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TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 11

2015年03月10日 | 旅行
 チャーター機が来るまでに三日の間があった。それまで何もすることはない。島民との語らいも夜にならなければ望めなかった。ローリーの提案でピクニックに行くことになった。大の大人が三人でピクニックもなかったが、ウッドラーク島には知らない処がたくさんあった。好奇心もあった。銅山の管理事務所とは反対側の島の東南の方向に15キロほど行くのだそうだ。我々がこれから行くコースはほぼ平坦で、サイクロンの被害はそれほど受けていない筈だとローリーは推察した。島を熟知している彼の事だから、間違いはないだろう。念のためだと云って、ローリーは荷台にチェーンソウとスコップを積み込んだ。エイミーがサンドウィッチとパイナップル・ジュース、それにココナッツ・ジュースを沢山持たしてくれた。


 ピクニックに行く前に、コンテナーの状況が気になると、ローリーは点検に立ち寄った。


 目的地にはあっという間に着いた感じだった。森を抜け、明るくなったと感じたら、そこは砂浜の上にまで木が生い茂っている海岸であった。


 ローリーとクリスは子供に返ったように、木と岩が合体して出来上がったようなところに登って行った。


 それほど高い場所ではないが、二人は満足していた。


 南に面した海。此処は遠浅で、シーズンになると手で巨大なハマグリが掬えると云っていた。貝殻ごと焚火の上で焼くのだそうだ。塩水を多量に含んだ貝は、それだけで例えようもない旨さになるそうだ。そのハマグリだと云う貝殻が落ちていた。30センチと20センチほどあり、貝殻が何枚も重なっており。バームクーヘンのようになって波を打っていた。厚みは5センチほどもあった。どう見ても私の知っているハマグリには見えなかった。確かめてみると、確かに「Clam」と云った。間違いなくハマグリの事だ。貝殻があまりにも美しいので、持って帰ってきた。暫く自宅の庭に置いておいたが、是非にと請われて友人にあげてしまった。
 此のピクニックで見たのはハマグリだけではなかった。一本の巨大な木が、他の木に巻かれていた。巨大な木に抱きつくように、網目のタイツのように巻いていた。どうすればこのような木が育つのか私には分らないが、森に木が密集していることに原因があるのではなかろうかと想像した。

 出発の朝、エイミーや子供達だけではなく、毎夜顔を合わせていた島民も別れを惜しんで見送りに来てくれた。皆に別れを告げ、東の飛行場に向けて出発した。車の中では私もクリスも無口になっていた。別れに感傷的になっていたのであろう。

 10分も走ったころ、道路に荷物を抱えた40才ぐらいのご婦人が立っていた。ローリーは黙って車を停めた。クリスが後ろの席のドアーを開けると、ちょっと目で挨拶して乗り込んできた。更に10分ほど走ると、20代と思われる男とその父親ほどの年齢の男が道路に立っていた。彼等の後ろには人がやっと歩けるほどの道があった。やはりローリーは黙って車を停めた。荷台に荷物を放り入れると、二人の男は荷台に乗り込んだ。今朝我々がこの道を通るのを、彼等は知っていたのだ。クリスは「この島にもブッシュフォンがあることが証明されましたね」と私の肩をたたいて喜んでいた。飛行場の手前で、一人の男と、二人のご婦人が待っていた。クリスは黙って荷台に移り、後ろの席をご婦人たちに譲った。「この人たちは全員がポートモレスビーに行きたがっています。チャーター機にどうか一緒に乗せてあげて下さい。料金は払えません。アンフェアー(不平等)かもしれませんが、彼等の収入を考えてあげて下さい。クリスも分ってくれます」とローリーは神妙な口ぶりで云った。

 飛行場には大勢の島民が集まっていた。私がこの島に到着したときと同じようなお祭り騒ぎだった。地面は乾いていたので、着陸には問題ないだろうと、一応は安心した。黙って草の上に座ってチャーター機を待つしかなかった。風があって、涼しかったが、徐々に太陽の熱が上がってきた。見物の島民に促されて、ヤシの根元に移動した。ローリーとは顔見知りらしい。その島民が我々に二つに割ったヤシの実を持ってきてくれた。それにはヤシの葉で作ったスプーンまで添えられていた。ココナッツ・ジュースを飲み、添えられたスプーンで柔かいココナッツをすくって食べた。実に美味しかった。何の代償も求めない彼等の親切心に感謝した。

 見物客が騒ぎ出した。ローリーがチャーター機が来たようだと云った。だいぶ経ってから飛行機の音がかすかに聞こえ、私にも小さな機影が見えるようになった。見えたと思ったら、すぐに着陸態勢を取った飛行機が目の前に迫って来た。この島に来た時に乗った飛行機に比べ、かなり大きかった。これなら、ウッドラーク島のお客とクリスに私、総員8人が乗ってもまだゆとりがありそうだ。
ローリーとの別れは慌ただしく簡単であった。エンジンの音の中で、「是非、また来てください!」と云うのが聞こえた。機内には既に乗り込んだ島民が神妙な顔をして座っていた。彼等は後ろの席に陣取り、前の席を私とクリスのために空けておいてくれた。
 途中かなり揺れたためか、最初は無口だった島民たちは機体が水平になり、安定した飛行に移ると急に陽気におしゃべりをしだした。全員が初めて飛行機に乗ったらしい。言葉が旨く通じない所は手真似を交えて話した。クリスは私が死んだ蛾にたじろぎ、蝶に追われて逃げたと大げさに話すと、全員が笑い転げた。ポートモレスビーにはあっという間に着いた。

 空港に着き、チャーター料の清算を済ますと、クリスとは別のタクシーを拾った。クリスとはトラベロッジ・ホテルのロビーで落ち合うことにして、便乗の皆さんを手分けして行きたい場所まで送って行った。

