サン・マウン副局長の指示を守り、セイン・ウェイは伐採業者とグレイダーに会えるよう手配しておいてくれた。グレイダーは木の肌や花を見ただけで、その木がどのような木目を持ち、心材はどのような色を持っているか判断出来る。ホテルのロビーで話し合った結果、以下の点で非常に難しいと私の申し出が断られた。その第一は新木場の品質に対する條件がきつすぎること、第二は我々の希望する量と納期、第三はマンダレーからラングーンまでの輸送の問題。貨物列車は軍と政府系企業が優先するので日程が定まらない。トラック便を使えば、私の希望する金額を大幅に超えてしまう。先方の見積価格についてはかなりの駆け引きがあると考えて問題にしなかったが、第一と第二の問題は、トラックを使っても解決出来る問題ではなかった。
私は貿易屋としての自信を失いかけた。バンコクの業者はどうやってビルマからカリンのフリッチを集めているのだろうか。何か方法があるはずだ。伐採業者とグレイダーを帰した後、セイン・ウェイとお昼を食べに行った。Tohin(漢字で桃園と書いてあった)と云う中華料理店だった。二人でかなり食べ、私はジンジャーエールをセイン・ウェイはビールを二本ほど飲んだが、料金は90チャット札(180円)を二枚出してお釣りが来たことを記憶している。釣銭は当然のことチップとして置いてきた。食事が終った後で、バンコクの業者のことを話すと、彼はあっさりと「政府系企業と取引しているからです」と云った。そしてかなりのバックマージンを役人に払っているそうだ。彼らは床柱に加工して売っているので、かなりの利益が見込めるが、私は原料を売るだけなのでそれほどの利潤を確保出来ない。
帰り道で、私の隣を歩いていた筈のセイン・ウェイの姿が急に消えた。不思議に思って振り返ってみると、彼はしゃがんで小便をしていた。ロンジーでは男らしく立小便と云うわけにはいかないのだろう。それにしても、大通りでやるなんておおらかなもんだ。
セイン・ウェイは私にカリンのフリッチより、もっと値の張るものを扱っては如何かと提案してくれた。その提案を受け、もう一度マンダレーに来る決心をした。

王城を占拠して陸軍の兵屯地にしている。兵士が向こうを向いているすきに、急いで何回もシャッターを切った。兵士が急に振り返ったので、カメラをしまう時間がなかった。仕方なく「撮っていいか?」と聞いた。彼は小銃をこっちに向けて「No!」と大声で云った。マンダレー空港で出会った兵隊たちと全く感じが違っていた。彼がビルマ族ではなく、好戦的な他の部族だからなのか。或いは非常にに重要な任務を帯びている基地なのだろうか。何れにしろ、写真を撮っている現場を見られなくよかった。
この散歩の帰り道で、四つ角に兵士が小銃を向けて立っている姿を何度も見かけた。一度など、母親が幼児の手を引いて歩いていたが、銃口はその親子に向けられていた。戒厳令を敷き、この穏かなマンダレーで銃口を住人に向ける必要がどこにあるのかと考えた。
バンコクで知り合ったニューヨーク・タイムスの記者に、このマンダレーで見た話をした。彼は戦場じゃあるまいし、兵士が銃口を同国人の市民に向けているところなど、世界中どこを探してもないと云って呆れていた。

夕暮れの王城。この国の中を自由に写真が撮れるなら、一眼レフを持って何度でも通いたい。この位置から見ている限り、この中にビルマ陸軍が駐屯しているとは想像出来ない。

偶然同じ列車に乗った、かつてのビルマのバレーボールのナショナルチームのメンバー。当時のチームの監督しておられた桧山氏がビルマを訪れたので一緒に旅行したのだと云っていた。彼女らの中には北大の医学部に留学していたお嬢さんがいた。研究のためにエイズで死亡した患者の献体を申し出たが、軍は「ビルマにエイズは存在しない。研究は不要だ」と一方的に云われたそうだ。彼女は確信を持ってエイズ患者が何人もいると私に訴えた。そして、日本が如何に平和で自由に振る舞える国であるかについて話した。ただ、彼女の話を聞くしか私に出来ることはなかった。

