賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書に記されている二人の「お金持ち」—ソロモンとヨブの結末は、何故違うのか

2019-09-30 22:40:04 | 聖書の言葉

   【編集者メモ】周知のとおり、聖書に登場するソロモンとヨブは、二人とも大富豪だったが、最後にはそれぞれまったく異なる結末を迎えた。ヨブが神に認められた一方で、ソロモンは神にひどく嫌われ、拒絶された。彼らの結末これほど異なった理由をご存知だろうか?以下の記事を読んで知っていただきたい。

    本日は、旧約聖書に登場する二人の「金持ち」、ソロモンとヨブの話から得た啓きを共有したい。この二人はご存知のとおり、最初は共に神に祝福されたが、異なる最後を迎えた。二人の異なる結末の要因は何だったのか?この問いの答えを見つけるため、彼らの物語を見てみよう。

 ソロモンはどれほど裕福だったか

   かつて、ヤーウェ神がソロモンの夢に現れ、何を与えてほしいかと尋ねた。ソロモンは神に知恵を与えてくれるよう頼み、これは神に受け入れられた。そして神は次のように言われた。「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。」(列王紀上 3:11-13)。ヤーウェ神はソロモンに大きな祝福を授け、優れた知恵を与えただけでなく、彼の国をますます強くして栄えさせたため、多くの国が彼に服従した。以下の聖書の言葉は彼による統治の黄金期における彼の国の豊かさについての詳細な記録である。

    「ユダとイスラエルの人々は多くて、海べの砂のようであったが、彼らは飲み食いして楽しんだ。ソロモンはユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでの諸国を治めたので、皆みつぎ物を携えてきて、ソロモンの一生のあいだ仕えた。」(列王紀上 4:20-21)。

    ソロモン時代の黄金期、国の人口は多く、人々はみな平和で満足した生活を送っていた。彼は巨大で強力な軍のある広大な領地を統治していた。周辺国の王たちは貢物を持って彼に仕えるべく訪れ、彼の富は地上の他のすべての王たちの富を集めたものよりも大きかった。これは驚くことではないか?

 ヨブはどれだけ裕福だったか

   ではヨブが当時どれだけ裕福だったか見てみよう。聖書に次のように記録されている。「彼に男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。」(ヨブ記 1:2-3)。

   これらの節から、ヨブが多くの子どもを持ち豊富な資産を所有していたことがわかる。彼には多くの召使と、山々と平地を覆うほどの家畜がいた。当時彼は事実上、東の地で最も裕福な男だった。

 ソロモンは神に嫌われ拒絶された

   ヤーウェ神はソロモンに知恵と富を授けた他に、こう約束した。「もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」(列王紀上 3:14)。しかしソロモンは、父ダビデと違って、生涯神の道を歩むというヤーウェ神の要求に従わなかった。莫大な富を与えられた後、彼は贅沢で安楽な生活におぼれはじめ、神を畏れる道から離れ、次第に心の中で神を見捨てるようになった。さらに、多くの異邦人の女性と結婚し、彼女たちに倣って彼女たちの偶像を崇拝し、ヤーウェ神の次の教えに完全に背いていた。「あなたがたは彼らと交わってはならない。彼らもまたあなたがたと交わってはならない。彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせるからである」(列王紀上 11:2)。

    ソロモンは神を畏れて悪を避ける道を歩まず、公然とヤーウェ神の法を破り、ついには神の性質を侵した。神はソロモンに言った。「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。ただし、わたしは国をことごとくは裂き離さず、わたしのしもべダビデのために、またわたしが選んだエルサレムのために一つの部族をあなたの子に与えるであろう」(列王紀上 11:11-13)。ソロモンは、そのふるまいのため、神に嫌われ、拒絶され、王国を奪われた。神の祝福を失ってからどうなったかは聖書に記録が無いが、彼の心境は後年にこう言ったことから想像に難くない。「わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。」(伝道の書 1:14)。彼は神を失ってからも知恵、地位、富を持っていたが、心が全く満たされず幸福でもなく、死ぬまで巨大な宮殿のなかで惨めでわびしい生涯を送った。

 ヨブは神に認められた

   ソロモンと比べ、ヨブは人生を通して、神を畏れ悪を避ける道からはずれなかった。大富豪だった彼は、贅沢に暮らすだけの資産を持っていたが、神の道を歩み続けた。自分の子どもが宴を張った後はいつも、神に背いたのではとの恐れから、呼び寄せて聖別し、燔祭を神に捧げた。聖書で言われているとおりである、「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。」(ヨブ記 1:5)。

