凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

縄文はワイン?

2013年05月19日 | 酒についての話
 日本酒というのは、造るのが実に難しい。
 穀物からは、勝手に酒は出来てくれないからだ。醸造、とは原料を発酵させてアルコールを得ること。しかしアルコールは、糖からしか出来ない。
 日本酒の原材料である米は、糖分を含まない。したがって、米から酒を造ろうとすれば、まず米から糖を生じさせなければならない。具体的には、麹の力によって米のデンプン質を糖に変化させる。そして、その糖化されたもの(つまり甘酒)に、酵母を働きかけさせて、糖からアルコールを生じさせる。そうして、酒が出来る。
 思い切って簡単に言えば日本酒造りの工程は、米を麹の力で甘酒にする→甘酒を酵母の力で酒にする、ということである。二重の工程が必要となる。
 これが、果実酒であればもっと単純である。果物は、そもそも甘い。糖分がふんだんに含まれているわけで、それに酵母が働けばもうアルコールになってしまう。
 そして、酵母は自然界に存在する。果物を瓶に貯めておいたら、自然酵母で醗酵が始まり酒が出来てしまう可能性も。おそらく、ワインの発明はそんなところから始まっていると思われる。
 対して日本酒は「麹菌というデンプンを分解し糖化するカビ」の発見から始まっている。そんな簡単じゃないのだ。
 さすれば、日本列島で米の酒が出来る以前には、果実酒が醸されていた可能性もゼロではないのではないか。縄文後期には米は伝来していたと思われるが、米が伝わる以前(あるいは水稲耕作によって大量収穫が可能になる以前)に、酒は存在していなかったと断言は出来ない。なんせ魏志倭人伝に「人性嗜酒」と書かれた酒のみ日本人である。
 もしかしたたら、彼らはワインをのんでいたのかもしれない。現に前回書いたように、スサノオたちは「あまたのこのみ」を使って果実酒を醸しているではないか(現に、とか言いながら神話だけど)。

 ここからは、いろいろなことが考えられる。
 日本の神は、天津神・国津神に大別される。天つ神とは、高天原にいる神。国つ神は土着の神。見方を変えると、天つ神は大和朝廷の神であり征服者側、国つ神は出雲その他の神であり、被征服者側であるとも言える。国つ神の大国主命は、頑張って治めていた葦原中国を、天つ神に譲らされた。
 これを日本歴史に当てはめて、縄文文化と弥生文化に対応させる見方もある。短絡的な見方を承知で書けば、日本列島においては、縄文人を弥生人が駆逐した。おそらくは大陸から、稲作技術をもつ集団が日本列島へ移住してきた。それが弥生人であり、それまでの先住民族だった縄文人を侵食していった。
 縄文人は、かつては狩猟漁労採集による移動生活を営む民と言われたが、現在の研究では三内丸山遺跡に見られるように村落を作り、縄文文化が花開いていたとされる。農耕も行われていたと考えられる。
 日本の先住民族である縄文人が、稲作をどれほど広く行っていたかはわからない。ただ大陸から来たとされる弥生人は、完全に稲作に依拠した民族である。米が生活の根幹だった。
 縄文時代から弥生時代へいつ移ったのかは明確には言えず、徐々に水稲耕作が浸透していく過程が時代の変遷過程でもある。ただ年代で言えば、紀元前10世紀から紀元前3世紀くらいが縄文から弥生時代への変わり目と考えていいようだ。
 スサノオの追放や国譲りの使者たちは別として、天つ神が日本列島に正式に足を踏み入れたのは、天孫降臨である。天つ神の女神である天照大神アマテラスオオミカミの孫である瓊瓊杵尊ニニギノミコトが日向国に降り立った。
 ではいつ頃、ニニギは日向国に降臨したか。神武天皇が45歳のときに「天孫降臨して百七十九万二千四百七十余年」という話があるが(日本書紀)、これはまああまりにも粉飾として。神武天皇の即位が紀元前660年、ニニギは神武天皇の曽祖父だから、まあだいたい100年サイクルとみて(神武天皇は127歳崩御)、降臨はだいたい紀元前10世紀頃か。弥生時代の始まりと一であるとも見える(強引かな)。

