pcfxが同人誌と聞いて最初に思い浮かべるのは、絶望先生ではないが「白樺派」とか
「アララギ派」とか「ホトトギス派」などの昔のものだ。「現在の同人誌はダメだ」など
と言うつもりはない。同人誌とは人類普遍の衝動が技術によって発露可能になった形態
であり、時代と共に変化していく文化の卵巣だ。これらの環境が整っている日本こそ
文化の多産を約束された大国といえる。
「俺も出版してぇ」という欲望がまずあり、それから自分に何が表現できるのか考える。
絵が描けなくてもこれから描けばいい。文章が書けなくても今から書けばいいのだ。
それが許される幼稚園が同人誌だ。「作家のマネしてぇ」という、自分の実力に見合わ
ない欲求は即時に満たされ、凝ったペンネームをアレコレ考えたり、コメントに何を
書こうか悩んだ末、言い訳に終始するのもまた楽しい。
一般人には表現するほどの懊悩がある人は少なく、その結果たいした表現はできない。
逆に一般人の煩悶ほど普遍的なもので、多くの共感を呼ぶ。失敗と成功の両方の可能性を
どのように昇華させていくのかは自由であり、誰も成功を強制されない。従って駄作でも
凡作でもよく、テーマやモチーフがどれだけ下らなくても許される。しかも売れなくても
よく、知名度が上がらなくても誰も傷つかない。この楽園にいつまでいても卒業期限は
やってこない。永遠のぬるま湯であり永久に保留される世界だ。
よって、そこにいることに何らステータスは存在しない筈だが、不思議なことにその世界
にも優劣や競争や身分差が共存している。共産社会における立身出世のような矛盾を
はらみながら、出版ごっこや作家ごっこからの脱却を図る野望もまた内包される。
ネットの世界も同様であり、pcfxもこうして独り言のような妄想話をブログで垂れ流す
行為を繰り返している。「俺も偉そうにしゃべりてぇ」であり、「誰かに読ませてぇ」
という欲求を電子的に出版している。
pcfxはマンガを描いていないが、マンガを描くというのは大変な作業だと思う。作家と
画家を両方兼任するマルチスキルであり、絵を細かくキレイに描けば売れると約束される
わけでもなく、どれだけ時間をかけて描いてもその時間は収入に比例しない。話が
面白くて絵にも魅力がないと認めてもらえない。恐ろしいプレッシャーだ。
そんなニーチェの超人思想的なハードルを超越しつづけるマンガ家だから、昔はマンガ家
といえば「頭がいい」という認識だった。「マンガを読む」のはバカのすることだと
批判されながら、「マンガを描く」と一転して尊敬される時代があった。マンガの神様
と呼ばれる手塚治虫が「超人」だった故に、その12使徒も超人を求められ、信者も超人
であろうとする。
これがアニメになると益々「超人」が加速する。話が面白く、絵が魅力的である上に、
音楽が秀逸でなければならず、声も演技も名演でなければならない。それぞれの分野の
「超人」たちが低収入に苦しみながらも名作を難産し続ける様は、まさに宗教画であり
地獄絵図だ。それらが面白くない筈がなく、信者が増えない筈がないのだ。超人は聖人
となり信者を集める。
同人誌は超人への憧れと信仰によって、信者がつぶやく念仏だ。徳が高くない衆生は
ただ念仏を繰り返すことしかできないが、その信心が他者に感銘を与え、新たな信者が
誕生し続ける。信者たちはお互いの信仰を競い、偶像に布施を施す。各地で集会が
開かれ、さらに大集会が年に二度行われる。聖人は世襲されず、毎年毎シーズンの聖人
が評価され、その聖人を信仰する人々で賑わう。信者が一定数を超えると判断されると
聖人は出家し、「プロ」という位を得る。その中でも多くの信者を抱える可能性を
見出されると「アニメ化」という伝説が生まれ、大聖人として崇められる。しかしすぐに
飽きられ、伝説上の人物として祀られる存在になってしまう。
