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TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 47

2014年11月24日 | 旅行
 前回に途中までだったシンガポールでの詐欺の顛末をご報告したい。

 ダウンタウンで旨そうな中華料理店を探しながらぶらぶら歩いていると、「すみません、今は何時ですか?」と若い男に聞かれた。シンガポールの公用語は一応英語だが、俗にシングリッシュ(シンガポール・イングリッシュ)と云われる独特の表現や発音がある。だが、慣れれば香港やビルマの英語よりはずっと分りやすい。時計を見せると、彼は「日本の方ですね。実は私の妹が看護婦として横浜の病院に行こうとしています。母はそれを心配しています」。私が興味がありそうな顔をしたのか、彼は更に続けた。「宜しかったら、お願い出るのであるなら、日本の事情を母に話して安心させて頂けないでしょうか?」と頼まれた。これから食事をしたかったのだが、30分もあれば全て済むだろうと承知した。彼は喜んでタクシーを止めた。
 タクシーは10分ほどで目的地に着いた。小ぶりな家屋が多く集まる住宅地だった。降りるときにタクシー代を払ったのは私だった。大した金額ではなかったが、私にタクシー代を払わせるのは筋が違うのではないかと疑問を持った。家の中に案内されたが、彼の母親は居なかった。二階から彼の兄だと名乗る男が現れた。「我々の妹の病気が重いのです。脳腫瘍と診断されて弱っています。美人なのに可哀そうです」とコーヒーテーブルの前のソファーに座ると直ぐに云った。話が全く違う。「私はつい最近までラスベガスのカジノでディーラーをやっていたのです。今はシンガポールのカジノで働いています」と云いながら鮮やかな手つきでトランプをいじりだした。「貴方はバカラをやったことがおありですか?」と聞かれた。当然知っている。以前にアメリカ空軍の将校クラブで大儲けをしたことがある。日本の「オイッチョかぶ」に似たゲームである。コツさえ覚えれば、八百長さえされなければ 勝つチャンスは非常に高い。だが私は「知らない、やったこともない」と答えた。半々だった警戒警報が既に100%に変っていた。「お教えしますよ」とルールを教えてくれ、「妹が帰って来るまで、少し遊んでみましょう」と云った。ゲームになると私を勝たせてくれた。必ず私に有利なカードが配られる。相当な業師であった。そして「遊びでやってもいても面白くありません。ブルネイから遊びに来ている人がいます。二人で組んでブルネイ人からお金を巻き上げましょう」と云って、インチキなゲームを仕組む手順を私に説明した。バカラをご存じの方も多いと思うが、「9」が一番強いカードである。自分の引くカードは3枚までだが2枚で止してもいい。2枚のカードの合算が4か5であるならもう 一枚引き、何とか9に近づける。だが、失敗すると、3枚の合算が11や12になってしまうこともある。それは、「1」と「2」に同じである。従って、3枚目に何が来るか非常に重要である。ペテン師のディーラーは私に3枚目に何が来るか、私だけに見せるような方法を取ったり、最初からいいカードを配るようにした。その辺のことは自在に出来るらしい。
 車の停まる音がしてブルネイ人がやって来た。本当にブルネイ人なのか、シンガポール人なのかは定かではなかった。約束通り、最初は私が勝ち、手元にはUSドルで2,000ドル以上(当時のレートで約24万円ほど)が貯まった。詐欺師ディーラーはこれまでになくいいカードを私に配った。相手は「もっと大きくかけて、負けを取り戻したい」と云ってきた。そして、アタッシュケースを開けて私に見せた。およそ3万ドルほど(約360万円)のドル紙幣があった。「自分はこれだけの現金をかけるのだから、貴方も手持ちの現金を見せてくれ」と云ってきた。そして自分のカードをポケットに入れてトイレに行った。その隙に詐欺師ディーラーは「絶対に勝てます。この3万ドルを勝ち取りましょう」と云って、次に私が引くカードをそっと見せてくれた。
 妹が帰ってきて、コーヒーとサンドウィッチを出してくれた。妹は詐欺師ディーラーの云った通り、かなりの美人だった。だが、彼等は兄妹にはとても見えなかった。旨いサンドウィッチではなかったが、空腹を満たしてくれた。「どうします?続きをやりましょうよ」と催促された。ブルネイ人も頃合いを見計らってトイレから戻ってきた。「いいよ、やりたいよ。だけど。俺は出張旅行の途中だ。3万ドルもの現金を持っているわけないだろ」と逃げの姿勢を見せた。すると、「現金がなくてもクレジットカードを持っているでしょ。空港に行けば現金を引き出せます。車で送らせます」。実は、私はこのように云われるのを待っていたのだ。このままではこの家から出て行けない。例え出られても交通手段がない。
「わかった。現金を引き出してくるから待っていてくれ」と云い、席を立とうとした。すると、詐欺師ディーラーは私のカードとブルネイ人のカードを別々の封筒に入れて夫々にサインをさせ、スコッチ・テープ(日本で云うセロテープ)で封をした。「このようにすれば、安心でしょう。私が責任を持ってカードを保管しておきます」と云った。

