仮説を用意していただくことは、重要なこと、有意味なことと考えております。特に資料の限られた北海道では、将来の正確な理解、歴史解釈をすすめるうえで、作業仮説を豊富にすることは重要な点と位置づけてきました。
作業仮説を豊富に用意することで、資料を探索する範囲がひろがることよりも、資料そのものを読みよる理解の深化がすすみ、これまで見過ごしてきた事実の提示を裏付けることができるからです。
桂恋=現代において漁港整備地となった地点を、有力家柄の豊島家が押さえる。
そこで漁業を営んでいたというよりも、安政期には下北半島出身者たる石田家などに操業させ、むしろ交易舟に対する港湾運送業に相当する回漕業として、のちの三ツ輪運輸株式会社につらなってゆきます。
他方で、釧路町海岸部に残る難読地名群について、命名、文字選の当事者は誰か。そのことも話題にはなってきました。
アイヌ語に語源をもつ地名に、あれだけの漢字理解力と語彙をあつめることのできた人物。それは誰か。
紀行録を残した旅の知識人か、在地の国泰寺僧侶か、はたまたご指摘のような佐野家配下の重職たち、などなど。
自身で考えようとしたこともなかったもので、キメ手の情報はもちあわせておりません。
アイヌ語地名を漢字表記する行動。
安政期の紀行録あたりが、豊富化、具体化のはじまりではないでしょうか。悪消、厚氣志、渇結失などと出現しますものネー。
松浦武四郎は安政3年紀行をもとに「東西蝦夷地山川地理取調図」をまとめるも、現・釧路町の海岸線地名は「カタカナ」」記載と記憶しています。
「国郡名ノ儀ニ付申上候書付」には、釧路・久摺・越路」と書き、当時の開拓使は、一押しの「釧路国釧路郡」を採用したと受け止めています。
この国郡名の公示。
それは本道の地名を漢字表記する第一歩にはなりましたが、この時を期して一斉に漢字表記に換えたかというと、そうではなかったことに。そのことをこのたびの「干場台帳」は示す。かく、受け止めてきました。
ことに「台帳」が明治3年部分。このタイミングは佐野家の経営が江戸幕府、明治政府から、ひとます佐賀藩に継承されるタイミングとなるはずです。
他方でこの台帳には明治9年の情報追加の部分があった。それは佐野家が明治政府のもとで「江戸=場所請負人から明治政府=漁場持 ぎょばもち」になっていた経営上の位置づけが終焉期を迎え、既得権を喪失してゆく時期と重なることになります。
明治3年と明治9年。
二つの制度変更のときに、それまで小作していた入り稼ぎ漁業者の土地との関係。引き続き、昆布漁業の持続を担保してゆくうえで、当該書面=「干場台帳」は重要な意味をもつと、考えることができそうですけれども、漁業史プロハパーはどうみるのかなー。そうは考えてきました。
他方でその明治9年。
そのあたりの時期に「地名は漢字二字の美称」が法制化されたはず。一気にアイヌ語地名は漢字表記を強要されることになります。
小字のなかにはカタカナ表記も残ったでしょうけれども、釧路郡大字昆布森村、同跡永賀村、同仙鳳趾村の漢字表記も、一気に広がったことになる。それは時代背景=許される選択かどうかと考えています。
地名記載は時代とともに変化しますねー。難読地名の一つに「セキネップ」があります。今日「賤夫向」の漢字があてられていますか。小生が子どもの時代=1960年ころには「賤向夫」の用字と記憶しています。
なぜに難読地名が多いのか。
川の小流、小湾の多い入り組んだ海岸線、ナガコンブ資源量の豊富さ。台帳に記載された干場開設と、入漁する漁業者の受け入れ。
以上が一体となり、往時はコンブ採藻漁業の小拠点、今日的には国定公園を構成する景観であり、生業・生活・文化の域内循環ポイントに相当ということでしょうか。
このたび、こうしたこと。考えさせていただきました。
作業仮説を豊富に用意することで、資料を探索する範囲がひろがることよりも、資料そのものを読みよる理解の深化がすすみ、これまで見過ごしてきた事実の提示を裏付けることができるからです。
桂恋=現代において漁港整備地となった地点を、有力家柄の豊島家が押さえる。
そこで漁業を営んでいたというよりも、安政期には下北半島出身者たる石田家などに操業させ、むしろ交易舟に対する港湾運送業に相当する回漕業として、のちの三ツ輪運輸株式会社につらなってゆきます。
他方で、釧路町海岸部に残る難読地名群について、命名、文字選の当事者は誰か。そのことも話題にはなってきました。
アイヌ語に語源をもつ地名に、あれだけの漢字理解力と語彙をあつめることのできた人物。それは誰か。
紀行録を残した旅の知識人か、在地の国泰寺僧侶か、はたまたご指摘のような佐野家配下の重職たち、などなど。
自身で考えようとしたこともなかったもので、キメ手の情報はもちあわせておりません。
アイヌ語地名を漢字表記する行動。
安政期の紀行録あたりが、豊富化、具体化のはじまりではないでしょうか。悪消、厚氣志、渇結失などと出現しますものネー。
松浦武四郎は安政3年紀行をもとに「東西蝦夷地山川地理取調図」をまとめるも、現・釧路町の海岸線地名は「カタカナ」」記載と記憶しています。
「国郡名ノ儀ニ付申上候書付」には、釧路・久摺・越路」と書き、当時の開拓使は、一押しの「釧路国釧路郡」を採用したと受け止めています。
この国郡名の公示。
それは本道の地名を漢字表記する第一歩にはなりましたが、この時を期して一斉に漢字表記に換えたかというと、そうではなかったことに。そのことをこのたびの「干場台帳」は示す。かく、受け止めてきました。
ことに「台帳」が明治3年部分。このタイミングは佐野家の経営が江戸幕府、明治政府から、ひとます佐賀藩に継承されるタイミングとなるはずです。
他方でこの台帳には明治9年の情報追加の部分があった。それは佐野家が明治政府のもとで「江戸=場所請負人から明治政府=漁場持 ぎょばもち」になっていた経営上の位置づけが終焉期を迎え、既得権を喪失してゆく時期と重なることになります。
明治3年と明治9年。
二つの制度変更のときに、それまで小作していた入り稼ぎ漁業者の土地との関係。引き続き、昆布漁業の持続を担保してゆくうえで、当該書面=「干場台帳」は重要な意味をもつと、考えることができそうですけれども、漁業史プロハパーはどうみるのかなー。そうは考えてきました。
他方でその明治9年。
そのあたりの時期に「地名は漢字二字の美称」が法制化されたはず。一気にアイヌ語地名は漢字表記を強要されることになります。
小字のなかにはカタカナ表記も残ったでしょうけれども、釧路郡大字昆布森村、同跡永賀村、同仙鳳趾村の漢字表記も、一気に広がったことになる。それは時代背景=許される選択かどうかと考えています。
地名記載は時代とともに変化しますねー。難読地名の一つに「セキネップ」があります。今日「賤夫向」の漢字があてられていますか。小生が子どもの時代=1960年ころには「賤向夫」の用字と記憶しています。
なぜに難読地名が多いのか。
川の小流、小湾の多い入り組んだ海岸線、ナガコンブ資源量の豊富さ。台帳に記載された干場開設と、入漁する漁業者の受け入れ。
以上が一体となり、往時はコンブ採藻漁業の小拠点、今日的には国定公園を構成する景観であり、生業・生活・文化の域内循環ポイントに相当ということでしょうか。
このたび、こうしたこと。考えさせていただきました。
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