TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

折々の写真&雑感 391

2022年08月07日 | エッセイ
 統一教会のことを書きたい。周囲には宗教法人だと統一教会では云っているが、あんなものは宗教でも何でもない。金集めの偽装団体と云うのが正しい。安倍元首相が凶弾に倒れたのをきっかけに、重しが取れたように多くのマスコミが連日「旧統一教会」と云い、常識外れの金集めのことを報じているが、それでも統一教会の本質に迫ってはいない。

 旧約聖書と新約聖書を下敷きにしてキリスト教のように見せかけているが、キリスト教とは縁もゆかりもない。韓国の土着の宗教を、若い人たちをたぶらかす為にさもキリスト教と関係があるように装っているだけだ。教祖の故文鮮明が日本から貢がせた金を使ってアメリカに初めて行った時、人を使って事前に集めた記者たちに「自分はイエス・キリストに『後を頼む』と頼まれたのだ」とのっけに云った。すると一人の記者が「何語で話したのか」と質問した。すると、「訛りの強いユダヤ語だった」と答えた。すると記者たちの間から笑い声が上がった。当時のイエス・キリストが話していたのはアーマイ語であってユダヤ語ではなかった。この事は、先祖代々キリスト教を信じている家庭で育った人たちの間では常識であった。この時点で文鮮明は相手にされなくなったと聞く。

 私の双子の娘はどちらも統一教会の犠牲者だった。だが、集団結婚の候補に挙がる前に説得して救い出した。 幸運だった。娘たちは勧誘されたときに「このことは絶対に誰にも云うな」と云われていたそうだ。もし、双子同士で話し合っていたら、絶対にあんな可笑しな宗教は信じなかったと云っていた。「荻窪栄光教会」を拠点にして統一教会に取り込まれた若い男女の救出運動を行っていたグループがあった。私もその運動に参加していた。中心になって説得を担当していたのはM氏で統一教会に関して実に造詣の深い人であった。元が韓国の土着の宗教であると克明に研究された書物を私に紹介して下さったのもM氏であった。キリスト教の教会と、牧師と一緒にならなければ、キリスト教をゆがんで教えられた若者を戒心させることは出来ない。最初に正しいキリスト教を教えてからでなければ説得は難しかったからである。参議院議員の有田芳生氏が、議員になる前に統一教会ついてのレクチュアーを受けたのはM氏からであった。

 此の紙面では公序良俗に反するので詳しく書けないが、韓国の土着の宗教を基にする統一教会の真の教えはおぞましく歪めた「性」である。集団結婚の儀式はその手始めに過ぎない。我々の救出グループで統一教会の間違いに気づいて改宗した人たちは多くいる。集団結婚を経験した人もいた。その中には幹部もいた。その人の話では、熱心に信仰に励んでいるのは入信間もない人や下っ端の信者が多く、男で幹部に登り詰めた人たちに熱心な信者は殆どおらず、土着の宗教の方に熱心だったようである。

 今から何十年も前に国がきちんと対処していればこれ程の金銭的被害や悲惨な家庭が生れなくて済んだのに、自民党の多くの議員が統一教会から金を貰い、選挙を餌に抱きこまれていたりで被害者の話をまともに取り上げてくれなかった。我々だけの力では集団結婚の阻止すら出来なかった。特に岸一族の抱き込まれ方は尋常ではなかった。そして、その系統をひいている議員たちは統一教会の何たるを知っていてお互いを利用し合う関係を現在も続けているようだ。

 以下は10年以上前の8月に撮った小石川後楽園の写真である。暑いさなかであるので、出来る限り涼しげな写真を選んだつもりである。また、写真の腕が上達していないのはご容赦願いたい。


 涵徳亭(カントクテイ)。食事をしないときでも庭園を眺めながら、ゆっくりお茶が楽しめる。




 円月橋






 涼しげに泳ぐ鯉が羨ましくなるほど暑い日だった。



折々の写真&雑感 390

2022年07月31日 | エッセイ
 例のトンチキな友人は「ファースト・クラスでもビジネス・クラスでも、着くのは同じ時間だ。だから俺はツーリスト・クラスでいい」と云うが、ホテルは驚くほどの高級なホテルを私に予約させる。現在はメールでいいが、その昔はファックスでの予約だった。予約完了のファックスを呉れるホテルが殆どであったが、中には知らん顔のホテルもあった。そんな時は、確認のファックスを寄こすように催促する。友人に先方から送ってきた確認のファックスを持たせて旅立たせる。友人は「どうもな!」と軽く云うが結構面倒くさい作業だった。

 友人が仰せになるように、ツーリスト・クラスでも、座席の狭さを我慢すれば上のクラスと到着時間は同じだ。だが、降りるのは最後になる。私は出張で行く場合には着いてすぐに仕事が出来るようにビジネス・クラスを利用していた。これは多少のゆとりが出来るようになってからの話で、最初は全てツーリスト・クラスだった。なかでもマダガスカルへの出張は大変だった。飛行機を3回も乗り継がなければならなかった。特にきつかったのはマレーシアのクアラランプールからモーリシャス迄の夜行での10時間のフライトだった。モーリシャスで半泊するものの完全に疲れは取れない。自宅を出てからアンタナナリブのホテルに着くまで36時間かかった。それが、モーリシャス航空の好意でクアラランプールからモーリシャス迄の区間だけのビジネス・クラスの航空券を発券してくれた。料金は往復で10万円を上乗せしただけだったが、地獄からはい出したような快適さだった。