 

 

   後に彼はサタンの試みに遭い——自らのおびただしい富のすべてを失い、子どもを皆失い、自らも体中が皮膚病になってしまうが、それでも決して神を捨てず、神に文句を言わず、依然として神をたたえた。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」(ヨブ記 1:21)。彼がそうした試練において証しをした時、神は旋風から彼のもとに現れ、聖書に記録されているように、彼に二重に祝福を与えられた。「ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。また彼は男の子七人、女の子三人をもった。⋯この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」(ヨブ記 12-13、16-17)。

    聖書の話から、環境が安楽であっても困難であっても、ヨブは決してヤーウェ神を疎んじず、依然として神の道に従ったこと私たちにはが分かる。彼は、神を畏れることで神のために響き渡る証しをし、最後には平和で幸福な晩年を送った。

 これらの物語から学ぶべき教訓は何か

   ソロモンとヨブは共に神の信者であり、最初はおびただしい富を持っていたが、二人はそれぞれ違った道を歩み、まったく異なる結末を迎えた。ヨブは人生をとおして、神を畏れ悪を避ける道に徹し、最後には神の祝福を得た。ソロモンは比類のない富を得ると世俗の楽しみにふけりはじめ、神を畏れる心を失い、少しの後悔もなく神の掟にわざと反し、ついには、神に気に入られた者から神に忌み嫌われた者へと変わってしまい、神に見捨てられて罰せられ苦しんだ。

    ソロモンとヨブの話から、私たちは一つの教訓を学べる。すなわち、私たちはキリスト教徒として、常に神の教えに厳格に従い、神を崇めてはじめて、神の承認と祝福を得られる。特に今日の魅惑と誘惑で満ちた社会においては、私たちの心が一度神からはなれ、神を崇めなくなると、ありとあらゆる悪の潮流に容易く飲み込まれてしまうかもしれない。これまで見てきたように、兄弟姉妹の中には、主から豊かな恵みと祝福を受けた後、主を信じはじめた時は大変熱心だった者もいるし、結婚を放棄して全生涯を神に捧げる者さえいる。しかし後になって、多くは悪の潮流の影響を受け、神の前でなした約束を守るどころか、富と名声を追いかけ、集会に行くことも聖書を読むことも少なくなった。中には、家庭を築くと、教会の仕事に献身しなくなり、自分の家族の生活をよくすることに必死になった者もいた。中にはかつて神に、いくら悪の潮流に誘惑されても、神に背き怒りに触れることは決してしないと誓った者もいた。しかし、彼らもサタンの試みが降りかかると——憧れの異性に追いかけられると、揺らぎはじめ、激しい内的葛藤に悩まされ、誘惑に負けて神に背くことをしてしまい、後悔しながら余生を過ごした。また、一生涯神に仕えると決心した後、親せきや友人からいい仕事を提供されたり、富を得る機会に出会ったりした時に、誓いを守れなかった者もいた。毎日の生活で、そうした試みはよく私たちに降りかかるものであり、私たちももし常に神を畏れる心をヨブのように保つことができなければ、ソロモンのように、神の訓戒と要求に反し、神の道を捨て、ついには神に忌み嫌われ、拒絶されることになりかねない。聖書で言われている。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」(ヤコブの手紙 4:8)。したがってそのような悪の世界に生きる私たちは、毎日神の前に行って、常に祈り、神に近づき、神を畏れる自らの心を守って下さいと願うべきである。そして最も重要なのは、私たちは心の中に主の教えを留め、神の道を歩くこと——ヨブのように、神を畏れ、悪を避けることである。そうすることによってのみ、私たちは悪の潮流に誘惑されず、神が私たちに授けて下さる最も尊い富——天国の祝福を失わずにすむのである。


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2019-09-29 21:59:12 | 日記

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私はキリストを見るにはふさわしくない

2019-09-28 23:21:05 | 勝利者の証し

   全能神を信じるようになって以来、キリスト自身による牧養を受けることができ、自らの耳でキリストの説教を聞くことができる兄弟姉妹のことをずっと尊敬しています。心の中では、いつか私も将来キリストの説教を聞くことができたらどれほど素晴らしいかと思っています。もちろん、キリストを見ることはもっと素晴らしいことでしょう。けれど最近キリストの交わりを聞いたことで、私はキリストを見るのにふさわしくないと深く心から感じるようになりました。

