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minority resistance

pcfx復活ブログ

同人誌

2011年03月02日 | マンガとかアニメとかほんとか
pcfxが同人誌と聞いて最初に思い浮かべるのは、絶望先生ではないが「白樺派」とか
「アララギ派」とか「ホトトギス派」などの昔のものだ。「現在の同人誌はダメだ」など
と言うつもりはない。同人誌とは人類普遍の衝動が技術によって発露可能になった形態
であり、時代と共に変化していく文化の卵巣だ。これらの環境が整っている日本こそ
文化の多産を約束された大国といえる。

「俺も出版してぇ」という欲望がまずあり、それから自分に何が表現できるのか考える。
絵が描けなくてもこれから描けばいい。文章が書けなくても今から書けばいいのだ。
それが許される幼稚園が同人誌だ。「作家のマネしてぇ」という、自分の実力に見合わ
ない欲求は即時に満たされ、凝ったペンネームをアレコレ考えたり、コメントに何を
書こうか悩んだ末、言い訳に終始するのもまた楽しい。

一般人には表現するほどの懊悩がある人は少なく、その結果たいした表現はできない。
逆に一般人の煩悶ほど普遍的なもので、多くの共感を呼ぶ。失敗と成功の両方の可能性を
どのように昇華させていくのかは自由であり、誰も成功を強制されない。従って駄作でも
凡作でもよく、テーマやモチーフがどれだけ下らなくても許される。しかも売れなくても
よく、知名度が上がらなくても誰も傷つかない。この楽園にいつまでいても卒業期限は
やってこない。永遠のぬるま湯であり永久に保留される世界だ。

よって、そこにいることに何らステータスは存在しない筈だが、不思議なことにその世界
にも優劣や競争や身分差が共存している。共産社会における立身出世のような矛盾を
はらみながら、出版ごっこや作家ごっこからの脱却を図る野望もまた内包される。


ネットの世界も同様であり、pcfxもこうして独り言のような妄想話をブログで垂れ流す
行為を繰り返している。「俺も偉そうにしゃべりてぇ」であり、「誰かに読ませてぇ」
という欲求を電子的に出版している。

pcfxはマンガを描いていないが、マンガを描くというのは大変な作業だと思う。作家と
画家を両方兼任するマルチスキルであり、絵を細かくキレイに描けば売れると約束される
わけでもなく、どれだけ時間をかけて描いてもその時間は収入に比例しない。話が
面白くて絵にも魅力がないと認めてもらえない。恐ろしいプレッシャーだ。

そんなニーチェの超人思想的なハードルを超越しつづけるマンガ家だから、昔はマンガ家
といえば「頭がいい」という認識だった。「マンガを読む」のはバカのすることだと
批判されながら、「マンガを描く」と一転して尊敬される時代があった。マンガの神様
と呼ばれる手塚治虫が「超人」だった故に、その12使徒も超人を求められ、信者も超人
であろうとする。

これがアニメになると益々「超人」が加速する。話が面白く、絵が魅力的である上に、
音楽が秀逸でなければならず、声も演技も名演でなければならない。それぞれの分野の
「超人」たちが低収入に苦しみながらも名作を難産し続ける様は、まさに宗教画であり
地獄絵図だ。それらが面白くない筈がなく、信者が増えない筈がないのだ。超人は聖人
となり信者を集める。


同人誌は超人への憧れと信仰によって、信者がつぶやく念仏だ。徳が高くない衆生は
ただ念仏を繰り返すことしかできないが、その信心が他者に感銘を与え、新たな信者が
誕生し続ける。信者たちはお互いの信仰を競い、偶像に布施を施す。各地で集会が
開かれ、さらに大集会が年に二度行われる。聖人は世襲されず、毎年毎シーズンの聖人
が評価され、その聖人を信仰する人々で賑わう。信者が一定数を超えると判断されると
聖人は出家し、「プロ」という位を得る。その中でも多くの信者を抱える可能性を
見出されると「アニメ化」という伝説が生まれ、大聖人として崇められる。しかしすぐに
飽きられ、伝説上の人物として祀られる存在になってしまう。

そのような宗教がマンガやアニメであり、ゲームも同様に扱われる。信心深いものは
「オタク」と呼ばれ迫害されるが、隠れキリシタンのように潜在する。
やがて十字軍のように一大勢力となり、各地に遠征して大暴れするのだろうが、一般人は
まだその脅威を知らずに信者を迫害する。宗教だと気がつかないのは愚かだ。

pcfxは現在「マンガ教ライト層否定宗マニアック学派kashmir教会」の底辺信者であり、
聖者kashmirを日々信仰しながら、時々与えられる福音に少額ながら布施をしている。
そして信者数を増やすかのようにブログにこのような事を書き殴っているのだ。
「マンガ教ライト層否定宗」は原理主義に近い過激派であり、空念仏を唱える無為な
信仰を否定する小乗的な宗派である。「マニアック学派」は普遍的な表現の価値を認め
ながらもそこに安住しない求道者の派閥であり、その中でも「kashmir教会」は「幼女」
を女神としながら狂気と退廃をも内包するという、常に迫害の最前線に立たされた集い
である。しかしながら教会に集まる信者たちには笑いが絶えず、迫害に立ち向かうという
悲壮さを感じさせない明るさがある。

現在信者は徐々に増えつつあり、迫害にもめげずに福音書を3巻も連続刊行するなどの
勢いを見せている。福音書に興味を持った方は書店やアマゾンでご購入を。



同人誌は日本の宗教だが、日本人が既に他にそうしているように、他の宗教との併用も
可能だ。始まったり生まれたりするのは神道で、終わったり死んだりするのは仏教で、
もらったり与えたりするのはキリスト教で済ませるのと同じように、書いたり読んだり
するのを同人誌で済ませる事もできるから非常に便利だ。是非あなたも何か同人誌を
出してみてはいかがだろうか。

え?絵が描けない? 昔の福音書にこのような言葉があったので紹介する。

「(他のマンガを)見て描きゃいいんだ!!見て描きゃ!!」

名義

2011年03月01日 | マンガとかアニメとかほんとか
80年代にオタ系の青春を過ごした人には、「スコアネーム」という名義を持っていた人が
多かろう。無論アーケードゲーム機でハイスコアを出したときになどに入れる名前で、
元々はイニシャルを入れる機能だったことから、それは上限アルファベット3文字で
いくつかの記号が含まれる。イニシャルでなくニックネームを3文字で表す事もあった。
また、後年のゲームには長い文字列を入力できる機能が備わったため、若い人ほど長い
ネームを持つ傾向がある。

pcfxは「ZUN」または「ZUN○ぜ」(○の中に「ぜ」)というスコアネームを1985年から
愛用しているが、東方のZUN氏とは関係ない。「ドルアーガの塔」の音楽に心酔していた
pcfxは、「ミュージックコンポーザー」のクレジットに「ZUNKO ODAWA」とあったので
小沢純子氏の名前から勝手にもらって「ZUN」としていた。今にして思うと、なぜ
「JUNKO OZAWA」でなかったのか疑問だが、当時は小田和さんだと思っていたのだ。

「○ぜ」に関しては、当時作っていたゲームサークルの名前であり、当時他にあった
サークル名「○た」のパロディである。「○た」が「たまに役立つ」の略であったのに
対し、「○ぜ」は「全然役に立たない」の略だった。この名義でゲーメストなどに
スコア申請していた事もあった。


同人誌などを出していた人にはペンネームがある。同人誌だけにその名付けは自由奔放で
あり、特にエロ漫画の作者名には面白い名前が多い。この傾向は80年代半ばから加速し
現在まで受け継がれている。商業誌も同じだ。
pcfxもゲーム攻略本やゲームマンガなどの同人誌に文章やイラストなど書いていた事が
あり、その名義は「ZUN」及び「A-10」としていた。「A-10」は米軍の地上攻撃機の
一つで、30mmガトリング砲や各種ミサイルを装備した、無骨で頑丈な飛行機の型番だ。

