「モーセは言った、『どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください』。ヤーウェは言われた、『…しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである』。」(出エジプト記 33:18-20)
「ヤーウェはシナイ山の頂に下られた。そしてヤーウェがモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。ヤーウェはモーセに言われた、『下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、ヤーウェのところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。ヤーウェに近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。ヤーウェが彼らを打つことのないようにするためである』。」(出エジプト記 19:20-22)
「民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう』。」(出エジプト記 20:18-19)
「すると天から声があった、『わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう』。すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、『雷がなったのだ』と言い、ほかの人たちは、『御使が彼に話しかけたのだ』と言った。」(ヨハネによる福音書 12:28-29)
関連する神の言葉
神が人を救うとき、霊の手段を用いたり霊として直接行なわない。というのは、神の霊は人が触れることも見ることもできず、人が近づくこともできないからである。もし神が霊の立場で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け入れることはできないであろう。そして、もし神が造られた人の外形をまとわないなら、人はこの救いを受け入れることはできないであろう。というのは、ちょうど誰もヤーウェの雲の近くに行くことができなかったように、人は決して神に接近することができないからである。被造物である人となることによってのみ、すなわち、言葉を神がまとう肉体に入れることによってのみ、神は従ってくるすべての人たちに直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は自分自身で神の言葉を見聞きし、さらに言葉を自分のものとし、これによって、完全に救われることができる。もし神が肉とならなければ、肉なる人はそのような大きな救いを受けることもできないし、誰一人救われることもないであろう。もし神の霊が人の間で直接働いたなら、人は打ち倒されてしまうか、神と係わる方法がないまま、サタンにすっかり連れ去られ囚われるであろう。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より
もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神は受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通して直接語りかけ、人間には神と直接接触する方法がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができたであろうか。もしも霊のみがこの働きを行なったならば、人間には神の性質を知る方法がなかったであろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言が肉に現れるとき、神がその全性質を肉体をもって表現するときだけである。神は本当に人間のもとで暮らしている。神は触れることができる。人間は本当に神の性質、神のもつもの、神であるものと関わりをもつことができる。この方法においてのみ、人間は本当に神を知ることができるのである
『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より
救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊による感動、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは感動あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう──これは明確な事実である。
『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より