 素戔嗚尊スサノオノミコトという人物は、なかなか捉えどころがない。一応、アマテラスの弟だから天つ神のはずだが、罪を犯し高天原を追放され(神逐かんやらい)、以後国つ神扱いとなる。国つ神の総大将とも言える大国主命の祖でもある。これは、もともと国つ神だったスサノオが、神話構成上天つ神アマテラスの弟ということにされたという説もある。
 そのスサノオが高天原を追い出された罪というのが面白い。田の溝を埋めたり、畔を壊したり、用水路を破壊したり、とにかく稲作は敵と言わんばかりに水田に悪さを働いている。
 こうした側面から、スサノオはニニギ(水稲農業を旨とする弥生人)が日本に来る以前の縄文人の象徴と考えてもいいかもしれない。
 そのスサノオがヤマタノオロチ退治の際に造れと命じた酒は、果実酒である。ワイン。造ったアシナヅチ・テナヅチは大山祇オオヤマツミ神の子であり、オオヤマツミもまたイザナギ・イザナミから生まれているが、スサノオ同様国つ神とされている。
 
 「酒づくり談義」の柳生健吉氏によれば果実酒は、米から酒を造るより当然原始的であり、簡単であると言われる。そうだろうな。米から酒を造るのは前述したように難しいのだ。
 ことに葡萄酒は、ブドウが蔓に生っている時からヘタのところに酵母菌が群がりついていて、ブドウを容器に入れておくだけでこの酵母がブドウの糖分に直接働きかけ、醗酵して炭酸ガスの泡を発し糖分が分解され、アルコールが生成されるのだとか。こう聞けば、縄文時代にもワインくらいあっただろうと思ってしまう。
 それを証明する手立ては少ないが、状況証拠なら考古学上でいろいろ見つかっているらしい。昭和45年刊の「酒づくり談義」にさえ、青森県是川、また東京江古田の泥炭層からブドウの種子などが見つかっていると書かれ、大型のためどうも栽培種ではなかったか、とまで推察されている。
 さらに柳生氏は、縄文式土器を「酒器だったのでは」と推察される。口広で尖底、縦長、土に埋めて使用するこの装飾土器は、醗酵時に多量の泡が盛り上がる果実酒の醗酵容器として合理的だとされる。「酒屋が酒の専門家の立場として」考察されているので、説得力を持っている。
 面白い話である。この「酒づくり談義」は柳生氏の没後に遺稿をまとめて発刊されたものだが、その後の考古学は柳生氏の説を裏付けるような発見を続ける。
 有孔鍔付土器の発見。口縁部に小孔が列状に開く特徴には太鼓説もあるが、炭酸ガス抜きの穴という説も説得力がある。そして長野の富士見町の縄文中期にあたる井戸尻遺跡からは、出土した有孔鍔付土器の中にヤマブドウの種子が付着していたという。
 そして縄文後期になると注口土器が出てくる。ヤカンやキュウスのような形状をしたこの土器は、酒器という見方も有力になっている。また三内丸山遺跡からも、注口土器の他ニワトコ、ヤマブドウなどの種子、また醗酵液につきやすいミエバイが大量に出土しているという。
 短絡的には言えないが、興味深い話だと思う。

