賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンの証し-現代のパリサイ人に道を塞がせてはいけません

2019-12-05 20:15:45 | 神に帰す証

教会がわびしい状態にあった時、福音が私の元に届きました

   2015年4月、私は海外の中国系キリスト教会での集会に参加しました。当初は教会内に明るい様子が見られました。兄弟姉妹たちが率先して聖餐式を行っており、更に、教会内には様々なキリスト教徒のフェローシップがありました。牧師はとても敬けんな方で、兄弟姉妹たちに対しても愛情を持って接している様子でした。例えば、誰かが病気にかかると、この牧師は同僚たちに彼または彼女のために祈りを捧げるよう誘導していました。彼らは集会に参加しなかった信仰者たちの訪問までしていました。当時私は熱心に真理を追い求めていたので、牧師は私のために神学教育の準備をしてくださりました。しかし、しばらくした後、様々なキリスト教徒のフェローシップがあったにもかかわらず、ほんの数人しか集会に参加したり、説教を聞きに来ていなかったのです。例えば、毎週行われていた聖書の勉強会の前には数十人の人たちが食事をしには来るのですが、勉強会が始まると6,7人しか残っていませんでした。聖書の勉強会に参加しようと残った信仰者が何人かいましたが、彼らは居眠りをしていました。牧師はこの事態を分かっていても、全く問題解決ができなかっただけでなく、集会を開かない教会よりはましだと言っていたのです。私はまた、中には企画したアクティビティにもっと人を参加させるために異なる種類のスナックと軽食を作っていたフェローシップもあったことも知りました。私は神に仕えているように見えても、心の中は暗く空っぽでした。これを理由に、私は主が雲から降臨されて私たちを天へとお引き上げくださることを頻繁に祈り、それを待ち焦がれていました。

   私は自分の祈りにお応えくださった神に感謝しています。2017年の初め、私が教会の姉妹たちと一緒に春の行楽に出かけた時、私は全能神の教会から来た兄弟ヂャンと兄弟リュウと知り合いになりました。その後、私たちは一緒に教会のわびしい状況の原因について話し合いました。私は、彼らの話を聞いて、当時は宗教界全体が暗くわびしい状況にあったことを知りました。従って、兄弟姉妹たちは信仰心と愛情に欠けていたのです。これに加えて、牧師たちも新しく説くことを何も持っていませんでした。これはアモス書8:11に記されたこの事態を現実化していたのです、「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」そして、私たちは主の再臨について話しました。私は主の再臨をいつも切望していたので、この話題を追求し、探求し続けるつもりでした。

私の観念は取り除かれ、私は神の再臨を喜びました

   後に、全能神の教会から来た2人の兄弟は、主イエス様は既に肉としてお戻りになられており、世の終わりの裁きの働きを成されていると私に証言したのです。全能神は再臨なされた主イエス様なのです。これは聖書に記録されている次の内容を現実化しています、「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。」 (ルカによる福音書17:24)。兄弟ヂャンも私と一緒に人の子の来臨にまつわる謎について話し合ってくれました。私は、彼らから主イエス様は既に肉としてお戻りになられていると聞いて、驚いたと同時に嬉しくなりました。私は聖書に記された次の御言葉を考えずにはいられなくなりました、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)。「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」 (マタイによる福音書 24:44)。以前、私がこれらの節を読んだ時は、これらが一体何を意味しているのか解りませんでした。これらは世の終わりに受肉された主の秘密の働きに関することなのでしょうか?しかし、この時、私はこう思いました:「聖書の中には主が万人に見える形で雲から降臨なされるとする預言が沢山ありますが、これは一体どういう意味なんでしょう?」私が戸惑いを口にした後、兄弟リュウがこう話してくれました、「聖書の中には主が御自信の御力と偉大な栄光をもって雲から降臨なされるとする預言が沢山あります。これは真実なのです。しかし、次の節にもあるように、主がその御姿を隠しながらお越しになることを預言している箇所もいくつかあります、「見よ、わたしは盗人のように来る。」 (黙示録 16:15)。「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音書 24:44) 「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マルコによる福音書13:32)。この聖書の言葉から、主がこのような形で再臨されるのは私たちが想像しているほど容易ではないことが分かります。主が再臨される方法は2種類あります:1つはその御姿を隠されながら、そしてもう1つは公然とした方法です。すなわち、受肉された主は世の終わりにその御姿を隠しながら来られ、人類を裁き、清め、そして救う働きをなさるということです。受肉された神が御姿を隠しながら再臨される際の働きは、その終末の働きにおいて克服者の集団をお作りになれた後で完結するのです。従って、神は大災害を引き起こされ、善良な人には恩恵を、邪悪なものには罰を与えることに着手なさるのです。災害の後、主は雲の上から無数の人に対して公然とその御姿をお見せになられます。そして、次に書かれている通り、主イエス様が公然と降臨なさるという預言が現実となるのです:「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(黙示録 1:7)。私たちが雲の上から公然と人々に御姿をお見せになる主を目の当たりにする時、受肉された神の秘密の働きを受け入れない人たちは間違いなく救われる機会を失います。神を突き刺したものたち、または世の終わりのキリスト様であられる全能神に抵抗し、非難を浴びせたものたちは、自分たちが抵抗し、非難を浴びせた全能神は正に降臨なされた主イエス様であられることを知り、絶望のうちに胸をたたきながら悲しみ、嘆き、怒りをあらわにするのです。そして、その時、地上に住む全種族の嘆き悲しむ光景が広がるのです。しかし、受肉された神が秘かに裁きの働きを成される間、私たちは主が雲の上から公然とその御姿をお見せになる様子を見ることは決してないでしょう。

   私は2人の兄弟が話してくれた内容から次のことを理解しました:「主は御姿を隠しながら御自信の御言葉を表現するために受肉され、御自信の働きによって克服者の集団を手になさった後は無数に存在する人間たちに御自信の御姿をお見せになられ、善良な人には恩恵を、邪悪な人には罰をお与えになるのです。」彼らの交流によって私はこれを完全に確信しました。私は全能神の教会について徹底的に研究する決意をしました。しばらく研究をした後、私は神の3段階の働きの内容や、終末の時代に裁きの働きをなさる方法とその意義、さらには神の受肉について等多くの真理を知りました。私は全能神はかねての主イエス様であられるのだと強く確信したのです。その後すぐ、私は全能神の教会で集会に参加し始めました。

牧師との真っ向からの戦い

   2017年5月、私が世の終わりの神の働きを受け入れたことを疑った牧師リーは、教会で2人で話しをしたいと2度も伝言を送ってきました。彼の伝言を読んだ私はびっくりしたと同時にナーバスになり、こう思いました:「彼は前、集会の場で堂々と全能神を罪人扱いして、私たちが全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取ることを妨害し、阻んでいたよな。最近は自分がチャットグループで全能神に抵抗して、全能神を罪人扱いしている様子を撮った動画なんか共有していたし。私が世の終わりの全能神の働きを受け入れたことを知ったら、彼は私をどんな目に合わさてくるだろう。彼は私に無理やり全能神を冒涜させたり、真理の研究を止めさせることなどできるんだろうか?」私はとても怖くなりました。その後すぐ、私は神の前に行ってこう祈りを捧げました、「全能の神様。私の新しい教会の牧師と長老たちは私があなたの新しい働きを受け入れたことを恐らく知っているのではないかと思います。彼らは私と教会で面談をする予定を立ててきました。彼らが何を計画しているのか分かりません。神様!あなたは天と地、そして万物を支配される主権者であられます。あなたは人の心の奥底まで見抜くことができる神であられます。彼らが何を言ってこようとも、どうか私に正しい言葉、自信そして知恵をお与えくださ、そして私が彼らに立ち向かえるようにしてください。」こう祈りを捧げた後、私はすぐに全能神教会の兄弟姉妹たちにこのことを伝えました。彼らは私に神の前でもっと祈りを捧げるように言いました。更に、彼らは、もし牧師と長老たちが真理を求める、または研究する意思をもっておらず、全能神に対して直接非難し、抵抗しているのなら、私は神の側に立って真理を守り、神の証言をすべきだとも言いました。神様ありがとうございます。兄弟姉妹たちの言葉は私をとても忠実にしてくれたと同時に、私が牧師と長老たちと対面できる強さを与えてくれました。

