賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

2. 全能神は再臨した主イエスである

2020-11-05 18:02:50 | 神の三段階の働き

2. 全能神は再臨した主イエスである

    関連する神の言葉

    ヤーウェの働きの後、人のあいだで神の働きを行うためにイエスは受肉した。イエスの働きは単独で実行されたのではなく、ヤーウェの働きの上に築かれた。それは律法の時代を神が終わらせた後の新しい時代のための働きであった。同様に、イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救い)全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の経営(救い)を続行する。今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。神の働きの新しい段階はそれぞれいつも新しい始まりと新しい時代をもたらす。そこで神の性質、神の働き方、神の働く場所、神の名前にもそれに付随した変化がある。したがって、人にとっては、新しい時代の神の働きを受け入れるのが難しいのは無理もない。しかし、いかに人が反対しようと、それには関係なく、神はいつも自分の働きを行っており、いつも人類全体を前方に導いている。イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

    イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

    わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

    神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

    現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎にして行われる。これら二つの働きの段階に関連がなければ、なぜ今の段階には磔刑がないのか。なぜわたしは人の罪を背負わないのか。わたしは聖霊による受胎により来るのではないし、人の罪を背負うために磔刑にされることもないだろう。むしろ、わたしは人を直接罰するためにここにいる。磔刑のあとわたしが人を罰しなければ、そして今わたしが聖霊による受胎を通して来るのでないならば、わたしは人を罰する資格がないだろう。わたしがイエスと一つなのであるからこそ、わたしは人を罰し、裁くために直接来るのだ。今の段階の働きは完全に過去の段階を基礎にしている。だからそのような働きだけが段階を追って人を救済に導くことができる。イエスとわたしは同じ霊から来ている。わたしたちの肉体には何の関連性もないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちがすることやわたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化ならびにわたしたちの働きの必要性のためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが作り出す働きや、わたしたちが人に明らかにする性質も異なっている。そういうわけで、今日人が見るものや受け取るものは過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっているが、そして彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ期間に生まれたのではないが、彼らの霊は一つである。彼らの肉体は血縁関係も物理的関係も決して共有していないが、それによって彼らが二つの異なる時期において受肉した神であることを否定することにはならない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語を持っていないが(一人はユダヤ人の言語を話す男性であったし、もう一人は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国で、異なる期間になすべき働きを行う。彼らの霊は同じで、同じ本質を持っているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には完全な類似性はまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、彼らの肉体の外見と誕生は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関して持つ認識に何の影響も与えない。なぜなら結局彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることはできないからである。彼らには血縁関係はないが、存在全体は彼らの霊によって指示されているので、肉体は血統を共有しないままに、彼らは異なる期間に異なる働きを引き受けている。ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは同じ霊である。今日の受肉した神とイエスと同様である。彼らに血縁関係はないが、彼らは一つである。これは彼らの霊が一つだからである。彼は慈愛と憐れみの働きを行うことができ、同様に義である裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。結局、彼は世界を破壊し、不道徳な人々を罰する働きを行うことができる。彼はこのすべてを自分自身で行うのではないのだろうか。これは神の全能性ではないのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」より

    第二の受肉の働きは、人々には最初のものとはまるで違って見える。あまりに違うので、二つには何の共通点もないように見える。最初の働きのようなことは、今回は何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものとは異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、肉の体で行われる働きの性質によるのであって、外形によるのではない。三段階の働きの間に神は二度受肉し、いずれのときも受肉した神は新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うのである。人間の目では、二つの肉の体が同じ源から来ていると見極めることは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や心の能力を超えている。しかし、両者の本質は同じである。二人の働きは同じ霊に発しているからである。受肉した二つの体が同じ源から発しているかどうかを判断できるのは、二人の生まれた時代と場所やそのような他の要素によるのではなく、二人の表す神性の働きによるのである。第二の受肉による体はイエスの行った働きは何も行わない。神の働きに慣習的な決まりはなく、それぞれが新たな道を開くからである。第二の受肉は最初の肉に関する人々の心にある印象を深めも固めもしないが、それを補い、完成させ、神についての人間の認識を深め、人々の心にある、あらゆる規則を破り、人々の心にある神についての誤った姿を消し去る。神自身の働きのどの段階も個別には、人間に神についての完全な認識を与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのである。神はその性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。まして、神の働きの一段階だけで、どれほど完全に神を表せるだろうか。神は普通の人間性の陰に隠れて肉において働く。そして、その神性が現れてはじめて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見てのことではない。神はさまざまな働きを通して人間が神を知ることができるように受肉するのだが、働きの二段階は同じではない。このようにしてはじめて、人間は肉における神の働きについて、一つの面だけでなく、完全な認識をもてる。受肉しての二度の働きは別々のものだが、肉の本質とその働きの源は同一である。ただ、どちらも二つの異なった段階の働きをするために存在し、二つの別の時代に来るということである。いずれにしろ、受肉した神の肉は同じ本質と由来をもつ。これは誰も否定できない真理である。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より