 ホテルの部屋に入ると、直ぐにテレビをつけた。タクシーの中で聞いたニュースの続きが気になったのである。第一次湾岸戦争はアメリカ軍が1991年1月17日にイラクに空爆を行った事で始まったと記憶している。此の事は知っていたが、それ以降の事はよく知らなかった。ウッドラーク島では世界の全てのニュースから完全に遮断されていた。テレビをつけて真っ先に飛び込んできたCNNニュースは「カーペット・ボンビング(絨毯爆撃)」の音声と爆撃機から大量の爆弾が落とされているシーンだった。

 この戦争に日本は直接参加しなかったが、アメリカに云われ1兆2千億円も拠出させられた。此のことに積極的に動いたのが当時の橋本大蔵大臣だったと聞いている。この拠出金のうち、被害にあったクエートに入ったのは6億3千万円。残りの殆どである1兆790億円がアメリカの手に入った。その上、クルド人難民支援と説明のあった700億円の追加援助まで行い、そのうちの695億円がアメリカの手に渡ってしまった。
 これを機に、アメリカの景気はよくなり、それとは逆に、日本の不景気は今でも続いている。アメリカは日本の金で古い武器の在庫処分をし、新しい武器を生産した。これが好景気の起爆剤になっているのでないだろうか。確実な原因は知らない。而し、このような現象が続いているのは確かである。

 クリスの航空券は一年のオープン・チケット(発券日から一年間、希望の日時に利用可能の航空券)だったので、問題はなかったが、私のは安いペックス・チケット(PEX、日時指定の航空券であり、他にも種々の制約がある)であった。期限切れのために、そのチケットは使えず、新たに買い直さなければならなかった。帰りの片道の航空券に、私が最初に買った往復航空券とそれほど変わらぬ料金を支払った。安物買いの銭失いとはよく云ったものだ。エアー・ニューギニアでは気の毒がって、ラバウルへの往復航空券を使えるようにしてくれると云ったが、私としては期限切れになった帰りの航空券を使わせて貰いたかった。
 スーツケースを預けるとき、私の荷物が規定より6キロオーバーしているので、その分の料金を払えと云われた。傍で聞いていたクリスが係員に、「その分を俺がトラベラーズ・チェックで払う。支払先にアンタの名前を記入する。その名前でいいな」と云って彼のネームプレートを指差した。彼は嫌な顔をして、「通れ」と手で合図した。結局一銭も払わなかった。クリスは私に親指を立て、勝利を祝った。

 オーストラリアのメルボルン行も、香港行きも出発まではかなり時間の余裕があったので、クリスと最後の楽しい食事をした。

 パプアニューギニア編は今回で終了致します。「TDY,Temporary Duty編」は2013年の9月から始め、今日に至っております。長い間のご購読を感謝申上げます。多くの方々からもっと続けろとのお声を頂いておりますが、ネタ切れでこれ以上続けられません。他のアジア諸国、オセニア、南北アメリカ、そしてヨーロッパの国々は大勢の皆様がご旅行なさっています。秘境を主題とした「TDY,Temporary Duty編」とはかけ離れております。

 次回からは、「折々の写真&雑感」のタイトルでしばらく続ける所存です。URLは同じです。是非引き続きのご購読を賜るようお願い申し上げます。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 10

2015年03月09日 | 旅行
 昨夜の雨は完全にやみ、風も収まっていた。だが、庭には至るところに折れた枝や出しっぱなしにしておいた道具やおもちゃ類が散乱していた。それらをクリステンセン夫妻と子供たちが片づけていた。私もクリスと一緒に応援に行った。昨夜、もし洗濯のために衣類を外に出しておいたら、どこかに飛んで行ってしまったに違いない。
 
 朝食後、蛾の死骸がきれいに片づけられているのを確認してクリステンセン家の中に入った。エイミーがパソコンを使ってログリストを完成させていた。プリントアウトされていたのを見ると、昨日までに検品したフリッチのリストだった。それには、当初の契約通りの寸法に書き直された数字がタイプされていた。私のログリストと照合して、間違いがなければカウンターサイン(マダガスカル編15をご参照願いたい)をして欲しいと依頼された。
 余談ではあるが、当時、日本ではパソコンが非常に高く、安いものでも60万円、高性能のものだと100万円近くした。従って、私が使っていたのはNECの「文豪ミニ」と云うワープロ専用機であった。而し、非常に優れもので表計算ソフトが入っており、現在のエクセルと似たように使えた。お蔭でウィンドウズ95に乗り換えた際に全く不安がなかった。一週間も過ぎたころには以前からパソコンを使っていたかと思える程に使いこなしていた。

 カウンターサインを終え、荷物をまとめればいつでも日本に向けて帰れる。クリスもどことなく浮き浮きしていた。「脂っこい食事とも、もう少しでお別れだ」と云った。「カンガルーの肉を食うのか?あんな可愛い動物を食っちまって、日本にクジラを食うなとはよく云えるよな」とつい云ってしまった。彼は「オーストラリア人は誰も鯨を食うなとは云っていません。云っているのはアメリカ人だけです」と抗議されたが、それから何年も経つと、オーストラリア人が日本の学術捕鯨に強硬な反対をしだした。その度にクリスの云っていたことを想い出す。

 鯨とカンガルーの話が蒸し返されたとき、ローリーが渋い顔をしてやって来た。昨夜の激しいスコールで飛行場が水浸しになっているそうだ。それを聞いても、一日や二日のゆとりはあるので、それほど困りはしなかった。ポートモレスビーに戻ってから、レックス・グラッテージに会うべくラバウルに行く予定になっていた。日本を出る前に、既に航空券は手配してあった。
 だが、滑走路が乾く前に、別のもっと激しいサイクロンが襲ってきた。予定は完全に崩れた。雨が降り続き、外にも出られない。家の中で取り留めのない話をしているしかやることはなかった。道がぬかるみ、窪地は沼のようになり、島民の訪問がない日が続いた。外部との唯一の連絡手段であるローリーの無線機は通じなくなってしまった。故障の原因が分らないので修理のしようがなかった。手先の器用なクリスが、無線機を分解してみたが、雑音が聞こえるようになっただけで、それ以上の進展はなかった。