   私は予約の時間に教会に到着し、牧師リーと2人の聖職者が待つ部屋に呼び込まれました。私はすぐ緊張して、素早く心の中で神にこう祈りを捧げました:「神様、どうか私の心をお守りください、そしてあなたの証言をできるように、適切な言葉をお与えください。」私が席につくと、牧師リーは率直にこう質問してきました,「あなたはよそ者たちを自宅に受け入れて、その者たちの説教を聞いていたらしいではありませんか。どうして私たちに相談しなかったのですか?あなたは私たちの教会で主の働きを受け入れたのだから、私たちはあなたに配慮する必要があるのです。私たちはあなたのことが心配です。これはあなたのためにやっているのですよ。」私は彼の言葉を聞いて不安になり、こう考えました:「どうしてあなたはいつも私に制限を課して、縛りつけてくるのですか?どうしていつも私を束縛して、コントロールしたがるのですか?私は自由に真理を学び、研究することができるんです。」そして、私は正当に厳粛な態度でこう答えました、「確かに、私は自ら進んで主を信仰し、洗礼を受け、この教会に来ましたが、そしたら私はもう他人の説教を聞いてはいけないと仰るのですか?聖書にはこう記されています、「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ロ—ラによる福音書10:17)。 あなたは私がよそ者を受け入れたりすることも、他人の説教を聞くことも許しになりませんが、それははたして主の教えと合致しているのでしょうか?実際に、全能神教会の兄弟姉妹たちの交流を数回聞いた後、私は彼らの説教はとても素晴らしく、それには聖霊の新しい啓きがあると考えるようになりました。彼らは真理の交流を通じて私の生活における様々な困難を解決することができ、神の働きと聖書に記されている謎に関する知識を与えてくれています。彼らの交流と説教には聖霊の働きが宿っているのです。。。」私が喋り終える前に、牧師リーが怒りながら割り込んできました。その後、彼は言葉で激しく神を冒涜しました。私は腹を立てて彼にこう言いました、「あなたは全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取りましたか?全能神の働きを求めて、研究していますか?してもいないのに、無作為に全能神教会を非難するなんて無神経すぎます。現世においても、来世においても神を冒涜する罪は許されないのだから、私たちは信仰者として、神を敬う心を持つ必要があるのです。」

霊的な戦いにおいて識別することを学ぶ

   その後、牧師はこうも言いました、「全能神教会は主イエス様が肉となって再臨されたと証言している。そんなことは不可能です。聖書にははっきりとこう書かれているのです、『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。』(黙示録 1:7)。 従って、主は世の終わりに雲の上から再臨なさるに違いないのです。」彼のこの言葉を聞いた後、私は兄弟ヂャンが私と交流してくれた時に私たちがこの節について理解し、知り得たことについて考えました。従い、私は彼らにこう言いました、「私たちが神の働きをこの節の文字どおりの意味だけで定義してしまうのは不適切です。実際には、人の子の来臨を言及している箇所が多く存在しています。これはその1例です、『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。』(ルカによる福音書17:24)。『見よ、わたしは盗人のように来る。』(黙示録16:15)。これらの節は全てが人の子の来臨について触れています。人の子の言及があるので、それは受肉されたキリスト様を指しているに違いありません。」牧師リーが割り込んでこう言いました、「人の子とは主イエス様のことを指しているのです。」これに私は言いました、「これが主イエス・キリスト様を指しているのであれば、主イエス様が既に受肉されて贖いの働きを成就なされた後にどうして、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』 (ルカによる福音書 17:25)。などということが言えましょうか?これからも分かるように、これは世の終わりに2度目の受肉をされた神を指しているのです。世の終わりに再臨された主が、肉としてではなく、霊的な御姿をお見せになるのなら、言うまでもなく主が多くの苦しみを強いられること、ましては現世代から拒まれることなどあり得ません。」この後は、私が彼らとどのように話をしても、彼らは聞く耳を持ってくれず、真理を調べもせず、依然として聖書の表面的な意味を固執していました。

   この時、私は、彼らは間違いなく再臨される主を心待ちにしている人たちではないことを明白に知りました。私は神の御言葉のこの節のことを考えました、「どの教団、教派の指導者を見ても、みな独善的で聖書を勝手に解釈しています。彼らは賜物と学識に頼って働いています。彼らが説教をすることが出来なければ、人々はそれでも付いて来るでしょうか。」(「真理の追求のみが真の神への信仰」より)神の御言葉が明らかにされることは全てが真実です。聖書には、人の子が来臨すること、そして主が盗人のように来臨されることを予測する箇所がたくさんあります。牧師と長老たちはその全員が神学校を卒業し、聖書を極め、長年に渡って主に仕えてきています。しかしながら、彼らは聖書にある預言の真義を読み取ることができないのです。彼らは神を信仰していながら、聖書の表面的な意味を学ぶことにしか集中しておらず、人々から尊敬されたいがために、神学理論を身に付けて自己顕示しているだけだということが分かります。これ故に、彼らは聖書を暗記し、長年に渡って説教し、働いてきているにもかかわらず、神を全く理解していないだけでなく、主イエス様が再臨される時に、宗教的な観念を固執することで神の働きに制限を課してしまうのです。彼らは正に盲目に人々を導く人たちなのです。



   ついに、往生しない私を見た牧師リーは、同僚たちの前で立腹してこう言いました、「私が教会を代表して結論を発表します。今後、あなたの教会における奉仕活動全てを中止します。これについて、自宅で落ち着いて慎重に考えなさい。」その瞬間、私は心が痛み、滴り落ちる涙を抑えられませんでした。私が悲しかったのは彼らが私の奉仕活動を中止したからではなく、長い間牧師リーと仲良くしていたにもかかわらず、そして彼は表面的にはとても敬けんで、主のために最善を尽くし働いていたように見えたにもかかわらず、彼らは私が真の道を調べていたことだけを理由に私を責め立て、私を見捨てたことが理由でした。彼らは信仰者たちに説教をして、主が来臨されるのを待っているようにとずっと言っていたのです。今、主は肉として再臨されておられるのに、彼らは神の終末の働きを見い出すことも、調べることもしていません。それどころか、彼らは真の道を調べる人々を妨害し、非難しているのです。この現状をふまえ、私は思わず主イエス様がパリサイ人たちを非難するために仰ったこの御言葉について考えました、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。」 (マタイによる福音書23:27)。当時のパリサイ人たちを振り返ってみてください。彼らは頻繁に礼拝堂で信仰者たちに聖書の説明をし、人々の前で祈り、聖書の規定によって他の人たちに有罪を宣告していました。表面的には、彼らは聖書に従い、とても敬けんな人たちであったように見えました。しかし、彼らは神の御言葉を実践して神の御命令に従う代わりに、宗教的儀式を行い、宗教上の規則に従うことだけに留意していました。彼らの振る舞いと行動は神の御心と御要求とは逆の方向に向かっていたのです。これがパリサイ人たちの偽善行為の本質であり、神に対する抵抗だったのです。それでは現代の牧師と長老たちに注目を戻しましょう。彼らは聖書に盲目な信念を注ぎ、それを敬い、称賛しています。彼らは宗教的儀式の種類、日常の宗教的業務と朝課に参加すること、パンをちぎり配ること、聖餐式に参加すること等にしか集中していません。彼らは信仰者たちに謙虚さ、辛抱強さ、敬けんさ、そして愛を説くことだけに重点を置いています。しかし、実際には、彼らは神を愛したり、神に従ってもいなければ、神を敬う心など全く持っていないのです。彼らは働いて説教をする時、聖書に関する知識と神学理論を固執し、それらを詳しく解説することしか重要視していません。主の御言葉の内容を実践して体験することや、神の御命令と御要望に従うにはどうすれば良いのかということになると、彼らはこれらを求ることも、探求することもなく、これらを実践して、これらに従うように人々を導きもしないのです。彼らは自己顕著するために、そして自分達が出生するために働き、人々に自分たちを尊敬して、敬うように仕向けているのです。