   それは「いのちの道に入ることに関する交わりと説教第1~3巻」が発表されたときでした。第1巻を聞いたとき、私は聖霊に使われている人は話がとても上手だと感じました。第2巻で、ある姉妹の話を聞いたとき(これはこれらの交わりがキリストによるものであると誰かが教えてくれる前のことです)、私はこの人は単に聖霊に使われている人より格下のリーダーなんだろうなと想像しました。特に、知識をどのように見るべきかという問題についてこの姉妹が話したとき、兄弟姉妹が熱心に反応するのを聞かなかったので、私の想像は当たっていると確信し、またこの人は聖霊に使われている人ほど話が上手でないと感じたので、注意深く聞いていませんでした。第3巻を聞いた後、聖霊に使われている人の話の後、私は同じ姉妹が「今の兄弟の交わりについて…」と言うのを聞きました。それで私は余計にこの姉妹は聖霊に使われている人より格下のリーダーに違いないと確信したのです。というのも、上司が最初に話し、部下が後で話すのが世間の常だからです。そのため「あとで時間があるときにこれを聞こう」と思いながらスピーカーを切りました。この姉妹が実はキリストであると知った日、私はショックを受け、そしてついに説教の一字一句に真剣に耳を傾けました。

   その後、私は熟考を始めました。私はキリストの交わりを自ら聞きたいと強く願っていたのに、キリストがついに私たちに話しかけたとき、なぜ私は見分けることができなかったのでしょうか。私はこんな状況に関連する神の言葉を飲食し始めました。そして、神がこう言っていたのです。「何人もイエスの真の姿を見、イエスと共にありたいと願っている。兄弟姉妹の中で、イエスの姿を見たい、またはイエスと共にありたいと願わない者はない、とわたしは信じている。あなたがたがイエスをまだ見ていない時、すなわち、あなたがたが受肉した神をまだ見ていない時、あなたがたは、例えば、イエスの姿やイエスの話し方、イエスの生き方などについてよく考えることだろう。しかし、あなたがたが実際にイエスを見たら、あなたがたの考えはすぐに変わるだろう。なぜそう言えるのか。知りたいか。実際、人間の考えは無視できないが、キリストの本質を変えることはもっと許しがたいものだ。あなたがたは、キリストは神仙であり、賢人だと考えているが、キリストが神性な本質を持った人間だと考えている者はいない。それゆえ、朝から晩まで神に会いたいと切望している者の多くは、実際には神の敵であり、神に味方しない者なのだ。これは人間側の誤りではないのか。今でもあなたがたが自分の信念と忠誠心がとても強いゆえにキリストの姿を見るに値すると考えているが、わたしはあなたがたに対して、もっとも確実なものを身につけるように強く説きたい。というのも、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う者の多くは失敗したからだ。そのような者たちは皆、パリサイ人の役割を担っているのだ。あなたがたの失敗の理由とは何なのか。それは、あなたがたの観念の中に非常に大きくて立派な神がいるからだ。しかし、実際は人間が望んでいるようなものではない。キリストは特に大きくも立派でもないだけでなく、特に小柄である。キリストは人間であるというだけではなく、それも普通の人間なのだ…それゆえ、人々はキリストを普通の人間として扱うのだ。人々はキリストと共にいる時は好き勝手に振る舞い…あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、キリストの言葉を普通の人間の言葉とみなしている。それゆえ、あなたがたはキリストからまだ何も受け取ってはいない代わりに、自らの醜さを光にさらしているのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より)神の言葉と比べて、私はキリストの交わりをついに聞いたときに自分の堕落した性質がどのようにはっきり示されたかを考えました。私はキリストの説教と交わりを自分の耳で聞きたいと望んでいたのに、キリストの交わりをついに聞いたときに、気にもとめませんでした。私はキリストをただ普通の人間とみなしていました。これは私がキリストの本質を理解せず、キリストが謙遜し隠していることのすべてを理解せず、キリストについての考えや観念を多くもちすぎていたからです。キリストの交わりはキリストに直接会える兄弟姉妹に限定されていて、他の人々は自らの耳でキリストの交わりを聞くことは許されないに違いないと私は想像していました。キリストの交わりは、キリストが正体を公に発表することを伴うのだろうと私は想像していました。キリストの交わりは、何らかの特別な人のように他の人々とは違う声で、多くの優美な言い回しをもって語られるはずだと私は想像していました。キリストの交わりは兄弟姉妹の興奮した情熱的な歓声に伴われるのだろうと私は想像していました。そして、聖霊に使われている人とキリストが順番に話すのならば、キリストが最初に話し、聖霊に使われている人は最後に話す…私はキリストの働きと言葉を私の想像の境界内に閉じ込めてていました。私はキリストを特別な仕方で想像したからです。事実が私が想像していたことと食い違ったとき、私はキリストを普通の人として、キリストの言葉を普通の人の言葉として扱い、他の人々が交わりから多くを得た一方で、私は何も得られず、傲慢で、思いあがった、真理を軽蔑するサタンのような自らの本性を曝け出し、キリストを拒否し抵抗する者となったのです。

