賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書の中のダビデ王はなぜ神の御心に適っていたのか

2020-05-05 11:20:50 | 聖書の解説

  ダビデ王はイスラエルの民から深く尊敬され支持された王でした。

 

 

   ダビデの名前を聞くと、彼の勇敢な行為が私の頭の中に沢山浮かびます:彼は石を投じて巨人ゴリアテを殺しました。彼は勇敢に戦いに挑み、各戦いに勝利しました。彼はプサルテリーとハープを奏でてヤーウェ神を讃えました⋯しかし、私はウリアを殺し彼の妻バテシバを力ずくで奪ったという彼の汚点も覚えています。

   私たちはダビデをどう見なすべきでしょう?彼はどのような形で見習うとためになるのでしょう?

ダビデ王の悔い改め

   ダビデがウリアを殺しバテシバを力ずくで奪った後、神の義なる性質が彼に降りかかりました。次の聖句に神のダビデに対する姿勢が記録されています、「あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう」サムエル記下 12:10。 神からの罰に直面したダビデはそれを進んで受け入れて神に服従し、さらに彼は慌てて神に祈りを捧げ、神の前で悔い改め、神の御慈悲を請いました。彼はこのようにヤーウェ神に祈りを捧げました、「主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。…夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした」詩篇 6:4-6。ダビデは自分が犯した過ちに対して深い自責の念を感じました。彼は毎日神の前で自分の罪を告白し、悔い改め、断食しながら祈りを捧げました。「夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした」という言葉がダビデの自責の度合を反映しています。これより、彼は心から悔い改めていたことが分かります。




   聖句にはこれも記録されています、「ダビデ王は年がすすんで老い、夜着を着せても暖まらなかったので、その家来たちは彼に言った、「王わが主のために、ひとりの若いおとめを捜し求めて王にはべらせ、王の付添いとし、あなたのふところに寝て、王わが主を暖めさせましょう」。そして彼らはあまねくイスラエルの領土に美しいおとめを捜し求めて、シュナミびとアビシャグを得、王のもとに連れてきた。おとめは非常に美しく、王の付添いとなって王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった」列王紀上1: 1-4。

   これらの聖句から、年老いたダビデは寝る時に温まることができなかったため、彼の召使がとても美しく若い女性を彼のベッドに連れてきて彼の布団の中で寝かせ、彼を温めさせていたことが分かります。しかしダビデ王は彼女を知ろうとはしませんでした。ダビデが以前犯した罪過が神の性質を害したことは明らかですが、これを理解した彼は完全に悔い改めて変化を遂げることができ、不倫は人生を通して一度しか犯しませんでした。彼の身分と地位を考慮すると、彼がそうすることは容易ではなかったと言わざるを得ません。これは、彼の神への信仰は真なるものであったこと、そして彼は神を敬けんする心を持っていたことを的確に証明しています。そして、彼は神の御言葉を嫌おうとはせず、もう二度と神の名を汚したくなかったのです。彼は神の前で心から悔い改めたおかげで神の御慈悲と容認を得ることができ、神はもう彼の罪過を覚えてはおられませんでした。

   しかし、神がダビデを是認されたことを知っていながらも、私たちの多くはそれが理解できず、彼に対する偏見を抱いています。なぜなら、私たちはダビデは一度不倫しており、他人の妻を力づくで奪い取り、彼女の夫を殺したと思っているからです。私たちはダビデの本性と本質を知らないと言わざるを得ません。ダビデは不倫を犯しはしましたが、悔い改めた後は二度と他の女性には手を出さず、美しいおとめが自分のふところで寝ていてもそれに動じませんでした。従って、ダビデはこの側面において完全に悔い改めたことが分かります。彼の本質に関して言えば、ダビデは善良の人だったのです。古代から現在まで、この点においてダビデより優れていた王は世界中に一人もいなかったと言えるでしょう。

   ダビデと比較すると、私は自分が恥ずかしくなります。ダビデはこの過ちを一度犯しただけで、彼はそれを完全に悔い改め、もう二度とその過ちは犯しませんでした。しかし私たちはどうかというと、私たちは罪を犯したら主に祈りを捧げ、口では悔い改めます。しかし、また類似する状況に直面すると、私たちは依然として自制できずに罪を犯し神に背いてしまい、罪を犯しては告白するというサイクルの中を生きています。これは私たちの悔い改めは単なる口だけのもので、私たちは神を恐れる心を持っておらず、ダビデが行ったように悔い改めていることを実際に貫いて証明できていないことを示しています。これ故に、ダビデの真の悔い改めは私たちが本当に見習うべきものであるのです。