そのような宗教がマンガやアニメであり、ゲームも同様に扱われる。信心深いものは
「オタク」と呼ばれ迫害されるが、隠れキリシタンのように潜在する。
やがて十字軍のように一大勢力となり、各地に遠征して大暴れするのだろうが、一般人は
まだその脅威を知らずに信者を迫害する。宗教だと気がつかないのは愚かだ。
pcfxは現在「マンガ教ライト層否定宗マニアック学派kashmir教会」の底辺信者であり、
聖者kashmirを日々信仰しながら、時々与えられる福音に少額ながら布施をしている。
そして信者数を増やすかのようにブログにこのような事を書き殴っているのだ。
「マンガ教ライト層否定宗」は原理主義に近い過激派であり、空念仏を唱える無為な
信仰を否定する小乗的な宗派である。「マニアック学派」は普遍的な表現の価値を認め
ながらもそこに安住しない求道者の派閥であり、その中でも「kashmir教会」は「幼女」
を女神としながら狂気と退廃をも内包するという、常に迫害の最前線に立たされた集い
である。しかしながら教会に集まる信者たちには笑いが絶えず、迫害に立ち向かうという
悲壮さを感じさせない明るさがある。
現在信者は徐々に増えつつあり、迫害にもめげずに福音書を3巻も連続刊行するなどの
勢いを見せている。福音書に興味を持った方は書店やアマゾンでご購入を。
同人誌は日本の宗教だが、日本人が既に他にそうしているように、他の宗教との併用も
可能だ。始まったり生まれたりするのは神道で、終わったり死んだりするのは仏教で、
もらったり与えたりするのはキリスト教で済ませるのと同じように、書いたり読んだり
するのを同人誌で済ませる事もできるから非常に便利だ。是非あなたも何か同人誌を
出してみてはいかがだろうか。
え?絵が描けない? 昔の福音書にこのような言葉があったので紹介する。
「(他のマンガを)見て描きゃいいんだ!!見て描きゃ!!」
「アララギ派」とか「ホトトギス派」などの昔のものだ。「現在の同人誌はダメだ」など
と言うつもりはない。同人誌とは人類普遍の衝動が技術によって発露可能になった形態
であり、時代と共に変化していく文化の卵巣だ。これらの環境が整っている日本こそ
文化の多産を約束された大国といえる。
「俺も出版してぇ」という欲望がまずあり、それから自分に何が表現できるのか考える。
絵が描けなくてもこれから描けばいい。文章が書けなくても今から書けばいいのだ。
それが許される幼稚園が同人誌だ。「作家のマネしてぇ」という、自分の実力に見合わ
ない欲求は即時に満たされ、凝ったペンネームをアレコレ考えたり、コメントに何を
書こうか悩んだ末、言い訳に終始するのもまた楽しい。
一般人には表現するほどの懊悩がある人は少なく、その結果たいした表現はできない。
逆に一般人の煩悶ほど普遍的なもので、多くの共感を呼ぶ。失敗と成功の両方の可能性を
どのように昇華させていくのかは自由であり、誰も成功を強制されない。従って駄作でも
凡作でもよく、テーマやモチーフがどれだけ下らなくても許される。しかも売れなくても
よく、知名度が上がらなくても誰も傷つかない。この楽園にいつまでいても卒業期限は
やってこない。永遠のぬるま湯であり永久に保留される世界だ。
よって、そこにいることに何らステータスは存在しない筈だが、不思議なことにその世界
にも優劣や競争や身分差が共存している。共産社会における立身出世のような矛盾を
はらみながら、出版ごっこや作家ごっこからの脱却を図る野望もまた内包される。
ネットの世界も同様であり、pcfxもこうして独り言のような妄想話をブログで垂れ流す
行為を繰り返している。「俺も偉そうにしゃべりてぇ」であり、「誰かに読ませてぇ」
という欲求を電子的に出版している。