真理を求め、神の現れを待ち望む者すべてにとって、霊の働きは感動と啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、偉大で超越的で崇めるべきものであるが誰にも達成できず手に入れることのできないものという感覚だけを与える。人間と神の霊とは、遠くから互いを見ることしかできない。まるで両者の間に遠い隔たりがあるように。そして、けっして似ることがない。まるで、目に見えない境界で隔てられているかのように。実は、これは霊が人間に与えた幻影である。なぜならば、霊と人間とは種類を異にするものであり、霊と人間はけっして同じ世界で共存できず、霊には人間的な要素は何もないからである。だから、人間には霊は必要ではない。霊には、人間に最も必要な働きを直接することができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的かつ正常で謙虚で普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を恐れはするだろうが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすいように思われる。遠くの不可思議な存在ではなく、目に見え、触れられるのだ。この肉体は人間と同じ世界にあるのだから。
『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より
神が受肉していなかった時、神の言葉が完全な神性から発せられたものであったため、人間は神の言葉の多くを理解していなかった。人間には理解できない霊的領域において言葉が表出されていたので、神の言葉の観点と背景は人間にとって見えないものであり、到達不可能なものであった。肉を持つ人間にとって、霊的領域に立ち入ることは不可能であった。しかし神が受肉した後、神は、人間性の観点から人間に対して語り、霊的領域から出てそれを超えた。神は、神の神性の性質、旨、姿勢を、人間が想像できる物事、生活の中で見たり遭遇したりしていた物事により、人間が受け入れられる方法を用い、人間が理解できる言葉で、また人間が把握できる知識で表出することにより、人間が神を理解し知り、人間の能力の範囲内かつ人間に可能な程度で、神の意図と神が求める基準を理解できるようにすることが可能であった。これが、人間性における神の業の方法と原則であった。神が肉にあって業を行う方法と原則は専ら人間性により達成されたが、そうした方法と原則により、神性から直接業を行う事では達成できない結果が実際に得られた。
『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より
受肉した神の働きが途方もなく素晴らしいことを人は今では理解でき、そこには人には達成できないことがたくさんある。それらは奥義と不思議である。だから、多くの人たちは服従して来た。誕生してから一度も誰にも従ったことのない人たちも、今日、神の言葉に触れると、彼らはそうと気付かないまま完全に従うのである。彼らはあえて綿密に調べることも、何か他のことを言うこともない。人類は言葉の下に倒れ、言葉による裁きの下に平伏している。もし神の霊が直接人に話しかけたら、人はみなその声に服従し、啓示の言葉がなくても倒れ、ちょうどパウロがダマスコへの途上で光の中で地にひれ伏したようになる。もし神がこのように働き続けたなら、人は言葉による裁きを通して自分の堕落を知り、救いを得ることもできないであろう。肉になることによって初めて、神は言葉を直接すべての人の耳元に届け、その結果聞く耳のある人はすべて言葉を聞き、言葉による裁きの働きを受けることができる。これだけが神の言葉による成果であり、霊が出現して人を脅かし、服従させるというようなものではない。このような実践的でしかも並はずれた働きを通してのみ、長い間奥深く潜んだ人の古い性質を完全に明らかにし、人がそれを認め、性質を変えることができる。これらはすべて受肉した神の実践的働きである。この働きにおいては、神は実践的に語り裁くことで、言葉によって人に裁きの結果を達成する。これは受肉した神の権威であり、神の受肉の意義である。それは受肉の神の権威を知らせ、言葉の働きが達成した結果を知らせ、霊が肉となったことを知らせるためになされ、また言葉による人間への裁きを通して神の権威を実証するためになされる。神の肉体は平凡で普通の人間の外形であるが、神が権威に満ちており、その「人」が神自身であり、その言葉は神自身の表現であることを人に示すのは言葉が成し遂げる結果である。これはすべての人間にこの「人」は神であり、肉となった神自身であり、誰も犯すことはできないことを示している。誰も言葉による神の裁きを超えることはできず、暗闇のどんな勢力も神の権威に打ち勝つことはできない。人間は彼に完全に服従するのは、彼の言(ことば)が肉となった故、彼の権威の故、言葉による彼の裁きの故である。