ダビデ王は神殿を建てた

   この聖句にはこう書かれています、「ダビデ王はまた全会衆に言った、『…この事業は大きい。この宮は人のためではなく、主なる神のためだからである。そこでわたしは力をつくして神の宮のために備えた。すなわち金の物を造るために金、銀の物のために銀、青銅の物のために青銅、鉄の物のために鉄、木の物のために木を備えた。その他縞めのう、はめ石、アンチモニイ、色のついた石、さまざまの宝石、大理石などおびただしい。なおわたしはわが神の宮に熱心なるがゆえに、聖なる家のために備えたすべての物に加えて、わたしの持っている金銀の財宝をわが神の宮にささげる』…そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、『われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです』」(歴代志上 29:1-3,10)。

   ダビデは神の御心に対し最も深い配慮を示し、彼の人生における願いはヤーウェ神のために神殿を建てることでした。人々はサタンに堕落させられた後は頻繁に罪を犯し、サタンを礼拝し、そして偶像を礼拝するということを知った彼は、より多くの人々が神の前に行って神を礼拝できるようにと、神を礼拝するための神殿を建設することを検討しました。ダビデは神を敬けんし恐れる心を持っていたのです。彼は神の御心に最善の注意を払い、神の御心配されることを心配し、神が御考えになられていることを考え、心から犠牲を払ったのです。この聖句の記録より、彼は心と努力の全てを込めながら神殿の建設に必要な物全てを揃え、自分の貯金全額を寄付したことが分かります。ダビデは生涯の間に神殿の建設を完成させることはできませんでしたが、自分の息子ソロモンに自分が人生を通して叶えられなかった志を持ち続けるよう命じ、最終的に神殿は建設されました。

   明らかに、ダビデの行いは神の御旨に対する配慮を示すこと、神を満足させること、そして神を礼拝することを目的としていました。神の御旨を配慮し、心に神を宿らせていたこの人は神の前に全ての民を導くことができました。そうなら、どうして神は御不満であられたのでしょうか?一般家庭において、分別のある子供が自分の両親が沢山辛い思いをしているのを見ると、彼は心の中でこう考えます:「僕はいつになったら大きくなれるんだ?いつになったら両親のために何かをして両親の心配を分かち合うことができるようになるんだ?」親は自分の子供が思いやりのある子だと知ると喜びを感じます。これと同様に、神は働きにおける何らかの段階をなさる度に神からの任務を担い、神と協力し合おうと神のために労力を費やす人を必要とされます。ダビデはそのような人でした。

   私は、ダビデは神の御心に沿っていると神が仰った理由が理解できました:1つの点として、彼は罪を犯した後に心から後悔の意と悔い改めを抱いたことが言えます。もう1つの点としては、彼は神の御心に対して最も深い配慮を示し、神のために心をこめて神殿を建設し、全ての民を神を礼拝するように導いたことが言えます。従って、彼は神から好まれ、神の御旨と最も一致していた人であったのです。私はダビデの例に習い、神を恐れる心を抱き、神に抵抗して神の名誉を汚すことになるような罪を意図的に犯さず、悔い改めること、変化を遂げること、そして神を讃えることに注意を払い、これらを実際に貫いていきます。さらに、私は神の御心に最善の注意を払い、神の福音を伝導し、より多くの人々を神の前に導きたいと思います。


血の月が現れ、災害が頻発し、 主は既に新しい名前に変えて戻られたのか

2020-04-05 12:20:30 | 聖書の解説

   二千年前、主イエスは預言されました。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書24:7~8)またヨハネの黙示録にはこう預言されました。「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり……」(ヨハネの黙示録6:12)この二節の聖句は主が再来する時の兆しは、さまざまな災害が頻発し、また血の月の兆しが現れると明確に私たちに教えました。しかし、血の月は既に2011年と2013年に現れました。2014年4月から2015年9月までに連続の四つの血の月が現れ、太陽が暗くなってめったにない天象が伴っていました。近年、各国の情勢が混乱の中にあり、時々テロ攻撃が発生し、干ばつ、地震、洪水、火災も発生し続けています。しかも、2020年の災害はさらに大きく、新型コロナウイルス肺炎は世界中に広がり、至るところが不安に襲われています。オーストラリアの大火災は何ヶ月も燃え続け、数億匹の動物が死亡し、全世界に深刻な汚染をもたらしました。米国でインフルエンザの猛威が続き、致命的なインフルエンザウイルスが全米国で蔓延しています。カナダのニューファンドランド・ラブラドール州では前例のない暴風雪に見舞われ、都市全体が雪に埋められました。東アフリカも25年以来最も深刻な蝗害に遭遇し、数千万人が食糧危機に直面しています。プエルトリコでは102年以来最も強い地震に遭遇しました。フィリピンのマニラは火山噴火に遭遇し、巨大な火山灰が全都市を覆い、地震も起こりました。また北アメリカのカリブ諸島で7.7震度の地震が起こるなど、災害が頻発し、四つの血の月が現れ、主の再来の預言が既に実現されたことを示し、多くの主を信じる人々は皆今は終わりの日であり、主イエスが再来される時であると感じています。