   後になり、私は神の言葉に次のことを見つけました。「あなたがたは常にキリストの姿を見たいと思っているが、あなたがたは自分を過大評価しないように勧める。何人もキリストの姿を見ることができるが、キリストの姿を見るにふさわしい者はただ一人としていない。人間の本性は悪、傲慢、反抗に満ちているため、あなたがキリストの姿を見た時、あなたの本性があなたを破滅させ、死へと追いやる。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より)「真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか…真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より)私があまりにも傲慢で、あまりにも反抗的で、あまりにも俗物で、身分や地位を持っている人たちであればあまりにも容易に傾聴し同意する気になるのに、一方では身分や地位を持たない人々を見下し、そのような人々が真理を語っても聞こうとしないため、神の声を認識することができないのだと、神の言葉により理解しました。交わりを聞いたとき、私は真理に集中せず、真理を得ることを望まず、その代わりに心は臆測と探求に没頭していました。私は傲慢さと反抗、観念と想像だけを暴露したのです。私のように傲慢で、反抗的で、真理を受け入れない者が、私のように信心や真理への渇望がない者が、いったいどうして神の声を聞き、知ることができるのでしょうか。どうして私がキリストを見るのにふさわしいでしょうか。

   この啓示を通して、たとえ私がキリストを見たいと思っても、サタンによる私の堕落があまりに深く、生来私は傲慢で反抗的であり、私には真理がなく真理への愛もなく、キリストの本質を理解せず、ばかげた偏見で判断し、あまりにも多くの観念や考えを持ち、私が信じる神は依然曖昧な神であり、力強く雄弁な姿かたちをしているため、私はキリストを見るにはふさわしくないということをついに理解したのです。そして私が本当にキリストを見ると、私の観念は根を張り、私の傲慢さはいつ芽を出すか知れず、そのため私の反抗的な本性が私を滅ぼすかもしれません。今私は真理を身にまとい、神の言葉において私の堕落した本性とキリストの本質を理解することを求め、キリストを理解し崇拝する人にならなければなりません。


聖書に記されている二人の「お金持ち」—ソロモンとヨブの結末は、何故違うのか

2019-09-27 23:12:37 | 聖書の言葉

   【編集者メモ】周知のとおり、聖書に登場するソロモンとヨブは、二人とも大富豪だったが、最後にはそれぞれまったく異なる結末を迎えた。ヨブが神に認められた一方で、ソロモンは神にひどく嫌われ、拒絶された。彼らの結末これほど異なった理由をご存知だろうか?以下の記事を読んで知っていただきたい。

   本日は、旧約聖書に登場する二人の「金持ち」、ソロモンとヨブの話から得た啓きを共有したい。この二人はご存知のとおり、最初は共に神に祝福されたが、異なる最後を迎えた。二人の異なる結末の要因は何だったのか?この問いの答えを見つけるため、彼らの物語を見てみよう。

ソロモンはどれほど裕福だったか

   かつて、ヤーウェ神がソロモンの夢に現れ、何を与えてほしいかと尋ねた。ソロモンは神に知恵を与えてくれるよう頼み、これは神に受け入れられた。そして神は次のように言われた。「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。」(列王紀上 3:11-13)。ヤーウェ神はソロモンに大きな祝福を授け、優れた知恵を与えただけでなく、彼の国をますます強くして栄えさせたため、多くの国が彼に服従した。以下の聖書の言葉は彼による統治の黄金期における彼の国の豊かさについての詳細な記録である。



   「ユダとイスラエルの人々は多くて、海べの砂のようであったが、彼らは飲み食いして楽しんだ。ソロモンはユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでの諸国を治めたので、皆みつぎ物を携えてきて、ソロモンの一生のあいだ仕えた。」(列王紀上 4:20-21)。

   ソロモン時代の黄金期、国の人口は多く、人々はみな平和で満足した生活を送っていた。彼は巨大で強力な軍のある広大な領地を統治していた。周辺国の王たちは貢物を持って彼に仕えるべく訪れ、彼の富は地上の他のすべての王たちの富を集めたものよりも大きかった。これは驚くことではないか?

