賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書黙示録終末の預言は成就された──主の再臨をどうお迎えすればよいか

2020-10-18 23:01:08 | 癒やしと恵みの証し

聖書黙示録終末の預言は成就された──主の再臨をどうお迎えすればよいか

    2000年前、主の弟子たちはイエスに尋ねました。

    「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」(マタイによる福音書 24:3)

    主イエスは答えられました。

    「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書 24:6–8)

    今日、世界中でますます多くの災厄が発生しています。地震、伝染病の流行、飢饉、戦争、洪水が相次いで起こっています。2019年の暮れには、中国の武漢で新型コロナウィルスが発生しました。その感染率は驚異的です。わずか数ヶ月のうちに感染例が中国全土で出現し、中国はまたたく間に大混乱に陥りました。死亡者数が増えつづけるなか、多くの省、直轄市、村が次々と閉鎖されつつあります。このウィルスはさらに国境を越えて、世界の20ヶ国以上に広まっています。それに加えてオーストラリアでは、2019年の9月から2020年の1月にかけて森林火災のために、5900棟以上の建物が焼失し10億匹以上の動物の命が奪われました。2020年1月には同じオーストラリア大陸が百年に一度の集中豪雨に見舞われ、洪水が発生し多くの淡水生物が死にました。インドネシアでは同月の洪水のために、何万人という人々が家を失っています。さらにフィリピンで火山が噴火、アフリカで過去25年間で最悪のバッタが大量発生、中国の新疆でマグニチュード6.4の地震が発生……と、こうした例は枚挙に暇がありません。主の来臨を告げる聖書の預言が成就されているのです。こうしたことは主が戻られたことを明白に示しています。では私たちはなぜまだ主の到来をお迎えしていないのでしょうか? このようなことが続けば、私たちは大患難に陥るのではないでしょうか? また主の来臨をお迎えするために、私たちは一体何をすべきなのでしょうか?

    主はどのように来られるか

    多くの人が次のような聖書の言葉を読んでいます。

    「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。」(ヨハネの黙示録 1:7)

    「そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30)

    そうした人々は主が雲に乗って来られると確信しています。それなのに私たちがこのような光景をまだ目にしていないのでなぜでしょう? これが主が来られる唯一の方法なのでしょうか? 実をいうと、私たちは主の来臨に関して大きなことを一つ見落としているのです。聖書には神が秘かに来られるという預言もあるのです。

    「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録 16:15)

    「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

    「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音書24:44)

    「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24–25)

    聖書にある「盗人のように」、「夜中に……呼ぶ声がした」という言葉は、終わりの日に再臨される主が、ひっそりと秘かに戻られることを示しています。では「人の子」は何を称しているのでしょうか? 「人の子」は間違いなく人から生まれます。母親と父親がいて肉と血から生まれるのです。たとえば主イエスです。イエスは人間の間で生活する普通の人間の姿で受肉されました。つまり「人の子」という言葉は受肉した神を称しているのです。霊は人の子とは呼ばれません。また聖書は次のようにも述べています。

   「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。

    この一節は紛れもなく、主が戻られるときは、ひどい苦しみを受けその時代の人々に捨てられるであろうと述べています。神が人の子として受肉したときに限って捨てられるのは、肉となった神があまりにも平凡すぎて、人々が神であると知らないせいであることを、私たちはみな知っています。人々が神を普通の人間として扱うので、その結果神は厳しい苦難に遭うのです。ところが主が霊として人の前に現れれば、善人であろうと悪人であろうと、信者であろうと不信仰者、あるいはたとえ神に敵対する者であろうと、あらゆる者が神の前にひれ伏して崇めるでしょう--そうなれば誰が神を捨てられましょう? またどうして神が苦しみを受けることになりましょう? こうしたことは、終わりの日の主が受肉した人の子として人間の前に現れることを示しているのです。

    再臨されたとき主はどのような働きをなさるのか
    ここまで読んで、困惑している兄弟姉妹もいるかもしれません。終わりの日に主が秘かに来られて人間の間で働きをなされるなら、雲に乗って来られるという預言はどのようにして成就されるのかと。神の働きには段階と計画があります。神はまず肉となって秘かに到来し、人を救う働きを実行されてから、雲に乗って人の前に公に現れられます。この疑問を理解するために、私たちは主が終わりの日に再臨するときになさる働きについてもっと知らなくてはなりません。主イエスはこう語られています。

    「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)

    「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:48)

    「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。」(ヨハネによる福音書 5:22)

    聖書には次のようにも書かれています。

    「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

    こうした聖句は、終わりの日の神がもっばら御言葉を発して、神の家から始まる裁きの働きを行うために来られると告げています。その結果、終わりの日における神の裁きの働きを受け入れる者は主の到着をお迎えし、神の前に引き上げられることになるのです! 今日、受肉した全能神がこれまで発された何百万もの御言葉はすべて、『言葉は肉において現れる』という本に収録されています。この本の中で全能神の御言葉は、これまで私たちに理解できなかった多くの謎を明らかにしています。たとえば人類の発達の歴史、サタンがいかに人類を堕落させ、神がいかに人を救うのか、どのような者が神に愛され、どんな者が嫌われるのか、さまざまな分類の人々にどのような結果や終着点があるのか、といったことです。それだけでなく神は、裁きと刑罰の御言葉をも表して、私たちの堕落した性質を明らかにされています。神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れる者はみな、堕落した性質を清められ変化を遂げるのです。そして大患難の前に勝利者とされ、最後には神の国に入り永遠の至福を享受することになるのです。神が肉となって秘かに働かれている時期にその声を聴こうとしない者や、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れない者、自らの観念や想像にもとづいて受肉した神を非難し冒涜する者は、正体を暴かれて神に淘汰されるでしょう。さらに小麦と毒麦、子羊と山羊、思慮深い処女と愚かな処女、よきしもべと悪しきしもべ、真理を愛する者と忌み嫌う者は、それぞれ真の姿を暴かれ種類に応じて分類されます。その後神は雲に乗って来臨し、地上のあらゆる国と諸民族の前に公然と現われて、良き者に報いを与え悪しき者を罰しはじめられます。かくして聖書の次の預言は成就されるのです。

    「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7)

   「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30)

    その時神に敵対し、神を拒絶し、非難した者はみな、自らの悪行のために胸を打って後悔に苛まれることになります。神の働きから、神がいかに義であり全能で賢明であるかを、私たちは知るのです!

