大河ドラマでは映像上、北条攻めで終わってしまい、また次週では
三成は「奥州攻め」に行っているという、茶々の言葉で纏められて
いましたが、封じられた歴史が確かにあったという事を是非とも
記述したいと思いました。
私もそれほど歴史に詳しいワケでもなく、しかしながら興味はある、
といった感じなので、その日もなんとはなしにテレビをつけていました。
数年前の話ですが。
それこそNHKさんで、とある番組を放送していまして。
その内容が、“九戸政実(くのへ まさざね)の乱” についてでした。
その時のゲストは「写楽殺人事件」で有名な小説家、高橋克彦さんと、
朝ドラ「すずらん」でヒロインを演じた遠野凪子ちゃん。
(彼女の両親の実家は青森県八戸(はちのへ)市らしいです)
その番組では、田舎の一武将がいかにして秀吉軍を翻弄し、
苦しませたのかを紹介していました。
激闘は凄まじく、ようやっと辛勝した秀吉軍ですが、後に書かれた
「太閤記」によれば、その記述はたったの二行で終わってるそうで。
関白にとって、都合の悪い歴史は潰してしまおう、
という魂胆がそこには如実に表されているんですけどね。
それを見たウチの父、そういった『裏の歴史』大好き人間
なものだから、休日を利用して家族引き連れて行ってきましたよ
九戸(くのへ)城跡へ!!
(カメラ忘れてしまったので、残念ながら写真ありませんが……)
ちなみに、九戸城に関する記述→ ■
二戸市観光情報→ ■
↑web上で見つけました。参考にどうぞ~。
(写真もバッチリです。)
“九戸城”、というから地図上にもある九戸村にあるのかと思いきや、
実は二戸市にありました。
なんでやねん、という突っ込みはともかく、お城にたどり着くまでは
すっげー細い道が続きます。
町の中でも道が細いです。
当時は恐らく、もっと困難な道のりだったと思うので、秀吉軍も
食料や軍備を地元で調達するという、三成お得意の戦法はかなり
困難だったんじゃないかと推測。
そしていよいよもって九戸城!
着くと、特にこれといって何も無い、ガラーンとした城跡。
でも、ボランティアで地元の小母ちゃんたちが詳しい説明をしてくれる
という嬉しい特典つき!
ということで、番組にあった内容の知識と、小母ちゃんの知識を
混ぜながら九戸城散策です。
小母ちゃんたちの説明は、地元に伝えられている裏話などが聞けて
大変お特でした。
すごく充実してて、父の気まぐれだったけど来てよかったと本当に思った
九戸城。
でも、もうちょい整備してもいいような………。
まあ、中には最古の石垣があるらしく、文化財として貴重なものもある
という、素晴らしい情報が。
ちなみに、ウィキペディアではこんなん記述ですが。↓
>善戦した九戸政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、
4日に出家姿で九戸討伐軍に降伏した。
豊臣秀次の陣へと引き出された九戸政実・実親兄弟らは死を
覚悟しており従容として斬首された。そして女子供を含む九戸一族も
ことごとく斬殺され、九戸氏は滅亡したのである。
……実際は、九戸軍がもうちょい粘っていたらしいです。
ちなみにこの時、秀吉軍6万、九戸軍5千、とべらぼうな数字。
落ちるのは時間の問題、と誰もが考えるでしょうけど、
これが中々に落ちなかったらしいです。
実際に行ってみるとよーく分かるのですが、この九戸城。
まさに【自然の要塞】。
地形を上手く利用した、難攻不落の城です。
まず、城自体が山の上なのでこう配が激しいのと、城の背後は
崖になっていて、上るのも一苦労。
下には川が流れていて、これも自然の堀の役目をしています。
大群で攻めるにも、ちょーっと攻めづらい要素はかなりあって、
さすがに梃子摺ったのも頷けます。
そんで、秀吉軍。
本格的な冬が来る前に攻め落とさないと、こっちが大変。
ってことで、策略を練りまして。
篭城中の九戸城に地元のエライお坊さんを派遣し、
「お前の首一つで皆を助けてやるぞ」
という話をさせて九戸政実を説得。
で、普通は策略の一つだと思うところだろうけど、そこは実直な政実。
その話を信用して、坊主の格好で神妙に出て行ったら、なんと。
城に残っていた婦女・子供たちをも全員虐殺。
「見せしめ」とするなら、あまりに酷いことをしたと思いますよ。
因みに。
その、子女や子供たちが篭っていた屋敷跡というのがありまして。
(近くには行けない状態ですが)
小母ちゃんの説明終わった途端、その方向から、
急に冷たい風が……!!
