいつも夫に対し不満を露わにし、いつも私の思い通りにしてほしいと要求していました。夫が私のことを気にしていなかったり私に気遣いや思いやりをみせてくれないと、また私が幸福であるか知ろうとしてくれないと、夫に対し文句を言い、だめな人だなどと思っていました。私は夫をあらゆる面で見下し、冷戦をふっかけ、彼に注意を払うのを拒否していました。私はようやく、自分が実に傲慢でうぬぼれていて利己的で卑劣な人間だったとわかりました。自分の利益しか考えず、他人の気持ちを考えようとしない人でした。よくよく考えてみると、夫が私に思いやりがないなどというのは全く真実ではありませんでした。夫はただかなり内向的であまり感情を表さないだけだったのです。そして夫には独自の思いや好みがありました。それなのに私は夫がしたがらないことをさせようと躍起になっていたのでした。私はいつも夫に私を中心にして動き回ってほしくて、それが私たちの間であれほどの対立が起こった原因だったのです。私は自分の過去の振る舞いを後悔せずにはいられませんでした。また夫が言ったことを思い返せば、過去に主の福音を夫に伝えたのは私の方ですが、今度は夫が終わりの日の神の福音を私と分かち合ってくれたのでした。これは私たちへの神の偉大な御恵みで、神の素晴らしい編成でした。私たちは二人とも極めて恵まれていたのに、私には感謝の気持ちが一切ありませんでした。それどころか神が私のために手配してくださった結婚に自分を委ねようとせず、たえず神を責めていました。自分がどれほど傲慢でどれほど理知を欠いていたかがわかりました。御言葉で私を導いてくださった神に感謝します。私はこの結婚におけるあらゆる苦しみの根源を見つけました。そして心が楽になり力が抜けるのを感じました。またこの時から、傲慢でうぬぼれた堕落した性質を捨てるため、そして夫と仲良く暮らしていくため、私は生活において喜んで神に頼り、神に目を向けるようになりました。

   それ以来、夫と私はよく一緒に神の御言葉を読んだり真理に関して交わったりするようになり、被創造物として自らの能力の最善を発揮して本分を尽くしています。また、毎日神の御言葉により糧と潤いを得ています。問題に直面した時には、神の御言葉から神の御意志を求めます。堕落を露呈したり口論を始めたりすると、二人とも神の御前に進んで自らを顧みて自らを知ります。このように実践していると、お互いへの認識も赦しの心も育っていきました。口論の回数はどんどん減り、家庭生活は調和し、人生がどんどん充実してきました。私が一番感動したのは、夫が私よりも真理を認識していることです。夫はよく神の御言葉で理解したことについて私と説教を分かち合ってくれ、私の堕落した性質が見えた時には真理と神の御意志について話してくれます。私への夫の思いやりと愛を本当に感じ、心から幸せです。私たちの歩んだ道を振り返ると、いまだに私は私のまま、夫は夫のままです。終りの日の全能神の働きを受け入れ、いくらかの真理を理解してきた、ただそれだけで、何もかもがすっかり変わったのです。私たちをお救いくださった全能神に感謝します。


神が人類のために造った基本的な生活環境-気流

2020-02-28 22:44:05 | 聖書の奥義を開く

 

   5番目の物事は何であろうか。5番目の物事は、各人に深く関係している物事であり、それ無しでは、この物質世界で人体が生きて行けない物事でもある。それは気流である。「気流」とは、おそらくあらゆる者が理解する言葉であろう。気流とは何であろうか。あなたがた自身の言葉で説明して欲しい。(気流は空気の流れである。)そのようにも説明できるであろう。空気の流れを「気流」と呼ぶ。その他の説明する方法があるだろうか。「気流」という語は、何を意味するであろうか。気流とは、人間の目に見えない風である。またそれは、気体の運動形態のひとつでもある。それも正しい。しかし、ここで話をする気流とは、何であろうか。わたしが述べればすぐに分かるであろう。地球には、山や海などがあり、地球が回ると全てが回転し、回転時の回転速度がある。あなたがたが回転していると全く感じない場合であっても、地球は間違い無く回転している。この回転により、何が発生するであろうか。人間が走ると、何が発生するであろうか。走ると耳に風を受けないだろうか。(受ける。)その通り。人間が走った時に風が発生するのであれば、地球が回転した時に風が発生しないということは、有り得ない。地球が回転する時、万物は運動している。万物は運動し、一定の速度で回転しているが、それと同時に地上の万物は継続的に繁殖し、展開している。したがって、一定速度で移動すると、当然気流が発生する。これが気流である。この気流は人体に何らかの影響を及ぼすだろうか。(及ぼす。)影響を及ぼすであろう。地球全体が平野であったとしたら、地球と万物が一定の速度で回転した場合、人体は極めて小さいので、風力に耐えることが出来ないであろう。台湾と香港は、両者とも台風に見舞われる。台風はそれほど強力では無いが、台風に見舞われると、人間は立っていることが出来ず、風の中を歩くのに困難を感じる。1歩進むのも困難である。これは、気流が人間に影響を与える形態のひとつである。地球全体が平野であったと仮定すると、地球が回転した時に発生する気流は人体が耐えうるものでは無い。その気流に対処するのは、極めて困難である。この場合、気流は人間に危害を及ぼすだけでなく、人間を破壊してしまう。このような環境では、誰も生存出来ないであろう。そうしたわけで、神は様々な地理的環境を用いて、こうした気流を解消し、気流の方向や速度、威力を変え、緩和させる。山、山脈、平野、丘陵、盆地、峡谷、高原、川など、様々な地理的環境が見られるのは、そのためである。神はこうした様々な地理的環境を適用して気流の速度、方向、威力を変化させ、それによって気流を適切な風速、風向、風力へと変化させるので、人間は通常の生活環境を得ることができる。こうしたことを行うのは、人間にとって困難であると思われるが、神にとっては容易である。なぜなら神は万物を監督しているからである。神にとって、人間に適した気流のある環境を造ることは極めて単純かつ容易である。したがって、こうした神が造った環境において、万物のそれぞれが不可欠である。つまり、万物には、すべてその存在に価値と必要性がある。しかし、サタンと腐敗した人間は、こうした思想が無い。サタンと腐敗した人間は破壊と開発を続け、むやみに山々を平野へと換え、峡谷を埋め立て、そこに高層ビルを建て、コンクリートジャングルを造り出そうとする。人類が幸福に生活し、成長し、神が人間のために用意した、人間に最適な環境において人間が幸福な毎日を送ることが、神の願いである。人間の生活環境を扱う時に神が決して不注意でないのは、このためである。人間の生活環境と身体が自然条件に起因する障害の影響を一切受けず、人類が正常に生活し、繁殖し、万物と調和して共に正常に生活できるように、神は気温から空気、音、光にいたるまで、精緻な計画を立て、精緻な采配を行った。こうした事柄は全て神により万物と人間に与えられたものである。

