松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ
松や竹が話をするわけでなし、現代人の感覚では何を言ってるの?と
言われそうですが、それは近代合理主義の発想にすぎません。これは
芸術にとって大きな問題だと私は考えています。それはそもそも写真家は、
西洋人好みの写真を目指すのか、それとも日本人が古代から築き上げ
てきた日本的感性を重視した作品を作りたいのかという問題です。
これは個人の問題で、どちらが良いとか悪いとかではありません。芭蕉は
西行や宗祇を尊敬していましたので、当然後者でした。明治になって正岡
子規が芭蕉を批判したことは有名です。江戸後期には神格化されていた
ことを批判するのは妥当ですが、「芭蕉歌集は殆ど駄句の掃溜にやと思は
るる程ならんかし」(芭蕉雑談)というのは言い過ぎでしょう。明治以降、
ここまで芭蕉を批判する人は今日に至るまでほとんどいません。室生犀星は
子規を評して「子規が芭蕉を採らず寧ろ蕪村の壮麗を選んだのは、当時の
流行であったとはいへ、子規の俳道にさびの絶無であった所以である」と
述べています。子規が60歳くらいまで生きていれば、さびが理解されたかも
しれません。
本題に戻りましょう。芭蕉が生きた江戸幕府は儒教を推し進めました。中でも
宋学が広まったようで、誠というのもその一つです。ものの詩的本質は、物から出る
テレパシー(現代風に言えば)と自分のテレパシーがぶつかり合うことで理解される
という解釈が上記の言葉なのです。土芳はさらに、「私意を離れよということなり」
と続けています。私意というのはこざかしい正義感や屁理屈のことで、特に言葉の
芸術には陥りやすいものです。
色が地味なのでコンテストに入選するほど印象は強くありませんが、好きな写真の一つです。
2017年春長野県大町市で撮影