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pcfx復活ブログ

飯田線の旅 3 中井侍・金野・豊橋市電

2011年06月10日 | ドライブとかりょこうとか
また飯田線に乗ってきた。

これまで「飯田線に乗って小和田で降りる」「車で飯田線の秘境駅を巡る」という旅をしてきたが、
今回は「飯田線に乗って中井侍と金野で降りる」という旅程だった。

飯田線の旅は1日ではどうにもならない。電車の本数が少なく、秘境駅と呼ばれる駅をじっくり
回っていると時間がたりないのだ。

朝9時に家を出たのはいいが、豊橋駅に到着したのは昼前。ところが昼の時間帯は飯田線が出てない
のだ。それで午後からの電車に乗って中井侍についたら夕方。金野についた時間はもう日が暮れる
頃だ。時刻表を調べていかなかったのが悪いのだが、動くなら早朝からでないときつい。

中井侍で下車し、駅から写真を取りながら坂を登っていく。耕作面積など殆ど無く、今は茶畑が
あるだけだが、昔はここで水田や畑を作ったところで自給自足は難しかったろうと思える。明治の
頃は人口2000人が住んでいたと聞いたが、その生活は大変だったろうと推察できる。

茶畑で働く老人に挨拶したが、プィッと横を向くだけで応えてはくれなかった。過去の風習の影響
なのかどうかは定かではないが、他所者を警戒しているようだ。


次の電車に乗り、今度は金野へ向かう。中井侍駅では切符を販売していないので、電車に乗ってから
切符を買う。何も言わなくても車掌が来る。「金野まで」というと、鉄道ファンと思われたのか、
「切符は持って帰られますか?」と聞かれた。秘境駅から秘境駅までの切符を記念に欲しいという
ファンが多いのだろう。さすがはJR、気がきいている。無論切符は記念にもらった。

途中地元の高校生が大勢乗り込んできた。日が暮れるような時間に金野で降りるpcfxを見て、後ろ
から「おい、あいつ金野で降りるぞ」「どこいくんだろ」などと声が聞こえてきた。

金野で降りて、先日車でここへ来たときに見た集落に行ってみる。次に乗る電車まであまり時間の
余裕がないので早足で山を昇り、集落を散歩してみたが誰も外にいない。ここの名物「金野卵」
(きんのたまご)を買おうかと思っていたのだが、時間が遅すぎたらしい。



さて飯田線の旅といえば起点は豊橋駅になるが、pcfxは今まで豊橋の市電に乗ったことが
なかった。それほど遠くない所に住んでいるのだが、豊橋に用事など今までなかったのだ。
飯田線に乗るまでの間2時間ほどあったので市電にも乗ってみた。




子供の頃住んでいた博多にも市電はあったが、小学生の内に廃止になってしまった。それ以来
だから30年ぶりくらいに市電に乗る。もっとクラシカルなものを想像していたが、豊橋の市電は
割と近代的だ。料金は均一で¥150。豊橋駅から運動公園まで行き、また引き返した。道路を
電車が走る光景は久しぶりだったので楽しかった。


また近いうちに飯田線の旅を続けようと思う。


飯田線の旅 2 車で行く秘境駅

2011年06月06日 | ドライブとかりょこうとか
今度は飯田線の秘境駅を車で回るという旅に出た。

前回は飯田線に乗って小和田で降りただけだったが、今回はその他の車で行ける秘境駅を訪れた
わけだ。

千代・金野・為栗・伊那小沢・中井侍と回った。鉄道沿線を並行して走る道路はなく、
ひとつの駅を出たら延々と遠回りして次の駅へ行くことになる。これらの駅に共通するのは、まず
駅周辺に民家がないか、非常に少ない。駅に比較的近い集落から駅までの道は非常に狭く、崖から
突き出した岩にヒヤヒヤしながら走ることになる。また付近住民はあまり(ほとんど)駅を利用して
ない(車で移動)、などだ。

中でも為栗(してぐり)は圧巻で、県道430号を延々と走った挙句、天龍川で道が途切れる。そこ
に吊り橋があり、徒歩か自転車でくらいしか渡れず、渡り終えた所に駅がある。つまりこの駅で降り
たら最後、吊り橋を渡らないとどこにも行けない仕掛けだ。付近には飲食店(営業しているか不明)
とキャンプ場があるだけだ。ここの吊り橋は比較的安定しておりさほど揺れない。高所恐怖症の友人
でもなんとか渡れた。

金野もすごい。どう見ても駅に向かってるとは思えない道を行くと、途中に小さな集落がある。
かなり大きな家があり、その集落の名物「金野たまご」(きんのたまご)が販売されているらしい
こと以外には情報はない。その集落を尻目に険しい山道を進むと金野駅に到着する。

中井侍に至っては集落へ到着するだけでも一苦労なのだが、そこは山の天辺で、そこから物凄い
つづら折りの急坂を下ることになる。駅前まで降り切ると切り返しができるようになっており、
駅のホームの真上に家がある。今回も中井侍にあるという民宿は発見できなかったが、どうもなさ
そうである。

で、それぞれの駅の「駅ノート」に一筆残してきたのだが、ペンがないところでは書けなかった。
ペンを持ち帰るのはやめて頂きたいものだ。今度行くときはペンを寄付しに行く予定だ。

ともかく飯田線は奥が深い。また近日電車で行く予定だ。それは明日かもしれない。

飯田線の旅 1 小和田・飯田

2011年05月29日 | ドライブとかりょこうとか
諸般の事情によりブログを休止していましたが、本日より復帰します。


さて、5月の22・23日と小旅行に出かけた。目的は「飯田線に乗る事」。
今まで飯田線に乗ったことがなかったのだが、友人の話などを聞いているうちに飯田線に乗りたくなって
しまったのだ。


ご存じの方も多かろうと思うが念の為に「飯田線」とは何かを簡単に説明する。

飯田線とはJRの路線で、愛知県の豊橋市から長野県飯田市を結ぶ鉄道だ。一般的なローカル線だが、実は
この路線の間に「秘境駅」と呼ばれる不思議な駅がいくつもあるのだ。


で、pcfxは鉄道マニアでも何でもないが、廃墟好きなのでこの「秘境駅」なる所に憧れをもっていた。
pcfxの家は名古屋市近郊。最寄り駅から豊橋駅まで2回乗り換え、片道1300円くらいかかる。豊橋駅から
各駅停車の鈍行「飯田線」に乗り、60駅近く、片道2500円かけて飯田駅に至る。乗車時間にして約4時間。
家から飯田まで、乗り換え時間もいれて約7時間もかかる。金額にして片道3800円だ。

今回の小旅行の目的は「小和田駅で降りる」というものだ。飯田線の「小和田(こわだ)駅」は全国
秘境駅ランキング
で堂々の2位に入るほどの秘境駅だ。まずこの駅まで来る道路がない。つまりこの電車
でしか駅に到達できない。近くに民家はない。唯一、駅から数十分歩いたところに民家がある。その家の
人しか必要としない駅だ。以前は橋があり対岸まで行けたようだが、橋が落ちてからは飯田線が唯一の
足となった。だから郵便配達も警官の見回りも電車で行われる。

この駅はトンネルとトンネルの間のごく狭い空間にポツンとあり、片側はすぐ断崖絶壁、もう片方も少し
下ればすぐに天龍川だ。地図を見ると駅まで道路があるように思えるが、実際に行くと徒歩でしか行けない
山道であり、草に覆われて道なのかどうか分からなくなる。このような状況から「秘境駅」と呼ばれる
ようになったようだ。

飯田線には「秘境駅ランキング」の上位30位までの中に5つも秘境駅が存在する。30位まで中の多くが
北海道にある駅だと考えると、飯田線だけでその内5つを占めるというのが、いかに率が多いのかが
わかる。


で、この「小和田駅」は当然無人駅だ。切符売り場もない。電車に乗って車掌から買うのだ。駅舎に
待合室はあるが扉はない。だから外気温そのままであり、台風だろうが雪だろうがそのままだ。
待合室にはベンチと事務机があり、その机にはノートが置いてある。この秘境駅にわざわざやってきた
物好きがコメントを残していくのだ。pcfxも5/22付けで簡単なコメントを残した。
また、豊橋駅で買った「秘境駅弁当」(¥1000)をその机で食べた。オカズが変わってておいしい。

駅舎を出るとトイレがあり、その先に細い道が伸びている。そこを少し下ると民家の廃墟が2軒ある。
その廃墟には入らなかった。


さて、ここまで読んで「なんでそんなところにいくのか」という疑問が当然出てくると思うが、物好きは
意外に多いもので、全国の物好きや鉄道マニアが「割とポピュラーに」訪れているのだ。pcfxが小和田駅
に降りた際にも入れ替わりに電車に乗る老夫婦を見かけた。



今回の目的は「小和田駅で降りる」だったので、そこで折り返して帰る予定だったが、何時間も電車に
乗っていた為予想以上に疲れ、また何時間もかけて帰るのが億劫になった。そこでとりあえず飯田まで
行って宿泊する事にした。途中、「天竜峡」で乗り換え、飯田に到着した時には日が暮れようとしていた。
飯田線の電車は数タイプあるようで、豊橋から乗ったのは2両編成でドアを手で開ける方式、小和田から
乗ったのはスイッチを押してドアを開ける方式だった。共にシートは直角シートで尻が痛くなる。帰りに
乗った特急はリクライニングシートで快適だったが、特急料金が割高だ。



ところで名古屋には「飯田街道」と呼ばれる「国道153号線」がある。わりとポピュラーな道なので
名古屋人には馴染み深いものなのだが、pcfxは「飯田街道」とわざわざ呼ぶくらいだから飯田はきっと
栄えている街なのだろうとずっと思っていた。だが数年前、初めて飯田に行った際(車で)、飯田駅前
周辺のあまりの寂れっぷりに驚いた。駅前商店はシャッターが降りまくっており、飲食店も異常に
少ない。

