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TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 3

2015年01月19日 | 日記
 パプアニューギニアは非常に親日的であるから気持ちが良い。ポートモレスビーの空港での荷物検査は特に厳重で、到着便に依ってはかなりの行列が出来る。やっと私の番になり、税関職員にパスポートを渡し、スーツケースを開ける準備をしていると、「日本からお出でになったのですね。どうかそのままお通り下さい」と云われた。全くの無審査だった。アタッシュケースを開けようともしなかった。周囲の旅行客は唖然とした顔で私と税関職員を見ていた。ロサンゼルスの空港でも同じようなことがあった。パスポートで日本からの旅行客だとの確認をすると、「ハイ、出口はあちら」と云うだけだった。

 朝の散歩から帰り、フロントで鍵を受け取るときに何か伝言はなかったかと聞いたが無駄であった。約束の日を過ぎているのに、ローランド・クリステンセンから何の連絡もなかった。部屋に戻り、ラバウルのレックス・グラッテージに電話したが留守だった。仕方なく、無駄を承知でカナダのジャック・ラウに電話をしてみた。カナダの英語圏であるトロントとポートモレスビーの時差を手帳で調べた。15時間の時差である。計算してみたら、トロントは前日の午後8時であった。食事中だったようだが、気持ちよく電話に出てくれた。「落ち着きなさいよ、ミスター。世の中は予定通りにことは進みません。ゆっくりお待ちなさい。二、三日したら、私からレックスに電話してみましょう」と云われた。初めての国に来て、約束の日から二日も過ぎているのに取引相手が現れず、連絡もなければ誰だっていらだつだろう。それを「ゆっくりお待ちなさい」と云ったのだ。日本人と中国人では考え方が違うのだろうか。それとも私に忍耐心が足りないのであろうか。

 ホテルのレストランでの昼食を終え、部屋で第一次湾岸戦争に関する新聞の記事を読んでいると、フロントから電話があった。「クリステンセン様が、宜しければお目にかかりたいそうです」とのことだった。宜しくないわけがない。急いでロビーに向った。

 フロントの前で物凄い巨漢が気まずそうにしていた。白いYシャツに、窮屈そうにネクタイをしていた。約束より二日も遅れたことに、どのような云いわけをしたらいいか悩んでいるようにも見えた。それがローランド・クリステンセンだった。文句を云う気が失せた。彼が何か云おうとすると、後ろからラフな格好をした若い男が現れた。「クリス・ブルックと云います。遅れたのは私のせいです。申し訳ありませんでした」。これで初対面の挨拶が全て終ったようだった。
 コーヒールームに行き、これからの予定を聞いた。明日の午後一番のアルタオ行の定期便に乗り、そこからはローランド・クリステンセンがチャーターしてある小型機でウッドラーク島に行くことが説明された。
 クリス・ブルックはオーストラリアのアデレードで木製の食器を作る工房を持っているそうだ。やはりラバウルに住むレックス・グラッテージの仲介で、私と行を共にすることになったのだ。話してみて、非常にいい奴だと感じた。彼もウッドラーク島に行くのは初めてだと云っていた。


 首都のポートモレスビーから地方の都市や島に行くには全て20人、多くて50人乗り程度の飛行機が利用されている。


 私の前を行くのがローランド・クリステンセン。今日はネクタイを外し、靴をビーチサンダルに履き替えていた。


 ローランド・クリステンセンの右前方を歩いているのがオーストラリア人のクリス・ブルック。


 ローランド・クリステンセンは二席分を占有してしまったのに、窮屈そうだった。


 一時間ほどでアルタオに着いた。


 アルタオの「ガーニー空港」の建物。ビルマの地方の空港施設の方がよっぽど気が利いていた。屋根のあるバス停を想像して頂ければいい。此の何年か後に行った、マダガスカルのアンツォヒヒの空港といい勝負だった。




