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株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
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その235.5分物のアニメ全10話を演出中という件(3)

2015-06-26 06:55:55 | 制作会社社長の憂い漫遊記
引き続き、5分物のアニメ全10話を演出中という件から。
助監督は、当社の川村君。デザインも自ら出来るし、
ディレクターのセンスもある。PCにも強い。
仕事の取り組みも積極的で、前倒しで仕事もする。
しいて言えば、無口で声が小さいのが
ディレクターとしては弱点だが・・・いずれ克服してくれるだろう。

さて監督の私はそもそもPCに疎い。
いまだに右人差し指と左人差し指でキーボードを叩いている。
ソフトはエクセル中心で、あとは動画編集ソフトが使えるくらいで
他のソフトは覚える気すらない。必要な時は見よう見まねで使い
しばらくすると忘れてしまう。
そもそも監督とはそういうものだと思っている。
旗を持って進むべき方向を目指し、
時には意図的に脇道にそれながらも
スタッフを燃焼させつつ、引き連れる。
監督たるものソフトを覚える時間があるなら、
やらねばならぬことは他に沢山ある。

では助監督とはどのような職種なのか?
正直、私は助監督らしい経験があまりない。
約35年ほど前。時はフィルムからビデオに代わる狭間。
だから私は運よく末期のスライドとフィルム、
そして出て間もない頃のビデオも体感している。
レーザーディスクを使った作品や、
不安定なハイビジョンのデビューにも立ち会っている。
当時の監督のほとんどはフィルム監督だったから、
私はたぶんビデオ監督のはしり。
すでにビデオ作品の監督をしながら、先輩に声をかけられて
助監督を数本経験している。ただし数本だけだ。
もちろん当時は監督として生業を立てていたので
異例の抜擢となる?
しかし、この時に声をかけてくれた監督やプロデューサーが
皆さんただ者ではなかったから、いまでも私は監督をやっている。
まずスライド作品では大学生の私をアルバイト採用し、
なんと某大手食品メーカーのスライド作品の演出に
起用してくれた元高校教師・「実宣」の本村勝彦プロデューサー。
師のお陰で私はスライドに見切りをつけビデオに進んだ上、
1日2本の商品や企業のPR台本を書くのが異常ではないと知った。
フィルム作品では、後にフリーランス事務所「オフィス・キネティック」を
共に作ることになる日本映画新社出身の大渡繁男監督。
ビデオ作品では、大渡監督の大先輩にあたる播磨晃監督。
私がプロデューサー兼助監督を勤めた作品を担当した
フリーランス事務所「サンクラフト」の山崎祐次監督。
そして私が勤めた2つ目の会社「映像館」の上司にあたり、
かって山崎監督と同じ「サンクラフト」出身の中畑來人監督。
さらにプロデューサーとして最も刺激を受けた
元ソニーPCL大阪事務所長の安達弘太郎プロデューサー。
師のお陰で私はフリーとしての位置を確率できた。
いずれも一作品のみのお付き合いで、
いずれの先輩も業界を引っ張ってきた巨匠だった。

私が鳴り物入りで入社した「映像館」は
私には古風な制作会社で、2年の在席だったが
居心地が悪く、結局フリー監督へと導いた会社である。
演出部部長だった中畑監督には、
一度も助監督を指名してもらっえなかった。常にお手伝い程度だった。
ある日のこと、台本のコピーを頼まれたので、
「うざっ」と嫌々コピーをしてホッチキスで止めていると
「コーちゃん、この台本を見る人のことを考えてホッチキス止めしてや」
と叱られた。右肩に止めるのか左肩に止めるのか、
きちんと揃っているのかと私に問うたのだ。
たったこれだけの会話だったが、作品に対する姿勢として、
今でも私の戒めになっている。

フリーの演出を名乗るようになって出会ったのが播磨監督。
私の親父ほどの年齢で、150センチ強のチビだったが
やたらと元気で、頭と口の回転が滅茶苦茶早く、
当時私にはチビではなく「進撃の巨人」に見えていた。
撮影も来ず私に任せきりで、インタビューがあるときは
一応来るがインタビュアーは私にさせ、
粗編集も録音のキュー出しまで私にさせて
「助監督とは監督の助手ではない!助監督という職種だ!」
と訳のわからないことを言っては酒を旨そうに呑んでいた。
そんな播磨監督を「適当やなー」とか「何を考えてるのかわからん」と
揶揄するスタッフもいたが、台本と仕上げの編集だけは
自分でコツコツやっていた。後はスタッフにいい意味で任せる。
播磨監督とはその一作だけのお付き合いだが、
その後もよく酒には誘ってくれ
「助監督なんて1本でいい。多田ちゃんは監督しなさい」
とニコニコ呑んでいた。

その播磨監督の言葉を借りるなら、
監督の目線で見るようになって初めて助監督本来の仕事ができる。
助監督が効率のよいスケジュールを立てたり、インタビューをしたり
編集ができるのは当たり前で、それができないなら助監督ではない。
いつも監督の立場に立って優先順位を決め、必要なものを集めてくる。
時には監督の暴走すら論理的に止められてこそ助監督なのだ。
現場は助監督を中心にしてスタッフに任せる。
監督は助監督の後押しをして、スタッフの持つ力を100%発揮させる。
これが監督と助監督の関係だ、とたぶん播磨監督は言っていたんじゃないかと
私は思うが、すでに亡くなり聞くすべもない。
播磨監督の助監督についた時、
私は「下っぱ、いじけるで」と思ったことはなかった。
「監督として何が必要なのか」を考えていたような気がする。
当時の私は、共同監督作品と思っていたくらい
播磨監督は具体的な指示は一切出さなかった。
だから共同監督だと若き私は錯覚していた。
私は監督になった今でも、播磨監督から大きなものを得たと思っている。

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