肉となったこの人がもたらす働きは、彼のもつ権威である。肉となったのは、肉は権威を持つこともでき、人に見え実体のある実践的な方法で、人の間で働きをなすことができるからである。そのような働きは、すべての権威を所有する神の霊によって直接なされる働きよりも現実的で、その結果も明らかである。これは受肉した神の肉体は実践的な方法で語り、働くことができるからである。肉体の外形は権威を持たず、人が近づくことができる。一方、彼の本質は権威を伴うが、その権威は誰にも見えない。彼が話し働くとき、人は彼の権威の存在を感じることはできない。これは彼の実際の働きにとっても好都合である。そして、そのような実際の働きはすべて成果を上げることができる。たとえ誰も彼の権威を持つことに気付かず、誰にも犯されることがないことや神の怒りを知らなくても、彼の覆われた権威と隠れた怒り、そして公に語られた言葉を通して、彼はその言葉により意図した成果を達成する。すなわち、口調や断固とした話し方、そして言葉の知恵のすべてを通して、人は完全に確信する。この様にして、人は一見何の権威も持っていないような受肉した神の言葉に服従し、それによって人の救いという神の目的を達成するのである。これは受肉のもう一つの意義である。つまり、より現実的に語り、彼の言葉の現実性が人に働き、その結果、人は神の言葉の力の証人となる。だから、もし受肉によらないなら、この働きは少しも成果を得られず、完全に罪人たちを救うことはできないであろう。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より
裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上にふさわしいものはいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。
『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より
受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救いの働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉における働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての宗教、すべての宗派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には理解のできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質は、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。
『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より
わたしの業は間もなく完成する。わたしたちが共に過ごした長い年月は、過去の耐えがたい記憶となった。わたしはわたしの言葉を繰り返し語り続け、わたしの新たな業を止めることなく進めた。無論、わたしの助言は、わたしが行う業それぞれに必要な構成要素である。わたしの忠告がなければ、あなたがたは皆道を逸れて、さらに途方にくれるであろう。わたしの業は間もなく完了し、終わりの時を迎えようとしているが、わたしはまだ忠告を与える業、すなわち助言の言葉を提供してあなたがたに聞かせることを、もう少し行うことを望んでいる。わたしはただ、あなたがたがわたしの苦心の努力を無駄にせず、さらに、わたしの言葉を、あなたがたが一人の人間としてどのように行動するかということの基礎として扱い、わたしの配慮と思いやりの全てをあなたがたが理解できることを願うのみである。あなたがたは、それが自ら進んで聞きたい言葉であるかどうか、また喜んで受け容れる言葉か、不快に感じながら受け容れる言葉かを問わず、それらの言葉を真剣に考えなければならない。そうしなければ、あなたがたのいい加減で無神経な性質と態度により、わたしは極めて不快になり、さらには、吐き気がするぐらいの嫌悪感を覚えるであろう。あなたがた全員が、わたしの言葉を何度も何度も繰り返して読み――何千回でも――心に刻み込むことさえ出来るようにとわたしは切に願う。あなたがたに対するわたしの期待を裏切ることがないためには、そうすることによるほか無い。しかしながら、現在そのように生きている者は皆無である。それとは反対に、あなたがたは欲しいだけ飲み食いする放縦な生活に浸り、わたしの言葉で心とたましいを豊かにする者は一人もいない。そのことが、人間のほんとうの顔というのは常にわたしを裏切るものであり、わたしの言葉に完全に忠実となれる者は居ない、という結論をわたしがくだした理由である。
