凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

ヤマタノオロチが呑んだ酒

2013年05月12日 | 酒についての話
 以前、郷土史のサイトを作ったときに、酒造りについての本も何冊か読んだ。
 それは、自分の今住んでいる街が、古来より清酒を特産として造り続けている街だからである。酒造りの歴史から、街の歴史を見ようと思った。
 その中で、柳生健吉氏の「酒づくり談義」という古い書籍を手に取った。著者は、長く西宮の老舗で酒造業に携わった叩き上げの方である。
 酒造りの歴史を研究した興味深い内容だったが、その中に日本における酒の起源についても言及がなされていた。

 日本の「酒」というものの存在について、最も古い記述は魏志倭人伝である。これは3世紀であり、日本のどんな歴史書よりも古い。
 魏志倭人伝は邪馬台国論争で注目されるが、当時倭人と呼ばれた民族(おそらくは日本人)の習俗についても詳細に書かれている。酒についても多少の記述が。例えば人が亡くなった時。
其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飮酒
 喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。つまり葬送のときは、弔問客らが酒を飲んでいた様子が伺える。
 酒についての記述の中で面白いなと思うのに、
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
 とあって、その会同、坐起には父子男女別なしというのは、儒教的な習俗に欠けるという意味だろうとは思われるが、「人性嗜酒」というのが興味深い。人の性として酒を嗜む、と記されるのは、日本人は当時の中国人から見ても、酒好きが多く見えたのだろうか。面白いな。
 とりあえずは、卑弥呼の時代でも我々は酒を飲んでいたことが知れる。
 この酒がどういう酒であったかについては記述がない。そしてこれは歴史書のことであり、この時をもって日本の酒の始まりということではない。

 日本の史書で、現在に伝わるもので最も古いものはご存知「古事記」と「日本書紀」である。この成立は、教科書的には古事記が712年、日本書紀が720年とされる。僕はこれに異説も持っているが(もしも古事記が偽書でなかったなら1)、とりあえず成立は7~8世紀であることは間違いないだろう。
 古事記と日本書紀は、成立は魏志倭人伝よりも後だが、内容的には倭人伝よりも古くさかのぼって記述される。神武天皇が生まれたのが紀元前711年であり、それ以前の神話の時代となると、どこまで年代が遡れるのかわからない。
 神話は神話だが、その神話時代にも酒のことは多く出てくる。
 その神話の中で最初に出てくる酒の話は、あのスサノオのヤマタノオロチ退治である。
 これは、よく知られている話であるが一応書くと、高天原を追放された素戔嗚尊スサノオノミコトは、出雲国に降り立つ。そこで、泣いている櫛名田比売クシナダヒメと、その両親である足名椎命アシナヅチノミコト手名椎命テナヅチノミコトに出逢う。聞けば、年に一度八岐大蛇ヤマタノオロチという化け物がやってきて、娘を食べてしまうのだという。既に7人の娘は餌食となり、末娘のクシナダヒメももうすぐ食べられてしまうという。
 スサノオはヤマタノオロチ退治に立ち上がり、親のアシナヅチ、テナヅチに酒を用意させ、八つの樽に満たし、やってきたヤマタノオロチがその酒を呑んで酔っ払ったところをスサノオが退治した、という話。このあとオロチの尾から草薙剣(三種の神器のひとつ)が出てきて、スサノオとクシナダヒメは結婚してめでたしめでたし、なのだが、ここでヤマタノオロチを酔っ払わせた酒が、日本史上での酒の初出である。