そんな飯田駅に再びやってきたのだが、やはり寂れっぷりは記憶通りだった。これだと宿泊にも困るんじゃ
ないかと心配になったが、タクシーの運ちゃんに聞くと、幸いなことに割り安に泊まれるビジネスホテル
は駅近くに二軒あった。どっちに泊まるか悩んだが、駅前唯一のコンビニに近いという理由で、駅から
少し下った所にある「飯田ステーションホテルまつむら」に決めた。受付に人がおらず、備え付けの電話
で呼び出すと女性が出てきた。部屋は空いているという。宿泊料金を聞くと¥5000。まあビジネスホテル
としては普通だ。外観を見ると割と大きなホテルだが、割り当てられた部屋は2階。今まで空いてる時期の
ビジネスホテルで2階の部屋を当てられたことがなかった。大抵は上階から埋めていくものだからだ。
下の階ほど地上の騒音に近いため上から埋めるのがセオリーだ。しかしどうみてもガラガラなのに2階で、
他の客もどうやら全部2階に集中させている。まあ理由は想像できるがここでは書くまい。
部屋に入ると、元からあった照明器具は使えなくなってるようで、後付の蛍光灯がぶら下げてある。
テレビはちゃんと液晶になっていたが、ケーブルTVは引いてないので地デジのみ。アダルト番組はない。
有料ビデオデッキはあるものの故障中。備え付けのアダルトビデオもあるがえらい古い。
要するに古いホテルを頑張って延命させて営業しているわけだ。テレビが新しいということだけでも相当
頑張ったのではないか。部屋は割と清潔でベッドも寝心地がいい。ユニットバスもヒビや水漏れはあるが
キレイにしてある。
このホテル一つから飯田駅前の衰退ぶりが見えてくる。以前は部屋が埋まるくらい客がいたのだろう。
しかし皆が車で移動するようになり、不便な電車を使わなくなったために駅前が衰退したのだ。

翌日朝、朝食を取ろうと思ったが、飯田駅前には朝に開いてる飲食店がない。仕方ないのでホテルの向い
にあるローソンで弁当を買って電車の中で食べた。朝10時に車内で弁当を食べているpcfxを見て、切符
を確認しに来た車掌が笑っていた。


普段名古屋市で生活していると、豊橋などは小さい不便な都市という印象しかないのだが、こうして
飯田から豊橋を見てみると大都会にみえる。飯田線沿線に住む人達は、ネット社会以前にはわざわざ豊橋
まで買い物に出たのだろうと思う。ちなみに飯田から豊橋まで特急に乗ると片道¥5000近い。往復すると
約1万円だ。この価格からしてそう頻繁には豊橋まで出られないだろう。

友人も言っていたが、飯田線をじっくり楽しむには1日や2日では足りない。それを今回身を持って体験
した。せめて3~4日ほしい。次回は「秘境駅」の一つである「中井侍」(なかいさむらい)にあるという民宿
(調べても出てこない)に宿泊するプランも織りまぜて本格的に楽しむつもりだ。



「こんなこと当然知ってるよ」という方も多かろうが、pcfxは「へ~そんなのあるのか」という物好きで
ない方に強くこの「飯田線の旅」を強く勧めたい。起点となる豊橋に割と近い所に住んでいる方に特に
お勧めだ。途中の車窓の風景だけでもきっと驚くことになるだろう。

廃墟趣味と心の闇

2011年03月17日 | ドライブとかりょこうとか
pcfxは「過去の棲家」という廃墟系残留物サイトを運営している(現在休止中)。
TELという友人が代表で、YOCHIというメンバーと3人で探索活動を行った。pcfxの探索は
TELと二人で行い、TELの車で狂ったように廃墟を探す旅を続けていた。それらの活動に
ついては、現在のポータルサイトからアクセス願う。

廃墟に関心を持つというのはあまり健全な趣味とはいえない。倫理的にという意味も
あるが、主に精神的な意味での不健全だ。廃墟に強い興味を持つというのは心に傷がある
証拠だ。その心的ストレスやトラウマから、この世など滅んでしまえばいいというネガ
ティブな希望があり、それを廃墟に投影している。だが人間、生きていれば傷やトラウマ
の一つや二つあるもので、完全に健全な人などいない。健全であろうとする超人思想な
人はいるだろうが、その動機そのものがもう不健全なのだ。だから人間は不健全な部分を
持っていて普通だと言える。

人は自分の心の闇を見ないようにし、無意識下に押し込めようとする。そうしないと
自分の汚さを常に意識してしまい、自信を失って弱気になり、社会生活に支障を来たす
ようになるからだ。普通の一般人として生きる分にはそのほうが生きやすい。

だが、どうしても心の闇と対面したくなる人もいる。自分の無意識の荒唐無稽さや、
赤裸々な欲求、コンプレックス、過去のおぞましい体験、失敗経験など、忘れたい筈の
マイナス情報をわざわざ引っ張り出して意識の上に置く。なぜそんな必要のない事を
するのかと問われれば、それは好奇心が自分の内面に向かっているからとしか答えられ
ない。体に古傷がある場合、ふとしたことでその傷が痛み出すことがあるように、心の
傷もなにかのきっかけで痛み出し、それを忘れさせてくれない。その痛みとは何なのかが
気になり、根治法はないのかと抗う。そこで自らのマイナス情報を見返し、チェックする
のだ。その無意識への挑戦を芸術と呼ぶ人もいる。普通の人が忘れようとする痛い真実を
あえて表に引っ張り出して見せ付けるのが芸術家だ。もちろんそんなことをしない自称
アーティストもいるが、それは軽薄なので価値はない。誰しもが心に持つ傷について、
わかりやすく表現する人が価値ある芸術家だといえる。

普通の人が芸術を行わないのは必要ないからであり、芸術家が芸術を行うのは必要に
迫られてのことだ。手先が器用とかはどうでもいいことであり、懊悩や煩悶などで
やむにやまれず表現してしまう。日常生活に困るほどの衝動があるから、仕方なく
貧しかったり辛かったりしても表現するのだ。自分の表現で食べていければ幸いだが、
そんな情況に恵まれた人はごく一部であり、多くの人が苦しみながら表現をやめられず
にいる。
そういう意味では、廃墟に興味を持つという事は芸術家に向いているかどうかの一つの
試金石なのかもしれない。心が悲鳴を上げていれば廃墟に関心を持つはずであり、それは
芸術に昇華する以外方法のない衝動なのだ。


廃墟の写真を撮る人はたくさんいるが、そのスタンスはどれも違っている。ただ技術的に
うまいだけの人が撮った写真は大抵物足りない。「ああキレイな写真ですね」で終わる。
だが、心に傷がある人が撮った写真の中には、その被写体の選び方などから心の闇が
垣間見え、それが安いコンデジで撮った構図も決まってない写真であっても心に響く。
廃墟で何を切り取ったのか、それが重要であり写真の技術はそのついでだ。

カコスミで掲載している写真は多くがTELが撮ったものだ。正直、pcfxはTELの写真の
技術については身内ながら褒めることはできない。また芸術的表現ができているとも
言えない。だがたまに「これは」という写真を撮ってくるので将来に期待したいと
思っている。方向性は間違ってない筈だから、後は彼がそれを的確につかめるように
なれば、きっといい写真が撮れるようになるのではないかと思っている。




kashmirというマンガ家・イラストレーターがいる。彼のイラストには度々廃墟や廃線、
滅びてしまった都市などが描かれる。pcfxが彼の絵やマンガに興味を持ったのも、それ
がきっかけだった。ギャグマンガを描いている上、廃墟のイラストには少女が描かれて
いるので惑わされやすいが、そこには心の傷や心の闇が、かなり重篤なレベルで漏れ出て
いる気がする。彼の素性など何も知らないが、彼の絵には強烈に引き付けられる。
ギャグも面白いが、そのギャグも常識を断裂した意外性に真の面白さが感じられる。

言い方は悪いが、終末を迎えた世界でバラバラ殺人を犯し、その死体をこちらに放り投げ
て驚かせ、クスクス笑っている無邪気だがイカレた幼児のような恐怖を作者から感じる。
その幼児は非常に美しい少女の外観をしているが、よく見てみると耳から長虫が這い出て
いる。目線は虚ろで彼岸の彼方に向けられているが、次の瞬間には目の前の玩具に釘付け
られ、他の物には一切関心を払わなくなる。美醜を併せ持ち、真実と狂気、達観と幼児性
を行き来する。そういう不安定で理解しがたい有様を見た読者は混乱し、ギャグだと思う
事にするより他に対処を見出せない。不安なので「ギャグですよね?」と一応作者に確認
するが、「うん」というだけでそれきりうつむいてしまう。かすかに見える口元は、気の
せいか笑っているようにも見える。それでいて自分よりも常識人であり、温厚そうに
見えるので調子に乗っていると、非常に道理の通ったお叱りを受けそうな気がする。

このように書くとまるで異常者のように感じるかもしれないが、その人物像の不安定感は
これまでに感じたことがない斬新さであり、その作品も「仕方なく時代に合わせている」
という風を装っているのでメタファを探したくなる。この人に本音を語らせたり、やり
たい放題に表現させたらきっと恐ろしい事になるのではないかというテロリズム的な
期待を読者にさせ、それによって改めて自分の中にある心の闇や傷を再確認させる。
異常者なのは実は自分のほうであり、狂っているのは時代のほうなのだ。



廃墟は美しかったり汚かったり、安心できたり怖かったり、楽しかったり鬱になったり
する、感情と無意識を揺さぶる場所だ。訪れる人それぞれが何かを揺さぶられるが、
そこは心の闇の部分だ。闇の少ない人は恐怖や不快だけを感じ、闇の多い人は安堵や
美を感じる。闇とは無意識であり、無意識に関心のある人は廃墟に引き付けられる。
kashmir氏の絵も同じであり、それらは真の芸術を表している。廃墟は不健全の体現だ。
健全なものに価値を見出せなくなったら、もう自分で何かを表現しなければいられなく
なる。pcfxがサイトでコメントを書いていたのも、そういう衝動からだった。

もしあなたが廃墟に興味を持ったのなら、何かを表現しなければいられなくなるだろう。
そういう人なのだ。あなたは。才能がどうとか、そういう問題ではないのだ。興味を
持った時点で才能と動機なら揃っている。あとはもう吐き出すだけだ。