 アルタオの住民にとって、空港は涼み場所や遊び場を兼ねているようであった。木の陰に入ると、涼しい風が吹いて心地よかった。
 ポートモレスビーからたった350キロ南に来ただけで、照りつける太陽の暑さがかなり弱まったようにも感じた。ご存じと思うが、パプアニューギニアは南半球に位置しているので、南に行けば赤道から離れて気温が下がる。

 空港職員は汗をかきながらローランド・クリステンセンの荷物を降ろしていた。ポートモレスビーから積み込んだ荷物は子供の三輪車をはじめ、台所用品と思われるもの、食料品、衣類等々。まるで目につくものを手当たり次第に買い込んだように思えた。
 一番大変そうだったのは大きな、重そうなアイスボックスだった。冷凍の肉やハムだと聞いたが、このようなものまで本島に来なければ買えないとなると、ウッドラーク島の暮らしの厳しさを想像した。

 何かの都合で、チャ-ター機の到着が遅れていた。ローランド・クリステンセンは、多分別の場所に行っていて手間取っているのだろうと、のんびり構えていた。
 木陰で待っていると、リュックサックを背負った若い男がやって来てローランド・クリステンセンに挨拶した。彼はグレーダー(立木、葉、花などを見て木目や心材の色を判断する専門家)であると紹介された。一緒にウッドラーク島に行くそうだ。
 お互いに打ち解けてくると、とりとめのない雑談が始まった。若いグレーダーが「日本では嫁さんの値段は幾らですか?」と聞いてきた。結納金がそれに当たるのかと考えたが、結納金をあらわす単語を知らなかった。下手に説明すると誤解を招くので、「そのような習慣はないよ」と答えた。彼は非常に不思議そうな顔をした。そして、別の質問をしてきた。「アルタオの群長さんが、去年日本に行った話を知っていますか?」。そのような話は聞いたことがなかった。「そんな有名な話を知らないんですか?群長さんは12人の嫁さんを全員連れて日本に行ったんですよ」。それを横で聞いていたクリス・ブルックが腰を折り曲げて笑い出した。「日本の税関はびっくりしたでしょうね。ミセス群長、次もミセス群長、その次も、次も」。その先は吹き出して言葉にならなかった。ローランド・クリステンセンはニヤニヤしているだけだった。グレイダー君はその先を話してくれた。「一番下は13歳です。去年、日本に行く前に嫁さんにしたばかりなんです。金があれば何人でも持てるんですよ」。羨ましい国もあるもんだ。「ところで、お前さんの嫁さんは幾らだった?」と聞くと、「俺は500キナを払いました」と云って胸を張った。1991年当時は1キナが約¥150円(US$は約140円)だったので、¥75,000であった。グレイダーの給料が高いとしても、かなりの金額である。確か、タクシー運転手が月に5千円ほどの収入だと云っていた。

 それから10年後の2004年の1キナの価値は34円でしかなかった。現在の為替相場はかなり回復しており、先週半ばの相場は1キナが約45円となっている。これはキナの価値が上ったのではなく、円安がかなり進んでいる結果かもしれない。




 滑走路に向かいながら、パイロットが管制塔と交信していた。「雨?、物凄い雨?」と聞き返しているのが聞こえてきた。ローランド・クリステンセンもそれを聞き、我々に向って「まずいよ」と独り言のように云った。結局、今日のフライトはキャンセルになった。ウッドラーク島の飛行場は土なので、雨でぬれていてはタイヤが滑ってしまい、着陸出来ないとのことだった。台風や雪の影響で離発着出来なかったことは何度も経験したが、雨が原因とは初めての事だった。明日のフライトを確約して、我々はアルタオに一泊することになった。グレイダー君が借りてきた5人乗りのピックアップトラックに荷物を満載してマスリナ・ロッジに向った。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 50