 

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ヨブの証によって、後の世代に警告と啓きが与えられる

2020-02-27 00:34:31 | 聖書の奥義を開く

   神がある人を完全に自身のものとする過程を理解すると、神がヨブをサタンに渡したことの目的と意味も理解するようになる。ヨブの苦しみが理解できずに悩むことがなくなり、新たな意味を見出すのである。自分達も同じ誘惑に遭わなければならないのだろうかと心配することはなくなり、神からの試みを拒絶しなくなるのである。ヨブの信仰、従順、サタンに勝利したことの証しは、人々にとって大きな助けとなり、励ましとなる。ヨブを通して、自分自身の救いの望みを見出し、信仰と神への畏れによってサタンを打ち負かし勝利することが可能であることを見出すからである。神の主権と采配に従い、全てを失っても神には背かない決意と信仰があるならば、サタンを辱めてサタンに打ち勝つことができると知るのである。また、たとえ命を失っても、証しに固く立つ決意と忍耐力だけがあれば、サタンを怯えさせて退散させることができるのも知るのである。ヨブの証しは後の世代への警告である。つまり、後の世代がもし、サタンを打ち負かすことができなければ、サタンの非難と妨害から逃れることはできず、サタンの虐待と攻撃から抜け出すこともできないという警告である。ヨブの証しは後の世代に啓きを与えた。それにより、人々は、完全で正しくさえあれば、神を畏れ悪を避けることができることを教えている。つまり、神を畏れ悪を避けるならば、力強く生き生きとした神への証しを持つことができる。そして力強く生き生きとした神への証しを持つことができれば、サタンに支配されることはなく、神の導きと守りの中に生きることができる、そうして初めて真に救われるのだということを教えているのである。救いを求める者はだれでも、ヨブの人格とヨブの人生における追い求め方を見習うべきである。ヨブがその人生全てをどう生きたか、試練の中でどう振る舞ったか、神を畏れ悪を避ける道を追求する者たち全てにとって、それは大切な宝である。

 

 

   ヨブの証が神に慰めをもたらす

   もしわたしが今ヨブを愛すべき人間だと言ったなら、あなたはその意味を理解することはできず、わたしの言葉の背後にある感情も理解できないかもしれない。だがもしヨブと全く同じ試練かそれに似た試練をあなたが経験し、逆境に直面し、神があなたのためだけに用意した試練を通り、その試練のただ中にあってあなたのすべてを捧げ、屈辱と困難に耐え、サタンに勝利して神の証しとなることがあれば、その時にはわたしの言う意味がよく分かるはずである。あなたはヨブよりもはるかに劣っており、ヨブが愛すべき人物で、見習うべき人物だと感じるだろう。その時になれば、ヨブが語ったこの言葉が今の時代に生きる堕落した人間にとってどれほど重要であり、ヨブの成したことが今日の人間にとってどれほど達成が困難であるかが分かるだろう。ヨブと同じことを達成することの難しさを感じることが出来たならば、神がどれほど心配するか、そしてそのような人々を獲得するために神がどれほどの代価を払ったか、人間のために神がしたこと、費やしたものの尊さを理解するだろう。ここまでの話を聞いて、ヨブに対する正しい理解と評価が得られたであろうか。あなたにはヨブは真に完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると映るだろうか。ほとんどの人が、もちろんそのように映っていると言うことを信じている。ヨブの行動やヨブが示したことは、人間にとってもサタンにとっても否定できない事柄だからである。ヨブがサタンに勝利したことをそのような事柄は力強く証明しているのである。ヨブによるこの証しは、神に受け入れられた最初の証しである。それ故、ヨブがサタンの誘惑に勝利して神に証しを立てた時、神はヨブに希望を見出し、神の心はヨブによって慰められた。天地創造の時からこのヨブの時代までを通じて、神が慰めを真に感じ、人間によって慰められるとはどのようなことかを知ったのは、このヨブによる経験が初めてである。この時神は、自身に対して真の証しを立てるものを初めて見ると同時に、獲得したのである。