「人間はサタンによって余りにもひどく堕落させられているので、もはや人間の姿をしていない。」この言葉は今日、大多数の人々から多少の認識を得ている。このように言われているのは、この「認識」というのは、真の知識とは反対で、単なる表面的な認知だからである。あなたがたの中には、自分を正確に評価、又は吟味出来る者は居ないので、あなたがたは常にわたしの言葉に対して半信半疑である。しかし、今回は事実を例に用いて、あなたがたの最も深刻な問題、すなわち「裏切り」を説明する。あなたがたは皆、「裏切り」という言葉を知っている。なぜなら、ほとんどの者たちが、これまでに何かしら他人を裏切ることをしたからである。例えば、夫が妻を裏切り、妻が夫を裏切る。息子が父を裏切り、娘が母を裏切る。奴隷が主人を裏切り、友達同士が互いに裏切り合う。親戚同士が裏切り合い、売り主が買い主を裏切る等である。こうした例には、すべて裏切りの本質が含まれている。つまり、裏切りとは、ある者が約束を破り、道徳の原則に違反すること、あるいは人間の倫理に反する行為の一形態であり、それは人間性の喪失を実証している。一人の人間として、あなたが何かしら他人を裏切ることをしたことがあるかを覚えているかどうか、あるいは、既に何度も他人を裏切ってきたかを問わず、一般にあなたがたがこの世界に生まれたのなら、真理を裏切る何かをしたことがあるはずだ。あなたが両親や友人を裏切ることが出来るのであれば、あなたは他人も裏切ることが出来る。そしてさらに、あなたはわたしを裏切り、わたしが忌み嫌う事を行うことが出来る。言い換えれば、裏切りとは、単なる表面的な不道徳行為の一つの形態であるだけでなく、それは真理に対立するものでもある。まさにこのようなことが、わたしに対する人間の反抗と不従順の根源である。そうしたわけで、わたしはこのことについて、次のように要約した。裏切りは人間の本性である。この本性は、各々がわたしの心に適う者となるのを妨げる天敵である。
わたしに完全に従うことが出来ない行動は裏切りである。わたしに忠実であることが出来ない行動は裏切りである。わたしをごまかし、嘘でわたしを騙すことは裏切りである。頭が多くの観念で一杯で、それをいたる所で広めることは裏切りである。わたしの証しと益を護らないことは裏切りである。心の中でわたしから去って作り笑いを浮かべるのは裏切りである。こうした行動は全て、あなたがたがいつも出来る物事であり、あなたがたの間で恒例ともなっている物事でもある。あなたがたのうちの一人として、それを問題だと考える者はいないが、わたしはそうは考えない。わたしは、わたしを裏切ることを些細な事として扱うことは出来ず、また無視することも出来ない。わたしはあなたがたの間で業を行っているが、あなたがたは依然としてそのような状態である。あなたがたを思い遣り、見守る者がいつの日かいなくなったら、あなたがたは皆お山の大将[a]になるのではなかろうか。その時、あなたがたが大惨事を引き起こした時、誰がその後始末をするのであろうか。あなたがたは、ある裏切り行為は、恒常的な行為ではなく、単なる一時的なものもあり、このように深刻に捉えて、あなたがたの面目を失わせるようなことはすべきではないと考えるかも知れない。ほんとうにそう思っているのであれば、あなたがたは感受性に欠けている。このように考えれば考えるほど、彼らは一層反逆の原型となる。人間の本性とは、その者のいのちであり、それは、生き残るために人間が依存する原則であり、人間はそれを変えることが出来ない。ちょうど裏切りの本性のように――もしあなたが、何か親戚や友人を裏切ることが出来るのであれば、それは裏切りがあなたのいのちの一部であり、あなたの生来の本性であることを証明している。このことは誰も否定出来ないことである。たとえば、ある人が他人の物を盗むことを好むのであれば、「盗むことを好む」ということは、その人のいのちの一部である。それは、彼らがある時は盗みをするが、別の時は盗まないというだけのことである。彼らが盗みをするか否かに関わらず、それは、彼らの盗みが単なる行動の一形態であるということの証明にはならない。そのことは、むしろ盗むことは、彼らのいのちの一部、すなわち、彼らの本性であることを証明している。ある人々は、それが彼らの本性であるのならば、彼らが良い物を見ても盗まないことがあるのは何故か、と問う。その答えは至って簡単である。彼らが盗まない理由は多数ある。例えば、人目を避けて盗むには、それが大きすぎる場合、盗むのに適切な時間が無い場合、それが高価すぎて警備が固すぎる場合、彼らが特にその良い物に関心を持っていない場合、彼らがそれをどう使うかまだ考えていない場合などである。これらのすべてが理由となり得る。しかしいずれにせよ、彼らがそれを盗むか否かを問わず、そのことは、そうした考えが単に彼らの心に瞬間的に閃くに過ぎないということを証明することは出来ない。それどころか、盗むことは彼らの本性の一部であり、変えるのが困難であるのだ。このような人は一度盗めば満足するというのではなく、何か良い物を見つけた時や、適した状況になった時には、絶えず他人のものを自分のものとして獲得したいという考えが働く。これが、そういう思いは時折意識されるだけのものではなく、その人の本性から来るものであるとわたしが言う理由である。