 吉田集而氏の「東方アジアの酒の起源」を読んでいると、古代日本の果実酒の存在については、考古学者や醸造学者らは存在説であり、文化人類学者は否定説になるのだそうだ。吉田氏や、他に篠田統氏、また石毛直道氏などによれば、①日本の果実は西欧産のように甘くなく酒の原料に不適である。②存在したとして、縄文以降根絶した説明がつかない。痕跡がない。③狩猟採集民で酒を造っている民族はいない。原料となる果実が食べる量以上の量を必要とし、そのため栽培が条件となる。などなど。
 確かに、アジアに葡萄酒ってないのね。
 葡萄ノ美酒夜光ノ杯
 飲マント欲スレバ琵琶馬上ニ催ス
 酔ヒテ沙上ニ臥ス君笑フコト莫カレ
 古来征戦幾人カ回ル
 王翰の漢詩「涼州詞」は僕も漢文の時間に習った。ただ、この葡萄の美酒は輸入品である。葡萄酒は西域のものだった。文化人類学者の言うこともわかるのである。
 これに対し柳生氏は、中国にも果実酒が存在していたかもしれないことを、唐宋時代の漢詩に「小槽酒滴真珠紅(李賀)」など紅酒、赤酒、さらに緑酒などが歌われていることから「酒の専門家の立場として」推測されているが、詩のことなので決定打とはいかないと思われる。

 しかしながら、さらに推測として柳生氏は、果実酒が縄文以降根絶したことについては、やはり弥生人の渡来によって、水田稲作と共に米の酒が入ってきて席巻されたのであろうとされる。そして、ある時を境に縄文式土器が失われたことを、米の酒の席巻によるのではないか、と論じられる。これは興味深い視点である。果実酒を醸す道具であった口広のこの土器は、米の酒を作りその貯蔵容器とするには確かに不適当であり、弥生式土器にとって代わられたと。
 縄文式土器が何ゆえ消えたかについては、しっかりとした説明がいまだになされていないと思われる。これについて、酒造の面からのアプローチは興味深い。またその様々な文様や「火焔土器」に象徴される華美な装飾も、酒造りの土器であり酒は祝祭、信仰、呪術などに関わっているものであるとすれば、説明もゆく。面白い。

 私見を書けば、なぜ米の酒が果実酒を駆逐したのか、ということについては、弥生人の圧力もさることながら、やはり米の酒が果実酒よりも美味であったことがあるのだろう。アルコール度数も果実酒より高かったのかもしれない。
 日本の野生の果実が、文化人類学者が言うように酒の材料としてそれほど適していなかったとすれば、造り方さえわかれば米の酒に飛びついてそれまでの果実酒が廃れていくのも不思議ではない。もしも縄文時代に酒造用果実が栽培されていたとしても、農地はどんどん水田に変わっていったことも考えられる。文字もなかった縄文時代。痕跡が残っていなくともそれは致し方ないことのように思うのだが。

 しかし、記録には残らずとも、人々の記憶には細々と残ったのかもしれない。かつては、果物から酒を醸していたということが。
 日本には「猿酒伝説」というものがある。猿が、食糧貯蔵のために木の実を、例えば古木のうつろや岩のくぼみに隠す。それが醗酵して天然の酒になったという伝説。
 柳生健吉氏によれば、この話は曲亭馬琴の「椿説弓張月」に書かれているもので、猿はそういう習性が無く事実とは言いがたいらしい。だが、猿酒というものが馬琴の創作とも思えず、それに類した話は伝説として伝わっていたのだろう。果物を貯蔵すれば酒になる、という知識が。
 それが縄文以来の知識であったのかどうかはわからない。しかし、少なくとも日本書紀には「衆菓を以て」酒を醸したと書かれている。これは、廃れてしまった縄文の酒造りの記憶ではないのか。その記憶を、縄文人の代表たる国つ神のスサノオに託して「一書」は記した。天孫降臨に始まる弥生人の列島席巻以降は、酒は衆菓を以ては醸されなくなる。果実酒用の酒器であったかもしれない縄文式土器も、急に歴史から消えた。