人類に対する神の経営(救い)の働きの三段階の目的

2019-12-30 08:57:33 | 神の三段階の働き

   わたしの全経営(救いの)計画、六千年にわたる経営(救いの)計画は三段階、あるいは三時代から成る。それは始まりの律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして終わりの日の神の国の時代である。これら三時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階においてこの働きは人間の必要性に対応している。正確には、わたしがサタンに対して行なう戦いでサタンが用いる策略に応じて働きは行われる。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことであり、それによりサタンの支配下に生きる人類全体を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示し、サタンの耐え難いおぞましさを明らかにするものである。それに加えて、被造物が善悪を区別し、わたしこそがすべてを治める者であることを認識し、サタンが人類の敵であり、下の下、悪い者であることをはっきりと見極められるようにし、善と悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを絶対的な明白さをもって区別できるようにすることである。それにより無知な人類は、人類を堕落させるのはわたしではなく、創造主であるわたしだけが人類を救うことができ、人々が享受できるものを彼らに授けることができることをわたしに証しし、わたしこそがすべてを治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと人類は知ることができる。わたしの六千年の経営(救いの)計画は三段階に分けられており、わたしがそのように働くのは被造物がわたしの証人となり、わたしの心を知り、わたしこそが真理であることを知らしめるという成果を達成するためである。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

 

   

   三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三つの段階の働きには、それぞれ異なる目標と意味があるが、そのいずれもが人類を救う働きの一部であり、人類が必要とするものに応じて実行される異なる救いの働きなのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

   ここでは、神が人間を創った時点以降における神の旨と考え、そして行動についてまとめ、天地創造から恵みの時代の開始時点までに神が行った行為について検討する。その後、神の考えのうち、人間に知られていないものがどれかを知ることが出来るようになり、そうした未知の考えから、神の経営計画の秩序を明確化して神が経営の業を作った背景やその起源と展開過程を完全に理解し、そして神の経営の業により神が望んでいる結果、すなわち神の経営の業の核心と目的について完全に理解することが可能となる。これらの事柄を理解するためには、人間が存在しなかった、遠い過去の静寂の時代まで遡る必要がある。

   神が目覚めた時、神が最初に考えたことは、常に神とともに生きる人、すなわち命ある人間を創ることであった。この人間は神の言葉を聞き、神が信頼して話すことのできる者であった。次に、神はまずひと握りの土を取り上げ、神が考えていた最初の人間を創り、その人間をアダムと名付けた。命を持ち、息をする人間を創った後、神は何を感じたであろうか。神は、ともに過ごす愛すべき人間が居ることの喜びを、初めて感じたのである。また神は、父としての責任と、それに伴う憂いを初めて感じた。この生ける人間という存在は、神に幸福と喜びを与えたので、神は初めて慰めを感じた。これが、神が自身の考えや言葉だけでなく、自身のふたつの手によって実現した最初の業であった。こうした命を持ち、息をして、肉と血で創られた身体を持ち、神と話ができる人間の存在が神の前に現れた時、神は嘗てない喜びを感じた。神は責任を真剣に感じ、人間という生き物に心惹かれるだけでなく、人間の行動すべてが神を感動させ、神の心を和ませた。こうして、この人間という生き物が神の前に現れたときに初めて、神は、更なる人間を得たいという考えを持った。こうした一連の出来事は、こうした神の当初の考えから始まったことである。神にとって、こうした出来事は初めてのことであったが、その当初の出来事においては、神が感じたのが喜びであれ、責任であれ、憂いであれ、神が感じたことを分かち合う相手が、神には存在しなかったのである。この時以降、神は、それまで感じることのなかった、真の寂しさと悲しさを感じた。神は、人間が神の愛と憂いや、神の人間に対する意志を受け容れることも理解することも出来ないと感じたので、神は引き続き悲しみと心の痛みを感じていた。神は人間に対してこのようなことを行ったにもかかわらず、人間はそれに気付くことがなく、理解することもなかった。人間が神に与えた喜びと慰めは、幸福のほか、ほどなくして悲しみと寂しさも神に与えたのであった。以上が、この時点で神が考え、感じていたことである。そうした事を行っている間、神の心には憂いが入り交じり、それは喜びから悲しみへ、そして悲しみから痛みへと変化していった。神が望んだのは、人間に神の心にある事柄を早急に知らせて、神の旨を理解させることのみであった。そうすれば、人間が神に従うようになり、神と調和するようになる。人間は神の言葉を聞いてなお黙していることがなくなり、神の業をどのように支援するかを知らずにいることはなくなり、そしてなによりも、人間が神の要望に無関心でいることはなくなるであろう。こうした神が最初に完了した事柄は、極めて有意義であり、神の経営計画と現在の人間にとって大いに有意義であった。