   現在多くの人は皆主イエスが戻られて、新しい名前に変え、新しい働きをさなると証ししていますが、ある兄弟姉妹は聖書に書かれている「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)によって、主イエスの御名は永遠に変わらず、主イエスだけが救い主であり、主イエスの御名によって救われ、ほかの新しい名前を受け入れるのは主イエスを裏切ることになると思っています。このような考えはいったい正しいでしょうか。次に一緒に神様の名前についての真理を交流しましょう。

神様の名前は変わるのか

   私たちは神様の名前はイエスと呼ばれ、永遠に変わらないと思っていますが、事実は本当にこのようですか。神様の名前は決して変わらないのですか。一緒に二節の聖句を見てみましょう。聖書にはこう書かれています。「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。」(イザヤ書43:11)「これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。」(出エジプト記3:15)

   聖書の記載から分かるのは、律法の時代の神様はヤーウェと呼ばれ、ヤーウェ以外に救い主がいなく、ヤーウェの名前は永遠に続くのです。しかし、恵みの時代になると、なぜ人々は主イエスを救い主として受け入れたのですか。なぜまた主イエスの御名を守るのですか。しかも、聖書には「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)と書かれています。もし、私たちの思う通りに神様の名前が変わらないなら、神様の名前はなぜヤーウェからイエスに変わったのですか。「ヤーウェ」と「イエス」この二つの名前はいったいどれが神様の唯一の名前でしょうか。

   実は、「世々」とは神様がその時代での名前が永遠に変わらなく、つまりその時代で神様の働きが終了しない限り、私たちは神様のその時代の名前を守るべき、こうしてこそ神様の称賛を得られるのです。しかし、神様が新しい時代の働きをなさる時、私たちは神様の新しい名前を受け入れるべきです。こうしてこそ子羊の足跡に従い、聖霊の働きを得られるのです。律法の時代で神様がヤーウェという名前を取って、その時代の人々は「ヤーウェ」という名前を守り続け、永遠に変えられません。神様が受肉して「イエス」という名前で贖いの働きをなさる時、律法の時代の働きが完了し、もし人はヤーウェの名前を固執し、主イエスの名前を受け入れないなら、聖霊の働きに捨てられ、排除され、暗闇に落ちるのです。ペテロ、ヨハネなどの弟子たちのように主イエスの新しい名前を受け入れるだけ、聖霊の働きを得られ、主の救いを得られるのです。ここから分かるのは、神様の名前は決して変わらないのではなく、神様が新しい時代の働きによって変わりますが、神様の名前がどう変わっても、依然として同じ神様であり、ただ呼び名が異なるのです。しかも、聖書には「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)と書かれているのをどう理解しますか。実は、神様の本質、神様の性質が永遠に変わらないと指しているのです。神様の名前が永遠に変わらないのではありません。一段落の言葉ははっきりと説明しています。「神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。神の働きは常に同じだと言うのなら、神はその六千年の経営(救いの)計画を終えることはできるであろうか。あなたは神は永久に不変であることだけ知っているが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代まで連れてくることができたであろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜであろうか。……『神は不変である』という言葉は神が本来持っているもの、そして神の在り方に関してである。いずれにせよ、六千年の働きを一点で定義することはできないし、単なる静的な言葉で描くこともできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するように単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはいられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても働くことができ、これはいかに神の働きが常に前進しているかという象徴である。」(『神の働きのビジョン(3)』より)ここから分かるのは、神様の本質、神様の性質は決して変わらないが、神様の名前が変わるのです。つまり神様が違う時代でなさった異なる働き、異なる名前を取り、神様の名前は「ヤーウェ」と呼ばれても、「イエス」と呼ばれても、神様の本質が変わらず、いつでも一人の神様が働きをなさるのです。もし、主が再来されて新しい名前に変え、私たちは受け入れるなら、これは主イエスを裏切ることではなく、子羊の足跡に従うのです。当時ユダヤ教のパリサイ人は、神様の名前が時代によって変わるのを知らなかったため、彼らはメシアだけが彼らの神様であり、彼らの救い主であると思い、結局、神様の名前を「イエス」に変えて、贖いの働きをなさって来られる時、彼らは気が狂って主イエスを罪に定め、主イエスに抵抗し、最終的に、主イエスを十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯してしまい、神様の懲罰を受けたのです。私たちはこのことを今後の戒めとすべきです。自分の観念と想像によって神様の名前が永遠に変わらないと決めつけることができず、さらに終わりの日の神様の名前はまた主イエスと呼ばれると言うこともできず、さもないと神様を決めつけることになるのです。

