・・・佐村河内守氏の事件は、クラシック音楽の存在価値をも揺るがしかねない、大変な問題かもしれない・・・本当に恐ろしく感じる今日です・・・これ大袈裟であればよいのですが!(泣)
「誰が」「この曲を書いたのか」という問題が、音楽性として、曲そのものだけでなく、作者の個人性が少なからず反映されるという証拠となるのでしょうか・・・ 「曲そのもの」の力を信じて、勉強し研究している自分の身の上としては・・・いたたまれない気持ちになります・・・
・・・明日2014年2月6日に、佐村河内守氏、そして自身がゴーストライターであることを明かしたという新垣隆氏が会見をするのだそうです・・・どんなことを話すつもり?
今日、結局、佐村河内氏作曲とされた《交響曲ヒロシマ》は、どの店へ行っても手に入りませんでした・・・ それは事件の余波なのか?この音楽の人気ゆえにか? 店員さんに確認は出来ませんでしたが・・・どちらなのでしょう
でも実は、佐村河内氏のピアノ曲のCDは入手できました・・・ どんな気分でこの音楽を聴くのか、想像すら出来ません・・・ こんな事件を私は知らない!クラシック音楽家の一人として、すごくショックです・・・ 「誰を(何を)信じてよいのか?」よく考えねば・・・
クラシック音楽に携わる人間に「疑心暗鬼」を起こさせる事件・・・困ります。「本当に、ベートーヴェンが作曲したの?」「そもそも、ベートーヴェンなんていう人は本当にいたの!?」酷い疑心暗鬼が心を襲います(泣)
「音そのもの」に向き合おう。「音」は、きっと裏切らない。どこの誰に書かれたか分からない音でも、そこに確かに書かれ、意味深い音であれば、その力が発揮されるよう、奏でよう
「作曲者が誰か」なんて、もうどうでもいい。音で勝負しようぜ!(厳しそうな闘い・・・)
疑心暗鬼に駆られながらも、ベートーヴェンという人が作曲したらしい(←悲)《熱情ソナタ》と呼ばれる曲を今、弾いてみる。すると確かに、目の前の楽譜には、精巧に書かれた音の連なりがあり、今まで勉強してきた通り弾いてみると、音楽は、確かに、ここにありました
虚偽に苛まれた心では、何を信じてよいか分からなくなってしまう・・・ これが恐ろしいことなのかもしれない。疑う必要のないことまで疑って、身心を磨り減らす・・・これは生きる上で損です!賢く、避けたいものではないでしょうか
同業者の社会的スキャンダルに、その皆が迷惑を被る・・・まさかクラシック音楽に携わる自分の身の上にもこんなことが起こるとは・・・真面目にがんばってるつもりですが、本当に困ります!信頼を取り戻すため、時間をかけて、誠実に仕事に・音楽に取り組むしかない、自分のためにも、人のためにも
今後の佐村河内氏の人生を思ってもしまい・・・恐ろしい今後なことでしょう。「身から出た錆」とはいえ、どう償っていけるのか・・・見当がつきません
少なくとも信じられるは、今、自分は、どうやら確かに生きているようで、目の前に何かがあり、かつて何かを自分が体験したという記憶の蓄積(←それすら怪しい!?)。なるべく封じていた感覚主義・個人主義が強まることとなりそう・・・それともこれ大事な気付き?
生演奏による音楽は、その真骨頂!? 生演奏の音楽の価値は、ますます増して行く!? このデジタル化・グローバル社会と呼ばれる世界において
「不必要な疑い」・・・これは、人生を窮屈にさせる!? 今自分が生きていることすら疑い始めたら・・・!?困ったものです・・・
商業主義に則る「抗菌」されたような演奏を是とするコンクールの審査結果は、もう認めない
楽譜には書かれたことを信じるのか!? おのれの感覚・考え・思ったことを信じるのか!? 両者が一致する場合はよいけど、そうでない場合は・・・?
佐村河内氏作曲とされる《ソナタ一番》を聴きながら。フランク《前奏曲》やベルク《ソナタ》に酷似する音が聴こえてくる・・・あ・・・リストの《ダンテ》が聴こえた(苦笑) こんなことをつぶやくなんて、まさに「後の祭り」・・・クラシック音楽を専門に聴く人の耳に大きな疑念が生まれてしまった
そもそも、他人の作曲を真似することは悪いことなのか? だとすると、J.S.バッハの音楽の多くも「悪い」ということになってしまう・・・そうではない、でしょう。?
聾唖者の佐村河内氏が長大な音楽を書いた、その事実(←と思われたこと)に、人は心を動かされた、ということでしょうか・・・音楽はこの場合、媒介でしかなかった・・・と? 音楽家として、これが事実だとしたら、正直なんだかちょっと悲しい・・・
音楽の真の力を追究したい、これも妄想なのでしょうか・・・? そうではない!と信じたい!と思っても、今日は「信じる」という言葉が力を失ってしまったみたいで・・・