マンダレーは今回で終るが、骨董品にご興味のある方は一度訪ねてみては如何だろうか。掘り出し物の古伊万里があるかもしれない。中学からの友人に私が骨董屋で見た皿のことを話したことがあった。すると、彼は即座に「なぜ買ってこなかったのか!」と私を責めた。古伊万里の可能性がかなり高いとのことだった。日本の高級将校や、英国軍が持ち込んだと友人は云っていた。
最後になって恐縮だが、私がビルマに通った当時の背景を少し述べたい。ブランド物のバッグの業界に嫌気がさしたこともあって、消臭剤に手を出したのがまずかった。一時は広告費が安かったため、甲府のテレビ局からCM放送をしてかなりの業績を上げた。だが、売上代金は甲府の業者に持ち逃げされてしまった。その上、信頼していた高校時代の友人が責任を持つと云うので、藤沢の業者にも消臭剤を売った。而し、代金は一銭も回収出来ず、友人は責任を取ろうともしなかった。最初から詐欺を仕組まれたのではないかと疑った。この年だけで数千万円の被害を受けた。藤沢警察では詐欺の実証が出来ず、一年が経とうとする頃、担当刑事の班長が私のところにやってきて、自分が中に立つから何とか示談に応じて貰えないかと懇願された。詐欺の相手は「申し訳ありませんでした。金が入る予定があるので必ず払います」と約束した。示談を承諾するのは全額受け取ってからにする積りだったが、担当刑事は、自分が責任を持つから何とか年内に署名捺印をお願いしたいと何度も頭を下げた。間もなく裁判所から証拠書類が返却されてきた。先方にも同様な処置があったのだろう、詐欺師は約束の日に現れなかった。藤沢警察にはだんまりを決め込まれた。
会社はおかしくなり、経営が続けられなくなった。従って、ビルマとのカリンの商売はマイナスからの再スタートであった。ガソリンスタンドに洗車機用の洗剤とワックスを売りながらのビルマ通いだった。経済的には苦しかったが、ビルマと並行して行ったパプアニューギニアとの黒檀の取引で運よく救われた。そして、それを資金にマダガスカルとの取引は多少の余裕も持って行えた。

エー・スェー君(天・運の意だそうだ)。日本人が泊っていると聞いて私を訪ねてきた。「日本語を話したく存じます」と云われた。古風な日本語に驚いた。聞くと、子供の頃近くに住むおじいさんから日本語を習ったのだそうだ。どうやら終戦後もビルマに残留した日本兵だったと思う。日本刀を持っていたと云うので、将校であったのだろう。「大勢の部下を死なせ、自分が生きて日本に帰るわけにはいかない」と残留した日本の将校はエー・スェーの父親のバ・ギャンに何度も繰り返し云っていたそうだ。ビルマ戦線の成否をかけて、マンダレー王城内で日本軍は英国軍相手に死闘を重ねた。双方に多数の戦死者が出たと聞いている。エー・スェーの日本語の師匠は、この激戦地で闘い、生き残った将兵であろう。或いは他の激戦地からマンダレーにたどり着いたのかもしれない。「おじいさん」が動けなくなってからは、彼の母親がかなり長い間食料を運んで面倒を見ていたそうだ。非常にありがたいと感じた。エー・スェーはそのおじいさんの刀を自分が預かっているのでご遺族にお渡ししたいと云っていたが、その将校の名前も所属部隊も分らぬのでは手伝いようがなかった。彼は名前は勿論のこと、自分に関することは一切口にしなかったそうだ。
彼は日本語を忘れぬ為に、このホテルに日本人が来ると必ず訪ねるのだと云っていた。だが、日本人はめったに来ないし、来ても会ってくれない人もいたと残念そうに云った。気の毒になり、お茶を何杯もお替りしながら夕刻まで過ごした。

