私感・雑感

平和、平穏。

安全、安心。

でもそれらを脅かすものは許さない。

あっという間に大晦日

2006年12月31日 | 日記
もう大晦日。今年も後21時間しかない。

1年を振り返ってみた。
2006年、いろんなことがあった。

個人的には、2度の転職をした。
今は回復したが、いっとき心の病にもかかった。

政治的・社会的には、相次ぐ子どもの自殺、身内の殺人、飲酒運転など、命の大切さを実感せざるを得ない事件が多かった。

と同時に、IT企業の粉飾決算、「円の番人」の堕落、役人の堕落、やらせタウンミーティング、裏金問題、その他多くの堕落も目立った。

道徳的にも、倫理的にも、色々な意味で乱れ切っている、と感じたことも多かった。

2007年は、様々な意味で、平穏無事な年であれ、と願わずにはいられない。
と同時に、平和で安泰な世の中にするため、1人の大人としての責任も一層痛感せざるを得ない。

焼肉

2006年12月29日 | 日記
旦那より一足先に帰省している妹と焼肉を食べに行った。*(笑顔)*
もともと大阪の人間なんで、友人や知人に会うとなると、盆や正月の帰省の前後に引っ掛けることにしているらしく(タイガースが優勝したら、セールで帰って来るんだが、今年は……)、大体旦那より数日~1週間早いのだ。
行った店で、まずは乾杯!して、それから色々なものを頼んだのだが、最後の方で頼んだカルビを焼いていると、網が炎上*(驚き)*?して、少しびびった。
沢山食べてお腹も一杯になって、炭火の前の熱空間から店の外に出たら途端に寒さが襲ってきた。元来防寒具を身につけない私は、手袋もはめずにいたので、指先が動きにくくなってしまった。
暑がりの、つまり寒さにはかなり強い筈の私でも、今日の大阪は寒かった。あるいはこの冬が今まで暖か過ぎて、やっと普通の冬になったのかもしれないが、なにせ心と体の準備が十分にできていなかったら、少しこたえた。
一歩先を読んで考えることや行動することの大切さを実感し、同時に風邪を引かないように注意したいと思った。

学ぶこと

2006年12月29日 | 日記
受験生にとって、大変な季節がやってきた。
大学・高校・中学、いずれをとっても。
私の受けた「入学試験」は、大学が最後だった。正月休みも、共通一次直前で、相当トレーニングした記憶がある。

まだ学生時分は、センター試験やらあちこちの二次試験の問題を解くのも楽しかった。しかし数年のうちに、少しづつ受験学力は剥がれ落ちてしまい、なかなか解けなくなった。

入試問題そのものは難しくなってはいない。かといって簡単に解けるものではない。
ならばそこには、「多少ズルイことをしてでも有利な方法で…*(ニヤ)*」と考える人が出てきても、むべなるかな、だ。古くは古代中国の官吏任用試験である科挙でも、カンペが見つかっている。

よその高校では皆やっている(だろう)教科をやらずに、入試必須科目などに振り分ける、というのも、私に言わせれば、極論だが「学校ぐるみのカンニング」だ。気の毒なのは学習指導要領などの細かいことを知らない高校生たち。学校関係者はその不正を知らないはずはない。(誤解を避けるために追記すれば、お上のやることや文科省の定めたことが正しい、と言うつもりは全くない。決まりは決まり、ということを言いたいだけだ。)

それというのも、おそらく日本では競争主義原理に基づいて、教育政策をはじめとする様々な施策が実行されていることや、日本国民の間に、広く競争意識(1点でも多く、また1分1秒でも速く、というアレ。企業においては勿論生産効率の上昇、ということだが。)が浸透しており、なんら違和感を感じない人々が圧倒的多数であることなどもひとつの要因だろう。

競争させるなら早いうちから、と若い親が考えても不思議ではない。私の世代ではさほど多くはなかった中学受験も近年は増加している。そのニーズを上手に汲み取ったのが、中学受験などを得意とする、進学塾のグループだろう。一斉指導が多かったが、最近は個別指導でもその学力層の子どもを対象とするものもある。
一方で、なかなか学校の勉強についていくのが大変な子どもたちの通う、救済的な塾もある。その多くは1クラス2~3人、せいぜい5人までの少人数制か個別指導の形態。(勿論そういう形態の塾でも、習い事などの関係で難関校を目指す子もいる。)
その中間の、所謂中くらいの成績の子が通うところもある。
または、それら3種を全て併せ持つ総合塾もある。