 柳生氏は、ひとつ非常に面白い指摘をされている。それは、飛鳥に残る謎の石造物である「酒船石」についてである。(→wikipedia)
 この酒船石、用途が全くのところ不明であり、薬調合台説から油絞り台説、庭園施設説、はたまた宇宙人の痕跡説まで諸説紛々だが、名が酒船石と伝わっているにもかかわらず、酒造りにはほぼ関係性は見出せない。こんな石に窪みを穿って溝で繋げたものなど、日本酒造りには全く用途が思いつかないからだ。
 これが、果実酒造り用であれば話は別となる。季節に狩り集めた果実を持ち寄り、各々の石の窪みでそれを潰せば、果汁は溝を伝って流れ出る。それを縄文式土器で受けて、醗酵させる。さすればこれは、酒工場の中心器具ではないのか。
 もちろん、真相はわからない。ただ、この石に窪みを穿ち溝で繋げた石造物を「酒船石」と呼び慣わしてきたことこそが、古代縄文のワイン造りの記憶の痕跡であるようにも思われる。
 そのように夢を見てみるのも、悪くは無い。 

 次回に続く。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ヤマタノオロチが呑んだ酒 | トップ | くちかみ酒 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
米の酒 (よぴち)
2013-05-21 22:29:19
凜太郎さん

日本も、その昔は果実酒から…。
考えてみれば、米は大陸から伝授したもの、となっており、おそらく果実の方が、それ以前からあったと思われるし…。

というのは、昔、戴いた柿を食べきれなくて、しかも、私は少し柔らかくなった柿が好きで、戴いてから相当経ってから食べたことがあるのです。
その美味しいこと!茶戌は「これは、もう、酒や!」と言って喜んでいました。
放っておいても、それなりに発酵するのだとすれば、果実酒を生み出すのは、さほど難しいことではなかったのかもしれない。

でも、日本には米があって、米のお酒が主流になった。それがもし、凜太郎さん おっしゃるところの「おいしいから」ならば、日本は、もっと、日本酒というものを、世界にアピールすべきですよね。
すでに、海外でも「米のワイン」と、それなりに人気はあるようですが、まだまだだと思う。

しかし、古代から、人間の歴史に酒が欠かせなかった、という事実に、どこか「ホッと」してしまう酒飲みの私です(^_^;)
返信する
>よぴちさん (凛太郎)
2013-05-23 05:52:05
何と申しますか、こういう整理みたいな記事におつきあいいただいてもうしわけありません。このシリーズもう少し続きまして、以後は古代の米の酒の話になっていきます。
醗酵と腐敗って紙一重みたいなもんだと思っていますし、熟しすぎた柿というのは誠に芳醇な味がしますねぇ。梨なんかも酒の如く熟れたりしますが、ああいうのは醗酵が始まってるのかしらん(笑)。リンゴとかはああはならないんだなぁ。酸味が邪魔をするのかしら。
糖分があれば酒は醸せるはずですが、あんまり柿ワインって知らない。ブドウと違って果汁が少ないのかも。それともタンニンがいけないのかな。しかし詳しいことは全く知りません(汗)。

米の酒は東アジアに広くあるわけですが、日本でここまで浸透したわけは、それが主たる農業生産物で余剰を生み出しやすい、弥生時代以降は稲が信仰の対象になったという理由以外に、日本酒が魚介に合うからじゃないかと思っています。昔「生牡蠣とシャブリ」という記事も書きましたが、どうも日本酒と魚介は相性がいいらしい。生食ならなおさら。そういう意味で、このシリーズではそこまで書きませんが日本酒が定着していく理由の大きな部分を占めているようにも思います。日本の食文化が米の酒に追い風になったと。
そういう意味では、仏教伝来以来日本で獣食が禁忌となったことも影響しているのかなと。ステーキにはワインが合いますが刺身には清酒だよなあ(笑)。そういう意味では、世界にアピールするには和食ごとアピールしないといけないような。ダイエットから始まった日本食ブームがどこまで定着するかですよねー。
返信する

コメントを投稿

酒についての話」カテゴリの最新記事