自分の言葉や行動により自分のほんとうの顔を表すことは、誰にでも出来る。このほんとうの顔がもちろんその者の本性である。もしあなたが、たいへん回りくどい話し方をする者であるならば、あなたには、ひねくれた本性がある。あなたの本性がとても狡猾であるならば、あなたの手口は極めて巧妙で狡賢く、人々をあなたによってとても欺されやすくする。あなたの本性が極めて陰険であれば、あなたの言葉は聞いていて心地良いかもしれないが、あなたの行動はその陰険なやり方を覆い隠すことは出来ない。あなたの本性がとても怠惰である場合、あなたの言う事は、すべて自分のいい加減な性格や怠惰さに対する非難や責任を逃れることばかりを意図とし、あなたの行動は非常に遅く、おざなりで、真実を隠すことにたいへん優れている。あなたの本性が非常に同情的である場合、あなたの言葉は合理的であり、行動もまた真理にたいへん良く則しているであろう。あなたの本性が非常に忠実である場合、あなたの言葉は誠実であり、あなたの行動のしかたは堅実であり、あなたの主人が不信感を抱くようなことはないにちがいない。あなたの本性が極めて好色あるいは金銭に貪欲であれば、あなたの心はいつもそれらのことで一杯であり、無意識のうちに常軌を逸した不道徳的な行動をとり、そのために人々はそれをどうしても忘れることができず、さらには、ひどい嫌悪感を抱くであろう。まさしくわたしが言ったように、あなたに裏切りの本性があるなら、あなたがその本性から抜け出すことは、ほとんど不可能であろう。あなたがたは、自分が誰にも悪いことをしたことが無いからといって、自分に裏切りの本性が無いと楽観してはならない。あなたがそのように考えるのであれば、あなたには胸がむかむかさせられる。わたしがその都度述べてきた言葉は、全ての人々に向けて語られたのであって、一個人やあるタイプの人間にだけ向けられたものではない。ひとつの事においてわたしを裏切ったことが無いからといって、それは、あなたが他のどんなことにおいてもわたしを裏切らないことの証明にはならない。結婚生活での挫折の中で真理の追求において確信を失う人々もいる。ある人々は、家族崩壊時にわたしに対し忠誠を尽くす任務を投げ捨ててしまう。束の間の喜びや興奮を求めるために、わたしを見捨てる人々もいる。光の中で生き、聖霊の業の喜びを自分のものとするよりも、むしろ暗い谷に落ちた方が良いという人々もいる。ある人々は、富への欲を満たすために友人の助言を無視し、今なお自分の過ちを認めて戻ることが出来ない。わたしの保護を受けるために一時的にわたしの名のもとで生きる人々もいれば、命にしがみつき、死を恐れているために、少しだけしか捧げない者たちもいる。これらの行動と、その他の不道徳で、その上みっともない行動は、まさに人々が心の奥底で長い間わたしを裏切ってきた行為と同じではなかろうか。無論、人々の裏切りは事前に計画されたものでは無く、それは彼らの本性の自然な現れであることを、わたしは知っている。わたしを裏切りたい者は一人もおらず、その上、何かわたしを裏切る事をして、喜ぶ者はいない。それどころか、彼らは恐怖に震えているではないか。それならあなたがたは、それらの裏切りの埋め合わせをどうやって為すことができるのか、またどのようにして現状を変えることができるのかについて考えているであろうか。
2020賛美歌 最高のメドレー(歌詞付き)
【00:00:00:00】 神の愛と本質にはいつも私欲がない
【00:04:26:25】 受肉した神は人間の救いという最も重大な働きをする
【00:08:31:13】 受肉の神は人々を新しい時代に導き入れる
【00:12:48:02】 神は栄光と共に世界の東に現れた
【00:19:57:03】 受肉した神は静かに救いの業を為す
【00:24:36:13】 最も人を愛するのは神だけである
【00:28:58:27】 神の働きを知っているか
【00:32:42:03】 神はあなたの心と霊を捜し求めている
【00:40:06:03】 誰も神の到来に気づいていない
【00:45:23:14】 終わりの日のキリストは神の国の時代をもたらした
【00:50:22:15】 終わりの日の受肉の神はおもに言葉の業を為す
【00:55:59:18】 神は勝利と共に戻って来た
【01:00:57:06】 人の真の信仰と愛を得ることを神は望む
【01:04:23:02】 終わりの日の神の受肉の背後にある目的
【01:10:14:14】 神の現れが持つ意義
【01:14:54:01】 神が肉となった時だけ人は神の親しい友となる
【01:21:22:09】 人間に対する神の配慮の裏にある目的
【01:27:04:10】 全宇宙が一新した