神様が違う時代で異なる名前を取る意義

   神様はなぜ違う時代で異なる名前を取るのですか。神様が異なる名前を取る意義は何でしょうか。一緒に一段落の言葉を見てみましょう。「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。『イエス』は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。」(『救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た』より)この段落の言葉は神様が各時代で異なる名前を取る意義を教えてくださり、神様が律法の時代でヤーウェと呼ばれ、神様が律法の時代で行われた働きを表し、神様が律法の時代で発表された威厳、怒り、呪い、憐れみの性質を表しています。ヤーウェ神は律法と戒めを発布され、人々に罪と何か、地上でどのように生きていき神様を礼拝するか、律法と戒めを守る人が神様の祝福を得られ、律法に背く人は神様に呪われ、懲罰されるのを分からせました。したがって、律法の下でのイスラエル人は皆律法を守り、ヤーウェの名を聖いものとし、何千年ものあいだヤーウェ神の導きの下で生活していました。律法の時代の末期になって、人類の堕落はますます深くなり、律法や戒めを守れず、捧げるものもなく、律法違反によって死刑を宣告される危険な状態にありました。神様は人類を救うために、恵みの時代を開き、イエスという名前を取って、人類を贖う働きをなさいました。言い換えれば、「イエス」という名前は神様が恵みの時代でなさった働きを表し、神様が恵みの時代で発表された憐れみ、慈しみの性質を表し、主イエスが人に憐れみを与えられ、人に悔い改めの道を賜り、最後に人類を贖うために十字架に釘付けにされ、人類はもはや律法によって罪に定めることがなくなり、神様の前に来て祈り、主の恵みと祝福を得られるようになりました。ここから分かるのは、各時代で神様が固有の名前があるが、どの名前も神様の全体を表すことができず、そのため、神様の働きの新しい段階はそれぞれの時代の意義を反映する特定の名前を取って、神様のその時代での働き及び発表された性質を表すのです。同時に、私たちは、神様は常に新しく、決して古くならない神様であり、神様が新しい時代の働きを開く時、再び古い名前を使わず、私たちはただ神様の新しい時代での名前を受け入れてこそ、聖霊の働きを得られ、神様の称賛を得られることが分かりました。

神様の終わりの日の新しい名前を通して主の再来を迎える

   それでは、主が再来される時に新しい名前に変えるのですか。実は、聖書はずっと前に、私たちに主が再来される時に新しい名前があると教えてくださいました。例えば、「利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(ヨハネの黙示録3:12)「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである。」(ヨハネの黙示録1:8)「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。』」(ヨハネの黙示録19:6)「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』。」(ヨハネの黙示録4:8)「そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、『今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。』」(ヨハネの黙示録11:16-17)聖書に神様の新しい名前について言及されていることから、私たちは主が再来される時に必ずイエスと呼ばないことを確定できます。しかも、ここには多くの箇所に神様の名前は「全能者」と呼ばれることに言及し、このいくつかの聖句以外に、ほかの聖句にも記載されています。例えば、「ヨハネの黙示録」の15章3節、16章7節、14節、21章22節などです。これらの聖句には「全能者」と言及しています。これらの聖句に基づき、私たちに分かるのは、主が戻られて新しい働きをなさる時に、主の名前は「全能者」に変わることです。しかも神様は「全能者」という名前を用いて新しい時代を開き、恵みの時代を終わらせ、人々に神様のすべての性質を認識させ、皆「全能者」を大いなる名前と崇めるのです。私たちは神様の終わりの日の新しい名前を受け入れるのは、主イエスの再来を迎えていることです。

   今「東方閃電」の人が主イエスが既に戻られ、全能神と呼ばれることを証ししています。「全能神」という名前はまさにヨハネの黙示録の預言の成就です。しかも、彼らは全能神が既に多くの真理を語り、一段階の人を裁き清める働きをなさり、人々をそれぞれの種類に応じて分類され、毒麦と麦を分けられ、神様の言葉の裁きを受け入れ、清められる人は災いの前に、神様に勝利者に完全にされて神様の国に入り、神様の言葉の裁きを拒絶する人は災いの中に落ちるのです。全能神がなさった言葉の裁きの働きはまさに聖書の預言の成就です。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)「収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう。」(マタイによる福音書13:30)聖書の預言の成就から見れば、おそらく全能神が主イエスの再来でしょう。私たちは主を迎えることにおいて、謙虚に尋ね求め考察すべきです。こうしてこそ主の再来を迎える機会を容易に逃すことはありません。