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株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
会社のこと、仕事のこと、プライベートのこと、あれこれ書いています。

その26.牧 逸郎というオッチャンについて

2012-07-13 15:56:21 | 制作会社社長の憂い漫遊記
ここらで盟友・牧 逸郎カメラマンのことに触れておく。
牧さんは1987年6月、映像業界で活動するフリーが4名で作った
「オフィス キネティック」の盟友である。
牧さんは4名の中では最年長だったが、
大渡 繁夫監督を立ててNo2のポジショニングだった。
まぁカメラマンの性なのか、本来控えめな方だったのかは
ついぞ私は聞けないままだった。
「んなこと大先輩に聞けないっうの!」
私との歳の差は16歳で、キネティック設立時、
私は25歳だったから牧さんは41歳になる。
にもかかわらず一緒に組んだ現場では私を「監督」と呼び、
同じ作品のスタッフで呑む天気祭り(その7.ウニ論 参照)では
「多田さん」とさん付けで呼ぶ。
唯一、キネティック内の飲み会で「多田君」と呼ぶくらいだった。
それは私だけでなく、同じメンバーで14歳下の中川 幸俊に対しても
スタッフの前では「中川さん」とさん付けで呼んでいたし、
牧さんと若干の年齢差ではあったが、
年下の大渡監督に対しても「大渡さん」と呼んでいた。
この牧さんを慕って数年後、大沢 佳子がカメラ助手として参加し、
牧さんは大沢に自分のすべてを投入して教えた。


(なんだかメチャ嬉しそうな牧さん)

私の結婚式にはキネティックメンバー総出で出てくれたし
1ヶ月後に行った業界人を集めての披露宴の幹事も勤めてくれた。
ご自宅にも2度ほど訪問したが、監督とカメラマンとしてはツーカーではなく、
むしろ私が遠慮がちになり、
牧さんと組んだ作品はイマイチ突っ込みの弱い作品になる。
牧さんはアクの強い人間が好きで、ある意味ムチャな監督を好んだ。
そんなわけで、「足の裏から冥王まで」(1979)という日本維新派の舞台の
記録映画ではセカンドカメラマンについたにもかかわらず、
まだ20代のチンピラの空気満載の井筒 和幸監督から乞われ
それ以降「暴行魔真珠責め」(1979)「ガキ帝国」(1981)
「ガキ帝国悪たれ戦争」(1981)と立て続けに撮っている。
牧さんにとっては記録映画を撮るように
ドキュメンタリードラマを撮ったのかもしれない。
その後も軸足はPR業界に置きながら、
やはり強烈なアクを持つ記録映画の巨匠・小川 伸介監督と
記録映画「京都鬼市場 千年シアター」(1987)や、
山崎 祐次監督と組み「宮大工 西岡常一の仕事」(1992)を撮りつつ、
自主制作映画にも精力的に参加し、「真夏の少年」(1991)や
「地球のへそ」(2008)など劇場用映画やVシネマを仕上げている。

酒を飲むと
「映画は何もないところから●(丸)をつくる作業だが、
PRは始めからある●(丸)をより●(丸)に成形する作業だ」と
天井を見上げながら語った。私が
「PRの●(丸)を、▲(三角)に成形するのもアリですよね」と言うと
「アリかな」と、多分お前には無理だと言うところを
グッとこらえて言ったような気がする。
私は「▲(三画)もアリだ」と今でも思っている。
「ただし正面から見たら●(丸)でないと!」と少しズルくなったが…

PRを撮るの牧さんも、劇映画を撮る牧さんも同じ人間だ。
だからどちらに軸足を置いているということはない。
撮るのが大好きだっただけだ。



(大渡監督とその娘と私を、牧さんが激写)

牧さんが45歳位だった頃だと思う。
「多田君、メガネ屋に一緒についていってくれないか?
なんか老眼が入ってきたみたいで…メガネ屋なんてはじめていくから
どうしてよいのかわからん…」とボソリと言ったかと思うと、
スタッフ対抗のゴルフ大会で、サビだらけの自前のクラブで参加し、
優勝をかっさらったりした。
「あんなサビだらけのボロクラブで優勝されたら、『飛びが違います』と
言われて大枚払ったワシはどの面下げて、ゴルフを続ければいいんじゃ~」と
某プロデューサーの嘆きが悲痛になってクラブハウスに響く。
その牧さんから入院中にもらった手紙に対して
「多田浩造ではなく、多田浩三となっていました」と抗議すると
若い時から禿げていた頭を撫ぜながら「すまん」と。
大沢 佳子がキネティックの飲み会で
訳のわからない持論(十分理解できるのだが…)を展開すると
大沢の帰った飲み屋で、
私と中川が「大沢のどこが可愛いのやら…?」と慰めても
知らん顔で酒を飲みつつ涙していた。


(キネテック主催のスタッフ旅行
第1回目は飛騨高山、第2回目は沖縄に)

牧さんは2008年10月1日の未明、肺ガンのため
64歳の若 さで急逝された。通夜には多くのスタッフが参列し
キネティックの盟友・大渡監督や中川 幸俊にも久方ぶりに再会した。
通夜終了後、梅田で大渡監督、桜田 純行カメラマン、
岩崎プロデューサーと一献交わした。
以降いまでも大渡監督が年1回音頭を取り、
親交の深かったスタッフが集い「マキさんを偲ぶ」と称して
近況報告やスタッフ論、作品論などを交わしつつ飲んでいる。
今頃、牧さんはあの世で閻魔様か天国のドキュメントでも
撮っているのであろう、
カメラマンとしての深い矜持を持って。


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