 このままではチャーター機がいつ来るかの連絡も取れないし、日本の留守家族に帰国が遅れることの連絡も取れない。レックス・グラッテージとローリーとの定時の連絡が取れないので、彼は、私のラバウルへの到着が遅れることをある程度予測出来ただろう。ただ、何らかの方法でウッドラーク島がとてつもないサイクロンが襲われたことはアルタオやポートモレスビーには伝わっているだろう。

 昨日、ローリーは雨が止んだら銅山の管理事務所にも無線機があるので、それを借りに行こうと提案した。此処から東北の方角に向かって20キロほどの所に管理事務所はあるそうだ。この島で銅が採掘されているとを初めて知った。現在私とクリスの住んでいる家は銅山会社が以前に所有していたものだったらしい。
 銅山会社に向って出発したが、雑草に埋まっている道にはやたらと木が倒れており、車で進むどころではなかった。一旦引き返し、道具と助っ人を積んで出直した。以下の写真はその奮闘の記録である。












 道を通れるようにするだけでは済まなかった。倒れた木をチェーンソーで切り、人力で片付け、或いは燃やした。このような状態ではかなり時間がかかりそうだった。それで皆で必死に頑張ったが、二日を要した。

 森を抜けると平坦な道が続いたが、雨水がたまっているところが至る所にあった。四輪駆動車であったので、多少の水たまりはどうということはなかった。心配な個所は折った枝で深さを計ってから通過した。最大の難関は、下ってから登りになる個所に行きあたった時だった。その中間部にはかなりの雨水がたまっていた。一番若いクリスが水の中に入って枝を刺した。ローリーの車は通常より高い位置にマフラーが取り付けてあったが、それを超える深さがあった。
 皆で協議した。マフラーに水が入らなければ全く問題はないが、マフラーの位置を超える深さがあるなら、マフラーに水が侵入し、エンジンを止めてしまう。而し、一瞬の事なら、エンジンを一杯に吹かして通過すれば、何とかなるのではないか。それに前方は登り坂なので、マフラーに入った水は流れてしまう。問題は一番水深のある区間がどのぐらいあるかと云うことだった。クリスが再び水の中に入った。二メートル、あっても三メートルだとのことだった。もし失敗したら山中を歩くことになる。此処から管理事務所までの登りを約10キロ、帰りは此処まで送ってきて貰うとしても、此処からまた10キロ、合計で20キロを歩くことになる。平地でも最低で4時間はかかるだろう。此の山の中を歩くなら、どのぐらいかかるか見当もつかなかった。一旦引き返し、水が引くころに出直すのが一番安全な方法である。だが、サイクロンが再びやってこない保証はない。
 三人が出した結論は「失敗を恐れたら何も出来ない」だった。車には全員が乗った。少しでも重くした方がタイヤがしっかり地面を掴む。それと「死なばもろとも」である意思表示でもあった。車をかなりバックさせた。お互いに頷き合うとエンジンを最大限に吹かして水の中に飛び込んだ。水しぶきで前が見えなくなったと思ったら、車が坂を登っていた。見事に成功だった。三人で歓声を挙げた。大人げないとお思いだろうが、大声で叫ばずにはいられない心境だった。

 銅山の管理事務所の責任者は、感じのいい青年だった。それに奥さんが羨ましくなるほどの美人だった。ローリーが事情を説明すると、気持ちよく無線機を使わせてくれた。ローリーが無線機に向い、早速連絡を開始した。「アロタオ、アロタオ、こちらPW2231RC、どなたか応答願います。アロタオ、アロタオ、こちらPW2231RC、どなたか応答願います。アロタオ、アロタオ、 、 、」としばらく続けた。やっと応答があった。アロタウの地上局から航行中のオーストラリア船籍の貨物船に連絡し、そこからオーストラリアの地上局に繋ぎ、更に私の自宅の電話に繋いでもらった。家内が出ると、私は行方不明になっていると告げられた。家内は電話機なので、普通の話し方をしているが、こちらは無線機なので、相手が話している間は当方からは話せない。双方向の無線機ではなかった。私は「心配ない、五日か六日後に帰る」と必要最小限の事を伝えた。私の話が終ると、ローリーが無線機を受け取り、クリスの自宅を呼び出した。そして、最後にチャーター便の確認をした。
 後日談だが、エアー・ニューギニアの東京支店から電話があり、私が乗る筈であったポートモレスビーとラバウル間、それにポートモレスビーと香港経由成田間に私が搭乗していないと伝えられたそうだ。行った先がウッドラーク島だったのでエアー・ニューギニアの職員は非常に心配してくれていたらしい。ポートモレスビーの職員も含めて誰もこの島には行ったことがないし、事情も把握出来ていない。

 全ての連絡が終り、全員に安堵の雰囲気が漂った。管理事務所の美人の奥さんがお昼を振舞ってくれた。大きなお皿に蒸し焼きにした山鳥を山盛りにして出してくれた。野生の鳥と聞いただけで、どんな種類の鳥であるか不明だったが、とにかく旨かった。
 一段落すると、今まで抑えていた好奇心が抑えきれなくなった。「奥さん、凄く綺麗だな。高かっただろう。幾らだった?」と聞いた。「そんなに高くありませんよ。豚5頭でした」とあっさり云った。出張が決まってから、旅行案内書で「パプアニューギニアは豚が非常に高い」という記事を読んでいた。「お前さん、金持ちだな。豚を5頭だなんて」と云うと、彼は、「そんなことはありませんよ。裏山に行けば幾らでもいますよ。一人が追い出し、出てきたら首っ玉に飛びついて捕まえるんです。嫁さんを欲しければ、捕まえるのを手伝いますよ」とご親切に云ってくれた。クリスは身を乗り出して聞いていた。ローリーにもエイミーの値段を聞きたかったが、それは我慢した。クリスも非常な興味があると云っていたが、彼もついに聞けなかったようだ。