障害を踏み越え、全能神に従う

   後に、私は、私と共に全能神の終末の働きを受け入れた姉妹も牧師とその同僚たちから非難を受け、教会から除名されていたことを知りました。牧師と長老たちはまた教会を完全に封鎖して、ここ2年の間に教会の集会に参加した信仰者の中に全能神教会から来た者がいないかどうかを知るための調査を実施しました。さらに、毎週日曜日の午後には、牧師が教会内で全能神教会対抗を唱えるようにもなりました。私はこの知らせを聞いて激怒しました。教会の中にはまだ主を心から信仰し、主の再臨を強く待ち望んでいる兄弟姉妹たちが何人かいました。しかしながら、彼らは全員がと当時はこれら偽善的な牧師と長老によって束縛され、コントロールされた状態にあり、真の道を調べる機会が全くありませんでした。私はこう考えていると懸念に駆られました。そして、私は主イエス様のこの御言葉のことを考えました、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」 (マタイによる福音書 23:13)。主イエス様が来臨され、説教された時、パリサイ人たちは主イエス様の御言葉には権威と力があることをはっきりと分かっていました。彼らは主イエス様の御言葉を求めることも、調査することもせず、その代わりに、主イエス様は悪霊を払拭するために悪魔の王子を頼りにしているなどと言いながら悪意をもって主イエス様を非難し、中傷することで、聖霊に対する冒とくの罪を犯し、神の性質を深刻に害したのです。パリサイ人は自ら主イエス様を冒涜し、非難しただけでなく、信仰者たちを駆り立て、欺くことで神に抵抗させ、神を非難させたのです。その結果、彼らは主からの御救いを逃し、パリサイ人の副葬品や犠牲者となってしまったのです。この牧師と長老たちの行為は当時のパリサイ人のものともはや同じなのです。人々が主イエス様の再臨に関する福音を広めると、彼らは教会を封鎖して信仰者が真の道について調べることを妨げるのです。これはこの人たちは、人類に対して天国への道を閉じ、自らがはいることもなければ、他人にもはいらせないという人々であるということを示していないでしょうか?しかし、私が一番理解に苦しんでいるのは、この牧師と長老たちはパリサイ人は主イエス様に抵抗していたことを明らかに分かっているにもかかわらず、どうしてパリサイ人の道を歩んでいるのかということです。どうして彼らはこんなに必死になって神の新しい働きに抵抗し、それを有罪扱いするのでしょうか?

   その後、私は神のこの御言葉を目にしました、「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を朗読するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と自称しているが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは『健全な肉体』の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」(「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より)。神の御言葉を読み、そして自分の個人的な体験により、私は宗教界における牧師と長老たちの本性を見極めました。彼らは正に障害物であり、神を信仰するという旗印の下に神に反抗し、人々が神を信仰するのを妨げるキリストの敵なのです。名目上、彼らは教会で兄弟姉妹たちを育てているということになっています。しかし、実際には、彼らは信仰者たちがいのちの成長を遂げることなど全く気に掛けていないのです。信仰者たちの信念と愛は冷めてしまい、それと同時に彼らは否定的かつ弱気にもなってしまいました。今回のケースについて言うと、牧師と長老たちは信仰者たちに真理を求めたり、聖霊の働きが宿る教会を見つけに行くように導いたりもせず、むしろ信仰者たちを厳重な管理下に置いているのです。特に、全能神が人々にいのちを備えようと真理をお示しになる時、彼らはそれを調査せず、受け入れもせず、代わりにありとあらゆる方法で真の道に反抗し、それを非難し、信仰者たちが真の道を調査するのを妨害するのです。彼らは信仰者が全能神教会にいる人々と連絡を取ることや、全能神の御言葉を読むことを許しません。彼らは自分たちの地位と生活のために、終末の時代における神の働きについてあちこちでうわさを流し、神の働きを中傷し、非難するのです。牧師と長老たちの振る舞いと行動全ては神に抵抗するものではないでしょうか?彼らは主イエス様が仰る悪の従者、もしくは現代のパリサイ人と言えないでしょうか?彼らは可能な限り、信仰者が世の終わりの神の御救いを受け入れることを邪魔するのです。彼らは私たちを地獄に向って引き寄せ、神の終末の御救いを授かる機会を逃させようとしているのです。これらも分かるように、彼らは人類の魂をむさぼり食う悪魔で、羊の皮を被った狼なのです。私は、牧師と長老たちの持つ真理を嫌い神に抵抗する本性と本質を見極めた後、彼らを心の底から嫌い、拒絶し、これ以上彼らに束縛されることはなくなりました。

   私は新しい教会では奉仕活動の全てを中止されられましたが、今現在は全能神教会で自分の本分を尽くしています。私は兄弟姉妹たちと頻繁に集まり、そして自分の本分を尽くすことで以前よりも価値があり、有意義な生活を送っていると感じています。神様、どうもありがとうございます。私はついに天国につながる道に置かれた障害を乗り越え、神の御許にはいることができたのです。私は神を従う過程において、神に満足していただき、神の御心を和ませることに精一杯努力いたします。全ての栄光、全能神にあれ!アーメン!


神様の性別の奥義を理解して、主の再臨をお迎えする(II)

2019-12-03 20:37:18 | 神に帰す証

   ある日、私が元々所属していた教会の姉妹が自宅に来て、熱心にこう言いました。「姉妹、主を信じる兄弟姉妹はみんな主の再臨を切望しています。いまや主はお戻りになったのですから、神様の性別が自分の観念に合わないからというだけでそれを探し求めも考察もしないなら、神様を閉め出していることになりませんか。それは主の御心と一致しているでしょうか。主イエスはこうおっしゃいました。『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう』(マタイによる福音書 7:7)探し求めたり考察したりしないなら、どうして主が扉を開けてくださいますか。どうして神様の出現をお迎えすることができますか。イエス様の時代を振り返ってみると、パリサイ人は聖書によく通じていましたが、主イエスの到来が自分たちの観念に合わないからといって、主を生きたまま十字架にかけ、ユダヤ人は亡国の苦しみに遭いました。私たちもパリサイ人と同じ道を辿ろうとしているのですか。神様は本来霊であり、かたちがなく、見ることも触れることもできず、性別はまったくありません。神様が肉となられて初めて、男女の区別が生じたのです。神様が男女どちらで受肉なさろうとも、その働きの目的は変わらず、神様を愛する人全員をサタンの影響から完全に救われ、御国へと導かれることなのです」

   姉妹の短い言葉は私に優しく思い出させる働きをしました。私は考えました。そうだわ。主イエスがおいでになって働きをなさったとき、ユダヤの祭司長や律法学者やパリサイ人は聖書によく通じていて、何世代にもわたって神殿で神様に仕えてきた。でも主イエスが普通で正常に見え、王様のような顔つきをなさっておらずメシアと呼ばれていなかったから、彼らは主を断罪して冒涜し、主がお話しになる真理を拒んで受け入れず、しまいには主を十字架にかけた。いま、私は主がお戻りになったと聞きながら、それを探し求めも考察もせず、その代わりに受け入れるのを拒み、主の到来を説教しに来てくれた兄弟姉妹を何度も何度も家に入れなかった。私はパリサイ人と同じ道を歩んでいるんじゃないかしら。私が黙ったままでいるのを見た姉妹はこう言いました。「ここに神様の御言葉の本を持ってきました。どうか真剣に読んでください」彼女の誠意に溢れる言葉と期待に満ちた表情は、私の心を和ませました。長いあいだ、兄弟姉妹は福音を説教しようと何度も何度も私の家に来てくれましたが、神様から直接与えられたのでない限り、誰ひとり信仰と愛をそこまで多くもっていないでしょう。それで私は本を受け取り、そのように考察することに決めたと姉妹に言いました。



   姉妹が帰ったあと、私は待ちきれずに本を開きました。読めば読むほど、この本の御言葉には権威と力が大いにあると感じました。その本は創世から終わりの日に至るまで、旧約聖書から新約聖書に至るまで、新約聖書から黙示録に至るまで、神様の働きの三段階をはっきりと明瞭に語っていました。それはまた、私たちの現状と神様への信仰に関する見解を暴き、読むにつれてすっかり納得しました。これらの御言葉は神様の御声だと感じるとともに、神様以外に誰が人類についてここまで完全に認識しているだろうか、どんな有名人や偉人もこれらのような権威ある言葉を語れたことがない、と思いました。自分が長期にわたって干ばつに苦しみながら、その後いのちの水で潤された苗木のように感じられました。むさぼるようにその本を読んでいると、霊がますます心地よさを感じていきました……

   ある日、私は次の神様の御言葉を読みました。「神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。その働きの際、イエスは神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それではなぜこの段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に関しては性の区別はない。神の働きは神の望むようになされ、いかなる制限にも左右されることはなく、非常に自由であるが、各段階には実質的な意義がある。」

   この一説を読んだあと、心が突然光で満たされました。その通りだと私は考えました。神様は本来霊であって性別をおもちにならない。受肉した神様の性が男女どちらだろうと、神様の霊がまとわれている肉体である限り、それはキリストであり、神様ご自身である。神様が二度受肉なされたとき、それぞれの性は違っていたけれど、本質的にはやはり神様であり、働きをなさる方もやはり神様ご自身である。例えば、主イエスが以前に男性として現われて働きをなさったとき、そのお身体は神様を表現するものだった。今の終わりの日、主は女性の肉体でお戻りになって働きをなさっているけれど、その肉体も同じく神様を表現している。神様が異なる性で受肉なさるのは単に神様の働きが異なっているからで、外見上は違う肉に見えるけど、本質は同じ、神様ご自身の本質である。そして次に、自分自身のことと、自分がいかに混乱していたかを考えました。過去数年にわたり、兄弟姉妹がどう説教しようと、私はいつも彼らの言うことを拒んで受け入れませんでした。私はそこまで反抗的で、まさにパリサイ人のようであり、自分の観念と想像に頼って神様の働きを規定し、神様による終わりの日の救いをあやうく逃すところだったのです。