文芸関係の同人誌に文章を書いていた時は「石川丈太郎」名義だった。本名とは全く
関係ない。原稿を書き上げた時にペンネームを全く考えてなかったのに気が付き、
締切りが目前に迫っていたので慌ててその辺にあった雑誌にあった名前を拝借した。
それがどういう人だったのかは記憶にない。


インターネット以前には「パソコン通信」というものがあり、商用ネットや草の根ネット
がたくさんあった。それらに書きこむ時のハンドルネームは、初期は「ZUN」を使い、
その後「pcfx」とした。インターネット以降はずっと「pcfx」を使い続けている。

2chは匿名掲示板だが、コテハンを使っていた事もある。ハン板で書き込みをする場合に
だけ、「李朴太郎」という名前を使っている。pcfxは日本人だが、せっかくハン板なので
小学生の頃のクラスメイトだった在日韓国人の名前からもらった。因みに李朴太郎に
関するプロフィールは、立場を迷彩するためにかなり脚色してある。


ネットゲームでは色々な名前を使っていたが、ウルティマオンラインの初期に鍛冶屋
詐欺師をやっていて、「NIKOPUN」という名前で多くのプレイヤーから武器を巻きあげて
いた。当時のUOはプレイヤー鍛冶屋しか武器の修理ができず、また武器を鍛冶屋キャラに
一旦預けないと修理ができないというシステムになっていた。高価な武器を他人に預ける
という危険な行為であり、やろうと思えば鍛冶屋が武器を預かったまま逃げる事も
できる。しかもそれはゲームルール上では犯罪でなく、通常の取引として処理される
のだ。当時のUOではプレイヤーキルもルール上合法であり、窃盗もスキルの一つとして
存在する。「つまりゲーム上可能なことは全部合法」というゲームだったのだ。例外は
言葉によるハラスメント行為とチートくらいなものだ。なので「NIKOPUN」は度々GMの
説教部屋に連れて行かれたが、垢バンなどのお咎めを受けることは最後までなかった。
また、被害にあって文句を言うプレイヤーに対して「ネトゲで簡単に他人を信用するな」
と偉そうに説教をするキャラとして一部に好評であり、そうして集めた収益金はランダム
に知らないプレイヤーに渡したり、ゲーム大会の賞金にして消費していた。
「修理しますよ~^^」




「名義」は仮面でありキャラクターだ。本人の人格の一部ではあるが、それが全てでは
ない。自分に「名義」を与えて本来の人格を超えた表現ができる素晴らしいものであり、
自身の限界を超える力を与えてくれる。日本は本音を抑圧して建前で生きる社会だが、
日本人にはその抑圧からの逃げ道が必要であり、2ちゃんが匿名でありつづける理由に
なっている。本名を明かした途端に「建前」で生きることを強制される。本名では
なくても、一連の平野綾発言や、日本でフェイスブックが流行らない理由などもその
象徴である。日本には古来、本当の名前と仮の名前を使い分ける風習があり、本当の
名前を知られると他人にコントロールされてしまうという考えから、仮の名前を称し
続けるという伝統があった。本当の名前は親しか知らず、秘匿され続けるのだ。
現在この風習はほとんど残ってないが、形を変えてネット社会で生きている。本名を
知られるとロクな事にならないという先人の知恵を無意識で学んだのが「名義」という
匿名性である。

会社員にも「リーマンネーム」とかあれば重圧が軽くなるのではないかと思うし、武家
のように幼名と元服名があれば「キラキラネーム」で苦しむ子供もいなくなるのでは
ないか。全部本名で生きるには世知辛すぎる世の中だ。

○本の住人4巻

2011年02月26日 | マンガとかアニメとかほんとか
午後に佐川のおじさんが○本の住人4巻を持ってきた。学研のおばさんを待つように
「まだかなまだかな」と待っていたpcfxに佐川のおじさんは、

「えっと、今回もアマゾンからです」

と「も」を付けて渡してくれた。余計なお世話である。ていうか佐川はいつになったら
時間帯指定できるようになるのか。それとなぜいつもトイレに入っている時とか風呂に
入ってる時とかちょっとコンビニ行ってる時にくるのだろう。狙ってるのか。

だいぶ前、まだアマゾン通販が始まって間もない頃だったが、以前配達担当だった
おばさんが、

「なんか最近アマゾンから荷物がよくあるんだけど、衛生とか大丈夫なの?」

と真顔で言われた事があった。最初は何を言ってるのかわからなかったが、どうやら
アマゾン川流域のどこからからワニ革とか未開民族の民芸品か何かを買う人が増えたと
思っていたらしい。それができるにはもうちょっと時間がかかりそうだ。



さて○本の住人4巻だ。kashmir氏の本は表紙から油断がならないので外して広げる。
ナオコサン3巻の表紙に共通しているのか、なにやら音楽チックだ。ガスコンロに
接続されたヘッドフォンで何かを聞いているのりこ。このガスコンロには電源ボタンや
やたらレンジの幅が広いボリュームのツマミなどが並んでいる。調理用シーケンサー
なのだろうか。一体どんな音が聞こえるのか気になってしょうがない。
ランドセルからはみ出すオタマと半分見えるガスコンロでのりこの立場を表しながら、
折り返しをめくると音楽機器にしか見えなくなる。


ちーちゃんがなんだか太い。太く見えるだけなのだろうか。頭にレコードプレイヤーを
乗せている。レコードのジャケットには謎の動物。ちーちゃんのスニーカーの靴紐が、
「ああ、ちーちゃんも女の子の自覚あるんだな」と安心させる。

折り返しでさなえがウエイトレスの服を着ているが、スカートの柄が眠気を誘う。斬新な
デザインだ。kashmir氏以外に考えつきそうもない。


もう表紙を眺めただけで¥819が安すぎると思えてくる。作者も凄いが装丁の人も
すごい。さすがよつばのひとだ。

巻頭カラーのイラストもいい。最近kashmir氏は「水没画」ばかり描いているように
思える。また写真との合成にも、何かを悟ったように凝っているようだ。
背景画について、リアルであればいいというものでなく、リアルに描くなら写真で
いいじゃんという正論と、せっかく絵を描くならばリアルそのままを描いても仕方が
ないじゃんという脚色が綯い交ぜになり、またデジタル作画をするのなら既存の表現
方法にこだわる必要はなくね?という挑戦であり、でもやっぱ温故知新じゃね?という
回帰が全部そこにあるような気がしてならない。

巻頭カラーはサービス満点である。コミックス3巻連続発売で大変だったように思うが、
kashmir氏のサービスは留まるところを知らない。細かく書き込み、ネタも満載だ。
もうここで大爆笑であり、本編を読む前に深い満足感に浸れる。


例によって話の中身については書かない。kashmir氏のマンガは買って読むべきであり、
その価値は十分にあるどころか、安すぎると感じる事になるだろう。
面白かった部分を、ネタバレにならない程度に羅列するに留める。


怒られてから・・・

弊社まで取りに来ていただいた方には・・・

Huカードのタイトル

デニスホッパー とあと二つ

トムとベッキー 1年後

ララララ毛ガニー ブシャア

クモヒトデとテヅルモヅル

千葉県一周

金髪 よし!

わしの子じゃないな!

外資系企業をたおす!!

一部の多脚多関節好き

「トレーダー分岐点」

「ナニィ」

ガンジャより効く薬を!!!

400%

犯罪ゼロ社会の

ブルー!貴様まさか副収入が!?

あと一発で即死する人!!!