ヨブはどれだけ裕福だったか

   ではヨブが当時どれだけ裕福だったか見てみよう。聖書に次のように記録されている。「彼に男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。」(ヨブ記 1:2-3)。

   これらの節から、ヨブが多くの子どもを持ち豊富な資産を所有していたことがわかる。彼には多くの召使と、山々と平地を覆うほどの家畜がいた。当時彼は事実上、東の地で最も裕福な男だった。

ソロモンは神に嫌われ拒絶された

   ヤーウェ神はソロモンに知恵と富を授けた他に、こう約束した。「もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」(列王紀上 3:14)。しかしソロモンは、父ダビデと違って、生涯神の道を歩むというヤーウェ神の要求に従わなかった。莫大な富を与えられた後、彼は贅沢で安楽な生活におぼれはじめ、神を畏れる道から離れ、次第に心の中で神を見捨てるようになった。さらに、多くの異邦人の女性と結婚し、彼女たちに倣って彼女たちの偶像を崇拝し、ヤーウェ神の次の教えに完全に背いていた。「あなたがたは彼らと交わってはならない。彼らもまたあなたがたと交わってはならない。彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせるからである」(列王紀上 11:2)。

   ソロモンは神を畏れて悪を避ける道を歩まず、公然とヤーウェ神の法を破り、ついには神の性質を侵した。神はソロモンに言った。「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。ただし、わたしは国をことごとくは裂き離さず、わたしのしもべダビデのために、またわたしが選んだエルサレムのために一つの部族をあなたの子に与えるであろう」(列王紀上 11:11-13)。ソロモンは、そのふるまいのため、神に嫌われ、拒絶され、王国を奪われた。神の祝福を失ってからどうなったかは聖書に記録が無いが、彼の心境は後年にこう言ったことから想像に難くない。「わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。」(伝道の書 1:14)。彼は神を失ってからも知恵、地位、富を持っていたが、心が全く満たされず幸福でもなく、死ぬまで巨大な宮殿のなかで惨めでわびしい生涯を送った。

ヨブは神に認められた

   ソロモンと比べ、ヨブは人生を通して、神を畏れ悪を避ける道からはずれなかった。大富豪だった彼は、贅沢に暮らすだけの資産を持っていたが、神の道を歩み続けた。自分の子どもが宴を張った後はいつも、神に背いたのではとの恐れから、呼び寄せて聖別し、燔祭を神に捧げた。聖書で言われているとおりである、「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。」(ヨブ記 1:5)。



   後に彼はサタンの試みに遭い——自らのおびただしい富のすべてを失い、子どもを皆失い、自らも体中が皮膚病になってしまうが、それでも決して神を捨てず、神に文句を言わず、依然として神をたたえた。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」(ヨブ記 1:21)。彼がそうした試練において証しをした時、神は旋風から彼のもとに現れ、聖書に記録されているように、彼に二重に祝福を与えられた。「ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。また彼は男の子七人、女の子三人をもった。⋯この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」(ヨブ記 12-13、16-17)。

   聖書の話から、環境が安楽であっても困難であっても、ヨブは決してヤーウェ神を疎んじず、依然として神の道に従ったこと私たちにはが分かる。彼は、神を畏れることで神のために響き渡る証しをし、最後には平和で幸福な晩年を送った。

これらの物語から学ぶべき教訓は何か

   ソロモンとヨブは共に神の信者であり、最初はおびただしい富を持っていたが、二人はそれぞれ違った道を歩み、まったく異なる結末を迎えた。ヨブは人生をとおして、神を畏れ悪を避ける道に徹し、最後には神の祝福を得た。ソロモンは比類のない富を得ると世俗の楽しみにふけりはじめ、神を畏れる心を失い、少しの後悔もなく神の掟にわざと反し、ついには、神に気に入られた者から神に忌み嫌われた者へと変わってしまい、神に見捨てられて罰せられ苦しんだ。