地震と水乞食

2011年03月12日 | ドライブとかりょこうとか
pcfxは幸運なことにまだ大地震の被害に会ったことはない。今回の地震でも名古屋は
大した被害は出ていないようだ。しかし余震は続いているので安心はできないし、近い
将来に東海地区で大規模な地震が予測されてるので人事ではない。

阪神淡路大震災の時は、名古屋でもかなり揺れた。早朝だったので寝ていたが、地震の
直前に何かを感じて目が覚め、直後にすごい縦揺れが来た。地震の直前にはいつもそう
だが、何か「ポーン」だか「プーン」だかいう、可聴範囲外の音のようなものを感じる。
だからいつも地震の直前には目が覚めている。

今回もその音が聞こえた。昼寝していたがその音で目が覚め、2秒くらいしてから横揺れ
が来た。過去に体験した地震とは違い、振れ幅の長い横揺れだったので地震だという事に
しばらく気がつかなかったが、部屋の吊り下げ照明が揺れていたので確信できた。
1分以上揺れていたようだ。pcfxは割と新しいRC構造住宅の6階に住んでいるため、地震後
もしばらく建物が揺れる。だから地震がどの時点で治まっていたのかはよくわからない。

その音の正体がなんなのかはわからない。割と誰にでも聞こえてるものなのか、限られた
人にだけ聞こえるのか、自分だけなのか、気のせいなのかは判断できないでいる。地震は
波動なので音が聞こえても物理的には不思議はない。体感できる地震よりも疎密波である
P波が先に来るのはわかるが、音が先に聞こえるということは音速より遅いのだろうか。
まあなんにしろ、直前にしか聞こえないので地震予知には使えない能力だ。


絶対絶命都市」というシリーズのゲームがある。現在までに3作発売されており、もう
すぐ4作目が発売される予定だ。1と2がPS2、3がPSP、4はPS3に対応して
いる。どれも地震による災害後をテーマとしており、ゲームでありながら災害時の避難
シミュレーション的な側面を持つ。災害時の対策が随所にノートされているので、非常に
実践的な災害対策マニュアルとして役立つゲームだ。

pcfxは3まで全てプレイした。ゲームとしては1が最も面白く、ドラマとしては2が
よくできており、災害避難対策としては3がお勧めだ。次の4も楽しみだ。
どれも大変よくできたゲームなので、まだ未体験の方はご家庭の防災教育の一環として
プレイしてみてはいかがだろうか。シリーズはどれも完結したものなので、どれから
始めても問題ない。お持ちのゲーム機に対応したソフトを購入すればいいだろう。

かいつまんでそれぞれの重要な特徴を述べると、1では「とにかく夏は水分補給が第一」
で、2では「とにかく道具は大事」で、3は「とにかく落ち着こう」だ。


pcfxがシリーズ中で最も印象に残っているのは、1の主人公キャラが水を飲みまくる
事だ。夏の炎天下という設定なので仕方がないが、とにかく水を飲む。ゴクゴク飲む。
もう糖尿病ではないかと疑いたくなるほど、やたらに水を飲むのだ。そこまで水を誇張
したのは、やはり何はなくともまず水が大事だということなのだろう。

pcfxは国内でこそ、さほど水に困ったことはないが、海外では水にえらく困った経験が
ある。ある国の砂漠地帯での話だが、そこには水道はない。井戸があるが、それは現地
の村人のものであり、余所者のためにあるのではない。水の苦労を知らないpcfxは、
当然水は分けてもらえるものだと楽観していたのだが、村人以外は井戸を使うことが禁止
されているのだ。小さな集落の中央に井戸があるのだが、24時間見張りがいて、ノート
に「どの家の者が何時に桶に何杯の水を汲んだか」を記録している。1日の割り当てが
決まっていて、それ以上はどんな理由があっても水を汲めない。井戸は村唯一のもので、
湧いてくる水の量に限界があるからだ。

pcfxは水を分けてもらえるように頼み込み、お金も出すと交渉したが、彼らは別にケチ
で水をくれないのではなく、本当にギリギリの量の水で生活しているので分けられない
だけなので、桶一杯の水に彼らの月収分の金を払うと持ちかけたpcfxの申し出は
断られた。無論貧しい村なので、彼らの月収は日本円だとわずかなものだったが。

pcfxがそんな砂漠地帯の村に来たのは予定していたわけではなく、その国の国内線の
小型機に乗っていたら途中で故障したので、仕方なく近くの滑走路に避難したからで
あった。エンジンの故障で、部品を取り寄せて修理が終わるまで数日かかると言われた。
軍が昔使用していた空港の残骸である滑走路は、砂漠の真ん中にあり、近くに小さな村が
あるだけの場所で放り出されたわけだ。しかもその時の乗客はpcfxの他には軍人だけで、
軍人さんは軍の別便ですぐに去っていった。もちろん乗せてはくれなかった。

さて困った。水がないと3日で死んでしまう。空港の廃墟に地図があったので調べたが、
その場所は割と大きな砂漠と山に囲まれていたので車でもないと抜け出せない。人に
聞くと、車は村に食料を売りに来るトラックが週に1度来るだけで、村人は車を持って
いない。そのトラックは一昨日来たばかりなので次は5日後だ。せめてトラックが来る日
に巡りあえば水も買えたかもしれない。

仕方ないのでpcfxは「水乞食」をした。集落にある十数軒の家を順に回り、一軒一軒で
「水をくださいお金払います」と辿々しい現地語を、ガイドブックにあった語彙を
使ってハシゴした。まさにマンガのナウシカの1シーン「お酒くださいお金あります」
のようだった。お金を払うのだから乞食じゃないだろうと思う人がいるかもしれないが、
その土地では金よりも水のほうが必要とされているのだ。だから取引ではなく、好意への
せめてもの心付けとして金を渡すという立場だ。

何軒か回るうち、幸運な事に水を分けてくれるという家族があった。貴重な水だろうに、
見も知らない異邦人に分けてくれるのだという。有難すぎて涙がでた。その涙すら
もったいない気がするほど乾いていた。pcfxが強引に金を押し付けたので受け取っては
くれたが、金はいらないとずっと拒否されていた。夫に先立たれたばかりの若い奥さんと
3人の子供の家族。その国の宗教の決まりで、まだ夫の喪が明けないので水の割り当てが
一人分浮いてるという、pcfx的にはラッキーな状況ではあった。家族はこれから大変なん
だろうが。

喜んだのもつかの間。その集落での、一人の一日分の水の割り当ては「全て込み」で
約2リッター。飲み水だけで2リッターではない。手を洗うのも、何もかもで2リッター
までだ。しかもペットボトルなどない。洗面器のような器で1日分の水を「はいこれ」
と渡される。砂漠地帯なので風が吹けばどこにいても砂が入る。水はあっというまに
濁り、砂が沈む。暑く乾燥した気候は、汗腺が発達し、汗が噴き出る民族にはより多くの
水を必要とさせるが、そんな事は関係なく2リッターだけだ。全然足りない。

ところで「手を洗えない不快さ」を体験した方はいるだろうか。震災などを経験した方
ならわかってもらえるかも知れないが、水で手を洗えない状況というのは、衛生観念が
発達した国の人間としては物凄い不快な事なのだ。食べても排泄しても手を洗うほどの
水はない。それではどうするのかというと、砂で洗うのだ。風呂も砂だ。その家庭の
子供たちは、朝になると家から少し離れた砂地で丸裸になって体に砂をこすりつける。
脇や陰部などは入念にこする。髪も砂で洗うのだ。最初は遊んでいるのかと思ったが、
自分が洗う水に困るとその行動の意味がわかった。そしてpcfxも真似したが、やはり
慣れてないのでキレイになった気がしない。砂や砂埃がやたらと目に入るので、目や
瞼を洗いたくて仕方がなかったが洗えない。そのストレスで気が狂いそうになった。

その家庭に3日ほど泊めてもらった。宗教の戒律で夫のいない女の家に男が泊まるわけ
にはいかないので、石造りの納屋が割り当てられた。砂漠というのは夜になると氷点下
まで下がることがある。だから納屋にあった柔らかそうなものをありったけ床に敷き、
自分の寝袋と借りた毛布、そして空港の廃墟にあった古新聞をかき集めて暖を取った。
万一の事を想定して持ってきたアルミ蒸着シートがなかったら凍死してただろう。

4日目の朝に空港の廃墟に行ってみると、もうすぐ修理が終わるから昼頃にまたこいと
パイロットが言う。そういえばこのパイロット、この3日見なかったがどこにいたんだ
ろうと不思議に思った。集落でも一度も見なかった。お世話になった家族にお礼を言い、
すっかり仲良くなった子供たちとも別れを惜しんで飛行機に乗った。ようやく乾きと
暑さと寒さの地獄から開放される。飛び立った後に小型機のコクピットにいるパイロット
に、「どこに泊まってたの?」と聞いたら、「ずっと飛行機の中で寝てた」と言う。
水や食料は?と聞くと「飛行機に備蓄があるから問題ない」と。「へ?」と思い、機内の
棚を開けてみるとそこには、まだまだ何十リットルもの水がボトルに入って並んでいる。
食料も缶詰やら保存食やら果物やらたくさんある。

「なんじゃそりゃああああああああああああああああああああああああああああ」

と叫びながら、そのボトルの水を飲みまくり、それで顔を洗い、手をすすぐpcfxを一瞥
しながらパイロットが言ったのは、

「ああ、アンタに教えるの忘れてたわ」

の一言であった。因みにどこの国の話かは事情があって書けない。暑くて砂漠がある
国で、宗教の戒律が厳しいところだ。その旅行中、宗教に抵触する事件に巻き込まれた
ので公言できない。だが別にこのパイロットを殴ったり殺したりしてないので安心して
ほしい。すごい殴りたかったが。


とまあ、そのような水に困った経験は何度もある。だからpcfxは絶対絶命都市1の主人公
に非常に感情移入する。食事はガマンできるが、水だけはどうにもガマンできない。
乾きで幻覚が見え、記憶が混乱し、意識は朦朧とする。幻聴が聞こえ、被害妄想が
強くなり、手足は痺れてくる。小便すらもったいなく感じ、汗さえ舐める。そんな地獄
が待っているのだ。幸いなことに日本は水に恵まれているが、それがどれほど貴重な
事なのかは、酷い目に合わないと理解できないのだ。
震災は定期的にそれを思い出させてくれるが、喉元過ぎればまた忘れるのもまた人間だ。