 私を誘った男とは別の男が運転席で待っていた。「妹」と私は後部座席に乗った。住宅街を抜けてから「看護婦として日本にはいつ行くの?」と聞いてみた。彼女はきょとんとした顔をした。「脳腫瘍だと云うのも嘘なんだろう?」とさらに聞いてみた。彼女は非常にためらいながら、運転している男には聞こえないように「病気でも何でもないわ」と云った。私は掛け金の3万ドルを喉から手が出るほど欲しかったが、旨く逃げ出せたことに安堵した。恐らく、もし私が戻ったら、次に私の引くカードが違っているのだろうと想像した。
 24時間営業の空港の銀行窓口に行ってカードを出した。このカードのキャッシング(クレジットカードによる現金借り入れ)の限度額は50万円である。外国で使うことが多いので、用心のためにそのように設定しておいた。それを承知で「3万ドル」と窓口の行員に向い、また運転手兼用心棒兼見張り役の男に聞こえるように大きな声で云った。カードの番号をコンピューターに打ち込んだ後で「お客様、このカードではそのような額の現金は出せません」とカードを突っ返された。私は再度大きな声で「何かの間違いだろう、無制限の筈だ!」と云った。窓口の行員は呆れたような顔をしていた。私はそれを無視して「男」と「妹」に云った「カードを間違えたらしい、部屋に行って取って来る。必ずここで待っていてくれ。10分ほどで戻ってくる」。そして私は早足で渡り廊下を利用して道路の反対側の空港ホテルに逃げ込んだ。フロントで鍵を受け取るときに「誰から電話があっても、誰が訪ねてきても、たとえ日本の首相でも絶対に取り次ぐな」と云って部屋に行き、シャワーを浴びて寝てしまった。

 次の朝、朝食も取らずにホテルを出て空港の中に入ってしまった。日本への一番機の出る2時間も前の時間だった。出発ロビーに入ってしまえば完全に安全地帯である。ゆったりした気分で美味しい朝食を食べた。

 友人の場合は「息子の留学」、私の場合は「看護婦として日本へ」。そして、「日本の事情を説明して欲しい」と云うのが詐欺への誘い方である。とにかく日本の事情云々の言葉が出たら詐欺だと考えてくれぐれも用心して頂きたい。私の友人は「ご説明したいが、これから人に会うので、時間がなくて申し訳ありません」と丁寧に断って難を逃れた。読者諸兄諸姉は私のように誘い込まれるほど愚かではないと思うが、充分に用心なさることをお勧めしたい。一旦誘われると必ず博打に誘われる。そして大金をだまし取られる。

 博打ではないが、もう一つの詐欺の例をご紹介したい。突如アフリカのナイジェリアから手紙が届く、それには「税金逃れのために、手元に現金を置いておけない。日本円で約2億円の現金を送るから受けて頂きたい。3か月ほど預かって頂ければありがたい。謝礼として2億円の15%をお支払するので、謝礼分と送金手手数量を差引いた額を3か月後にナイジェリアに送金して頂けないか?」。全くの詐欺である。2億円の15%は3千万円である。確かにおいしい話だが、この件を受けると、「送金にかなりの金額がかかる。申し訳ないがその分を少し立て替えて頂けないか」と云ってくる。最初は30万円、次に100万円、300万円と立て替え額が多くなり、そのうちに連絡が途絶える。この種の詐欺にもお気を付け頂きたい。