   神は万物と人間を創った後、休むことはなかった。神は自身の経営を実施するのを待ちきれず、また自身が愛する人間を得るのも待ちきれなかった。

   …………

   …神は、人間を経営し救うことが、何よりも重要であると考える。神はこうした業を、自身の考えのみで行うのでもなく、また言葉のみ行うのでもなく、とりわけ何気なく行うのではない。神は、こうした業のすべてを計画に基づき、目的をもって、基準を定め、神の旨にしたがって行う。こうした人間を救う業は、神と人間の両方にとって極めて重要であることは明白である。業がいかに困難であったとしても、障害がいかに大きかったとしても、人間がいかに弱かったとしても、あるいは人間の反逆心が強かったとしても、神にとっては、そのいずれも困難とはならない。神は絶え間なく丹念な努力を続け、神が行う意向である業を経営する。また、神はすべてを計画し、すべての人間と、神が完了させたいと望むすべての業を経営しているが、そうした業はそのいずれも嘗て行われたことがない。神がそうした方法によって、人間を経営し救う大規模な計画に対して甚大な犠牲を払ったのは初めてである。神がこうした業を行っているうちに、神は、神の甚大な努力、神の中にある物事、神の存在、神の英知と全能たる存在、そして神の様々な性質について、人間に対し、少しずつ、かつ率直に示す。神は、従前行われたことがなかった啓示を、そうした事柄のすべてについて、少しずつ、かつ率直に行う。したがって、全宇宙において、神が経営し、救おうとする人間を除いては、神にそれほど近づき、緊密な関係を持つ生命体は存在しない。神の心において、神が経営し、救うことを望む人間が最も重要であり、したがって神はこうした人間を最も重要視する。たとえ神がこうした人間のために甚大な犠牲を払ったとしても、またこうした人間により神がひたすら傷つけられ、背かれたとしても、神はこうした人間を見捨てることは決してなく、不平不満を言うことも後悔することもなく、神の業をひたすら続行する。これは、遅かれ早かれ人間は神の呼び声で目覚め、神の言葉により動かされ、神が創造主であることを認め、神のもとへ戻ることを、神が知っているからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

   神がすることが何であれ、その手段がどのようなものであれ、代償がどれほどであれ、方針がどのようなものであれ、神がすることの目的は変わらないということである。神の目的は、神の言葉、神が要求するもの、そして神の心を人間に対して働くことである。つまりそれは、神が自身の段階に沿って善と思うもの全てを行ない、人間が神の心を理解できるようにし、神の本質を理解できるようにし、神の支配に従えるようにし、そうすることによって神を畏れ悪を避けるようにするためである。これが神のすること全てにおける神の目的のひとつの側面である。もうひとつの側面は、サタンが引き立て役で神の働きにおいては仕えるものであるため、しばしば人間はサタンの手に渡されるのである。これは人間がサタンの誘惑と攻撃のただ中にあって、サタンの邪悪さ、醜さ、そして卑劣さを理解するために神が用いる手段であり、そうすることで人々がサタンを憎み、悪であるものを知り、理解できるようにするためである。このような過程を通ることにより、人々はサタンの支配から徐々に解放され、サタンの非難、妨害、攻撃から解放される。そして神の言葉により、彼らの知識と神への従順、神に対する信仰と畏れにより、サタンの攻撃に勝利し、サタンの非難に勝利する。そうして初めて、人々はサタンの支配から完全に解放される。サタンから解放されるということは、サタンが打ち負かされたということであり、彼らはサタンの獲物でなくなるということである。彼らを飲み込む代わりに、サタンは彼らを手放したのである。なぜなら、そのような人々は正しく、信仰を持っており、従順であり、神を畏れていたからであり、サタンと完全に決別したからである。彼らはサタンを辱め、怖じ気づかせ、完全に打ち負かした。神に付き従うという彼らの確信、神への従順と畏れがサタンを打ち負かし、そしてサタンに自分たちへの攻撃を諦めさせるのである。このような人々だけが真に神のものとされ、そうなることが正に人間に対する神の救いの最終目標なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