   私は次にこれらの神様の御言葉を読みました。「イエスの働きが終わりの日のこの段階の補完なしに行われていたら、人は永久にイエスだけが神のひとり子である、すなわち、神は一人の息子しか持たず、別の名前でその後に出て来る者はだれも神のひとり子ではなく、いわんや神自身でもないという観念を持ち続けるだろう。罪の贖いの捧げものとしての役割を果たす者、あるいは神のために権力を担う者、また、全人類を罪から救う者は神のひとり子であるという観念を人は持っている。現れる者が男性である限り、その人は神のひとり子、神の代理と見なすことができると信じている人々もいる。そして、イエスはヤーウェの息子、ひとり子であるという人々さえいる。これは人の作った深刻な観念ではないだろうか。今の段階の働きが最後の時代になされなかったならば、全人類は、神について陰に包まれてしまうだろう。もしそうなら、男は自分を女より高い地位にあるものと考え、女は堂々としていることが決してできないだろう。そうなれば、女性はだれも救いを受けないだろう。人々はいつも、神は男で、女を常にひどく嫌い、女には救いを与えないと信じている。もしそうなら、ヤーウェによって造られ、そして堕落したすべての女は決して救いを受ける機会が得られないというのは本当なのではないか。それなら、ヤーウェが女を造ったこと、すなわち、エバを造ったのは無意味だったのではないのか。そして女は永久に消滅するのではないだろうか。従って、終わりの日のこの段階の働きは全人類、女だけでなく全人類を救うことである。この働きは女のためだけでなく、すべての人類のためである。そうでないと考える者は、なおさら愚か者である。」

   神様の御言葉が暴いたのはまさに私が抱いていた観念でした。ひとり子は男性で、男性だけが権力の座につくことができ、ゆえに主は男性として戻られるに違いないと私は信じていました。神様の御言葉から、神様は私たちに深く根ざしている観念を取り払い、神様に関する誤った認識や誤解を一掃し、神様は性別をもたない霊であると私たちに気づかせるべく、今回は女性として受肉なさったのだと理解するようになりました。神様が再び男性として受肉なさったなら、私たちはますます神様を男性として、女性の神様ではなく男性の神様として規定しがちになるでしょう。事実を言えば、神様は全人類の神様であり、男性も女性もお救いになります。また私は、聖書の「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3:16)という聖句についてもより深く認識するようになりました。このひとり子は当時受肉なさった神様の肉体を指しており、神様が男性であることを意味しているわけではありません。私はかつて自分の観念と想像にしがみつき、ひとり子は男性であり、主イエスが女性のかたちでおいでになるなどあり得ないと信じていました。それで結局、お戻りになった主イエスを閉め出すことになったのです。私はこんなにも愚かで反抗的でした。そして神様が終わりの日に受肉なさって御言葉を語られていなかったら、誰ひとりこれらの奥義を突き止められなかっただろうと心の底から感じました。

   私は神様の御言葉を読み続け、読めば読むほど、自分の観念と想像にしたがって神様の働きを規定し、神様が男性として受肉なさらないなら、それはお戻りになった主ではないと信じるくらい、自分は盲目で無知だったと感じるようになりました。私はまた、妹と母が神様の新たな働きを受け入れるのを止めようとし、自分の誤解のせいで神様による終わりの日の救いを危うく失うところでした。私に福音を宣べ伝えるべく、兄弟姉妹を何度も何度も自宅へお送りくださったことについて、神様に感謝いたします。さもなければ、主イエスに抵抗したパリサイ人と同じになり、自分の観念と想像の中で生き、神様の新たな働きを拒んで受け入れず、最終的には神様の救いを永遠に失っていたでしょう。

   神様、感謝いたします。このように考察することで、夫と私は全能神の御国の福音を受け入れて神様のご家族に戻り、今は真の教会生活を送っています。兄弟姉妹は神様を讃えて歌い踊り、私たちは神様の御言葉を交わっています。堕落があればそれらを完全に打ち明け、真理を求めて解決できます。また私たちの集会には大きな喜びがあります。さらに、私はもはや、霊が乾いてしおれていたころのように不幸ではありません。その代わりに毎日神様の御言葉を読んで賛美歌を学び、私の霊は完全かつ本物の解放と自由を得ました。私を神様のご家族に連れ戻してくださったこと、古い生活を捨てる手助けをして光の道へと導いてくださったことについて、心から全能神に感謝いたします。


主の再臨をお迎えする大変な経験(II)

2019-09-12 23:04:21 | 神に帰す証

   全能神はこうおっしゃっています。ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。ヤーウェの働きの後、人のあいだで神の働きを行うためにイエスは受肉した。イエスの働きは単独で実行されたのではなく、ヤーウェの働きの上に築かれた。それは律法の時代を神が終わらせた後の新しい時代のための働きであった。同様に、イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救い)全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の経営(救い)を続行する。今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。神の働きの新しい段階はそれぞれいつも新しい始まりと新しい時代をもたらす。そこで神の性質、神の働き方、神の働く場所、神の名前にもそれに付随した変化がある。したがって、人にとっては、新しい時代の神の働きを受け入れるのが難しいのは無理もない。しかし、いかに人が反対しようと、それには関係なく、神はいつも自分の働きを行っており、いつも人類全体を前方に導いている。イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から墮落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって墮落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間 の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」



   全能神の御言葉を読んだあと、兄弟は説教を続けました。「ヤーウェ神の働きと主イエスの働きと全能神の働きが一つの全体として結びついたときはじめて、それは人類を救う神様の働き全体を構成します。実際、神様が新たな働きの段階を始められるたび、神様が表現なさる性質、神様が働きをなさる方法、御名、働きの場所は変わりますが、これら働きの三段階は密接に結びついています。主イエスはヤーウェ神の働きを土台として贖いの働きをなさいました。終わりの日、全能神は主イエスによる贖いの働きを土台として真理を表現なさり、神様の家から始まる裁きの働きをなさっているとともに、創世以来ずっと隠されてきたすべての奥義を私たちにあらわされています。例えば、人類全体が今日までどう発展してきたかや、三段階の働きの奥義や、人類の将来的な終着点などです。加えて、神様は真理を表現なさって私たちの罪深い本性を暴き、反抗と不正を裁き、罪を清める道を示されてきました。神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れる人はより多くの真理を理解し、自分のサタン的な本性をより識別し、神様の犯すことができない義なる性質をより理解して、徐々に真理を実践に移し、サタン的な本性の束縛から解放され、神様を畏れ悪を避ける道を歩むようになります。堕落した性質が清められるとき、私たちは神様に従い神様を畏れる人になり、神様の祝福のもとで生きることができ、人類を救われる神様の働きも終わりを迎えます。それは黙示録の預言の通りです。『事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう』(ヨハネの黙示録21:6)」

   神様の御言葉と兄弟の説教を通じ、神様の働きの各段階が以前の段階の上に築かれること、直前の段階よりもさらに高いこと、神様の働きの三段階がすべて一緒になって人類を救われる神様の働き全体を構成することを理解しました。主イエスの贖いがなければ、人類は永遠に律法の下で暮らしていたでしょう。神様がおいでになって罪を取り除く働きをなさらなければ、私たちは罪を犯しては告白するという状態の中で生きるだけで、罪の束縛から決して自由になれないでしょう。神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れて初めて、私たちは自分の堕落した本性を理解するとともに、自分の肉を捨てて真理を実践し、性質の変化を成し遂げます。そのときはじめて、天国へ入るのにふさわしくなるのです。すると兄弟は神様の働きの三段階が描かれたカラフルな画像を送信し、人類を救われる神様の三段階の働きをより明確に理解できるようにしてくれました。神様が働きを行なわれる方法、働きの場所、神様の御名は各時代で異なるものの、働きの三段階はすべて密接に結びついていて、各段階が欠かせないことを私は知りました。神様は人を一歩一歩サタンの支配下からお救いになりますが、神様の素晴らしさとお知恵に深く感動せずにはいられませんでした。神様以外にこの働きを行なえる者はいないのです。その瞬間、私は信じられないほどの解放感を覚え、もはやその兄弟を排除することなく、私たちの集会もよりくつろぎと活力に満ちたものになりました。

神様の働きを知って子羊の足跡に従うようになる

   その後、兄弟が神様の御言葉の二節を送ってくれました。全能神はこうおっしゃっています。「三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでな ければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。」