おくだいらドライブ

2011年03月07日 | ドライブとかりょこうとか
愛知県の三河地方に「新城市」(しんしろし)がある。人によっては「シンシロシティ」
とか「あらぐすくシティ」とか適当に呼ぶ事があるが、ここは三河屈指の街であり、
奥三河の首都と呼んでも過言ではない。三河の歴史を追う重要拠点である。

この「新城市」という名前は「新しい城」という意味だ。ということは「古い城」が
あったということになる。その古い城とは「長篠城」の事であり、「長篠の戦い」または
「設楽が原の戦い」で損傷したために「新城城」(しんしろじょう)に建て替えられた。
新城城は現在の新城小学校の位置にあったといわれている。

新城市一帯を長く治めていたのは「奥平氏」であり、三河では「松平氏」「菅沼氏」など
に並ぶ有力氏族だった。「松平氏」は徳川家康が出た家系なのでご存知の方も多かろう。

奥平氏の所領といえば旧「作手村」(つくでむら)だ。現在は新城市に編入されたのどか
な田舎であり、縄文時代からの歴史が埋もれる。奥平氏は東からの侵略を度々受けて
おり、武田側の勢力下に入ったこともあった。地勢的に東からの脅威を受ける立地
なので三河の防衛の拠点であり、そのために奥平氏を三河勢力に戻したのが家康だった。
家康が長篠城防衛を任せたのも奥平氏で、その家臣に鳥居強右衛門がいたことから武田に
落とされずに済み、また長篠城の守りがあったからこそ設楽が原の戦いは織田・徳川の
連合軍の勝利となった。武田軍が潰走して武田の脅威が消えたからこその天下統一だった
と考えると、奥平氏が長篠城を守ったのは日本の歴史にとってベストソリューション
だったといえるかも知れない。

設楽が原の戦いは日本史上で本格的に鉄砲が運用され、その効果が大規模な騎馬軍団に
打ち勝ったという初めての戦であった。これは尾張の信長の戦略であったが、この地で
行われた戦闘であったことから新城市は鉄砲に関する史跡を多く持つ土地となった。
設楽が原の戦いがあった場所からは、未だに鉄砲の弾が時折出土する。火縄銃の弾は
球形をしており、弾にも色々な大きさ=重さがあった。ごく小さな弾をたくさん込めて
散弾銃のように使ったり、大きな弾を込めて破壊力を求める場合もある。当時は信長が
手当り次第に鉄砲をかき集めていたため、関西や地元周辺で作られた多種の鉄砲が混在
して運用された。また、鉄砲は名のある武将が使うというよりも、大量の足軽に配備
するという運用を信長が行ったために、装飾や構造はシンプルでメンテしやすい一方、
日本刀のような華美さはあまりない。そこには現代のアサルトライフルのような「兵器」
という匂いがある。

火縄銃の場合、銃だけ持っていけばいいというものではなく、弾とは別に火薬や火種も
必要であり、それらを即時に取り出せる入れ物も研究が進んだ。その結果、現在の歩兵
が腰につけるような弾薬入れが当時からあり、当時既に歩兵小銃運用のノウハウがかなり
完成されていた事がわかる。また銃の精度もかなり高度であり、既にヨーロッパから
持ち込まれた銃よりも命中精度に優れていた。日本刀などで鍛えられていた鍛冶屋あって
こその技術であり、各地の鍛冶屋が名誉をかけて競った技術開発の結晶だ。

このような火縄銃の歴史を展示した資料館が「設楽が原歴史資料館」で、多数の火縄銃や
小道具をじっくり観察することができる。よくある歴史資料館や博物館は日本刀が主役
であるのに対し、銃ばかりの日本史資料館というのは珍しく、またこの地独特だという
点で、この「設楽が原歴史資料館」はお勧めだ。資料館だけでなく、施設の周りには
古戦場の史跡がたくさんあるので見て回るのも面白い。車ならこの一帯の史跡を効率よく
見て回れる。名古屋からの織田軍ルート、岡崎からの連合軍ルート、武田贔屓なら勝頼
ルートで長篠に行くのも一興であり、武田軍視点でのドライブもまた楽しい。

電車ならJR飯田線の三河東郷駅で降りて1kmほど歩く事になるが史跡の多い所なので
飽きない。火曜日は休館日。長篠城跡にある「長篠城址史跡保存館」とセット割引も
あるので是非両方見るのをお勧めする。




現在銃声など聞くことがない日本だが、400年前にガンガン撃った結果が現在の平和
であり繁栄だった事を若者にも伝えたい。無償で手に入る平和などないのだ。軽々しく
「戦争反対」などと叫ぶお花畑脳にしてはならない。

またそのうちに必要ならガンガン撃って、その後の子孫の平和のために戦うのだ。戦争は
苦痛でイヤなものだが、その反面カッコイイ。命を直接賭けて戦える「男の世界」がそこ
にあり、男が男として生きる喜びを得られるのだ。それは男が命を賭けるに値する。
そして女も女として自然に生きる事ができる。フロイト的に見れば「平和」とは性の否定
であり、去勢そのものだ。

間伐の旅

2011年03月04日 | ドライブとかりょこうとか
友人と奥三河の山中をドライブしていると、見えるのは杉の木ばかりと言っても過言では
ない。元々あった杉の木もあるんだろうが、林道には植林した杉ばかりが並んでいる。

そんな杉の木の森の所々に「やろうよ!間伐!」というスローガンが掲げられているのを
見ることがある。2年前くらいまではあまり見かけなかった杉の森の間伐も、去年辺り
からあちこちで見かけるようになった。間伐はその名のとおり、杉が密集している所に
業者がチェーンソーなどを持ち込んで切り倒しまくり、三分の一から半分程度の密度に
調整する作業だ。主に冬に行われ、切り倒した杉の木の多くは運び出されずにそのまま
放置されている。

杉の植林は成長が早いという理由で行われ、バカの一つ覚えのように杉ばかり植え
まくった。早いと行っても数十年単位の年数がかかる。戦後の住宅用資材を主として需要
を見込んでいたが、植林杉が十分な太さになる前に「まあご立派♥」な太さの輸入材が
安価に流入した。国内の杉の多くが貧弱な坊やな上、法律の規制、切り倒す人件費、
トラックでの運搬のための林道の拡張、山から貯木場までの移動コスト、建築工法や
材料工学の発展による需要減などの事情によって必要とされず、流通ルートすら壊滅
した。昔は狭い山道をトラックが木材をテンコ盛りにして走っていたのをよく見かけ
たが、現在はほとんど見かけなくなった。

そんな感じで、行き場のない杉の木が間伐されて放ったらかしだ。そんな状況でもまだ
人里離れた山の中では杉の若木を植林している。街に住んでいる人間には見えない事
だから関係ないと思われるかもしれないが、とんでもない。大量の花粉症患者を量産
しているようなものだ。2月から物凄い勢いで黄色い花粉を飛び散らせる。強い風が
吹くと、杉林から黄色いガスが発生しているように見え、それは風に運ばれて都会に
住む我々の元にアマゾンのように宅配されてくるのだ。

花粉症には色々な植物の花粉が原因としてあるが「花粉症はアレルギーだから自己責任」
という風潮である。とんでもないことだ。明らかに植林事業にも原因があり、公害病に
似たものだといえる。「花粉症は甘え」とばかりに自費でマスクを購入させたり、薬を
買わせたりしているが、その一方では目につかない山の中で未だに杉ばかり植えまくって
いる。多くの国民が国の政策で苦しめられているという政治的な問題だ。

もちろん治山のためになにか木を生やしておかないとまずいというのはわかる。日本は
山地が多い地形なのでどうしても樹木の総量が増えるのもわかる。ハゲ山ばかりよりは
マシなのだろう。だがしかし杉ばかり多すぎる。実際に三河の山をイヤになるほど走り
まくっているpcfxは杉の木が憎々しく思えてくる。ここまで杉ばかりだと、なんか利権
でも絡んでいて、どこかで大儲けしてる者でもいるのではないかという邪推すら浮かんで
くる。もし花粉症の国民が一斉に林野庁相手に訴訟でも起こしたらどうなるのだろうか。
なんか色々黒いものが浮き出てくる気がする。

今年は国際森林年であり、丁度いいから木材輸入の規制とか関税増額とかやって、国内
に腐るほど生えている杉の木を消費する法律でも作ったらどうか。南米の森林がハゲる
のが問題になってるのなら、国内で余っている貧弱な杉の木を加工して強化する技術に
でも研究資金を出せばいいんじゃないのか。国内材の供給によって雇用も生まれるし、
安月給で人が来ないなら公務員にしてしまえ。重労働で人が来ないならハイテク使って
2秒で伐採できるような大型チェーンソーを持たせたパワードスーツを開発すればよい。
もういっそアシモにやらせたらどうか。日本ならできるはずだし、日本がやるべき事は
そこじゃないのか。世界で一番最初にほとんどの労働をロボットに依存し、国民は全員
創作活動で儲けるビジネスモデルを構築できるのは日本だ。

そんな妄想を、目をこすりながらドライブ中によくしている。ああ痒い。

犬山リトルワールド

2011年03月04日 | ドライブとかりょこうとか
もし愛知県に行く用事がある際、もし時間が1日自由に使えるのなら、お勧めの博物館が
ある。「博物館リトルワールド」だ。

他の都道府県の人にとって、愛知県に行く用事など特にないだろう。目立つ観光名所が
あるわけでなし、名古屋市が東京や大阪に比べて大都市とはいえないから仕事の用事も
少ない。万人受けする名物料理もないし、特殊な繁華街があるわけでもない。
だから新幹線で素通りされるのが愛知県や名古屋市の宿命といえなくもない。

そんな愛知県に何か面白い所はないのか、と言われた場合には、人によっては新栄などの
風俗を勧めたり、セントラルパークや大須観音商店街を勧めたりすることもあるが、
もっと文化的な事に興味があるインテリナイスガイであればお勧めするのが「犬山市」
だ。