pcfxはマンガを描いていないが、マンガを描くというのは大変な作業だと思う。作家と
画家を両方兼任するマルチスキルであり、絵を細かくキレイに描けば売れると約束される
わけでもなく、どれだけ時間をかけて描いてもその時間は収入に比例しない。話が
面白くて絵にも魅力がないと認めてもらえない。恐ろしいプレッシャーだ。
そんなニーチェの超人思想的なハードルを超越しつづけるマンガ家だから、昔はマンガ家
といえば「頭がいい」という認識だった。「マンガを読む」のはバカのすることだと
批判されながら、「マンガを描く」と一転して尊敬される時代があった。マンガの神様
と呼ばれる手塚治虫が「超人」だった故に、その12使徒も超人を求められ、信者も超人
であろうとする。
これがアニメになると益々「超人」が加速する。話が面白く、絵が魅力的である上に、
音楽が秀逸でなければならず、声も演技も名演でなければならない。それぞれの分野の
「超人」たちが低収入に苦しみながらも名作を難産し続ける様は、まさに宗教画であり
地獄絵図だ。それらが面白くない筈がなく、信者が増えない筈がないのだ。超人は聖人
となり信者を集める。
同人誌は超人への憧れと信仰によって、信者がつぶやく念仏だ。徳が高くない衆生は
ただ念仏を繰り返すことしかできないが、その信心が他者に感銘を与え、新たな信者が
誕生し続ける。信者たちはお互いの信仰を競い、偶像に布施を施す。各地で集会が
開かれ、さらに大集会が年に二度行われる。聖人は世襲されず、毎年毎シーズンの聖人
が評価され、その聖人を信仰する人々で賑わう。信者が一定数を超えると判断されると
聖人は出家し、「プロ」という位を得る。その中でも多くの信者を抱える可能性を
見出されると「アニメ化」という伝説が生まれ、大聖人として崇められる。しかしすぐに
飽きられ、伝説上の人物として祀られる存在になってしまう。
そのような宗教がマンガやアニメであり、ゲームも同様に扱われる。信心深いものは
「オタク」と呼ばれ迫害されるが、隠れキリシタンのように潜在する。
やがて十字軍のように一大勢力となり、各地に遠征して大暴れするのだろうが、一般人は
まだその脅威を知らずに信者を迫害する。宗教だと気がつかないのは愚かだ。
pcfxは現在「マンガ教ライト層否定宗マニアック学派kashmir教会」の底辺信者であり、
聖者kashmirを日々信仰しながら、時々与えられる福音に少額ながら布施をしている。
そして信者数を増やすかのようにブログにこのような事を書き殴っているのだ。
「マンガ教ライト層否定宗」は原理主義に近い過激派であり、空念仏を唱える無為な
信仰を否定する小乗的な宗派である。「マニアック学派」は普遍的な表現の価値を認め
ながらもそこに安住しない求道者の派閥であり、その中でも「kashmir教会」は「幼女」
を女神としながら狂気と退廃をも内包するという、常に迫害の最前線に立たされた集い
である。しかしながら教会に集まる信者たちには笑いが絶えず、迫害に立ち向かうという
悲壮さを感じさせない明るさがある。
現在信者は徐々に増えつつあり、迫害にもめげずに福音書を3巻も連続刊行するなどの
勢いを見せている。福音書に興味を持った方は書店やアマゾンでご購入を。
同人誌は日本の宗教だが、日本人が既に他にそうしているように、他の宗教との併用も
可能だ。始まったり生まれたりするのは神道で、終わったり死んだりするのは仏教で、
もらったり与えたりするのはキリスト教で済ませるのと同じように、書いたり読んだり
するのを同人誌で済ませる事もできるから非常に便利だ。是非あなたも何か同人誌を
出してみてはいかがだろうか。
え?絵が描けない? 昔の福音書にこのような言葉があったので紹介する。
「(他のマンガを)見て描きゃいいんだ!!見て描きゃ!!」