2014年12月15日 | 日記
 香港からモーリシャスに行くエアー・モーリシャスの便は比較的新しい航空機を使用しているが、エンジン・トラブル―航空会社や旅行会社では「エントラ」と云っている―のため、香港に一泊しなければならないことがあった。
 とっくに出発時間を過ぎているのに駐機場から全く離れなかった。スチュアーデスは不安を押し隠すように客室の通路を歩き廻っていた。やっと滑走路に向けて動き始めたが、途中で大きく旋回して元の駐機場に向った。その途中で機長からのアナウンスがあった。フランス語だったので全く理解出来なかったが、次に英語で「エンジンが不調ですので、これから点検を致します。出発までもうしばらくお待ち下さい」とのアナウンスがあった。
 私の前の席の日本人のお嬢さんから「今のアナウンスは、どのようなことですか?」と不安そうな顔で聞かれた。説明すると、近くの日本人の乗客から「大丈夫なのでしょうか?」との質問があったが、私は専門家ではないのでそれ以上の事は説明出来なかった。駐機場に戻ると、スチュワーデスが乗客から飲物の注文を受け始めた。
 更に一時間近く待たされた挙句機長から次のようなアナウンスがあった。「この機をこれから格納機に運び、徹底的に点検を致します」。次いでスチュワーデスが「これから皆様をホテルにお連れ致します。係員の案内に従い、お荷物を持って機を離れて下さい」。周囲の日本人の乗客が一斉に私の方を見た。仕方なく機長とスチュワーデスの云ったことを説明した。私が席を立つと、次々に質問された。「手荷物は持って行くのでしょうか?」「スーツケースは?」「次の乗継便は」「モーリシャスのホテルの予約変更は?」。私はツアーコンダクターでもなければ付添い人でもない。だが、不安そうな顔を見ているとつい面倒を見てしまうことになった。それで、一通りの説明をした。「手荷物は全て持って席を離れて下さい。乗るときにお預けになったスーツケースも受け取って下さい」。説明が終ると日本人乗客のほぼ全員が私の後をついて来た。旗があった方がいいのかなと思いながら歩いていると、私の前の席に座っていたお嬢さんに声をかけられた。「オジさん、お陰様で助かりました」。彼女にはもう一人の連れがいた。「オジさんだ?お兄さんの間違いだろ?」と云うと、親しみのこもった笑顔を見せた。

 エアー・モーリシャスの用意したバス(このバスの乗客はほぼ全員が日本人のようだった)は空港ハイウェイを西に進み、高速道路を屯門(テュンムン、香港の郊外とも云うべき地域である。マダガスカル編の40をご参照願いたい)に向って一時間近く進むと目的のホテルに到着した。Panda Hotel、それに悦来酒店と書かれていた。出来たばかりのホテルのようだった。全てが新しく見えた。
 部屋に入ってすぐに「ベッドがない!」と瞬間に思った。あるのはコーヒーテーブルにソファー・セットだけだった。だが、ベッド・ルームは別にあり、その先にバス・ルームがあった。それほど上等ではなかったが、一応はスィート・ルームの様式をとっていた。

 翌朝はバイキング形式の中華料理が用意されていた。美味しかった。これだけ食べれば昼食はいらないだろうと思えるほど食べた。昨夜、私を「オジさん」と呼んだ二人組のお嬢さんが私と同じテーブルに着いた。二人で休暇を利用してモーリシャスでダイビングを楽しむのだと云っていた。


 対岸から戻ってきた。これから荷卸しが始まるが、此のシャンブー・シャラシャラには乗れるだろう。


 荷物より先に、この物売りのオバさんが走るように降りてきた。


 座る場所を見つけると早速商売を始めた。玉ねぎに焼き魚、それと何かの鳥のモモ肉を焼いたように見えるものを私に見せ、「ミヴィディ」と云った。恐らく「買わないか」と聞いてきたのだと思うが、定かではない。


 この物売りは川で獲れたばかりの魚をぶら下げていた。売り声もなしで、魚を持ってただじっと立っていた。


 我々の車の積み込みが始まった。ジルス・ベドは「船長」の指示通りに車を進めているのだが、かなり緊張している様子であった。運転席に座ってみれば良く分かるが、前は川しか見えない。車止めもないので、前に行きすぎたら川に落ちてしまう。「船長」は少しでも余計に積もうと、先端のギリギリのところまで車を進めさせる。