   ヨブの証しとヨブのいくつかの側面に関する学びを通して、大半の人々が自身の進むべき道に対して計画が立てられると信じている。それと同時に、心にある不安や恐れが少しずつ消え、心身ともに穏やかになり、心安らかになっていくことと信じている。


イエスによる奇跡

2020-02-26 18:47:50 | 聖書の奥義を開く

   1)五千人に食事を与えるイエス

   弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。(ヨハネによる福音書 6:8-13)

   2)ラザロの復活が神を褒めたたえる

   こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。(ヨハネによる福音書11:43-44)

   主イエスが行った奇跡の中から、この2つの奇跡のみを取り上げたのは、ここでの論題を証明するには、この2つで十分だからである。この2つの奇跡は極めて驚異的であり、恵みの時代における主イエスの奇跡を代表するものである。

   まず、2つのうち最初に挙げた聖句「五千人に食事を与えるイエス」を検討する。

 

 

   「五つのパンと二匹の魚」とは、どのような考えであろうか。五つのパンと二匹の魚は、通常何人前に相当するであろうか。通常の人間の食欲に基づいて計算すると、これはわずか二人前として十分な数である。これが、五つのパンと二匹の魚の最も基本的な考えである。しかし、この聖句では、五つのパンと二匹の魚が何人に与えられたと述べられているであろうか。聖句には、「その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。」とある。五つのパンと二匹の魚に対して、五千人は大きな数だろうか。この人数が極めて多いことには、どのような意味があるのだろうか。人間の視点から見て、五つのパンと二匹の魚を五千人で分け合うことは不可能である。なぜなら食べ物と人数の差が大きすぎるからである。各人がほんのひとくち食べたとしても、五千人に十分な量とは言えない。しかしここでは、主イエスが奇跡を行い、五千人全員が満腹になっただけでなく、更に残ったものがあったのである。聖句には「人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、『少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい』。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。」とある。この奇跡により、人々は主イエスの身分と地位を理解することが可能となり、また神に不可能なことはないことを知ることができた。人々は、神の全能性は真実であるということを理解したのである。五つのパンと二匹の魚で、五千人前として十分であったが、仮に食物が全くなかったとしたら、神は五千人に食事を与えることが出来たか、というと、当然可能だったであろう。これは奇跡であったため、人々は必然的にこれが理解不能であると感じ、驚異的で、謎であると感じたが、神にとって、こうしたことを行うのは極めて容易なことであった。これは神にとって普通の事であったとしたら、この奇跡を採り上げて解釈するのは何故か、というと、この奇跡の背景には、それまで人間が知らなかった主イエスの旨があるからである。

   まず、この五千人は、どのような人々であったかを考えてみよう。この五千人は主イエスに付き従うものであっただろうか。聖句によると、この者達は主イエスに付き従うものではなかったことが分かる。この者達は主イエスが誰であるかを知っていたか、というと、知らなかったことは確実である。少なくとも、この者達は目の前に立っていたのがキリストであるとは知らなかった。あるいはそのうち数名は、イエスの名前と、イエスがそれまでに行った業についてのみ、何かしらの知識があったか聞いたことがあった可能性がある。この者達は主イエスについて、それまでに聞いた話から好奇心を抱いていただけであったが、この者達が主に付き従っていた、ましてやイエスを理解していたと言えないことは確実である。主イエスがこの五千人を見た時、この者達は空腹で、お腹いっぱい食べることしか考えられなかったので、主イエスはこうした背景から、この者達の望みを満足させた。主イエスがこの人々の望みを叶えた時、主の心には何があったであろうか。空腹を満たしたいとしか考えていなかった人々に対する主の態度は、どのようなものであったであろうか。この時、主イエスの考えと態度は、神の性質と真髄に関連するものであった。空腹を満たすことだけを望む五千人がイエスの目の前にいた。この人々は、イエスに対する好奇心と希望に満ちていた。この五千人に対し、主イエスはこの奇跡でこの者達に恵みを与えることだけを考えた。しかし、イエスには、この者達が自身に付き従う者となるであろうという期待はなかった。なぜなら、この者達は単に楽しく食事を摂って空腹を満たしたいと望んでいただけであったことを知っていたからである。そこで、イエスはそこにあった五つのパンと二匹の魚を最大限に活用して五千人に食事を与えたのである。イエスは、もてなしを受け、奇跡を見たいと望んでいたこの者達の目を開き、この者達は受肉した神が実現可能な物事を、自らの目で見た。主イエスは有形物を使用してこの者達の好奇心を満たしたものの、イエスはこの者達が食事をしたいと望んでいただけであったことを心で知っていたので、イエスは言葉を述べることも、説教をすることも一切なく、単にこの者達に奇跡を起こして見せただけであった。イエスは、自身に心から付き従っていた弟子達と同様にこの者達を扱うことは、全く出来なかったが、神の心の中では、全ての被造物は自身が支配しており、また神は、自身が見る全ての被造物に対して、必要に応じて神の恵みを享受させた。この者達は、パンと魚を食べた後でさえも、イエスが誰であるかを知らず、またイエスのことを理解しておらず、イエスに関する何らかの具体的な印象も感謝の念も持っていなかったにもかかわらず、それは神が問題とされることではなかった。神はこの者達に対し、単に神の恵みを受ける素晴らしい機会を与えた。一部の人々は、神は自らの業について原則に従っているので、信者以外を見守ることはなく、また特に信者以外には神の恵みを享受させなかった、と言う。それは事実であろうか。神の目にあっては、神自身が創った被造物である限りにおいて、神はそれらの被造物を支配し、配慮する。神はその被造物に対して様々な方法で与え、計画を立て、様々な方法で支配する。これが神の万物に対する考えと態度である。