 パプアニューギニア編はあと一回で終了する予定です。「TDY,Temporary Duty編」は2013年の9月から始め、今日に至っております。長い間のご購読を感謝申上げます。多くの方々からもっと続けろとのお声を頂いておりますが、ネタ切れでこれ以上続けられません。他のアジア諸国、オセニア、南北アメリカ、そしてヨーロッパの国々は大勢の皆様がご旅行なさっています。秘境を主題とした「TDY,Temporary Duty編」とはかけ離れております。

 パプアニューギニア編11が終りましたら、「折々の写真&雑感」のタイトルでしばらく続けます。URLは同じです。是非引き続きのご購読を賜るようお願い申し上げます。前回に、タイトルを「折にふれて、写真と雑感」と記しましたが、お詫びして訂正致します。


TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 9

2015年03月02日 | 旅行
 昨夜もそうだったが、今朝のハムもやたらと脂身が多かった。自宅ではなるべく脂身を食べないようにしているが、意地汚い私は監視者がいないとつい食べてしまう。昨夜はリブ・ステーキだった。オーストラリアの牛は牧草だけで育てられているので、日本の霜降り肉のように肉の中に脂がそれほどしみこんではいない。だが、肉の周辺の脂が切り落とされていなかった。たっぷりとついていた、その脂身は旨かった。食事をしながら、クリスは「ローリーの胃を縛ってしまえばいいんだ。そうすれば少しは余分に付いた肉が落ちる」と独り言のように云っていた。クリスは「ローリーの食いっぷりを見ていると、それだけで食欲が落ちてしまう」と云っていたが、彼だってよく食べていた。油を使いすぎるのが欠点の料理だったが、エイミーの出してくれる食事は実に旨かった。「日本の方はお米がいいんでしょ」と云ってご飯を炊いてくれた時が何度もあった。フィリッピン産のインディカ米だったが、エイミーの親切心に頭が下がった。




 集材場に行く前に、実際に黒檀が生えているところに連れて行って貰った。新木場の銘木屋さんたちは、フリッチにされた黒檀は多く見ているだろうが、立木のままの黒檀などご覧になったことはないだろう。少しでもご参考になればと考えて写真を撮ったのである。いや、実際は羨ましがらせたかったのかもしれない。
 上の二枚の写真の黒檀はどれも50年は経っていないとのことだ。これが伐採出来るのは私が生きている間にはないであろう。黒檀がこのように密集して生えているとは知らなかった。日本の森であるなら、この中から最も良さそうな木を残し、選ばれた木の成長を助けるために、他は切り倒してしまうだろう。そして残った木を非常な高値で売る。杉、檜などはそのようにしている。だが、ウッドラーク島ではそんなことは全く考えていないようだ。あくまでも自然なままにしておく。どちらがいいのか、私には答えられない。


 クリステンセン家で雇っている近在の子供たち。一見悪ガキの集団のようにも見えるが、実に素直で素朴な、その上明るい子供たちである。彼等の衣服はローランド・クリステンセンがアルタオやポートモレスビーに行ったときにお土産として買ってきてくれたものが殆どである。一番手前にいるラムがスニーカーを履いているが、これは例外中の例外である。写真でご覧のように皆一様に裸足である。
 この島の子供に限らず、パプアニューギニアの子供たちは、小さいときは例外なく金髪である。個人によって多少の差はあるが、10才ごろまでには金髪が黒い頭髪に変る。理由は知らない。この写真では多少わかり辛いが、ラムの後ろにいるトトの頭髪は金髪であった頃の名残が見える。
 彼等は殆どがこの島から出たことはないが、中にはローリーに連れられてアルタオやポートモレスビーに行ったことのある少年がいる。アルタオは非常にいい街だと感じたらしいがポートモレスビーに行ったときは人が多すぎて頭がクラクラしたと云っていた。パプアニューギニア編の1と2に掲載した写真でお分かりのように、ポートモレスビーだってそれほどの人口ではない。ウッドラーク島の人口が如何に少ないかご推察願いたい。


 名前は忘れたが、クリステンセン家の長男は彼に一番なついている。また木登りの名人で、ヤシの実を獲るときは彼が一番活躍する。

 子供たちのシャツやクリスのランニングシャツはいつも同じものを着ているが、毎日洗濯をし、朝には完全に乾いている。私のシャツも、頼めば子供たちが嫌な顔もせずに洗ってくれていた。だが、水は貴重なので、日本にいるときのように多量の水を消費しての洗濯は望むべくもなかった。スコールが来そうなときは、バルコニーの手すりにシャツやソックス、下着、ズボン等々を全て掛けておいた。石鹸など使わなくとも、激しいスコールの勢いで大抵の汚れは落ちてしまっていた。


                      当時        現在
 一番上の穴あき硬貨が1キナ    約 ¥150    約 ¥34
 二番目        20トエア     ¥30 ¥6.8
 三番目        10トエア     ¥15 ¥3.4


                      当時    現在
 一番目の硬貨が5トエア 約 ¥7.5     約 ¥1.7
 二番目         2トエア   ¥3      ¥.68
 三番目         1トエア   ¥1.5 ¥.34

 残念だが、紙幣は全て使い果たしてしまった。礼拝の時の献金に使ったり、子供たちに配ったり、そして帰りのポートモレスビーで。上の貨幣価値でお分かりのように、「トエア」は「キナ」の1/100である。パプアニューギニアの通貨の単位を表すキナは、キナ貝のキナからきたものだそうだ。これは真珠貝の一種で、以前はこの貝が通貨として使われていたと聞いた。