犬山市は名古屋の北にあり、「明治村」「日本モンキーパーク」が有名で、これらも
面白いものだが、もう一つ「リトルワールド」という博物館が存在する。

このリトルワールドは広大な敷地に世界各地の建物が運び込まれ野外に建設されている。
またそれらの建物の多くは民家であり、民族の暮らしがわかるように展示されていたり、
各国の料理が味わえるようレストランがそれぞれ併設してあったり、各国の衣装を試着
して写真撮影できるようになっている。場所によっては動物もおり、まさにその国の
生活が実感できるような仕掛けの博物館だ。

敷地があまりに広大で、そこに点々と建物が立っている。電気バスが周回しているが、
世界旅行気分を味わうのなら徒歩をお勧めする。できるだけお腹を空かせてから出発し、
館内のレストランをハシゴすると楽しい。基本的に野外博物館なので天候や気温にも
左右される。pcfxは灼熱の真夏や極寒の真冬に出かけるが真似しないほうが良い。

もし万一天候が崩れても、大きな室内博物館があるので心配ない。「民族博物館」なので
世界各地の民族について詳細な展示を行っており、イベントも盛りだくさんだ。館内にも
大きなレストランがあり、ここのボルシチはピロシキもついておいしいと評判だ。

「民族」をテーマにした大博物館は珍しい。pcfxは初めてここを訪れてから、年に一度、
多い時は年に3回ほど何十年も通っているが未だに飽きない。各民族が使っている道具
の本物が山のように展示されているので、日常で「あ、そういえばコンゴ盆地東部の
編み道具のパターンはどんなだっけ?」と突然気になるタイプの方にはうってつけだが、
それ以外のライトな方にも楽しめるので安心して欲しい。

まあ詳しくはリトルワールドのHPでも見れば詳細があるのでそれを参照だが、子供連れ
でもカップルでも男同士でも単独でも一日楽しめ、ビール飲みながらカッタルくダラダラ
歩きまわるもよし、本場現地人の作る各国料理食べ歩くもよし、資料写真を撮りまくる
もよし、血眼になって民族資料を調べまわるもよし、通りかかった館内の学芸員を
捕まえてマニアックな質問をぶつけて返り討ちにあうもよし、ミュージアムショップで
各国の珍しい土産物を買って海外旅行にいったフリをするのも自由だ。

pcfxは30年ほど毎年通っていながら、未だにうっかり休館日に行ってしまうこともある
ちょっと複雑なスケジュールになっているので、営業日は事前に調べるのを強くお勧め
する。名鉄名古屋駅から名鉄犬山線に乗り犬山駅下車、そこからバスが出ている。

春に行くと桜がきれいだ。

信長小説とか比叡山とか

2011年03月04日 | ドライブとかりょこうとか
織田信長がどういう人物であったかは、残されている文献などでしか知ることはできない
が、まあ日本人なら誰でも知っている戦国時代の代表的な人物の一人だ。

pcfxは歴史学者でもなんでもないので、以下はあくまでpcfxの主観によるものとご理解
頂きたい。

日本人それぞれの立場や知識の幅によって詳細な信長のイメージは違えども、共通する
部分は「痛快な人物」という一言に込められるのでないか。敵を完膚なきまでに殺戮し、
また破壊し尽くす「痛」と、戦乱が続く日本をまとめ上げる礎を築いた「快」だ。

信長を描いた小説やマンガも山ほどあり、映画やドラマもたくさんある。どれを信望する
かによって信長のイメージは違ってくるだろう。或いは歴史ゲームがイメージになって
いるかもしれない。しかしそのほとんどがソースにしているのは「信長公記」という、
信長の家臣の一人が書いた記録である。この「信長公記」は「しんちょうこうき」と
読む。なぜ「のぶながこうき」でないのかは諸説あるが、当時の大人の事情だろう。
この記録も全部正しいとは限らず、伝聞もあるし数量データの計算が合わない部分も
ある。だが大体おおまかに信頼できるソースとして語られている。未読の方は一度
図書館などで現代語訳されたものを読んでみてはいかがか。

しかし現代語訳といえども、信長公記はバラバラの資料のパッチワークのような体裁で
読みにくく、データ集として扱うべき書物だ。もっと親しみやすく信長を追いたいの
ならば、あくまで「小説」だが、山岡荘八の「織田信長」をお勧めする。もちろん
小説なのでフィクションだから、「見たんかそれは」というツッコミは無しだ。しかし
史実をキチンと踏襲して書かれているので大きく誤ることはなく、また読み物としても
非常に面白い傑作である。これ以上面白い信長小説を読んだことがない。超お勧めであり
文庫本になっていて安価なので、未読の方には是非1巻だけでも手に入れて読んで
ほしい。絶対にすぐに続刊が欲しくなること請け合いだ。

この小説は、信長の少年時代の逸話から始まる。この逸話は文献の他に名古屋城下の
農民などからも聴取されたものがある。少年時代の信長は、手っ取り早く言えば
「ヤンキー」だ。バイクの代わりに馬で暴走し、チームを組む代わりに手下を連れて
名古屋城下を暴れまわった。コンビニにタムロする代わりに農家にタムロし、万引き
をする代わりに農家の瓜を盗んで食べた。城下であまりに悪さをするものだから、農民
からは厄介者扱いされており、城主の長男でありながら全く信頼されてなかった。
はっきり言えばバカにされていたわけだ。農民から「キチキチバッタ」「コンコン馬」
と呼ばれたいう伝説も残っている。
また城下のワルガキを組織するという、暴走族の総長的立場でもあったため、当然
「レディース」も統べる事になる。城下の少女も信長の手下であった。

この冒頭の部分は魅力たっぷりで、後の信長の行動や成功の伏線にもなっている。ただ
暴走していたわけではなかったらしい。実際はどうだったかのかは誰も知らないが。

こんなのが時期織田家の頭首になったらと思うと、当時の織田家の家臣や領民の絶望は
想像に難くない。信長の教育係だった平手政秀の胃痛も想像に難くない。

これらの描写がコミカルに描かれており、どんどん物語に引きこまれていく。後は実際に
小説を読んで楽しんでもらいたい。




さてpcfxの信長好きは比叡山の焼き討ちに最も強まる。比叡山は仏教の聖域という立場を
利用して政治に介入し、やりたい放題の無法地帯だったと言われている。比叡の僧侶が
麓の町で酒を飲み、女を買い、暴れた。そのうちに比叡山にまで酒を持ち込み、遊女も
うろつきはじめ、オカマも掘り放題。ロリあり、ショタあり、暴力ありの、ある意味
うらやましくて「ちょっと叡山行ってくる」とトムキャットを飛ばしたくなるような場所
だったらしい。

そんな坊主天国に火を放ち、丸ごと焼いてしまえという信長の決断に強く反対した
明智光秀に、作戦の指揮をさせるあたりが信長のドSさが垣間見えてまたよい。実際は
丸ごと焼いたわけではなさそうだが、それでも比叡山の僧侶とは関係の無い遊女や
小間使い、ロリ・ショタ、出入りの商人までも全て皆殺しにせよという命令は実行され
たようである。この「徹底的」が信長の魅力であり、「信長さんパネェ」「信長△」と
賞賛したくなる衝動を抑えきれない。比叡山の僧侶や巻き添えになった側の子孫にとって
は今でも信長を許せないと思われるが、戦国時代だから仕方がないともいえる。

現在比叡山は観光地化されている。比叡山の旅は割と楽しいので、未経験の方にはお勧め
できる。京都駅から電車を乗り継いで趣きのある叡山電鉄に乗り換え、八瀬からは
ケーブルカー、さらにロープウエイに乗り換え、やっと山頂に辿りつく。するとそこには
いきなりフランス料理や洋画の展示場があってガッカリできる。そこからハイキング気分
で歩いて阿弥陀堂や延暦寺などがある場所へ行く。すっかり神聖な気持ちになったら、
今度は琵琶湖方面に降りるケーブルカーに乗って坂本まで行き、タクシーで雄琴の風俗街
へ出かけて泡だらけになることで当時の破戒僧気分を満喫できる。帰りは湖西線に乗って
乗り換えればすぐに京都に戻れるから安心。京都に行く機会があったら是非試して欲しい
ルートだ。


信長の足跡を追う旅は面白い。是非山岡荘八の「織田信長」を読んでから出かけてみて
ほしい。また、ネトゲの「信長の野望オンライン」をプレイし、マップ上の比叡山に
行ってから実際の比叡に行くと、この「比叡山越え雄琴の旅」にも一層の趣が味わえる
のでお勧めだ。「辻誘い」や「暴れ博徒」、「絡み尼僧」「堕落和尚」などが、まだ
比叡山をウロウロしているような錯覚を楽しめる。

水と日本人

2011年02月23日 | ドライブとかりょこうとか
資本主義が未発達な大昔から、日本人はマネーロンダリングを民間レベルで行ってきた。

西洋資本主義ではマネーロンダリングを金融業者を媒介して行うのが常であるが、日本人
は神様を媒介して行う。

マネーロンダリングは「資金浄化」と訳され、資金の出処がチョーヤバイ系だった場合に
一旦投資して回収したり、銀行に預けてから別の口座に振り込んだりして、出処をわから
なくしてしまう裏テクだ。

それに対して日本人は「弁天様の湧き水で銭を洗うとお金が増える」というスタイルの
「資金浄化」を平安の時代から行なってきた。「銭洗い弁天」である。

「なんじゃそれ、ぜんぜんマネロンとちがうくね?」という感想だろうか。しかし通貨を
洗浄してキレイにすることで、通貨が大事だという認識を再確認し、大切に使おうとする
意識から節約をするようになり、その結果物価が最適化され、生産のコストダウンや
流通の簡素化や販売方式の効率化が生まる。最終的に財産が増える事になるのだ。

また、貨幣は流通している間に汚れる。そのうちに真っ黒になり、真贋を見分けるのが
困難になってしまう。だからといって一旦全ての貨幣を政府が回収してクリーニングする
のは無理だし、やったとしても手間もコストもかかる。しかしほっておくと真贋を見分け
られなくなって偽金が横行し、国の経済が疲弊してしまう。
「だったら民間人に持ってる銭を自分で洗わせるようにすればよくね?」という発想が
「銭洗弁天」だ。