どれが良いとか悪いとか、は問題ではなく、色々な意味でその子に合ったところかどうか、の方が大切だと思う。

しかし、一生懸命「勉強」しても、大人になって社会に出てしまうと、どんどん抜け落ちていく、つまり「受験学力の剥離」が起きてしまう。

本来何かを学ぶという行為は、その時そのときの必要性や興味、関心などから、換言すれば「知りたい!」「これが解りたい!」という「知的好奇心」から来るものだろうと私は思うし、それは喩えるなら、大きな砂山を築く際の裾野の広さ(基礎・土台)だと思う。基礎や土台がしっかりしてこそ、その上に築かれるものは大きく、高く、美しいものに仕上がっていくのではないだろうか。そうして築かれた「山」は、多少のことにはビクともしない、動じない堅固なものになる。それは「教養」「一般教養」とも呼べる。そうして得られたものこそが、自分自身の核であり、「自信」でもあろうはずだし、従って「他人の妄言に惑わされない」ための確固たる土台にもなり得ると確信する。そしてそれらはそうそう簡単に「剥落」はせず、生涯を通じての財産にもなり得る。

一方、基礎や土台がしっかりしないところにどんどん積み上げていくと、短期間でそれは崩れ落ちてしまう。それを「砂上の楼閣」という。

しかし私は受験勉強そのものを否定する気はない。合理的な時間活用法や、少ない努力で多くの成果を得る方法など、その過程で身に付けたことで、後々役に立つこともあるからだ。だがしかし、それらは日本という競争主義の国に生きている我々だからこそ、そう感じるのかもしれない。根本的には、「勝ち組、負け組」という言葉に象徴されたような、煽られた序列主義と、その土壌となっている社会構造にこそメスを入れなければならない。

受験学力やそれで得た知識より、むしろ広くて深い教養や、人間社会の中で上手くやっていく力、つまり集団性、協調性、社会性、そして他人の気持ちに自然と寄り添う力=共苦の力、共感能力、などの方がより大切だし、それらを皆があまねく持てば、相なごむ、和を作れるはずだ、と私は思う。





旅行、帰省の季節

2006年12月27日 | 日記
朝、大阪のほぼど真ん中、難波付近に随分と親子連れや小中学生の姿が多いのに気づいた。通勤ラッシュの時間帯になぜ?と思ったら、みんな大きな鞄を持っている。

なあるほど。学校は冬休みだからか。

帰省とか旅行に、スポーツに、つまり「楽しみに」行く人もいれば、受験シーズン真っ只中で、塾の冬期講習のため「勉学に」通う子ども達もいる。

いろんなことを学んで、頭を鍛えることも(今のいわゆる受験勉強が本当に頭を鍛えられるかどうかはさておき)必要だし、体を動かして基礎体力を養うことも必要だ。

スポーツでも勉強でも、その頂点を極めようとすれば人並みはずれた才能やけた外れの努力が必要なのはいうまでもないが、そこでスポットライトを浴びようとすれば、現実はほとんどは途中で「敗残兵」となってしまうのだろう。

総理が政策の中で謳っていた、「再チャレンジ」なるものも、本当に再チャレンジできるような策でもないし、計上された予算をみても貧相なものだ。

誰だって何度でも、それこそいろんなことに再チャレンジ、再々チャレンジできるような、そんな世の中にしたいものだと思った。

うまい?まずい?

2006年12月26日 | 日記
例えばある「行列のできる」ラーメン店があったとする。当然うまいからこそ多くの人が行列を作っているのだが。しかし、本当に100%の人々に「うまい!」と思ってもらえているかどうか、その辺は不明だ。

というのも、ラーメン以外でも、カレーや珈琲は特にそうだが、味覚というのはかなり主観的なものであり、万人が皆「まずい!*(泣く)*」とか「美味い!*(うるうる)*」といえるだけのものはそう頻繁に遭遇することはないのではなかろうか。一般にフードビジネスの世界では、約8割の人が「美味しい」と感じる味を出せたら成功するといわれていたが…。


しかし、もし雑誌やテレビなどのマスコミで取材にあたる人が、2割の方の部類だったら、そしてその媒体が高視聴率あるいは抜群の発行部数を持っていたら……。

勿論、少数意見やマイナーな声をひろっていくことの大切さを否定するつもりは全くないが、上のケースでは大幅に多くの人々の声が歪められてしまう危険性もはらんでいる。8割の人にとってはまずい店でも「なんか美味いらしいぞ!」となれば、誰でも一度は行きたくなるだろう。

他人の言うことを謙虚に学ぶ姿勢は大切なのだが、長いものに巻かれてしまったり、権力のあるものの意見や、大多数の声に「絶対正」を感じて盲従したりするのは良くない。自分自身のこれまでの人生経験や思考力で、つまり自分の味覚を信じて、うまいのかまずいのかを感じ取りたい。なんてったって、「少しの賛成、多くの反対」を「多くの賛成、少しの反対」に変えてしまう魔法を彼らは手に入れてしまったのだから……。