 シャンブー・シャラシャラが対岸に無事に着いた。北に向かう道路は殆ど痛んでおらず、快適に走れた。


 このような風景が延々と続いていた。窓を全開にして、かなりのスピードで走っていたので、暑さをあまり感ぜずに済んだ。


 新築中だったり、増築中だったりの住居がかなりあった。胡椒の売上金を当てにしての建築だろうとジルス・ベドが説明してくれた。


 ベド家のフェナリブでの家に到着した。アンタナナリブの家よりは狭く感じられたが、此処がベド家の原点のようだった。


 第一次ラチラカ大統領時代から20年も法務大臣を務めてきたジルス・ベドの父親が我々を出迎えてくれた。


 彼女の兄であるジョセ・マリエ・ダヒー(在日本マダガスカル大使館の商務官)から連絡を受けていたのであろう、トレッキング・シューズの到着を待ちに待っていた。それで、我々が到着する何時間も前から待っていたようだった。

 彼女の兄であるジョセ・マリエ・ダヒー商務官にアンセルメ・ジャオリズィキー課長(マダガスカル編の3をご参照願いたい)を紹介された。彼等はアンタナナリブ大学で同期であった。卒業後、ジョセ・マリエ・ダヒー(ベツィミサラカ族)は外務省に、アンセルメ・ジャオリズィキー(サカラバ族族)は商務省に入省した。
 ご記憶の方も多いと思うが、商務省に勤務しているアンセルメ・ジャオリズィキーの出張費は非常に少ない。台湾出張の際は何とかまともな食事が出来たが、ヨーロッパの場合は露店のハンバーガーで凌ぐのが常であると聞いていた。
 外務省に勤務し、在日本マダガスカル大使館員として日本にやって来たジョセ・マリエ・ダヒーは非常に豊かであった。日本における彼の自宅は3LDKだったが、リビングルームが非常に広かった記憶がある。釣りをしたいと云うので、私がよく行く船宿に連れて行ったことがあった。釣り船代は当時、8千円か9千円であった。アンセルメ・ジャオリズィキーの事を聞いていたので、彼の分も払おうとしていたら、彼は私の分まで払うと云いだした。結局割り勘にしたが、同じマダガスカルの省庁でも、外務省の在外勤務手当が非常にいいのだと思った。
 伝聞だが、当時の大使が交替になり、彼も帰国することになった。その際、クレジットカードで日本製品を買いまくり、かなりの借金を抱えてマダガスカルに帰ったらしい。外地勤務手当が無くなれば、その借金を払えるのだろうかとマダガスカルの大使館内で心配したそうだ。
 余談だが、ジョセ・マリエ・ダヒーはジルス・ベドの姉と結婚している。従って彼等は「ザオダヒ」(義兄弟)である。その縁から、ベド家がジョセ・マリエ・ダヒーに借財の援助をしたらしいとの噂があるが、私の知るところではない。

 アンセルメ・ジャオリズィキー元商務省課長のことに触れたい。彼は1995年の6月に商務省を辞め、在マダガスカルのアメリカ大使館に勤務することになった。当時の新聞に「大型転職」とか「華麗な移籍」とかの見出しで新聞で大きく報道された。フランス語とマダガスカル語の新聞だったので読めなかったが、ジルス・ベドが「商務省の給料の6倍の給料になったのです」と説明してくれた。一時は時の人になったほどだ。だが、アンセルメ・ジャオリズィキーの私に対する態度は変わらず、土、日はホテルに訪ねてきては私の手伝いをしてくれた。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 48