マネーロンダリングは違法な資金を流通させ、その結果本人だけは儲かるが、経済全体は
不健康な状態に陥る。儲かるなら何をやっても良いという風潮が生まれ、風俗は乱れ、
治安も悪くなる。社会コストが増大し国家経済が疲弊してしまう。

どちらの「資金浄化」の概念が優れているかは一目瞭然だ。


日本で流通しているお札はキレイだ。しわくちゃな紙幣などここ数十年みたことない。
ところが経済が未発達な国へいけばいくほど、お札は汚れておりシワシワ。落書きされ
たり穴を空けられていたり破れていたり。コインも同様に汚い。

ピン札が「正常」の日本のお札は、銭洗弁天の「資金浄化」の概念が、未だ民間レベル
で健在な証拠だ。「キレイなお金が好き」という事は、実は非常に大事な事なんじゃ
ないだろうか。



ドライブしながら日本のアチコチにある「銭洗弁天」を見て、そんな事を考えていると、
今度は「不動の滝」が見えてくる。もう「滝」といえば「不動」なんじゃないかと
思うほど、「不動の滝」はどこにでもある。

日本の地形は多くが山だ。そして日本は地震国だ。この二つを合わせると、「地滑り」
という災害が多い事になる。

不動の滝の云われは数あるが、「山が崩れませんように」という願いが込められている
ものもあろう。「山が崩れる」事を「滝が流れる」事に置き換えて、身代わりになって
もらっているのかもしれない。「身代わり不動」という不動さんもある。

実際に、山が崩れるのは降雨による地盤の弱化が原因であり、山の地中にうまく水が
流れる経路が十分にあれば弱化しにくい。その経路の終点が滝であり、地下水がドバドバ
落ちてくるのだ。しかし地下の水路網が細い場合、山の地表面に水が飽和して軟弱化し、
重力で流れ落ちてしまう。滝があるのは山が健康な証拠だ。

また、滝はどんなチャチなものであっても人の目を惹きつける。山肌からチョロチョロと
染み出てる程度でも、冬場になるとそこで凍りつき、大きな氷塊になって存在を誇示
する。何も無い山の中の観光スポットとしても滝は重宝され、地域の象徴にされてきた。
壮大な滝になると大勢の観光客があつまり、常温で液体の一酸化二水素が重力で自由落下
する様を見物しに、えらい遠くから化石燃料を消費してまでやってくる。
そして滝を見て「なんだかわかんないけど、ありがたいものであるなあ」と感じるのだ。


そんな事を思いながら車に乗っていると、今度はダムが見えてくる。全国どこにでも
ダムがあり、大量の水をこれでもかと貯めている。時には村や町をまるごと沈めてでも
ダムを作る。ダムの水面近くに、昔使われていた道路が地上から水中に向かって伸びて
いたり、地上だった所から生えた樹木のてっぺんが水中から見えていたりする。ダムに
沈んだ村を見て、全然縁のなかったその他人の住居地に身勝手な郷愁を感じたりする。
そして何でも沈める行政に理不尽な怒りを覚えつつ、ダム施設の売店で名物を食べる。
帰る頃には郷愁や怒りは飽きや満腹感にすり替えられており、「でもまあ水不足はイヤ
だし、しょうがないよね」という思考停止で幕を閉じるのだ。

たいていのダムの周囲には道路が一周しており、時折そこに車が止まっている。夏なら
魚とったりキャンプしたり水遊びしたりという想像がつくが、ダムってそんな事して
いい場所だっけ?という疑問がよぎる。しかし真冬の深夜にも無人の車が止まっており、
一体なにをしてるのか想像すらつかない。


そういう疑問を巡らせながら車を走らせていると、温泉地に到着する。鄙びた温泉宿
などではなく、道の駅に隣接したガラス張りでピカピカの温泉浴場だ。何の用意もして
ないが、タオルもシャンプーも下着も売っているからそのまま入れる。全身を泡だらけ
にしたらお湯でドバっと流し、たくさんある浴槽のひとつにつかる。熱い風呂、ぬるい
風呂、薬湯、電気風呂、そして露天風呂もある。頭にタオルを乗せて外をながめている
と、川が流れていたり鉄道が走っていたり。

湯上りに自販機で買ったコーヒー牛乳など飲みつつ、

「ああああ、やっぱ日本っていいわ」

などとニワカにナショナリストを気取る。日本人は水でジャブジャブなのが大好きな
国民であり、平野の少ない山だらけで自然災害だらけの土地に住むリスクを負う代償
として、豊富な水と入浴エンターテイメントを得た。

ヨーロッパなどでは水を使う事に罪悪感すら感じることが時折あるが、日本ではそんな
罪悪感も水に流せる。垢をためて聖人ぶるよりも、禊で神へ礼を表す。体臭を隠す事に
神経を使うよりも、行水して体表から臭いの元を取り去る。

「浄化」の概念の違いは経済だけに留まらない。そんな空想をしながら車は家路を走る。
「隠す文化」と「流す文化」。pcfxはやはり日本のほうが好きだ。

すねえもんドライブ

2011年02月22日 | ドライブとかりょこうとか
pcfxは歴史的人物では織田信長が好きだ。信長公記などの書物や山岡荘八の小説を読んで
昔から「信長sugeeeeeeee」と感じて育ってきた。

pcfxが住む愛知県は、信長・秀吉・家康の三英傑が出た土地だが、信長と秀吉は尾張
(愛知県西部)であり、家康は三河(愛知県東部)という違いがある。同じ愛知県でも
尾張と三河では方言も人情も違う。昔の力関係も違った。尾張は平野部が多く、三河は
山間部が多い。愛知県の人口も尾張に集中しており、三河は比較的少ない。

またこの三人の歴史はそれぞれ切り離して考えるのが難しいほど密接に関係している。
秀吉は信長の家臣であり、家康は信長と同盟関係を続けてきた。天下を取った取らないは
結果の話であり、日本の統一は3人の力を合わせて行われた。

そんな地域に住んでいるため、pcfxと友人のドライブに、この3人の足跡や合戦場を巡る
事がしばしばある。最近は特に長篠の戦い(1575年・現在の新城市)に関わる歴史に
焦点を置き、それに関わる人物の足跡を探訪している。

長篠の戦いは信長・家康連合軍と武田信玄の息子・勝頼(かつより)のガチバトル
であり、連合軍の大規模な鉄砲隊によって武田騎馬軍団が壊滅したという日本史上に
残る戦いだったといわれている。



いろんな大人の事情があり、長篠城という城に勝頼軍団が責めてきた。この勝頼は、
よく「バ勝頼」と呼ばれる。父親の武田信玄が偉大すぎて比べられたり、この合戦で
多くの死傷者を出したことからそう呼ばれるのだが、他の説では意外に優秀な武将で
あったとも言われている。しかしこの戦で負けたことにより、勝ち組地域の愛知県民
からはバカにされる傾向がある。

勝頼は長篠城を包囲し、食料庫に火をかけて兵糧攻め作戦に出た。ごはんの残りが
一気に減った長篠城内では、家康から城を託された奥平貞能(おくだいらさだよし)
がおなかをペコペコにして困っていた。

「超ハラ減ったし~、籠城続けらんないじゃん。超ヤベエし~、誰か援軍呼んできて」
「あ~でも~、囲まれてるから外出るの無理じゃね?」
「堀を潜水して抜ければいけなくね?だれか泳ぎ超うまいやついね~の?」

そこで選ばれたのが「鳥居強右衛門」(とりいすねえもん)。泳ぎが得意という理由で、
囲まれた長篠城を泳いで脱出し、目立つ街道を避けて山の中を通って岡崎の家康に援軍
要請をしにいくというインポッシブルなミッションを与えられた。

見張りを掻い潜って堀を抜け、そのまま北上して山の中に入る。荒原(あわら)という
集落にたどり着き、そこの民家から馬を借りて山道を西へ進んだというエピソードも
伝えられている。

この荒原地区、現在でも民家がある集落なんだが、南から直接車で入れる道路がない
ために、今ここへ行くのは大変である。pcfxたちは強右衛門の足跡を追ってこの荒原集落
に行った。延々と山道を走る、どこからも隔絶された行き止まりの地域であり、2つに
別れた集落の両方に一軒ずつしか現在住人が住んでいない。まさに隠れ里といった風情で
ある。この内の南側の集落の一軒が、強右衛門に馬を貸したという言い伝えが残る家だ。
その話の裏を取るために、そこに住む方に聞いてみた。しかし遠くから大昔に嫁に来た
おばあさんは言い伝えを知らないという。確証はとれなかった。

強右衛門は馬で走れるところは馬で飛ばし、その近辺で長篠城からも見える雁峰山に
上り、のろしを上げて「無事脱出」の合図を送ったとされている。その現場は今でも
残っていて、登ることができる。道路沿いにあるため、登山口までは車で行ける。

そこからほぼ真西の方向に岡崎城があり、深夜に城を出た強右衛門は翌日までに野を超え
山を超え、家康の元にたどり着く。物凄い強行軍だ。
家康に長篠城の現状を報告した強右衛門は、岡崎城に留まることなくすぐに元きた道を
引き返し、同じ雁峰山でもう一度「報告完了」のろしをあげる。そこで待っていれば
ほどなく信長・家康連合軍の強力な軍隊が到着し決着がつくものだったが、強右衛門は
更に長篠城に戻ろうと、また包囲された危険な道を進んだ。もうちょっとという所で、
強右衛門は武田軍に捕まってしまった。
援軍を呼ばれたと悟った勝頼は、援軍が来る前に長篠城を落としたかったので、強右衛門
を飴と鞭で懐柔して「援軍は来ない」と言うようにそそのかしたが、強右衛門は
「すぐ援軍くるヨ!」と叫んだために逆さハリツケにされて殺されてしまった。

強右衛門の忠実さはその後伝説となった。当地に行くとわかるが「ハリツケにされた
強右衛門」の絵が描かれた看板が多く、土産物のデザインにも使われている。地元の酒
の名前にも強右衛門(*すねうえもん)が使われている。