   兄弟はこう説教しました。「神様の御言葉から、神様の働きの三段階を知ることは神様を知る道だと理解できます。神様の働きの三段階を知って初めて、神様の全体的な性質、神様が人類を救われる数多くの方法、神様のお知恵を知ることができ、人類を救われる神様の意図を残らず理解して、それによって私たちが神様に抱くであろう観念や誤解を一掃できるのです。神様に関する認識が神様の働きの一段階にとどまったままで、神様はヤーウェと呼ばれ、律法を布告して人類の生活を導かれることしかできなかったとか、神様は主イエスと呼ばれ、人類に恵みをお授けになることしかできなかったとか考えるなら、私たちはごく簡単に自分の観念と想像を基に神様を規定してしまいます。現在、宗教界の牧師や長老の多くは主イエスの働きだけに固執し、十字架の上でなされた贖いの働き以外は神様の働きではなく、イエスの御名をもたない者はお戻りになった主ではないと考えています。彼らは全能神による終わりの日の働きを全力で拒んで断罪し、信者が真の道を考察するのを防ぐべく全能神に関する噂さえ広めています。彼らとファリサイ人の違いは何でしょう。最も偉大なビジョン、つまり神様の三段階の働きを知らず、謙虚に探し求める心をもっていなければ、私たちは簡単に当時のイスラエル人と同じようになり、宗教指導者に従って神様の到来を断罪してそれに抵抗し、神様を拒むことを行ない、最後は神様の性質に背いて神様の救いを失ってしまいます」

   兄弟の説教を聞いたあと、自分が神様の働きを何一つ知らず、盲目的に牧師の言葉に耳を傾けていたせいで、主の再臨をお迎えする機会を危うく逃すところだったことを思い出しました。そのときあまりにも愚かで無知だったことについて、私は心から自分を憎みました。同時に、私の心は主への感謝で満たされていました。私は言いました。「神様、感謝いたします。全能神と主イエスが一つの神様であることを、私はいま知っています。神様のあわれみと恵みがなければ、当時のイスラエル人と同じようになって宗教指導者に惑わされ、主をお待ちしながら主に抵抗して拒否し、最後は神様に捨てられ淘汰されていたでしょう」

   兄弟は言いました。「神様、感謝いたします。私たちは一つの神様によってなされる働きの三段階を理解していますので、全能神に従うのが主イエスを裏切ることではなく、お戻りになった主イエスをお迎えして子羊の足跡に従うことだと知ることができます。黙示録にこう記されている通りです。『小羊の行く所へは、どこへでもついて行く』(ヨハネの黙示録14:4)」

   姉妹と私はそれを聞いてとても感激しました。子羊の足跡に従えることはかくも大きな祝福だからです。私の愚かさと無知を忘れてくださり、私が兄弟の説教を通じて中国共産党による噂を見抜けるようにしてくださるとともに、観念と想像を捨てて主の再臨をお迎えできるようにしてくださったことについて、主に感謝いたします。その後、私は兄弟姉妹と集会に出席するようになりました。神様の御言葉を読んだり、全能神教会による福音動画を見たりすることを通じて、以前に理解していなかった数多くの真理を理解するようになりました。一ヶ月後には、全能神はお戻りになった主イエスだと心から確信するとともに、神様の終わりの日の働きを受け入れました。神様、感謝いたします。全能神にすべての栄光あれ」


聖書のメッセージ:一つの集会が聖書の新たな認識を私にもたらした

2019-08-19 22:26:13 | 神に帰す証

寄稿家:彩虹(マレーシア)

   私の霊は暗闇の中でしおれていたが、偶然のきっかけから聖書学習特別クラスに出会った

   「ママ、ママ、どうしてまた寝ちゃったの」

   娘に目を覚まされて、またも祈りの途中で眠りに落ちたことを思い出し、私は大いに罪の意識を感じました。長く正座していたせいで感覚が麻痺していた両脚を叩いて立ち上がり、窓際に歩きました。夜空にかかる澄んだ明るい月を眺めていると、過去を思い出さずにはいられませんでした。

   私は若いころに神様を信じ始めてもう三十五年になっていました。聖書に熱中するあまり日曜学校の教師を務めるだけでなく、自分が所属する教会のクリスチャン青年団で管理者にもなり、いつも熱心に主に仕えていました。しかしこの数年間、自分の霊がどんどんしおれるのを感じ、聖書からもそれほど明るい光を感じられず、聖書学習クラスで兄弟姉妹を導くときも力を大いに奮い起こすことができませんでした。牧師が説教を通じて私に栄養を与えてくれるのを切望しましたが、いつも同じ古いことを説教するばかりで新たな光はまったくありませんでした。私は聞いた話に喜びを感じず、霊も供給を受けていませんでした。牧師の説教を聞きに来た信心深い人たちの大半は、単に宗教的な儀式を守って動作を繰り返すだけです。心から誠実に神様を崇拝していた人はほとんどおらず、教会の状態は一層悪化していきました。こうした状況に直面した私は、信仰を取り戻す道を見つけようと聖書の学習を続けましたが、何も発見できないままでした。当時、私はよくこう考えました。「私の霊はいま沈んでしまって、お祈りの途中で眠りに落ちる有様だわ。私はいまでも主の信者なのかしら。主は私をお見捨てになったのかしら」私は心の中で大いに苦痛を感じ、主を呼び求めて自分を導いてくださるようお願いし続けることしかできませんでした。



   2017年9月のある日、私はフェイスブックで王兄弟と出会い、その後聖書の認識についてしばしば話し合いました。王兄弟は聖書に関して特に純粋な認識を持っており、彼の交わりは光に満ちていました。それまで私を悩ませていた多くの問題を解決してくれた上、彼の言葉に耳を傾けていると自分の心が光で一杯になるように感じられました。私はさらに理解することができるよう、オンラインの聖書学習クラスに参加してほしいと率先して彼にお願いしました。オンラインのやりとりを一ヵ月あまり続けたころ、自分の霊が大いに供給を受けたように感じられ、聖書の預言と主の御心についてかなり理解するようになりました。また清水の泉のごとく私の心に流れ込み、私の干上がった霊を潤すような言葉もいくつか送られてきました。私はその集会を心から待ち望むようになりました。

聖書に記されていること以外に神様の発した新たな御言葉はあるのか

   ある日、兄弟姉妹が私のためにビデオを再生してくれましたが、その途中で出演者の全員が一冊の本を手にしているのに気づきました。しかしその本が聖書ではなかったので、私は驚かずにはいられませんでした。私は考えました。「聖書を手にしていないなんてどういうこと。主を信じるクリスチャンは聖書を読まなければならないのに。だって、聖書に記されている以外に神様の御言葉はないのだから。聖書を読んでいないのは、彼らが道に迷ってしまったということなのかしら」私の心は即座に疑いで一杯になりましたが、兄弟姉妹に恥ずかしい思いをさせないように異議を唱えることはしませんでした。オンラインでの集会が終わったあと、私は王兄弟にメッセージを送って自分の疑いを打ち明けるとともに、この聖書学習クラスに参加するのはもうやめようと決心しました。

   王兄弟からの返信にはこう記されていました。「姉妹、あの本は神の国の時代の聖書―『言葉は肉において現れる』です。そこには終わりの日のキリスト、つまり全能神が表現なさる新しい御言葉しか記されておらず、それは『御霊が諸教会に言うこと』とヨハネの黙示録で預言されているものです。全能神は終わりの日に姿をお見せになって働きを行なわれますが、すでに何百万もの御言葉を表現なさっていて、聖書の中にある数多くの真理や奥義だけでなく、神様の六千年にわたる経営(救いの)計画の奥義をもあらわされてきました。それらの真理は、長年にわたって主を信じてきたにもかかわらず、私たちがいまだに理解していないものです」王兄弟のメッセージを読んだ私はとても混乱してこう考えました。「私は三十五年間も主を信じてきたけれど、聖書に書かれている以外に神様の御言葉があるなんて聞いたことがない。それなのに、この『言葉は肉において現れる』という本には神様の発する新しい御言葉しか記されていないと言っている。そんなことがどうしてあり得るの」

   ちょうどそのとき、王兄弟がもう一つのメッセージを送信しました。「姉妹、私たちは三十年以上も主の再来を心待ちにしてきましたが、いま主イエスは全能神として本当にお戻りになりました。現在、主は全世界に御言葉を語られています。ならば私たちもそれを探し求めて考察すべきではないでしょうか。主イエスはこうおっしゃいました。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書25:6)主の再来の知らせを聞いた私たちが賢い乙女になって積極的に主を探し求めることを、主は望んでおられます。そうすることでのみ主をお迎えすることができるからです。主の再来の知らせを聞きながら、自分の観念に合致しないからといってそれを調べるのを拒むなら、私たちは主の到来をお迎えする機会を逃すことになるでしょう。そうすれば主の救いを失うことにはならないでしょうか」