 毎日夕食が終ると何もすることがない。先にも述べたように、この島には新聞、ラジオ、電話、そしてテレビ。またクリステンセン家以外は電気もない。唯おしゃべりをして過ごすしかない。前にも述べたように灯りにつられて近くの島民が寄ってくる。それが実に楽しい。毎夜、彼等が来ることを予想し、ポットにお湯を入れ、ティー・バッグ、大量のお砂糖をエイミーが用意しておいてくれる。「俺のボボを食ってくれ」とパパイヤを持ってきてくれるオジさんもいる。パパイヤの事を島の言葉で「ボボ」と云うらしい。誰もが自分の所で獲れたボボが一番旨いと信じている。確かに旨いことは旨かった。だが、パイナップルを食べたことがあった。私はあまりパイナップルを好きではないが、パイナップルってこんなに旨いものかと驚いた。以前に仲の良かったハワイの二世の兵隊さんが、休暇で故郷に帰った時のお土産に、その日の朝に獲れたというパイナップルを頂いたことがあった。それでもウッドラーク島で食べたパイナップルに比べたら生のジャガイモをかじっているようなものだ。

 ある夜、例によって楽しく話しているとき、襟のあたりに何かもぞもぞとした感触があったので手で払った。蛾であるかと感じた。急いで部屋の隅に逃げた。「これは蛾じゃありません。蝶ですよ」とローリーが私を安心させるように云った。私にとっては羽根がヒラヒラするものは蝶だって蛾と同じである。恐る恐る戻ってみると、島民の一人が蝶を捕まえて羽根を広げていた。片方の羽の大きさは宣伝用に配られる小ぶりのうちわほどの大きさがあった。柄はモーニングのズボンを切り抜いて、そのまま羽にしたようだった。おまけに、その蝶はじろりと私の方を睨んだ。この家の網戸はしっかりしており、このような侵入者を防げる筈だ。「最後に入ってきた誰かがドアーを開けっぱなしにしていたな」とローリーは渋い顔で云ったが、クリスは嬉しそうに私を見ていた。

 また、ある夜、子供の一人が「タバコを貰えませんか?」と云ってきた。「お前、タバコを吸う年じゃないだろ!」とたしなめると、「お爺さんに持って帰ってあげたいんです」と云った。それならと、部屋に戻り封を切っていないタバコを一パック持ってきてその子にあげた。彼は喜んで帰って行った。すると一部始終を見ていたローリーが「あの子にお爺さんはいません」と云ってニヤニヤしていた。私が騙されるのをずっと見ていたのだ。

 翌々日には島を離れる予定だった。その夜、楽しみの最中に風の強まる音がした。島民たちは重い腰を上げて帰り支度を始めた。毎夕食後に誘い合わせては此の部屋に集まるのを楽しみに、昼間の農作業をやっているのだとローリーが説明してくれた。今夜は早めに切り上げなければならなかった。サイクロンの季節には少し早いが、外の風の音を聞くとかなりの雨が降ってきそうだ。半袖一枚では夏(日本では冬)だと云うのに心もとない感じがした。とうとう雨が降り出してきた。ローリーがお休みを云うと、自宅の方に、巨体を揺るがしながら駆け出して行った。それを見ていたクリスが、「あの体で走れるとは驚きだ!」と感心したように云った。
 寝るには早い時間だったので、タバコを吸いながら「真のオーナー」についてクリスと話し合った。「真のオーナー」が誰であっても、取引が滞りなく行われればいいことであって、二人ともそれは気にしないことにしたが、それでも気になった。二人とも色々と情報を探ったが、黒檀のオーナーが誰であるか、確実に知っている島民はいなかった。ローリーが我々に「真のオーナー」について何も云っていないので、彼に聞くわけにはいかなかった。何故表にでないのか、現在に至るまでその理由はわからない。
 雨脚がどんどん強くなってきた。夫々の部屋に引き上げた。この雨が我々にどのような影響を与えるか、その時は全く気が付かなかった。

 パプアニューギニア編はあと二回で終了する予定です。「TDY,Temporary Duty編」は2013年の9月から始め、今日に至っております。長い間のご購読を感謝申上げます。多くの方々からもっと続けろとのお声を頂いておりますが、ネタ切れでこれ以上続けられません。他のアジア諸国、オセニア、南北アメリカ、そしてヨーロッパの国々は大勢の皆様がご旅行なさっています。秘境を主題とした「TDY,Temporary Duty編」とはかけ離れております。

 パプアニューギニア編11が終りましたら、「折にふれて、写真と雑感」のタイトルでしばらく続ける所存です。URLは同じです。是非引き続きのご購読を賜るようお願い申し上げます。





TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 8

2015年02月23日 | 旅行
 その翌朝、私は早く目が覚めた。洗面所に行くには、パプアニューギニア編の6でも述べたように、一旦バルコニーに出なければならない。外に出て朝の、まだ誰も吸っていない空気を胸一杯に吸い込んだ。洗面所に行きかけて、私は足を止めた。バルコニーの柵に干してあったクリスのバスタオルに大小の蛾が二匹とまっていた。その二匹でバスタオルの柄が見えないほどだった。小さい方の蛾でもA4判ぐらいの大きさはあった。その無気味さは例えようがなかった。その時、大きい方の蛾が羽を少し広げた。私はそれ以上前に進めなかった。タイにいる蛾が世界で一番大きいと云って、バンコクの街頭で標本にして売られているが、此の二匹に比べたら、あれはまるで子供の蛾であった。
 足がすくみ、その前を通れなかった。仕方なく、庭に出て椰子の木に掴まって失礼してしまった。ちゃんと土をかけておいたから大丈夫だったと思う。