    主の来臨をどうお迎えすればよいのか
    今日、受肉した全能神はすでに一団の人々を征服し救われています。またそうして勝利者を完全にされています。神の秘かな働きは間もなく終了し、その後ただちに地上にあらゆる種類の大患難が降りかかるでしょう。私たちの前には、主イエスの再来をどうお迎えし、終わりの日の神の働きをどう受け入れるべきなのかという、差し迫った課題があります。主イエスはおっしゃっています。

    「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書 10:27)

    聖書には次のような預言もあります。

    「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:7)

    「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

    さらに全能神はこう語られています。

    「神の働きは強く打ち寄せる大波のようなものである。誰も神を引き留めることはできないし、誰も神の歩みを停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め、渇望する人々だけ神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然の罰を受ける。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)あなたは子羊の歩みと歩調を合わせたいですか? 主をお迎えしたいですか? 大患難の前に引き上げられたいと切に願いますか? 神の御言葉が私たちに告げているのは、主をお迎えするつもりがあるなら、重要なのは全能神によって表現された御言葉が真理かどうか、それが諸教会に向けた聖霊の御言葉なのかどうかを考え、それにより神の声に耳を傾ける方法を知るということです。へりくだった心をもって真理を探究し切望すれば、神はすぐにも主をお迎するよう私たちを導いてくださると私は信じます!

アン・ユエン、フィリピン


奇跡!医学的に不妊と診断されたあと、彼女は元気な赤ちゃんを産んだ(II)

2019-12-15 22:01:52 | 癒やしと恵みの証し

   ある日、小慧は突然吐き気を覚えました。悪いものを食べたせいでのぼせてしまったためではないかと思い、漢方薬を二種類処方してもらったのですが、それを飲んだあとも吐き気はひどくなるばかりでした。そのとき初めて、小慧はこう考えました。私は妊娠しているのではないか。しかし、次にこう思いました。「そんなことがどうしてあり得るの。二年間も不妊治療を受けて結局だめだったし、どうして妊娠なんてできるの」そうは言うものの、純粋な好奇心から妊娠検査を受けたところ、結果は陽性でした。彼女は興奮のあまり空中に飛び上がりそうになりました。本当にすごい! 妊娠しようと三年間頑張ったのに、結果は失敗だった。妊娠して子どもを授かる計画を完全にあきらめ、すべてを神様の支配と采配に託したところ、本当に妊娠した。これが奇跡でなくて何でしょう。彼女は、アブラハムが百歳で息子を授かったという、祖母が語ってくれた聖書の物語を思い出しました。そして、自分が今日妊娠したのは神様の権威とお力の表われだということに気づきました。小慧は心の中で制御不能な喜びを感じました。神様に感謝と賛美を捧げ、人間の出来事はすべて神様の支配と采配の一部なのだと、これまで以上に確信しました。

   小慧は妊娠の喜びに浸りましたが、新たな問題が次から次へと起こりました。流産の可能性が高く、それを防ぐためにプロゲステロンを経口摂取する必要があると医師から言われたのです。また胎児が正常に成長しているかどうかを観察するために定期検査を受けなければならず、もし正常に成長していなければ中絶する必要がありました。また医師は小慧に、妊娠中に自分の知らないところで飲んだ二つの漢方薬が胎児に影響を与えているかもしれないと告げ、先んじて中絶するよう提案しました。医師の言葉は小慧にとって大きな打撃で、途方に暮れました。自分の状態を考えれば妊娠するのは難しく、この「予期せぬ」妊娠は奇跡だと知っていたのです。彼女は心配しました。中絶すれば再び妊娠することはないだろう。でも中絶しなければ奇形児を出産するかもしれない。彼女は不安でした。病院は子宮収縮抑制薬を処方してくれたものの、それがうまくいくと安心させるものは何もなく、どうすればいいかわかりませんでした。



   ある集会で、小慧は胎児に関する自分の不安と心配を語りました。すると姉妹が神様の御言葉の一節を辛抱強く探して彼女に伝えました。小慧はそれを読みました。「科学は人のために何をしますか。科学が人にするのは、対象物を物理的世界において見ることができるようにすることだけで、単に人間の好奇心を満たすに過ぎません。それは人間に神が万物を支配している法則を見せてはくれません。人間は科学に解答を見出しているようですが、その解答は不可解で、一時的な満足感、人間の心を物理的世界に閉じ込めることだけに役立つ満足感をもたらすだけです。人間は既に科学に解答を見出したと感じているので、どのような問題が起きようとも、科学的意見に基づいてそれを証明したり受け入れようとします。人間の心は科学に取りつかれたようになり、科学に魅惑されるあまり、もはや神を知り、神を拝み、万物は神から来て、解答を得るには人は神に向かうべきであると信じる心をもたなくなります。」

   姉妹はこう語りました。「私たちが科学を崇拝して頼るのは、科学の意見や論法が心に植え付けられているからです。例えば、『科学は万能である』とか『科学は至上である』とかいう考えのために、私たちは病気になったとき、神様の御心を探し求めて御前へ赴くよりも、医者に会って科学に頼るべきだと考えています。科学や医学が問題を解決できないとき、私たちは絶望と苦痛にさいなまれます。それと同じく、あなたは自分の病状を経験する中で、妊娠する可能性はないと医者から言われたとき、義両親が自分を見下すのではないかと恐れて不安になり、そのため苦しみの中で過ごし、あたかも救命具のように医者のところへ行きました。その医者が、あなたの飲んだ薬が赤ちゃんに影響を与えるかもしれないと言って、中絶するよう勧めてきたとき、あなたは神様の御言葉と行ないを心の裏側に置いて、神様から授かった子どもが健康でないのではないかと不安になりながら、不安と苦悩の中で過ごしたのです。事実は、人間は神様によって造られ、各人の身体の欠陥や将来何が起きるかはすべて神様によって操作され、神様は人々のためにとても正確なご準備をなさっているのです。私たちは神様のお言葉から、科学は真理でなく人々を救えないこと、それは人々を堕落させ、混乱させ、誤った方向へ導くだけだということを知るので、自分から苦痛を取り除きたければ、物事を行なう原則として神様のお言葉を受け入れ、科学を正しく扱うとともに、盲目的に従ってはいけません。現状において、あなたは胎児を守るために必要なことを行ない、予定通り検査に行きなさい。でも胎児の運命を神様に託して祈り、子どもが健康に生まれるかどうかにかかわらず、神様の采配に従いなさい。そうすれば、これ以上苦しみのうちに過ごすことはなくなります」

   神様の御言葉を読んで姉妹の話を聞いたあと、小慧の心は明るくなりました。彼女は深く感動してこう考えました。「その通りだわ。私は神様の全能性と支配をわかっていなくて、科学に頼り盲目的に従うことで人生を惨めなものにしてしまいました。でも、おばあちゃんが神様の御言葉を何度も私に読んで伝えてくれたこと、それに姉妹のお話と助けのおかげで、神様が指揮なさることやお定めになることについての認識が得られ、これからは自分が遭遇した問題を正しく扱うようになり、サタンによってもてあそばれたり害を受けたりすることはないでしょう。実際、私はホルモン療法をやめたあと奇跡的に妊娠したことの中に、神様の権威を見ました。そして、神様の権威の前では科学も医学も取るに足りないということを個人的に体験しました。いまお医者さんは、胎児が健康でいられるように薬を飲むことを勧めていますし、異常があれば中絶しなくてはならないと言っています。そうして私はその件で心配と不安を抱えるようになりましたが、そのことは、私がまだ神様の権威を信じていないことと、神様がすべてを支配なさっていることを証明しているのです。私は神様に祈って胎児を託そうと思いますが、それと同時に、胎児が健康でいられるように数週間は薬を飲むつもりです。私は、神様が結果を采配なさるのに任せようと思います」

