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TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 マンダレー 5

2013年11月25日 | 旅行
 マンダレーは今回で終るが、骨董品にご興味のある方は一度訪ねてみては如何だろうか。掘り出し物の古伊万里があるかもしれない。中学からの友人に私が骨董屋で見た皿のことを話したことがあった。すると、彼は即座に「なぜ買ってこなかったのか!」と私を責めた。古伊万里の可能性がかなり高いとのことだった。日本の高級将校や、英国軍が持ち込んだと友人は云っていた。
 
 最後になって恐縮だが、私がビルマに通った当時の背景を少し述べたい。ブランド物のバッグの業界に嫌気がさしたこともあって、消臭剤に手を出したのがまずかった。一時は広告費が安かったため、甲府のテレビ局からCM放送をしてかなりの業績を上げた。だが、売上代金は甲府の業者に持ち逃げされてしまった。その上、信頼していた高校時代の友人が責任を持つと云うので、藤沢の業者にも消臭剤を売った。而し、代金は一銭も回収出来ず、友人は責任を取ろうともしなかった。最初から詐欺を仕組まれたのではないかと疑った。この年だけで数千万円の被害を受けた。藤沢警察では詐欺の実証が出来ず、一年が経とうとする頃、担当刑事の班長が私のところにやってきて、自分が中に立つから何とか示談に応じて貰えないかと懇願された。詐欺の相手は「申し訳ありませんでした。金が入る予定があるので必ず払います」と約束した。示談を承諾するのは全額受け取ってからにする積りだったが、担当刑事は、自分が責任を持つから何とか年内に署名捺印をお願いしたいと何度も頭を下げた。間もなく裁判所から証拠書類が返却されてきた。先方にも同様な処置があったのだろう、詐欺師は約束の日に現れなかった。藤沢警察にはだんまりを決め込まれた。
 会社はおかしくなり、経営が続けられなくなった。従って、ビルマとのカリンの商売はマイナスからの再スタートであった。ガソリンスタンドに洗車機用の洗剤とワックスを売りながらのビルマ通いだった。経済的には苦しかったが、ビルマと並行して行ったパプアニューギニアとの黒檀の取引で運よく救われた。そして、それを資金にマダガスカルとの取引は多少の余裕も持って行えた。


 エー・スェー君(天・運の意だそうだ)。日本人が泊っていると聞いて私を訪ねてきた。「日本語を話したく存じます」と云われた。古風な日本語に驚いた。聞くと、子供の頃近くに住むおじいさんから日本語を習ったのだそうだ。どうやら終戦後もビルマに残留した日本兵だったと思う。日本刀を持っていたと云うので、将校であったのだろう。「大勢の部下を死なせ、自分が生きて日本に帰るわけにはいかない」と残留した日本の将校はエー・スェーの父親のバ・ギャンに何度も繰り返し云っていたそうだ。ビルマ戦線の成否をかけて、マンダレー王城内で日本軍は英国軍相手に死闘を重ねた。双方に多数の戦死者が出たと聞いている。エー・スェーの日本語の師匠は、この激戦地で闘い、生き残った将兵であろう。或いは他の激戦地からマンダレーにたどり着いたのかもしれない。「おじいさん」が動けなくなってからは、彼の母親がかなり長い間食料を運んで面倒を見ていたそうだ。非常にありがたいと感じた。エー・スェーはそのおじいさんの刀を自分が預かっているのでご遺族にお渡ししたいと云っていたが、その将校の名前も所属部隊も分らぬのでは手伝いようがなかった。彼は名前は勿論のこと、自分に関することは一切口にしなかったそうだ。
 彼は日本語を忘れぬ為に、このホテルに日本人が来ると必ず訪ねるのだと云っていた。だが、日本人はめったに来ないし、来ても会ってくれない人もいたと残念そうに云った。気の毒になり、お茶を何杯もお替りしながら夕刻まで過ごした。