 何食わぬ顔をして我が家に戻ってくると、幸いなことにクリスはまだ起きだしていなかった。ベッドに横になり、読みかけの本を読んでいると急に騒々しくなってきた。我が家のリビングルームにエイミーに連れられてきた子供たちが椅子やテーブルを隅にどかし、掃除を始めていた。想い出した、今日は日曜日であるので、此処が臨時の教会になるのだ。それで朝食はクリステンセン家で取る事になっていた。寝坊しているクリスを起こしに行った。昨夜、彼は自分で釣ったシーバスを肴にかなり飲んでいたのだ。私は刺身で食べたかったが、ワサビもお醤油もない。エイミーが油をたっぷりと使ってソテーしたシーバスを、体を動かすのが辛くなるほど食べた。新鮮な魚はどのように料理したものでも旨いと感じた。

 村から牧師がやってきて礼拝が始まった。牧師の説教は解りにくいパプアニューギニアの英語とウッドラーク島の言葉だった。讃美歌が歌われるときは、ローランド・クリステンセンが神妙な顔をしてアコーディオンで伴奏した。献金の袋が廻ってくると、最年長のラムが私の所にやって来た。「日本の人は沢山の献金をするんでしょう?お金に名前を書いておけば、誰の献金か神様にすぐわかります」と云って鉛筆を差し出した。まさか、紙幣に名前を書いて献金するなど、考えられなかった。隣で聞いていたクリスが笑いを堪えるために体をよじっていた。彼に鉛筆を差し出すと、「これ以上笑わせないで下さい」と云われた。

 礼拝が終ると、クリスは私を散歩に誘った。ローリーに断り、彼のピックアップトラックを借りた。私が助手席に乗ると、「村の人から聞いたのですが、ローリーは『社長』ではありません。此の黒檀の事業のオーナーは別にいるそうです。決して我々の前に姿を出しません」とクリスは不思議そうな顔をして私に情報を伝えた。ラバウルのレックス・グラッテージからはローランド・クリステンセンが全てを取り仕切っていると説明されていた。クリスもそのように聞いていたと云っていた。何故本当のオーナーが出てこないのか不思議ではあったが、それ以上は追及しないことにした。オーナーが誰でも、取引がスムースに行けばそれでいい。クリスも私と同じ考え方をした。
 殆ど道の無い所を森に向かって走った。これ以上車では進めなくなる所まで行き、そこからは森に向って歩いた。此処まで来て彼の目的がわかった。黒檀の若木を探しに来たのだ。根のある植物を日本国内に持ち込むときは厳重な検疫を受けなければならない。オーストラリアではどうなのだろう。


 森の入り口に何とか辿り着いたが、辺りに黒檀の木など見当たらなかった。もっと奥に入る必要があった。「昼間に蛾は出ませんよ!」と私を急き立てた。


 やっと見つけた黒檀の若木。それの上の方だけをちょん切ってきた。根がついていなければ(土がついていなければ)、オーストラリアでの検疫は緩やからしい。

 クリスが「昼間に蛾は出ませんよ!」と云っていた蛾が昼間に出た。クリステンセン家の山よりの庭を歩いているとき、何かを察して振り向くと、私の頭上を真っ白な大きな蛾が滑空していた。まるで音の出ないジェット戦闘機のようだった。A4の紙より大きいと感じた。そして、気持ちの悪い足まで見えた。敵はそのまま藪の中に消えたが、これからはヤシの木に掴まって失礼するときも辺りを注意してからでないと次の行動に移るべきでないと心に決めた。そして、なるべく木の下を歩かないことだ。

 私が貿易の仕事を辞めた後の事であるが、知り合いから頼まれてアメリカ海軍の業務の一部を引き受けている会社の手伝いをしたことがあった。アメリカ海軍は厚木の日本海軍航空隊基地を間借りしていると聞いていたが、行ってみると、日本海軍が間借りしているようにしか見えなかった。基地の外れにある滑走路はアメリカ海軍航空隊の飛行機が大部分で、日の丸のついた旅客機のような機体が時たま見えるだけで、どこに我が海軍航空隊の戦闘機かあるのか、全く見当がつかなかった。横須賀にアメリカの空母が入港すると、離発着訓練の為か頻繁に艦載機が飛んできては、飛び立っていった。艦載機の離発着が始ると、私の事務所内では普通の声では会話が出来なかった。それほどの騒音である。艦載機は馬力を重視するので、マフラー(消音機)を外してあるのではないかとさえ思った。
 厚木基地には整備工場が完備されており、そこの整備工場長を務めるアメリカの海軍少佐と仲良くなった。将校クラブで食事をしているとき、「俺の友人に蛾の収集家がいるんだ。その影響で俺も始めた」と云った。そんな気持ちの悪い話を食事中にするなと云いたかったが、彼は私が蛾に恐怖心を持っていることを知らない。「アフリカのマダガスカルに、世界最大の蛾がいるそうだ。一度友人と休暇を取って行ってみるつもりだ」と続けて云った。適当な理由をつけて、タイのアメリカ海軍基地まで軍の飛行機で無料で行けるらしい。そこからなら安くマダガスカルに行けると思うと云っていた。「俺、マダガスカルを相手に仕事をしてたんだ。だけど。そんなでかい蛾なんて見たことないぞ」と云うと、彼は不思議そうな顔をした。私がマダガスカルに通っていた間、大きな蛾に遭遇したことは一度もなかった。ただ運が良かっただけかもしれない。或いは大きな蛾のいる地域に行っていなかったからかもしれない。その話をし、パプアニューギニアのウッドラーク島の話をした。彼はがぜん興味を示した。「是非行きたい、お前さんも俺たちと一緒に行かないか?」と誘われた。冗談じゃない、あんな恐ろしい場所に、恐ろしい蛾を捕まえになんか行けるものか。私は聞こえない振りをした。
 その海軍少佐と知り合ったのは、私が横須賀基地から飛んできた艦載機の写真を熱心に撮っているときであった。彼は私がスパイしているのかと一瞬考えたそうだが、そうではないことを確信すると、何かと便宜を図ってくれた。以下にその時の写真の一部をご紹介したい。これも今までの写真と同様、印画紙に焼き付けられたものをデジカメの一眼レフで複写したものである。


 他の艦載機より機体がかなり大きかった。戦闘機ではなく、爆撃機なのであろうか。だが、戦闘機と同様に、駐機している間は翼を折りたたんでいた。


 見るからに戦闘機に見えた。形も上の写真と似ているようであったが、私にはよく分からない。マニアではないからである。機種はどうあれ、艦載機の写真を撮ればいいのであった。


 戦闘機と並び、機体の上に丸いアンテナをつけているのは情報収集のための艦載機であろうか?


