goo blog サービス終了のお知らせ 

minority resistance

pcfx復活ブログ

統治者のやること

2011年03月14日 | そのた
今回の地震で未曽有の被害が出た。天災は仕方ないものとはいえ、被災者にとってはやり
場のない怒りと悲しみがあるだろう。被災していない者にとっても他人事ではなく、いつ
自分に振りかかるのかわからない。

地震は天災だが、その被害全てが天災なのだろうか。日本の位置する地勢では地震や津波
は付き物といえる。自然状態では蹂躙されるがままなのだろうが、そこに知的動物の集団
生活がある場合、どこかに責任を追求するという感情が芽生える。

アジアでの統治者というのは大抵の場合、その起こりは灌漑水利を企画運営する者だ。
灌漑水利の必要性は農業に大きい。流浪できる狩猟採取生活なら水辺で生活すればよい
し、洪水になれば住居を移動すれば済む。しかし農業は土地に縛られ、また農地は拡大
していく。灌漑で川の流れをコントロールする必要が出てくる。

人間一人の力では大規模な土木工事など不可能だから、人数を集める事になる。人間は
面倒なことを避けたがるので、一定の強制力や利益の配分がないと動かない。また、効率
的に安全に計画しないと意味が無い。それを計画するには知恵者を集めて論理的に設計
しなければならない。そのように人を集めるには、カリスマのある人物の先導が必要だ。
それが原初の統治者であり、灌漑水利工事がその力の根拠で、農業の拡大による穀物貯蔵
量が経済や軍事の基礎となった。そうして国が出来ていったといわれている。

国の成立後も灌漑未工事の農地はたくさんあった。本来は最優先で行うべきものだが、
統治者の直下にある組織に属する者たちは私財を肥やす事に懸命になり、国の成立の
根本にあるものを忘れる。彼らは税収さえあればよく、その税の責任は農民に転嫁して
いる。川が氾濫して農地が流されようが自分の責任ではない。その損失分は他の農民から
余分に取れば勘定が合うのだ。

そんな中、国に任せてはおけないと考える農民はいたが、無学な農民には灌漑の知識など
ないのだった。途方にくれていると、遠方より知識人の僧侶が現れ、国に代わって灌漑の
計画と指揮を取る事があった。また工事に携わった農民の中に知能の高い者がおり、その
ノウハウを吸収し、近隣の村の工事に協力したり、それを生業にする者が現れた。

中世が終わると、国の組織はそれまでのノウハウを発展させ、より高度で均質的な水利
工事を行い、その負担を農民だけでなく住民全体で賄うようになっていった。農地や
住宅地は国土の広範囲に渡り、低地や沿岸部にも大勢の人間が住むようになった。

このような歴史の流れが、アジアでは千年~2千年の間に各地で起こっていた。土木工事
の安全基準はその間に起こった最大規模の災害に耐えうるように設計された。それに対し
て人間が原初の文明を持ったのが1万年程度である。地球の誕生から45億年程度経過
している。だから想定している最大の災害規模のデータは期間的に数億分の1であり、
経験的な記録は5分の1以下だ。過去の科学的な調査ができるようになって100年ほど
の歴史しかないのだ。

地殻の変動はマントルの対流が原因とされており、地殻などはマントルの表層が冷えて
乾いた部分に過ぎない。我々が地球と呼ぶ場合、その表層のごく一部分の岩石と海水を
指すが、実体は「液体の鉄の塊」である。溶鉱炉の上に浮いた不純物のカケラにしがみ
ついて生きているのが、地球特産品の「生物」なのだ。だからいつでも溶鉱炉に飲み
込まれて死滅してもおかしくない。その時が特産品の最後だ。

現状考えられる災害対策の最たるものは、地球をいつでも脱出できる技術に他ならない。
科学技術の当面のゴールはそこにあり、地球を離れても生存できる環境を作ることが、
現在の統治者がするべき工事である。それができない、またはする気がない、または邪魔
をする統治者など必要ないのだ。だから統治者はあらゆる科学技術を発展させ、工事技術
を磨き、宇宙へ出て行く最大限の努力をしなければならない。災害の責任追及とはこう
あるべきだ。



現在の日本の「統治者」とは誰だろうか。政府や内閣や総理大臣だとも言えるが、その
役職名が指すのは「天皇の代理組織」だ。平安時代に作られた政治組織をそのまま踏襲
して、戦後も続行している。その天皇の代理組織が「間違った災害対策」をしている場合
は、誰がそれを止めるのか。国民なのか天皇自身なのか。そしてその国民は災害対策の
ゴールをきちんと認識しているのか。

おっぱいとか

2011年03月13日 | そのた
pcfxはおっぱいの大きさに特にこだわりはない。大きかろう小さかろうが、それは
女性のパーツの一部分に過ぎないし、性行為に特に必要な物ではない。

人間の女性のおっぱいが発達した理由には諸説あるが、最も流布されているものでは
サルは尻で発情期アピールをするが、直立歩行する人間は尻が目線に入りにくいので、
顔の直下にある胸でセックスアピールするようになった」という説がある。

pcfxの知人には超貧乳も巨乳もいる。確かに巨乳は非常に目立つし、アピールを感じる。
特に胸が開いた服を着て胸を寄せている人を見ると、その谷間に指を垂直に挿し込みたく
なる衝動には駆られるが、胸が真っ平らな女性でも顔が好みであればそれで十分だ。
ただ、以前ペッタンな女の子から「胸が小さい事に関する愚痴」を電話で数時間語り続け
られ、非常に疲れた事があった。そのことから、「胸の小ささを気にし過ぎる女性」には
辟易とするようになった。軽くコンプレックスを持っている女性には萌えを感じるが、
あまりにコンプレックスを抱え、それに振り回されている女性はウザいだけで好感を
持てない。そういう意味では「適度にあった方がいい」と結論できる。

女性から胸の大きさに関する相談を持ちかけられても男性に何ができるというのか。
当たり障りの無い慰めの言葉をかけるだけしか選択肢はない。女性の相談というのは
問題解決を探る質問ではない。ただ愚痴りたいだけで、共感して欲しいというオナニー
である。そんなオナニーを見せつけられ、襲いかかったら訴えられるとかは何の罰ゲーム
なのか。胸の大きさの「相談」を持ちかけられ、「オレは気にしないからやらせろ」と
言えない「善良な男」に対して、女性は「酷い事」をしているという自覚を持ったほうが
いい。pcfxはあまり善良な男ではないので、「オレは気にしてないからやらせろ」と
言うが、それを責めるのもやめてほしい。善良でない男としては誘ってるとしか思えない
からだ。

これでもまだわからない女性には例え話をしよう。男性が事あるごとに「オレ、チンコ
小さいんだよね」と延々語られたらどうだろうか。やはり最初は当たり障りの無い慰め
を言うことしかできまい。アクティブで怖いもの知らずの女性なら「どれ、見せて見ろ」
というかも知れないし、それが言えない女性はセクハラに耐えるか訴えるしかあるまい。
そう、これはセクハラなのだ。男は訴えることすらできないのだから、胸のことで相談
するのは直ちにやめるべきだ。相談を持ちかけるのは誘ってる場合だけに留めてほしい。
でないと善良でないpcfxのような男は誘ってると思っていらない努力をし、その努力が
空振りになって「無駄なことさせんなボケ!」と怒り、その後相談してきた女性に対して
嫌悪し、人間関係がギクシャクしてしまうのだ。

集団における人間関係で問題を起こすのはたいがい女性だ。その「問題」とは、大抵が
このような「女性のセクハラ」が原因になっている。「誘っているつもりはない」という
がそれは言い訳に過ぎない。本当に誘うつもりがないのであればセックスアピールを微塵
も感じさせない格好をするはずであり、性的な話題を振るはずがない。つまり、イスラム
女性のような全身を覆う服を着て、イスラム女性のように外出さえ控えるはずだ。その
ような努力もせずに、挑発的な服を着てフランクに性的な話題を男に持ちかけるのは
「ビッチ」と呼ばれても仕方のない行動であり、セクハラされようが痴漢に遭おうが
強姦されようが文句は言えないという「常識」を忘れた愚かな行為だ。売春婦でもない
のにそのような事をする方が間違っているのであり、売春婦のように見られたり扱われ
たりするのを覚悟するべきである。「ファッションだから」「流行りだから」というの
なら、ファッションで痴漢されても、流行で強姦されても文句は言えない。

さてこのような話をすると「襲う男が悪い」という意見も出てきそうだが、それは完全に
間違っている。本当に間違っているのは「性倫理」のほうであり、実際は男も女も
間違ってはいないのだ。男性の性とは準アクティブであり常にオフェンシブなものだ。
そういう体と脳の構造によって本能に強制されているのであり、男性の心理や精神が
悪いのではない。逆にその煮えたぎる本能を常に抑制しつづけるのは、実は大変な負担に
なっているという事を女性はあまり理解していない。もしその本能を責めるのならば、
ほとんど受動的でディフェンシブな女性の性の「やる気の無さ」や「保守的さ」も責め
られてしかるべきであり、それが平等だ。その不平等さは社会の性倫理にあり、一方で
女性の開放や社会参加を進めながら、一方では子供のように責任感を免除する。そんな
片手落ちでは、女性は脱いでいいのやら着込んでいいのやら迷ってしまうだろう。
だから本来は女性は間違ってないのだ。無論男性も間違ってはいない。

ヨーロッパで抗議運動をする女性が「トップレス」で抗議する事がよくあるが、これも
「脱いでいいのやらわるいのやら」という社会風潮に抗議しているわけだ。脱ぐことに
よって「ハッキリせえや!」と言いたいのだ。この抗議は非常に正当であり、pcfxも
大変に喜ぶ抗議方法だ。「おっぱいまるだし」という行動はセックスアピールを
煽りながら、逆に「おっぱいまるだし」はセクシーではない普遍的な姿だと主張する。
男性は平気で胸を出しているのに、なんで女性はいけないのかという抗議だ。全く正しい
し、本来は「まるだし」にするべきだと強く頷ける。未開民族の女性も常に「おっぱい
まるだし」だが、強姦や痴漢やセクハラが部族で蔓延しているわけではない。逆に
婚姻における純潔の方が重要視されている。