2014年12月01日 | 日記
 今年もまたサイクロンの季節がやって来た。マダガスカルにやって来る大型のサイクロンは2月と3月が最も多く、日本の台風と6カ月程のずれがある。アンタナナリブからインド洋に面しているトマシナ(旧タマタベ)に行くには、サイクロンと向き合う形になるが、どうしても行かなくてはならなかった。マダガスカルではめったにない港湾ストライキが行われていた。我々の荷がいつ積まれ、その船がいつ出航出来るか確かめる必要があった。そのようなことを確かめるだけなら、読者諸兄諸姉は電話で済むとお考えかもしれないが、繋がらないことが多い。回線はそれほど多くなく、大勢が電話しようとすると、いつでも話し中の状態になってしまう。電話回線の状況はビルマほど悪くはないが、首都のアンタナナリブを離れると極度に悪くなる。行って確かめるしかなかった。アンツォヒヒで大量に手に入れたパリサンダーを全て出荷出来ていない状況であった。現地では配送の準備は整っているが、出港地の倉庫に入れないことには輸出されない。
 10日も続いているストライキがそろそろ終わりそうではないかと期待してトマシナにやって来たが、港湾事務所の周囲には労働者が大勢押しかけて、双方とも大声で応じあっていた。ジルス・ベド社長が港湾事務所の中に入って行ったが、興奮した顔で出てきた。「メリナの奴等はいつもあのような態度を取る」と大きな声で独り言を云った。以前にも述べたように、ジルス・ベドはアフリカ系のベツィミサラカ族である。マダガスカルではメリナ族に次ぐ人口を有している。これまでにマダガスカルでは他の部族の悪口を聞いたことがなかった。ジルス・ベドの口からこのような言葉を聞くのは意外であった。食事をしながら聞いたところでは、このストライキはもうじき終わるがかなりの荷物がたまっている。その出荷は荷主がメリナ族のものから船積みされると聞かされたらしい。もしかしたら、既に保税地域に運び込んだのがメリナ族だっただけかもしれない。ジルス・ベドは港湾事務所の所長がメリナ族なので、メリナ族に特別な便宜を図ったのだと思い込んでいるようだった。
 何れにしろ、ストライキは収束に向かっているようなので、多少は時間がかかっても、船積みの希望は持てた。


 ネプチューン・ホテルのメイン・エントランスの庭のテーブルや椅子が昨夜の風と雨で地面にたたきつけられていた。


 その同じ場所を、間違えて茶色に色を変えたカメレオンがゆったりと朝の散歩をしていた。このカメレオンは非常に大人しく、手のひらに乗せるとじっとしている。また、腕に這わせるとゆっくりと上に登ってくる。カメレオンは、庭木のあるところには何処にでも生息しており、通常は草色である。マダガスカルには非常に多くの種類のカメレオンがおり、中には体長が50~60センチのカメレオンもいると聞いている。その殆どが固有種で、カメレオンの研究の為だけにマダガスカルに通っている生物学者が想像以上に多くいた。












 朝食を済ませた後で、海岸沿いの道から山側の道に入ってみた。大量の雨で土留めがしっかりしていない個所は大きく削られていた。土砂で道路が覆われ、四輪駆動車でなければ、自由に走れないほどであった。




 海岸線を北に行くと、道が大きく削られており、近くの住民は何時になったら補修されるのかと心配していた。
 帰国後、この写真を友人である衆議院議員の所に持って行った。何とかマダガスカルに援助金を送れないかと相談に行ったのだ。後日、秘書を通して「難しい」との返事がきた。彼は自民党ではなかったので、強硬に推し進められなかったのか、マダガスカルは日本にとって重要な国ではないので断られたのか、実のところはわからない。秘書は「この写真だけではよく実態がつかめない。もっと詳しい資料が必要だ」と云ってきた。政治家特有の断り方だと理解した。詳しい資料が必要であるなら、いくらでも集められる自信があった。だが、日本政府に援助する「意志」が有るか無いかだ。友人は自分では断り難かったのであろう。秘書に連絡させる手を使った。

 先週も懲りずに写真仲間と日本民家園に紅葉を撮りに行ってきた。日本の各地から古民家を移築して、当時のままの姿で公開しているので、私は年に何回となく此処を訪れる。今回は紅葉の季節と重なったため、紅葉の写真が多くなったが、本来は古民家を様々な角度から撮影する。それに、囲炉裏に火がくべられているので、それを撮るのも楽しみにしている。何度通っても、別の顔を見せてくれる、私のお気に入りの撮影スポットの一つである。
 新宿で皆と別れ、私は所用があって東急ハンズに向った。その途中、南口の道路を渡ってから思わぬ拾いものにぶつかった。我国の誇るLED電球がふんだんに使われているイルミネーションに出合ったのである。
