   その後、小慧の心は穏やかになり、胎児について心配したり不安になったりするのをやめました。病院で行なわれた三度目の検査で、プロゲステロンレベルが正常であることが確かめられ、妊娠中に行なわれたすべての定期検査でも、胎児に関することはどれも正常でした。彼女は神様が自分を守り気にかけていらっしゃることを知り、心の中は神様への感謝で一杯でした。

   2018年1月、小慧は無事に出産し、神様はかわいらしい男の子をお授けになりました。出生後の継続検査で、小児科医はビリルビンレベルを調べ、数値が高いので治療のために病院にとどまる必要があると告げました。状態を改善させられなければ黄疸になってしまい、そうなれば脳に障害が残って知能に影響を及ぼすというのです。医師の診断は小慧にとって非常に深刻に聞こえ、病院にいなければ息子の知能が影響を受けるかもしれないと不安になり、神様に祈りました。「神様、あなたはこの子を授けてくださいました。この子の病気も何もかも、あなたの御手の中にあります。この子のビリルビンレベルが上昇して脳に害を及ぼすかどうかは、お医者さんでなくあなた次第です。結果がどうあれ、私はあなたの支配と采配に従います」祈り終えたあと、彼女の頭に神様の御言葉が浮かびました。「生けるものも死せるものも、ありとあらゆるものが、神の思いによって、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が萬物を支配する方法である。」神様の御言葉は小慧の信仰を強め、彼女は我が子を神様に託すことに決めました。半月後、検査のために息子を再び病院へ連れて行き、ビリルビンレベルが正常であるとわかったとき、小慧はまたしても、神様の支配とお力がどこにでもあること、神様だけが本当に頼る価値があることを知りました。病院にいた他の母親と話しながら、彼女たちの子どももビリルビンレベルがとても高いために、継続治療のため入院し続けなければならないことを知りました。小慧は神様への信仰の中で大いに喜びましたが、それはこれ以上の出費をする必要がないからだけではなく、我が子が苦しい思いをせず、また自分自身もその不安と心配に苦しむ必要がないからでもありました。

   不妊から妊娠、そして元気な子をこの世に送り出した道のりの中で、小慧は個人的な体験をして、神様の全能性と支配が実際のものであること、神様の御言葉は人々が生き続ける動機であること、そして科学は真理でなく、人々を救うことも個人の運命を変えることもできないと感じました。神様だけが人々のいのちの源であり、人類の運命を定めて指揮なさるのであり、人々が何を持ち何を持たないかはすべて神様次第なのです。いつの日か、神様への信仰と崇拝の光の中を歩き、神様のご配慮と保護の下で暮らすことを小慧は待ち望みました。


奇跡!医学的に不妊と診断されたあと、彼女は元気な赤ちゃんを産んだ(I)

2019-12-13 23:13:55 | 癒やしと恵みの証し

   広く明るいリビングにはベビーベッドがあって、生後六ヶ月の赤ちゃんが小さな口で小さな指をしゃぶりながら、幸せそうに横たわっていました。小慧はソファーに座り、それまで決して自分の顔を飾ることがなかった笑みを浮かべながら、その光景を見ていました。

   かつて不妊だった小慧が元気な赤ちゃんを産めたのは、科学的処置や医療の結果ではありませんでした。それは神様によって彼女に与えられたいのちなのです。医療を探し求めた二年以上にわたるつらさを振り返ると、彼女は複雑な感情で一杯になりました。



   二十代前半のころ、小慧は二年間交際したボーイフレンドと結婚し、結婚後は夫の愛と献身に恵まれましたが、かわいい赤ちゃんを産んで家庭を始める夢を叶えることも楽しみにしていました。しかし小慧はどうしても妊娠できず、その理由を確かめようと病院に行ったところ、医師からこう告げられました。

   「先天性卵巣形成不全が治癒する可能性は極めて低いです」これはどうしても子どもを欲しがっていた小慧にとって苦痛に満ちた打撃となりました。彼女は息の下で自分にこう言いました。「どうしてこんなことになるの。子どもを産めない女なんて誰が尊敬するでしょう。子どもを産めなかったら、将来、夫はそれでも私を望むかしら。それにお義母さんも孫と会うのを心待ちにしているし」涙が頬を伝い落ちる中、小慧は後ろ向きで惨めな思いに捕らわれました。

   「先生、現在の医学はとても進んでいますし、私の状態がよくなって妊娠できる可能性が低いのはわかっていますが、それでも治すために全力を尽くしたいんです。先生、お願いですから助けてください!」子どもを産む望みがすべてその医師にかかっているかのように、小慧は懇願しました。医師は最先端の赤外線加温殺菌治療を小慧に施し、薬を処方しましたが、半年間にわたる治療を行ない、三万元の費用をかけてもなお、小慧の病状は変わりませんでした。まったく改善していなかったのです。小慧はひどい無力感を覚えました。自分の病状に対して本当に治療法はないのだろうか。小慧は、必要な器具を完備し、国内最先端の技能を有する医師がいる病院で治療を試みたいと望みました。そこに必ず答えがあるはずだと考えたのです。そこで彼女は情報を集め、治療を求めて有名な国立病院へと向かいました。

   しかし医師は、彼女が持ち込んだ資料に素早く目を通し、病状やこれまでの治療歴についていくつか簡単な質問をしたあと、こう言いました。「あなたはずっと生理が弱く、卵巣も数ミリほどの長さしかなくて、エストロゲンも少ないです。あなたの病歴と検査結果も、先天性卵巣形成不全という診断と一致しています。だから新たな検査は行ないません。その代わり、人工的に生理を誘発するため、人工プロゲステロンを使うことにします」しかし二ヶ月にわたる治療を経ても病状が改善することはなく、薬の副作用のせいで食欲を失いました。痛みと苦しみがひどいため、薬をとり続けることもできませんでした。しかし小慧は諦めたくはありませんでした。数多くの不妊を見事に治療した病院や医師について、インターネットの記事を読んだりテレビや広告で見たりしましたが、そのすべてを頭に思い浮かべ、次の回復例となることを夢見ました。彼女は最後の希望にかき立てられて、名の通った二つの大病院に行きました。診察のあと、有名な医師がこう言いました。「あなたのエストロゲンレベルはとても低いので、生涯にわたってホルモン補充療法を行なわなければならないでしょう。治療をやめることはできません。さもないと老化が早まります」その言葉が傷口にすり込まれた塩のようだということに、疑問の余地はありませんでした。自分の病状が生涯にわたるホルモン補充療法を必要とするとは、想像できたはずがありません。小慧は失望を覚え、医師の言葉に耳を傾けてもう半年治療を行なうしか選択肢はありませんでした。しかし再検査を行なったとき、彼女の卵巣は小さすぎるままで、成長した卵子も見られませんでした。小慧は完全に絶望しました。