一瞬、ゾクっとしただけから気のせいじゃないかと思ってたんだけど、
母も同じく冷たい風を感じたらしく。
だって、二人して鳥肌立ってんだもん!!
怖かったよマジで!
ちなみにその日は、晴天のよい日でした。
山の上なので、涼しい風は当然と思うでしょうけど、
全身撫でるような、首筋に冷たい息を吹きかけられたような、
そんな気分にさせられました。
ええと、参考までに一つ。
ワタクシ、霊感まったくありませんから。
ましてや感じたこともないんですけど、この冷たい風だけは本物でした。
って事を記述しておきます~。
まあ、感じる感じないは人それぞれですけど、同士がいたら嬉しいなっ。
(なんちゃって)
その時、城にいた全員虐殺されたことになっているらしいですが、
小母ちゃんの話によれば、「ほんの数人は逃げ延びて助かった」、という
救いのある話もありました。
よかったー。
城にいた全員が酷い殺され方したって話よりは、ほんの少しの希望が
あって良かったよ。
でも、この九戸城跡を回って歩き、説明を聞いているうちに、
秀吉という人物をあまり好きではなくなってきた
というのが現状です。
確かに、自分の「関白」の地位を固める為、混乱している奥州を
制圧する為、見せしめに酷い事をするのは歴史の常だとは思う。
思うんだけど………。
騙まし討ちをした挙句、約束を反故にして女子供までをも虐殺し、更に
村にも火を放って田畑を荒らし、ボロボロ状態にするなんて、あまりに
人道に外れていると思うんですよ。
後に、秀次の妻女を虐殺したり、朝鮮出兵の影がすでに、この戦いに
出ているような気がしてなりません。
ええ、そんな気持ちになってしまった九戸城散策。
ちなみにそんな父は、秀吉大好き人間でしたー。
親不孝ですんません。
あたくし、そんな秀吉がどうしても好きになれません。
『政治的に素晴らしい』って褒めるのは分かるけど、
人道的に劣る行為を許せない ってのは、人情じゃないすか!?
(なんちゃって)
そんな私は九戸政実のごとく、上手く世間を渡れない人間なのだと
自覚しちゃう今日この頃。
複雑な思いを抱きながら、二戸市を後にしたのでしたー。
後で調べてみると、この九戸家でも、秀吉とまったく同様の
“お家騒動”があったみたいですが、これも歴史の不思議でしょうか。
まあ、羽柴家とは違う方向に話は進んじゃったんですけどね。
でも、観光地になりつつあって色々と頑張ってるみたいだったし、
ボランティアの小母ちゃんの説明を聞けたのが嬉しかったです。
本当によい、歴史の旅でしたー。
三成は「奥州攻め」に行っているという、茶々の言葉で纏められて
いましたが、封じられた歴史が確かにあったという事を是非とも
記述したいと思いました。
私もそれほど歴史に詳しいワケでもなく、しかしながら興味はある、
といった感じなので、その日もなんとはなしにテレビをつけていました。
数年前の話ですが。
それこそNHKさんで、とある番組を放送していまして。
その内容が、“九戸政実(くのへ まさざね)の乱” についてでした。
その時のゲストは「写楽殺人事件」で有名な小説家、高橋克彦さんと、
朝ドラ「すずらん」でヒロインを演じた遠野凪子ちゃん。
(彼女の両親の実家は青森県八戸(はちのへ)市らしいです)
その番組では、田舎の一武将がいかにして秀吉軍を翻弄し、
苦しませたのかを紹介していました。
激闘は凄まじく、ようやっと辛勝した秀吉軍ですが、後に書かれた
「太閤記」によれば、その記述はたったの二行で終わってるそうで。
関白にとって、都合の悪い歴史は潰してしまおう、
という魂胆がそこには如実に表されているんですけどね。
それを見たウチの父、そういった『裏の歴史』大好き人間
なものだから、休日を利用して家族引き連れて行ってきましたよ
九戸(くのへ)城跡へ!!
