賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

真のキリストと偽キリストを見分ける3つの方法

2019-04-21 06:39:00 | 信仰生活

寄稿家:クオヂャン(カナダ)

  主イエス様は仰りました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25章6節) 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3章20節)。 主の御言葉から、私たちは誰かが主の来臨の知らせを伝導するのを耳にする時、賢明な処女となって、それを積極的に探究し、調査するべきだということが分かります。私たちはこうしてのみ主の再臨をお迎えすることができるのです。しかし、牧師たちは、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24章23-24節)、という聖句を理由に、「主イエス様が再臨されたと宣教する人たちは偽キリストの道を宣教しており、人々を惑わせているので、信じてはならない」、といつも私たちに言います。これ故に、兄弟姉妹の多くがこのように困惑しています。「私たちは主イエス様の再臨を証言する人を耳にする時、前向きにそれを探求して調査するべきなのでしょうか、それとも、それを避けて拒むべきなのでしょうか?主の御心に従うには、何をするべきなのでしょうか?」この疑問について、私は真キリストと偽キリストを見極める方法に関する真理について、皆と交流したいと思います。この側面の真理を理解してさえいれば、私たちは偽キリストと偽預言者たちに惑わされる心配はないですし、消極的な守りの姿勢に入って主の再臨をお迎えする機会を逃すこともないでしょう。

真のキリストと偽キリストを見分ける3つの方法

  先ず初めに、この御言葉を読んでみましょう。「受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(「序文」より)。 これらの御言葉は、偽キリストたちを見極めるには、彼らの外見ではなく、彼らの本質に注目する必要があると明確に語っています。すなわち、彼らを見極めるには、彼らの働き、言葉、そして性質に注目する必要があるのです。では、主イエス様の御言葉を幾つか読んで、真キリストと偽キリストの実質的な違い、ならびに彼らの見極め方について話しましょう。

第1に、私たちは彼らの働きを見なければなりません

  主イエス様は仰りました。「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24章24節) 主の御言葉は、偽キリストと偽預言者たちは、主として、しるしと奇跡を行って神の選民たちを惑わそうとすると示しています。これが偽キリストが人々を惑わす最も基本的な方法です。次の節を読めば、この問題をより明確に理解できるでしょう。「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。…人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、神は今回決してそのようなことはしない。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」(「今日の神の働きを知るということ」より)。

  神は常に新しく、決して古くない、そして同じ働きを繰り返されることがないということをこの節は明確に語っています。これは、主イエス様が働きをしに来られた時、律法の時代に律法を発布する働きを繰り返えさずに、恵みの時代を開始され、人類の罪を贖う働きをされたのと同じです。主は人間に悔い改めの道を備え、病人を癒し、悪霊を追い出し、最終的には人間のために十字架につけられて、人類の罪を贖ってくださりました。なので、主イエス様は終わりの日に再臨なさる時も、新たな時代を開始され、新たな働きをなさり、既になされた働きを繰り返されることはありません。そして、偽キリストはどうかといいますと、彼らは皆、キリストを装う悪霊です。彼らは新たな時代を迎え入れ、古い時代の幕を閉じる働きはできません。彼らは、混乱して識別力のない人たちを惑わすために、単純なしるしと奇跡を行って主イエス様のふりをすることしかできないのです。しかし、彼らは、主イエス様がなされた様に、死者を蘇らせたり、5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせたり、風と海を叱るということはできません。こういったことは、彼らの能力の域を完全に超えています。なぜなら、彼らは神の権威と御力を持っていないからです。従って、新たな時代を開いて、古い時代を完結できる御方が真キリストであり、それができずにただ神のすぐ後について、神が既になされた働きを真似ることしかできない人たちは間違いなく偽キリストなのです。

第2に、私たちは彼らの話す言葉に注目しなければなりません

  主イエス様はかつてこう仰りました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14章6節) キリストの仰せられる御言葉はその全てが真理であり、それは人間にいのちを与え、人間のために歩むべき道を指し示し、人間のいのちを構成し得るということが分かります。それを証明するものとして、主イエス様は働きをなさっておられた時、人類が必要としていたことに応じて悔い改める道をお見せになり、人々に自らを愛する様に他人を愛して他人を幾度となく許すことを教えられ、そして自らの罪を言い表して悔い改めることも教えられ、律法の下で暮らしていた人々に新たな実践の道を指し示してくださりました。