 輸出の仕事で外国に行くときは、それほど高級なホテルではなくてもいいが、輸入の仕事で行くときは最上級とまではいかなくともある程度のホテルに泊まるようにしていた。「あんなしみったれたホテルに泊まるような奴に大事な商品を送っても大丈夫だろうか?」との先方の不安を無くす意味があった。

 現役を引退してから、友人に頼むようにしてビジネス・クラスで一緒に旅行を楽しんだことがあった。最初は「お前だけビジネス・クラスで行け」と云っていたが、いざビジネス・クラスに乗ってみると彼の表情が変った。「食い物まで違うとは知らなかった。今度はファースト・クラスで旅しよう」と云われたが、定価のツーリスト・クラスの料金の4倍の価格を払ってまで乗りたくはなかった。

 久しぶりに江戸川競艇に行く予定であったが、最近の感染者数を見ると安心して公共の交通機関に乗れる状態ではないと考えた。また、競艇場のレストランも心配だ。事情が事情なので3年も前の写真でご勘弁願いたい。


 最初のターンの上手な選手が好成績を残している。ターンにかかる何メートルか前にエンジンを絞って艇のスピードを落とし、ポイントに着いたらエンジンを最大限にふかしてターンのブイを切り抜ける。そのタイミングの掴み方が難しいようだ。








 スタート直後に既に差が出ている。選手各自が行うエンジンのチューニングの差でもあるようだ。



折々の写真&雑感 389

2022年07月24日 | エッセイ
 埼玉県の多くの道路が豪雨で冠水してしまったニュースをテレビで何回も観た。何年も前の事だったが、私も埼玉県で冠水した道路を走っていたことがあった。途中に坂があったが、一気に下って登れば問題ないと、アクセルをふかして突入した。だが、深みに入り車が動かなくなってしまった。友人と一緒に彼の親しくしていた材木会社を訪ねての帰りだった。助手席に乗っていた友人はやっとのことでドアーを開けると雨水がなだれ込んできた。私も車の外に出た。水は座席のすれすれのところまで来ていた。

 友人が助けを求めた材木会社のトラックが救出に駆けつけてくれ、自動車後部のバンパーの下のフックにロープを繋いで水たまりから引き揚げてくれた。辺りは既に暗くなっていた。

 材木会社に着き、何人か残っていた社員たちと車を点検したが、特に故障部分は見当たらず、水に濡れただけの事のようだった。その中に知恵者がいた。「マフラーから水が入ったと思いますから、車の前を持ち上げてマフラーから水を出せばいいのではないでしょうか」と云った。車の販売会社や修理会社は既に閉まっていたので、彼の云うとおりにやってみるしかなかった。材木の移動に使うフォークリフトで前部を持ち上げると後部から水が流れ落ちた。水の流れが治まったところで「暫くこのままにしておきましょう」と、社長が夕食の出前を取ってくれた。

 夜の10時を過ぎた頃、水抜きのアイディアを出した社員が「そろそろエンジンをかけてみましょう」と云ったので、私がセルを廻したが全く反応がなかった。バッテリーに問題があるのかもしれないので、ボンネットを開けてトラックのバッテリーを繋いで再度エンジンをかけてみた。最初は駄目だったが、何回か試すうちにエンジンがかかった。周囲から歓声が挙がった。エンジンを一時間近くかけっぱなしにしておいてからそろそろ車を動かしてみた。見事に動いたので帰る事にした。「途中でエンジンが止まったら最後ですよ。停めないようにして帰って下さい」と云われ、高速道路迄の安全な道を教わって走り始めた。雨は既にやみ、道路の冠水も消えていた。とにかく無事に帰れた。親切な人たちのお蔭だと今でも思い出しては感謝している。

 その後、車は普通に走ったが、パワーウィンドウが使用出来なくなっていた。助手席の下に付けられていた電子回路の基盤が水没して駄目になったらしい。もう10年も乗っていたので買い替え時はとっくに過ぎていたが、名車と云われた2ドアーの日産スカイラインGTの最後のモデルは、手放したら二度と手に入らないと乗り続けていた。下取りの都合でトヨタと日産を交互に乗っていたので次はトヨタにしようと考えているときに日産のセールスマンがやって来た。「中古のセフィーロを買って下さるなら、良い値で下取りします」と云われた。非常に條件が良かったので初代のセフィーロの中古を購入した。そうして頃合いを見て新車に乗換えれば損はしない計算だとセールスマンに教わった。会社の利益より、セールスマン自身の手数料を考えての作戦であったのだと思う。ガソリンスタンドに行った時にスタンドマンから云われた「この車はスカイラインGTのエンジンを積んでいますので、大事に乗って下さい」と云われた。道理でエンジンの噴けが良いわけだと納得がいった。