 マンダレー空港の守備隊長のフラ・チン大尉。当時のマンダレー空港は田舎の停車場と変わらぬほどで、唯一違うのはビルマ空軍と共用していたことだ。今は「マンダレー国際空港」らしい。
 搭乗時間には間があったので、売店の女の子の写真を撮っていると彼の方からやって来た。「此処で写真を撮っちゃまずいんですよ」と云われた。確かにビルマの旗のある場所だ。「そんな堅いこと云うなよ。大尉も撮ってあげようか?」と云うと、はにかみ、それでも嬉しそうに椅子に座った。彼の話では、下士官の定年は55歳だけど、将校は45歳だとのことだ。将軍は特別扱いで、定年は60歳である。同じ将校でも随分と違う。それでも一般の人より兵隊さんは恵まれているのではと水を向けると、「とんでもありません。今は官舎にいるからいいですけど、定年を二年後に迎えます。そしたら官舎を出なければならず、住むところもありません」と寂しそうに云った。将校がいいのは佐官クラスからだそうだ。まだ何か話したそうだったが部下が飛行機の到着を知らせにやって来たので仕方なく立ち上がった。


 私が乗るプロペラ機と、その向こうにマンダレー空港の建物が見える。私が写真を撮っている間、フラ・チン大尉は彼の部下から見えぬように盾になってくれていたが、とうとう「そのぐらいにして下さい」と泣きが入った。
 ビルマでは多くの人たちと知り合ったが、今でも心に残る一人がフラ・チン大尉である。話していて非常に温かい心を持った人であると感じた。彼が前線に送られることなく除隊したと聞いたときは、本当に嬉しかった。敵に銃を向けられても、彼なら撃てないだろう。

 新木場の業者から無理に頼まれて1993年10月に久しぶりにビルマを訪れたが、1989年、1990年当時と何一つ変っていなかった。変っていたのは国営ホテルだけではなく民宿に毛の生えたような民間のホテルが認可されたことと、闇のチャットが以前とは桁違いに安くなっていたことぐらいだった。それと、ムー・ムーがラングーン大学に戻るのを諦めて結婚し、実家の母親と一緒にボジョー・マーケットの一角に宝飾店を開いていた。結構な繁盛ぶりだった。庶民の景気が多少は上向いてきたように感じた。だが、軍事政権は続いており、戒厳令もそのままだった。


 それぞれに成長したミント・ウー社長一家。特に長男がこれほどたくましくなったとは驚きだった。


 何かの記念の木だったとしか思い出せないが、ミント・ウー社長と長男がその木の前に誇らしげに立った。中古車ではあったが車を買い、長男を運転手にして仕事をしていた。
 この一年後、ミント・ウー社長は長女を日本に語学留学をさせたいと云ってきた。私が全ての保証人になり、知り合いの日本語学校の校長に交渉して入学させた。正式な日本語学校の受け入れ証がなければ、ビルマからの出国は認められない。彼女は一生懸命に日本語を習得してビルマに帰った。


 ムー・ムーとその母親の宝飾店。母親は以前よりだいぶ体重が増えたようだったが、高校生にしか見えなかったムー・ムーがすっかり若妻らしくなったのには驚かされた。

訂正とお詫び
 ビルマ編「7」で、45チャット(Kyat)紙幣に使われている人物を「タキン・ポーラ・ジィー」と表記しましたが、実際は「タチン・ポラ・ジィー」が正しいことが判明しました。約20年前に日本に亡命した学識あるビルマ(ミャンマー)人に直接確かめてみました。Thakinと書いて、ビルマ人はタチンと発音します。また、ポーラ・ジィーではなく、ポラ・ジィーと呼んでいました。
 「7」を既に訂正致しましたが、充分な調査をせず、ミャンマーに関連した民間団体の人に頼ってしまいましたことを深くお詫び致します。












 上6枚は、先週の火曜日(11月19日)に写真仲間と埼玉県吾野の東郷公園に、紅葉を撮りに行った際の写真の一部である。暑い国々に通い続ける生活が終り、美しい日本の四季の移り変わりを感じられる現在が楽しい。

 ビルマ編を最後までご購読頂き、感謝致します。次回からは、大の日本びいきのマダガスカルに移ります。日本の約1.6倍もある国土に1,200万人ほどしか住んでいません。政治形態は一応社会主義国家ですが、国民の誰一人共産主義だなどと思っておりません。自由勝手に振舞っています。楽しさがいっぱいの、太陽が北にある、赤道の向こう側の国へご案内致したいと思います。