では、現代の性倫理のどこが間違っているのだろうか。このことを述べるには、人間が
どこまでを性の対象とするべきかの枠組みを定義する必要がある。性行為とは生殖行為の
事だが、生殖可能となった時から生殖不能となった時までが行為の対象年齢となる。
個人差はあるが女性なら10歳から50歳前後あたりだ。人間は嗅覚が弱いので、女性に
生理が来ているかどうかは匂いではわからない。フェロモンには反応しているのかも
しれないが、ここではそこに言及しない。匂いでわからないので、言語や観察や推測に
よってそれを計るしかない。「あなた生理はもう来ましたか?」といちいち聞いて回った
り、いきなりパンツを下げて「ふーむ」とか観察したりするのは多少無理があるので、
大体の年齢から推測せざるを得ない。よって10歳から50歳あたりを「生殖適齢期」と
定めるのが適当だろう。

ロリコンも熟女マニアも合法である。もちろん傷害は性倫理より優先されるべきなので、
男性のサイズも勘案せねばなるまい。平均よりも小さい人は低年齢でも可だが、大きい
サイズの人は下限年齢が上方修正される。これは定期的な身体測定によって公式に許可証
を出すべきであり、「あなたのペニスは勃起時に長さ20センチ、太さ5センチなので
レベルBと認定し、25歳以上の女性、若しくは経産婦との性交のみ許可する」などの
許可証が国家に発行される。女性との性交前には許可証の提示が義務付けられ、許可証
を提示しなかった場合は強姦として処罰もありえる。
女性もサイズを計測され、女児も身体測定で膣口を広げられて傷害を負わないサイズを
計測される。「あなたの初潮は4ヶ月前に確認された。あなたの膣口の拡張負荷限界は
直径1.4cmなので、それ以下のサイズのペニスを持つ男性との性交を許可する」などと
書かれた許可証を国家保険委員会あたりが発行する。それを提示しないと処罰される。
各個人の性癖や好みによって手術でサイズを変更する事も認められる。ロリコン男性は
対象年齢に応じたサイズに縮小手術を行い、熟女マニアは拡張手術を行う。

さて、出産を前提とした生殖行為だが避妊も許可される。但しあくまで避妊は失敗の
可能性があるので、やはり出産を前提とした行為という原則が適用される。一般的に
生殖可能なら出産も可能だ。だが出産適齢期というものがあり、これは優生保護法を
強固にせねばならない。またそれには遺伝子の優劣も勘案しなければならない。また
遺伝子の多様性にも配慮が必要であり、重篤な遺伝病を定義し、それ以外は許可する事
になる。許可された以上は遺伝的な病気や傷害は個人と国家で責任を持って保護される
ので、国民皆保険制度は肯定され、より充実される事になる。つまり税金から捻出される
のでその分増税になる。だから出産に危険性のある生殖行為は節税の為に認められない。

出産が困難とされる場合は生殖行為許可も降りない。だからサイズ的に適合する場合
でも、出産困難の場合は許可されない。いくら早く初潮が来ても体全体のサイズが一定の
大きさになるまで許可されない。また高齢者の場合、高齢出産や遺伝子の機能低下など
による障害児出産の回避という事から、一定年齢で生殖機能を停止する手術を行える。
手術を行わない場合は50歳前後で許可証が発行されなくなる。あくまで出産が前提
だからだ。

男性の性を挑発する服装を公共の場で着用する場合、セクハラや痴漢や強姦などの性犯罪
に対する防衛権は著しく剥奪される。裁判時、被告に大きく情状酌量が認められる。
「挑発する服装」に関しては挑発される側の性癖によって変わる上、時代と共に変化する
ものであるという特性から、大多数の原則的かつ普遍的性向であるという理由の元に
「露出の多い服装」という定義になる。「肩、二の腕、胸、腹、背中、性器、臀部、腿」
を露出する服装を公共の場で着るべきでなはないという事になり、もし公共の場に故意に
そのような服装をしてきた場合には「露出罪」という軽犯罪の扱いになる。

また、誘惑する目的でなく男性を挑発するような言動を行った場合は「挑発罪」という
軽犯罪として扱われる事になる。これは親告罪なので男性側から訴えが合った場合に、
一方的に男性側の主張を根拠に検分される。現在の「セクハラ」や「痴漢」と同じ方式
である。女性側は「挑発罪」に問われないよう懸命な努力をしなければならない。

「あの女が挑発する目線をオレに向けた。あれは誘っていたのだ」と男性に言われない
ように、公共の場では男性に目線を向けず、うつむいていなければならない。

「あの女、胸が小さい事をオレに相談してきた。あれは誘っていたのだ」と言われない
ように、身体に関する相談を男性にしてはならない。

「あの女、電車の中でオレに体を寄せてきた。誘っていたのだ」と言われないよう、電車
で絶対に体を接触しないように気を張っていなければならない。

「あの女がバレンタインにチョコをくれたのだ。誘ってきたのだ」と言われないように、
義理チョコなどを安易に配るべきではない。

挑発罪を親告された女性は警察に逮捕され、事情聴取される。どんなに「そんなつもり
ではなかった」と弁明しても無駄である。一旦逮捕されるとたちまちメディアに実名で
公開され、「またビッチが挑発」と見出しと写真が載り、「以前からやたら色目を使う
女だった。逮捕されて安心した」などの男性同僚のインタビューが掲載されるのだ。


まあこんなことくらいは、現在男性がされている事なので女性に反映されても当然の事
だ。これは女児にもオバハンにも婆さんにも適用される。

「この女児が自分からヒザに乗ってきたのだ。これは誘ってる」

「あのオバハンが自分で人前に脱いだのだ。誘ってる」

「あの婆さんが暑いからといって脱いだ。誘ってる」

これらも全部「挑発罪」の適用になる。女児の場合は責任能力はないが、それによって
セクハラや痴漢や強姦に発展した場合は被告は情状酌量を受ける。処罰は教育が至らな
かった両親に転嫁され、マスコミの取材に土下座して謝罪した上で、被告にも謝罪する
事になる。「ウチの娘が大変申し訳ない事をしました。私どもの教育が至らないばかりに
あなた様を挑発し、許可証提示のない性交をさせてしまった事を深くお詫びします」と
涙ながらにマイクに語り、その映像はネットによって世界中に出回るのだ。

許可証のある女児は自己判断によって性行為をする事ができる。但し判断能力が十分に
ないと保護者が判断した場合は、許可証を携帯して出歩かないように預かる事ができる。
だから許可証を持っていて性行為に同意した場合は強姦罪は適用されない。問題は
同意したかどうかであるが、他のあらゆる契約は書類を取り交わし、捺印が必要なのに
対して、性行為だけ例外というのはおかしい。性行為も書類に印鑑を押す契約書を
取り交わすのが正しい。

「私山田花子(以下甲とする)は、鈴木太郎(以下乙とする)と平成23年3月13日午後
7時15分より生殖を原則とする避妊による性行為を行うことに同意し、売春行為ではない
ので、この性行為による一切に金品の授受を行いません。また避妊失敗によって妊娠
した場合は、当該法によって堕胎、若しくは出産する事に同意します。乙の性行為許可
証を確認し、適正な相手である事を確認したしました。乙も甲の性行為許可証を・・・」

と、このような契約書に公証人役場で記入し、捺印して役場に書類が受理されたら、
今度は保健所や病院に出向いて性病の検査を行う事になる。検査結果がでるまでは
性行為は違法であり、お互いの検査結果を確認した上でやっと性行為を行える。また
相手が女児や男児であった場合、許可証はあっても後に責任能力についてトラブルに
ならないように、児童の両親に事前告知をする事が義務付けられている。

「私こと鈴木太郎はこの度、あなたがたの次女である山田花子(9歳6ヶ月)と、来たる
3月13日午後7時15分に性行為をする事になりました。必要書類のコピーを同封しました
のでご確認下さい。場所はお宅の次女の寝室で執り行います。必要な道具類は持参
致しますのでおかまいなく。また私の趣味により、山田花子に学校の体操着を着用させ
ますが、洗濯の際、その汚れについて詮索しないようにお願いいたします」

これを受けて両親は、本当に同意の上なのかを次女に問いただす事になる。性行為や
妊娠について正しい知識があるのかどうかを家族会議する。それでも同意であると
認めると反対する理由もないので、認定状を発行する事になる。

「今回の当家次女の性行為に関して、次女に十分な知識と同意がある事を確認しました。
また同封の書類も公的に認められたものであると確認致しました。ついてはこの度の
次女の性行為を認める事になりましたが、次女が低年齢であることと、初体験である
事から鑑みて、私ども両親の監督下で行うという条件を提示致します。性行為の邪魔は
致しませんが、万一次女が痛がるような事があった場合に行為の中止を提案する事を
ご承諾下さい」

こうして鈴木太郎氏は合法的にロリとの性行為を果たすことができるわけだ。両親が
横から「もうちょっとローションを足したほうが」とか「その体位だと挿入角度が」とか
多少うるさかったと思われるが仕方がない。



どうだろうか、これらの話はどこかおかしいようでもあり、正しいような気がしてこない
だろうか。全ては一定のルールの不在に起因し、一定のルールによって起こっている
不具合なのだ。そしてルールを徹底するととても面倒くさい事になり、許可証なしの
非合法性行為が横行するだろう。つまり現状と変わらないわけだ。

動物全般における性行為は行動では特殊なものであり、その扱いは「エラー」として捉えるべき
ものだ。動物は繁殖期になると「無駄な動き」をして求愛する。通常は捕食者に見つから
ないように鳴りを潜めるものだが、繁殖期だけはその危険を犯し動きまわり、鳴き叫び、
色彩を派手にして誇示する。人間も同様に、発情すると理性が飛んでしまい、冷静な行動
ができなくなり、判断を誤る。しかもオスは常に発情の準備下にあり、メスは毎月発情する。

人間に近い動物はメスの発情に触発されてオスが発情する。人間は着衣によってメスの
発情サインがわからないので、オスは常に「無駄な動き」をしていなければ機会を失う。
それを見たメスはオスが常に発情しているように見えるので、他の動物と同じように自己
の発情期以外は手痛く拒絶する。拒絶されたオスは混乱して、一層滑稽で哀愁を誘う
「無駄な動き」を繰り返すのだ。これが「人間の哀しさ」であり、「人間のマヌケさ」を
表している。常に着衣するようになってから、人間は「狂気のいきもの」になったのだ。


昔、21世紀には、人々は体にピッタリとした全身銀色のスーツを着るものと予想されて
いたが、見えない発情期に翻弄された22世紀の人類は、裸族に戻るだろう。服なんか
着ているからややこしいことになったのだ。22世紀、科学によって身の回りの温度が
完全にコントロールされる技術が確立されると服を着る必要がなくなり、最低限必要な
道具を入れるポーチなどを裸体にぶら下げて歩くだろう。また生まれる子供の保護が
保証される世の中になっているので、妊娠や出産における不安がなくなり、現在のような
法的疎外もなく気軽に性行為を行うことになる。生まれた子供は支援を受けながら自分で
育ててもよいし、国家に預けることもできる。原始共産制に近い制度となるだろう。
裸族で原始共産制だから、その様子はまさに原始人である。