マンダレー空港の守備隊長のフラ・チン大尉。当時のマンダレー空港は田舎の停車場と変わらぬほどで、唯一違うのはビルマ空軍と共用していたことだ。今は「マンダレー国際空港」らしい。
搭乗時間には間があったので、売店の女の子の写真を撮っていると彼の方からやって来た。「此処で写真を撮っちゃまずいんですよ」と云われた。確かにビルマの旗のある場所だ。「そんな堅いこと云うなよ。大尉も撮ってあげようか?」と云うと、はにかみ、それでも嬉しそうに椅子に座った。彼の話では、下士官の定年は55歳だけど、将校は45歳だとのことだ。将軍は特別扱いで、定年は60歳である。同じ将校でも随分と違う。それでも一般の人より兵隊さんは恵まれているのではと水を向けると、「とんでもありません。今は官舎にいるからいいですけど、定年を二年後に迎えます。そしたら官舎を出なければならず、住むところもありません」と寂しそうに云った。将校がいいのは佐官クラスからだそうだ。まだ何か話したそうだったが部下が飛行機の到着を知らせにやって来たので仕方なく立ち上がった。

私が乗るプロペラ機と、その向こうにマンダレー空港の建物が見える。私が写真を撮っている間、フラ・チン大尉は彼の部下から見えぬように盾になってくれていたが、とうとう「そのぐらいにして下さい」と泣きが入った。
ビルマでは多くの人たちと知り合ったが、今でも心に残る一人がフラ・チン大尉である。話していて非常に温かい心を持った人であると感じた。彼が前線に送られることなく除隊したと聞いたときは、本当に嬉しかった。敵に銃を向けられても、彼なら撃てないだろう。
新木場の業者から無理に頼まれて1993年10月に久しぶりにビルマを訪れたが、1989年、1990年当時と何一つ変っていなかった。変っていたのは国営ホテルだけではなく民宿に毛の生えたような民間のホテルが認可されたことと、闇のチャットが以前とは桁違いに安くなっていたことぐらいだった。それと、ムー・ムーがラングーン大学に戻るのを諦めて結婚し、実家の母親と一緒にボジョー・マーケットの一角に宝飾店を開いていた。結構な繁盛ぶりだった。庶民の景気が多少は上向いてきたように感じた。だが、軍事政権は続いており、戒厳令もそのままだった。

それぞれに成長したミント・ウー社長一家。特に長男がこれほどたくましくなったとは驚きだった。

何かの記念の木だったとしか思い出せないが、ミント・ウー社長と長男がその木の前に誇らしげに立った。中古車ではあったが車を買い、長男を運転手にして仕事をしていた。
この一年後、ミント・ウー社長は長女を日本に語学留学をさせたいと云ってきた。私が全ての保証人になり、知り合いの日本語学校の校長に交渉して入学させた。正式な日本語学校の受け入れ証がなければ、ビルマからの出国は認められない。彼女は一生懸命に日本語を習得してビルマに帰った。

ムー・ムーとその母親の宝飾店。母親は以前よりだいぶ体重が増えたようだったが、高校生にしか見えなかったムー・ムーがすっかり若妻らしくなったのには驚かされた。
訂正とお詫び
ビルマ編「7」で、45チャット(Kyat)紙幣に使われている人物を「タキン・ポーラ・ジィー」と表記しましたが、実際は「タチン・ポラ・ジィー」が正しいことが判明しました。約20年前に日本に亡命した学識あるビルマ(ミャンマー)人に直接確かめてみました。Thakinと書いて、ビルマ人はタチンと発音します。また、ポーラ・ジィーではなく、ポラ・ジィーと呼んでいました。
「7」を既に訂正致しましたが、充分な調査をせず、ミャンマーに関連した民間団体の人に頼ってしまいましたことを深くお詫び致します。