 上の写真はどれもの豪華なネプチューン・ホテル。このホテルに泊れるのも、森林大臣が発行してくれた「指令書」のお蔭である。外国人である私がマダガスカル・フランでの支払いを認められているからである。円やドルで払う場合の半分以下の金額で泊れた。
 マダガスカル唯一の国際貿易港のあるトマシナ(旧タマタベ、トマシナは「塩辛い水」の意)に来るときは必ずこのホテルを利用する。また、アンタナナリブに帰らずにトマシナの空港からレ・ユニオンを経由して日本に帰ったことも何度かあった。




 上2枚はミラマ・ホテル。此処のレストランは鶏だけではなく、それ以外の料理も非常に旨い。また敷地が広く庭は公園を思わせるほどである。

 ほぼ一年前、ビルマ編の最終回に埼玉県吾野の東郷公園の紅葉の写真をご紹介したが、今年もお見せしたい。先週の火曜日(11月18日)に写真仲間と撮影に行ったときの写真である。














TDY, Temporary Duty マダガスカル編 46

2014年11月13日 | 旅行
 中学の同期で、しばらく付き合いの途絶えていた友人から突然に電話があった。「お前がアメリカの空軍に勤めていたのは知っていた。それがどうして貿易を始めた?どうしてマダガスカルに行っていたんだ?」。どうやら私のブログを最近になって読み始めたらしい。尤もな疑問である。このブログを途中からお読み頂いている読者諸兄諸姉も宜しければ、以下の順序でお読み頂ければ幸甚である。

  TDY ビルマ編 1~8
  TDY ビルマ編 マンダレー 1~5
  TDY マダガスカル編 1~25
  TDY ビルマ番外編 枕木
  TDY ビルマ番外編 密貿易
  TDY ラオス編 1~3
  TDY マダガスカル編 26~46~

 久しぶりのアンタナナリブは非常に清々しかった。アンツォヒヒの森から帰った私にとって、此の涼しさは何にも代えがたい。マダガスカルに住む多くの人たちがアンタナナリブに住みたがる理由を肌で体験した。標高1,200メートルであることがこのような恵みを人々に与えているのだ。


 コルベール・ホテルでは私が一番のお気に入りの3階の314号室を空けて待っていてくれた。ありがたかった。
 いつからだったか記憶は定かではないが、10%引きの料金でこのホテルを利用出来ていた。ところが、ある偶然から15%引きの客がいることが判明した。それをフロント・マネージャーに云うと、「あのお客様は、毎月必ず2週間お泊り下さっています」。私は雨期のマダガスカルにはあまり来ていない。それに、マダガスカルでの滞在日数が多くても、地方に行くことが多いので、その全てをコルベール・ホテルに泊っているわけではなかった。そのことを指摘されると「10%引き」に満足するしかなかった。


 毎朝元気に迎えてくれるビジネス・レストラン「フォーグラ」のスタッフ。


 コルベール・ホテルの事務スタッフが、私の留守の間の外部からの電話やファックスを受けていてくれた。


 私がアンツォヒヒから帰ってきたと知り、ホテルに訪ねてきてくれたM嬢。彼女はC社長が最も信頼していた社員で、中国への留学経験もある(マダガスカル編15をご参照願いたい)。現在でもC社長と密かに連絡を取り合っているので、本名は控えさせて頂いた。


 ジルス・ベド社長の奥さんが新たに開いた雑貨店。ズマ・マーケットのはずれのビルの一階を借りて営業を始めたばかりだった。まだ品揃えが完全ではなく、客足もまばらであった。ズマ・マーケットで売られている台所用品よりはずっと高級品ばかりが店に並んでいた。

 マレーシアのクアラランプール空港で火事があった。嫌になるほど待たされた挙句、モーリシャスからの便がシンガポール行きとなってしまったことがあった。夕方にシンガポール空港に着いたが、その日のうちに出る成田行の便はどれも満席で乗ることが出来なかった。満席でも、交渉の仕方に依れば何とかなると頑張ってみたが、今回は駄目だった。モーリシャスの空港でシンガポールから先は各自の責任で連絡便の予約を取ってくれと云われていた。シンガポール廻りになったのは航空会社の責任ではなく、クアラランプール空港の火事が原因であるため、何が何でもと云うわけにはいかなかった。だが、翌日の朝一番の便の予約を優先的に受けてくれた。空港から連絡通路を歩いて空港ホテルにチェックインした。