 横須賀に入港した航空母艦から飛んできた艦載機の群れ。これだけ多く飛んでくれば付近の住人は相当に騒音に悩まされなければならない。

 海軍少佐は、一度私を戦闘機に乗せてくれると約束してくれたが、約束が果たされる前にヨーロッパに転属になってしまった。私が懇意にしていた日本人の従業員の話だと、彼は艦載機に乗せて貰ったことがると云っていた。然も、急降下して航空母艦に下りたそうだ。上空からはタバコの箱ぐらいにしか見えない航空母艦にどうやれば降りられるのかと不安だったそうだ。そしてすぐに急降下が始まり、凄い衝撃で着艦した。二度と乗りたくないと云っていた。だが、その話を聞いても、私は乗りたかった。

 パプアニューギニアと離れて恐縮だが、この厚木海軍航空隊基地の、日本の海軍自衛隊のことに触れたい。
 此の基地の自衛官とその建物の中に非常に興味があったが、民間人である私は中に入れない。それが、契約課に出入りしている若い中尉が、自衛隊に出入りしていることを知った。彼は連絡将校であった。「連れてって貰えないか」と頼むと、何の疑問も持たず、「毎週月曜日の13時(午後1時)に行きますから、一緒に行きましょう」と云ってくれた。
 入口から入ると直ぐに左手の大きな事務所に案内し、自衛官たちに「好奇心だけのオジさん」と私を紹介してくれた。隊員に笑顔で迎えられた。連絡将校は私を残し、事務所の奥に行ってしまった。机の上にあったパソコンを覗くと、スクリーン・セーバーが動いていた。ご存じの事と思うが、ブラウン管のディスプレーは長時間同じ画面を映していると焼跡が残ってしまう。それで「スクリーン・セーバー」と云うソフトを使って写真やイラストをディスプレー上に動かすのである。パソコンのメーカー独自のものもあるが、文字を自分で書き入れることも出来た。自衛官のパソコンには「全艦発進せよ!只今より攻撃に移る」と云う文字が流れていた。「随分勇ましいテロップだな」と云うと、その隊員は「我々はいつでも自衛艦に乗り、どこへでも行きます」と云った。そして続けた「我々は軍人です。ですから、国のために戦います。それで命を落とす覚悟は出来ています」。意外なことを聞き、私はより興味を覚えた。「大臣が、『お前の骨は俺が拾ってやる。お国のために尽くして来い』と云ってくれれば、我々はそのようにします。でも誰も云ってくれません」と云って寂しそうな顔をした。此の基地にいる自衛隊員は全員が「事務職」の筈である。彼だけかと思っていると、「少なくともこの事務所にいる隊員は全員がそのように考えています」と、じっと私の目を見て云った。何か、考えさせられるものがあった。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 7

2015年02月16日 | 旅行
 「ズーインのせっちゃん」と云う伝説の美人をご存じであろうか。或いはご記憶であろうか。新宿の要町(現在は新宿三丁目)の「どん底」の少し西側に「シャノアール」(Chat Noir、黒猫)と云う喫茶店があった。この喫茶店にはママさんをはじめとして美人が多かった。その中でも群を抜いて美人であったのが「せっちゃん」であった。本名は知らない。秋田美人の代表のような存在であった。彼女は非常に性格がよく、誰からも好かれていた。当時高校生であった私にとっては憧れの「お姉さん」であった。彼女は10円を「ジューエン」と云えず、「ズーイン」と云っていた。私ども悪ガキは、彼女に「ズーイン」と云わせるために、お釣りが10円になるように知恵を絞った。そして「ズーインのお釣りです」と云わせると非常に幸せな気分になった。憧れの「せっちゃん」を困らせたり、からかったりする気は毛頭なかった。ただ云わせたかったのだ。
 「ズーインのせっちゃん」のいる「シャノアール」は我々の癒しの場であった。ある5月の雨の日、店内は異常に寒かった。今のようにエアコンの暖房など望むべくもなかった。そんな時、ママさんが玉露をコーヒー・カップに入れて持ってきてくれた。一口飲んでみて、お茶ってこんなに旨いものかと驚いた。それから私は緑茶を好むようになった。勿論コーヒーも大量に飲む。この癒しの場は緑茶の味を教えてくれただけではなく、人間の機微を教わったのもこのシャノアールであった。それが後の私の「貿易」の仕事に大いに役立った。




