おだにゃら記

地元小田原市中心のフィールドワーク備忘録。
歴史、神社仏閣、あとはいろいろ。


御殿場の浅間神社ぜんぶまわる その15 西田中聖権現

2024年10月08日 23時25分00秒 | 御殿場の浅間神社ぜんぶまわる

5月に訪問していた西田中の浅間神社をUPしていないことに気づきました。

 
5月ですよ5月🎏

御殿場の田んぼに映る逆さ富士が見たいなーなんて思ってた5月です。

 


西田中の浅間神社の場所は大変わかりづらかったです。
深沢ほどではないですが、深沢は私が間違えてリストに入れていた小祠なので、
正規(?)の御殿場浅間神社15社の中で一番わかりづらかったのがここ西田中でした。
 
 
R246下り線のタイヤランドさん右手の細い道に
 

神社入り口の看板があります。
これを見つけられたらOKですが、見つけられないとかなり地獄です。
 
 

砂利道を行くとすぐに神社が見えてきます。
車を駐められるスペースもあります。






鳥居は東の田畑を向いてます。
 
参道はなくなってしまったのか、
神社の位置が変わってしまったのか。

5月の田園風景、和みます。








御殿場の神社にしては珍しく丁寧な由緒書き(すみません)

 
もとは芹澤氏の屋敷神だったそうです。
芹澤氏は茱萸沢(ぐみさわ)に居住していた土豪、将監は役職名です。

御殿場という地名の由来になった徳川家康のための御殿(現在の吾妻神社、御殿場高校一帯)
その造営の命を受けたのが芹澤将監でした。
 
それだけ地元で力を持っていた一族で、今でも御殿場市内には芹澤姓は大変多いです。
 

このあたりに芹澤氏の屋敷があって、祀られていた氏神が母乳にご利益があると評判になり、芹澤氏だけでなく地域の人々にも聖権現として崇拝されるようになったのでしょう。
(なぜ聖権現という名称なのかは不明)
 
明治に村社とするにあたり、権現だけだと仏教色が強く許可されないためコノハナサクヤヒメを合祀して浅間神社と改名したようです。


となると
浅間神社の隣に聖神社の名を並べたのは戦後に社格制度がなくなってからかな。

やっぱり地域の人たちには浅間神社という名称はピンと来てなかったのでしょうか。


御神木のシラカシ
 


こんなに空洞になってるのにお元気そうです
 


本榊の大木

榊は成長が遅くあまり大きく育たないので、こんなに背が高いのは珍しいと思います。
 
 
立派な記念碑

西田中というよりは栢の木地区というんですね。

社殿や狛犬など境内は平成30年に改築されたようです。
もともとが屋敷神ですから昔はもっとささやかな社だったのかもしれません。



今日いち-2024年9月30日

2024年09月30日 14時33分48秒 | 猫や魚
ラミレジィの子供たち。15回目くらいの繁殖でようやく成功してくれました。
昔からちょこちょこと熱帯魚やってますが、ラミレジィは難しいです😿



北原白秋と小田原と関東大震災 2

2024年09月25日 15時46分00秒 | 近代文学に見る小田原
初秋だといふに小田原の丘はもう早春の絵模様である。
暖かいいい国だ。
           「蜜柑山散策」
 
 
北原白秋は随筆「蜜柑山散策」で
前田夕暮と2人で伝肇寺から水之尾へ散策した秋の情景を書いています。
(前田夕暮は秦野市出身の歌人)

二人が散策したのはマップのこの部分
  

小田原町詳細圖(昭和4年)だとこの道。
画像はズレてますがピンクの道で繋がります。
 
 
初秋の午後三時過ぎ、山荘を出てテニスコートを抜け
(このテニスコートの詳細は不明)
 
閑院宮別邸の櫨紅葉を眺め
 
閑院宮別邸

旧アジアセンターから旧城内高校までの広大な敷地を有してました。
こんな優美な洋館が天神山にあったなんて、今では想像もつかないです。
 
 
道のそばには野茨の赤い実が玉を綴ればからたちの黄色い実が刺の間に
まんまるく挟まってゐる。
 
火葬場の女松や枯櫟や通り過ぎると青い杉や小松の長い長いトンネルになる。
 

三の丸新堀土塁
 
ご存知の方はもう少ないでしょうが、旧アジアセンター(現在の三の丸新堀土塁)付近には火葬場がありました。
 

火葬場を過ぎて御鐘ノ台大堀切の脇道へ。
ここからが「からたちの花の小径」、
100年前に白秋が歩いていた当時から景観はほとんど変わっていません。

 
この小径はいつか東村と来た時に黒い矢車型のげんげの莢でいっぱいだった。
今は野菊に嫁菜、草もみぢ、秋のきりんさう。
 
(東村とは歌人の矢代東村のこと)

西堀前

からたちの花の小径は小田原城総構の御鐘ノ台堀切を歩く道でもあります。

というか、白秋童謡の散歩道はほとんど総構と被っているので、総構を見学しながら白秋の感性に思いを馳せるのも楽しいかと。
 
 