   小慧は呆然としながら最終検査の結果を見つめました。過去二年間、彼女は仕事で貯めた十万元をすべて治療に費やしました。また、治療のために苦しい思いをしてきたことも記憶に鮮明でした。医師の指示通りに検査を受け、薬を飲み、注射をされ、そのすべてについて細かな点までまったくおろそかにしませんでした。冬の寒さや夏の暑さの中でも予約した検査には必ず行き、どれほどの距離を旅したか、どれほど多くの血を抜かれたか、何回注射を受けたり薬を飲んだりしてきたか、思い出せないほどでした。しかし結局、彼女の病状はこれっぽっちも改善していなかったのです。その代わり、肉体的にも精神的にも疲れ果て、苦痛にさいなまれ、またホルモンを長期投与したことによる副作用のせいで、体重が元々の四十五キロから六十キロに増えました。サイズも何段階か大きくなりました。満月のようになった顔と膨れ上がった身体を鏡で見たとき、それまで経験したことのない失望を感じました。それまでずっと、医学と科学には権威があると思っていましたが、想像するほど素晴らしいものではなかったのです。その瞬間、彼女は頼るものが何もないかのように感じ、悲しみと絶望に捕らわれました。

   その夜、小慧は眠ることができずにベッドの中で寝返りをうっていました。窓の外に広がる夜の暗闇を見ていると、自分が無力に感じられ、両目の端から涙が静かに枕へ流れ落ちました。

   小慧の祖母はいつも孫娘への気遣いを見せていましたが、彼女の家を訪れたところ、小慧が不妊のせいでどれほど苦しみ絶望しているかを知りました。祖母は優しくこうアドバイスしました。「小慧、これまでの数年間、不妊を治すためにあなたがどれほど苦しんできたか、どんなことを経験してきたか、私はわかってますよ。あなたがそのすべてを耐えているのを見て、とても心配だったのよ」小慧は無言のまま涙がこぼれ落ちるのを我慢しました。祖母は続けました。「実は、妊娠するかどうかについて私たちに選択肢はないの。私たちも、それにお医者さんや科学もそれをコントロールすることはできなくて、神様だけがおできになるのよ。あなたは神様を信じるべきだわ。神様の御言葉は、私たちが人生で出会う問題や困難をすべて解決できるんですから」祖母の言葉に小慧は慰められ、心が穏やかになるのを感じました。

   祖母はさらに続けました。「小慧、神様の御言葉を読んで、子どもを授かることについて何と言っているか見てみましょう」小慧は神様の御言葉の本を手に取って読みました。「人間の計画や幻想は完璧であるが、自分の子の人数や自分の子の容姿、能力などは自分で決められず、…人間は、自分の子孫のために一切努力を惜しまないが、最終的には、自分がもうける子の人数や、その子がどのような子であるかは、その者の計画や願望通りにはならない。貧しいながら多くの子を授かる者もいれば、裕福ながら子を授からない者もいる。娘を欲しがっていてもその願いが叶わない者や、息子を欲しがっても息子が出来ない者もいる。」

   祖母はこう教えました。「神様の御言葉がそのことをどう説明しているか、はっきりわかるわね。私たちが子どもを授かるかどうか、その子が男の子か女の子か、どんな外見になるか、そして将来どんなことをするのかは、私たちにもお医者さんにもどうにもできないの。できるだけ早く子どもを産みたいと願った、あなた自身の努力を振り返りましょう。あなたは医学的な治療を求め、最先端の治療を受けるためにあらゆる大病院に行ったわね。自分にできることは何でもしたけれど、すべて無駄に終わった。小慧、私たちは人間には頼れないの。神様に頼るとき初めて、奇跡が起こるのを見られるのよ。アブラハムが百歳のとき妻のサラはもう九十歳だったけど、神様はイサクという名の息子をお与えになった。一年後、子どもを授かるなんて生物学的に無理だと私たちには思える年齢で、サラは本当にアブラハムの息子イサクを産んだのよ。神様の権威は、私たちの頭では理解できないの」。

   祖母の話を聞いたあと、小慧は治療を受けた自分の経験と、あらゆる可能な方法を考えてすべての大病院に行ったものの、結局まだ妊娠できていないことを思い起こしました。小慧は神様の御言葉と祖母の教えを受け入れました。

   「小慧、自分の病状をよくしようとして、これ以上問題を抱え込んではだめよ。あなたが子どもを授かると神様がお決めになったら、遅かれ早かれ妊娠するわ。ただ誠実にそれと向き合い、神様に祈って頼り、神様のご支配と運命に従いなさい。そうすれば、もう心配したり苦しんだりすることはないし、幸せに楽しく生きることができるわ」。

   その瞬間、自分が子どもを授かるかどうか、あるいはいつ授かるかは、自分で計画したり準備したりできることではなく、また努力や医療によって変えられるものでもないことを、小慧は理解し始めました。祖母の助けを借りて神様への服従の祈りを唱えると、これまでにないほどのくつろぎと落ち着きを感じました。他人が自分をどう思っているか、義両親と夫が自分をどう扱うだろうか、もはや気になりませんでした。その後、彼女は子どもを授かる能力を医学に託さず神様の手に委ね、神様が指揮と采配をなさるのに任せました。彼女は自由時間に両親の家に行き、祖母と一緒に神様の御言葉を読んだり、神様を讃える賛美歌を歌ったりして、心の奥深くで神様の平和と喜びを感じました。

 