 この酒は、どういう酒だったのかについて、古事記では「八鹽(塩)折酒」、日本書紀では「八醞酒」と記す。やしおりのさけ、と訓ずることが多い。
 この八塩折酒について、本居宣長が「八回酒で酒を重醸した」と解した。酒を水代わりにして酒を醸しさらにそれを繰り返してヤマタノオロチも酔っ払うアルコール分の高い濃厚な酒を造ったのであろうと。
 本居宣長の「古事記伝」というのは古事記研究のバイブルみたいなものであり、その解釈論は現在においても生きている。本居宣長に異を唱えることは生半可なことでは出来ない。したがい、現在も解釈本を見れば、八塩折酒は重醸であると書かれていることが多い。八度、手塩にかけて造った酒であると。定説となっている。
 しかしこの説に対して柳生氏は、明確に誤りであるとする。酒造業からの視点は、鋭い。
 そもそもヤマタノオロチが襲ってくる火急の場で8回も醸造を繰り返してられるか、という問題もあるのだが、さらに根本的な問題として、酒は重ねて醸してもアルコール分は高くならない、という事実があるようだ。
 本居宣長は古事記伝において「酎は三重の酒なり」という焼酎(蒸留酒)の製法を引用して、水の代わりに酒を用いて酒を醸し、それを八回繰り返したのだ、と説明する。しかし、醸造酒と蒸留酒では当然のことながら異なる。
 実は、水の代わりに酒を用いて醸しても、糖醗酵は起すが酒精醗酵は起さないものらしい。酒の中では乳酸菌が育たず、乳酸菌がなければ雑菌が増え、糖分をアルコールに変える酵母菌が育たなくなる。したがって、酒精醗酵は酒を水代わりに使った仕込みでは起こりえないものらしい。しかし糖醗酵だけは起すため、(揮発分は別として)アルコール分は変わらずに甘さが増した酒となる。味醂や白酒は本来このようにして甘く造る。
 つまり八回繰り返したところで、どんどん甘くなるだけで強い酒にはならないということである。なるほど。
 さらに、この神代の時代に焼酎はまだ存在していない。醸造酒を蒸留してアルコール分を抽出する方法が日本にもたらされたのは、せいぜい16世紀ではないかと言われる。
 したがって八塩折酒を重醸酒であるとする本居説は「醗酵学上あり得ない」と柳生氏はされる。「それが素人の悲しさというもの」と書かれていて面白い。
 では、八塩折酒とはどういう酒なのか。
 書紀の「八醞酒」がどういうものか。「醞」という字について、僕の手持ちの漢和辞典では「酒」「かもす」という意味しか載っていないが、延喜式巻四十「造酒司」に何種もの酒の原材料や醸造法の記載があり、その中の「雑給酒料」に
右雑給酒は十日に起して醸造、旬を経て醞となる。四度を限る。
との文言がある。10日間で醸すとは早い。ために、「頓酒」とも呼ばれ、速醸造の酒である。醞は「わささ(早酒)」とも読む。
 したがい延喜式から時代は大きく遡るが、漢文である日本書紀において、醞は速醸の意味で使われたのだろう。時間をかける重醸ではあるまい。もしかしたら「八醞」とは、8日間を示すのかもしれない。
 次に、古事記における「八塩折酒」とは何か。これは、よくわからない。古事記だから、おそらく漢字の意味よりも読み先行だったろう。「やしおおり」「やしおり」でそう間違いではあるまいが、意味はよくわからない。重醸からの連想か「やしぼり」と訓ずる場合もあるようだが、それはどうなのだろうか。

 その言葉の意味はともかくとして、八塩折酒について。
 古事記は、どんな酒かについては全然語ってくれない。須佐之男スサノオノミコトが「酒を造って、8つに分けて置け」と言うだけ。
告其足名椎手名椎 汝等 釀八鹽折之酒 亦作廻垣 於其垣作八門 毎門結八佐受岐 毎其佐受岐置酒船而 毎船盛其八鹽折酒而待
 頑張って読んでも、どんな酒かはわかりませんなあ。
 日本書紀も、似たようなものである。酒を醸して棚を八面設け、それぞれに一つ酒槽を置いた、くらいしか書かれていない。
 但し、書紀というのは「一書曰」という注釈がやたら多い。書紀が編まれるのに先行して様々に伝えられてきた歴史書があったからだろう。そこには本文以外の情報がある。
 こういうのもある。一書曰く。「素戔鳴尊乃計釀毒酒以飮之」と。毒の酒ですか。日本の酒の初出が毒入り酒とは穏やかではないが、酒にトリカブトでも入れたならスサノオが斬らずとも死んだだろうしなあ。酔わせて寝させる目的なら毒などいらないし。眠り薬なんてこの神代にあるとは思えないし。解釈が難しい。悪酔いする酒、毒のようによく酔う酒、と考えるのがいいのか。
 毒酒は措いて、柳生氏は別の「一書曰」に注目される。
素戔鳴尊乃教之曰 汝可以衆菓釀酒八甕 吾當爲汝殺蛇
 汝、衆菓を以て酒八甕を醸むべし。この「衆菓」、「もろもろのこのみ」または「あまたのこのみ」と訓じるが、酒の材料を示していると考えていいだろう。この酒は、たくさんの菓をつかって醸された。菓とは、果物の意である。
 つまり八塩折酒は「果実酒」だ。これには驚いた。スサノオはヤマタノオロチにワインを飲ませたのか。

 次回に続く。

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