TDY, Temporary Duty ビルマ編 マンダレー 4

2013年11月17日 | 旅行
 カリンが買えなかった前回のマンダレー旅行の別れ際に、セイン・ウェイが私に提案してくれたのは「カリンのこぶ」の事であった。一般に樹木が病気になるとこぶが出来る。カリンのこぶは大きく、切り方によってはそのままテーブルになる。非常に高価なものである。先方の見積もりは新木場で事前に調べてきた金額をはるかに上廻っていた。かなりなめられた見積りだった。日本からこんな遠くまでやって来たのだから、よほど欲しい筈だ。この際儲けてやれと考えたのだろう。交渉の余地が全くない値の開きだった。セイン・ウェイは申し訳なかった、他の業者を紹介すると云ったが断った。此の業界は横のつながりが強い。各国共通である。表面は敵対していても、裏では常に情報交換をしている。

 ラングーンに比べ、マンダレーの物価はかなり安い。特にホテルのランドリーサービスの値段には驚かされた。以下の9点で15チャット(30円)だった。ズボン=1、半袖シャツ=2、Tシャツ=2、パンツ=2、ソックス=2足。
 空港のタクシーは60チャットだったが、街中を走るタクシーは50チャット、馬車は4人乗れば30チャットだが、3人までなら25チャットだった。全て闇のチャットを使用したので、2倍にして頂ければ円価が出る。

 朝の散歩のときに日本製の中型トラックの荷台を低くして、乗りやすいように改造したバスがやって来た。乗り降りは全て後ろから。ステップがついていたが、何かにつかまらないと無理だった。マンダレー・ホテルまでだと云って車掌に5チャットを払うと3チャットのお釣りとよれよれの乗車券をくれた。ほぼ満員だったが、乗り込むと先客が体を動かして場所を開けてくれ、吊り革を譲ってくれた。バスの中はビルマ人特有のナンナンベー(コリアンダー、タイのパクチーと同じ)が染みついた臭いが充満していた。バスが走りだすと幌の間から風が入り多少涼しくなった。次の停留所で停まると何人かの乗客の入れ替わりがあった。そして、その次の停留所ではステップから降りた車掌が私に向って大きなしぐさで降りるように伝えた。バス停はホテルの角にあった。ホテルは腰高のコンクリートの台に太めの金網のフェンスに囲まれていた。フェンスの中には南国の花と樹木がびっしりと植えられてあった。ホテルというより、広大な個人の邸宅であるとの印象を与えていた。

 余談だが、ラングーン空港で出国手続きの時、「えっ、これしか使わなかったのか?」と云われた。正規のチャットを使っているのだとの証明のために10,000円をホテルで両替をしていたが、今回はビルマに来るのはこれが最後だと決めていたので3,000円しか換えなかった。「チップとタクシーの分だけで、あとは全てクレジットカードを使った」と云うと、首を振りながらも私を通した。


 カリンの木から切り落としたこぶを、3インチ(7.5センチ)ほどに製材したもの。これを徹底的に磨きあげて足をつければ高価なテーブルになる。大きいものは長さが2メートル、幅が1メートルほどもある。テーブルには小さすぎるものは床の間や玄関を飾るのに使用されている。


 商談に入る前の「カリンのこぶ」の扱い業者一家。精一杯私をもてなす体制を整えていた。まさか、私がネギをしょってこないとは考えていなかったであろう。見かけは人が良さそうだったが、貪欲な一家だった。


 決して大きな家ではないが、如何にも豊かそうな感じを受けた。而し、ビルマの電力状況によるのか、エアコンが高価すぎるのか、冷房は風に頼るしかないようだった。


 ラングーンから新婚旅行に来た幸せそうなご夫婦。飛行機はとても高くて乗れず、列車を利用して来たそうだ。昨日までに周囲のめぼしい観光地を巡ってきたので、明日は夜行列車でラングーンに帰ると云っていた。このご夫妻と話していると、マンダレーに住んでいなくても、此処に来る人は幸せになれる見本であるような印象を受けた。
 
 勿論マンダレーにも貧富の差はあるが、セギョウ・マーケットに行ってもラングーンのボジョウ・マーケットのように乞食を見かけることはかった。ボジョウ・マーケットで買い物をしていると、乞食が小銭をねだってくる。無視すると、しつこく私の肘をつつく。あまりしつこくされたので、日本語で「働け!」と大きな声で云った。意味は理解出来なくとも、その剣幕で敵は消えた。
 マンダレーもビルマの一部なので貧しいに違いない。而し、その貧しさを表面に出していない。人々は心のゆとりを持って暮らしていた。此の印象は今でも私の頭の中から消えることはない。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 マンダレー 3