   ソロモンとヨブの話から、私たちは一つの教訓を学べる。すなわち、私たちはキリスト教徒として、常に神の教えに厳格に従い、神を崇めてはじめて、神の承認と祝福を得られる。特に今日の魅惑と誘惑で満ちた社会においては、私たちの心が一度神からはなれ、神を崇めなくなると、ありとあらゆる悪の潮流に容易く飲み込まれてしまうかもしれない。これまで見てきたように、兄弟姉妹の中には、主から豊かな恵みと祝福を受けた後、主を信じはじめた時は大変熱心だった者もいるし、結婚を放棄して全生涯を神に捧げる者さえいる。しかし後になって、多くは悪の潮流の影響を受け、神の前でなした約束を守るどころか、富と名声を追いかけ、集会に行くことも聖書を読むことも少なくなった。中には、家庭を築くと、教会の仕事に献身しなくなり、自分の家族の生活をよくすることに必死になった者もいた。中にはかつて神に、いくら悪の潮流に誘惑されても、神に背き怒りに触れることは決してしないと誓った者もいた。しかし、彼らもサタンの試みが降りかかると——憧れの異性に追いかけられると、揺らぎはじめ、激しい内的葛藤に悩まされ、誘惑に負けて神に背くことをしてしまい、後悔しながら余生を過ごした。また、一生涯神に仕えると決心した後、親せきや友人からいい仕事を提供されたり、富を得る機会に出会ったりした時に、誓いを守れなかった者もいた。毎日の生活で、そうした試みはよく私たちに降りかかるものであり、私たちももし常に神を畏れる心をヨブのように保つことができなければ、ソロモンのように、神の訓戒と要求に反し、神の道を捨て、ついには神に忌み嫌われ、拒絶されることになりかねない。聖書で言われている。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」(ヤコブの手紙 4:8)。したがってそのような悪の世界に生きる私たちは、毎日神の前に行って、常に祈り、神に近づき、神を畏れる自らの心を守って下さいと願うべきである。そして最も重要なのは、私たちは心の中に主の教えを留め、神の道を歩くこと——ヨブのように、神を畏れ、悪を避けることである。そうすることによってのみ、私たちは悪の潮流に誘惑されず、神が私たちに授けて下さる最も尊い富——天国の祝福を失わずにすむのである。


イースター(復活祭)の起源と主イエスの復活の意味

2019-09-26 20:39:39 | 聖書の言葉

   イースターがもうすぐそこまで来ていたのです。聖書にも記録がある通り、イースターは次のように発端しました:イエス・キリストが弟子の1人の裏切りにより裁判所に連れていかれ、世界中の罪を贖うため、金曜日に進んで自らを犠牲にして十字架に釘付けにされました。ユダヤ法によると、土曜日は全ての活動を中止する必要があるとされた安息日でした。こうして、キリストの信徒たちは金曜日の日没までに急いでキリストの体を墓に置き、急いでその場を後にしました。日曜日の朝、人々が墓に戻ってみると、イエスの体は消えており、イエス・キリストが復活されたことを聞かされました。それ以降、キリスト教徒はイエス・キリストを追悼して日曜日をイースターと呼ぶようになりました。これがイースターの発端です。

   主イエスが復活されたことの様々な意味とは何なのだろう?それを調べるために、私は聖書を開き、頻繁に読んでいたルカによる福音書の24章1-9節を素早く見つけ、小声で読み始めました、「週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、『あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか』。そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。」



   人間からすれば、人は死ぬと人々が怖がって離れたくなる魂になります。これと同様に、人々は復活された主イエスを見た時、彼らの最初の反応は、主イエスを怖がり、近づかないようにして避けなくてはいけないというものでした。こうなっていれば、人間と主イエスの間には大きな隔たりができてしまい、人間は見えざる無形の神を信じた旧約聖書の時代に逆戻りもしていたでしょう。実際、人々は復活された主イエスを最初に見た時はとても怯えましたが、どうして彼らは後に主イエスは恐ろしくも奇妙でもなく、むしろ親密であられると感じるようになったのでしょう?一体何があったのでしょうか?

   そして私は食い入るようにルカによる福音書の24章36-43節を開きました、「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして『やすかれ』と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。 そこでイエスが言われた、『なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ』。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが『ここに何か食物があるか』と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。」これらの聖句から、神は人間の弱さ、そして人間が復活した主の霊的な御体を目にした時に感じた心の恐怖感を知っておられることが分かります。しかし、神は人間を愛され、大切にしてくださっているので、人間が神から離れたり、疎遠したりするのを見ることは望まれませんでした。これ故に、神は気を遣われながら、無形の霊的な御体ではなく、生身の人間として人間の前にその御姿を現してくださったのです。私がこれを読んでいると、主イエスが復活された後に弟子たちの前にその御姿を現して一緒に焼き魚を食べられた場面が少しずつ頭に浮かんできました。主はとても感じの良い御方で、私は即座に親近感を抱くようになりました。私は心の中で温かさを感じ、それよりも衝撃を受けました。私はその当時を生きて、復活された主イエスを実際に見ることができればよかったと思いました。どれだけ幸せなことであったでしょう!弟子たちはその時起こっていたことを目撃して、失ったものを取り戻したという比類の喜びのみならず、私以上に主の親密さと素晴らしさを実感したことでしょう。復活された主イエスは見て触ることが可能で、生身の肉体をお持ちであり、十字架に張り付けられる前の主イエスと同じ人間の姿をした人々と一緒に食べたり飲んだりされました。こうして、人々はまた主イエスと一緒にいることができるようになり、主イエスを恐れたり、一緒にいて違和感を感じることもなくなり、彼らの主との関係は主が肉であられた時の親密な関係に戻ったのでした。これより、神の人類に対する不変の期待と御気遣い、そして神の細かい配慮と人間を大切にしてくださっていることが分かります。