TDY, Temporary Duty マダガスカル編 43

2014年10月27日 | 日記
 コルベール・ホテルにもカジノはあるが、ヒルトン・ホテルの方が大規模で雰囲気もいい。私はそれほどの博打好きではないが、翌日の予定がないときはカジノに行くことがあった。マダガスカル人は絶対に中に入れないため、誰も誘えなかったことは残念であった。
 ヒルトン・ホテルの正面玄関に着いたタクシーのドアーを、大仰な制服を着た小柄なボーイが「ボン・ソワール、ムッシュウ」と挨拶しながら開けてくれた。
 カジノがある階でガタガタ揺れるエレベーターを降りると、「ボン・ソワール、ムッシュウ。パスポートをどうぞ」と警備員に云われる。お互いに顔見知りではあるが、規定通りにパスポートを提示するのが常であった。入り口近くに大きな半円形のバー・ラウンジがあり、左手にはルーレットのテーブルがある。その日は週末でもなく、まだ早い時間なのに五つあるルーレットのテーブルには人が溢れていた。私の好きな、とても縁起のいい二番テーブルには博打好きの中国人が全部の場所を占領していた。彼等と同じテーブルでルーレットを楽しむ気にはなれない。騒々しすぎるのだ。仕方なく比較的空いていた四番テーブルに行った。詰めてもらって何とか座れた。チップを10万フラン(約2,000円)買い、テーブルを一通り見てみた。今夜はあまり儲かっている客はいないようだった。バカつきしている客がいれば、それに乗って張ればかなりの確率で儲かる。残念だがその手は使えそうになかった。10万フランのチップはあっという間に無くなった。10万フランを買い足したが、それもダメだった。それでルーレットを諦めてスロット・マシンのコーナーに行き、5万フラン分のコインを買った。スロット・マシンの台が三台続けて空いている場所があった。私は、そのマシンの真ん中に座り、ハンドルを右腕で激しく動かし始めた。全然ヒットしない。コインがどんどん減って行く。今夜はついてないのかと感じたとき、カジノのボーイが「ミスター、何か飲み物でもお持ち致しましょうか?」と云うので馬のラベルのマダガスカル製のビールを注文した。大して飲めもしない私にとってはヤケ酒である。カジノに居るかぎり、飲み物は全部無料である。持って来たボーイに500フランのチップを渡した。ビールを飲みながら更に続けていると、レモンが並び、苺が並んだりしてコインがたまりだした。そして直ぐにアメリカの国旗が三つ並び、ジャラジャラとコインが大量に流れ出て来た。それを見ていたアメリカ人が私に云った。「薄情な国だよな、USAは。ミスター」としきりにぼやいた。彼はつい先ほどまでこの機械にかなりのコインをつぎ込んでいたらしいがUSAの国旗は一度も並んでくれなかった。そばで奥さんが楽しそうに笑っていた。


 鎖を太いフリッチに巻きつけ、トラクターで引いていた。人力に代る唯一の道具であった。


 トラクターの力を借りても、トラックに乗せるにはさらに重労働が必要であった。


 作業員の一人がフリッチに加工した自分の作品の上で昼寝をしていた。日陰ではなかったが、余程疲れていたのであろう、汗をかきながら寝ていた。だが、木材の上はひんやりとしている筈である。


 樵が曲っているパリサンダーを切り倒してしまったらしい。これを私が真っ直ぐであると勘違いするように、どのように加工するつもりだろうか。


 水辺でのしばしの休憩。BIEの社員はこざっぱりした服装をしている。


 左端がBIEの社長のジルス・ベドで右端が筆者。


 初めての伐採地で、期待以上の木目のいいパリサンダーが多く確保出来たので、BIEの社員も安堵感を持っていた。




 洗濯前の私のブルー・ジーンズ。見ているだけでなく、私も労働に加わっていた。此の汚れたブルー・ジーンズはメイドが、次の日に私が森から帰って来るまでにきれいに洗い、アイロンをかけておいてくれる。