 集材場に行くと、丸太のままの黒檀が既に集められていた。今切り出したばかりであるような切口であった。そこから水分が出てくるようにさえ見えた。
 インドネシアの黒檀とはかなり違う印象を受けた。インドネシアのスラベシ島では、山で黒檀を切り出してからフリッチにして出荷するまで、長いときは5年はかかるそうだ。山で樵に切らせるまでは何とかしのげるが、それを麓の集材場まで運び出す費用が出せないのだそうだ。売った資金を使って、直ぐにでも次の出荷にかかればいいものを、入金されたものは伐採業者の懐に入らず、大方は借金の返済に充てられてしまう。だが、スラベシ島で伐採から出荷までに時間がかかるお蔭で、完全に乾燥した材が日本の業者の手に入る。
 インドネシアの話を聞いていたので、このような水気たっぷりの材が日本で受け入れられるのであろうかとの不安を覚えた。後で床柱加工業者に聞いたのだが、パプアニューギニアの黒檀を製材したとき、水がほとばしるように出たとのことだった。クレームもつかず、まして返品などと最悪の事態は避けられた。乾燥が充分ではなかったが、インドネシア産に比べ、私の売値が安かったことが幸いした。それに、品質が非常によかった。乾燥が充分でないからと云って、私にクレームをつけると、次に売って貰えないのではないかと心配もしたそうだ。その不安は私の商売の姿勢から来るものではない。黒檀が如何に入手困難であり、パプアニューギニアのものがインドネシア産のものよりかなり條件が良かった故であろう。太いままで、割れ止めを塗ったままのフリッチでは乾燥も遅いが、床柱用に製材し、早めの乾燥を促せば何とか処理が可能のようであった。また、此の業界に大型の乾燥炉を持った業者がいるので、そこに持って行って乾燥させたとも聞いた。






 ローランド・クリステンセンのスタッフが作り上げたログリストを、エイミーが正確にパソコンに入力してくれていたので、私は敢えて黒檀のフリッチの全量を検品する必要はなかった。仕事にかなりの余裕が出来た。それを察したように、ローリーとクリスは太い黒檀の丸太を切り落とし、それを横に裁断する作業に取り掛かった。
 クリス・ブルックは黒檀で食器を作り、イギリスに輸出している。私が日本の市場を紹介しようかと云うと、「日本には売りたくない。品質にうるさいことばかり云い、そのくせ値切ってくる」とはっきり云われてしまった。品質にうるさいことは確かだが、輸入業者の全員が値切るわけではない。そのことを云おうとしたが、彼はそのように信じ切ってしまっているようなので、それ以上は云わないことにした。オーストラリア人の頑固さをそれほど簡単に崩せない。
 試しに切った黒檀の木目を、クリスは納得した顔で眺めていた。彼の工房に持ち込んでから専用の製材機で食器の大きさに大まかに切り、それを別の機器で切り抜いていくのだそうだ。その際、木目をどう活かすかに食器の価値がかかってくると説明してくれた。但し、木曽の奈良井宿の職人が作る木の食器のように、全ての食器の木目を無理に揃えることはしないそうだ。そのようにしたら、一本の丸太で作れる量が非常に限られたものになってしまう。

 昼食が終ったのに、ローリーもクリスも動こうとしなかった。私が時計を指差し、時間だぞと云うと二人はうんざりしたような顔をした。「今日は土曜日ですよ。日本人は働き過ぎです」と云われた。高い出張費を何とか捻出して来ているので、少しでも輸入する量を増やしたい。その為には滞在期間中に少しでも多くのフリッチを選び出さなければならない。私はそのように考えていた。而し、これは私だけの立場であって、彼等二人には関係ないことである。ローリーにとっては、それほどガツガツと売らなくてもやっていけるし、クリスにしても、何本か試しに切ってみれば、私が選んだフリッチの切り残しの全てをオーストラリアに運べばいいだけである。それほど熱心に働く必要はない。今まで、クリスは私の検品に精力的に手伝ってくれていた。私は反省し、恥ずかしさも覚えた。
 それでも彼等は土曜日の午後であるのに私に付き合って仕事をしてくれた。置き場の端にあるフリッチの山のスポットチェックを何とか今日中に終わらせたかった。働き過ぎに反省はしたが、これを終わらせなければ予定通りの期日に日本に帰ることは出来ない。現場のスタッフに、昨日のうちにフォークリフトで山を崩して貰っておいのでスポットチェックは捗った。

 三時近くになったころ、島民の一人が舟でシーバス(日本で云うスズキ)を釣りに行かないかと誘いに来た。クリスは喜んで誘いに応じた。私も行きたかったが、リストの整理が残っていた。ローリーは「私も付き合います」と釣りには行かなかった。クリスの話では島民の乗っている小舟に巨体を乗せたのでは沈没しないかと心配してボートに乗らなかったのだと云っていた。私の手伝いが「乗らない」いい口実になったようだった。

 彼等が釣りに行って一時間ほどで全てが終わった。こんなに早く終わるなら、私も行けばよかったと悔やんだが遅かった。エイミーが子供たちに大きな魔法瓶を持たせて冷たい南国の果物のミックス・ジュースを持ってきてくれた。生き返る心地がした。今まで、仕事に熱中していたせいか、暑さを忘れていたようだった。

 夕方が迫って来たが、クリスたちはまだ釣りから戻ってきていない。ローリーに指差す南々西の方角に南十字星が見えてきた(マダガスカル編の「6」をご参照願いたい)。これが私の見た最初の南十字星だった。此の島に来て、既に何日も過ごしていたが、南十字星が見えてくるまで海岸にいたことはなかった。少し頭を上に向けて見上げるようにして見た。そろそろ暗くなりかかっているのに、クリスたちはまだ帰ってきていない。心配し始めるころ、海岸に涼みに来ていた島民が、「エンジンの音が聞こえる。帰ってきた」と云った。私には全く聞こえなかった。ローリーにも聞こえてはいないようだった。暫くすると、その島民は東の方を指差して云った。「帰ってきた。手を振っている」。いくら目を凝らしても何も見えなかった。エンジンの音も聞こえてこなかった。かなり手前まで近づいてから、ボートが見え、エンジンの音が聞こえた。彼等の聴力と視力に驚いた。

 クリスは大満足でボートから降りてきた。アイスボックスには1メートルはありそうなシーバスが何本も詰まっていた。


 マダガスカル編の「6」に掲載したものと同じ写真で恐縮だが、このイメージ画しかない。フィルムのバカチョンカメラでは南十字星を撮る事など出来なかった。ご勘弁願いたい。

 また、ウッドラーク島に持ってきたフィルムの本数が少なく、写真が少ない点もお許し願いたい。