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神のご加護ー大きな交通事故の裏の得たもの

2019-08-20 21:41:49 | 癒やしと恵みの証し

突然、私は植物人間になりかけた

   ある日の朝八時ごろ、妻と私は七歳になる孫娘と一緒に出かけ、薪を集めてリヤカーに乗せ、家に持ち帰る手伝いをさせました。厚さ数インチの薪をリヤカーに満載したあと、十時ごろになり、妻と一緒にリヤカーを引いていたところ下り坂にさしかかりました。私たちはゆっくり坂を下るため、リヤカーを押し戻そうとしました。しかし坂道はとても急で、リヤカーの勢いが徐々に増してゆき、猛スピードで坂を下り始めました。妻と私は全力でそれを止めようとしました。リヤカーに孫娘が乗ったままなのを思い出し、不安のあまり心臓が飛び出そうに感じられました。何としてもリヤカーを横転させてはならない!坂道を驀進したまま横転すれば、私たち全員の命はないでしょう。この危機のさなか、私は矢も楯もたまらず心の中で叫びました。「ああ神様!どうか私たちをお救いください……」リヤカーがあまりの猛スピードで坂を下り続けていたので、妻は速く走れずにハンドルを離してしまい、道ばたへ逃れざるを得ませんでした。私はハンドルに挟まれて逃げ出すことができません。そのうち転んでしまい、リヤカーの下敷きになって坂道を引きずられました。そのとき無我夢中で神様を呼び求めました。「神様、私をお救いください!私をお救いください……」妻もリヤカーのすぐあとを追いかけながら叫びました。「神様、夫と孫娘をお救いください……」二十メートルほど引きずられたあと、突然リヤカーは道ばたに積まれた薪にぶつかって横転しました。孫娘は薪の横に投げ出されましたが、そのおかげで幸いにも下を流れる水路に落ちずに済みました。口の横に小さな擦り傷ができて少し出血しただけです。しかし私はリヤカーの下敷きになって引きずられていたので、かなりの勢いで衝突しました。身体が丸まってボールのような格好になり、頭に両脚がついた姿勢です。ものすごい苦痛でした。頭を持ち上げたくても首がまったく動かず、背中も完全に硬直しています。私は耐えがたい痛みに襲われ、動くことすらできませんでした。



   孫娘の無事を確かめようと妻が駆け寄ったところ、孫娘は泣きながらこう言うだけでした。「おばあちゃん、私は大丈夫だからおじいちゃんの様子を見に行って」私はか細い声で言いました。「全身の骨が折れたようだ。本当に気分が悪い。なんとか頭を動かしてくれ」私がまだ話せると知った妻は、私の頭をまっすぐにしながら泣いていました。孫娘も駆け寄ってきて、泣きながら大声で私を呼びましたが、私はそれに反応できないほど痛みに襲われ、すっかり弱っていました。その時は呼吸をするのも困難で、心の中で神様に祈っていました。「ああ神様、私はいま信じられないほどの痛みに襲われ、長くもちそうにありません。どのくらい耐えられるかわからないのです。私は死ぬのでしょうか?」すると次のような神様の御言葉が頭に浮かび、私に信仰と強さを与えてくれました。

   「万物の長である全能神は、玉座から王としての権力を振るう。神は宇宙と万物を支配し、全地で私たちを導いている。私たちは頻繁に神に近づきあなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない」

   全宇宙と万物は神様の御手にあるのだから、私の命も神様の手中にあるのではないか?そうして私は神様に頼り、心の中に希望を持つことができました。その後、私は病院に運ばれ、息子と妻もそこに来ました。医師は家族にこう告げました。「怪我は深刻です。肋骨と頸椎と腰椎の二十ヵ所以上が骨折しています。麻痺状態か植物人間になるのは避けられませんし、死に至る可能性もあります。心の準備をなさったほうがいいでしょう」

   その夜、妻は私に医師の言葉を伝えました。私は動揺してこう考えました。「本当に麻痺状態だったなら、あるいは植物人間になるのなら、苦難の人生にすぎないじゃないか。それでも人生に意味があるだろうか」そう考えると泣くより他にありませんでした。その瞬間、私は心の絶望と身体の苦みを感じながら、死んだほうがましだと思いました。苦痛が極限に達していたのです。まさにその時、私は神様に祈りました。「神様、いま私は心底痛みに苦しんでいます。医師の言葉のせいで、ずっと不安で仕方ないのです。神様、このすべてに耐える信仰と勇気を持てるよう、私をお導きください」その夜、苦痛が暗雲のように私を覆い、一睡もできませんでした。やがて深夜を過ぎたころ、神様からの御言葉が頭に浮かび、一つの謎を明らかにしました。

   「宇宙で起こるすべてのことの中で、わたしが最終的な決定権を持たないものはない。わたしの手の中にない存在などあるだろうか。」

   「すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。誰の生と死が自分の選択で訪れているのか。人間は自分の運命を左右できるのか」

   全宇宙と万物はすべて神様の支配下にあり、私たちの命も神様の手中にある。私が麻痺状態もしくは植物人間になるかどうかにかかわらず、あるいは生きるか死ぬかにかかわらず、それはすべて神様によって経営される。神様の御言葉は私に信仰と強さを与え、心の中で寄りかかるものを授けてくださいました。

   病院のベッドで眠っていた私の全身には包帯が巻かれ、腕には点滴の針が刺さっていました。まったく動くことができません。妻はベッドのそばにいて昼も夜も私の世話をし、薬を飲ませたり食事をとらせたりしてくれました。私がつらそうにしているのを見ると、神に祈り、頼るようにさせました。私は来る日も来る日も絶えず祈り続けました。ある日のこと、私はヨブが受けた試練のことを考えました。彼はたくさんの家畜だけでなく自分の子どもまで失ってしまい、全身が腫れ物に覆われました。そして灰の中に座り、素焼きのかけらで腫れ物をかきむしりました。しかし肉体的な打撃と精神的な打撃を同時に受けていた時でも、ヨブは信仰を失ったり神様を拒絶したりはしませんでした。それはかくも見事な証しでした。「ヨブが尊いのは、彼が誘惑に遭い、皮膚が腫物に覆われ、極度の苦しみの下で、言い換えれば、ヨブは自身に降りかかる誘惑がどれほど大きくても、どれほどの苦痛や困難の中にあっても、たとえ死に直面しても、神への信仰を捨てることはなく、神を畏れ悪を避ける生き方をやめることはないのである。そうであるならば、ヨブの心の中の最も大切な位置を占めていたのは神であり、ヨブの心の中にあったのは神のみであったということである」という神様の御言葉が述べている通りです。その後、私はヨブの例にならおうと、心の中で静かに決意しました。将来、自分の健康でどんなことに直面しようと、呼吸できる限り一生神様の御言葉に頼ろう。それ以降、私は毎日欠かさず神様の御前で自らを静め、神様の御言葉を深く考えることに集中しました。自分の状態について神様にいつも祈り、それを神様に委ねました。喜んで神様に寄りかかり、神様の支配と采配に従おうとしたのです。

奇跡によって28日後に退院する

   このすべてを神様に託すと、奇跡が起きました。事故から八日後の午前九時ごろ、何人かの医師と看護師が回診に来て私に尋ねました。「調子はどうですか?」私はこう答えました。「痛みはそれほどひどくないですし、食事もできるようになりました」一同はそれを意外に感じたらしく、医師の一人がこう言いました。「あなたがこれほどまでに回復するとは思いませんでした。以前にもあなたのような患者さんを診たことがありますが、誰一人として回復しなかったんです。でもあなたの状態は徐々に改善しています。まったく信じられません!あなたの現状から判断すると、我々が以前に触れた三つの可能性(麻痺状態、植物人間、死)はどれも起きそうにないですね!」医師の言葉を聞いた私は、思わず泣いてしまいました。感謝、罪の意識、そして喜びを感じ、心から神様に祈りました。「神様、あなたに感謝いたします。私は二十ヵ所を骨折していましたから、あなたの素晴らしい行ないがなければ、医師に言われたことから判断して麻痺状態に陥るか植物人間になっていたはずです。最悪の場合は死んでいたかもしれません。しかし、そのどれも起こりませんでした。あなたのご慈悲がなければ、わたしは生き続けることすらできたでしょうか?心からの感謝と賛美をあなたに捧げます。あなたは人生の二度目のチャンスを与えてくださいました。ああ神様、あなたに感謝し、あなたを讃えます」