   パンと魚を食べた五千人には主イエスに付き従う意図はなかったが、イエスはこの者達に対して厳格ではなかった。この者達が食べて満腹になった後、主イエスがどうしたかを、あなたがたは知っているだろうか。イエスはこの者達に説教をしたであろうか。主はこの奇跡を行った後、どこへ行ったであろうか。聖句では、主イエスがこの者達に何か言ったとは述べられていない。イエスは、奇跡を起こした後、静かにその場を去った。それでは、イエスはこの者達に何か要求したであろうか。その時、嫌悪感があったであろうか。その時、要求も嫌悪感もなかった。イエスは、ただ単に、主に付き従うことの出来ないこの者達のことを、それ以上気遣うことを望まず、この時にイエスの心には痛みがあった。神は人間の堕落を見、また人間から拒否されていると感じたので、神がこのような人間を見、共にあった時、主は人間の愚鈍さと無知のために悲しみ、心を傷め、こうした人々から出来るだけ早く立ち去ることを望んだ。主の心には、こうした人々に対する要求はなく、こうした人々を気遣うことを望まず、特にこうした人々に労力を費やすことを望まず、また主はこうした人々が神に付き従うことが出来ないことを知っていた。それにもかかわらず、こうした人々に対するイエスの態度は、極めて明瞭であった。イエスは単にこうした人々に対して親切に接し、恵みを授けることを望んだ。このように、神が支配する被造物すべてに対する神の姿勢は、親切に接し、与え、養うというものであった。主イエスは受肉した神であったため、イエスは全く自然に神の真髄を示し、こうした人々に親切であった。イエスは、憐れみと寛容さの心をもって、こうした人々を扱った。この人々が主イエスをどのように考えていたかによらず、またどのような結果となるかによらず、イエスは、あらゆる被造物を万物の創造主としての立場に基づいて扱った。イエスが示したのは、例外なく神の性質であり、神の中にある物事や神の存在であった。そうしたわけで、主イエスは静かに何かをし、静かに立ち去ったが、これは神のどの性質であろうか。これは神の慈愛であると言えるだろうか。神は無私であると言えるだろうか。これは普通の人間にも出来ることであろうか。それは明らかに不可能である。本質的には、主イエスが五つのパンと二匹の魚で食事を授けた五千人の人々は、どのような者達だろうか。この者達は神と融和できる人々であったと言えるだろうか。この者達は全員神に対して敵対していたと言えるだろうか。この者達は神と融和できる人々ではなく、この者達の本質は絶対的に神に敵対していた、と確実に言うことができる。しかし、神はこの者達をどのように扱ったであろうか。イエスは人間の神に対する敵対心を取り除く手法を用いた。その手法とは、「親切」である。つまり、主イエスはこの者達が罪深き者達であるものの、神の目からみれば、神の被造物である。ゆえにイエスはこれらの罪深き者達を親切に扱った。これは神の寛容さであり、この寛容さは神自身の身分と真髄により決定される。したがって、神が創った人間のうち、これができるものはおらず、これができるのは神のみである。

 

 