   兄弟の言葉は私を目覚めさせました。私はこう考えました。「そうだわ。私は何年間も主を信じてきたけれど、その間ずっと主がお戻りになるのを待っていたんじゃなかったの。いま、主がお戻りになって再び御言葉をお語りになっていると誰かが証しをしている。それならきっと、まずそれに耳を傾けて考察すべきだわ。そうすることでのみ、主をお迎えすることができるのよ」

   その後、王兄弟が別のメッセージを送信しました。「『ヨハネによる福音書』第16章12-13節で主イエスはこうおっしゃいました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』ヨハネの黙示録でも数カ所でこう預言されています。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(ヨハネの黙示録第2章、第3章)このことから、主はお戻りになるとき新たな御言葉をお語りになり、私たちがそれまで決して理解することのなかったすべての真理と奥義をお話しになることがわかります。これらの真理は聖書に記されていません。主が終わりの日にお戻りになったときに成し遂げられ、実現されることになっているのです。聖書に記されている以外に神様の御言葉や働きはあり得ないと考えるなら、どうしてこれらの預言が実現されるでしょうか。終わりの日に神様が発する御言葉が聖書に自動的にあらわれるなど、どうしてあり得るでしょうか。したがって、主をお迎えしたければ自分の観念を捨てて、何よりもまず終わりの日にお戻りになった神様の発する御言葉を読み、注意を払って神様の御言葉を聞かなければなりません。相変わらず聖書にしがみついて聖霊が諸教会におっしゃることを聞かないなら、かなりの確率で主をお迎えする機会を逃してしまうでしょう」

   このメッセージを読んだあと、私は突然理解し始めたように感じてこう考えました。「ああ、私はこれらの聖句を以前に何度も読んできたけれど、神様の御心がわからなかったのはどういうことかしら。主は『耳のある者は……聞くがよい』とおっしゃることで、私たちに要求をされているんじゃないかしら。お戻りになった主は私たちに御言葉をお話しになり、私たちは神様のお声を聞くことに集中して初めて、主をお迎えしてその足跡にしたがうことができるのよ」このように考えた私は王兄弟に急いで返信を送り、全能神の御言葉をもっと送ってくれるようにお願いしました。

   すると王兄弟は全能神が表現なされた御言葉をいくつも送ってくれましたが、その中には『あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである』や『神を知らない者はすべて神に反対する人々である』の各章もありました。私は神様の御言葉を読んで神様の働きについていくらか認識を持つとともに、人間の堕落の根源と、サタンがいかにして人間を堕落させるか、そして神様が人間を救うべくいかにして働きをなさるかを知るようになりました。また私たちが自分の観念や想像に頼ることで神様の働きを常に定めていることや、それが神様に抵抗する振る舞いであることも認識するようになりました。神様の御言葉を読めば読むほど心が明るくなり、全能神の御言葉には権威と力があって本当に神様のお声のようだと感じました。私はそれを考察し続ける決心をしました。



私の困惑は一掃され、聖書について新たな認識に達した

   次の集会のとき、私は兄弟姉妹に自分の困惑を話しました。「林姉妹、王兄弟、あなたたちは、神様は新たな働きをなさり、新たな御言葉を表現なさっていると言っています。でも私は、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中に見つけることができ、クリスチャンは神様への信仰において聖書から離れることはできない、そうすることは真の道から外れることだからだと、牧師が言うのを小さいころからずっと聞いてきました。この問題についてあなたたちの意見を知りたいと思います。これについて私と交わってくださいませんか」すると林姉妹が次のように言って交わりをしてくれました。「姉妹、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中にあり、聖書から離れることは真の道から外れることだという信仰において、私たちは宗教界の牧師や長老とともに歩んでいます。それは宗教界全体が抱いている信仰ですが、その見方は事実と一致しているでしょうか。神様の御言葉と一致しているでしょうか。主イエスがそのようなことをおっしゃったことはなく、聖霊がそれらの言葉をおっしゃったこともありません。ではその見方はいったい何を基にしているのでしょう。私たち自身の観念と想像から生じたのではないですか。私たち全員が知っているとおり、聖書は神様の働きにおける以前の二段階の記録に過ぎず、神様がいったん働きを終わらせてから神様に従った人たちの記憶を基にした、神様の御言葉と働きの記録です。それらの人たちがあらゆることを記録したのは絶対に間違いないと、あえて言うことができるでしょうか。さらに、聖書が編集されているあいだ、編者は互いに論争し、内容の遺漏もありました。そのせいで預言者によって伝えられた神様の御言葉の一部が旧約聖書に記されず、むしろ第二正典に収載されることになったのです。そのことは、漏れてしまったそれらの預言者による預言が神様の御言葉ではなかったことを意味するでしょうか。『ヨハネによる福音書』第21章25節にはっきりとこう記されています。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」主イエスは三年半にわたって働きをなされ、弟子を率いて行く先々で教えを宣べ伝えられ、働きをなされました。では、その間に主はどれほど多くの御言葉を語られたでしょうか。どれほど多くの働きをなさったでしょうか。したがって、聖書に記されなかった主イエスの働きや御言葉は数多くあると言えます。聖書に記されている主イエスの御言葉は氷山の一角に過ぎません。ならば、神様の御言葉と働きはすべて聖書に記されていると、宗教界の牧師や長老はどうして言えるのでしょう。そのように言うことは事実と真っ向から反していませんか。牧師や長老の言うことにしたがうなら、預言者によって伝えられながら聖書に記されていない神様の御言葉や、聖書に記されなかった主イエスの御言葉と働きを否定していることになりませんか。さらに、主イエスが働きをなさるべくおいでになった当時、新約聖書はまだ存在しておらず、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4:17)というイエスによって表現された道も旧約聖書に記されませんでした。ゆえに、主イエスによる御言葉と働きは当時聖書から超えていたと言えます。よって、聖書から超えることは真の道から外れることだと、さも断罪するように言うことで、宗教界は主イエスの御言葉と働きをも断罪しているのではないでしょうか」

   そう言ったあと、林姉妹は神様の御言葉の一節を送信しました。「聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。……これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奧義(1)」)

   そして林姉妹は交わりを続けました。「聖書に記されている内容はとても限られています。旧約聖書はヤーウェ神の働きの一部を記しているに過ぎず、新約聖書は主イエスの働きの一部を記しているに過ぎません。終わりの日における神様の働きについて言えば、聖書にはそれに関するいくつかの預言があるだけで、詳細な記録はそこにありません。神様はそれぞれの時代においてその時代の働きをなさるだけであり、次なる段階の働きを前もってなさることはありません。例えば律法の時代、ヤーウェ神は戒めと律法を守るよう人間に教えられ、神様を崇拝するよう命じられただけでした。恵みの時代になさろうとしている働きを前もって当時の人にお告げになることはなかったのです。同様に、主イエスは終わりの日である現在すでに戻られ、恵みの時代の贖いの働きを土台として御言葉を表現なさり、神様の家に始まる裁きの働きを行なわれ、私たちの堕落した性質を裁いてお清めになり、私たちが罪の束縛を完全に捨て去って神様によって清められ救われるようになさっています。この働きの詳細が、聖書の中に前もって記されていたはずはありません。したがって、「神様の御言葉と働きはすべて聖書の中にあり、聖書から離れることは真の道から外れることである」という宗教界の牧師や長老による発言は、神様の働きの事実と完全に真っ向から反しています。それは人間の観念と想像から生じたものであり、人々を欺くことが目的の嘘であり、馬鹿げた理論なのです」

   全能神の御言葉と姉妹の交わりは私を完全に納得させ、それを論破するのは不可能でした。私はこう考えざるを得ませんでした。「本当にそうだわ。神様は万物を包含なさり、神様の知恵は豊かで豊富にある。それなら、神様のすべての御言葉と働きがどうして聖書に制限されるでしょう。神様は聖書を超えて働きをなさる権利があります。つまり私たちの以前の認識は確かに間違いだったのよ」

   すると王兄弟が聖書の一節を送信しました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネによる福音書5:39-40)そしてこう言いました。「聖書は歴史の記録であり、神様の働きにおける以前の二段階の証しに過ぎません。聖書に永遠のいのちはなく、いのちの源でもありません。聖書を信じることで真理やいのちが得られることは決してなく、聖霊の働きも獲得できず、まして真の救いを獲得するなど不可能です。神様だけが真理であり、道であり、いのちであって、神様だけが私たちのいのちの源なのです。神様への信仰において真理といのちを得たいと望むなら、神様の御前に出て、神様の現在の働きと御言葉を受け入れてそれに服従し、子羊の足跡につき従わなければなりません。そのとき初めて神様の救いを獲得できるからです。