 読者諸兄諸姉は充分にご存じだと思うが、念のためにご説明したい。航空機が何らかの事情で遅れ、乗り継ぎ便に間に合わなかった場合、ホテルの宿泊代は航空会社が負担する。だが、乗客が正式に航空会社にホテル代を請求しなければ、支払われることはない。今回の私のケースでは、モーリシャスから出発した後に、クアラランプール空港で火事が起こり、やむを得ずシンガポールに到着したのであるなら、ホテル代は航空会社が払うことになる。而し、搭乗前に事情を説明されて乗ったのであるからホテル代は請求出来ない。ホテル代は自己負担にはなるが、それ以外の便宜は航空会社側で測ってくれる。クアラランプールから成田行のチケットで、シンガポールから乗れるようにしてくれ、翌日の便の予約を最優先で受けてくれたのもその一環である。

 シンガポールの空港ホテルは、豪華ではないが非常に清潔な、感じの良いホテルである。その上に立地が良い。シャワーを浴びてからダウンタウンに食事に行くことにした。久しぶりの本格的な中華料理を楽しみにしながらシャワーを浴びた。この段階では博打に誘い込まれてのっぴきならぬことになるとは夢にも思わなかった。
 この件については次回に詳しくご報告する。私の親しい友人の一人も、マレーシアで流暢な英語を話す上品な夫婦に危うく引っかかるところだった。「自分たちの息子が、日本の大学に留学することになった。息子が心配なので、日本の事情を詳しく教えて頂けないでしょうか?」と云うのが詐欺への引き込みの第一歩だった。現在も同じような手口で博打に引き込む詐欺がシンガポールとマレーシアで横行している。その手口を次回にご紹介したい。








 上4枚の写真はいずれもミラマ・ホテル。このホテルにはマダガスカルで一番旨い鶏肉を食べさせるレストランがある。もも肉のステーキを食べたが、鶏肉がこんなに旨いのかと疑いたくなるような味であった。此のホテルに宿泊をしたことはないが、何度も食事に行った。アンタナナリブからは、トマシナへ向かう少し手前にある。






 上3枚の輪尾キツネザルの写真は先週(11月12日)に上野動物園で撮ったものである。此の日はお昼頃が13度で、午後の3時になってやっと15度ぐらいであった。我々にとってはそれほど寒い日ではなかったが、マダガスカルからやって来た彼等には寒かったのであろう。寒さを防ぐために「猿団子」を作っていた。これを見ると、やはり「猿」なのだと改めて感じた。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 45

2014年11月10日 | 旅行
 モーリシャスからクアラランプールに向かう便に乗っていた時のこと、夕食後にトイレに立った。ヴェイカンシィー(Vacancy、空き)であることを確認してからドアーを開けようとしたが、途中までしか開かなかった。手を放すとドアーは自然に閉まった。再度開けようとすると、少しは開くが、それ以上は開かなかった。それを見ていた体格のいいスチュワーデスが、「お退き下さい、私が開けます」と云い、足を踏ん張ってドアーを開けた。中にはスカーフを被った中東の若いお嬢さんが座っていた。ドアーを開けさせまいと必死に抑えていたのだが、体格のいいスチュワーデスの力にはかなわなかった。幸いな事に、彼女が座っていたところは電気が消えて薄暗かった。ご存じのように、飛行機のトイレは中から鍵をかけると灯りがつくようになっているが、彼女はその方法を知らず、ドアーを手で押さえながら座っていたのである。スチュワーデスは「私、しーらない」と逃げ出した。私もその後に続いた。中東のお嬢さんは恥ずかしさでうつむいていたので、我々の顔を見ていなかった。体格のいいスチュワーデスは頼みもしないコーヒーを持って私の席に来た。そして小声で「さっきはヤバかったわね」と云うと足早にギャレーに戻った。「ヤバかった」のは我々ではない、中東のあのお嬢さんだ。非常に気の毒な思いをさせてしまったと、今でも悔いている。