科学に守られた原始人は、それでもまだ胸の大きさに悩んで「おっぱいをまるだしにする
かどうか」でモメているかもしれないが、それをグダグダと男に相談するのが女だ。
そして触ると怒る。そこは怒らずに「イヤ~ンまいっちんぐ」と言っておけば全て丸く
収まるのだ。

マチコ先生はこの世の真理であり、福音であり、女神だったのだ。

オッサンになるということ

2011年03月10日 | そのた
今現在10代や20代前半の人には、「オッサン」というのが格好悪く感じるだろう。
「オッサン」は社会的常識に縛られ、つまらない人間にしか見えないかもしれない。
pcfxもそう思っていた。

ところが実際にはオッサンの中身は若い人と大差ない。多少人生経験が長いので、色々な
事に飽きたり、面倒だったり、やる気がないだけだ。あと体も弱ってくる。

諸説あるが、人間の体というのは耐用年数50年程度に設定されている。50歳まで
生きる気力とか感性とか体力があれば必要条件を満たせる。なぜ50年かというと、
20歳くらいで子供を作り始め、2年に1人子供を作り、5人ほど子供を作って末っ子が
20歳になって自立すると役目は終了となる計算だからだ。この数字に生物学的根拠は
ないが、まあ社会的には大体こんなものではないか。多産は昔のことだが、昔といっても
たかだか数十年前までの話だ。

若い時には、自分が時代の中心にいると思っている。だがそれは「中心にされている」
という受動的な物だと気がつかない。オッサンが若者を中心に寄せているだけで、若者の
力や努力で中心にいるわけではない。若者はオッサンが作った社会の中で、オッサンが
作った物を使っているエンドユーザーに過ぎないのだ。それに気がついたとき、若者は
オッサンの入り口に立っているのだ。


若者はオッサンの前に立つとき、ウザさと恐怖を覚える。「コイツ何もわかってねえ」
というウザさと、「コイツ腹黒え」という恐怖だ。若者にとってオッサンは未知の領域
であり、オッサンにとって若者は「いつか来た道」だ。だからオッサンは、実は若者の
気持ちをだいぶトレースできる。だがそれに理解を示してやる必要など無いので、あえて
若者に同調してやらない。なぜなら、その若者の考えている事には抜けているものが
たくさんあり、全然真実に近くないとわかっているからだ。そんなものよりも、まだ
オッサンの判断の方がナンボかマシであり、だから若者に自分の常識を押し付ける。

もちろん例外は上にも下にもある。若者が素直に感心できる力をもったオッサンはいる。
その一方では、「一体今まで何を学んできたのだ」という、全く尊敬に値しないダメ
オヤジだっている。こういうパターンの人口分布は大抵ダイヤモンド型をしており、
極少数のエリートオッサンと、大多数のオーディナリーオッサン、そしてまた少数の
ステューピッドオッサンで構成されている。オッサンの分布は概ね社会階級で住み分け
ているので、もし若者の周りにステューピッドオッサンが多いとすれば、その若者の住む
あたりの社会階級は低いヒエラルキーに属しているといえる。早い話が周りのオッサン
のタイプがそのまま自分の階級だという事だ。


また、「年齢層」というカテゴリーから、元々脱落している人がいる。若い時から
オッサンのような精神をしている人がいる。若い時からぶっ飛んでいて、もう年齢とか
よりも深刻な問題があるタイプの人もいる。若いまま年齢だけオッサンになったような
人までいる。pcfxは若い時からオッサンで、そこに少しぶっ飛びが入っている感じだ。
小学3年生の頃、初めて自分で買った文庫本が遠藤周作の「ぐうたら生活入門」だった。
親に呆れられ、先生に心配された。友達は同情してくれたのを覚えている。


子供の時既に「年齢層」から脱落していたpcfxは、「ぐうたら生活入門」そのままな
人間に成長した。三つ児の魂百までというが、もう小学生の段階で出家の心境であり、
世捨て人の感性であり、諦観と妥協の精神構造だったようだ。

それでも10代の頃はやはり瑞々しい感性があり、目にするもの聞くもの全てを新鮮に
感じていた時期もあった。それが30代になると徐々に世間への関心が薄れ、大抵の事に
飽き、面白いことを探す気力もなくなっていった。ごくたまに面白い事に出会う事は
あるが、もうそれだけが生きる支えになっている。40代の今、別にいつ死んでもいい
ような気にさえなっている。ライフサイクルとしては既に終了し、消化試合をやっている
状態になっている。本当は小学生の時に終了していたのかもしれない。えらく長い消化
試合だ。

一方で万年躁病のようなオッサンもいる。友人の一人がそうなのだが、同い年なのに
pcfxとえらく違う。チョロチョロと動きまわり、ピョンピョン飛び跳ね、脊髄反射で
話し、感情の起伏が激しい。落ち着きを微塵も感じさせない。自分の年令を常に忘れ、
まだ高校生のつもりでいるようだ。ある意味羨ましいとさえ感じる時がある。恐らく
彼には消化試合という時期は来ないだろう。死ぬ瞬間まで手に汗握る本試合が続くのだ。
彼にとっては人生は短すぎ、pcfxには長すぎるのだ。


オッサンといっても色々ある。40代はまだヒヨッコだという人もいる。人間は60で
完成するという人もいる。何にしろ10代や20代はまだ若者だが、若者も確実に
オッサンになる。女ですら心理的にオッサンになるのだ。そしてそのオッサンの中身は
ひねた高校生のようなものであり、それが人類の精神の限界だという事に、その内に
気がつくのだ。

仏教で言うところの「解脱」はその限界を突破する事を指すと思われる。突破できな
かった高校生的な精神は、輪廻という補習を延々とやらされる罰ゲームであり、今生が
罰ゲームなのだ。補習ならまだいいが、落第すると下等動物からやり直しだ。pcfxは
コアセルベートからやり直したほうがいいのかもしれないが、それも面倒だから仏教は
信仰しないことにしている。

オカルト2

2011年03月10日 | そのた
「我思う故に我有り」とはデカルトの言葉であるが、その懐疑主義の限界とオカルトに
共通点があるとすれば、それはラカルトニューファイブが最高の歯磨き粉だという事に
相似する。その評価が相対的なものなのか絶対的なものなのかを懐疑し、最終的には
評価する主体そのものへの懐疑に到達するが、元来はシャレの話であったという結論に
達するに至って、実存主義が茶番だったというオカルト話に帰結する。

ニュートン物理の常識で言えば、死んだ人間の意識が肉体を離れて動きまわるなどという
現象は完膚なきまでに否定される。意識は脳内の化学反応であり、その化学反応を起こす
装置が機能停止した場合に起こるのは、意識という化学反応の停止だけだ。
カメラやマイクなどを接続したコンピュータで映像や音声を記録し、それらをファイルに
してデータを編集している場合に、マイクロチップ内や基板上での電子の動きが、電源を
切った状態で空間に再現されることはない。この理屈がわかるのなら幽霊などいないと
理解できる筈である。

ここまでは現代の常識であり、皆それを信じて生活している。ところがそれはあくまで
前時代のニュートン力学限定の話であり、量子力学という世界に踏み込むと、オカルトは
オカルトでなく「可能性のひとつ」に過ぎなくなってしまう。量子力学はオカルトを肯定
するためにあるわけではないが、「ありえなくはない」という可能性をオカルトに与える
という点では、オカルトを楽しむ一助と成り得る。

「ある人が壁に向かって歩いて行き、そのまま壁の向こうに消えてしまいました」という
オカルト話があったとして、ニュートン力学では「ありえない話」という意味でそれを
オカルトと呼ぶが、量子力学では「可能性の一部」という現実的に考慮するべき事案と
してオカルトと呼ぶ。1秒に1回壁に突進したとして、それを数百億年繰り返すと1回
くらいは、壁の素粒子構造の隙間と肉体の素粒子構造が完全にすれ違って通り抜ける
可能性があるのだ。極小スケールで見ると分子間や原子間や粒子間は隙間だらけであり、
壁を通り抜けられないという常識は「たまたま通り抜けられなかった」という可能性の
一つだったに過ぎない事がわかる。100個のサイコロを同時に振り、全部1が出る確率は
とても低いものだが、あり得ない話ではない。根気よく振り続ければ、いつかは全部1の
目が出る時がくる。だからといってギャンブルの際にそれに賭けるとすればバカであり、
誰もそんな確率を信用しない。それが現在の常識と呼ばれるものだ。

1kgの鉄球は1kgだ。だがそれがなぜ1kgの質量なのかはわかっていない。1kg
の質量が集まっているから1kgだというのなら、集まっていない質量の状態も勘案せね
ばならない。集まる理由なくして集まることはないのだ。空間のどこかに集まっていない
重さの元があり、そこに1kg分の「集まる理由」が存在するので重さが集まってくる。
その理由の条件を変えれば500gしか集まってこない場合もある。どう調べても1kg
分の鉄球なのだが、どう計っても500gしかないという状態があり得る。逆に集まる
理由を大きくすれば、1kgの鉄球が10kgになることだってある。また質量は動かし
にくさを指す言葉であり、動かしにくい理由は重さ以外にもいろいろと考えられる。

ところがその肝心の「重さの元」が見つからないので大変困った事になっている。どんな
に調べても見つからないので、重さとは世界の裏側にあるんじゃないかという人もいる。
また、質量はどこからか必ず湧いてくるくせに、その影響は非常に弱いのもおかしい。
まるでどこからか間接的に作用しているようなボケっぷりだ。見えないわハッキリしない
わで、これではまるでオカルトである。


これまでに人類が発見した物質はまだ一部だけだ。従って人類が知っている法則はおよそ
間違っているか、「近いけど惜しい」という程度のものだ。

幽霊が実際に存在するとして、幽霊が成立する仕組がなければならない。あらゆる物質の
結合・集合状況を記録する何かがあったとして、それが再現される仕組みがあるわけだ。
しかもそれは完全に再現されるわけではなく、儚く再現される。つまり不十分な再現力
しか持たない。また、その記録は、記録が終了した状態からも継続される。人間が死んだ
後にも、その人の人格の記録からその後の行動を継続できる仕組みだ。また幽霊は人間に
干渉してくる話が多い。その際に目が見えなくてはならず、耳が聞こえなければならない
のだが、肉体に依存していない状態で光学的・音響的に情報を受信できる何らかの装置が
備わってないといけない。また声を発するらしいので音波を発生する機関がないといけ
ない。これらが実体がない物質で構成されている。