上6枚は、先週の火曜日(11月19日)に写真仲間と埼玉県吾野の東郷公園に、紅葉を撮りに行った際の写真の一部である。暑い国々に通い続ける生活が終り、美しい日本の四季の移り変わりを感じられる現在が楽しい。
ビルマ編を最後までご購読頂き、感謝致します。次回からは、大の日本びいきのマダガスカルに移ります。日本の約1.6倍もある国土に1,200万人ほどしか住んでいません。政治形態は一応社会主義国家ですが、国民の誰一人共産主義だなどと思っておりません。自由勝手に振舞っています。楽しさがいっぱいの、太陽が北にある、赤道の向こう側の国へご案内致したいと思います。
最後になって恐縮だが、私がビルマに通った当時の背景を少し述べたい。ブランド物のバッグの業界に嫌気がさしたこともあって、消臭剤に手を出したのがまずかった。一時は広告費が安かったため、甲府のテレビ局からCM放送をしてかなりの業績を上げた。だが、売上代金は甲府の業者に持ち逃げされてしまった。その上、信頼していた高校時代の友人が責任を持つと云うので、藤沢の業者にも消臭剤を売った。而し、代金は一銭も回収出来ず、友人は責任を取ろうともしなかった。最初から詐欺を仕組まれたのではないかと疑った。この年だけで数千万円の被害を受けた。藤沢警察では詐欺の実証が出来ず、一年が経とうとする頃、担当刑事の班長が私のところにやってきて、自分が中に立つから何とか示談に応じて貰えないかと懇願された。詐欺の相手は「申し訳ありませんでした。金が入る予定があるので必ず払います」と約束した。示談を承諾するのは全額受け取ってからにする積りだったが、担当刑事は、自分が責任を持つから何とか年内に署名捺印をお願いしたいと何度も頭を下げた。間もなく裁判所から証拠書類が返却されてきた。先方にも同様な処置があったのだろう、詐欺師は約束の日に現れなかった。藤沢警察にはだんまりを決め込まれた。
会社はおかしくなり、経営が続けられなくなった。従って、ビルマとのカリンの商売はマイナスからの再スタートであった。ガソリンスタンドに洗車機用の洗剤とワックスを売りながらのビルマ通いだった。経済的には苦しかったが、ビルマと並行して行ったパプアニューギニアとの黒檀の取引で運よく救われた。そして、それを資金にマダガスカルとの取引は多少の余裕も持って行えた。

エー・スェー君(天・運の意だそうだ)。日本人が泊っていると聞いて私を訪ねてきた。「日本語を話したく存じます」と云われた。古風な日本語に驚いた。聞くと、子供の頃近くに住むおじいさんから日本語を習ったのだそうだ。どうやら終戦後もビルマに残留した日本兵だったと思う。日本刀を持っていたと云うので、将校であったのだろう。「大勢の部下を死なせ、自分が生きて日本に帰るわけにはいかない」と残留した日本の将校はエー・スェーの父親のバ・ギャンに何度も繰り返し云っていたそうだ。ビルマ戦線の成否をかけて、マンダレー王城内で日本軍は英国軍相手に死闘を重ねた。双方に多数の戦死者が出たと聞いている。エー・スェーの日本語の師匠は、この激戦地で闘い、生き残った将兵であろう。或いは他の激戦地からマンダレーにたどり着いたのかもしれない。「おじいさん」が動けなくなってからは、彼の母親がかなり長い間食料を運んで面倒を見ていたそうだ。非常にありがたいと感じた。エー・スェーはそのおじいさんの刀を自分が預かっているのでご遺族にお渡ししたいと云っていたが、その将校の名前も所属部隊も分らぬのでは手伝いようがなかった。彼は名前は勿論のこと、自分に関することは一切口にしなかったそうだ。
彼は日本語を忘れぬ為に、このホテルに日本人が来ると必ず訪ねるのだと云っていた。だが、日本人はめったに来ないし、来ても会ってくれない人もいたと残念そうに云った。気の毒になり、お茶を何杯もお替りしながら夕刻まで過ごした。