ラストの話でちょっとみかが好きになった。

以前から気になっていた事がある。pcfxに百合星人ナオコサンを勧めてくれたのは
在日イギリス人のおっさんなのだが、他にも英語圏から来た在日外国人の知人に
kashmir氏のマンガが異常にウケがいい。マンガの中にも随所に英語が使われ、この
○本の住人4巻にも英語教育の話がある。kashmir氏の経歴は知らないが、何か英語や
英語圏と特別な親和性があるのかも知れない。ちなみに、今インドにいる友人の話では、
なぜかチェンナイ市内の本屋に百合星人ナオコサン(日本版)があったらしい。店員に
聞くと、他の日本書入荷の際に「タイトルのミステイク」で入ってきたとのこと。
やはり作者名に関係するのだろうか。インドも英語圏ではある。

ガンダムとか

2011年02月25日 | マンガとかアニメとかほんとか
pcfxの友人の一人がガンヲタだ。一緒にホビーショップに入ると、彼はガンプラのブース
で固まる。比喩でなく本当に「固まる」のだ。
この時に話しかけると「ちょっと今忙しい」などと言って見向きもしない。彼はもう
いい年の社会人であり、ガンプラの一つや二つ、躊躇なく買えるだけの経済力はある。
それなのにブツブツと独り言を言いながらガンプラの箱を取り出しては眺め、また棚に
戻す。それを1時間以上繰り返す。彼が一旦このようになると一切のコミュニケーション
が遮断されてしまうため、pcfxは他の売り場を眺めて回る事になる。

おそらく彼のこの行動は、子供の頃に少ない小遣いを握り締めてオモチャ屋に通った際に
固定化されたものだと思われる。よく考えて買わないと、次の小遣いの支給まで後悔する
事になる。だから慎重に慎重に選ぶのだ。これは彼の人生のスタイルとして定着し、
経済力がついても無意識にこの様式を踏襲する。ガンダム信仰の祭事であり、伝統行事
なのだ。


pcfxもガンダムは好きだ。Zまではちゃんと見ていたが、ZZがあまりにも酷かったので
それきりキチンと見ていない。友人の勧めで他のシリーズはいくらか見たが、入れ込む
程ではなかった。少年時代にプラモもいくつか作ったが、ガンダムよりも他に帝国海軍の
艦船やら宇宙戦艦ヤマトやらの方にプラモとしての魅力を感じていた。

ガンダムよりも「イデオン」や「ダグラム」の方が好きだった。ガンダムもそれなりに
面白かったが、より大人っぽい雰囲気のイデオンは、オープニング曲はともかくとして、
エンディング曲に感動した。ロボットのかっこよさに関してはあまり興味を持たず、
イデオンのストーリーや人物のドラマに関心があった。

pcfxと友人の違いは、そこで決定的に分かれる。あくまでロボットのかっこよさを追求
し、ガンダムで固着した友人と、より深い人間関係やストーリーにシフトしたpcfx。
どちらが正しいとかそういう話ではなく、追い求める鳥が違ったのだ。

イデオンといえば「ロボットがださい」というイメージがあるだろう。せっかくガンダム
でデザインの革命があったのに、イデオンそのものはまた超合金ロボのデザインに逆戻り
しており、敵のロボットに至ってはイカタコのようなフォルムである。しかしイデオン
はそこを見るのではない。登場人物の心の葛藤だけを追うのだ。

主人公とされるアフロヘアのコスモはともかく、ソロシップ船長のベスの心の動きが
実質的な主人公であり、異星人と恋仲になってストーリーが進行していく。劇場版の
後編である「発動篇」のラストシーンは衝撃的であり、哲学的な宇宙論を語る。また
股間のモザイクも少年少女に深い感銘を与えた。

イデオンに関しては一切の玩具を買わなかった。欲しくなる物がなかった。少年pcfx
にも、「イデオンはそういうものじゃない」という事がわかっていた。きっと子供には
わからない大人の事情でメカのデザインがあのようになったのだろうと想像できた。


イデオンは音楽も素晴らしい。「コスモスに君と」と「セーリング・フライ」は感動的
で、pcfxは今でもよく聞いている。共にすぎやまこういち氏の曲だ。




「ダグラム」も大好きだった。しかし地味な展開と子供には難解な政治的なストーリーが
災いしたのか、「ダグラムファン」という人に会ったことがない。ダグラムには美少女や
美女が(ほとんど)登場しない。ヒロインですら頬がこけており不健康そうな顔だ。

ロボットのデザインや運用は、いままでより現実的に扱われている。「ダグラム」も
完全無敵の無敵ロボなどではなく、むしろ欠点だらけだ。ガンダムよりも時代的に
身近なリアルさをもっており、兵器という存在感が強い。敵ロボットには名称と型番が
ついており、よりリアルさを増す。ここまでリアルなアニメは見たことなかった。



これらの点から、pcfxはロボットアニメを「ロボットアニメ」として見ていなかったと
いうことがわかった。ガンダムはシャアの復讐物語であり、イデオンはベスの愛と宇宙
の物語であり、ダグラムは政治と戦争の物語として見ていた。ロボットなどはついでで
あり、あってもなくてもよかったのかも知れない。

pcfxがイデオンやダグラムの話をすると、ガンヲタ友人は「へぇ~」と、明らかに関心が
ないという態度を込める。彼にとってはロボットのかっこよさが全てであり、超合金ロボ
の先祖帰りイデオンや、リアル過ぎる軍用兵器であるダグラムは「カッチョワルイ」もの
でしかないようだ。

しかしそんな彼も、ストーリーを全く見てないわけではない。「ガンダム世界」の中では
ちゃんと人物の葛藤も感じているし、政治的な流れも追っている。バカではないのだ。

それらを総合して考えると、ガンヲタな彼は「ガンダム教」の信者であり、ガンダム世界
の中だけを信じているのだ。他宗教であるイデオンやダグラムには冷淡で、異端という
偏見を向ける。一方pcfxは無宗教であり、「マイナー好き」という性向はあるものの、
ひとつの作品に主軸を置くことはない。

彼のように、「ガンダムに魂を縛られた人々」が大勢いるからこそ、ガンダム人気は
シリーズ化を通して今日まで続いているのだろうし、プラモも売れ続けている。しかし
玩具を売る奴隷としてガンダム宗教を推進した「わるいかいしゃ」が、多くの人々を
ブランドに縛り付けて他の面白い可能性を潰していることをpcfxは残念に思っている。

しかしガンヲタにとってそれは「余計なお世話」であり、「わるいかいしゃ」にして
みれば「商売にケチつけんな」といいたいだろう。競争に勝ったのはガンダムだと
わかっているが、もうシャアもアムロも出てこないアニメがガンダムであり続ける事に
疑問を感じる。

pcfxがガンダムシリーズで一番好きなのは∀ガンダムだ。何回見てもおもしろい。

マイナーまんが

2011年02月25日 | マンガとかアニメとかほんとか
pcfxが子供の頃、時代は宇宙戦艦ヤマトで銀河鉄道999だった。松本メーターが
かっこよさの全てであり、松本女キャラに「そのうちわかるわ、そのうちにね」などと
ミステリアスな事を言われてごまかされる毎日だった。

しかし一方で、まだ近所に貸本屋が一軒だけ残っていた。新しいマンガはほとんどなく、
60年代~70年代前半のマンガばかり置いてあった。読み古されてボロボロのマンガは
当時の子どもが見ても時代遅れであり、妙に暗い話が多かった気がする。当時pcfxが
住んでいた所は大学生が多かったので、貸本屋も細々と生き残っていたようだ。

貸本屋に置いてあったマンガの多くは、有名なマンガ家の絵を丸パクリしたような絵で、
例えば手塚治虫のキャラをそのまま真似して中途半端なストーリーを描いたようなものが
横行していた。少女漫画も多く、主人公が何の脈絡もなく突然バレエを習ったり、習わ
なくてもいきなり踊れたりするものばかりだった。

pcfxが「つげ義春」のマンガに出会ったのは、そういう貸本屋の片隅だった。最初に
読んだのは「紅い花」だったと思う。いろんなマンガを無断で寄せ集めて作ったような
本に載っており、印刷が酷く荒かった。おそらく雑誌をガリ版でコピーして作ったのだ
ろう。その本のタイトルも「マンガ」。適当過ぎる。