   これが神による経営である。人類をサタンに引き渡し─神が何であるか、創造主が何であるか、神をどう礼拝するか、なぜ神に服従することが必要なのかを知らない人類を──サタンが堕落させるままにしたのである。神はそれから一歩一歩、人間が完全に神を礼拝しサタンを拒むまで、人間をサタンの手から取り戻す。これが神の経営である。これはみな神話的な物語のようで、わけがわからないように思われる。人々がこれを神話的な物語のように感じるのは、過去数千年の間にどれほど多くのことが人間に起こったかを知らないからであり、まして、この宇宙の広がりにおいてどれほど多くの物語が生まれたか、思いも及ばないからである。そのうえ、物質界の外に存在する、さらに驚くべき、はるかに恐ろしい世界があるのを意識することができず、人間の目では見ることができないでいるからである。これは人間には理解し難いことに思われるが、それは人間には神による人類の救いや神の経営の働きの意義が理解できず、また、人間が最終的にどのようになることを神が望んでいるかを知らないからである。そのような人類は、サタンに堕落させられる前のアダムとエバのようなものだろうか。いや、そうではない。神の経営は、神を礼拝し、神に従う一群の人々を得るためのものである。この人類はサタンにより堕落させられたが、もはやサタンを父とみなしておらず、サタンの醜い顔に気づいて拒み、神の裁きと刑罰を受けるため、神の前に来る。その人間は何が醜いか、それが聖いものとどう異なっているかを知っており、神の偉大さとサタンの邪悪さを認識している。このような人類は、もはやサタンのために働かず、サタンを崇めず、サタンを祭ることをしない。それは、その人たちが真に神のものとなった人々だからである。これが神による人類経営の意義である。…

   …………

   神の愛と憐れみが経営の働きの隅々に行き渡り、人間が神のよき意図を理解できるか否かに関わらず、神はいまだに疲れを知らず成就しようとする働きを続けている。人々がどれほど神の経営を理解しているかに関わらず、神の働きの恩恵と助けはすべての人が理解することができる。おそらく、今日、あなたは神が与える愛やいのちを一切感じていない。しかし、あなたが神を捨てない限り、真理を追究しようという決意を諦めない限り、神の笑顔があなたに顕れる日は必ず来る。神の経営の働きの目的は、サタンの支配下にある人類を取り戻すことであり、サタンに堕落させられ、神に敵対する人類を見捨てることではないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

   神は人類を創造し、人類を地上に置き、今日まで導いてきた。その後、人類を救い、人類のための罪のいけにえとなった。終わりの時に、彼は人類を征服して、人類を完全に救い出し、人に本来の姿を回復させなければならない。これが、彼が始めから終わりまで従事してきた働きである。つまり、人を元のイメージへ回復し元の姿へ回復させるのである。神は自身の国を打ち立て、人に本来の姿を回復させる。つまり神は地上における自身の権威を回復し、あらゆる被造物の間における自身の権威を回復する。人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によってのみ、神は次第に人に本来の姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、神の国を回復する。最終的にそれらの不従順の子を徹底的に滅ぼすのも、人がよりよく神を礼拝し、よりよく地上で生存することができるためである。神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく──これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである。人類がみな本来の姿を回復し、それぞれ自分の本分を尽くし、自分の立場を守り、神のすべての定めに従うことができたら、神が地上で一団の、自身を礼拝する人たちを得、自身を礼拝する国を打ち立てたことになる。神は地上で永遠の勝利を得、自身に敵対する者たちは永遠に滅びる。これは神が最初に人を造った時の意図を回復し、神が万物を造った意図を回復し、地上での神の権威、万物の中での神の権威、敵の間での神の権威をも回復したことになる。これらは神が完全に勝利を得たことのしるしである。その後人類は安息に入り、正しい軌道に乗った生活に入る。神も人との永遠の安息に入り、神と人が共有する永遠の生活に入る。地上の汚れと不従順は消え、地上の嘆き悲しみも消える。神に敵対する地上のあらゆるものも存在しなくなる。神と神に救われた人たちだけが残り、神の創造物だけが残る。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

