高く心を悟りて俗に帰るべし
前後二つの主張から成る。土芳は常に風雅の誠を責め悟りて、
今なす所俳諧に帰るべしといへるなり、と続ける。現代の学者は
後半部分を「軽み」の主張とみる人もいる。軽みは日常卑近な事
柄をさらりと言い流すことなので、それだけだと駄作になる可能
性が高い。それを防ぐのが前半部分といえるのではないだろうか。
写真も日中を避けて朝夕にばかり注目するが、目の前にある美を
見逃さないようにしたいものだ。
今春大台ケ原で撮影。このシロヤシオは枝ぶりが良い。
高く心を悟りて俗に帰るべし
前後二つの主張から成る。土芳は常に風雅の誠を責め悟りて、
今なす所俳諧に帰るべしといへるなり、と続ける。現代の学者は
後半部分を「軽み」の主張とみる人もいる。軽みは日常卑近な事
柄をさらりと言い流すことなので、それだけだと駄作になる可能
性が高い。それを防ぐのが前半部分といえるのではないだろうか。
写真も日中を避けて朝夕にばかり注目するが、目の前にある美を
見逃さないようにしたいものだ。
今春大台ケ原で撮影。このシロヤシオは枝ぶりが良い。
さして珍しくもないが、光芒写真の名作は数多く撮られている。
栃木の尚仁沢、熊本の菊池渓谷等、霧の出やすい場所となっているが、
前景に流れやミツマタの花を配するものが多い。
もし前景に今どきのアジサイでもあれば、目を引くかもしれない。
FINEPIXにて撮影、手持ちなので若干左に傾いてしまった。
新しみは俳諧の花なり
郷里の門人土芳の書いた三冊子にみえる。
不易流行論の流行の部分と解して良いでしょう。どこかで聞いたような、
あるいは見たような作品作りを戒める言葉です。同じような作品ばかりになる
ということは、芸術の停滞を意味しています。常に前へ進めということですが、
風雅の誠(芸術としての本質)は見失うな、それが不易ということだと、土芳は
解説しています。
原画は645、べルビア100にて今春撮影
コンパクトデジカメで複写してみたが、色が悪い。