  主イエス様はこうとも仰りました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16章12-13節)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2章7節)「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる。」(ヨハネの黙示録5章5節)これらの節より、主は終わりの日に来臨される時、私たちが理解できない真理をたくさん仰せられ、巻物を開いて7つの封印を解かれるということは明らかです。主イエス様の再臨に関するこれらの預言からすると、真キリストは来臨される時に真理を表すことがおできになるのだと、私たちは確信を持つことができます。これに間違いはありません!他の御言葉の節も読んでみましょう。「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」(「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)。

  これらの言葉より、キリストは受肉された神御自身であり、肉として顕現された神の御霊であり、キリストは人間に備え、人間を導くために、いつどこでも、真理を表すことがおできになるということが分かります。一方の偽キリストは、その殆どが悪霊に取り付かれています。本質的に、彼らは真理をほんの僅かも持たない悪霊であり、悪魔であります。これ故に、彼らはどのようにして聖書を誤解したり、意味深い知識や理論について語ったとしても、人々を惑わし、傷つけることしかできないのです。彼らが行うことで、私たちにとって啓発的なことは何1つありません。彼らは永遠と私たちの心に闇をもたらすだけで、私たちに歩む道を残さず、最終的には私たちを滅ぼしてしまいます。キリストのみが真理、道、そしていのちであります。従って、真理を表し、私たちに道を示し、いのちを与えてくださる御方がキリストであり、自らをキリストと名のりながら真理を表すことができない人たちは間違いなく偽キリストなのです。これが偽キリストと偽預言者を識別するための基本原則です。

第3に、私たちは彼らが表す性質に注目しなければなりません

  主イエス様はかつてこう警告されました、「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。」(マタイによる福音書24章5節)。 主イエス様はこの節の中で、私たちに偽キリストのもう1つの特性を教えてくださっておられます。彼らは皆、傲慢でうぬぼれた性質を持っており、人々から神として崇拝されることを狙って人々の前で自己顕示し、自らをキリストであると宣言することを好みます。

  次の御言葉の節を読めばもっと深く理解できるでしょう。「偽りの多い偽キリストであればあるほど自己を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の性質を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。」(「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」より)

  この節より、こういった者たちは偽キリストであるからこそ、人々を惑わすために増々人々の前で自己顕示をするようになる反面、キリストは御自身の働きによってその身分を宣言されるということが分かります。主イエス様が働きをされた時も同じで、主は病人を癒し、悪霊を追い出さし、5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせ、そして死者を蘇らせました。人間は主のことを知りませんでしたが、主の権威と御力が主の身分を受肉された神御自身であると証明したのです。なぜなら、神以外にそのような権威を持つ御方は存在しないからです。従って、キリストは働きをしに来られる時、決して自分が神であり、キリストであることを声に出して言われたり、自己顕示をされることはありません。むしろ、キリストは人間たちにそのいのちが必要とするものを備えるために、謙遜して肉の中に身を潜めながら働きをされ、御言葉を仰せられます。そして、それは神のいのちの最高に尊く、聖なる本質を証明しているのです。しかし、偽キリストたちはいつも自分たちがキリストであると声に出して主張し、彼らの言うことを聞かないと天国に入れないなどと破廉恥なことを言う人たちすらいるのです。彼らは人々を自分たちに会わせるために出来る限りのことを行ったり、人々を騙すためにしるしと奇跡を行います。この実例は本当にたくさん存在しています。これ故に、真キリストと偽キリストを見極めるためのもう1つの重要な原則は、彼らが表す性質に注目するということなのです。

  兄弟姉妹たちの皆さん、上述した内容が真キリストと偽キリストを見分けるための3つの原則です。私たちはこの3つの原則を理解してのみ、偽キリストに惑わされるのを妨げ、賢明な処女になって主の再臨をお迎えすることができるのです。

  脚注:a. 原文では「~かどうかに関しては」と書かれている。