(カメラ忘れてしまったので、残念ながら写真ありませんが……)
ちなみに、九戸城に関する記述→ ■
二戸市観光情報→ ■
↑web上で見つけました。参考にどうぞ~。
(写真もバッチリです。)
“九戸城”、というから地図上にもある九戸村にあるのかと思いきや、
実は二戸市にありました。
なんでやねん、という突っ込みはともかく、お城にたどり着くまでは
すっげー細い道が続きます。
町の中でも道が細いです。
当時は恐らく、もっと困難な道のりだったと思うので、秀吉軍も
食料や軍備を地元で調達するという、三成お得意の戦法はかなり
困難だったんじゃないかと推測。
そしていよいよもって九戸城!
着くと、特にこれといって何も無い、ガラーンとした城跡。
でも、ボランティアで地元の小母ちゃんたちが詳しい説明をしてくれる
という嬉しい特典つき!
ということで、番組にあった内容の知識と、小母ちゃんの知識を
混ぜながら九戸城散策です。
小母ちゃんたちの説明は、地元に伝えられている裏話などが聞けて
大変お特でした。
すごく充実してて、父の気まぐれだったけど来てよかったと本当に思った
九戸城。
でも、もうちょい整備してもいいような………。
まあ、中には最古の石垣があるらしく、文化財として貴重なものもある
という、素晴らしい情報が。
ちなみに、ウィキペディアではこんなん記述ですが。↓
>善戦した九戸政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、
4日に出家姿で九戸討伐軍に降伏した。
豊臣秀次の陣へと引き出された九戸政実・実親兄弟らは死を
覚悟しており従容として斬首された。そして女子供を含む九戸一族も
ことごとく斬殺され、九戸氏は滅亡したのである。
……実際は、九戸軍がもうちょい粘っていたらしいです。
ちなみにこの時、秀吉軍6万、九戸軍5千、とべらぼうな数字。
落ちるのは時間の問題、と誰もが考えるでしょうけど、
これが中々に落ちなかったらしいです。
実際に行ってみるとよーく分かるのですが、この九戸城。
まさに【自然の要塞】。
地形を上手く利用した、難攻不落の城です。
まず、城自体が山の上なのでこう配が激しいのと、城の背後は
崖になっていて、上るのも一苦労。
下には川が流れていて、これも自然の堀の役目をしています。
大群で攻めるにも、ちょーっと攻めづらい要素はかなりあって、
さすがに梃子摺ったのも頷けます。
そんで、秀吉軍。
本格的な冬が来る前に攻め落とさないと、こっちが大変。
ってことで、策略を練りまして。
篭城中の九戸城に地元のエライお坊さんを派遣し、
「お前の首一つで皆を助けてやるぞ」
という話をさせて九戸政実を説得。
で、普通は策略の一つだと思うところだろうけど、そこは実直な政実。
その話を信用して、坊主の格好で神妙に出て行ったら、なんと。
城に残っていた婦女・子供たちをも全員虐殺。
「見せしめ」とするなら、あまりに酷いことをしたと思いますよ。
因みに。
その、子女や子供たちが篭っていた屋敷跡というのがありまして。
(近くには行けない状態ですが)
小母ちゃんの説明終わった途端、その方向から、
急に冷たい風が……!!