   そうしたら、主イエスが復活された後に人間の前に御姿を現されたことの重要性とは何なのでしょう?これを知るために、私は読むのが特別に好きな本を取り出し、次の興味深い節を見つけました、「復活された後に主が最初になさったことは、皆に主のことを見させて、主が存在していることを確認させて、主が復活された事実を確認させることでした。加えて、これは主の人々との関係を、主が肉として働いておられ、彼らが見て触ることができたキリストであられた時の関係に復したのです。この結果として、人々は主イエスが十字架に釘付けにされた後、死から蘇られたことを確信し、主イエスの人類を贖う働きに関する疑惑がなくなるという1つ結果が得られました。そしてもう1つの結果は、主イエスが復活された後に人々の前に現れて、人々にご自分をしっかり見させて、触らせたことで恵みの時代において人類を確保することができました。この時以来、人々は主イエスが「失踪」または「放棄」されたからといって前の時代である律法の時代に戻ることはできなくなりましたが、彼らは主イエスの教えと主イエスがなされた働きに従って前に進み続けたのでした。こうして、恵みの時代の新たな段階が正式に始まり、以前律法の下にいた人々はその後に律法から抜け出し、新たな時代に入り込み、新たなスタートを切ったのです。これらが、主イエスが復活後に人類の前に現れたことが意味する様々な内容です。」私は他の霊的な書籍ではこのような言葉を目にしたことがありませんでした。これらの言葉は主イエスの復活の意味を率直に、そして明確に説明していました。私はこの節を読み熟考している間に、主イエスの復活は恵みの時代における働きを確保して、その時代の中で新たな段階を開始したこと、そして律法の下にいた人々が規則と規定による束縛から完全に開放され、新たな時代に入ったということを理解しました。さらに、復活された主イエスを見て触ることができたという事実によって、人々は主イエスの働きを疑わなくなり、それを受け入れるようになったので、恵みの時代における主イエスの新たな働きが正式に幕を開けました。主イエスが復活されていなければ、神の受肉による働きはサタンによってうずめられてしまい、人間は神が肉となられていた間になされた働きや、神が表してくださった真理の全てを信じることはなかったでしょう。従って、主イエスの復活は、神が新たな時代に働きをなさる上で重要な出来事であったのです。人々は主イエスが本当に死から蘇られ、主イエスが正に神の御子、キリストであり、神の御姿であると確信した時、主のなされた働きを固く毅然とした姿勢で信じるようになり、主の福音を伝導し始め、時代の最後まで伝導を続けました。主の復活がなければ、恵みの時代における福音の伝導は結果を出すことがなく、そのためにひるまず、くじけずに次から次へと全てを犠牲にしていった多大な数の聖徒たちも存在していなかったでしょう。特に、主の弟子と使徒たちは主のために殉教し、美しく豊かな証言をしました。これら全ては主が復活なさったことで得られた結果なのです。私はこれを熟考すればするほど、増々心が明るくなり、高揚した気分になっていきました。主イエスの復活はとても重要なことだったのです!これで私はコリント人への第一の手紙15:17の意味をより深く理解することができました、「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。」主イエスの復活は紛れもなくキリスト教全体における信仰の基盤であり、それなくして宗教界における主への信仰は存在しないのです。