「紅い花」を読んだpcfxは、何か見てはいけないものを見たような、後ろめたい気持ちに
なったのだが、この作者がえらく気になって仕方がなかった。その後「つげ義春」という
作者名を見るたびに立ち読みし、小学3年生のpcfxは「深い・・・」などと気取りながら
感嘆し、本屋のオヤジの牽制に抗いながら読みふけった。

またこのころ、恐怖漫画ブームがあった。「楳図かずお」や「日野日出志」との
出会いだ。楳図かずおの「洗礼」を読んだpcfxは、あまりに怖かったのか、実母も
もしかしたら自分と脳を取り替える気では・・・などと妄想に明け暮れ、「ミイラ先生」
があまりに恐ろしかったため、近所の教会からシスターが出てくると一目散に逃げたり、
「へび少女」のあまりの恐怖に、ケガをしたヒザのカサブタがヘビの鱗になるのでは
ないかと震えていたりしていた。まことに微笑ましいガキである。それでも
「日野日出志」の「蔵六の奇病」を読んで、そのあまりのスプラッタな描写に吐き気を
覚えながら毎日読んだり、「つのだじろう」の「恐怖新聞」を読んで朝日新聞の配達員
の後をつけたりして楽しんでいたので、臆病なくせに怖い物が大好きだったのだろう。


80年代からマンガは「楽しいもの」「笑えるもの」ばかりになり、暗いマンガが
姿を消してしまった。pcfxも「コロコロ」から「ジャンプ」に移り、メジャーなマンガ
ばかり読むようになっていったが、以前のような満足感を得られることはなかった。
中学から高校生になるころ、また恐怖漫画ブームが来た。pcfxはそれで昔を思い出し、
またマイナーなマンガを読むようになった。「ガロ」や「アゲイン」などアングラな
雑誌を買い漁り、「蛭子能収」がお気に入りだった。その頃アングラの情報源といえば
「白夜書房」であり、マンガではないが「写真時代」のあまりのアングラさに毎月購読
していた。「吾妻ひでお」のロリマンガを読みふけり、「蛭児神建」の「プチパンドラ」
のアングラさに陶酔していた。

その後ゲームばかりしてマンガをあまり読まなくなり、バブルで賑わう街に繰り出して
ディスコに通ったり、エスニックブームで海外旅行に行ったりと、リア充生活を満喫
していた。そんな折、「根本敬」のマンガに出会う。それまでに「恐怖マンガ」
「アングラマンガ」という道を辿ったpcfxにとって、「根本敬」に行き着くのは予定調和
だった。根本敬の画風といえばキチガイでスプラッタで暴力だ。特にキチガイの部分に
シンパシーを感じ、「因果」世界に没頭していく。


こういう趣味はあまり理解されないので、話の合う人とリアルで出会った事がない。
pcfxに影響されて読んだ友人もいたが、彼らは耐性がないのか皆オカしくなって
去っていった。やはりこういう趣味は幼少の頃からの積み重ねで耐性ができていくもの
なのだろう。

30代後半から読むべきマンガと出会えず、もっぱらネットでそのような欲求を満たして
いた。そして久しぶりに読むべきマンガに出会った。それが「kashmir」の「百合星人
ナオコサン」だった。これについては別記したので詳細は割愛するが、そのマニアックな
ネタの数々は、pcfxのこのような歴史に一致するものが多く、特に「吾妻ひでお」の
作風に似た懐かしさを感じる。そして同時に「時代をブチ壊して切り開く人」のオーラが
感じられるのだ。是非こんな閉塞的な時代など作品でブチ壊してもらいたい。それだけの
パワーと衝動を持った人は稀だから、kashmir氏に期待するなというほうが無理だ。

ライトオタクやゆとりの時代であり、ビジネスとして考えるならば飽和状態のマンガ
だが、そこには本当に面白い物など残らない。糖尿病のように、ゆるやかに腐って
死んでいくのも一興だが、kashmir氏はそれに抗い、「本物」を描く可能性を持つ。



「ひろもりしのぶ」のイラストに、このようなセリフの魔女がいた。

「本当にいやらしいものを見たくはないか?」

そう、我々はいつも、本物を求めているのだ。

魔法少女

2011年02月24日 | マンガとかアニメとかほんとか
魔法少女アニメの定義とはなんだろうか。wikiに載っているが、それはそれとして、
pcfxの考えでは「ララベルまで」が魔法少女だということだ。

現実の物理法則をまだ詳しく学んでない年齢の子供が、大人が作った物理法則の常識外の
部分で楽しむのが「魔法」であり、その使用者が人類で最も科学的でない思考をする
「少女」である。魔法を使うにあたって、常識や科学的知識は違和感を産む。
だからこその「魔法少女」なのであり、「魔法少年」や「魔法熟女」では違和感がある
のだ。魔法は科学で論理的に説明できないかわりに、神秘や感情という彼岸の制御が
ある。体に神秘を宿し、感情原理主義で行動する少女にしか扱えないのが魔法だ。

魔法少女は少女が見る事を前提にしているが、おかしなことに男の子が喜ぶお色気シーン
がたびたび混入する。無論、領域を犯して魔法少女アニメを見る男の子へのサービス
なのだが、同時に「少女の体には神秘の価値が隠されている」という情報を少女に
与える。「女の子は人前で裸になってはいけない」と親から教えられ、なんとなく守って
きたが理由までは理解してなかった。しかし魔法少女がたびたび服が破れたりお風呂を
覗かれたりして「イヤーン」な時、それを見ている男どもはガン見して興奮している。
男の子が予定の行動を中断してまで凝視するほどの価値が、少女の裸体にあるらしい。

男の子の行動原理は全て科学的探求に帰着するものだが、それすらも中断させてしまうと
いうことは、男の価値観の最上位に位置するのが少女の裸だという結論に達する。そして
同じ少女である自分にもその機能があるのではないかと考える。そういえば男の子が
スカートめくりとかしてるな、という実在のケースが想起され、確信に変わる。

しかし同時にもう一つの恐ろしい現実にも気がつく。スカートめくりなどエッチな
いたずらは、「される子」と「されない子」の2種類いるのだ。明確な区分けは
わからないが、「されない子」はハッキリしている。「ブス」だ。ということは「ブス」
には「体の神秘」という価値はないし、魔法も使えない事になる。それどころか、
理不尽なことに人間としての価値すら「ブス」というレッテルによって認められなく
なる。これは少女にとって物凄い不安と恐怖になる。

この圧倒的な差別は理不尽であり、論理的に考えても対策は出ない。もし自分が「ブス」
側の人間だった場合を恐れ、「美」という物を貪欲に求めようとするようになる。
どうやったら美を手に入れられるのか。

魔法少女アニメに答えを求めると、なにやら呪文を唱えて「変身」している。なんとか
して自分も変身できないものか。魔法のアイテムは身の回りにないようだ。では
どうするか。「変身」後に魔法少女はキラキラした服を着ている。少し大人っぽく
なっているようだ。
こうして少女は、魔法少女になる代わりに、服と化粧という変身に偏執するように
なっていく。「ブス」の魔女裁判を避けるためだ。「服変えて化粧したくらいでは
変わらない」という冷静な意見に耳をふさぐため、論理を避けて現実を拒む。そんな
残酷な現実なんか嫌いだ。現実をねじ曲げてでも「ブス」を認めない。
感情原理主義者の誕生である。

少女にこのような葛藤を生じさせ、対策を示俊するのが正しい「魔法少女」であるが、
内面の教育も同時になければならない。ララベルまでは「教養」や「人情」なども
女性の魅力として重要であるというスタンスを保っている。

しかしミンキーモモからは、明らかに対象が子供だけに向けられたものでは無くなって
いる。変身後にいきなり成熟し大人になるという飛躍は、少女そのものの価値を認めない
事になってしまう。「早くビッチ化しろ」と言わんばかりの展開だ。教養も人情も
置いてきぼりであり、単なる「変身少女アニメ」になっていった。そこにもう魔法が
魔法である必要もなくなった。