2013年11月11日 | 旅行
 列車は無事にラングーン中央駅に着いた。昨夜、後ろの方から調子の外れたようなビルマの音楽が聞こえてきてなかなか寝付かれなかったが、その後はぐっすり寝てしまったらしい。周囲の騒々しさで目が覚めた。人々は先を争うように列車から降りていた。終点なので、それほど急がなくてもいいと思っていると、バレーボールの元ナショナルチームのお嬢さんたちも、桧山監督を囲むようにして出口に向った。私たちは慌ただしく別れの挨拶を交わした。彼等と入れ違いに小母さんが一等車の中に駆け込んで来た。ごみを漁りに来たようだった。客が捨てたプラスチックの容器やビニール袋を集めていた。私がのんびりとホームに降りたときは、あれほど大勢いた乗客の姿がなかった。これから列車に乗る客が待合室やロープの張られた一角にいるだけだった。「エクス・キューズ・ミー・サー、ミスター」と声をかけられた。40代の中ごろに見えるご婦人だった。「トランスポーテーション(交通手段)はおありですか?」と聞かれた。ホテルまでタクシーで帰るしかないので、そのように云うと「今からではタクシーもバスもありません」と云われた。それで理解出来た、彼らが先を争うように列車から降りた理由が。「宜しければ、私がお送りしましょう。お客様を駅まで送ってきて、これから帰るところです。私はツーリスト・バーマのガイドです」。云われてみて気が付いた。濃紺のロンジーと白い七分袖の襟のないブラウスのツーリスト・バーマのガイドの制服を着ていた。お願いすることにした。
 
 車は駅前広場の、駐車禁止の場所に堂々と停めてあった。私が空港で見た、ピカピカに磨かれたトヨペット・クラウンの一台だった。運転手が直立不動で後部座席のドアーを開けてくれた。彼女は助手席に乗った。運転手に行先を告げてから私の方を向き、彼女は次のような話をしてくれた。「私が今あるのは日本人の、日本の兵隊さんのおかげです。ですから、私は日本の方を見ると出来る限り親切にします。これは貴方がたへのお礼です」。私が怪訝な顔をすると、更に続けた。「戦争中、私が乳飲み子だったとき、母が村の人達に誘われて、日本軍の倉庫に食料品を盗みに行きました。そして見つかり、捕えられました。全員が地面に座らせられ、頭に銃口を突きつけられました。母は観念しました。そのとき、母乳がどっと出たそうです。銃殺される前に、娘におなか一杯の乳を飲ませたかったのでしょう。その想いが、今までろくに出なかった母乳を出させたと思います。それを見た一人の憲兵さんが銃を引っ込め、隊長に何か云ったそうです」彼女はそこまで話し、少し涙ぐんだ。「銃殺は中止されました。そればかりではなく、小麦粉とお米、それに沢山のお砂糖を持たせて帰してくれました。村人全員が同じ物をもらい、釈放されました。母は、私が今日まで生きてこれたのは、日本の、あの憲兵さんのお陰だと、事ある毎に私に云い続けてきました。私もそう思います。その恩返しのつもりで、日本の方には出来る限りの親切をします」。私はいい話を聞かせてもらい、感激した。日本兵の中にこのような憲兵もいたのだと、誇らしささえ感じた。このツーリスト・バーマのガイドの名前も、憲兵の名前も知らない。而し、私の心の中から、この温かい話が消えることはないだろう。今でも彼女の笑顔だけではなく、声まで私の記憶に残っている。彼女の英語は、今までビルマで聞いた中で一番素晴らしかった。そのことを云うと、「プラクティス(練習)、プラクティス、プラクティスです」とほほ笑んだ。
 ツーリスト・バーマ(現在はツーリスト・ミャンマーが正式名)は日本交通公社とJTBを一緒にしたようなもので、国営の旅行会社である。「ビルマ編 2」で書いた、当時の「條件付きの観光客」とは全てツーリスト・バーマが手配した旅行プランに従っての旅行客を云う。この旅行に参加した人が「ガイドがつきっきりで面倒を見てくれた」と喜んでいたが、それはつきっきりで監視をされていたと云い変えた方が適切である。そのような状況下で、彼女は定められたルートを離れて私を無償でストランド・ホテルまで送り届けてくれた。最初は親切に喜んだが、その次は彼女に何事もないように願った。