 森の入口にある村。この村の一部を借りて我々のフリッチの中継地にしていた。


 村一番の豪邸。中に入れて頂いた。部屋の隅に竈があるだけで家具らしい家具は全くなく、土間の上に木で組んだ台の上にわらが敷かれ、薄い布が敷いてあった。そのベッドの周囲には何枚かの衣類がかけてあった。その奥に仕切りがあったので、覗いてみたかったが拒まれた。その家のご婦人が人の寝ている格好をして済まなそうに私を見た。


 村人たちの早目の夕食。陽のあるうちに食事を済ませ、後片付けをしてしまうらしい。電気のない生活は我々と時間の過ごし方が違う。


 若い母親に頼まれ、彼女の長男(長女?)との写真を撮った。


 バンガロー・ホテルのオーナーの次男君。私のバンガローに良く遊びに来る。名前は忘れてしまったが、実に可愛い子である。父親はフランス海軍の元中佐か大佐であると聞いたが、年から判断して中佐であったように思う。ご存じのように、中佐をルテナン・カーネル、大佐はフル・カーネルと呼ぶのが正式であるが、どちらも略して「カーネル」と呼ぶ習わしが軍隊にはある。私が聞いたのは「カーネル」であった。彼はこの地で地元のアフリカ系のマダガスカル人のご婦人と恋に落ち、フランス海軍の地位を捨てて、此のバンガロー・ホテルを彼女とともに開いたのである。
 解せないことがある。長男であるこの子の兄はアフリカ系のマダガスカル人同様に肌が黒く、次男はご覧の通り肌が白い。然も年が10才ほど離れている。最初は兄弟とは知らなかった。


 左のお嬢さんはこのバンガロー・ホテルでメイドとして働いている最年少の従業員。次男と非常に仲がいい。彼女の仕事中も彼女の後について行く。

 先週、写真仲間と群馬県の南牧村に行ってきた。民宿に泊り、のんびりと歩きながら古民家を撮影するのが目的であった。紅葉のシーズンには少し早かったが、秋を堪能出来た。読者諸兄諸姉にもお裾分けをしたい。














TDY, Temporary Duty マダガスカル編 42

2014年10月20日 | 日記
 一月の終りだった。マレーシアのクアラランプール空港で成田行の便を待っているときに、同年代の日本人に話しかけられた。ドバイからの帰りだと云っていた、そして「成田に着いてすぐに北海道に行くのです。気温の差は60度以上です。参ります」と苦笑いをした。私の場合でも、日本が冬の時は60度までは違わないが、30度以上の差が確実にあった。諸兄諸姉もご存じだろうが、我々の体は夏の暑いときには完全に毛穴が開いてしまう。そして秋に近づくにつれ毛穴が閉じていく。日本が冬のとき、マダガスカルは当然夏である。毛穴が充分に開き切り、閉じる前に寒い日本の冬と遭遇するのである。その寒さは例えようもない。成田に着いた途端に熱い国に戻りたくなる。若いころ、ろくな防寒具も着ないままオートバイで冬の道を走っていた。また、スキー場では汗も拭かずにリフトに乗って風に吹かれた。このような事を繰り返しているうちに肋間神経痛になってしまった。だが、冬に熱い国で過ごすようになると、自然に病状が良くなったようだ。而し、今でも疲れると痛みが出るときがある。そのときは使い捨てカイロを貼ってやると痛みが消える。
 暑い国から、9月の末か10月に帰って来ると、実に清々しく幸福な気分にひたれる。このようなチャンスは一年に一回あるかないかである。暑い国では蚊だけではなく、あらゆる虫に刺されないようにしなければならない。また、土の中にはどのような病原菌が生息しているか不明である。もし、そのような病原菌を持って帰ってきても、日本ではすぐに正しい治療が受けられる保証はない。日本では未知の病原菌である可能性が大である。無事に日本に戻れれば、しばらくの間は何の心配もなく、マラリアの予防薬も飲まずに安心して暮らせる。この点、日本は非常にいい国であり、ありがたい。