ちょうどその頃、ロリコンブームが始まった。ミンキーモモもそのブームの象徴として
語られる事が多いが、それは全くの逆だ。時代に少女幻想を壊されたと感じた者たちが
起こした反乱がロリコンブームだった。日本から「少女の神秘」が失われるという予感
が反乱に火をつけ、「どうか神秘のままでいてください」という願いだったのだ。



魔法少女たちはもれなく魔女裁判にかけられ、判決は有罪。「魔法少女」は「変身少女」
に改造され、魔法も否定されていった。一般化された変身少女は、おもちゃを売るための
道具として存命し、悪徳企業の100年奴隷に成り下がった。もう魔法少女はいないのだ。

○本の住人3巻

2011年02月22日 | マンガとかアニメとかほんとか
kashmir氏のマンガは面白い。ここまでハマったマンガ家は何年ぶりだろうか。
本来なら「kashmir先生」と呼ばなくてはならないのかもしれないが、その呼び方には
なんか抵抗があり、医者ですら「先生」と呼ぶのをためらう。pcfx的には「先生」は
教師を指す職業呼称であり、医者や作家を「先生」と呼ぶのを不自然に感じる。

医者に関しては「ドクター」と呼ぶのもどうか。博士号取得が医者の条件だというのは
わかるが、だからといって学歴呼称で呼ぶのはおかしいと感じる。だからといって病院で
「今日、山田医師はいますか?」と言うのもなんだか変だから、イヤイヤ「先生」を
つけて呼んでいる。

この医者に対してのイヤイヤ感があるので、尊敬する作家やマンガ家に対して「先生」を
つけると、pcfx的には失礼な呼び方をしているように感じてしまうのだ。

ではマンガ家に対してなんと敬称をつけて呼べばいいのか。創作している人に「記者」と
いうのも不自然だし、「筆者」では一人称になってしまう。そういうわけでマンガ家を
どう呼べば自分がしっくりくるか保留したままだから「kashmir氏」としている。または
呼び捨てにしている。

本人が見たら「失礼な!」と思われるかもしれない。しかし作風から感じる人物像から、
kashmir氏が「先生」と呼ばれないと自尊心が傷ついて不快に感じるような小さい人とは
到底思えない。彼は天才であり、関心は常に彼岸の彼方にあると思っている。

しかしまあ、もし実際に対面したらpcfxは一応「先生」と読んでしまうんだろうが。




kashmir氏のマンガの面白いところは、大きくわけて2種類ある。第一に「わかる面白さ」
第二に「わからない面白さ」だ。そしてこれが相互に交錯している点だ。

「わかる面白さ」は「わからない面白さ」の上にあり、マニアックであまり知られて
いない事、普通覚えてないような詳細な事を、読者がたまたま知っている際に、
「うわー、これわかるの自分くらいじゃねぇの?」と思わせる優越感や作者との共感で
ある。

「わからない面白さ」も「わかる面白さ」の上にある。マンガにおける状況とは、絵や
言葉による説明によって成り立っている。だから通常はわかって当然であり、作者が
説明すべき約束事だ。ところがkashmir氏の作品は時折その約束を放棄する。説明すれば
わかる事だし、それで済む話を、それで済まさない。説明しないことで作者がどんな
苦労や不利益を被ったとしても、あえて説明を省く。理解させない。

一方で「これわかるかな?」「ではこれならどうよ?」とマニア心を誑かして惹きつけて
おきながら、近づいた途端に情報をシャットアウトされる。さんざん「これは俺しか
わかんねぇかも」と思わせて持ち上げておいて、体の重心が浮ついた瞬間に急転直下、
いつの間にか倒されているのだ。持ち上げる罠は非常に多数、マンガに埋めこまれて
おり、色んなジャンルを趣味とする、色んな年代に対応している。罠にかからないような
人は最初から作者に相手にされていない。だから多くの読者が、気がつくと倒されて
天井を見上げることになるのだ。

通常、このような事をされたらマニアックな読者は自尊心を傷つけられ、読まなくなって
しまうだろう。実際に読まなくなった人もいるかもしれない。作者のkashmir氏は、
そんなリスクも承知の上であえて読者を倒す。あくまで主体的であり、ついてこれない
者は容赦なく置いていく。そこに清々しさを感じる者だけがついていく。

柔らかで可愛らしい絵柄も罠だ。萌え系ギャグマンガと思わせてライトなゆとり読者を
チョウチンアンコウのように誘いこみ、彼らが到底ついていけないようなマニアックな
ネタで翻弄した挙句、彼らが唯一頼りとする常識的な部分の情報を遮断する。ゆとり読者
にしてみれば、「あれ?俺なにか悪いことしたかな?」というような謎の罪悪感すら
覚え、正体不明の反省をするハメに陥るのだ。


言うまでもなくkashmir氏の作風はサディスティックだ。しかしそれは一見しても
わからないように巧妙に隠されている。だがその加虐はカラっとしており、策略的な
陰湿さはない。力技でねじ伏せるようなものでもない。合気道のようにサラっと重心を
持って行かれるのだ。





前置きが長すぎてもう本編のようになっているが、○本の住人3巻の話だった。
作風に関する感想はさんざん語ったので、面白かったところだけ羅列して終わる。


表紙のコア構想

巻頭カラーの「ネコに物もらうな!!」「あくのそしき!!」

埼玉県は水没しますが、いい味です!

☓ゲームをもってこない の絵

水窪ダム

頭おかしいな!!! お前がいうな

よし  よしじゃない!!

森の恵みカレー!!!

ノー点滴クリア

痛領収書

ギロッポンで日夜にちゃんする医者キモ!!

ミコンギ7

グラブに鉄板を入れるなどの工夫

食べ物もしいたけしかないんだ




4巻が待ち遠しい。

百合星人ナオコサン3巻

2011年02月19日 | マンガとかアニメとかほんとか
作者のkashmir氏の絵は清清しい。そしていたるところにマニアックなネタが溢れる。

3巻の表紙絵には登場人物たちが楽器を持っている姿が描かれているが、選択された楽器
はそれぞれ強い個性がある。ナオコサンがよくわからない楽器を持っているのは納得
できるとして、ネックの先に歯磨きチューブが仕込んであり、その商品名や味もさること
ながら、アヤコサンがせっかく気持ちよく歌おうとしているのに、その頭に練り歯磨きが
垂れ流されている。アヤコサンの胸には銀の薔薇、袖口にも刺繍と、着飾らせていながら
扱いはぞんざいである。

アンプにはロボの足が生えており、無線式かつ自走式なのだろう。この感覚は吾妻ひでお
を思い起こさせる。トイピアノには「MOOOG」とあり、この名前だけでトイピアノ
らしからぬ重厚な音が出るに違いないと思わせる。テレビモニタには黒ナオコサンが
おり、テルミンらしきものを演奏している。
表紙カバーを外すと、それぞれの楽器の解説があるが、アヤコサンだけはアレだ。

ニュータイプのインタビュー記事にあるイラストでは、ナオコサンの百合星ギターの
ネックは真っ直ぐだが、表紙絵ではグネグネを曲がっている。おそらく表紙の折り返しに
ヤオイ星人を登場させる為に書きなおしたのだろう。ここにも作者の愛が感じられ、
同時にサービス精神も伝わってくる。pcfxはこのようなところを見て「買ってよかった」
と満足する。そしてなにより、みすずの楽器にコンガをもってくるあたりがいい。特に
手がいい。