   王兄弟の交わりを聞いたあと、私は突然光を目にしてこう考えました。「以前にこの一節を読んだとき、聖書には神様の証しとしての働きがあると理解しただけで、神様への信仰において聖書から離れてはならないと信じていたけれど、神様は真理であり、道であり、いのちであるという事実を見落としていた。いまようやく、聖書は単に神様の過去の働きの証しであって、神様をあらわすことはできず、中にいのちを含んでいないと理解したわ。真理といのちを得たいと思うなら、神様の足跡に丹念にしたがう必要がある。そのとき初めて神様の救いを獲得できるから。ああ、神様の新たな働きに対する自分の態度を振り返ると、探し求める心がこれっぽっちもなく、自分の観念にしがみついて神様の働きを拒むなんて、どれほど盲目で無知だったかいまようやくわかったわ。あくまでこのまま聖書にしがみつくなら、神様の救いを拒んでいることにならないかしら。私は終わりの日における全能神の働きを真剣に考察しなければならないのよ」



   神様の働きを理解して主の再来を喜んでお迎えする

   その後、林姉妹が『聖書から出てくる』というタイトルの福音動画を見せてくれました。それは神様の御言葉の二節が主題であり、動画に登場する姉妹の交わりに私は引き込まれました。神様の御言葉はこうおっしゃっています。「より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。だ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。だ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)「過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より)

   動画の姉妹はこう語りました。「終わりの日における神様の働きは聖書で預言されているだけで、その実際の記録はありませんでしたが、それは人類が実際に必要としているものを基にしており、聖書という基礎を土台としてより深くなり、より高められる働きです。それはちょうど、おいでになった主イエスが旧約聖書にしたがって働きをなさったわけではなく、人類が求めるものと神様ご自身の計画にしたがって働きをなさったのと同じです。主は律法の働きを基に贖いの働きの一段階を終わらせましたが、言い換えれば旧約聖書を基に新たなより高次の働きの段階を終わらせたのです。働きのその段階において、主は旧約の律法を無効にされたのではなく、それを完全になさいました。そして同じように、神様は今日の終わりの日において、人類が必要とするものと神様の経営(救いの)計画を基にした主イエスの贖いの働きを土台として、別の段階のより新たな、より高次の働きをなさっていて、人類を清めて救うことができる数多くの御言葉をお発しになっています。神様はまた神様の経営計画の奥義をすべてあらわされています。これらは律法の時代や恵みの時代に神様が決しておっしゃらなかったことです。それらはまた、終わりの日に神様がお開きになっている巻物、お解きになっている七つの封印でもあります。これは黙示録に記された次の預言を実現しています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2:17)また黙示録第5章1節から5節にもこう記されています。「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」これらの預言は主イエスが働きを終わらせるまで存在しませんでした。これらの預言が神様の成し遂げようとされていること、終わりの日に神様がなさろうとしている救いの働きに違いないことは言うまでもありません。現在、神様は肉となられ、御言葉を発するべくおいでになりました。神様は裁きと清めの働きの一段階をすでになされ、人々を救われるようにする数多くの御言葉をお発しになってきました。それらの御言葉は聖書に記されておらず、聖書の外にある御言葉です。これらの豊富ないのちの御言葉は、終わりの日に神様が人類に授けられたいのちの道であり、人類の救いの唯一の道です。私たちがそれを受け入れるのを拒むなら、神様のいのちの生きた水によって真に潤されることはできず、神様から真理もいのちも得られません」

   姉妹の交わりを通じ、神様の働きがずっと前進し続けていることを私はようやく認識するようになりました。律法の時代、ヤーウェ神は人類の生活を導き、いかに神様を崇拝するかや罪とは何かを人々に知らしめるべく、律法と戒めを公布なさいました。恵みの時代、主イエスは十字架につけられることによって人類を律法の束縛から贖われました。そして人は主イエスの救いを受け入れる限り、主の豊富な恵みと祝福を享受することができました。しかし、私たちがいまなお何度も罪を犯しては告白するという状況の中で生き、罪の束縛と足かせを振り払えないでいるのは否定できません。現在、再来なされた主イエス、すなわち終わりの日のキリストである全能神は裁きの働きをなさっており、私たちの罪深い本性が解決されるよう、また私たちが罪深い本性を自分から完全に取り除き、最後に神様の約束を獲得して美しい終着点へと入るのにふさわしくなれるよう、ご自身の御言葉を表現なさいます。終わりの日における全能神の働きは聖書を否定するものではありません。むしろ神様は、律法の時代と恵みの時代の働きを土台としてより新たな、より高次の段階の働きをなさるのであって、それがまさに私たち堕落した人類が必要としているものです。神の国の時代の聖書―『言葉は肉において現れる』は、終わりの日に神様から私たちに与えられたいのちの道であり、終わりの日の神様の働きを受け入れることでのみ、いのちの生きた水の供給を得られるのです。私はいまようやく、私たちが神様からいのちの供給を得られない理由と、暗闇に陥って聖霊の働きを失ってしまった理由を理解しています。それは私たちが聖書にしがみつき、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中に見つかると考えているから、また終わりの日の神様の働きを受け入れるのを拒んでいるからなのです。

   全能神教会と接触するようになってから二ヶ月しか経っていませんが、全能神の御言葉が真理であること、私の混乱と疑問を解決できること、そして私の霊を供給してくださることを知りました。全能神は再来なされた主イエスであると私は確信するようになり、終わりの日の神様の働きを喜んで受け入れました。聖書にしがみついていたせいで神様の働きを拒絶していたことを振り返ると、深い後悔を感じます。私はそれほど傲慢で愚かだったのです。しかし神様が私を憐れんでくださり、兄弟姉妹が私にメッセージを送り、私と会って何度も何度も交わってくれたことを通じて、私が聖書の内幕とその実体を理解できるように、また神様が人類を救うべく一歩一歩働いておられることを理解できるようにしてくださり、私はついに自分の観念を捨てて終わりの日の神様の働きを受け入れ、神様の足跡にしたがい始めました。私を愛し、救ってくださったことに対して神様に感謝いたします。


私は神様の性別に対して、新たな認識がありました

2019-08-17 21:03:59 | 神に帰す証

   【編集者メモ】神は男性か、女性か。神には固定された性別があるのでしょうか。これは多くのキリスト教徒を混乱させる問題ですが、誰もそれをはっきり説明できません。本稿は神の性別の奥義を明らかにします。

寄稿家:シンユアン(オーストラリア)

   神には果たして固定された性別があるのか。主イエスは男性として肉となられましたが、それは神が男性であることを示しているのでしょうか。これは誰もそれをはっきり説明できないという問題です。そして、私は神についての認識がなく、神の性別について多くの観念を抱いていたので、主をお迎えする機会を逃すところでした。そこで、皆さんのお役に立てればと思い、これから自分の体験をお話します。

   東方閃電が私たちの観念に準拠していないからといって学ぶのを拒むべきではない



   私は幼い頃、母と共に地元の家庭教会に通って集会に出ていました。私たちが神の性別に関する真理を語っていたとき、おじである牧師がよく聖書のこれらの節について私たちに説教しました。「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」(ヨハネによる福音書17:1)「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」(コリント人への第一の手紙11:3)

   おじは言いました、「主イエスは天の神を父と呼ばれ、天の神は主イエスを息子と呼ばれた。御二方は父と息子だった。ということは神は男性だということだ。それに、女は人類の罪の源であり、呪われている。女のかしらは男だ。だから神は男性だ。」

   そのため私は心の中で、神は男性であり、男性として戻られると確信していましたが、それはある日、姉妹の李さんと出会うまでのことでした。…

   2018年4月のある日、私はフェイスブックで王さんと李さんという姉妹と知り合いました。私たちは頻繁にネット上で集会を開きました。ある時李さんが、主イエスがすでに全能神として受肉として戻られ、私たちの間で暮らしておられると証ししました。この知らせを聞いて、私は驚きつつ喜びました。喜んだのは主イエスが戻って来られたからで、驚いたのは、私が主の再臨をお迎えする準備ができる前に戻られたからでした。

   その晩、集会の後、私はベッドに横になりましたが、興奮のあまり眠れなかったので、起きてインターネットで全能神教会について調べました。その結果、李さんが説いたのは東方閃電の教えであることがわかりました。私は唖然としました。というのも、子供の頃におじから「東方閃電は主の再臨のお姿が女性だなどと証しするが、信じてはいけない」と聞かされたのを思い出したからです。