それらを考えると、別次元に記録されている物質情報が我々の認知できる次元に不完全
ながらも再現され、未発見の物質で構成された肉体のようなものが死後に再構成されて
出現し、それは意識を持って人間に干渉してくるという事になる。またそれは恒常的な
現象ではなく、稀な頻度でしか起こらない。


まあ、あり得ない話ではない。確率的にはあってもおかしくない話だ。なにしろ人類は
まだ未発見のものが多いのだから。しかしその低確率な賭けに大金を張るのはバカの
する事であり、情報があまりにも不足しており、理屈がちっともわからない。そんな
あるのかないのかわからない事を心配する必要はなく、もしあったとしても、幽霊と
出会ってから考えれば十分だという価値しかなさそうだ。

今のところ人類のテクノロジーでは時間を無限に使えない。あらゆる可能性を追求し
尽くす時間はないのだ。その内に重力子を使って時空を制御する方法でも手に入れたら
たっぷりと時間が余り、あまりにヒマ過ぎて死にそうになるだろうから、その時のヒマ
潰しに幽霊の大研究ができるだろう。もしかしたら別の時空でそういう人が幽霊理論を
確立して色々と実験してる過程が、時空を超えて我々が見る幽霊になっているのかも
しれない。それもまた、あり得ない話ではないのだ。

あまりにもカバーする範囲が広すぎる量子物理はオカルトとサイエンスが混在する彼岸の
科学であり、あんまり不確実で不透明なものだからコペンハーゲンで魚料理でも食べて
忘れたくなるのも無理はない。実存の根拠は曖昧になり、魚を食べた後は歯磨きでも
してサッパリしたいのが人情というものだ。

オカルト

2011年03月09日 | そのた
pcfxは基本的に宗教を信仰する気など全くない。

が、無意識に信仰してしまっている側面はある。おみくじで「凶」が出たらイヤな気分に
なるが、それは陰陽道にいくらかの価値を認めている証拠だ。五行説などは未発達な科学
に過ぎないのだが、それでも暦に書いてあったり、冠婚葬祭の日取りに影響していたり
などの影響を子供の頃から受けていると、理性では否定できても感情は受け入れて
しまっているので、自分の人格の一部になっている事を認めざるをえない。

宗教を信仰するつもりもないのに神社仏閣は大好きであり、そこでの作法を忠実に守って
いる。オカルトを信じる人を鼻で笑っているくせに、怖い話が大好きだ。

科学の法則を自分の根拠としながらも、その科学は「仮説」の上に成り立っている物だと
いう現実に目を背け続ける。偉そうに「それはこのような物理法則による現象だ」などと
説明しながらも、その「法則」とやらは「今現在の仮説」に過ぎないという注釈を毎回
言い訳のように付け足すのだ。



家にはよく「エホバの人」が来る。「神と悪魔が」という話を毎度毎度飽きずに言って
くる。話を聞いていると、「この人ホントに聖書を読んだことがあるんだろうか」という
レベルの内容なので突っ込んだ質問をすると、「その聖書は偽物だ」とか言い出す。
まあ聖書は種類が色々とあるから、どれを根拠とするかは信仰次第なのだが、それに
してもお粗末な話しか出てこない。

創価学会」の人もよくインターホンを鳴らす。彼らもエホバと同じで、あまりにも
お粗末な仏教解釈で笑わせてくれる。全然本を読んでおらず知識が浅い。他の宗派の
事を全然知らないくせに「仏教の真髄が」などと軽口を叩く。

「浄水器」の販売員も訪ねてくる。「塩素が」「鉛が」「健康が」とよくしゃべくるが、
濾過構造の素材精度について具体的に語れる者など皆無であり、「大変良い物らしいから
水道局に売り込みにいったらどうか」という提案をすると涙目で帰っていく。

他にも色々な人がやってくるが、この人達に共通しているのは「よくわかってない」と
いう事だ。わかってない物を売付けに来るのだから「わからず屋」だ。よくわからない
物は、わかってない人以外は買わない。つまりわかってない人が、わかってない人と
取引する商売なわけだ。宗教も同じで、わかってない人が勧誘し、わかってない人が
入信するのだ。勧誘や販売で訪問してくる人は全員「バカ」だといえる。

物理学者が自分の研究を持って住宅を一軒一軒回って説明して回る事はないし、販売に
値する商品は訪問販売しなくても小売店で売れる。皆が価値を認める放送なら訪問集金
する必要などなく、良い新聞なら景品をつけて押し売りしなくても購読する筈だ。もう
家に来た時点でそれは「バカ用」だ。バカにされているのだ。


そんな事はわかっていても、宗教の集まりに顔を出してしまう人はいるし、浄水器を
買ってしまう人がいる。新聞を取ったり電波の押し売りに金を払う人がいる。彼らは
「バカ」だが、同時に性善説の人でもある。「まさか騙さないだろう」という人間関係の
オカルトを信じており、信じたくなくても無意識で信じているのだ。

何を信じるのも個人の勝手だが、「人はなぜ信じるのか」という根本的な事を一顧だに
しない人がいる。人間には自分の周りで起こっている現象をパターン化する事により、
自分に有利な判断をする知能がある。動物実験における「条件付け」と同じだ。
どのような条件付けをされて来たかが「オカルト」になる。個人の数だけパターンが
あり、それは個性そのものだ。だからオカルトがない人はいないといってよい。

ネズミがエサを出すためにボタンを何度もカタカタ押すのも、ホーキングが膜宇宙を語る
のも連続した行為だ。その過程に宗教や訪問販売や出会い系や押し売りなどがあるだけ
で、本質的にそれらは全て「バカ」に集約される。生物全てに共通する行為であり、知能
の実態は「マヌケ」だ。全ての基本に「バカ」や「マヌケ」を置くと、全ての問題が解決
する。我々人間が唯一自慢できる機能である知能が、必要でない余計な物だったと気が
つくにはもう少し時間がかかりそうだ。それまでオカルトを楽しむのも悪くはない。

尾張弁と三河弁

2011年03月07日 | そのた
pcfxは博多出身であり、少年期は博多で過ごした。わけあって名古屋に引越しして来た
のだが、家系の絡みで名古屋にも親戚が大勢いるので、幼少から「名古屋弁」には慣れて
いたのだった。

ところが実際に名古屋に来てみると、「名古屋弁」は「尾張弁」であることに気がつく。
愛知県全体が「名古屋弁」ではないのだ。愛知県東部は「三河弁」という、尾張弁とは
また違う方言で話す。pcfxは名古屋弁には慣れていたが、この三河弁は初めて聞いて
非常にショックを受けた。

他地域の方にとって「名古屋弁」はたぶん、「みゃーみゃー言う」くらいの薄いイメージ
しかないと思われる。だから尾張とか三河とか言われても違いなどわからないかも知れ
ない。pcfxも元は同じ立場だったからわかる。

が、三河弁はそれでもショッキングだったのだ。三河弁は語尾に「じゃん・だら・りん」
をつける特徴がある。「じゃん」は神奈川でも使われるのでお馴染みかもしれない。
「こないだ言ったじゃん」などと使う。「りん」は「たべてみりん」「やってみりん」
のように、「~してみて下さい」という使い方をする。問題は「だら」だ。

愛知県の東部と西部の境目あたりに引っ越してきて学校に初登校し、同じクラスにすごく
カワイイ女の子がいるのを発見した。色白で顔立ちが整っており、笑顔だけで周りを幸せ
にするタイプの顔をしていた。一発で惚れてしまったpcfxはラッキーな事にその子のすぐ
後ろの席に座ることになった。最初の授業が終わってその子が振り向き様にこう言った。

「博多って九州ダラ~~~~?」

天使のように可愛らしい顔なのに、その愛らしい口元から出た声は場末スナックの酒焼け
したホステス声で、おまけに語尾は「ダラ~~~」である。そのダブルショックは楳図
かずおの恐怖マンガ以来の規模で純情少年pcfxを襲った。一瞬耳を疑い、脳の補正回路が
今の記憶を必死で改竄しようとしていたが、ダメージが深刻過ぎて不可能だった。
そしてpcfxの一生のトラウマとなり、今でも三河弁女が多少怖い。

「だら」は「だよね?」の方言に過ぎないのだが、その響きは下品で粗野な印象を受ける
場合がある。さらに「ダラ~~?」と伸ばして使う事があり、粗野さが増す。

その女の子の声が低くてガラガラのハスキー声なのは体質でしょうがないし、尾張と三河
の中間地点の学校で三河弁を話すのも自然な事だ。そしてその天使の様な外観も本人の
責任ではない。しかしそれが渾然一体となって転校生を襲った場合、核兵器のような威力
をもつのだった。


親戚の名古屋弁に慣れていたつもりだったが、「机をつる」「なんだ~!」「ケッタ」
など、実際に生活してみないと聞こえてこなかった言葉に翻弄された。「机つって」と
言われても何のことかわからない。ロープで吊り上げる事かと思ったが、学校でそんな
事をするわけがない。掃除の時間に机に関して能動的なアクションがあるとすれば、
それは「机を持ち上げて移動する事」だけなので割とすぐ慣れたが、いきなり級友に
「なんだ~~!」と大声で言われたとき、質問されたのか確認されたのかまったく
わからなかった。この言葉は名古屋の子供が腹がたった時に発する虚詞のようなもので、
中学生くらいまで常用する。高校生くらいになると「っだ~~!」と略すようになる。
しかし他地域の者にとってはそれが何の表現なのかわからず面食らう。

そして「ケッタ」である。


「ケッタどこ?」

「・・・ケッタって何?」

「ケッタマシンの事だがや!なにいっとんターケか!」


さっぱりわからない。「ケッタ」は「ケッタマシン」らしい。マシンだから機械だ。
何かの機械の所在を聞いているらしい事はわかるが、「ケッタ」が何かわからない。
そして所在がわからないと「ターケ」という存在に変化するらしい。「ターケ」は
恐らく「田分け」の事であり、「バカ」を意味する農村古語だ。

まあ結局「ケッタ」とは「自転車」の事なんだが、なんでケッタと呼ぶのかは誰に
聞いても知らなかったし、共通語だと思っているようだ。しかし一方で「自転車」や
「チャリ」も通じる。pcfxはこの「ケッタ」という言葉には強い抵抗があり、未だに
一回も自転車の事を自ら「ケッタ」と呼んだことはない。「チャリ」なら抵抗ないのに
「ケッタ」は物凄い抵抗がある。なんか絶対に呼びたくない。