   あなたがたが神の人間に対する考えと姿勢が真に理解でき、それぞれの被造物に対する神の気持ちと気遣いを真に理解できた時、あなたがたは創造主により創られた人間ひとりひとりに対する神の献身と深い愛情を理解できるであろう。それが理解できた時、神の愛を表す際に2つの言葉を用いるであろう。その2つの言葉とは、何であろうか。それは「無私」であると言う人々と、「博愛」である人々が居る。これら2つのうち、「博愛」は神の愛を表す言葉として、最も不適切である。この言葉は、人間の寛大な考えと感情を表すために人間が用いる言葉である。わたしは「博愛」という言葉に強い嫌悪を感じる。なぜなら、その言葉は、いかなる原則にもよらず、無差別に慈善を行うことを指すからである。この言葉は、愚かで混迷している人々の過度に感情的な表現である。神の愛を表す時にこの言葉が用いられる場合、必然的にそこには冒涜的な意図がある。神の愛を表すにあたり、より適切な2つの言葉があるとわたしは考えるが、その2つの言葉とは何であろうか。最初の言葉は「計り知れない」である。この言葉は示唆に富むものではなかろうか。2番目の言葉は「広大」である。わたしが神の愛を表す時に用いる、これら2つの言葉の背景には、真の意義がある。「計り知れない」を文字通り理解すると、物事の数量や可能性を指すが、その物事がどの程度の大きさであるかは問題とはならない。それは、人間が触れたり見たりすることのできる物事である。それは、その物事が存在し、抽象的なものではなく、またそれが比較的正確であり、現実的であるという感覚を与えるからである。それを平面で見るか、三次元の視点で見るかは問題ではない。その物事の存在を想像する必要はない。なぜなら、それは実在する物事だからである。「計り知れない」という言葉で神の愛を説明すると、神の愛を定量的に計測しているような感覚になるが、それと同時に神の愛は、定量的には把握不可能であるという感覚を与える。神の愛は定量的に計測可能であると言うのは、それが実体の無いものでも、伝説の中で生み出されたものでもないからである。神の愛は、むしろ神の支配下にある万物により共有されているものであり、様々な規模において、様々な側面から、全ての被造物が享受しているものである。人々は神の愛を見ることも触ることもできないが、万物の生の中で神の愛が少しずつ明らかにされるにつれ、その愛は万物が必要とする物事といのちをもたらすようになり、万物は自分達が常に享受している神の愛を数え上げてそれを証しするようになる。神の愛は定量化不能であると言うのは、神が万物に施し、万物を育む奥義は、万物に対する神の思い、特に人間に対する思い同様、人間が計り知り難いものであるからである。すなわち、創造主が人間に注いできた血と涙を知る者は居ない、ということである。創造主が自らの手で創った人間に対する愛の深さや重さを理解できる者は居ない。神の愛を「計り知れない」と説明したのは、その愛の広さと、その愛が存在するという真実を人々が理解することに資するためである。またそれは、「創造主」という言葉の実際の意味を人々がより深く理解し、「被造物」という言葉の真の意味を一層深く理解することができるようにするためである。「広大」とは、通常どのような意味であろうか。この語は、海や宇宙など、一般に広大なものについて用いられる。宇宙の広さや静かな深さは、人間の理解を超えるものであり、人間の想像力を刺激し、驚きをもたらすものである。その神秘と深遠さは、目に見えても手の届くものではない。海は果てしないもののように思われ、その神秘と包容力を感じるなど、海はその広さを連想させるものである。ここで「広大」という言葉を用いて神の愛を説明したのは、この理由による。この語を用いたのは、神の愛がいかに尊いかを理解し、神の愛の深遠な美しさと、無限の広がりを持つ神の愛の力を実感する上で役立てるためである。この語を用いたのは、人間が神の愛の神聖さ、神の愛により示される神の威厳と、侵害不可能な存在を感じ取る上で役立てるためである。あなたがたは、以上の説明で神の愛を説明する言葉として「広大」が適切であることについて納得したであろうか。神の愛は、「計り知れない」と「広大」という二つの語に相応しいことに間違いはないかと言うと、明らかに間違いない。人間の言葉のうち、神の愛に相応しいもの、神の愛の説明に比較的類似するものは、この二語だけである、と言ったら、あなたがたは頷くであろうか。あなたがたが神の愛を説明するよう求められたとしたら、この二語を用いるであろうか。あなたがたはこの二語を用いることができないであろう。なぜなら、神の愛に関するあなたがたの理解は平面的なものに限られており、立体的なものに進化していないからである。したがって、あなたがたに神の愛を説明するよう求めたとしたら、あなたがたは言葉足らずと感じ、言葉を失いさえするであろう。本日議論したこの二語は、あなたがたにとって難解であったり、わたしの意見に全く同意できないものであったりするかも知れない。そうした反応は、神の愛に対するあなたがたの理解が表層的で狭い視野での理解であることを示すものにほかならない。神は無私であると前述したが、この「無私」という表現を覚えているであろう。神の愛は無私としか説明できない、と言えるであろうか。そうした説明は、範囲が限られているのではなかろうか。あなたがたはこの問題を更に検討し、何らかを得るべきである。

   以上が、最初の奇跡から理解できる神の性質と神の真髄である。この物語は人々が数千年にわたって読み続けてきたものであり、あらすじは簡明であり、人々はこの事象を容易に理解できる。しかし、この簡明なあらすじから、一層尊い物事、すなわち神の性質、神の中にある物事や神の存在を読み取ることができる。こうした神の中にある物事や神の存在は神自身を表し、神自身の思いが表出されたものである。神が自身の思いを表出する時、それは神自身の心の声の表出である。神は、神を理解可能であり、神を知って神の旨を理解する人々が居ることを願い、また神の心の声を聴き、積極的に神の旨に沿うよう協力できる人間が居ることを願っている。したがって、ここで検討した主イエスの業は、神による無言の表出であった。

   次に、ラザロの復活が神を褒めたたえるという聖句について検討する。

   あなたがたは、この聖句を読んで、どのような感想を持つであろうか。主イエスが行ったこの奇跡の意味は、この前に検討した奇跡よりもはるかに重大である。なぜなら、死人を墓から蘇らせること以上に驚異的な奇跡は存在しないからである。主イエスがこのような業を行ったことは、この時代において極めて意義深かった。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、神の実際的な側面、わずかな神の側面しか見ることができない。たとえ一部の人々が神の性格や神が持っているであろうと考えられる力を見て理解したとしても、主イエスがどこから来たか、主の真髄は何か、自分達が見る以上にイエスが行うことのできる物事が何かを知る者は誰も居なかった。そうしたことは人類にとって未知であった。こうした事柄の証拠を求め、真実を知ることを望む者が大勢居た。神は、何らかの業を行い、神の身分を証明することが出来たであろうか。それは神にとって極めて容易であった。神はいつでもどこでも、何らかの業を行い、神の身分と真髄を証明することが出来たが、神は計画通りに、段階的に業を行った。神が無分別に業を行うことはなく、神は最適な時期と機会が到来するのを待って、人間が目の当たりにするのが最も有意義な業を行った。こうした方法により、神の権威と身分が証明された。それでは、ラザロの復活は主イエスの身分を証明出来るものであっただろうか。その点について、「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は…出てきた。」という聖句を検討する。主イエスがこの業を行った時に言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」のひと言であった。その後ラザロが墓から出て来たが、これは主のひと言で達成された事であった。この時、主イエスは祭壇を作ることも、それ以外の業を行うこともなかった。主は、そのひと言を述べただけであった。これは奇跡と呼ぶべきであろうか、それとも命令と呼ぶべきであろうか。それとも、これは何らかの魔術であったのだろうか。これは表面的には奇跡であると言うことができ、現在の観点から見ても、奇跡だと言えるであろう。しかし、無論これを、魂を死人から呼び戻す呪文とも魔術とも呼べないことは確実である。この奇跡は、創造主の権威を実証する、ごく普通の些細な証明である、というのが正しい。これは神の権威であり、能力である。神には、ある者を死なせ、その魂を身体から出してハデスその他の然るべき場所へ還らせる権威がある。ある者がいつ死ぬか、その者がどこへ向かうかを決めるのは、神である。神は、こうした事柄をいつでもどこでも行うことができる。神は人間や物事、空間、場所の制約を受けない。神は望むままに事を行うことが出来る。なぜなら、あらゆる物や生き物は神の支配下にあり、あらゆる物が神の言葉と権威により生き、死ぬからである。神は死者を復活させることができるが、これもまた、神が時間と場所を問わず、いつでも出来ることである。これが、創造主のみが持つ権威である。