長篠の戦いのエピソードでは有名な話であり、ご存知の方も多かろう。しかし実際に
強右衛門の足跡を追うと、それがいかに大変なミッションだったかが実感できる。
単なる足軽程度の身分だった鳥居家はその後奥平氏の厚遇を受けた。

あんまり強右衛門の人気が高いもんだから、JRの飯田線の駅名にも「鳥居」の名前が
使われている。一方で信玄と比べられ、強右衛門を有名人にし(強右衛門を有名にした
のは武田の家臣)、無敵の騎馬軍団を壊滅させた勝頼の不運がちょっとかわいそう
ではある。


東京

2011年02月18日 | ドライブとかりょこうとか
pcfxは名古屋近郊に在住している。年に1回くらいは東京に遊びにいくのだが、のぞみに
乗って1時間40分くらいで到着する。pcfx家の最寄り駅から名古屋駅まで40分かかる
から、家から2時間半もすれば東京駅に降り立っていることになる。リニアが完成すれば
家から1時間20分で東京に行ける事になる。

のぞみに乗り、ペットボトルのお茶など飲みつつ雑誌など読んでいるともう東京だ。
早すぎて東京に来たという実感がない。
東京に行く時はだいたいプランなどないので、山手線に乗り換えて東京駅から秋葉原へ
なんとなく足が向いてしまう。地方から来る者にとって、山手線の「内回り外回り」と
いうのは混乱する。内と外の指標がわからない。数日滞在してやっとわかった気でいる
と、翌年来る時には忘れているのでまた混乱する。「時計回り」とかではダメなのか。

山手線に乗ってドアの上にあるモニタを眺めながら、乗客を観察する。名古屋より服装
などに多様性がある気がする。割とラフな人が多い。名古屋と違って東京の人はあまり
車に頼らない生活をしているから、移動といえば大抵電車になるのだろう。名古屋で
車で移動する層も東京では電車に乗るのでいろんな人がいるのだろう。

そんな事を考えているうちに秋葉に到着する。駅を一歩出るとメイドさんがチラシを
配っている。どっかから「萌え萌えきゅん!」という声が聞こえる。ラジオ会館の
看板が目に飛び込み、なんとなくいつも最初はここに入ってしまう。
しばらくブラブラと店を冷やかしながら歩いて、お腹が空いたらペッパーランチ。
ここもなぜかフラフラと入ってしまう。ドリンク券をもらえるので、翌日もまた行って
しまう。腹が膨れたところでまたブラブラ歩き、タイトーのゲーセンに入る。古い
ゲームを見るとついついやってしまう。

とらのあなとかの本屋を巡っているうちに夜になり、いつも泊まっている巣鴨のホテルに
チェックインする。巣鴨にはナムコのゲーセンがあり、昔はここが聖地だった。若い頃
pcfxもよく来ていた思い出の地が巣鴨。着の身着のまま出てくるので、着替えの服など
は巣鴨の西友で買う。使用済みの服や買い物したものは、その都度紙袋にいれてコンビニ
から自宅へ宅配する。


翌日からは趣味の博物館巡りがはじまる。東京は博物館が多いので楽しい。巣鴨の駅で
SUICAを買う。名古屋ではあまり電車に乗らない上、JRの路線を使うとなると地域が限定
されるのでSUICAは普及していない。名古屋人の多くが使う路線は名古屋市営地下鉄と
名鉄電車だ。現在MANACAというカードが普及しつつあるようだ。

東京へ行く時期がコミケの時期に重なると一応覗きに行く。もちろん並んだりする気力
はないので14時過ぎてから。ゆりかもめよりも浅草から出てる船に乗ったほうが
面白いので、わざわざ高い金払って船に乗る。何度かゆりかもめにも乗ったが、いつも
なんか電車が止まってしまうので相性が悪いのだろう。


せっかく東京まで来たのだから横浜でも行こうかと毎回思うのだが、まだ行ってない
博物館が山ほどあるので後回しになる。千葉や埼玉の博物館にも行きたいが、東京だけで
手一杯になるので未だ行けずにいる。いつも23区内を電車で動き回って終わる。


博物館の面白いところは、もちろん展示物がメインにはなるが、ヒマそうにしている
案内&解説係りのじいさんに展示物についてマニアックな質問をぶつけ、こちらの
知識を圧倒してくるマニアックな返答を聞いている時や、館内を嬉しそうに走り回る
子供達の喜怒哀楽を眺めるところにもある。はしゃぎ、ダダをこね、泣き喚き、甲高い
声で笑う子供と博物館の組み合わせには未来がある。

また、「博物館メシ」を味わうのもpcfxの趣味だ。博物館に併設されたレストランや
食堂には、博物館にちなんだコースや定食があることが多い。色々な博物館メシを
食ってきたが、共通しているのは「うまい!」というほどの味ではない事。大抵は
高くてまずい。もちろん例外はあるが、多くがそうだ。それでもpcfxは博物館でメシを
食う。そしてミュージアムショップで土産を買う。資料集や写真集も買う。使わない
キーホルダーや絵葉書も買う。全ては博物館の繁栄を願って。


東京で遊ぶだけ遊んだらもう帰る日だ。東京を夕方にでて名古屋につくと夜。そして
家に到着。やはり、あまりに早いので、さっきまで自分が東京にいたのが夢のようだ。
ちょっと名古屋の繁華街に行っていたようなご近所感覚だ。

これがリニアになると、家から名古屋駅に行くのと同じ時間で名古屋駅から東京に
ついてしまうのだ。たぶん駅弁を食べてる余裕もないだろう。ヘタするとペットボトルの
お茶を飲みきらない間についてしまい、キオスクで買った週間アスキーの巻頭ページを
読んでる間に車内アナウンスで「まもなく、東京、東京、」と聞こえてくる。

子供の頃、科学館で見たリニア超特急の走行模型が、40年以上経ってようやく実現
する。遅かった気もするが、いざ現実になるとその物凄いスピードに混乱するばかり
である。

インド鉄道999

2011年02月17日 | ドライブとかりょこうとか
pcfxは海外を訪れた際、よく鉄道を利用する。しかし訪問先がたいがい途上国なので、
鉄道が発達してなかったり、飛行機のほうが断然早かったりする。しかし鉄道にしか
ない味わいというものがあり、またそこには便利すぎても不便すぎてもいけない旅情が
隠されている。
日本は狭い国の上、新幹線などの超特急が発達した。さて駅弁でも食べるか、と思ってる
うちに到着してしまったり、隣り合わせた人と満足に話しをするほどの余裕もない。
だから寝台車は廃れ、ホームの物売りも姿を消し、おちょこつきのお茶や冷凍みかんも
消え去ったのだった。

この「便利すぎず不便すぎない」という旅情と、広大な路線網をもった国がインドだ。
大都市間を結ぶエクスプレスに乗っても1日や2日かかる。だからそれは当然寝台車だ。
エアコンもなく簡素な二段ベッドが並ぶクラスもあれば、エアコンが効いてて
リクライニングシートのクラスもあるし、それらのクラスと車両自体が隔絶されたセレブ
専用の二段寝台もある。

インドは強度の階級社会なので、乗るクラスはその人によって決まっている。気分で
グリーン車に乗ってみるとかの気軽なクラス分けではない。しかし外国人であれば
そのあたりは自由に選べる。最も安全でサービスが行き届いているのは当然特等車だが、
これまた当然ながら値段も高い。エアコンも「これでもか」というくらい効きすぎ、
大抵の日本人は風邪気味になる。インドは大抵暑いので旅の服装は薄着だ。だから毛布や
シーツを被って震えることになる。回りの乗客はセレブなインド人ばかりであり、身分の
高い人は外国人に関わりたがらない事もある。成功した商人などは気さくに話しかけて
くるが、話題は商売の話を好む。というか商売の話や国際金融の話ばかりな事が多い。

駅に止るごとに「チャイ、チャイ、チャイ」とバケツやポットを持った男が通路を往復
し、甘いミルクティーを売りに来る。全く同じチャイがクラスで値段が違うのはご愛嬌
だ。小さめの紙コップを受け取り、一口すすると「あったかい」のでホッとする。
車内はあいかわらず極寒地獄だ。

食事時が近づくと、食事のリクエストを聞きに来る。メモ用紙のようなオーダー紙に
今日のメニューがあるが、「ベジタリアンカレー」「ノンベジカレー」の二種類の中
から選ぶのが普通だ。どっちを選んでもカレーである。ノンベジを選ぶと、骨付きの
チキンが入ったカレーとチャパティとヨーグルトなどがアルミの容器に入って出てくる。
ちゃんとアツアツだが、スプーンなどはついてたりついてなかったりするので手で
食べることになる。カレーの中に入った大きな骨付きチキンを、指をカレーまみれに
して取り出して食べる。指をなめながら一人で黙々と食べる。食べ終わったら洗面所で
手を洗うが、ハンドソープで洗ってもカレーの匂いは残る。セレブの車両なので、
食事のあとに歯を磨く人も多く、食事後の洗面所は列になってならぶ。

トイレは車両に一つ必ずあり、わりと清潔だ。車両内は禁煙だが、トイレやデッキでの
喫煙は黙認されている。黙認されているだけなので、何かあったら処罰されるかも
しれないが、そんなことはほぼない。インド式トイレは尻を水で洗う方式なので、揺れる
列車の中、時々水が予定外の方向に飛び散る。


pcfxは列車に乗る前に、ペットボトルの水や菓子をたくさん買い込んでおく。列車内で
提供される飲み物はチャイ一択。食べ物はカレーの一択だからだ。また、ウェット
ティッシュも欠かさない。カレーの匂いを少しでも指先から拭い去るためだ。大都市に
あるブックスタンドでは、旅行者が飽きた本を売って別の本を買うシステムがあるので、
日本語の小説などを仕入れておく。携帯ゲーム機もあるといい。当時pcfxはゲームボーイ
で逆転裁判をやったり、バンコクや香港で買った「30IN1」などのソフトで車内
のヒマな時間を潰していた。インドまできてボンバーマンにハマる日本人がpcfxだ。