   祈りのあと、神様の御言葉が頭に浮かびました。「水が人間をそっくり呑み込むと、わたしは淀んだ水から救い出し、新たに生きる機会を与える。人間が生きる自信を失うと、死の瀬戸際から引き戻し、生きる勇気を与え、わたしを存在の基礎とするようにする。何度、人々はわたしの手を見ただろう。何度、人々はわたしの親切な顔、笑顔を見、人間は、けっしてわたしを知らないのだが、わたしは彼らの欠点につけ込んで無用な厄介事を引き起こしはしない。人間の困難を経験したため、わたしは人間の弱点に同情する」

 

   その神様の御言葉から、神様の本質は愛であると気づきました。私が苦しみ弱っていたとき、神様は私に信仰と勇気を授け、その御手で私を見事に守り、生き続けることを許してくださったのです。リヤカーが横転したときのことを振り返ると、一メートルほどの深さがあったあの水路にリヤカーが突っ込んでいたら、小さな孫娘はどれほどひどい怪我を負っていたでしょう。それに私も命を失っていたはずです。しかしリヤカーは、近所の人が積んであった薪のすぐそばで横転しました。その薪の山があったおかげで、孫娘は水路に放り出されずに済んだのです。それに、私もゴムボールのように弾みながら、長く引きずられずに済みました。さもなければ本当に生き残れなかったでしょう。私たち、私、そして孫娘が死との接触から逃れられたのは神様の愛情に満ちた御手のおかげであり、私は心の中で深く感動しました。また神様に対する途方もない恩義も感じました。その時、自分はそれまで自身の信仰を真剣に考えたことがなく、心の中に神様がいらっしゃればそれで十分だと思っていたことに気づきました。私は集会に出かけることがほとんどありませんでした。働いて金を稼ぐ時間がとられると思ったからです。兄弟姉妹は何度も私に説教を語ってくれ、金銭に重きを置きすぎることなく、テーブルにある食事と身につけている衣服で満足し、信仰と真理の探究に集中すべきだと促してくれました。しかし私は、彼らが言うことに耳を傾けませんでした。自分のやり方で物事を行ない、より多くの金を稼ごうとし続けたのです。ところが、私が深刻な危険にさらされたとき、神様は私の反抗的な振る舞いにふさわしい対処をなさいませんでした。その代わりに私を守り、死の銃弾から身をかわすのをお許しになったのです。神様の私への愛に対して、私は十分な感謝を捧げられそうにありません。そのことはまた、災難に遭遇したとき、金銭が私を救うことは絶対にできず、神様だけが私をお救いになれるということを気づかせてくれました。

   事故から九日後、医師が私の包帯をすべてはがし、身体の痛みも日を追うごとに軽くなっていきました。二十日目の午前九時、十人以上の医師と看護師が診察に来たとき、医師の一人がこう言いました。「ずいぶん元気になりましたね。顔色もずっといいですよ。こんなに早く、ここまで回復できたのはもちろん、これほど深刻な怪我から生還できたのは本当に奇跡です。いつでも退院できますよ。帰宅して回復に努めてください」しかし子どもたちがもっと長く病院にいるべきだと言い張るので、私はさらに八日間入院を続け、二十八日目に退院手続きを行ないました。帰宅して程なく、何名かの兄弟姉妹が私に会いに来ました。彼らは真理についての説教を私に伝え、神様の御言葉をもっと読み、神様と正常な関係を築き、何事においても神様に祈って頼り、自分の信仰を真に実践するよう言いました。兄弟姉妹による説教を通じて神様の愛と憐れみをよりよく理解できたことについて、神様の愛に感謝を捧げました。それ以降、私は自宅で快方に向かうとともに、集会にも出席するようになりました。正常な教会の生活を送り始めたのです。

ある日、私は神様の御言葉を読みました。

   「神が精神的な支えであると考えている人々が居るが、こうした人々は大部分を占めている。」「もし人々がこうした信仰を続けたとしたら、こうした人々にはどのような結末が待ち受けているであろうか。こうした人々は、このような形態の信仰によって神の要求を少しでも満たすことが出来るだろうか。それとは反対に、そうした人々は概念や想像が原因となって、神の道から遠ざかってゆくだけであろう。なぜなら、そうした人々の方向性は神が求める方向性とは正反対のものだからである。……神への信仰から利益を得ることができるのは、食糧や衣服などよりも、なによりも大切なものとして神の信仰に取り組んだ場合のみであろう」

   神様によるそれらの御言葉が明らかにしたことは、私に恥と罪の感覚を残しました。神様の御言葉の中で暴露された人間とまったく同類だったのです。私は神様に対する信仰を、自分自身の精神的な必要性を満足させるものとして扱い、助けが必要なときには神様を探し求めるものの、必要ないときには神様を脇にのけるだけで、今まさに呼吸している空気と同じように神様の存在を当然だと考えていました。そのような信仰の見方は実際の神様への信仰ではなく、漠然とした神様への信仰です。そのような信仰を抱いていれば、最後に真理は得られなかったでしょう。この経験は、私が何年もの間抱えていた誤った信仰の見方をすっかり変えました。神様への信仰を、自分に精神的な支えを与えるものとして捉えることも、金銭に縛られることもなくなりました。私は喜んで神様のご命令に従い、自分の信仰を人生を前進させる上で最も重要なものとして扱うようになり、神様の御言葉を読み、信仰を実践し、真理を探し求めることにより多くの時間を費やしました。テーブルに食事があり、衣服を身につけている限り、私は満足です。現在、私は歩き回れるようになり、私を見た隣人は口を揃えてこのように言います。「あれだけひどい怪我をしたのに、回復するとは思わなかった。天にいらっしゃる神様があなたを救ってくださったんだ!」また、あなたはとても幸運だったと言う人もいますが、私を守り、生きることを許してくださったのは神様だと、私は心の中で知っています。私が今日ここにいるのは、それが唯一の理由です。


キリスト教徒の証言–いのちの奇跡

2019-06-07 23:25:54 | 癒やしと恵みの証し

悪い知らせに耐えがたい苦しみを受けました

   「あなたの弟はどこにいるの?もう数日も見てないし、電話もつながらないわ」、と私は夕食後に何かおかしいと感じながら長男に聞きました。彼は躊躇して、重々しい口調でこう言いました;「お母さん、シャオ・ウェイは交通事故に遭って、先週から治療のために入院してるんだ。お母さんは凄いショックを受けると思って、言わなかったんだ…」突然、私は全てが終わったような気分になりました。私は何も言えないまま、くずれるように椅子に座りこみました。精神的にまいってしまった私を見た長男はこう言ってすぐに私を慰めてくれました:「お母さん、しっかりして…」私は息子の言ったことははっきり聞こえませんでしたが、下の息子にすぐ会いたいとだけ思いました。