 

 

   ラザロを死から復活させるなど、主イエスが業を行った時、イエスは、人間やサタンに対して、人間の生死など、人間の全ては神によって決められているということ、そして神が受肉している場合であっても、目に見える物質的世界も、目に見えない霊的世界も、依然として神が支配していることを、人間とサタンに対して証明し、知らしめることを目的としていた。これは、人間の全てはサタンの支配下にはないことを、人間とサタンに対して知らしめるためである。またこれは神の権威の啓示であり、証明であり、さらに人間の生死に関する事柄は、全て神により支配されていることを全てのものに示す手段である。主イエスによるラザロの復活のような業は、創造主が人間を教え導くひとつの手段であった。これは、神が自身の力と権威を用い、人間を指導し、人間に対して施す、実際の行為であった。またこれは創造主が言葉を用いずに、創造主が万物を支配しているという真理を人間が理解できるようにするための手段であった。さらに、これは神による以外に救いは存在しないということを、実際の業により人間に対して伝える手段であった。こうした神が言葉無しで人間に教えを授ける手段は永遠に続く。こうした教えは消える事がなく、人間の心に色あせる事のない衝撃と啓示が与えられる。ラザロの復活は神を褒めたたえた。神に付き従う者すべてに、それは大きな衝撃を与えるものである。ラザロの復活により、この出来事を深く理解する人々すべての心に「人間の生死を支配できるのは神のみである」という理解と認識が定着する。神にはこの種の権威があり、また神はラザロの復活により人間の生死に関する自身の権威を示したが、これは神の主要な業ではなかった。神は無意味に業を行わない。神が行う業には、その全てに貴重な価値があり、その全てが不朽の宝である。神は、ある者を墓から復活させることを主要ないし唯一の目的や事項として業を行うことはない。神は、無意味なことは一切行わない。ラザロの復活は神の権威を証明するに十分である。またそれは主イエスの身分を証明するに十分である。主イエスがこの種の奇跡を繰り返されることがなかったのは、このためである。神は、神自身の原則に従って業を行う。人間の言葉で言うならば「神は業の重要性に配慮されている」と言えるであろう。すなわち、神が業を行う時、神はその業の目的から外れることがない。神はこの段階において行いたい業が何であり、完遂したい業が何かを知っており、自身の計画に厳密に従って業を行う。腐敗した人間がこうした能力を持っていたとしたら、その者が考えることは、自身の能力を示し、高い能力を持つことを他人に知らしめ、他人を服従させ、支配して滅ぼす方法のみであろう。それはサタンに由来する邪悪であり、腐敗と呼ばれる。神には、そうした性質が無く、またそうした真髄も無い。神が業を行うのは自己顕示のためではなく、人間に対してより多くの啓示と導きを授けるためであるため、聖書においては、この種の業はごく僅かしか見られない。それは、主イエスの能力が限定されていたことを意味するものでも、その種の業を行えなかったことを示すものでもない。それは、単に神が行おうと思わなかっただけである。なぜなら、主イエスがラザロを復活させたことには、極めて現実的な意味があり、また受肉した神の主な業は、奇跡の業を行うことでも、人間を死から復活させることでもなく、人間に対する贖いの業であったからである。そうしたわけで、主イエスが完遂した業の大部分が、人々に教え、施し、助けることであり、ラザロを復活させたような業は、主イエスが行った業のうちごく僅かであった。さらに、「自己顕示すること」は神の真髄には含まれていない、ということも出来るだろう。したがって、それ以上の奇跡を示さなかったのは、故意に制限していたためでも、環境的な制約のためでも、無論能力が不足していたためでもない。

   主イエスがラザロを死から復活させる時、主が使った言葉は「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけである。主はそれ以上の言葉を用いなかったが、そのことは何を意味するであろうか。こうした事柄は、死者を復活させることを含めて、神があらゆる事を言葉により実現可能であることを示している。神が万物と世界を創造した時、神はこれらを言葉により創造した。神は言葉で命じ、すなわち権威ある言葉を用い、その言葉通りに万物が創造された。創造は、このようにして行われたのである。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した時に神が述べた言葉と同じであり、主イエスの言葉には神と同じ権威、創造主と同じ力があった。万物が神の言葉により形成され、存在したのと全く同じようにして、主イエスの言葉によりラザロが墓から出たのである。ラザロの復活は、受肉した身体により証明され、実現された神の権威であった。この種の権威や能力は、創造主と、創造主が形あるものとなった人の子のものである。神がラザロを死から復活させることにより、人間に啓示された知識は、その事実である。この件の検討は以上である。次に、下記の聖句について検討する。