   その時、私は心に葛藤を抱え、こう考えました。「ここ数日間、李さんの説教を聞いて、私は真のキリストと偽キリストとの区別や、人類がサタンに堕落させられている実態、主の到来の預言の成就や、どうすれば主の再臨をお迎えする賢いおとめになれるかなど、多くの真理を理解した。これらの真理のおかげで、神の働きについて新しい認識を持ち、聖書イエスの再臨の中の奥義も多く理解することができた。このまま学び続けるべきなの、それとも李さんとまた集まるのを断るべきなのかしら。」一晩中何度も何度もこのことを考えていました。

   ついに朝が来ました。ヨーロッパにいて一緒に学んでくれている王さんに、私はすぐに電話して、自分の混乱について話しました。私の話を聞くと、彼女は言いました。「私も疑問をいくつか抱えていますが、私たちは学び始めたからには、問題をはっきり理解すべきです。李さんの説教が真理と一致するなら、学び続けましょう。一致しないなら、今学ぶのをやめても遅くありません。」 私はしばらく考えて、彼女の言う通りだと感じました。それで私たちは一緒に主に祈り、「正しいことと間違ったことを区別できるように、知恵をお与えください」とお願いしたのです。

   神は女性として受肉することもできる。

   皆で集まった夜、私は李さんに自分の混乱を打ち明けました。「夕べネットで『全能神』という名前を検索すると、神がまた肉となられたという話や、神は女性であるという話を見つけました。でも私は神が主イエスのように男性だと信じています。聖書には、主イエスがこう仰ったと記されています、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」(ヨハネによる福音書17:1)と。 主イエスは天の神を父と呼ばれ、天の神はイエス・キリストを息子と呼ばれました。御二方は父と息子です。ということは神は男性ではないでしょうか。なので私は、神は戻られたときは男性であるはずだと思います。どうして女性でありえるのでしょう。」

   これを聞いて、李さんは根気よく教えてくれました。「シンユアンさん、主イエスが発せられたこの文章をどう理解すべきかに関しては、全能神の御言葉を見てみましょう。全能神はこう仰せられます、「イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な肉を着て、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの『人の子』になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした」

   これらの御言葉から、主イエスは祈りの際に天の神を父と呼ばれたとき、創造物の視点からそうされたことが分かります。それは私たちが主の祈りを唱えるとき、天の神を父と呼ぶのと同じです。これは主イエスの謙虚さと従順を明らかにしますが、神が男性であることを意味しません。創世記第1章27節を思い出してください。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあります。

   ここから、神が男と女をご自身のかたちに創造されたことがわかります。もし私たちが自分の観念に固執して、神が男として受肉しなければならないと考えるなら、神が女をご自身の形に造られたことはどう説明するのですか。創世記と矛盾していませんか。実のところ、神は男だけでなく女もご自身のかたちに創造することができます。それゆえに神は男と女のどちらかに受肉できるのです。ですから、神が男性だと断定することはできません。」

   彼女の説教を聞いた後、私の心を縛っていた枷がいくつか解かれました。主イエスが祈りの際に天の神を父と呼ばれたとき、創造物の視点からそうされたということを知りました。しかし、だからといって神が男性であるわけではないのです。さらに、神は男と女をご自身のかたちに造られました。したがって、神は男と女のどちらかに受肉できるのです。

   「女のかしらは男」という言葉は、神が男であることを証明しているか。

   寝る前に、私はベッドに横になって、李さんが説教したことを思い出しす。それが十分に根拠があると感じましたが、聖書の次の節のことを考えるとまた疑問を抱きました。「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)、「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」(コリント人への第一の手紙11:3)。

   私はこう考えました。「これらの聖句では、女性が呪われているとはっきり述べられている。受肉された神が女性なら、どうして権威を持つことができるでのかしら。それに、過去において、主の弟子のほとんどは男性だった。今では、基本的に説教者や牧師も皆男性だわ。それでどうして神の再臨のお姿が女性でありえるのかしら。」またこれらの問いを何度も思案し始め、その夜は眠りにつけませんでした。

   翌晩、私は李さんから電話を受けたので、自分の疑問を伝えました。その話を聞いた後、彼女はこう言います。「実際には、ヤーウェ神がエバに『それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう』と仰せられたのは彼女が善悪の知識の木の実を食べた後でした。神の目的は人類を調和の中に生かすことです。これは、地上に住む全ての創造された人類に対する神の要求ですから、私たちが従うべきものではありますが、受肉された神とは全く関係ありません。それは律法の時代に、ヤーウェ神が人類に安息日を守るように求められたのと同じです。こうした要求を遵守しなければならなかったのは人類であって、神ではありません。ですから私たちは、主イエスにはそれに従えと言うことはできません。また、マルコによる福音書第2章27節と28節で、主イエスは、『安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである』と仰いました。同様に、『女のかしらは男』という言葉は、罪を犯した人類に向けられていました。ですから私たちはこの聖句を使って、神が女性として受肉することはできないと決めつけることはできません。」


神が女性として人々の前に出現される意義とは

   彼女の説教を聞いて、私はこれらの言葉が私たち人間を対象としているのであり、これらの聖句を使って神の受肉の性別を限定すべきではないことを知りました。しかし、なぜ神が今私たちに女性として出現されたのか私にはまだわかりませんでした。もし神が男性として出現されたら、それは私たちにとってもっと受け入れやすくないでしょうか。それに神の働きがもっと行いやすくないでしょうか。それで私はこの疑問を述べました。すると李さんは私に全能神の言葉の二つの節を読んでくれたのです。

   「イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。」「もしも神が男性としてだけ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として見定め、神を女たちの神だとは決して信じないであろう。それで男たちは神は自分たちと同じ性別であり、神は男たちの長であると信じるであろう。では女たちにとっては何になるのか。これは不公平である。これはえこひいきではないであろうか。もしそうであれば、神が救ったあらゆる人々は神と同じ男ということになり、女たちには救いがないということになる。神が人類を創造したとき、神はアダムを造り、そしてエバを造った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を造った。神は男たちだけの神ではない。神はまた女たちの神でもあるのだ。」

   神の言葉を読んだ後、彼女は私にこう説教してくれました。「神は本質的に霊であり、性別がありません。肉となられて私たちに男か女として出現されるのは、働きの必要条件のために過ぎません。受肉された神の働きが終わったとき、神は霊の領域に戻られます。その時点では性別の区別はありません。ですから、神の受肉が男性であろうと女性であろうと、神はなおも人類の救いの働きを行うことができます。終わりの日の間には、神が女性として働きに来られるのには、実際的な意味があります。主イエスが当時男性として働きをしに来られたので、人々は皆、神が男性だと信じていました。もし神が今度は女として働きをしに来られなければ、人々は神が男性だといつまで思い込み、神が男たちの神であり、男はいつまでも女よりも偉いと考えるでしょう。神が終わりの日に女性として受肉されたのは、私たちの観念や想像に対抗し、『神は男としてしか受肉できない』という誤った考えを覆し、『神が全人類の神であり、男と女のどちらかに受肉できる』ことが私たちに分かるようにするためだったのです。

   神の言葉と姉妹の説教を聞いた後、私は何らかの啓きを感じました。結局のところ、神には性別がないのです。神の受肉が男であっても女であっても、神はご自身の霊がまとう肉体である限り、神ご自身であられます。終わりの日に神が女性として出現して働かれているのは、私たちの神に対する観念を覆し、「神が公正で義であり、男と女が神の前で平等であり、神は男だけでなく女も救われる」ことが私たちに分かるようにするためです。

   もし神がそうなさらなければ、私たちは神に対して真の認識を持たないでしょう。神がなさることはとても意味があります。私は自分がいつも自分の観念や想像で生きて、神を男性に限定していたことを思い出しました。神が女性として出現して働きを行われていると聞いたとき、私は疑ってばかりいました。もし全能神の言葉によって私の混乱が少しずつ解消されなければ、私は確実に全能神の働きを拒み、主を迎える機会を逃したでしょう。そう思うと鼻が引きつって涙が止まりませんでした。神の恵みと救いに心から感謝しました。

   兄弟姉妹の皆さん、以上が私の体験です。終わりの日の全能神の働きを学んだ時期のことを思い起こすと、いつも深く感動します。私は神に対する認識がなかったため、主を迎える機会を逃すところでした。しかし、神は私に憐れみをかけてくださったのです。姉妹を采配して私に説教させ、御言葉で啓いて導いてくださったおかげで、私は神の性別についての真理を理解し神の御前に立ち返ることができました。神に感謝します。