 久しぶりに団地の花壇の花を撮りに行ったが、猛暑のせいか、期待していたほどの瑞々しい花は撮れなかった。
 今回はマクロレンズではなく、キャノンの5DIVに70-200mmのレンズを付けて撮った。ご存知のようにボケ味の良いレンズであるのでブラック・ミスト・フィルターの必要は無かった。












折々の写真&雑感 388

2022年07月17日 | エッセイ
 中学の同級生に自衛隊員がいた。彼は中学、高校と野球を続けていたが、甲子園には行けなかった。それを今でも悔しがるほどに野球に打ち込んでいた。彼は大学には行かずに自衛隊に入った。体育会系であったことが幸いしたのか、陸曹(軍曹)になるまで非常に早かった。

 伊豆方面にジープで隊列を組んで訓練に行った。自分より階級の下の隊員にジープを運転させ、軍曹殿(陸曹)は陸上自衛隊の規則ではしっかり結ばなければいけないヘルメットのあご紐を外し、ソファーでくつろぐように一人で後部座席に座っていた。詳しい原因は知らぬが、彼の乗っていたジープだけが谷底に転落した。助手席に乗っていた隊員は何カ所も骨折する程の重傷を負ったが、運転していた隊員は右腕を骨折しただけだった。ヘルメットの紐を外してくつろいでいた軍曹殿はかすり傷を負っただけだった。もしヘルメットの紐をきつく締めていたら、顎が砕けていたかもしれなかったと後で聞いた。アメリカの戦争映画のようであった。

 この事故の模様は夕刊に「訓練中の自衛隊のジープが谷底に転落」と大きく報道された。その隊員の名前の中に友人の名前も載っていた。様子を聞こうにも連絡先が分からない。新聞には事故を起こした部隊名しか書かれていなかった。友人たちの間では彼が重傷を負ったか、首の骨を折って死亡したかもしれないとの噂が流れた。

 四、五日して彼から電話があった。「俺、死んだと思っただろ。そうだとしたら、不名誉な戦死だ」とのんびりした声で仰せになった。「転落した際にジープから放り出され、谷底に転げ落ちたんだ。その時に頭が立ち木に当たり、ヘルメットだけがすっ飛んだ。だから俺の頭にはそれほどの衝撃がなかった」とのことだった。

 一等陸曹になる前に自衛隊を除隊して銀座の広告会社に就職した。そして、彼は三つ年上の奥さんと結婚した。「俺より年上だとは知らなかったんだ。区役所に婚姻届を出しに行った時に知ったんだ」と照れたように云った。残念だが、彼がボケ始めたのは意外に早く、奥さんの方がずっと若々しく今でもしっかりしている。

 以下の写真は10年以上も前に、初代のEOS5Dと初代のEF24-105mmのレンズを使って船の科学館で撮ったものである。今思うと、この角度ではない、もっと寄れればとか、レンズを変えればとかいろいろと考えさせられる写真である。
明日が「海の日」であることを、このブログの投稿で知った。毎日が日曜日であると、祭日を待ち焦がれることも無くなる。












折々の写真&雑感 387

2022年07月10日 | エッセイ
 現在のデジタル・カメラはメディアが入っていなければ絶対にシャッターは切れないし、その前に警告が表示されるのは皆さまもご存知であろう。だが、私が最後まで使用していたフィルム・カメラは、そのような親切な装置は付いていなかった。

 従妹の結婚式の写真を撮るように叔母から頼まれ、36枚撮りのカラーフィルムを何本も持って勇んで式場に向かった。従妹は非常に美人で、小さなころから私と非常に仲がよく今でも実の兄妹のように付き合っている。

 フィルムの残数を数えながら、式の出席者の写真を撮り終え、最後の一本をお色直しに使うことに決めていた。だが、肝心のお色直しの撮影の時にフィルムを入れるのを忘れてしまった。撮り終えるまで全く気が付かなかった。ずいぶん撮ったのにまだフィルムがあるのかとカウンターを見ると「0」になっていた。それでもフィルムの巻き上げ装置は作動し、シャッターは切れた。どうもおかしいと考え、隅の方の暗い席の厚手のテーブル・クロスの下でそっと裏ブタを開けてみた。手探りで確認すると、フィルムが入っていなかった。普段は温厚な叔母に凄く叱られた。何を云われても仕方がない。人生の晴れ舞台の写真をフィルム無しで撮ってしまったのである。本人は「仕方ないわよ」と私のいつものそそかしさと笑い飛ばしてくれたが、今でも済まないことをしたと思い出しては悔やんでいる。

 以下の写真は2009年の4月と5月に初代のキャノン5Dで都営荒川線とその沿線を撮影したものである。当時はコロナなど影も形もなく、自由に何処にでも写真を撮りに行けた。非常に幸せなことであったが、当たり前であるとの認識しかなかった。










 王子稲荷まで足を延ばした。初めて行った稲荷神社に圧倒された記憶がある。