一瞬、ゾクっとしただけから気のせいじゃないかと思ってたんだけど、
母も同じく冷たい風を感じたらしく。
だって、二人して鳥肌立ってんだもん!!
怖かったよマジで!
ちなみにその日は、晴天のよい日でした。
山の上なので、涼しい風は当然と思うでしょうけど、
全身撫でるような、首筋に冷たい息を吹きかけられたような、
そんな気分にさせられました。
ええと、参考までに一つ。
ワタクシ、霊感まったくありませんから。
ましてや感じたこともないんですけど、この冷たい風だけは本物でした。
って事を記述しておきます~。
まあ、感じる感じないは人それぞれですけど、同士がいたら嬉しいなっ。
(なんちゃって)
その時、城にいた全員虐殺されたことになっているらしいですが、
小母ちゃんの話によれば、「ほんの数人は逃げ延びて助かった」、という
救いのある話もありました。
よかったー。
城にいた全員が酷い殺され方したって話よりは、ほんの少しの希望が
あって良かったよ。
でも、この九戸城跡を回って歩き、説明を聞いているうちに、
秀吉という人物をあまり好きではなくなってきた
というのが現状です。
確かに、自分の「関白」の地位を固める為、混乱している奥州を
制圧する為、見せしめに酷い事をするのは歴史の常だとは思う。
思うんだけど………。
騙まし討ちをした挙句、約束を反故にして女子供までをも虐殺し、更に
村にも火を放って田畑を荒らし、ボロボロ状態にするなんて、あまりに
人道に外れていると思うんですよ。
後に、秀次の妻女を虐殺したり、朝鮮出兵の影がすでに、この戦いに
出ているような気がしてなりません。
ええ、そんな気持ちになってしまった九戸城散策。
ちなみにそんな父は、秀吉大好き人間でしたー。
親不孝ですんません。
あたくし、そんな秀吉がどうしても好きになれません。
『政治的に素晴らしい』って褒めるのは分かるけど、
人道的に劣る行為を許せない ってのは、人情じゃないすか!?
(なんちゃって)
そんな私は九戸政実のごとく、上手く世間を渡れない人間なのだと
自覚しちゃう今日この頃。
複雑な思いを抱きながら、二戸市を後にしたのでしたー。
後で調べてみると、この九戸家でも、秀吉とまったく同様の
“お家騒動”があったみたいですが、これも歴史の不思議でしょうか。
まあ、羽柴家とは違う方向に話は進んじゃったんですけどね。
でも、観光地になりつつあって色々と頑張ってるみたいだったし、
ボランティアの小母ちゃんの説明を聞けたのが嬉しかったです。
本当によい、歴史の旅でしたー。
確かに自然の要害ですね。
こちらの記事に反応していただき有難うございますvv
「信長の野望」にも出てくる武将なんですね!