 

からたちの花の小径石碑と
御鐘ノ台の歴史的町名碑

奥は城南中学校のグラウンド。
 
鳥の◯ンついてた…
 


散歩道の所々にいろいろな歌詞看板があり、
道路には赤い鳥のタイルが埋め込まれています。
 
タイルは擦り切れて見えなくなってるので
そろそろ新しくしてほしいところ。
 

現在からたちは非常に少なくなっていて、新たに植栽もしてるそうです。

そもそもからたちとはどんな植物なのかわからなくて

からたちとは
ミカン科の低木で春に花が咲き秋に実がなる。
食用には向かず、棘があるので防犯目的で住宅の垣根や畑の境界に植えられることが多かった。
非常に棘が多く管理が厄介なので近年では栽培は減っている。


なるほど
小田原は蜜柑畑だらけなので、からたちがあっても「ミカンだ」としか思わずあまり気に留めていなかったのかもしれません。

今後は気をつけてからたち探してみよう。


御鐘ノ台の西端、水之尾口櫓台





櫓台から見下ろすこの段々畑の景色を白秋は野外劇場のようだと絶賛しました。
 
ちゃうど野外劇場式の後ろ高に蜜柑の段畑が円形にめぐっている。
その中ほどに私たちは立ってさうして耳を澄ます。
 

先週の撮影なのでまだ蜜柑は青いです。
9月中旬なのに恐ろしい酷暑日で、それでも元気に歩いてる人達がいてすごいなぁと。
(わたしは車…)

 
白秋たちは蜜柑畑で農家から蜜柑を買い求め食べながら歩きました。
徐々に日は暮れてゆきます。 
 
今度は上の畑を抜けて丘の頂上を通ってゐる水之尾道の方へ、
道もないので、蜜柑の間をがむしゃらに上ってゆかうとなる。
 
上の畑というのがどこだかわからないのですが、水之尾方面へ道なき畠道を抜けたようです。

 
道祖神がある。やっと抜けると水之尾道の高圧線の鉄塔の下に出る。
 
当時と同じ場所とは限りませんが、水之尾の道祖神はサンサンヒルズ小田原(小田原競輪の関連施設)を過ぎたあたりにいくつかあるので、結構遠くまで歩いてきちゃったみたいです。
伝肇寺からは2キロちょっとの距離ですが坂道や畑道が続くので疲れそうです。
 
なお、鉄塔は数が多いので特定は難しいです。
 
鉄塔の下手に見える2〜3軒の農家の様子を色彩も鮮やかに表現して、
すっかり日の落ちた道を引き返します。
 
 
ついさっきの檀(まゆみ)の下あたりに来る頃には、
麓の板橋から早川の漁村にかけて、灯がチカチカと輝き出す。
沖の鰤(ぶり)船にも灯が点る。かうして目が喜ぶ、目が喜ぶ。
 

閑院宮庭園から見る相模湾
アジアセンター建設視察時、昭和35年ごろ。


現在の展望

板橋や城山の住人にはお馴染みの景色。
昔は鰤漁の船も見えたんですね。

映画「プラン75」のラストで倍賞千恵子さんが見つめる風景がここです。


ところで海蔵寺の晩鐘が鳴る。
「お誂へ向き」過ぎるとは思っても、向こうの山で鳴る鐘をこちらの山できくのはいい。

板橋の向こうの山、石垣山から海蔵寺の晩鐘が聞こえてくる。

白秋の秀逸な感性が眩しくてクラクラします。



最後に
白秋の長男隆太郎さんが描いたみみづくの家と洋館の見取り図。
(「北原白秋 その小田原時代」の口絵)

みみづくの家と洋館の繋がり、白秋がポーズをとっていた書斎、星座を眺めるために作った(?)3階の様子など、時代に合わない(すみません)ポップな描き方でとてもわかりやすい。
こういう家だったんだーと瞬時に理解できました。
(でも玄関はどこなんだろう?)

複雑だけど白秋の好みが詰まった楽しそうな家です。
そういえば家を建てることは趣味の一つだと白秋は言ってます。



散策を終えて帰宅した白秋と前田夕暮を家族が迎え、来客の矢代東村も加わり、
賑やかな夕べになったようです。

竹林の方丈風書斎は客人の寝室として使われていたので、前田さんと矢代さんはきっとその部屋に泊まったのでしょう。




参考文献

「北原白秋 その小田原時代」野上飛雲
「一枚の古い写真」小田原図書館
「白秋全集」岩波書店


 
 
 

北原白秋と小田原と関東大震災 1

2024年09月13日 16時04分00秒 | 近代文学に見る小田原

小田原に縁のある文学者で最も有名な人はやはり北原白秋だと思います。

白秋が小田原に住んでいたのは1918年(大正7)~1926年(大正15)