3巻の内容で特によかったもの。

 アヤコサンが相変わらず同人誌買いすぎて水だけでがまんしている表情。

 小学4年生のみすずが町の廃屋を嬉々として自由研究している描写。

 「ぴうたくん」がちゃんと16bitだった件。

 「初恋デストロイ」の扉絵の足の指が曲がっているところ。

 企業ロゴネタ

 アヤコサンが相変わらず同人誌買いすぎてお腹を空かせている表情。

 「だいたいなんでゴミ捨てに7分42秒もかかるのよ!」

 ナオコサンがBIG-1ガムらしきものを箱ごと食べている件。

 みすずロボが黒ナオコサンにエネルギー送るのに使ってるコネクタがIDEっぽい。

 中山式快癒器。

 アヤコサンのバザーでのあぐら。

 「彼女たちの消費」の扉絵の生コンプラントとくるぶしまで水に漬かった足。

 「あのユリセ・・・湯けむり星人め」

 「ライト層を滅ぼさないと我々に未来はないぞ」及び89p

 アヤコサンの電話絵と「そこだー」

 美肌ニート。

 143pの使い方で悩みそうな電動工具。

 151pのつげ義春ネタ。及び「めっバッジ」



これだけリストアップしてわかったが、pcfxはアヤコサンが好きらしい。そして足フェチ
らしい。わかってはいたが。



3巻にはアニメDVDがバンドルされている。一番の衝撃はナオコサンの声が新井さんだった
という点。ナオコサンの声はもっとハスキーで高い声を想像していた。また、触手の色が
生々しいのも意外だった。

pcfxはナオコサンのTVアニメ化を強く望んでいるが、条例によってkashmir氏の毒を抜く
作品にだけはなって欲しくないと願っている。kashmir氏の毒と絵柄と脱力のバランスを
愛してやまない。

kashmir氏インタビュー記事

2011年02月17日 | マンガとかアニメとかほんとか
kashmir氏のツイッターに、「ニュータイプにインタビュー記事あり」との情報が
あったので、ニワカファンで少々テンションがおかしくなっているpcfxは、雨の中バイク
を飛ばして近所の本屋に行き、20年ぶりくらいにアニメ雑誌の「ニュータイプ」を
購入した。そして真っ先に目次を探し、目的のページを開いたのが今。

・・・そして今読み終わった。

他の記事はその内に追々読むかもしれないがとりあえず放置。

インタビュー記事の内容には触れない。買って読むべきであり、巻末近くにある
アンケートハガキの1番と3番の目次番号に「155」と書き、7番の項目には
「百合星人ナオコサン」と書き込んで送るのが大人というものだ。いや、大人の行動では
ないかもしれないが、人間として正しい行為である。



そんなおかしいテンションのpcfxではあるが、まだ「彼女はuxo」という作品は読んで
いない。まだコミックスになっていないからだろうが、雑誌を買って読むべきなのは
わかっている。そのうちにその領域に踏み込むだろう。また、同人作品も読んでいない。
そのうちに集め出すだろう。


なんにせよ、百合星人ナオコサンの2巻表紙絵の秘密を知れただけでも、アニメ雑誌
「ニュータイプ」を買ってよかったと、森永の3個パックのコーヒーゼリーを食べながら
悦に入るpcfxだった。


みずきななのほん

2011年02月10日 | マンガとかアニメとかほんとか
友人が水樹奈々のファンなので、どんなものだろうと水樹奈々の「深愛」をゲマズで
買った。B2ポスターがついてきた。カラーページが1Pのみで¥1524という価格に
腹が立ったが、内容は割りと面白く、一気に読めた。

その友人とよく長い時間ドライブに行く。その時よく水樹奈々の曲をかける。
そっち方面にpcfxはうといので、最初は誰か知らない人だった。声の伸びとかビブラート
はうまいのだが、なんかクセがある。なんのクセだったっけこれ?とか思っていたら、
演歌のクセだと思いついた。ああ演歌歌手が歌謡曲に転向して歌ってるのね、と思って、
友人に聞いてみると、それは知らんがアニメソングだと言っていた。

時は流れ、ロザバンの2期が始まった。その主題歌を友人がかけた。これも同じ水樹奈々
だという。しかし前に聞いた歌い方とはかなり違っていた。なんかいきなりうまくなった
というか、気負いが抜けたというか、pcfxもこれなら好きだわ、とおもった。

また時は流れて最近。友人が水樹水樹、奈々奈々と毎日うるさいので名前も覚えて
しまった。ネットをぶらついていると、その水樹奈々が自叙伝本を出すのを知った。
そのことを友人に教えるが、なぜか一向に買う気配がない。pcfxは、水樹奈々が元は
演歌歌手を目指していたということをどっかで聞いていたので、なんでまたそんな人が
アニメソングとか声優に?という疑問に興味があったので、大須(名古屋の秋葉)に
kashmirのマンガを買いに行くついでにゲマズに寄り、その本を買ってみた。
レジに本を出してから店員に「¥1524になります」といわれて初めて値段を知った。

「TAKEEEEEEEEEEEEEE!!」

それが正直なところだ。ハードカバー、文章のみ、写真ページ1P、通常なら¥780
といったところだ。正直腹が立った。まあ、声優歌手の自叙伝など普通の人は買わない
んだろうけど、それにしても高い。いや、さっき¥3500のフィギュア買ったけども、
それはそれとして高いわこれは。

で、帰ってから腹立ちを抑えながら読んだ。うん、これなら¥1524出してもいいわ。
面白い。腹立ちが収まったpcfxは、見事に水樹奈々のプロダクションに懐柔されていた。
さっそく友人へメール。本とポスターとpcfxのVサインの写真を添付。

「死ね」

そういう返事が来た。悔しかったのだろうが、先に買わない方がわるい。そしてすぐ
うちに来るという電話があった。

pcfxは水樹奈々の歌は割りと好きだが、それほど入れ込んでもいないので、この本と
ポスターは友人にやることにした。ポスターのフチが曲がってるだなんだ文句を
言っていたが、喜んでいるようでよかった。そんなに欲しいならさっさと買えよ。
ていうか人にあっさりやるくらいなら¥1524程度で文句いうなよpcfx。


例によって話の内容は書かないが、演歌歌手一直線で育てられた娘が、苦労して堀越
学園に入学し、なかなかデビューできない焦りのなかで、ひょんなことから声優に
なり、そっから念願の歌手になりました、というサクセスストーリだ。苦労と変節が
この本の面白さだが、同時に恵まれており一途だ。そして人生は一本道ではないのだ
なあ、と勇気付けられる。


pcfxは声優にはさほど詳しくないのであまり語れないが、ずいぶんと昔、ときメモが
流行ったころに、仕事先のバイト君がときメモに大ハマりしてドラマCDだったかを
pcfxに貸してくれた。その中に、キャラ名は忘れたが菊池志穂という人が歌った
「フィフネルの宇宙服」という曲があった。pcfxはこれがなんだかえらい気に入って、
毎日繰り返し聞いていた。天才だと思った。まあ、それっきり他の曲は聴いてないが。

あとは小桜エツ子という人のアルバム「それでいいのだ」を、どんな経緯か忘れたが
アマゾンで買い、勢いあまってレビューまで書いてしまうくらい好きだった。今でも
これは宝物だ。声優がらみではこの10年で、この2つくらいがpcfxが執心したものだ。
きっと他にもpcfxが知らない名曲がたくさんあるのだろうけど、音楽との出会いとは
縁のようなものだとpcfxは思っているので、曲を漁ったりはしない。大抵は知人に
勧められて初めて知るものが多い。元々はYMOファンであり、テクノ系からゲーム
ミュージックに流れて、オタ系の音楽に近づいた経歴だ。

あ、そうそう、最近もう一つアニメソングで好きなのがあった。四畳半神話大全の
曲で「神様のいうとおり」。これもCDを購入した。もう古き良きYMOを思い出して
泣きました。これがテクノポップですわ。失われた理想郷ですわ。80年代バンザイ
ですわ。もうオヤジですわ。

pcfxは元々ゲーマーなので、次はゲームミュージックのことでもかきますわ。

海洋生物マンガ

2011年02月10日 | マンガとかアニメとかほんとか
ここ1~2年の間に購入して読んだマンガの中に2種類、海洋生物のマンガがあった。
ひとつは「侵略!イカ娘」で、もう一つは「波打際のむろみさん」だ。