   この時、私は他の疑問を思い出しました:「主イエスは復活された後、どうして特別にトマスの前に現れて、体にあった釘の跡を触らせたのでしょう?」私はヨハネによる福音書の20章26-29節を目にしました、「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』。イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』。」そして、霊的書籍にはこのように書かれています、「主イエスが十字架に釘付けにされる前、トマスは主がキリストであることを常に疑い、信じることができまんでした。彼の神への信仰は自らの目で見て、自らの手で触れることができる場合にのみ確立されました。主イエスはこのような人の持つ信念を良く理解しておられました。彼らは天にいる神を信じ、全く信仰はせず、神が送られた御方、すなわち受肉されたキリストを受け入れませんでした。彼に主イエスの存在、そして主イエスは本当に受肉された神であることを認めさせて信じさせるために、主イエスはトマスがご自分の脇腹に触れることをお許しになりました。トマスの抱いていた疑惑は主イエスが復活される前と後で何か異なったでしょうか?彼は常に疑っていたため、主イエスの霊的な御体が直々に彼の前に現れ、そして体にあった釘の跡をトマスに触らせること以外には、彼の疑惑を解決できる人、そして彼がそれを振り払えるようにできる人は1人もいませんでした。こうして、主イエスが彼に脇腹を触らせて、釘の跡の存在を実際に感じさせて以降、トマスは疑惑を持たなくなり、彼は主イエスが復活されたことを正確に知り、主イエスが真のキリストであり、主イエスが受肉された神であることを認め、信じるようになったのです。」私はこれらの言葉を繰り返し祈りながら読み、慎重に熟考した後に初めて主イエスは復活の前も後も本質的には同じであられたのだと理解しました。主イエスは常に人間の心の奥深くを観察され、人々の思考、考え、そして知性を認識されている神であられます。主イエスはトマスの本質と本性を知っておられました。主イエスは受肉して働きをなされていた間、トマスが心の中で主イエスが受肉された神、すなわち、キリストであられることを信じていないのをはっきりと知っておられました。また、主イエスが十字架に釘付けにされた時も、トマスは主イエスが死から蘇るとは思っていませんでした。トマスからしたら、死者が起き上がることや、復活することは不可能だったのです。トマスのような人は沢山いました。彼らは天にいるという漠然とした神のみを信じ、受肉された神への真の信仰を持つことはできなかったのです。彼らは主イエス・キリストのことを疑っていました。彼らは主はキリスト、すなわち神の御子であられると言葉では認めていても、主が復活されることや主が受肉された神であったことは明確に見極めることができず、それを信じてもいませんでした。この人々は主が本当に復活されたことを自らの目で見たとしても信用せず、主の体にあった釘の跡を手で触って確認する必要があったのです。そうでなければ、彼らは主イエスの御言葉を信じることはなく、主の仰ること全てを否定すらしていたでしょう。トマスに完全に確信を持たせるために、主は復活した後に彼を見つけて釘の跡を触らせました。トマスは主イエスがドアが閉じられてある所に入ってくるのを目撃し、主の体の釘の跡を自らの手で触れた時に初めて主イエスは死から復活され、主イエスは正に神、受肉された神であられると心から信じたのです。それが証明された後、彼はもう観念を持っていませんでした。主イエスがトマスのためにこうなさっておられることは、神は依然として彼のような信者に対しても憐みを持っておられること、そして神は彼らを断念することを望んでおられないということを十分に証明していたのです。神はこのような人が神の御言葉と働きから主イエスが受肉されたキリストであると信じられることを期待されておられました。しかし、この御言葉、「イエスは彼にこう言われました、『トマス、あなたは私を見たので信じたのか、見ないでも信ずる者は幸いである』」 というイエスの御言葉も、主がトマスのような人々をとがめられたこと、そして主は人々にこのような人にはならないよう警告されたことを私たちに知らせてくれています。トマスが心から主イエスを信じたのは主イエスが復活されたのを目撃した後のことであったので、彼はキリストに従い、キリストを知り、キリストに完全にしていただく機会を永遠に逃してしまいました。

   トマスはどうしていつもこれほどまでに主イエスを疑っていたのでしょう?それは、彼は主イエスの表されること、すなわち、神の御言葉に関する真の知識を持っていなかったからです。ペテロはどうして主イエスがキリスト、神の御子であられたことを認識できたのでしょう?それは、彼は神の御声を識別することができたからです。目に見えることだけを基にしていたのではキリストを知ることはできないように思えます。目で見えることだけに頼って神の表す真理を理解していなければ、私たちは神を知るという目標は決して達成できないでしょう。私たちは神の性質を知り、神の御言葉から真理を見い出すべきなのです。テモテへの第1の手紙に次の記述があります、「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、『キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた』。」主イエスは必ず再臨なさります。受肉なさって人間の前に現れたとしたら、私たちは主イエスを知ることができるでしょうか?私たちは賢い処女のように主の御言葉から神の御声を認識することができるでしょうか?