愛知県に住んで30年も経っているのに、全然愛着もわかないし、方言も好きになれない
でいる。まあ言葉は多少影響されて訛っているのだろうが、愛知の方言が好きになれない
ので標準語で喋るようになってしまった。かといって嫌いでもなく、他所に行きたいと
いう強い衝動は湧いてこない。30年仮住まいしているような感覚だ。博多には郷愁を
感じないでもないが帰りたいという感情もない。行き場所も帰る場所もないような
宙ぶらりんの人生だから海外やマンガやゲームに逃げたかったのかもしれない。

そう思うと地元意識の強い人が羨ましくもあるが、その地元意識などのしがらみから
自由なのだと考えると、これでいいような気がしなくもない。どの道浮き草のような
人生で、親の都合で子供の頃から転校が多く、旅人のような生活だった。


天然

2011年03月05日 | そのた
「天然」と呼ばれる人々がいる。「天然ボケ」の略だ。今までpcfxの周りには割と多くの
天然の人がいた。今も若干いる。

この「天然」は「先天的」という意味であり、病気や老化で後天的に発症するものと区別
している。より正確な表現である「先天ボケ」ではなく、「天然ボケ」と呼称する理由は
色々考えられるが、医学的な指摘よりも宗教的な意味合いを込めているのではないかと
考える。「天然」とは自然状態で産み出された物を指し、日本神道においては「神」との
繋がりが強い。その意味から、「天然ボケ」は「神の仕業」もしくは「神に愛された」
という肯定的な捉え方をすることがあり、そういえば「天然ボケ」は、からかわれながら
も憎まれる事はない。人智を超えた存在価値のゴッドエラー、それが「天然」だ。

「ああコイツ天然だな」と感じる人には共通点がある。まず第一に人が良い。良すぎる。
例えば頼み事を断れない。第二に知識や常識がない。理解力よりも知識の量的な不足に
よっての判断力が低い。第三に頻繁な錯誤がある。言い間違い、思い違い、勘違いが異常
に多く、頭では正確な言葉を思い描いていても口から出るのは間違った言葉だったりも
する。第四に精神的に幼い。表現がまるで子供である。第五に体が強く、必要以上に丈夫
だ。pcfxの周りにいた「天然」は全てこの条件に当てはまった。

そして、もう一つ共通点がある。これは簡単に「天然」かどうか見分けるのにも役立つ
特色である。それは「嗅覚が敏感でそれに大きく依存している」という点である。
例えば食べ物を前にしたとき、真っ先に匂いをかぐ習性だ。新鮮かどうか疑わしい場合に
匂いを嗅ぐのは誰にでもあることだが、「天然」は何事においても真っ先に匂いを嗅ぐ。
そしてそれが臭いものであった場合、嫌悪とともに少し嬉しそうに「臭いということ」を
アピールするのだ。まるでそれが重要な情報であるかのように報告するのだ。

「天然」が神の選んだ子のように扱われる場合は、「人が良い」という部分がクローズ
アップされている。からかわれる場合は知識の不足や勘違いという特性を焦点にして
いる。愛されたり可愛がられる場合は子供っぽい部分がもてはやされる。それらは肯定的
な捉え方をされている例だが、同時に悪意がある人物にそれを利用される場合も多い。
頼みごとを断れないのを利用して借金をしたり借金を背負わせる、物知らずを利用して
宗教やねずみ講に勧誘する、勘違いを利用して騙したりバカにしたりし、憂さ晴らしに
使うなどだ。子供扱いして優越感に浸る者もいるだろう。

「天然」には「ほっとけないオーラ」が出ている場合も多いので、その付近には多くの
場合、保護者的立場の人がいる。特に女性は男が守りたくなる誘惑にかられる。また女性
にも母性本能で守られる。だから悪意のある者から常に保護されている場合が多い。
男の天然も同様だ。



通常、この世知辛い世の中では、人を疑わずにはおれないし、騙されない様に知識を
つけようという危機感を持たざるをえない。人間の「社会性」にはそのような気構えが
不可欠なのだが、どういうわけだか「天然」にはそのような気構えが希薄だ。つまり
社会性が欠けているわけだ。また、正確に記憶し、正確に再現する事が苦手だ。ここまで
をまとめると「社会性と記憶力に問題がある人」が天然になるようだ。そしてそれらの
問題をカバーするかのように「嗅覚や体力に特化した人」でもある。

こうして考えると、現代人よりも割と原始的な精神性に見える。もっと分かりやすく
言えば「子犬的な人」だ。保護欲をそそり、知能は高くないが嗅覚に優れている。
この特色が進みすぎていると知能の欠陥が目立ってしまい、障害と見なされる。その
ボーダーが「天然」であり、社会的な人間としてギリギリの位置に立っている人だ。

pcfxは「天然」の人が好きだ。意地悪く言えば笑わせてもらえる。だが一方で動物本来の
気安さに安心でき、ギスギスした疑惑だらけの人間関係を少しの間忘れさせてくれる。
天然が病気なのではなく、社会性の方が病的なのは分かりきった事だ。本来なら天然側
に安住したいのが人情だ。それができなくなっている自分を見ると、天然が羨ましく
思えてくる。しかしもうそれはムリなのだ。「先天的」ではないからだ。ボーダーギリ
ギリの所にいるのは実は自分の方で、ちょっと踏み違えば人外の境地に堕ちていく。
神にあまり愛されなかった者の末路であり、ゴッドエラーとは自分の事だったのだ。

人間がお互いに疑わなければならないのはゴッドエラーではなく、人間の過ちだ。その
過ちを正当化して常識としているのが社会性であり、それを盲信している狂信者が一般人
だとするなら、それは「先天ボケ」である。世の中は「先天ボケ」と「天然ボケ」の
2種類しか存在せず、人間は「ボケ」しかいない白痴動物だと認める事になる。いや、
実際そうなのだ。認めるしかあるまい。大脳が肥大化して収拾がつかなくなっている
半端生物だから当然だ。

漫才の「ボケとツッコミ」が面白いのは、「ボケ」という人間の暴走を笑う皮肉であり、
「ツッコミ」をしている役割は、優位にいるように見えて主体性を持っていない。
「ツッコミ」だけが正しいことを言い続けても誰も笑わない。「ボケ」あっての笑い
であり、多くの人が「ボケ」のタイミングではなく「ツッコミ」のタイミングで笑う。
ということは、ボケと同期している自分がツッコまれているのと同じだ。ツッコまれる
まで気がついてないという自虐を無自覚に笑っているのだ。ツッコミ側の人間ならば
次のボケをある程度予測できるのでボケられる前に笑いがこみ上げるはずだが、そんな
人は極稀れなのではないか。「ボケがボケを笑う」という証左だ。

あなたの周りにすぐ匂いを嗅ぐクセのある人物がいたなら、彼は天然である。神に愛され
ている分、あなたよりも恵まれた立場にある人だ。あなたがするべき事は彼を笑う事より
も、自分が踏み外してボーダーの向こう側に落ちないように気をつけることである。


ヲタとリア充

2011年03月02日 | そのた
まず「オタク」と「リア充」が対義語かどうかはともかくとして、ニュアンスは理解して
いただけると思う。

「オタク」の語源には諸説あり、江戸弁の「偏屈な求道者」を意味する「おたく」、
家にこもる者を指す「お宅」、主婦的二人称の「お宅」を子供が無判別に流用したもの
等が挙げられる。現在は「マンガ・アニメなどに夢中な人」という意味で使われる傾向
がある。

「リア充」という言葉は「現実的な生活が充実している者」という意味合いであり、
社会的身分、社交性、容姿、異性関係の豊富な経験などを合わせ持つ者を指す。また
そのような者は得てして現実主義者であり、人間的余裕に欠け情緒の幅がなく、表面的
なものであらゆる都合をつける、浅くて無知な傾向を持つ。本能的で原始的な事に
価値を見出す非文化的な側面がある。

「オタク」に主眼をおけば、その反対は「趣味や興味が散漫で外交的な性格を持つ、
マンガやアニメなどに興味を示さない人」になるが、これを一括りにする言葉が
見つからない。対象が幅広過ぎて絞れないのだ。

「リア充」には「充」の字があるので割と反対の言葉を作りやすい。「リア貧」だ。
「現実的な生活が貧相な人」である。社会的な身分が低い、社交性がない、容姿が極端に
悪い、異性関係の経験がない、などの特徴を、一つないし複数持つ人の事になる。


この二つの言葉は対義語ではないようだが、実際には対義語として活用されている。
ということは、「オタク」は「リア貧」の結果、なってしまうという認識を裏付ける。
社会的身分が低いからオタクになった、社交性がないからオタクになった、容姿が悪い
からオタクになった、異性経験がないからオタクになった、という、弱者や被差別者や
劣等感の避難所が「オタク」だという風潮なのだろう。
昔、被差別階級の人が、町人のやりたがらない仕事である動物の解体、死体処理、
死刑執行、革製品の製造、糞尿処理などを生業にせざるを得なかったように、オタクは
マンガやアニメという子供相手の幼稚なもので文化的生活を満足せよ、という構造だと
いう事になる。


これらは現実にそうだともいえる。実際「オタク」と呼ばれる人は社会的に尊敬されて
なかったり、他人と対等や優位な関係を築けなかったり、女にモテない顔や服装や体型
だったり、童貞だったりする人が多いのは確かだ。だからこれは完全に否定することは
できない。いろんな所を追われた結果「オタク」という河原に安住するしかなかったと
いう、「追い込まれ型」のオタクがいるのは間違いない。

しかし、それが「全員」ではないところに真実が隠されている。例外のある定義は完全な
定義ではない。法則とは呼べないのだ。つまりは「間違っている」証左だ。

定職があり経済的に恵まれたオタクはいるし、人間関係が幅広いオタクも、イケメンの
オタクも彼女がいるオタクも存在するのだ。それらを複数合わせ持つオタクもいる。
彼らは「リア充」の一員でありながら、自ら「オタク」の住むエリアへやってくる、
「飛び込み型」のオタクであり、「リア充世界」と「オタク世界」を自由に行き来する。


他のどんな事にも普遍的なことだが、自由に行き来できる事がより真実に近い認識を
持てる結果になる。現実での成功や充足を求めるばかりの者や、幻想での成功や充足に
ばかり現を抜かす者は両方間違っている。「リア充」も「追い込まれ型オタク」も
生育上の疎外からそうなるように強制されたもので、そこに冷静さや公平さという
選択の幅はない。「リア充」は、実は現実という価値観に強迫された「追い込まれ型
リア充」だったのだ。彼らに選択の余地などなかった。

心に自由がある者は、そのような偏見に囚われずに面白いと思ったものに飛び込んで
ゆく。つまらなかったらいつでも飛び出せる。二元論に執着せず、さっさと次の世界を
見つけてまた飛び込む。世界がなければ自分で作る。仲間が必要ならとっとと見つけ、
必要なければ孤独に戻る。女が欲しければ口説いて回り、飽きたら即ポイっと捨てて
フィギュアを愛でる。社会的地位というものの欺瞞や脆さを熟知しながら、そこはうまく
やっていくのだ。


「リア充」は、実は言われるほど充実はしてない。上には上がおり、上ばかり見ていれば
自分が底辺だ。「オタク」は実は半端であり、趣味も好みも本当はコロコロ変わる。
人間はそう簡単に執着を自分のものにできない。そう簡単に安住できない。誰にとっても
どこもが針のムシロだ。ではその苦しみは誰が作ったのか?