 前回にマダガスカルの紫檀に就いて少し触れたが、日本には私がサンプルとして持込んだものしかマダガスカルの紫檀はない筈である。パリサンダーを日本で「紅紫檀」と名前を付けて売っている業者もいる。他の紫檀の代替え品より少しでも高く売ろうと、赤めの塗料を塗って売っているのであろう。その他にも変った名前の紫檀がある。その最たるものは「手違い紫檀」である。銘木を扱わせてはその人の右に出る人は居ないと云われるほどの名高い人が東南アジアで紫檀に出会い、喜んで買ってきた。日本に戻ってからその「紫檀」を再度検分した。「本紫檀」と云われるインド産の紫檀とは異なることに気が付いた。そして「おぉ、手違いだった!」と云ったそうだ。それでそのような名前がついたが、非常にものがよく、今では銘木の中でも高級品で通っている。インドの本紫檀と同じマメ科であるが、学術的には多少違う。此の手違い紫檀をタイではチンチャンと云い、ビルマではイーンダイクと云う商品名で呼ばれている。
 実際の手違い紫檀はマダガスカルの紫檀とは全く違い、むしろ色の濃い、木目のしっかりしたアンツォヒヒ産のパリサンダーの方に似ている。だが、新木場ではパリサンダーより手違い紫檀の方が格段に高い値で取引されている。






 上の三枚の写真は全てパリサンダーである。而し、もう少し色を濃くしたら「手違い紫檀」(チンチャン)としても通用するに違いない。比重の問題だけである。
 新木場の床柱の加工業者には名人が揃っている。木目と木目の間に木目を書き足したり、全くない所に木目を書いてしまうこともやる。中には節のあるフリッチを安く買い、その節を消して、その上に新たに木目を書いたりもする。仕上げの塗装をしてしまえば素人、いや玄人が見ても書き足した木目を識別することは出来ない。このような名人技を以てすれば、上の三枚の写真のようなパリサンダーを「手違い紫檀」風に加工することなど造作もないだろう。


 手違い紫檀とパリサンダーの比重が違うが、せいぜい0.2から0.4の差である。「211」と番号が振ってあるパリサンダーなどは非常に重い。従って手違い紫檀の比重と変わらないのではないだろうか。




 上の二枚の写真は、パリサンダーのフリッチとしては決して悪くない。中より上である。だが、手違い紫檀と見まがうようなパリサンダーを見た目には非常に安っぽく見える。


 そのような目で見れば、上の写真のパリサンダーなどは只の角材にしか見えない。而し、これも含めて買わざるを得ない。一番上にある写真のようなパリサンダーだけを買えば、購入価格は倍かそれ以上になるだろう。だが、新木場ではそのような値段は通用しない。


 「どうだ、俺の作ったフリッチは。いいだろう」と云っているようだった。


 マダガスカル固有の紫檀のような木目を持ったパリサンダーにお目にかかった。木目だけではなく色の具合も非常に近かった。


 トラックまで肩に担いで運ぶ。私がいるのを認めると手を振って挨拶してくれた。私は安全を願って「モラ、モラ」(ゆっくり、ゆっくり)と声をかけた。重量のあるものを不用意に急いで運んだのでは事故のもとである。


 荷台が傾いてしまうほどの重量であった。もっと積むと云っていたが、大丈夫だろうか。




 35センチから40センチ角ほどの太いフリッチをトラクターで森から運んできた。これからトラックに乗せ換えるのが一苦労である。後ろに見えるのはマンゴーの木。




 アンツォヒヒの街中にあるホテル。BIEの社員もこのホテルに泊っている。私が泊っているバンガローよりかなり安いそうだ。そのホテルにBIEの社員を降ろすと、顔見知りになった森の民の一家に出会った。結婚式に出席するそうで、いいホテルに泊れたのを喜んでいた。それにしても、あの森の中からどうやって此処まで来たのだろうか。歩いてきたとしか考えられない。