食堂車も、車内販売もないとは知らず、夕食など用意していなかった。途中で停った駅で弁当を売っていないかと、窓枠に腕を乗せ売子を探していると、元ナショナルチームのお嬢さんの一人が私の腕を引っ張って窓の中に引っ込ませた。「手を出していると、その時計欲しさに手首を切り落とされます」と真剣な顔つきで云った。そんなことはめったにないとは思ったが忠告に従った。注意してくれたお嬢さんが食べ物を分けてくれた。セイン・ウェイが呉れた飲料水もある。何とか飢えをしのげる。
英国が作った鉄道なので、当然線路は日本と同じ狭軌である。だが、一等車はラングーンに向かって右側は二座席、私の座っていた左側は一座席で足もゆっくり伸ばせた。夕暮れの、何処までも続く畑の中を列車は快適に走っていた。だが、徐々にスピードが上がると、座席が弾むように感じることが何度もあった。日本の列車と比べて非常に座席が柔かいせいだろうと考えた。だが、横にも大きく揺れ始めた。これがヨーロッパやアメリカでも評判の「ビルマの暴走列車」だったと、後になって知った。
私は貿易屋としての自信を失いかけた。バンコクの業者はどうやってビルマからカリンのフリッチを集めているのだろうか。何か方法があるはずだ。伐採業者とグレイダーを帰した後、セイン・ウェイとお昼を食べに行った。Tohin(漢字で桃園と書いてあった)と云う中華料理店だった。二人でかなり食べ、私はジンジャーエールをセイン・ウェイはビールを二本ほど飲んだが、料金は90チャット札(180円)を二枚出してお釣りが来たことを記憶している。釣銭は当然のことチップとして置いてきた。食事が終った後で、バンコクの業者のことを話すと、彼はあっさりと「政府系企業と取引しているからです」と云った。そしてかなりのバックマージンを役人に払っているそうだ。彼らは床柱に加工して売っているので、かなりの利益が見込めるが、私は原料を売るだけなのでそれほどの利潤を確保出来ない。
帰り道で、私の隣を歩いていた筈のセイン・ウェイの姿が急に消えた。不思議に思って振り返ってみると、彼はしゃがんで小便をしていた。ロンジーでは男らしく立小便と云うわけにはいかないのだろう。それにしても、大通りでやるなんておおらかなもんだ。
セイン・ウェイは私にカリンのフリッチより、もっと値の張るものを扱っては如何かと提案してくれた。その提案を受け、もう一度マンダレーに来る決心をした。

王城を占拠して陸軍の兵屯地にしている。兵士が向こうを向いているすきに、急いで何回もシャッターを切った。兵士が急に振り返ったので、カメラをしまう時間がなかった。仕方なく「撮っていいか?」と聞いた。彼は小銃をこっちに向けて「No!」と大声で云った。マンダレー空港で出会った兵隊たちと全く感じが違っていた。彼がビルマ族ではなく、好戦的な他の部族だからなのか。或いは非常にに重要な任務を帯びている基地なのだろうか。何れにしろ、写真を撮っている現場を見られなくよかった。
この散歩の帰り道で、四つ角に兵士が小銃を向けて立っている姿を何度も見かけた。一度など、母親が幼児の手を引いて歩いていたが、銃口はその親子に向けられていた。戒厳令を敷き、この穏かなマンダレーで銃口を住人に向ける必要がどこにあるのかと考えた。
バンコクで知り合ったニューヨーク・タイムスの記者に、このマンダレーで見た話をした。彼は戦場じゃあるまいし、兵士が銃口を同国人の市民に向けているところなど、世界中どこを探してもないと云って呆れていた。

夕暮れの王城。この国の中を自由に写真が撮れるなら、一眼レフを持って何度でも通いたい。この位置から見ている限り、この中にビルマ陸軍が駐屯しているとは想像出来ない。

偶然同じ列車に乗った、かつてのビルマのバレーボールのナショナルチームのメンバー。当時のチームの監督しておられた桧山氏がビルマを訪れたので一緒に旅行したのだと云っていた。彼女らの中には北大の医学部に留学していたお嬢さんがいた。研究のためにエイズで死亡した患者の献体を申し出たが、軍は「ビルマにエイズは存在しない。研究は不要だ」と一方的に云われたそうだ。彼女は確信を持ってエイズ患者が何人もいると私に訴えた。そして、日本が如何に平和で自由に振る舞える国であるかについて話した。ただ、彼女の話を聞くしか私に出来ることはなかった。

食堂車も、車内販売もないとは知らず、夕食など用意していなかった。途中で停った駅で弁当を売っていないかと、窓枠に腕を乗せ売子を探していると、元ナショナルチームのお嬢さんの一人が私の腕を引っ張って窓の中に引っ込ませた。「手を出していると、その時計欲しさに手首を切り落とされます」と真剣な顔つきで云った。そんなことはめったにないとは思ったが忠告に従った。注意してくれたお嬢さんが食べ物を分けてくれた。セイン・ウェイが呉れた飲料水もある。何とか飢えをしのげる。
英国が作った鉄道なので、当然線路は日本と同じ狭軌である。だが、一等車はラングーンに向かって右側は二座席、私の座っていた左側は一座席で足もゆっくり伸ばせた。夕暮れの、何処までも続く畑の中を列車は快適に走っていた。だが、徐々にスピードが上がると、座席が弾むように感じることが何度もあった。日本の列車と比べて非常に座席が柔かいせいだろうと考えた。だが、横にも大きく揺れ始めた。これがヨーロッパやアメリカでも評判の「ビルマの暴走列車」だったと、後になって知った。