仏教の考え方に、「無頓着」という価値観がある。あらゆるものに執着を持たないのが
真実に近づくコツだという。最終的には「執着しない」という執着もやめるのだ。

「守破離」という言葉がある。最初は規律を守り、次にそれに反する事をしてみて、
最後にはその価値観から離れていく事が全ての道に共通する悟りだとする。

「リア充」とか「オタク」とかいう対立や嫉妬や執着や疎外から自由になるのは、人類が
有史以来一貫して追い求めてきた苦しみからの脱却と同じ問題だ。敵は「リア充」でも
「オタク」でもなく、苦しみを与える存在そのものだ。「罪を憎んで人を憎まず」で
あり、罪や苦の根源を探す旅に出よう。誰もが憩える楽園は、それを超えたところに
あるはずだ。


日本の差別

2011年02月25日 | そのた
ネットで日本文化が広がっているためか、ここのところ日本語が達者な外人が増えてきて
いるようだ。そして日本に憧れてやってくる外人も増えつつあるようだ。

この「外人」という言葉は、当然ながら「外国人」の呼称として使われているが、主に
白人に向けられている。アジア人や黒人も外人だが、その場合は「国名+人」と呼ぶ。
白人だけひとまとめに「外人」と呼んでも違和感がない。だから「白人=外人」となる。

また日本人が「外人」と呼ぶ場合、その対象は一時的に関わりを持つ「客人」として
扱われる。「仲間」ではなく「お客さん」だ。外から来て外へ帰っていく人だ。日本は
島国なので、陸続きでダラダラ気軽に出入りするのではなく、飛行機や船に乗るイベント
を介して特別な出入りをする。そこが大きな線引きになっている。

大航海時代や産業革命が白人の国で先に起こった為、先行者の優位性として白人有利な
世界になっているが、日本においても白人は優位なのか、日本を訪れた白人はそれを
体験する事になる。

人間というものは、自然状態で奔放に育てるとサルと変わらない行動をとる。知的な
社会生活を行う為に矯正されて「人間」になっている。この矯正の仕方が各国で違う。

日本人の社会規範は長い歴史と共に磨かれ、国際比較しても優秀な位置にある。その厳格
な社会規範を維持し、そのために矯正されたのが「日本人」だ。この矯正に失敗した者は
疎外され、「馬鹿」「無礼者」「ヤクザ」「不良」「軟弱者」「池沼」などのレッテルを
貼られて、「差別されて当然の者」として「いじめ」という差別を受けることになる。

日本式の矯正をされていない外人もこの疎外を受ける。但しそこには「日本に慣れてない
から仕方がない」という猶予が含まれる。日本に生まれ、長年日本で暮らしていながら
日本式矯正に失敗した者には厳しいが、来日して間がない外国人には「外人」という
身分を与えて処分を保留する。

「日本式の矯正でなくてもいいじゃないか、母国でキチンと躾は受けている」というのが
「外人」の反応だろう。しかしレベルを理解していない。日本の矯正は他国よりも
あまりにレベルが高いのだ。日本人でさえちょっと油断した家庭だと脱落するくらいだ。
キリスト教圏であれば、全員が修道士のような矯正を受けているようなレベルだ。

日本に定住する外国人は自然にこれを理解し、特に障害がない限りは、言語の習得と
共に矯正を受けていく。障害があるとすればそれは反日思想だが、日本が嫌いなのに
日本に定住するというのもおかしな話だ。それは極限られた国の人だけであり、日本
定住は法律で義務付けられていない。いつでも出ていけるのだ。いつでも出ていけるのに
出て行かず、住みにくい嫌いだ差別だと喚く人々は、日本人の価値観からすれば最低の
人間である。だからあの国の人々は嫌われ、馬鹿にされるのだ。


歴史的に優位な人種である白人は、自分が差別する側であることはあっても、「白人」
だからといって自分が差別される経験はない。例え大航海も産業革命も無縁だった
ような国の白人であっても、白人であるだけで世界的にステータスが保護される。
ところが日本ではそのステータスは通用しないばかりか、「ああ外人ね」の一言で
客人扱いされ、社会的な扱いの「処分を保留」されるという立場に陥る。これは
未開民族の集落にうっかり迷い込んで捕らえられ、半裸の原住民から珍しい動物を見る
ように扱われるのとは違う。明らかに日本人に上から見られ、野蛮な民族として扱われて
いるのだ。そして日本人の上から目線に憤慨し反論するが、冷静に考えると日本人の
方が優れていると思えてくる。

なんにせよ日本式矯正を受けないといつまでたっても「外人」という保留された身分
から脱却できないことを悟る。白人としての初めての人種的敗北であり、自分を無条件に
優位的立場と認識していた事と、日本人から受けている自分の扱いを相対化して反論も
できなくなる。優位な人種が優先されるなら、それは日本人が優先になると認めて
しまう事になるのだ。
これは白人に限らず、自分の民族が優秀だと思い込んでいる全ての外人に当てはまる。


さてここまで読んで、「少々日本を過信しすぎでは」「日本が何でも正しいと思うな」
「差別を正当化するな」「何を根拠に優れていると?」「やっぱり日本が悪いニダ」
などの感想をお持ちの方も多いと思うが、実は上記の全ては、日本に長く住んでいる
イギリス人の友人の発言をまとめたものだ。彼も白人である。



日本は差別が少ないという人がおり、日本人は差別的だという人がいる。それはどちらも
間違っており、「人類の差別の頂点にいる」というのが正解なのではないだろうか。
しかしその差別は何か特別な対象を設定したものではなく、「客観的に優れたもの」と
「それ以外」を分ける差別だ。日本は昔から、優れた物や人を取り入れてきた。自分たち
のやり方が時流に合わないと思えば社会構造も変えてきた。

日本人に差別されたと思うなら、それは自身が「優れていない」と判断されたという事に
なる。ただでさえ自虐的で自信のない日本人に「あなたは優れてないです」と言わせる
のだから、よっぽどの人なのかもしれない。

pcfxも外国で差別を受けた経験は何度もあるが、その差別意識の根源は生活の不満か
無知によるものだ。日本にもそのような差別はあるし、優秀な人ばかりではない。
差別は人類が持つ本能であり、誰にでもある感情だ。あるものを無いと言い張っても
何も解決しない。その差別を有意義な物に変換した結果が「優れた物」と「それ以外」
に分けるという日本式矯正ではないのかと考える。

それが正しいか間違っているのかは現時点では誰も判断できまい。しかしそれ以上の
差別の取扱い方を知る人もいないのだ。対案があるなら主張すればよいだけの話だ。

あ、「人類は皆平等」とかのファンタジー話はラノベにでも書いてください。

ちょっかい衝動

2011年02月23日 | そのた
道端でネコに出会うと、口から妙な音をさせながら手をひらひらさせてしまう。これは
人類に共通した衝動らしく、どこの国へ行っても同様の行動を取る人間がいる。
ネコや動物が嫌いな人はしないだろうが、それは嫌悪や恐怖によって行動が抑圧されて
いるだけだ。ネコが嫌いではないが、さほど気にならない人もいる。関心の優先順位の
上位に動物が登録されてないタイプだ。関心の上位に登録されているものが辺りにない時
には、このタイプもネコに興味を持つ。

野良猫は猜疑心が強いので簡単には寄ってこない。それは常識なので皆わかっている。
それでも「ちっ、ちっ、ちっ」などど謎の音を出してネコの注意を引き、指先を波打たせ
るように突き出す。目線をできるだけネコの高さに近づけながら、ゆっくり寄っていく。

このような人間の行動を、ネコがどう思っているのかはわからない。最初は警戒している
ネコでも、辛抱強く同じ行動を繰り返していると、そのうちに近くに寄ってくる。

この行動から、人間が呼んでいるのは理解しているようだ。そして行動は意味不明だが、
少なくとも危害を加える様子はないと判断している。しかしそれだけでは寄っていく理由
にならない。何かを期待できない限り、ネコが自分から寄っていく行動を取る必要は
ない。食べ物を持っている匂いはしないし、それを自分に与える理由を思いつかない。
顔見知りでもない人間がどんな理由で呼んでいるのか、論理的な結論には至らない。

論理や状況判断に迷ったネコは本能メモリにアクセスする。すると、遺伝子プリセット
メモリの奥底に、先祖が人間と暮らしていた事、人間はたぶん仲間だということ、なぜか
自分たちと遊びたがり、なぜかエサをくれる存在だというデータが引き出される。

野良猫が長い逡巡の後に寄ってくるのは、このような心的処理が行われた末であり、
人間に擦り寄ると「なにかいい事が起こる可能性が高い」という判断に至ったと考える
ことができる。

で、人間に近づいてみると、頭や顎や背中をなでてくる。もうやたらになでまくるのだ。
この「撫でる」という行為は、猿系以外の動物には難しい。大抵の動物の愛情表現は
「舐める」だ。だからいきなり「撫でる」という行為をしてくる人間の行動は、理解
しにくいので戸惑う。しかし痛いわけでもなく、どちらかというと心地よい感覚なので、
しばらく身を任せて様子を見てみる。

ネコ自身、興味をひく小さい動物にちょっかいを出すことは珍しくない。その際、手を
出して突っついてみたり、転がしてみたりする。そのような経験から、この大きな二足
歩行動物も、自分に興味を持ってつつき回すつもりなのだなと思う一方、それは遊ぼう
という誘惑なのだと理解する。観察してみると、この大きな動物は意外にどんくさい。
俊敏さは自分にはるかに劣るようだ。もし調子にのって危害を加えようとするなら、
いくらでも反撃できるという確信を持つ。さあ、やれるならやってみろ。