   私はこう思いました:「私はもう72歳。若かった時に一生懸命働いたから、今は体中が痛いわ。一度、沢山の名医たちに診てもらったことがあったけど、全部効果が無かったわ。長年に渡って痛みと苦しみを経験したから、もう人生に大きな期待は持たなくなった。ただ単に残りの人生を平和に暮らしたいだけなの。でも、下の息子が交通事故に巻き込まれるなんて予想もしていなかったわ。何か悪いことでも起こったら、私はこの先どう生きて行けばいいのよ!」

キリスト教徒の証言 - いのちの奇跡

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   病院に行くと、私は息子が意識不明であったのと、両側開頭術を受けたばかりの彼の頭がメロンのように腫れ上がっていたのを目にしました。彼は39度ほどの熱があり、体温を下げるために角氷に包まれていました。彼を見ていると、私の脚はグラグラしました。私はこう考えました:「私の息子はもうこんな容態になってしまった。また目を覚ますことはあるのかしら?目を覚ましても、普通に生活ができるのかしら?息子と家族は将来どうやって暮らして行くの?私の孫息子と孫娘はどうなるの?」 私はとても惨めな気持ちになり、悲しさのあまり泣き出してしまいました。そこの病棟にいた人たち全員も泣いていた私とベッドの上でチューブだらけになって死の瀬戸際をさまよっていた息子を見て涙を流しました。

   1か月の治療を受けた後、私の息子はついに目を覚ましましたが、息子は誰の顔も覚えておらず、話すことも動くこともできなかったのです。最終的に、医師はどうすることもできずこう言いました:「私たちは最善を尽くしました。家に戻って彼にゆっくり回復させてあげてください。」 私は医師の言葉を聞いた後こう思いました:「医師がこう言っておられるんだから、息子はもう恐らく普通の状態に回復することはないのね。息子はもう死にかかっているんだわ!」 息子を自宅に連れて帰った後、私は将来の生活のことを考えると頻繁に涙を流しました。

   私の義理の娘が彼らの子供たちを育てるために働く必要があったため、息子の面倒をみる負担は私と私の夫に回ってきました。私は息子が早く回復できるようにと、彼を毎日脳のリハビリテーション療法に送りました。また、息子は自分で食べることも、飲み込むこともできなかったので、私が違う種類のお粥を作って彼に食べさせました。お粥はしょっちゅう残ってしまいました。しかし、私は諦めませんでした。私はいつか奇跡が起こることを期待して息子の面倒を見続けました。しばらくした後、息子は知覚を少し取り戻し、手足も少しだけ動かせるようになりました。私の夫と私は彼を支えてゆっくり歩かせようとしましたが、彼の脳は体の動きをコントロールすることができませんでした。彼は無意識のうちに私の頭を頻繁に叩きました。私の義理の娘が仕事から帰宅した時も、彼は彼女の髪の毛を引っ張って、彼女の頭を叩きました。彼女は10万元の対外債務と医療費の借金を支払う必要があり、夫の理性に欠ける暴力に耐える必要もあったので苦しい生活を強いられていました。彼女は何度も離婚を求めました。最終的に、彼女は工場の中で暮らすようになり、もう帰って来たがらなくなってしまいました。この状況を見た私は息子の容態だけでなく、両親のいない孫息子と孫娘の生活も心配になりました。私はこう思いました:「私はもう年寄りだから、私がいなくなったらこの子たちはどうやって生きていけばいいのかしら?」

絶望する寸前で神の御気遣いを授かりました

   2012年3月、私の親戚の1人が私を説得しにやってきました:「お姉さん、お姉さんの家族は大変な状態だわ。お姉さんの息子はまだ病気だし、お姉さんだって病気持ちなんだから、神を信仰しましょう。神は万物の創造主なのよ。神は全世界を管理されていて、全人類の運命を支配されておられるのよ。だから、神を心から信仰すれば、神は困難を通して私たちを御助けくださるわ。」私は心の中でこう思いました:「こんな状況になってしまった中で期待できることなんて何もないわ。。。」私の親戚が神への信仰について話していた時、私はそれをぼんやりとしか聞いていませんでした。私はそれを漠然としたものだと思いました。私は自分の重篤な息子のことしか考えていなかったのです。私は彼女の言葉は考慮しませんでした。それから4、5日経った後、私は親戚が又してもやってくるとは思っていませんでした。彼女はこう言いました:「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」 (マタイによる福音書 11:28)。神の祝福を受けていない私たちがどれだけ無力な状態で苦しみながら生きているかが分かるでしょ?神は私たちの拠り所なのよ。私たちは神の前に行くことによってのみ心の中で平安と安心を得ることができるの。。。」私は彼女の言葉に心が少しだけ動かされてこう思いました:「神は本当にそんな大きな力を持っておられるのかしら?神は本当に私を不幸から救ってくれるのかしら?」哀れで無力な私はこの唯一の希望にすがることにしました。

   その後、私は時間があればいつでも兄弟姉妹たちとの集会に参加するようになりました。私たちは神を讃えるために頻繁に祈りを捧げ、讃美歌を歌いました。集会に参加した時、最初の数回は庭で一人で座っている息子のことが気がかりで、転んでしまわないかと心配していたので、私はいつも気持が落ち着きませんでした。そして、ある姉妹が私にこう言って交流してくれました;「私たちは神の信仰を始めたばかりで、実際には神の御主権を体験していないので神への真の信仰は抱けていません。神はこう仰っておられます:『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』 (マルコによる福音書 9:23)。 神は全能であられます。いずれの人も、いずれの物も、全てが神の手中にあるのです。私たちはシャオ・ウェイを神に託し、神を信じて頼るべきです。そうしたら神が全てを支配されておられるという事実を目撃できるでしょう⋯」この姉妹の言葉を聞いた後、私は深く考えすぎないようにして、彼女が読んでいた神の御言葉を聞こうと心を落ち着かせました。集会が終わった後、私は様子を見に庭に行ってみると、息子が無事に椅子に座っているのが見えました。私は少し興奮してこう思いました:「神は本当に私の息子を守ってくださっているわ。」私はこれをあと数回経験した後、次第に神を信じるようになりました。