イカ娘がアニメになるとは思わなかった。pcfxはマイナー臭がするものを本能的に選ぶ
クセがある。自分が選んで買ったマンガがアニメ化すると負けた気分になる。しかし
ここ最近は選んだマンガの多くがアニメ化していってるので、自分の好みが変わったのか
世間の風潮が変わったのかは知らないが、負け続けだ。

で、イカ娘のアニメをみてみると、「普通におもしろい」。原作ファンからみても、非の
打ち所がない。OPから次回予告まで、「そうじゃないだろ!」というツッコミを入れら
れない完璧さだ。なんだろうこの敗北感は。マッサージで何も注文してないのに凝ってる
所を全て揉み解された感覚。既製品の服を買ったら誂えたようにピッタリだった感覚。
必要なものは全て与えられたが、必要ないものは全部おあずけになってる感覚。
好きなのに溺愛できない。そんな気持ちになるアニメだった。

そんなイカ娘だが、コミックス8巻の表紙は衝撃的だった。イカ娘をかわいく描いてない
のだ。描けていないのではなく、あきらかに狙ってかわいさを排除している。粗野にも
見えるようにわざと描いている。それなのに嫌悪感がないばかりか、魅力的なのだ。
また敗北だ。作者が天才なのか編集者が的確なのか。pcfxは完全に弄ばれている。




一方、むろみさんは安心できるマンガだ。そういう「作った感」がなく、のびのびとして
いる。欠点もたくさんあるが、それすら心地よい。キチンと下ネタも完備されている。
開始当初は流暢な博多弁だったむろみさんも、現在は標準語に近くなってしまった。
pcfxは博多産まれなので自然に博多弁のセリフを読めるが、他の地域の人にとっては
難解だったのだろう。ここであえて博多弁を全国に広めようとせずに妥協したあたりも
力が入りすぎてない感じでラクだ。

人魚の設定も、考えなしにどんどん風呂敷を広げていったために破綻しているが、その
あたりの適当さも快い。人魚キャラはもちろん全員かわいく描かれているが、中でも
「鳴門&明石」の双子?は、かわいく描かれてないのにかわいい。3巻で明石がひとり、
網にかかり迷子になって不安になっている描写は、凶暴な双子にどこか魅力を感じて
いた読者にサービスされている。

登場する女性キャラは必ずどこかに醜い点がある。めんどくさい女、勝気な女、強すぎる
女、凶暴な女、視野の狭い女、執念深い女などなど。その醜さの中に魅力も付加する事で
プラマイゼロに中和されている。結果、プラスに大きく傾くキャラがいない。また、海洋
生物を取り巻く国際関係も描写されている。それにキャラも加担している。両方の価値観
をフォローしているので偏っていない。やはりプラマイゼロに抑えている。この作者の
感性が「公平」を旨としてる事が、自由すぎる表現を接着剤のように繋ぎとめている。



この二つの海洋生物マンガは非常に違う。もちろんpcfxはどちらも好きで買い続けている
が、まったく違う理由で好きだ。元々海洋生物が好きで、食べるのも海産物が好き、
年に数回水族館へ行き、イルカショーや珍妙な魚を見るのが好きだ。ダイビングも趣味の
一つだ。このような海への憧れから、海が舞台になったマンガを好むのだろう。
真冬の海へ一人でフラっと出かけ、何もせずに帰ってくる事があるが、海洋生物マンガ
のおかげでその楽しみにも幅ができた。

デイドリームネイションのかんそう

2011年02月08日 | マンガとかアニメとかほんとか
デイドリームネイションはkashmirのマンガである。


「百合星人ナオコサン」を読んだpcfxは、次にアマゾンからデイドリームネイションを
取り寄せた。現在3巻まで出ている。
話の内容は書かない。読めばわかることだ。そして強く購入をお勧めする。

ググってみたが、作者のkashmirや作品に関する記事があまりなくて残念だったので
自分で書いてみる気になった。

表紙が渦巻いているため、どっちが上か下かわからなくなる。毎回だまされる。話は
マン研に神様が居ついたというもの。この作者には珍しく、「あとがき」がある。
話の進行にはカッチリした枠がなく、ふわふわと続いていく。ギャグとBLネタを強調
しており、他の作品より少しエロティックな表現もある。なんとなくアニメ化を意識して
いるような設定や印象もある。pcfxは既にkashmir作品に魅了されているのでアニメ化は
当然期待してはいるのだが、一方でビジネスの現実も理解しているので非常に微妙な
気持ちだ。

ふわふわした展開なので、一気に読まないと話の流れや人物の立場などを見失う。
読んだあとも、記憶に残りにくい。まるで目覚めた後に夢の記憶が薄れていくような
感覚だ。面白くないからではない。記憶から抜けるように設計されているマンガなのだ。
そういう意味からなのかは知らないが、タイトルは「白昼夢の国」だ。
他の作品に比べ、幼女があまり出てこない。そのかわり「夏穂」の少女表現にそれが
練りこまれている印象を受ける。


kashmirのコミックスはサービス精神に満ちている。表紙カバーを外すと、必ずオマケが
描いてある。むしろこっちが本編という気さえする。また、2010年の作品から、
絵の魅力が格段に上がっている。「媚びた」という見方もあるだろうが、pcfxの印象では
「本気出した」という感じだ。腰が入ったというか、やる気を出したというか、そういう
ポジティブな印象を受けた。そしてそれは未来の作品への期待になる。

これを書いている2011年2月現在、作者はスケジュールが大変そうだ。コミックスが連続
発売になるからだと思われる。pcfxはニワカなので詳しい事は知らないが、作者は今、
まさに脂が乗ってきている状態なのではないかと思う。

「デイドリームネイション」をどう読むかをpcfxは考えたが、ちゃんと読んで、一眠り
したら内容を忘れ、そしてもう一度読み、途中で寝てしまうというスタイルが正しいと
感じたのでそのようにしている。

○本の住人のかんそうとかざっかん

2011年02月08日 | マンガとかアニメとかほんとか
「○本の住人」(まるほんのじゅうにん)はkashmirのマンガだ。現在3巻まで出ている。もうすぐ4巻がでるようだ。


「デイドリームネイション」を買ったpcfxは、続けてこの「○本の住人」を買うべく、
何かにとりつかれた様にアマゾンを物色していた。しかし注文の際、在庫がないらしく、
既刊が一ヶ月ほど届かないらしい。
仕方なくpcfxは名古屋の秋葉といわれる大須に出かけ、それ系の本屋を巡り歩いた。
しかしどこも最新刊の3巻以外は売り切れ。そんなに売れてるのかと店員に尋ねると、
その質問には答えず、既刊を置いている本屋を電話で探してくれた。普通そんな事を
本屋の店員がしてくれるとは思えないが、何件も電話して探してくれた。そしてようやく
置いている本屋を見つけ、pcfxにその本屋の道案内までしてくれた。

道案内の途中、「どうしてそこまでしてくれるの?」と笑いながら聞いてみると、その
店員は「実は自分もkashmirさんがスゴイ好きなので、是非買ってほしかった」との事。
「今アマゾンでも品切れでしょ?気持ちわかります」とまで。これはもう宗教に近いな、
と思いながら書店に到着。

「4巻ももうすぐです。あと、kashmirさんのサイトも見てくださいね」

そういって彼は帰って行った。ありがとう本屋のひと。

そんな出会いもあり、ようやく手にした○本の住人の1・2巻。そして3巻。帰宅して
から読みふけった。ニワカファンのpcfxにとっては、作者のサイトも気になった。
その日は○本の住人とサイト閲覧で1日すべて潰した。充実した1日だった。