33〜41歳までの8年間。意外と短いですよね。

それでも引越し魔の白秋にとって一つどころに8年間というのは故郷福岡での暮らしに継いで長く、住居を建築したのは小田原だけだったとのこと。

白秋は詩人として地位を確立しながらも貧しい生活が続いており、
小田原へ越す直前には門弟との決裂があり気持ちも荒んでいたようです。

小田原での暮らしの中でようやく経済的に安定し家庭に恵まれ執筆活動も旺盛となり。
白秋にとっても小田原市にとってもこの8年間は貴重な期間だったと言えましょう。
 

白秋の小田原での生活を振り返ります。
 
 
1918年、白秋は2番目の妻章子の療養目的で小田原の養生館に1ヶ月滞在しました。
(1番目の妻、敏子とは不倫関係で始まり、姦通罪による投獄を経て結婚したが1年余りで離婚)
 

養生館

正恩寺前の海岸、現在も総構の土塁跡がある場所です。
元は伊藤博文の別邸滄浪閣。
伊藤が大磯に移ったあとの1897年にリゾート旅館養生館としてオープン。
 
庭にかかる優美な橋や海を眺める展望櫓、なんとも大正浪漫チックな旅館です。

こんなところに1ヶ月もいられるなんて。
昔の著名人羨ましい。


白秋に限らず昔の文豪って貧乏でも旅館などに長期間滞在しますけど、支払いはどうしてたのか不思議です。
 


養生館の建物は関東大震災で倒壊し今は住宅地になってますが、
一部に伊藤博文の銅像や記念碑が残されています。
 
 
その後市内御花畑に6ヶ月ほど滞在。 
(小田原町詳細圖)
御花畑は養生館の少し西。
この地図は1929年のものなので既に養生館は閉業してますが路面電車の停車駅はまだ「養生館入口」となってます。
 
 

そして養生館に来てから7ヶ月後の1918年10月に天神山の伝肇寺本堂の横部屋に引越し。
 
翌年、境内に「みみづくの家」を建て本格的に居住を始めます。
 

茅葺屋根の小さな家
 
一時期住んでいた小笠原を思い南国風にした不思議発想。
入り口と両脇の小窓がみみづくの顔に見えることから「みみづくの家」と名づけました。
 
 
 木菟の家
お屋根は萱(かアや)で 壁は藁
小窓のお眼々が右ひだり
お鼻の入口 這入りやんせ
木菟ぽうぽう
内からぽうぽう
 

1920年、みみづくの家の隣に赤い屋根の洋館「白秋山荘」を建設
 
これは白秋が小田原を去って数年後(1929)家財整理のために訪れた際の知人との集合写真。
中央の椅子に白秋と2人の子どもと3番目の妻菊子。
 
2番目の妻章子とは白秋山荘の地鎮祭後に離婚、翌年に菊子と再婚。
昔の著名人はすぐに後釜を紹介されるので、離婚の翌年の再婚も特に非常識でもふしだらでもありません。
女手がないと日常生活いろいろ困りますし。
 
菊子は大変よくできた女性で、新婚当初から目の回るような多忙な生活に耐え白秋の創作活動を支えました。
白秋はこの再婚で2人の子宝にも恵まれ、ようやく安穏無事な家庭を得ることができました。
 
 

現在の伝肇寺。
みみづくの家や山荘があった場所はみみづく幼稚園となってます。


伝肇寺も別名みみづく寺と呼ばれている模様

近所だけど昔と違って入りづらい。



伝肇寺境内にある赤い鳥小鳥の歌碑


白秋童謡の散歩道

白秋は伝肇寺近隣を頻繁に散策し、景色や植物の様子を多く書き残しています。

上の地図は小田原市が制作した「白秋童謡の散歩道」

これは小田原駅西口をスタートして小田原文学館の白秋童謡館をゴールとしたウォーキングコース。
小田原駅北側は山なので坂道が続き、特に城山幼稚園脇から谷津への急な登り坂はかなりきついです。


全行程歩くのが無理そうなら(私は無理です)伝肇寺から水之尾への「からたちの花の小径」
だけでいいんじゃないかと思います。
実際に白秋がよく散策していたのはこの道なので。




小田原文学館 白秋童謡館

白秋の散歩道ゴールの白秋童謡館は小田原文学館敷地内にあります。
小田原文学館は明治の政治家田中光顕の別邸だった洋館。白秋童謡館として使われている日本家屋も田中光顕邸の別棟でどちらも国の有形文化財に登録されています。

白秋がここに住んでいたと、ここがみみづくの家だと勘違いされて訪れる方もいらっしゃるようで
確かにちょっと紛らわしいかもしれません。



小田原文学館正面




私もよく庭を散歩してます




関東大震災まで辿り着けなかったので次回に続きます。


 𓂃𓂃𓂃𓊝𓄹𓄺𓂃𓂃𓂃

参考文献

一枚の古い写真(小田原市図書館)
北原白秋 その小田原時代(野上飛雲)
 
 
 

今日いち-2024年9月1日

2024年09月01日 16時09分27秒 | お出かけ
南足柄市 岩流瀬(がらせ)橋
ダム放流してるので酒匂川増水してました

音が怖い😱

そしてトンボだらけ