そういう心理状態なのかどうかは想像だが、初対面時のネコは大抵同じような反応だ。
哺乳類共通のプロコトルがあるように思える。



人間がちょっかいを出したくなるのは、犬・ハムスター・ウサギなどにも共通する。
しかし犬は人に慣れすぎ、寄ってくる可能性が高すぎて手懐ける達成感が少ない。
ハムスターは小さすぎ、行動パターンが単純すぎる。ウサギもかわいいがどうしても
「おいしそう」という感情が芽生えてくる。これらの動物には「自我」が足りない。
「自分の都合」で生きているという知能に乏しく、その主体性のなさが物足りない。

そこへいくとネコは自己都合で生きており、人間側がいろんな交渉を仕掛ける余地が
ある。つまり交渉が上手ければネコを攻略できる醍醐味や達成感があるのだ。



そのネコよりも達成感や醍醐味があるのが人間の赤ん坊や子供だ。大抵の者が赤ん坊を
見ると、その状況が許される限りにおいてちょっかいを出したくなる。

pcfxは、スーパーのレジなどで並んでいるときに、前にいる母親がおんぶした赤ん坊が
こちらを向いていると、「あやさなければ」という強い衝動にかられる。しかし周囲は
衆人環視であり、全くの他人である変なオヤジが手を出せば怪しまれる。そこで無言で
赤ん坊に「変な顔を見せる」という、消極的かつ変態的な行動に出てしまうのだ。
成功率は半々で、喜んで笑う赤ん坊もいれば、警戒した目で見つめ続ける赤子もいる。

最悪なのは、変な顔をしたまさにその時、母親が振り向いて目があってしまう時だ。
大抵は「ああ、赤ん坊を相手にしてたのね」という理解を瞬時に得られるが、人によって
は「ひっ!」と驚かれてしまい、それが赤ん坊に向けられたものだという事に理解が
及ぶまでに少々の気まずい時間を要する。

そんなリスクをおかしてでも、赤ん坊を見ると「あやさなければ!」という使命感が
何度でもこみあげ、スーパーのレジで変な顔をし続ける自分がいるのだ。



幼稚園児くらいまでの子供にも、似たような衝動を感じる。電車の中などで走りまわって
いる子供が近くに来て、pcfxをじっと見ている時など、「菓子など持ってなかったか」と
自分のバッグの中身をスキャンしてしまう。しかしこういうご時世のため、例え持って
いても子供に渡すわけにはいかない。そのくらいでペド犯罪者として逮捕されることは
ないと思うが、その菓子の成分がどうとか、アトピーがどうとか、知らない人に物を
もらったらどうとか、そういう厄介な拒否を受けたくないからだ。

そのような行為が許される国へいくと、pcfxは子供に菓子を与え、ヒザに抱え、絵を
書いたりおもちゃで遊んだりして、際限のない子供の無限要求に全て答える。そうする
と親にも感謝され、子供も満足し、自分のちょっかい衝動も満たされるのだ。誰も損を
しないすばらしい環境だ。


人間の子供も小動物も、このようにちょっかいを出したくなる衝動を喚起させる。
しかし人間の子供はもう阻害されており、最近は外をフラフラしてる飼い犬も
見かけない。そういう心寂しい世の中で、唯一道端にいるヒマそうな高等哺乳類が
野良猫だ。

今日も駐輪場でpcfxのバイクのシートに我が物顔で寝そべっている。こちらを見ているが
降りようとする気配はない。ゆっくり近づくと徐々に体勢を変えるが、バイクにキーを
差し込んでもまだ降りない。明らかにどこまで許されるのか試している。セルモーターを
回してエンジンがかかると驚いて飛び降りるが、近くでまだこちらを見ている。

本当はそのネコを手懐けていつまでも遊びたいが、用事があるから出かけるのだ。
ネコは自分の寝床を奪って走り去るpcfxを見送っている。寝床が発進するってどういう
気持ちなんだろう、と想像しながら、まだネコに未練を感じているpcfxだった。

海外の反応

2011年02月14日 | そのた
日本人は、海外から自分達がどのように見られているのかを非常に気にする民族だと
いわれている。
気にしたはいいが、それから日本人はどうしたのか。

「変だ」と言われてそれを直そうとしたかもしれないが、実際のところ今でも日本の
多くの人々や物事や製品について「変だ」といわれ続けている。この結果を見ると、
評判を気にするが変えるつもりはないようだ。

「変だ」と言われて反論した人もいたかもしれないが、日本人が自らの文化を押し付けた
という話も聞かないし、そもそも意識的にやった事なのかもあやしい。割と自然体で
やったことが「変」なのであれば、反論する根拠も希薄だ。

「変だ」と言われて調子に乗ってその傾向を増強しているようにも見えない。ただ普通に
やってきた事を、普通に続けているようにみえる。

「おもしろい」「かっこいい」「美しい」「優れている」「かわいい」などの賞賛を
受け、日本人は喜ぶ。しかしその賞賛は国内事情のなりゆき上そうなった結果であり、
元々は外人ウケを狙って作ったものではない。そしてそれからも淡々と国内需要に
合わせたものを中心に作っていく。ついでに外国仕様のも、ちょっとつくる。


このように見ると、日本人はとりあえず海外の反応を気にするが、「反応を観察する」
というエンターテイメントにしているだけのようだ。反省するとか改変するとか、
増長するとか国際基準にするとか、そういうアクションは希薄だ。日本をほめられると
嬉しいが、外人の目にどう写っているのかを知るとそれで満足して終わる。このような
反応を続けた結果、日本はますます「変」になっていく。良かれ悪しかれ。


マンガ・アニメ、自動販売機、低単価サービス業の接客、入浴習慣、衛生環境、
電車関連、自動車バイクなどなど、世界中のよいものを全部集めてそれを高品位にして
再生産した結果、日本は世界で一番楽しくて便利で心地よいもので溢れるようになった。

しかし、その影には、世界一のクォリティを維持する努力がある。年間数万人が自殺
するほどの努力が強いられ、苦しくて不便で不快な生活を送っているのだ。
言い換えれば、安眠する方法を研究するあまり不眠になっているひとのようなマヌケさ
が現代日本の姿であり、高級マンションで高級家具に囲まれて餓死するような
本末転倒が日本の生活。これがわかっててやめられないのが日本人であり、そこを
外人から「変」だと指摘されているのだ。
しかし日本人は海外の反応をエンターテイメントとしてしか感じてないので、まさか
自分達が本当に「変」な事をしているとは思ってもみないのだ。


その一方で、仕事の途中で寝ないように注意している夢を仕事中に見ている国の人や、
廃品の寄せ集めの家で楽しく適当に生きている国の人がいる。このような緩い幸せを
求めている日本人もいるが、日本という社会がそれを許さない。自分の背後の位置に
移動するのに、地球を一周して到着するような遠回りが好きなのが日本人の社会だ。
そしてその行動を指摘する他人の声を興味津々で聞きながらも、「なかなか面白い事を
言ってるな」くらいに受け取りながら地平線の彼方まで直進していく。



別に外国人に合わせる必要はない。「変」でいい。ただ、ちょっとだけ近道を許す
余裕があれば、日本はもっと豊かになるはずだ。いや、だからといって最短距離を
割り出すために全部の道を調べようとするんじゃない。そういう事じゃないから。

疎外のゆくすえ

2011年02月11日 | そのた
ドラえもんの「独裁スイッチ」は見えないところで完成が近づきつつある。

人間が作った制度や技術はいろいろなものがあるが、その多くが共通して持っている裏の
性能として「疎外」がある。

人類が無意識に求めるのは自我の際限ない肥大であり、自分を思ったとおりの存在に認識
できる能力だ。しかし現実は思っただけでは能力が向上しないので、「思い込んでる人」
に過ぎなくなる。この能力の向上を助けるのが制度や技術だ。
制度や技術が発達していくと、やがて自分が思った存在に即座になれるようになる。

「俺、超強くて、超モテて、超リッチになりてぇ」

そう思ったら、その能力が即座に身につくのだ。
で、それを願う人は山ほどいるだろう。すると矛盾が生じる。超強い奴が10億人いると
特別強い存在ではなくなってしまう。超モテる10億人の男に割り当てられる女性が
足りなくなる。超リッチな10億人がインフレを引き起こす。

その結果は量的不足であり共存の矛盾である。

そこで、共存しなければよいという事になる。一人につき一つの宇宙を与えれば、個人が
どこまで超人になっても宇宙の範囲内でOKとなるのだ。

が、時空としての宇宙を一人ずつに与えるわけにはいかない。宇宙を認識する最小構成を
どうにかすれば安上がりだ。そこで脳を騙す機械を作ることになる。
その機械によって個人の感覚を全て騙せれば、どれだけ自我が肥大しようと問題なく、
だれにも迷惑をかけず、どこまでもいい気になって生きていけるわけだ。これが人類が
求める幸福の行き着くところだ。これを作るための基礎技術や試作品を、人類は延々と
開発し続けているに過ぎないのだ。

「高級温泉宿に行ってうまいもん食ってのんびりしてぇ」しかしそんな金も時間もない。
TVのそういう番組で芸人が代わりに行く→行った気になる

「超美人とやりまくりてぇ」しかしモテない上金もないのでAV見る→やった気になる

「宇宙船とか操縦して派手に戦いてぇ」しかし車の免許ももってないのでゲームする
→戦った気になる

このような疑似体験で済ましているが、テレビを見るにしても、ゲームをするにしても、
その間は画面に集中し、その中に自分を投影する事に脳の処理を最優先するために、
周囲との接触を一時断っているわけだ。

「一人でゆっくり寝たい」
「一人で気兼ねなく食事したい」
「仕事中も他人に邪魔されたくない」
「好きな時間に風呂にゆっくり入りたい」
「一人で好きに性処理したい」

一日中他人との接触を断つ事で、擬似的に自我を膨らませる事ができる。独身者が増える
のも当然だ。目的は自我の肥大だからだ。

この世には男と女の二つの性しかないが、生殖はともかく、性処理するだけなら単独で
済むし、性欲の自我も自分にカスタマイズできる。少子化するのも当然だ。生殖の恩恵は
時間が経たないとわからない上、自分に利するとは限らない。ぶっちゃけ自分が死んだ
後の世界がどうなろうが知ったこっちゃないのである。性衝動の眼前にあるのは性欲の
処理だけだ。