で、今回も話の内容は書かない。読めばわかる。そして購入をお勧めする。


1巻の表紙について。最初の印象は「暗い空間に不安な少女が怯えている」だった。
しかし読んでから表紙を見直してみると、「暗いが暖かい空間に微笑む少女」に印象
が変わった。このあたりが作者のうまいところだと思う。
絵本作家の兄と小学生の妹が中心になって進行する、基本的に4コママンガだ。しかし、
明らかに登場人物で一番インパクトがあるのは「ちーちゃん」だ。絵本作家の兄が
初対面で「神」としたのは、外見だけが理由ではないだろう。コミックスの表紙絵は、
1巻が「のりこ」のみ、2巻は3名、3巻に至っては「ちーちゃん」が増殖して埋め
尽くしている。もうこの話は「ちーちゃん」がいなくては物足りなくなっている。

他に特徴を挙げると、「さなえ時空」だ。「さなえ空間」ではなく「時空」とある。
ひとたび「さなえ時空」に巻き込まれると、周囲の人間は全て眠りこけてしまう。
このような人物に現実に合った事がある人にはわかるだろうが、そういう能力を
持つ人が現実にいるのだ。その人を見ていると、なぜか瞼が重くなって意識が朦朧と
してくる。特に何をしているわけでも、何を言っているわけでもないのに、ただ
そこにいるだけで眠くなってくる。そして気がつくと一瞬眠ってしまっており、
それを謝罪しようと相手を見ると、大抵相手も眠ってしまっている。そういう人が
本当に存在するのだ。「さなえ時空」では、さなえ本人も眠ってしまい、気がつくと
記憶が巻き戻っており、眠り始めた時間よりも前に記憶が途切れている。


「デイドリームネイション」はタイトル通り、白昼夢のようにふわふわして不安定な
内容だが、「○本の住人」は輪郭がハッキリしており、ナオコサンよりも話の筋が
通っている。作者のロリ至上主義に対して、主人公キャラの「のりこ」のロリ的な
魅力はだいぶ割り引いて描かれている。むしろ「○本の住人」では、大人の女性の
魅力を強調している印象を受ける。熱が出た「ちーちゃん」にも萌え要素はあるものの、
それは「ようこ」や「さなえ」に及んでいない気がする。「みか」に至ってはまるで
魅力を感じさせないように描いていると感じる。
「ロリ」が作者の正常な状態だとすると、この作品は作者が「変態」を描いたようにも
受け取れる。この話の中で正常な良心を持っているのは、絵本作家の兄だけ。そして
うっかり正常な事を言ってしまった「ちーちゃんの祖父」は逮捕される。ここにも、
作者の世間への抗議を感じる。


絵本は子供のための本だ。マンガもかつては子供のものだった。
大人もマンガを読むようになり、大人のためのマンガができた。
大人のためのマンガは、子供が読むと有害とされ、規制されるようになった。
そんな時代のなかで、この「○本の住人」では、子供が読むには内容的にどうか?
という絵本を出版する会社と作家の話を描いている。pcfxはこれをエスプリと捉える。

喫煙者や肥満やロリコンやオタクや男性であることそのものが「犯罪者扱い」される
という世の中が正常なわけがない。kashmir作品にはそれに対する抗議が隠されている。
その抗議の衝動が形を変えて「ナオコサン」の破壊行動や、「ちーちゃん」の暴力行為
に現れている気がする。彼女らは現在優位な女性でありながら、人格が壊れている点も
見逃せない。

百合星人ナオコサン

2011年02月07日 | マンガとかアニメとかほんとか
百合星人ナオコサンとか作者の人の印象


長いこと読むべきマンガを失ったままのpcfxが、本屋でたまたま手にしたのが
kashmirの百合星人ナオコサンだった。

訂正(在日イギリス人の知人に紹介されてタイトルは知っていた)


この本を即購入した理由は、「百合」というキーワードだったからではなく、
作者の名前「kashmir」が気になったからだ。読み方は「カシミア」ではなく
「カシミール」だ。毛織物のカシミアはインドのカシミール地方産なので
カシミアでもいいんだけども、作者名は「カシミール」だ。

数年前、インド亜大陸を放浪していたpcfxにとって、カシミール地方は入境しにくい
場所だったので印象的だ。作者のカシミールがどういう心境でペンネームにした
のかは知らないが、作者名で本を購入したのは初めてだった。

kashmirの本を読むのは初めてだったが、内容のネタから、ロリでシューティング
ゲーマーで鉄道好きなことは想像できた。年齢的にも自分に近そうだ。

百合星人ナオコサンはギャグマンガだと思われるが、大爆笑するような方向性では
なく、密かに笑え、かつどこかに悲壮感が漂っているという印象だった。これが
pcfxを一気に引き込んだ理由だった。昔のアルミ製歯磨きチューブから残り少ない
中身を無理やり捻り出すような抑圧感。そして捻り出した中身をフリーズドライに
したような乾燥感。そしてカラカラになったそれをハンマーで粉々に砕いたような
不条理展開。そういう作者の苦悩が感じ取れるような作品だった。

kashmir作品のほかのマンガにも共通の、レギュラーキャラの「独特の表情」がある。
不条理な行動をするキャラに与えられる表情で、少し顎を挙げて虚空を眺め、
眉は決意を表しながら口は半開き。そしてセリフはない。なんらかの意見や説明を
求められている場面だが、具体的な返答はせず、ただ「・・・」と虚空を見つめている。
この時、そのキャラが何を考えているのか全く想像できない。そういうひとコマをなぜ
描いたのかもよくわからない。そういう場面だ。
そのような表情を描くマンガ家をもう一人知っている。「吾妻ひでお」だ。描き方は
違うが、その表情の使い方が似ている。吾妻ひでおの方は片方の目だけ輪郭があり、
片方は点のみで表している。絵は違うが、その表情での間の取り方が似ている。

pcfxがkashmirのマンガを深く気に入ったのは、吾妻ひでおの作風にどこか共通点を
感じ取れるからだと、だいぶ経ってから気がついた。ヒットする方程式を理解しつつ、
あえてそれを避けながら読者を選ぶ。心情に鬱々としたものを秘めながら、表向きは
カラっとした作風に仕上げる。そして世界観の中心に少女像がそそり立っている。

百合星人ナオコサンの「ナオコサン」は、成人女性のような雰囲気だがセックス
アピールを感じさせず、その役割は他の少女キャラに割り振られている。ロリという
存在で満たされているのに、直接のエロ表現は抑圧している。「描きたい」という
物凄い欲求が感じられるのに、「描けない」という抑圧を受け入れている。セリフ
ではロリ的な表現が多用されているのにも関わらず、絵では「描かない」。その葛藤に
読者を巻き込んで苦しみを共有させる。作風が即ち抗議という構造になっている。

コミックス2巻まではそのように禁欲的ともいえる雰囲気だったが、3巻よりタイトル
絵が若干かわいい絵になっている。ナオコサンですら魅力的に描かれている。
wikiのkashmir紹介記事によると、作者はマンガ家でありイラストレーターとある。
なるほど、イラストレーターと別記するだけあって、イラストが魅力的なはずだ。
3巻表紙のみすずの絵は、楽器のチョイスとともに、手の位置や表情が、顔や服装などの
わかり易い魅力を超えて描かれている。

pcfxは鉄道のことをよく知らないので、鉄道ネタのギャグを残念なことに堪能できない
でいるが、3巻についてくるアニメDVDに採用された回の話のメインギャグが鉄道
ネタだったことから、作者はよほどの鉄道好きなのだろう。
pcfxは廃墟サイトを運営している(していた?)ので、廃線のネタと廃墟ネタは理解
できる。そしてそれもpcfxがkashmirの作品に惹かれる理由のひとつだ。廃墟サイト
などをやっていると、他の廃墟好きとの交流もあるのだが、廃墟好きというのはもれなく
変わり者で捻くれているのが相場だ。そして心に闇を抱えている。故に楽園を人並み以上
に憧れ渇望している。そういったものも作者から感じる。

肝心の「百合星人ナオコサン」の内容に関しては書かない。読んでみればいいだけだ。
ともかく、このナオコサン1巻を買ったがために、その後kashmirのコミックスを全て
買いあさることになった。読むべきマンガにようやく出合え、読むべき作家に出会えた。
これはpcfxにとっては一大事だった。