九戸政実は、地元では素晴らしい武将だったとして、英雄として祭られているみたいです。
秀吉側のやり方があまりに酷く、話を聞いた時には絶句しましたからねー。
実際に行ってみれば、(規模は小さいですが)その要塞ぶりに感動しますよー。
(続く)
ともあれ。
楽しく拝見しました。遅すぎ!?ええ、まあ。九戸政実について調べるのは初めてなもので。
歴史に想いを馳せるのって、いいですよね。真の事実や、ましてや本人達の主観なんて、誰にもわかろうはずもない。今を生きる我々にできるのは、ただ想いを馳せ、そうすることで今の己自身の信念を問い直すことだけでしょう。
アナタの信念は、「人道的に劣る行為」を憎む気持ちなんですね。秀吉が真に「人道的に劣る」かどうかは闇の中ですが、天下人ですからその政権下の行いが全て彼の責任に還ってくることは否めなかった。そういう意味においては、専制君主制の天下人は全ての行いの確信犯であった、となります。まさに天下人は絶対の孤独だったのだ、と言えるんでしょうね。
あ、話がそれました。
今おいくつなのかは存じあげませんが、ご家族でそういう意図の小旅行をパッとされるなんて、楽しい、素敵なご家族だなあと思います。
何より、それがちょっとうらやましく拝見しました。
歴史というものは、勝った側の資料しか残っていない事が多く、勝った側の都合のいいように解釈されることが多いのです。
たかだか、140年前の新撰組だってあまりにも謎が多い。新政府側の勝手な解釈による捏造もかなり多いと思われます。それだけ、見る側の視点が違えば歴史観は当然違ってくるのです。今の時代のように第三者が客観的に歴史を綴っていく時代ではなかったのです。
ましてや、政実の時代は戦国時代。ほとんど勝った側の南部家や秀吉軍の資料しか残ってはいない。
政実に関する定説はどこまで事実か、本当のところは誰にも分からないのです。
一般に知られてはいませんが、九戸氏は南部家の出ではなく、小笠原家の出であるという有力な逆説があります。
もし、それが事実であれば、南部家の家督争いによる挙兵は嘘ということになります。
私は地元の九戸政実の歴史研究家の方に、その辺の事を伺った事があります。
しかし、彼は一言「分かりません」というだけでした。
歴史研究家の人は定説を肯定も否定もせず、「小笠原説」に関しても肯定も否定もしなかったのです。
それだけ歴史研究家の方が断言できる有力な資料がないという事なのです。
事実は秀吉軍と戦ったという事だけ。
何日間戦い、なぜ落城したかというのも実際はよく分かっていません。
謎が多いからこそ人々は歴史に想いをはせ、九戸政実という人物像に惹かれるのではないのでしょうか。
ずっと以前、NHKの番組で政実の事を知り、最近遅ればせながら「天を衝く」を読破した者です。
私の父が久慈出身ということもあり、途中からひょっとしたら先祖も関わっていたのかな・・・なんて想いを馳せながら読みました。
棟梁さんのコメントの通り、定説・逆説論に賛成します。
読む者、訪れた者にロマンを感じさせ、いろいろな想いに馳せ、興味を持つ事が出来れば良いのではないかと...浅井某氏のご意見は、なんか気の毒だなって感じます。
自分は、政実と併せ、久慈出身の大浦(津軽)為信に興味が湧いてきました。
こんな感じでは、ダメなのかな?
ではでは。。。
この件で九戸一族がだまし討ちにされて皆殺しにされたのは別に秀吉の命令じゃないのですよ。
養子の秀次やそのほかの秀吉家臣の暴走によるものが原因です。
九戸城の戦いがあった時、秀吉は京都にいたのですか、さすがに残虐行為の責任は少ないと思います。
2、「皆殺し」だとしたら、少なくとも数百体の人骨が出なければならないのに、何度も発掘調査したというのにたった十体ほどとは。この矛盾をどう説明するのですか。
3、勝った秀吉側資料が残るのが自然、しかし浅野文書以外に一次資料がないという。これは歴史上大した事件ではなかったことを裏付けていると解されます。勝った秀吉にとって資料を隠ぺいしたり事実を歪曲せねばならないような都合の悪いことなどあろうはずがないしね。つまり多くの歴史学者の記述した歴史が正しいということ。秀吉も奥州ごときを軽視していたからこそ、小田原攻めと違って自らは出陣せず、「仕置」として配下に任せた、ということ。
4、旧暦9月初めは今の10月初めで、米の収穫があり、討伐軍が兵糧の心配することなどないはず。困るのは籠城側ですよ。それなのに討伐軍が冬の到来を懸念して急いで政実をだまし討ちにする必要もないし、事実唯一の第一次資料である浅野文書によれば、城を包囲したところ政実は剃髪して降伏したと記されていて、一戦も交えていないことを裏付けていますよ。
5、政実が南部の一族でないとしたら、そもそも南部家の後継争いに首を突っ込むのは不自然。
秀吉は政実を南部の家臣と見ていたからこそ、小田原攻めに際し南部信直の参陣を指示し、政実に参陣を求めなかったと解されます。