鉄道旅行には時刻表が必要だ。まずこれがなければプランもへったくれもない。日本にも
JR東や西があるように、インドの鉄道も地域によって分割されている。時刻表もそれぞれ
に分かれているので、当面移動する地域の時刻表を手にしなければならない。日本なら
みどりの窓口などに行って「時刻表ください」と言えば簡単に手に入るのだろうが、
インドだとどこに行けばあるのやら、駅員すらあやふやだ。そして時刻表はあったり
なかったりし、あっても古かったりする。駅にないので本屋を回ると売ってたり。そんな
ことをしている間に1日終わるのだ。

駅員のインド訛りの英語が聞き取れず駅員にバカにされるが、イギリス人旅行者ですら
「パードゥン?エクスキューズミー?ワッツ?」を連呼している。
ターバンを巻いたポーターが旅行者の荷物を抱えてどんどん先に進み、持ち主とはぐれて
大声で探している声を聞きながら駅を歩いていると、物乞いの子供が足にまとわりついて
くる。手荷物預かり所でサリーを着たオバサンが順番を抜かして割り込んでくる。
駅にある床屋に入ってヒゲを剃ってもらう。ちゃんと新品のカミソリの刃を使っているか
確認し、インド人床屋に身を任せる。そのシュールさに笑いがこみ上げてくる。
そんなインドの大都市の駅の喧騒に、いつしか慣れている自分を見つける。

pcfxは鉄道マニアではないが、時刻表の楽しみはわかる。自分の行きたい所へのルート
を探し、最短時間と価格を勘案したり、乗るべき列車を○で囲ったりするのは旅の醍醐味
だ。

自分の乗るべき列車がわかったら予約しに駅へいく。切符売り場にならんでいると、
オバサンが割り込んでくる。インドでは女性は割り込んでいいことになっているが、
男達は不機嫌だ。やっと自分の番になると「外国人はここじゃないよ」「カードは使え
ないよ」「ドルは使えないよ」「その路線はあっちの窓口」とかでたらい回しにされる。
行き先や特急名や日時を質問され、全部答えると、申し込み用紙を渡されてそれを書け
と言う。じゃあ最初から渡せよ。用紙を書き込んで渡すと、ルピーで価格を言ってくる。
特急特等寝台車は高い。だからドルかカードかTCで払うと言うと面倒くさがって
ルピーで払えと言う。「外国人窓口」にデカデカと「VISA」というステッカーを
貼っていながらこれだ。でかい声で「オーベン!」と叫ぶと、係員は「OK、カードで
いいよ」と涼しい顔。そして支払いの段階になって「席がない」とか言い出す。


いよいよ列車に乗る時間。案内板で示されたホームに行くと、みんなキョロキョロして
いる。インドでは案内どおりのホームに列車がこないことが多いからだ。直前になって
ホームが決まる。別のホームに列車が来ると、みんな一斉に走り出す。
今度は自分が乗る車両を探す。列車の外側に座席番号の紙が貼り付けられている。
それを探してホームを走る。ボヤボヤしてると置いていかれる。

やっと見つけて乗ってみれば、自分の予約席に誰か座っていたり寝ていたり。文句を
いうと「まあそう怒るな」と、自分の席に戻っていく。無視する奴もいるが叩き出す。
なかなか発車しないので車掌に聞くと、修理のため2時間後に発車すると悪びれもせず
言い放つ。




そんな試練や苦行や不満やブチギレを乗り越えると、ようやく列車は目的地に到達する。
予定より4時間ほど遅れ、20時に着く筈がもう夜中の12時だ。ホテルに着くと門が
閉まっていて入れない。駅に戻ってリタイヤニングルームに行くが既に満室。仕方ない
ので荷物を預けてからホームに寝袋敷いて寝る。貨物列車が夜中に何度も通り過ぎる。
「俺、なんでこんな苦労してるんだろ?」と考えていると、列車は万感の思いを込めて
線路にいる牛へ警笛を鳴らす。メーテルはいないが物乞いの少女がいつの間にか隣で
寝ている。明日の汽笛が君にも聞こえているだろうが、うるさくて眠れない。

廃墟サイト

2011年02月08日 | ドライブとかりょこうとか
pcfxは、とある廃墟サイトを運営している。していた、というべきかもしれない。

友人があるとき急に「廃墟廃墟」言うようになった。以前から心霊スポットに出かけた
ものだったが、ある時を境にそれが「廃墟」に変わった。
なにしろ、何度もあちこちの心霊スポットなる所に深夜に出かけていったが、一度も
幽霊らしきものを見たことがなかった。現場で出会うのはDQNか浮浪者か心霊マニア
だけだった。なので、pcfxと友人は「幽霊はいない」と結論付けた。

心霊スポットの中には廃墟もあった。そういうところを何度も訪れているうちに、幽霊は
どうでもよくなり、廃墟そのものの探索が面白くなってきた。

pcfxがインドから帰ってきたその日、その友人から電話が入った。これからすぐに廃墟へ
行こうとのこと。時差や常識がまだボケたままのpcfxは、そのまま友人の車に乗せられ、
一気に奥三河の山中に連れてこられた。

その日から、友人TELとの廃墟探索の日々が続いた。色々な情報を元に廃墟を見つけ出し、
その場所を車で探し回り、人目をはばかりながら建物に入り、そして写真をとりまくる。
まあ不法侵入なんだろうが、管理者が見捨てたような所だから文句も来ない。
数百件にのぼる廃墟、沖縄から東北まで、物凄いペースで探索した。廃墟サイトに掲載
したのはその一部だ。それでも百数十件になった。

pcfxは探索を続けていくうちに、「単なる捨てられた建物」に飽きた。興味はその先に
ある、「廃墟に残された物」にシフトした。かつてそこに暮らしていた人々の痕跡。
雑記帳や日記、アルバムや事務書類。生々しい生活の足跡だ。そこで、サイトの方針を
「廃墟サイト」から「廃墟残留物サイト」に切り替えて独自性を出すことにした。

廃墟というのは捨てられた建物だ。解体せずにほったらかしなわけだ。ということは、
大抵夜逃げして放置しているものだ。夜逃げというのは突然やるものだから、残して
行くものは多い。民家だと、子供時代や結婚式のアルバムですら置いていくケースが
多い。中には、明らかに荷物を詰める途中の旅行カバンが口をあけたまま置いてある
ことがある。よほど大慌てで逃げたのだろう。洗濯物も干したままの場合すらある。
放置されて何年も経っているのに、それを回収にすら来ていない。ほったらかしだ。

そのような人生劇場が、残留物から匂ってくる。夜逃げした事を笑うつもりはない。
誰でも明日は我が身だ。誰にでも失敗はある。しかし、そこに凝縮されたドラマは想像力
を掻き立て、激しい知的好奇心を煽る。廃墟はある意味遺跡であり、廃墟探索は遺跡調査
にも似ている。そして考古学よりもお手軽だ。


廃墟には自由がある。建物には通常、役目がある。建物の職業のようなものだ。しかし
廃墟は無職だ。役目はもうない。そして「取り壊す=葬儀」もないまま捨てられている。
もう機能していない建物の骸骨には、ある種の爽やかな風が吹き抜ける。虚ろだが清純
な空間だ。雑草に覆われて腐敗しているが、生物の生々しさはそこにはもうない。
死後の開放。そんな安堵感が、廃墟にはある。


現在、廃墟サイトは更新していない。一年以上放置している。廃墟探索もかなりペースを
落としている。サイトの更新はするかもしれないし、しないかもしれない。またやりたく
なったらやるだろう。

そんな我々は、今は「辺境ドライブ」という別の楽しみを満喫中だ。「車で行くことの
できる、全ての道を行き止まりまで走破する」という遠大な計画だ。西日本と違い、
愛知県や岐阜県の山中は人里が少ない。それでも、「なんでこんな山の中に」という所
に人が住んでいる。山の中のドン詰まり、一番近い雑貨屋まで車で1時間、最寄の町まで
2時間、冬になると山道が雪で覆われ除雪車も入れず、通行不能になるというような
立地にも、人は住んでいる。地図にない集落もある。もう人が住んでない集落もある。

我々が今目指しているのは、そんな集落を駆け巡ることだ。

海外にも長いこと行ってない 4

2011年02月08日 | ドライブとかりょこうとか
インド旅行はいろいろと苦行だが、楽しみもあった。


しかし本当の問題は帰国してから。
あんだけ苦労したインドから、やっと慣れ親しんだ日本に帰ってきて一安心、とおもい
きや、なんだろうこの空虚な気持ちは。
なんか、日本で築いてきたいろいろな自信とかそういうものが、全部無効になった気が
した。そしてインドでの話を他人に伝えても、「まあ、でもここは日本だし」で全て
帳消しにされる感覚。帰国子女ってみんなこんな感覚を味わうんだろうな。

どっちの実績も体験も認めてもらえなくなる上、日本の物足りなさが実感としてわかる
ようになっている。つまり、以前ほど楽しめなくなってしまったのだ。かといって
インドで一生生活するなんてとんでもない!という気持ち。自分は何人だっけ?どこが
自分の居場所なの?という不安感に陥ってしまった。

そんなこんなしているうちに就職を決めないといけなくなる。そして入った会社が
ブラック企業だったからさあ大変。知らない間に心が壊れていたようだ。転職したけど
傷が深かったらしく、休まなければならなくなった。休んでいるうちにいろいろと
見えなくなっていたものがまた見えるようになってきた。色々と気負い過ぎていたし、
頑張りすぎていたし、抱え込み過ぎていたようだった。「気楽に」というのは、軽々しく
「気楽にする」ものではなく、割と本気で「気楽にしなくてはならない」ものだと理解
した。そして「休む」ということの重要性は、思っていたよりも重かった。今までは
「ヒマ」という状態を全部潰して何かをしていた。それは異常な行動だったようだ。
自分にとって、「ブラブラする」「ボケ~っとする」というのは努力しないとできない
ことだったのだ。

そんなわけで今現在は休養中なんだけども、最近立ち直ってきたので復帰に向けて準備
している。もうしばらくはヘビーな海外旅行はしたくないけど、どうせそのうちに
また行きたくなるんだろうな、インドに。そんで、それが最後になるだろうな。