静かに祈りを捧げると奇跡が起きました

   一度、私は神のこの御言葉を目にしました:「また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイによる福音書 21:22)。 私が神への信仰を始めたため、息子の病は本当に改善していたのです。神の御言葉は信頼できるように思えました。その後、私はいつも息子のために祈り、彼を神の御手に委ねました。私は奇跡が起こることを期待しました。これと同時に、私は休むことなく彼の世話をし続けました。ある日、私が2階で集会をしていた時、突然私の息子が私の所へやって来たのです。私は驚いたと同時にこれを嬉しく思いました。私は慌ててこう聞きました:「どうやって一人で上がってきたの?転げ落ちるのが怖くないの?」彼はこう言って答えました:「心配ないよ!」こう言って彼は下に降りて行ったのです。私は感極まってこう思いました:「姉妹が初めて私に福音を伝導してくれた時はまだ完全に神を信仰していなかったけれど、息子の病が毎日良くなっていくにつれて、それは神の驚くべき御業だということが分かったわ!神の御言葉は正に真実であって、とても強力なものなのよ!」更に信じられなかったのは、彼は少しずつ物を食べれるようになり、頭もさえてきていたのです。私の家族は誰もがこれに大喜びし、私は涙が出るほどに興奮しました。私は神が自分の拠り所であると心から感じたのです。私は息子を安心して神に委ね、神の御言葉を読み、心に余裕を持ちながら教会生活を送るべきなのです。後に、私の息子は完全に記憶を取り戻し、硬直していた手足も自由に動くようになりました。彼は電動自転車に乗れるようにもなったのです。これらの出来事を目の当たりにして、私は圧倒されてしまいました。私はこう思いました:「真の神は本当に私たちの側にいてくださって、必要な時にいつでも私たちの拠り所となってくださっておられるんだわ。」この瞬間、私は心の底から神に感謝して、神を讃えずにはいられなくなりました。

   その後すぐ、私の息子は術後の検査を受けに一人で自転車に乗って病院まで行きました。彼は帰宅して、医師は彼を見た時に自分の目を疑っていたと私に話してくれました。彼は私の息子の手をとって、興奮しながら他の医師と患者の元へ彼を連れて行き、驚きと共にこう言ったのです:「奇跡だ!これは本当に奇跡だ!私たちはこの患者がこんなに回復するとは予想していませんでした!これは驚きだ!」 私は彼の言葉を聞いた後、抑えがきかないほど神に感謝しました:「私の息子が早く回復できたのは、全て神の御言葉と権威の御力、そして神の憐みと御加護のおかげです!」私は医師が息子の手術を施行中に息子は植物状態に陥ると断言していたのを思い出しました。神から私への憐みがなければ、私の息子の容態は悪化していただろうし、私もどれだけ長く息子の面倒を見続けることができたかは定かではありません。神はあの姉妹を御遣いになって私に福音を伝導され、私を神の元へ御導きくださったのです。私は神の御言葉を読み、兄弟姉妹たちの交流を聞いて、神に頼ることを学びました。これは全て神の憐みだったのです。私は自分が奇跡的に授かった御救いによって神の御力を目の当たりにし、神の人間に対する愛を体験できたことを、心から神に感謝しています。後ほど、私の息子が少しずつ回復しているということもあり、義理の娘が自宅に戻ってきました。私たちはこれまでのように円満な家庭となりました。この瞬間、私の神への信仰はさらに強まりました。私は神の善良な信仰者となり、適切に神に従っていく決心をしました。

キリスト教徒の証言 - いのちの奇跡

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病にむしばれ、又しても奇跡が起こりました

   私は息子の世話と付き添いに自分の全エネルギーと力を注ぎ込み、体が弱かったにもかかわらず休むことなく働いた結果、病気に罹ってしまいました。2013年9月、私は働き過ぎで心不全を起こして病院に運ばれました。医師は、私を冠動脈性心疾患、心房細動、そして心房期外収縮と診断しました。医師は私の容態を監視し続けるために私が入院することを必要とされました。後に、私の妹も心臓病を患い、私と同じ病院に来ていました。彼女は精神的に私よりも良い状態にあったため、いつも下の階にいた私の所にきてくれました。ある日、彼女は私と談話しにやってきました。彼女がちょうど戻ろうとしていたその時、彼女は突然発作を起こしたのです。彼女は救ってもらえず、ついには死亡が確認されました。私は悲嘆に暮れていた時、自分のことが心配になり始めました:妹はまだ若かったのに、病を乗り切ることができなかったわ。早かれ遅かれ、私も彼女と同じようになってしまうのかしら?この瞬間、私は集会で兄弟姉妹たちが読んでいた内容を思い出しました:「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう」(マタイによる福音書 17:20)。 神は全能であられます。神は私たちの運命を支配かつコントロールされておられます。私の息子の運命は神の主権にあるのだから、私の運命も同じなのではないでしょうか?神の御言葉は最も信頼できるものであるので、私は全てを神に委ねて神の御采配に従うべきなのです。従って、私は自分の恐怖心と臆病さの全てについて神に祈りを捧げました。祈りを捧げた後、私は落ち着きを取り戻し以前ほどの恐怖心は感じませんでした。

   後に、私は心臓のステント留置術を受けました。私の容態が安定した後、医師は病の発生頻度を下げるために心房細動の手術を受けることを推薦されました。私はこう思いました:「私はもう70代を超えてるのよ。医療費だった高額だわ。」なので、私は手術を受けるのをやめ、自分のいのちを神に委ねることにしました。私は退院した後、毎日のように容態が改善していきました。

   私はイエス様が仰ったことを思い出しました:「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14:6)。 私は今日まで神を信仰してきて、「神の御言葉を信じれば、私たちの生活に奇跡が起こる!神の御言葉は私の行き先に明かりを照らしてくださるランプのようで、生き続ける信念と勇気を与えてくださる」、という事実を幾度に渡って目撃してきました。後に、私は頻繁に神にこう祈りを捧げました:「ああ、神様!私は体が辛いですが、またあなたの御言葉の御力を目撃しました。私はヨブを見習いたいと思います。私は病が治らなくてもあなたの文句を言ったりはいたしません。私はあなたの御主権と御采配に従います。」

神の御言葉を授かり、神の愛を浴びる

   その後、兄弟姉妹たちはいつも私に会いにきてくれました。私たちは一緒に神の御言葉を読み、お互いの知識と見解を共有し合いました。私は依然として薬を飲む必要があり、たまには気分が悪くなったり、取り乱したりすることがありましたが、心の奥底では落ち着いて平安を感じていました。私はもう死を恐れていませんでした。私の体は神の御気遣いと御加護の下で順調に回復しました。私は今、エネルギーで満ち溢れています。私は料理、家事、そして畑仕事もできるようになりました。私は心房細動の手術は受けませんでしたが、それが私のいのちに影響することはありませんでした。私の下の息子もまた働き始めました。私の家族は幸せで仲良くやっています。私は今までこれほどの平安と幸せを感じたことはありませんでした。神は本当に私の家族の運命を変えて下さったのです!

   私は今回の体験で神が実際に存在されておられることを知りました。神は全人類の運命を支配されておられるのです。神は私たちの人生において、何度でも奇跡を起こすことがおできになるのです。神は本当に全能であられるのです!