 森の作業員に「アイザ、ノシ?」と聞いたことがあった。太陽が雲に隠れ、方角が分らなくなってしまったのである。私は「北はどっち?」と聞いたつもりだった。North(北)を「ノシ」と呼ぶ国があった。私はそれと勘違いしたことに、その作業員の戸惑いを見て気が付いた。マダガスカル語で「ノシ」とは北ではなく、「島」の意味である。彼は考えた末に海の方角であろう方向を指差した。私は「ミソートラ」(ありがとう)と云うしかなかった。
 此のアンツォヒヒの森から、ほぼ真北に直線で250キロほどの所に「ノシ・ベ」(Nosy Be、大きな島)がある。ノシ・ベの西側に小さなサカティア島(Nosy Sakatia)があるので、そのように呼ばれているのではないだろうか。ノシ・ベは香水の島とも呼ばれ、島中にバラの花の香りがするそうである。残念であるが、私は行ったことがない。また、ノシ・ベの香水を買ったこともない。ジルス・ベドが「アンツォヒヒにいる間に、一度休暇を取ってノシ・ベに是非お連れしたい」と何度も云ってくれたが、パリサンダーの様々な仕事に追われ、休暇を取る余裕がないままアンタナナリブに帰る日が迫ってしまった。
 日本の旅行雑誌に「ノシベ島」と書いてあったり、テレビでも「ノシベ島」と云っていた。地名は正確に表現して貰いたい。


 伐採地からの最後の積み込みが始った。






 大勢で力を合わせ、怪我の無いようにモラ、モラ(ゆっくり、ゆっくり)だったが無事にトラクターの荷台に積みあげた。


 ジルス・ベド社長が率先して伐採地周辺の片づけをした。


 最後まで仕事をしていた人たちの記念写真。BIEの写真も現地労働者も、長い間怪我もせず、暑さにも負けずによく頑張ってくれた。


 私も記念写真に入るようにとジルス・ベド社長に云われ、彼と代った。


 森から疲れて帰ってきても、きちんとベッドメイクされ、枕カバーもシーツも洗い立てのものに交換されているのに接すると、疲労だけではなく心まで癒される。


 このお嬢さんがパーム(アブラヤシ)の実で床を丁寧に磨いてくれる。森で汚れた靴のままで入っては悪いような気がし、入口のマットで時間をかけて靴をぬぐうのが日課になっていた。


 海軍中佐の恋の相手。豪快なオバさんの料理は肉の切り方も、味のつけ方も豪快であった。


 左からフランス人のパイロット、元フランス海軍中佐、その長男。マダガスカル編43の最後の方の写真をご参照頂ければお分かりのように、次男である彼の弟君は肌が白い。


 パリサンダーの若木。大木と大木の間に生えていた此の若木は、太陽が当たらないため、これ以上の成長は望めないであろう。


 まだ見たことのない新木場の人たちに、パリサンダーの実物をお目に掛けたかったが、根の付いた樹木を日本国内に持ち込むには正当な理由と厳格な植物検査が必要である。写真をお見せするしかなかった。


 マダガスカルの主要な薬草が、その産地を示すべく地図の上に描かれていた。中にはガンに効く薬草があると聞いたが、その効果のほどは知らない。

 次回からはマダガスカルの東の海寄りの地方にご案内したい。結果としてパリサンダーとは直接関係のない旅になってしまったが、ある意味、非常に有意義であった。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 44

2014年11月03日 | 旅行
 タクシーでも同じ運転手に二度と巡り会わないと云われている。それが、飛行機で同じ機長とスタッフに巡り会ってしまったのである。

 香港にチンチャン(手違い紫檀とも云う)があるので、興味があるなら一度見に来ないかと以前に消臭剤の取引をしたことのある業者から連絡が入った。畑違いの業者なので、本当にチンチャンであるかどうか危ぶんだが、エアー・クーリエ(国際宅急便)でサンプルと写真、それにログ・リスト(マダガスカル編15をご参照願いたい)が送られてきた。ログ・リストを見る限り、全てが床柱に使える寸法であった。サンプルを持って新木場の専門家に見てもらうと、確かにチンチャンに間違いないと云われた。そして、置き場の写真を見ると目を輝かせて「自分の所で全量を引き取りたい。是非そうしたい」と云われた。全部を買って頂いても30立方メートルなので大した量ではないが、パリサンダーより値が張るので利益は大きい。すぐに香港に行くことにした。友人の経営する旅行会社に航空券を手配して貰うと、キャセイ航空が一番安く手に入ると云われた。