マンダレー空港の守備隊長のフラ・チン大尉。当時のマンダレー空港は田舎の停車場と変わらぬほどで、唯一違うのはビルマ空軍と共用していたことだ。今は「マンダレー国際空港」らしい。
搭乗時間には間があったので、売店の女の子の写真を撮っていると彼の方からやって来た。「此処で写真を撮っちゃまずいんですよ」と云われた。確かにビルマの旗のある場所だ。「そんな堅いこと云うなよ。大尉も撮ってあげようか?」と云うと、はにかみ、それでも嬉しそうに椅子に座った。彼の話では、下士官の定年は55歳だけど、将校は45歳だとのことだ。将軍は特別扱いで、定年は60歳である。同じ将校でも随分と違う。それでも一般の人より兵隊さんは恵まれているのではと水を向けると、「とんでもありません。今は官舎にいるからいいですけど、定年を二年後に迎えます。そしたら官舎を出なければならず、住むところもありません」と寂しそうに云った。将校がいいのは佐官クラスからだそうだ。まだ何か話したそうだったが部下が飛行機の到着を知らせにやって来たので仕方なく立ち上がった。

私が乗るプロペラ機と、その向こうにマンダレー空港の建物が見える。私が写真を撮っている間、フラ・チン大尉は彼の部下から見えぬように盾になってくれていたが、とうとう「そのぐらいにして下さい」と泣きが入った。
ビルマでは多くの人たちと知り合ったが、今でも心に残る一人がフラ・チン大尉である。話していて非常に温かい心を持った人であると感じた。彼が前線に送られることなく除隊したと聞いたときは、本当に嬉しかった。敵に銃を向けられても、彼なら撃てないだろう。
新木場の業者から無理に頼まれて1993年10月に久しぶりにビルマを訪れたが、1989年、1990年当時と何一つ変っていなかった。変っていたのは国営ホテルだけではなく民宿に毛の生えたような民間のホテルが認可されたことと、闇のチャットが以前とは桁違いに安くなっていたことぐらいだった。それと、ムー・ムーがラングーン大学に戻るのを諦めて結婚し、実家の母親と一緒にボジョー・マーケットの一角に宝飾店を開いていた。結構な繁盛ぶりだった。庶民の景気が多少は上向いてきたように感じた。だが、軍事政権は続いており、戒厳令もそのままだった。

それぞれに成長したミント・ウー社長一家。特に長男がこれほどたくましくなったとは驚きだった。

何かの記念の木だったとしか思い出せないが、ミント・ウー社長と長男がその木の前に誇らしげに立った。中古車ではあったが車を買い、長男を運転手にして仕事をしていた。
この一年後、ミント・ウー社長は長女を日本に語学留学をさせたいと云ってきた。私が全ての保証人になり、知り合いの日本語学校の校長に交渉して入学させた。正式な日本語学校の受け入れ証がなければ、ビルマからの出国は認められない。彼女は一生懸命に日本語を習得してビルマに帰った。

ムー・ムーとその母親の宝飾店。母親は以前よりだいぶ体重が増えたようだったが、高校生にしか見えなかったムー・ムーがすっかり若妻らしくなったのには驚かされた。
訂正とお詫び
ビルマ編「7」で、45チャット(Kyat)紙幣に使われている人物を「タキン・ポーラ・ジィー」と表記しましたが、実際は「タチン・ポラ・ジィー」が正しいことが判明しました。約20年前に日本に亡命した学識あるビルマ(ミャンマー)人に直接確かめてみました。Thakinと書いて、ビルマ人はタチンと発音します。また、ポーラ・ジィーではなく、ポラ・ジィーと呼んでいました。
「7」を既に訂正致しましたが、充分な調査をせず、ミャンマーに関連した民間団体の人に頼ってしまいましたことを深くお詫び致します。






上6枚は、先週の火曜日(11月19日)に写真仲間と埼玉県吾野の東郷公園に、紅葉を撮りに行った際の写真の一部である。暑い国々に通い続ける生活が終り、美しい日本の四季の移り変わりを感じられる現在が楽しい。
ビルマ編を最後までご購読頂き、感謝致します。次回からは、大の日本びいきのマダガスカルに移ります。日本の約1.6倍もある国土に1,200万人ほどしか住んでいません。政治形態は一応社会主義国家ですが、国民の誰一人共産主義だなどと思っておりません。自由勝手に振舞っています。楽しさがいっぱいの、太陽が北にある、赤道の向こう側の国へご案内致したいと思います。