 マンダレー・ホテルのマネージャー。私にはいろいろと気を配ってくれた。感謝。ストランド・ホテルに比べ、客の数が少ないせいもあり、マネージャーをはじめ、従業員のサービスが非常にきめ細かかった。




 上二枚が開放的なマンダレー・ホテルのロビー。風が吹き抜け、いねむりをしたくなるほど心地よい。此のロビーは24時間閉められることはない。ドアーさえない。ホテルは周囲を高い塀で囲まれており、守衛が絶えず見張っている。門には車や人の通行を遮断する踏切状の通行止めを下してあるため、夜間は宿泊客以外は絶対に通さない。マンダレーでは戒厳令をあまり気にしている様子はなく、緩やかに守られていた感がある。悪法も防犯には役立っているようだ。


 セイン・ウェイと非常に親しい間柄のお宅に招待された。この母娘は宝石を商っている。母親の方は、顔の日焼けを諦めたのか、タナカを顔には塗らずに腕にだけ塗っていた。セイン・ウェイは黙っていたが、何となくそわそわしているところを見ると、此のお嬢さんと恋仲なのかと感じた。
 素晴らしいルビーとサファイアを見せて頂いた。ご存じとは思うが、此の二種類の宝石はどちらもコランダム(ダイヤモンドの次に固い石)である。このうち、赤いものをルビーと呼び、赤色以外のものをサファイアと云う。ブルー・サファイアが一般的だが、それ以外にグリーン・サファイアとかイェロー・サファイアなどがあり、ピンクや濃紺のものまである。色は違うが、これらの宝石は同じものであるので同じ場所から掘り出される。ルビーはビルマの「鳩の血の色」のルビーが圧倒的に価値があり、サファイアはインドのカシミール産のサファイアが品質がいいと聞いている。特にコーンフラワー・ブルーと呼ばれる紫青色のサファイアが最高級品だそうだ。

 先週のマンダレー「2」で書き残した、ビルマの鉄道事情に触れたい。国土が日本の約1.8倍もあるのに、総路線距離が1,500キロ強しかない。ラングーンを起点としている列車がマンダレーを通り越してカチン州まで約500キロほど伸びているが、南北に走る鉄道がこの1,100キロ(ラングーンからマンダレーまでは約600キロ)の路線一本しかない。その他には、100キロから200キロの枝分かれした路線が3本あるだけだ。
 庶民の足であるべき鉄道がこのような状態では、日本のように自由に国を廻れない。ポンコツ車ででこぼこ道を行くしかない。それでも資産家は飛行機で移動するが、地方に行く便は、当時のビルマではマンダレー以外には聞いていなかった。或いはあったのかもしれないが、私は知らかった。

 大手の商社員に、「ビルマはこれからです。もう少し、お互いに頑張りましょう」と云われたことがあった。彼等は給料とボーナス、それに旅費と出張手当を貰いながらのビルマへの出張である。ビルマのインフラが整備されるまで10年でも20年でも頑張れるだろうが、私には同じことをやれる余裕がなかった。


TDY, Temporary Duty ビルマ編 マンダレー 2

2013年11月04日 | 旅行
 サン・マウン副局長の指示を守り、セイン・ウェイは伐採業者とグレイダーに会えるよう手配しておいてくれた。グレイダーは木の肌や花を見ただけで、その木がどのような木目を持ち、心材はどのような色を持っているか判断出来る。ホテルのロビーで話し合った結果、以下の点で非常に難しいと私の申し出が断られた。その第一は新木場の品質に対する條件がきつすぎること、第二は我々の希望する量と納期、第三はマンダレーからラングーンまでの輸送の問題。貨物列車は軍と政府系企業が優先するので日程が定まらない。トラック便を使えば、私の希望する金額を大幅に超えてしまう。先方の見積価格についてはかなりの駆け引きがあると考えて問題にしなかったが、第一と第二の問題は、トラックを使っても解決出来る問題ではなかった。
 