「どうしても次世代がいるってんなら精子や卵子くらいくれてやるけど、育てるのは
国とかでやってね。こっちは欲望満たすのでいそがしいし。」

それが皆の本音ではないか。

この話に嫌悪感を覚える人もいるだろうが、しかしそんなあなたが利用しているのも
自我を肥大させる制度やテクノロジーだ。残念ながらあなたの自我も無意識でパンパンに
膨らんでいる。


ともあれ、自我が膨らむ度に、人は疎外されていく。疎外感を味わっている人は、
よほど極端なところに住んでない限り、自我が肥大するという恩恵に預かっている
筈。逆に現代であまり疎外されていない人というのは、一番大事な目標が見えていない
愚かで遅れた未開な生活環境にいることになる。

「リア充」と表現される人がいるが、彼らは比較的疎外されていないようだ。人間関係
が幅広くフランクな性格のようだ。つまり自我が未発達で、現代人としては遅れた感覚
の持ち主。彼らをよく見てみよう。あまり深く物事を考えてないから、少々バカに見え
る。ペラペラで中身がないけど格好だけは一人前。目先しか見えてないように感じる。
皆さんは彼らを羨みながら、どこか軽蔑してなかっただろうか?これがその答えだ。
「リア充爆発しろ」は羨ましいからという視点のみで語られるが、実際は「下等人類は
滅びろ」という意味合いを含んではいないだろうか。

彼ら「リア充」が人類の目標である自我の肥大路線から外れ、未だ現実での充足で問題
を解決できるという妄想を持っている原始人だから愚かしくみえるのだ。
先も書いたように、現実世界で力を持ったり力を振るったりすると、他の人が迷惑したり
力がぶつかって思うようにならなくなり、物量が足りなくなり、世界と可能性が閉塞して
いくのは自明だ。今必要なのは自我を肥大させる方法を探り開発していくことであり、
その代償として疎外感に耐え抜くことなのだ。



話はガラっと変わるが、80年代中盤にロリコンブームというのがあり、同時に少年
同性愛マンガも密かなブームだった。それまで表立った恋愛像ではなく、紳士淑女の
密かで知的な楽しみ的な位置づけだったものが大衆化した時代だった。マンガや雑誌や
アニメが徐々に世間に浸透していった。ロリコンマンガの戦犯は吾妻ひでおであり、
少年同性愛マンガの戦犯は竹宮恵子だった。いや、別に犯罪者扱いしたいわけでは
ないし、pcfxは両方リスペクトしているが、この場合あえて戦犯と書いた。

この現象は、自我性欲の肥大と性の疎外が形になって現れたものだった。
よく一般人がロリコンを評する時に使う間違った認識に、

「大人の女性を相手に出来ないから少女に手を出す」

というのがある。これが見当ハズレだという事は今日では常識だが、では正解は何か。

「大人の女性には汚いところがあるから、汚くなる前のほうがより美しい」だ。

これは少年同性愛にも同じことがいえる。

「女は心身ともに汚いから、だったら少年のほうがキレイ」が本音だろう。


どう女性が汚いのか。別に身体的に昔より汚くなったわけではない。しかし女性は貞節で
清く美しくといった世情から、女性が本音を語り、性を開放する世情に変わったのが
80年代初頭だった。つまり「美しい人」の演技を女性がやめたので「汚くなった」と
認識されたのだ。これは男性に限らず、当の女性もそう思ったからこそ少年同性愛の
マンガが売れたのだ。美しいものが愛され、醜いものが愛されないのは摂理だから
仕方がない。女性は人間的自由を得て、女性的な美しさを捨てたのだ。しかしそれは
女性自身も望んでなかった変化だったということがわかる。

無論、性的な趣味は個人差があるので、現在でも大人の女性や熟女好きもいるだろうが、
もうそろそろ、それは変態趣味として扱われる日がくると思われる。なぜかといえば、
大人の女は疎外されている存在だからだ。女性声優やアニメキャラの男関係まで疎外
されているのだ。もう処女性のない女に人権はないといわんばかりの風潮ができつつ
ある。

そんなことはオタクだけだろ、という向きもあろうが、テレビも雑誌も大人の女性の
魅力を語っているのは、いまではオバサン向けのものだけになっている事実がある。
その大人の女性も、自称「女子」と騙り、自分の価値を幼く見せることに必死だ。
自分の成熟した性すら疎外して幼女化しているのだ。

この疎外の行く末は、自分以外の全ての存在の疎外であり、個人で完結する世界の到達
だ。その究極の目標に向かって、人々は日々独裁スイッチを押すのである。

おとうさんスイッチなど生易しい愛のスイッチでしかない。

誰が読んでるんだろう

2011年02月11日 | そのた
このブログは、pcfxのリハビリの為と、病気で記憶力が低下していたので、もし記憶喪失
とか痴呆になったときに、自分がどういう人だったのか思い出すために書いた。当然他人
に読んでもらう事も前提に書いているわけだ。しかしまだ記事の数が少ないのでどこにも
リンクしてないはずなんだが、毎日数百プレビューも見られているようだ。
誰がどうやってここにたどり着いてるんだろうか。ググってもそうそう上位に出てこない
と思うんだが。
しかも内容はマイナーな話題ばかりでエセサイエンス的ニセ哲学の擬似エッセイだ。


もしかして「ツイッターと連携」とかいう機能のおかげなのか。よくわからぬ。

ツイッターは前からなんだろうと思いつつ無視していた。「つぶやく」というのが
どうにも理解できず、つぶやいてどうすんだ?と価値がわからないままに。


先日友人とツイッターの話題。

「ツイッターって何に使うのかよくわからん」
「俺もわからん」
「おれもわからん」
「まとめブログとかで見るけど読みにくいよね」
「返信先の記事と返信記事が毎度ダブってるから混乱する」
「言いたいことあるなら2chかブログかメールでよくね?」
「だよね」
「チャットみたいなもんかな?」

という会話をしたところだった。

そんな中、今ではpcfxの心のよりどころとなったマンガ家kashmir氏のサイトを見た折、
「ついったー」という項目があった。kashmir氏がツイッターを使っているようだ。
「ちょうどいい、どう使うものなのかこれを参考にしよう」と、とりあえず見てみた。
結論を言えば、やっぱりわからなかった。とりあえず「フォロー」というのにkashmir氏
を入れてみたが、見えるのは彼の散発的なつぶやきのみで、前後の情況がわからない。
返信というのをしてみたものの、果たして見てもらえたのかスルーなのかもわからない。
友人が誰もツイッターをやってないので、自分をフォローしてもらうことも実験して
みることもできない。

そんなわけで、今現在はツイッターの使い方がわからないままになっている。


あと、kashmir氏のツイッター文の影響で、自分の文章にもひらがなが増えてきた。
いちいち律儀に漢字に変換しなくてもいいような気がしてきた。彼は麻薬だとわかった。




pcfx

2011年02月09日 | そのた
もう長いこと使っているハンドルネームがpcfxだ。

ご存知だとは思うが、「PC-FX」は昔NECが作っていたゲーム機の名前だ。
その当時、SEGAがサターン、SONYがプレステを発売し、ポリゴンでゲームが遊べる
時代を築いたものだった。
PC-FXも、当初はポリゴン機能を搭載する予定だったが、チップ製造を任されていた
ハドソンが納期に間に合わず、ポリゴン無しで発売することになったらしい。
そして価格は予定通り5万円弱。そんな残念極まりないマシンがPC-FXだった。

ハードウェアの決定的な敗北にめげず、「アニメ戦略」という方向性を打ち立てたが、
世の中はポリゴン信仰が多数を占め、パソコンに比べると画質が落ちるというハードが
売れるはずもなかった。

その後、PC-98に接続して使うFX-GAというタイプのPC-FXが発売された。やっと搭載
できたポリゴンチップを使ってゲーム開発もできるという高性能版だったが、やはり
多数の人には需要がなかった。また、PC-FXは専用のSCSIケーブルで繋ぐと、パソコンの
外付けCD-ROMとして利用できたが、読み出しが標準速度だったため、当時既に倍速とか
3倍速のCD-ROMが出始めていた市場では需要がなかった。この失敗の連続から、かつて
PCエンジンで鳴らしたNECホームエレクトロニクスは解散する事になり、
コンシューマ事業から撤退する結果になってしまった。

全てが残念な結果に終わったPC-FXであったが、わたくしpcfxはそんな世間の冷たい反応
をものともせず、発売日にハードを購入、SCSIケーブルも増設メモリも購入、FX-GAも
購入、改造用にもう一台本体も購入し金色に塗装して「ゴールドFX」として悦に入って
いたものだった。

PC-FXは出ていたソフトもすごい。サードパーティが次々と見放していく中、NECはアニメ
や声優を意識した「アニメフリークFX」を発売。当時としては最強にニッチな需要を
開拓していた。内容は「脱力」という一言に集約される。MPが根こそぎ奪われる感覚。
しかし良作もあった。中でも「キューティーハニーFX」は往年のハニーファンだけで
なく、ハニーを知らない世代でも楽しめる作品であり、動画でストーリーが展開していく
様は、ゲームをやってるのかアニメを眺めているのかわからなくなる不思議なソフトで
あった。が、ストーリーを進めるのに必要なゲームがあまりにも稚拙であり、萎える。

「RETURN TO ZORK」というソフトがあった。PCゲームからの移植作で、
不思議な世界のアドベンチャーだ。が、あまりにも不思議すぎて大抵の者が脱落する。
往年のアドベンチャーゲームを踏襲するあまり、謎が謎のままおわるのである。
さらに登場人物のセリフの音質が悪い上クセのある話し方で、字幕が出ない。従って
何を言っているのか聞き取れないので、更に謎が深まっていくのだ。


このように、ハードもソフトも残念なPC-FXであった。FXオーナーならではの密かな
楽しみは、「この世界は日本でも限られた人間しか味わえない」という孤高の満足感
くらいしかないのだった。しかしそれでも、わたくしpcfxは、今でもこのPC-FXという
ハードを愛している。自分で部品交換してメンテしながら今でも電源を入れている。

今にして「PC-FXの魅力とはなんだったのか」と問われれば、それはやはり「ハードの
特殊性からなる異端ソフトを遊べる希少性」だったと答える。もし、PC-FXがもう少し
売れていたら、ポリゴン機能を持っていたとしたら、ここまで愛する事はなかった
だろう。同じようにダメだった3DOには、このあたりの魅力はなかったと思う。

このように少数派かつ異端なものが好きなpcfxは、中世ヨーロッパに産まれていれば、
速攻で異端審問官に引っ張られていっただろう。この時代の日本でよかった。