イエスによるパリサイ人に対する戒め

2020-02-25 00:53:34 | 聖書の奥義を開く

   1.パリサイ人によるイエスの審判

   身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。(マルコによる福音書3:21-22節)

   2.イエスによるパリサイ人に対する戒め

   「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書12:31-32)

   「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」(マタイによる福音書23:13-15)

   上記には、個別の聖句が2つある。この2つのうち最初に挙げた聖句「パリサイ人によるイエスの審判」について、まず検討する。

 

 

  聖書によると、イエスと、イエスの行動に対するパリサイ人の評価は「気が狂ったと思った…『彼はベルゼブルにとりつかれている』…『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』」(マルコによる福音書3:21-22節)というものであった。律法学者とパリサイ人による主イエスに対する審判は、何の根拠もなく下されたものではなく、律法学者とパリサイ人が主イエスの行動について見たこと、聞いたことに基づいた結論であった。その審判は、表層的には法に基づき行われ、人々は、それが十分な根拠に基づくものと考えたが、イエスを裁いたその傲慢さを、律法学者とパリサイ人は抑えることが出来なかった。人々の主イエスに対する激昂した憎悪のエネルギーが、神を拒絶する邪悪な本性とともに、人々の向こう見ずな野望と邪悪なサタンのような形相に現れていた。主イエスの審判で律法学者とパリサイ人が口にしたことは、人々の向こう見ずな野望、嫉妬、そして人々の神と真理に対する敵意の、醜く邪悪な本性を動機とするものであった。律法学者とパリサイ人は主イエスの行動が何によるものかを調査せず、イエスの言動の本質を調査することもなかった。その代わりに、律法学者とパリサイ人は、主イエスが取った行動を、盲目的に、苛立って、狂気のように、そして計画的な悪意をもって非難し、卑しめた。それは、主イエスの霊すなわち聖霊、神の霊を見境なく卑しめるような状態にまで達していた。律法学者とパリサイ人が「気が狂った、ベルゼブルと悪霊どものかしら」と言うのは、そうしたことを意味するものであった。つまり、神の霊はベルゼブルであり、悪霊の頭である、と言ったのであった。彼らは、受肉した神の霊による業を、狂気であるとした。彼らは神の霊をベルゼブル、悪霊の頭として冒涜したのみならず、神の業を罪であるとした。律法学者とパリサイ人は、主イエスを有罪とし、冒涜した。彼らの神に対する反逆的、冒涜的本質は、サタンと悪魔の神に対する反逆的、冒涜的本質と同じである。彼らが象徴するものは、腐敗した人間だけでなく、サタンの権化でもあった。彼らはサタンと人類の繋いでおり、サタンに力を貸す伝令であった。主イエス・キリストに対する彼らの冒涜と誹謗の本質は、神の地位を奪おうとする奮闘努力であり、終わることのない神への反抗、挑戦であった。彼らの神への反抗、神に対する敵対心の本質、そして言葉や考え方が、神の霊を直接冒涜し、怒らせた。それゆえに、神は律法学者とパリサイ人の言葉と行動に妥当な裁きを下し、その行動を聖霊に対する冒涜の罪であるとした。この罪は、この世でも後生でも赦されることがないのは、聖句に「聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」、また「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」とある通りである。ここでは「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」という神の言葉の真の意味について検討し、「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」という言葉を神がどのようにして実現されるかに関する謎を解明する。