 私は貿易屋としての自信を失いかけた。バンコクの業者はどうやってビルマからカリンのフリッチを集めているのだろうか。何か方法があるはずだ。伐採業者とグレイダーを帰した後、セイン・ウェイとお昼を食べに行った。Tohin(漢字で桃園と書いてあった)と云う中華料理店だった。二人でかなり食べ、私はジンジャーエールをセイン・ウェイはビールを二本ほど飲んだが、料金は90チャット札(180円)を二枚出してお釣りが来たことを記憶している。釣銭は当然のことチップとして置いてきた。食事が終った後で、バンコクの業者のことを話すと、彼はあっさりと「政府系企業と取引しているからです」と云った。そしてかなりのバックマージンを役人に払っているそうだ。彼らは床柱に加工して売っているので、かなりの利益が見込めるが、私は原料を売るだけなのでそれほどの利潤を確保出来ない。

 帰り道で、私の隣を歩いていた筈のセイン・ウェイの姿が急に消えた。不思議に思って振り返ってみると、彼はしゃがんで小便をしていた。ロンジーでは男らしく立小便と云うわけにはいかないのだろう。それにしても、大通りでやるなんておおらかなもんだ。

 セイン・ウェイは私にカリンのフリッチより、もっと値の張るものを扱っては如何かと提案してくれた。その提案を受け、もう一度マンダレーに来る決心をした。


 王城を占拠して陸軍の兵屯地にしている。兵士が向こうを向いているすきに、急いで何回もシャッターを切った。兵士が急に振り返ったので、カメラをしまう時間がなかった。仕方なく「撮っていいか?」と聞いた。彼は小銃をこっちに向けて「No!」と大声で云った。マンダレー空港で出会った兵隊たちと全く感じが違っていた。彼がビルマ族ではなく、好戦的な他の部族だからなのか。或いは非常にに重要な任務を帯びている基地なのだろうか。何れにしろ、写真を撮っている現場を見られなくよかった。
 この散歩の帰り道で、四つ角に兵士が小銃を向けて立っている姿を何度も見かけた。一度など、母親が幼児の手を引いて歩いていたが、銃口はその親子に向けられていた。戒厳令を敷き、この穏かなマンダレーで銃口を住人に向ける必要がどこにあるのかと考えた。
 バンコクで知り合ったニューヨーク・タイムスの記者に、このマンダレーで見た話をした。彼は戦場じゃあるまいし、兵士が銃口を同国人の市民に向けているところなど、世界中どこを探してもないと云って呆れていた。


 夕暮れの王城。この国の中を自由に写真が撮れるなら、一眼レフを持って何度でも通いたい。この位置から見ている限り、この中にビルマ陸軍が駐屯しているとは想像出来ない。


 偶然同じ列車に乗った、かつてのビルマのバレーボールのナショナルチームのメンバー。当時のチームの監督しておられた桧山氏がビルマを訪れたので一緒に旅行したのだと云っていた。彼女らの中には北大の医学部に留学していたお嬢さんがいた。研究のためにエイズで死亡した患者の献体を申し出たが、軍は「ビルマにエイズは存在しない。研究は不要だ」と一方的に云われたそうだ。彼女は確信を持ってエイズ患者が何人もいると私に訴えた。そして、日本が如何に平和で自由に振る舞える国であるかについて話した。ただ、彼女の話を聞くしか私に出来ることはなかった。


 食堂車も、車内販売もないとは知らず、夕食など用意していなかった。途中で停った駅で弁当を売っていないかと、窓枠に腕を乗せ売子を探していると、元ナショナルチームのお嬢さんの一人が私の腕を引っ張って窓の中に引っ込ませた。「手を出していると、その時計欲しさに手首を切り落とされます」と真剣な顔つきで云った。そんなことはめったにないとは思ったが忠告に従った。注意してくれたお嬢さんが食べ物を分けてくれた。セイン・ウェイが呉れた飲料水もある。何とか飢えをしのげる。
 英国が作った鉄道なので、当然線路は日本と同じ狭軌である。だが、一等車はラングーンに向かって右側は二座席、私の座っていた左側は一座席で足もゆっくり伸ばせた。夕暮れの、何処までも続く畑の中を列車は快適に走っていた。だが、徐々にスピードが上がると、座席が弾むように感じることが何度もあった。日本の列車と比べて非常に座席が柔かいせいだろうと考えた。だが、横にも大きく揺れ始めた。これがヨーロッパやアメリカでも評判の「ビルマの暴走列車」だったと、後になって知った。