   三つの段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの一集団、つまり神を知る者たちの一団が作られる。この人たちはみな神に対する認識があり、真理を実行することができる人たちである。彼らには人間性と理知があり、皆三つの段階の救いの仕事を認識している。これが最後になし遂げられる働きであり、この人たちは6000年にわたる経営(救い)の働きの結晶であり、最終的にサタンを打ち負かした最も有力な証しである

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

   現在まで六千年に渡る神の働きの実行の後、神は自らの行為の多くをすでに示しているが、それは主にサタンを倒し、すべての人間を救うためだった。神は、その機会を通して、天のすべてのもの、地上のすべてのもの、海の中のすべてのもの、および、神が創造した地上のあらゆるものがひとつ残らず、神の全能を知り、神のすべての行為を知るようにする。神はサタンを倒すための機会を捕らえ、人間に自らのすべての行為を示し、人々が神を褒めたたえ、サタンを倒す神の英知を賛美できるようにする。地に、天に、そして海の中にあるすべてのものは、神に栄光をもたらし、神の全能性を褒めたたえ、神のすべての行為を褒めたたえ、神の聖なる名前を叫ぶ。それは神がサタンを倒した証である。神がサタンを征服した証である。さらに重要なこととして、神が人間を救った証である。神の創造したすべては、神に栄光をもたらし、敵の打倒と勝利の帰還において神を褒めたたえ、偉大な勝利の王として神を褒めたたえる。神の目的はサタンの打倒だけではないため、神の働きは六千年間続いている。神はサタンの打倒を通して人間を救う。神はサタンの打倒を通して自らのすべての行為を現わし、自らの栄光のすべてを現わす。神は栄光を手にするだろうし、天使たちすべては神のすべての栄光を見るだろう。天の使者たち、地上の人間たち、そして地上のすべての創造物は、創造主の栄光を見るだろう。これが神の行う業である。天と地における神の創造物は、すべて神の栄光を目の当たりにし、神はサタンを完全に倒した後、意気揚々と帰還し、人間に神を褒めたたえさせる。こうして神は、これらふたつの側面を勝利の中に成し遂げる。最後にすべての人間は神によって征服され、拒否したり反抗したりする者、つまり、サタンに属する者すべてを、神は一掃する。あなたは今、神のそれらの行為をすべて見ているが、依然として拒否し、反抗的になり、服従しない。あなたは自分の心の中に多くの考えを抱いており、自分が望むことは何でも行う。あなたは自分自身の欲望と好みに従っている。それは反抗であり、抵抗である。肉のため、自分の欲望のため、および自分自身の好みのため、俗世間のため、そしてサタンのために神を信仰することは、不浄である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より

   わたしは地上において何千年もこのように働いてきたのであり、今日もこのように働いている。わたしの働きには格別に多くの項目が含まれているものの、この働きの目的は変わらないままである。それは、例えば、わたしが人間に対する裁きと刑罰で満ちていても、ひとたび人間が完全にされれば、わたしの行なうことはやはり人間を救うためであり、わたしの福音をよりよく広め、わたしの働きをあらゆる異邦人の国においてさらに展開するためであるのと同じである。…それは、この最後の時代において、わたしの名が異邦人の民族のあいだで賛美され、わたしの業が異邦人たちに見られ、わたしの業ゆえに彼らがわたしを全能者と呼び、わたしの言葉がまもなく実現するためである。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、わたしが呪った民族をも含む異邦人のすべての民族の神であることをわたしはあらゆる人々に知らしめる。わたしはすべての被造物の神であることをあらゆる人々に知らしめる。これがわたしの最も大きな働き、終わりの日のための働きの計画の目的、終わりの日に成就される唯一の働きである。

『言葉は肉において現れる』の「福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある」より