   これまで検討してきた事柄は、すべて神の性質、人間や物事に対する神の姿勢に関するものである。その点については、当然上記2件の聖句も例外ではない。これら二つの聖句について、何か気付くことはあるだろうか。一部の人々は、神の怒りに気付くと言う。また別の人々は、人間による侮辱を赦されることがないという神の性質と、人々が神を冒涜すると神の赦しを得ることができないことが分かる、と言う。この二つの聖句から、神の怒りと、人間の冒涜に対して神が不寛容であることを人々が理解しているが、人々は神の姿勢を真に理解していない。この二つの聖句には、神を冒涜し、神を怒らせた者に対する神の真の姿勢と処遇を示す部分がある。この「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」という聖句には、神の真の姿勢と処遇が含まれている。人々が神を冒涜した時、あるいは怒らせた時、神は審判を下し、その審判は神の最終的な結論である。そのことについては、聖書において「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書12:31)、また「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書23:13)と説明されている。しかし、主イエスがこのように述べた後、律法学者とパリサイ人、そして主は狂気であると言った者達に対する処遇は、聖書に記されているだろうか。これらの者達が罰を受けたと記されているであろうか。それらについて、何も記されていないことは確かである。ここで、何も記されていないというのは、何も記録されていないということではなく、人間が見ることの出来る結果がない、ということである。このことにより、問題が明らかになる。すなわち問題とは、神がある事柄に対処する際の姿勢と原則である。神を冒涜したり、否定したり、中傷さえしたりする人々、つまり、意図的に攻撃したり、中傷したり、呪ったりした人々に対する神の処遇について、神は見ないふりをしたり、聞こえないふりをしたりすることはない。神には、そうした物事に対する明確な姿勢がある。神はこうした人々を嫌悪し、心で糾弾する。神はこうした人々に対して、神を冒涜した者に対する明瞭な姿勢があること、神はどのようにしてそうした人々の結末を決定するかをその人々が理解するよう、こうした人々の結末を率直に宣言している。しかし、神がその言葉を述べているにもかかわらず、神がこうした人々をどのように処分するかに関する事実を殆ど理解できず、神による結末や審判の背景となる原則を理解できずにいる。すなわち、人類は、こうした人々の処遇について、神の具体的な姿勢と方法を理解できずにいる。この問題は、神が業を行う際の原則が関与している。神は事実を出現させ、一部の人々の邪悪な行いに対処する。つまり、神はこうした人々の罪を宣告することも処遇を決定することもなく、神は直接的に事実を出現させることにより、こうした人々が処罰され、相応の報いを受けるようにする。こうした事実が出現した時、その罰を受ける物は、すべて人間の目に見える人々の身体である。一部の人々の邪悪な行動を処分する際には、神は言葉により呪うが、それと同時に神の怒りがその人々におよぶ。こうした人々が受ける罰は人々の目に見えないものである場合もあるが、この種の結末は、罰せられたり殺されたりといった目に見えるもの以上に深刻な場合がある。こうした人々を救わない、こうした人々に対して更なる慈悲や寛容をもって対処しない、それ以上の機会を与えないと神が判断した場合、こうした人々の神に対する態度は、こうした人々を無視する態度である。「無視」とは、どういう意味であろうか。この言葉は、何かを脇によけ、意識しなくなることを意味する。ここで、神が「無視」すると言う場合、2通りの解釈ができる。1つ目は、神がその者の命、その者の全てをサタンに与えて扱わせるようにした、という解釈である。神はその者の命などを担わなくなり、その管理を辞める、ということである。その者が狂気であっても、愚かであっても、あるいは生きていても死んでいても、あるいは地獄に落とされて罰を受けていても、それは神に関係ないものとなる。つまり、その被造物は創造主と何ら関係が無くなるということを意味する。2つ目は、神がその者に対して、神自らの手で何かをしようと決断した、という解釈である。神が、そうした者の取り組みや、そうした者自身を、補助的に活用する可能性もある。そうした者に対し、パウロに対して対処したように、神が特殊な方法で対処する可能性もある。以上が、そうした者に対し神の心が判断を下す際の原則と姿勢である。したがって、人々が神を拒否し、中傷し、冒涜した場合、あるいは神の怒りを買い、あるいは神の赦しの範疇を超えた場合、その結末は想像を絶する。神がそうした者たちの命などのすべてを、それ以降永遠にサタンに委ねるというのが、最も重篤な結末である。こうした者たちは、永遠に赦されることが無い。これは、そうした者達がサタンの餌食となり、玩具となり、それ以降、神はそうした者達との関係を一切絶つ。サタンがヨブを誘惑した時、それがどれほど悲惨なものであったか、あなたがたは想像出来るであろうか。サタンがヨブの命に手を出さないことが条件であったが、それでもヨブは大いに苦悶した。それならば、完全にサタンの手に委ねられた者、完全にサタンの手中にある者、神のいつくしみや憐れみを完全に失った者、創造主の支配が及ばなくなってしまった者、神を信仰する権利と神の支配下に属する被造物である権利を奪われた者、創造主との関係を完全に絶たれてしまった者が受けるサタンの猛威は、それにも増して困難ではなかろうか。サタンによるヨブの迫害は、人間が見ることの出来るものであったが、神がある者の命をサタンに引き渡した場合、その結末は、あらゆる者の想像を絶するものとなるであろう。それは、牛やロバとして生まれ変わった人間、汚れた、悪霊に取り憑かれた人間のようなものである。これが神によりサタンに引き渡された者の結末である。主イエスを嘲笑し、中傷し、非難し、冒涜した者は、外部から見れば、全くそうした結末に苛まれていないように見える。しかし、あらゆる物事に対し、神は特定の姿勢をもって対処する、というのは真実である。様々な種類の人間に対して神が対処した結果どうなるかについて、神は明確な言葉で人間に伝えないこともある。神は、直接的に言葉を述べず、直接的に業を行うこともある。神がそうした事柄について言葉を述べないということは、そうした事柄に対する結末が存在しないことを意味するのではなく、より深刻な結末であることを意味する可能性もある。見た目には、神は、一部の人々に対して神の姿勢を示そうと語っていないように思われる。実際、神はそうした人々に気遣うことを久しく望んでいない。神は、そうした人々にもう会いたいとは思わないのである。そうした人々の行動や態度、性質や真髄などのため、神は単にそうした人々が神の前から立ち去ること、そうした人々の霊魂や身体を直接サタンに引き渡し、サタンの意のままにさせることを望んでいるのである。神がそうした人々をどれほど憎んでいるか、嫌悪しているかは明瞭である。ある者が、神がその者に二度と会わないことを望むほどに、また神がその者を完全に見捨てるほどに、また神自身がその者を取り扱うことさえ望まないほどに、神の怒りを買った場合、すなわち神がその者をサタンに委ね、サタンに支配させ、虜にさせ、サタンの思うがままにさせた場合、その者は完全に終焉を迎える。その者の人間たる権利が奪われ、被造物としての権利が消滅する。それは、最も過酷な罰ではなかろうか。

   以上が「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」という言葉の完全な説明であり、この聖句に関する簡潔な解説である。以上の説明をもって、この聖句について理解できたことと思う。