 どのような経緯で香港にチンチャンがあったかは知らないが、現物を見て、予想より物がいいのに大いに満足した。全てを買うことにした。その後で、旧交を温める目的もあって食事を共にした。その時、広東語で「貴女はきれいですね」と「また会いたいですね」と云う言葉を教わった。一度では覚えられなかったので、手帳に書いて貰った。
 香港と成田間は飛行時間が現在は5時間を切るが、以前は5時間以上かかった。非常に中途半端な時間であるので、週刊誌を読み終えてしまった後は退屈してしまう。辺りを見廻し、退屈そうにしているスチュワーデスを捕まえて、教わったばかりの広東語を試してみた。彼女はきょとんとした顔をしただけで全く通じなかった。発音が悪かったのかと、手帳を直に見せたが駄目だった。諦めて手帳をしまうと、彼女に「私、貴方を知っています」と云われた。私が不思議そうな顔をすると、「貴方が成田からの便にお乗りになったのを覚えています。辺りを見て下さい。見た顔が大勢いるでしょう。貴方が往きに乗った時と同じ機長とクルーです」と云われた。そう云われてみると、確かに彼女らの記憶はあった。反対側の通路から、他のスチュアーデスが手を振ってくれた。


 森へ行くには必ず通る道である。この地域は「アナヒドラヌ 22」との標識があった。地名の最後に「ラヌ」(rano、水の意)とあるから、きっと水が豊富なのだろう。「アナヒド」はどのような意味かは知らぬ。


 乾期であるのに、川の水量がそれほど減っている様子はなかった。


 森の仮集積地には既にフリッチに加工されたパリサンダーが無造作に置かれていた。木目も心材の色も申し分のないものばかりであった。


 割れ止めを施されたフリッチには丁寧にヤシの葉がかけられていた。


 彼が丸太をフリッチに加工する名人である。BIEの社員の一人である。


 森の民が放し飼いにしているニワトリ。母鳥にまとわりつく雛は見飽きることがないほどの可愛さであった。


 やはり放し飼いにされているヤギ。非常に人懐こく、声をかけると面倒くさそうに返事をしたり、気が向けば傍に寄ってくる。


 新種のバッタだろうか。私が昆虫学者であるなら、標本用に捕獲して持ち帰っていたかもしれない。大きさは5センチほどであった。


 「サカフォ!」(メシ!)とか「アントアンドロ!」(ヒルメシ!)と騒々しい声がやがて静まった。食事を終えた作業員はトラクターの荷台を川の上に移動させ、涼を取りながら談笑していた。


 対岸に渡ると、雑木を切り倒したのであろう、地面がむき出しになっていた。




 トラクターがこれ以上先へは進めない地点までやって来た。






 トラクターを降りてからは伐採地までひたすら歩く。「マンデハ、トュンク」(マンデハは歩く、トュンクは足の意)である。以前にも書いたが、彼等とはぐれて道を外れてしまったら、一人では絶対に脱出不能である。マダガスカル人の歩くのは早い。ジルス・ベドが気を遣って私に歩調を合わせてくれていたが、それでもついて行くのは容易ではなかった。

 政治家でもない私が口出しをすることではないかもしれないが、暴虐無人の中国窃盗漁船団には腹が立つ。マダガスカルの貴重な木材を盗伐しているのも中国人である。日本人もマダガスカル人もおとなし過ぎるのでないだろうか。
 サンゴの密漁を、何故日本政府は見過ごしているのだろうか。北朝鮮による拉致も未だに解決していない。どうしてもっと積極的に解決を図ろうとしないのか。腰の引けたような外交交渉で解決出来ると考えているのだろうか。
 現在。日本の領土である竹島が韓国軍に占領されている。日本の漁船が近づくと銃撃を受けることもあるようだ。最初は韓国の軍人が一人で竹島に上陸したと聞いている。何故、その時日本政府は排除しなかったのか。このような弱腰の日本は中国にもなめられている。尖閣列島が竹島の二の舞にならぬことを願っている。