前回からの続き。
僕は、隠してもしょうがないので書くけれども京都の「紫竹」というところで生まれ育った。隣には「紫野」という町もあり紫野高校の出身である。ここいらへんには「紫式部さんが住んでたんやで」という伝承が残っている。近所のばーちゃんらはそう僕に教えてくれた。
「紫式部の墓」というのも残っている。校区内だった。小さい頃からそこには出入りしていた。なので紫式部には思いいれが普通よりちょっとだけ深い。
その紫式部とはどういう人だったのだろう。
わかっていることは少ない。生没年も定かでない。一条天皇の中宮彰子に仕えた女房であるということ。そして源氏物語の作者であると伝えられること。
源氏物語には署名はない。それではどうして紫式部が源氏物語の作者とされるのか。
この時期、公家の日記は多く残されており、一級史料とされるが、同時期の日記等には紫式部の名前は全然出てこないのである。わずかに、藤原実資の日記「小右記」に「藤原為時の娘の取次ぎで中宮彰子と話をした」という文言が記されているだけである。為時の娘が紫式部とされる女性だ。同時期の史料に出てくるのはたったこれだけなのである。中宮彰子の父である関白道長の日記にも紫式部は全く登場しない。同様に源氏物語も登場しない。
結局紫式部と源氏物語を結びつける史料は「紫式部日記」しかないのである。他に直接的な史料は一切ないのだ。
この紫式部日記は、もちろん紫式部本人が書いたものと伝承され、そうであるからこそ紫式部の人となりと源氏物語執筆状況の研究に使われてきた。しかしながら、この日記には不審な点が多いらしいのである。本当に本人が書いたものなのかどうか。言葉の遣い方、語句や敬語の用法などから、「紫式部日記」というより「紫式部記」あるいは「紫式部伝記」の方が相応しいのではないか、との見方も出てきている。後世になって紫式部を顕彰(?)する目的などで書かれたのではないか、ということである。既に源氏物語=紫式部という伝承があって、その図式にのっとって後世書かれたものであれば、かなり内容を割り引かざるを得ない。
紫式部日記には、中宮彰子に仕える女房としての日常の他に、紫式部が源氏物語を書いたと匂わせる記載がいくつかある(あくまで匂わせているだけではっきり書いたとは言っていない。これも不思議だ)。
左衛門督が「わかむらさきやさぶらふ」と紫式部を呼ぶくだり(「若紫」か「我が紫」か議論は分かれるが源氏物語の作者に対して洒落たのだと言われる)。また天皇が源氏物語を読んで、「日本紀をよく学んで描かれている」と感心するくだり。そして道長が、源氏物語を書く人ならば「すきもの(好色)」なのだろう、と詠みかけて紫式部が否定するくだり、などである。
これらが事実とすれば、もうこの彰子に仕えていた時期に源氏物語は発表されていることになる。少なくとも若紫の巻は流布していて、それが紫式部の筆になることを宮廷人は知っている。
そうなると、何故道長をはじめとする人々は一言も源氏物語と紫式部について触れないのか。「小右記」の「藤原為時の娘」という記述が唯一なのである。もちろん「源氏物語」「紫式部」についての記述は見当たらない。他の詩歌などについての批評は多く載せられているというのに。
また、ちょっと時代は下がるが菅原孝標女の「更級日記」に源氏物語の記述がある。ようやく「源氏」が流布したとの証拠が現れた。しかし彼女は光源氏に憧れているが、紫式部については全く言及していない。菅原孝標女と紫式部は縁者である。何故触れないのか。
少なくともこの時代は「源氏物語」=「藤原為時の娘で中宮彰子に仕えた紫式部」ではなかったのだと考えるのが正しいのではないか。そして後世に源氏物語の筆者が紫式部だという評価が定まって、のちに「紫式部日記」が伝記として編まれたのではないか。
じゃあ紫式部が源氏物語の作者ではないのか。そうは断定できない。書いたのは紫式部で流布が遅れたために道長その他の当時の宮廷人の日記に書かれなかった、ということも考えられる。しかし以前にも書いたように、藤原氏の出身で道長の娘である中宮彰子に仕える紫式部が、こっそり藤原氏批判の物語を書くのはどうしても不自然なのである。考えにくい。
紫式部という人物が架空の人物では? という説も読んだことがある。しかし、藤原為時の娘で紫式部という女人は実在したらしい。それは歌集「紫式部集」が残されており、勅撰和歌集に和歌が選ばれていることから言える。断定は出来ないが、平安半ば以降の勅撰和歌集に伝説上の人物を取り上げることはないと考えていいのではないか。なので紫式部は存在するのである。もう一点面白いことは、個人歌集「紫式部集」にはあの800首近く和歌が載せられている源氏物語から一首も選られていないのである。これは不思議なことではないのか。
僕はこのことが、逆に紫式部という人物が存在する証明になっていると思うし、紫式部と源氏物語が関係ないことを示していると思うのだがどうか。
では何故、源氏物語が紫式部作ということになったのだろうか。
冒頭の話(式部の墓の話)には続きがある。
紫式部の墓は、塚である。こんもりと盛った土であり墓石は後世のものだと考えられる。工場地の片隅でありまた大通りに面して騒がしいところであるが、それはさておき不思議なことは、この紫式部の墓の隣には小野篁が葬られているのである。
小野篁。才人でありながら反骨の人物であり隠岐に流されたこともあった。文人、歌人として知られる。また冥界へ通じていて閻魔大王の副官をしていたとの伝説もある。面妖な人物だ。
この小野篁と紫式部が何故並んで葬られているのか?
ニセ物だろうと断定するのは容易い。だが、墓は後に作られたものであったとしても、何故紫式部と小野篁が同じところに埋葬されたことにしなくてはならないのか。二人を結びつける何かがあるから墳墓が並んでいる、と考えるのが自然だ。普通に考えれば墓が並んでいれば夫婦である。少なくても同じ一族。しかし紫式部は藤原氏のはずであり、篁と結婚もしていないし時代が違う。
これはやはり「もう一人の紫式部」が居たと考えるのが自然だろう。藤原氏の紫式部(為時の娘)以外に小野氏にも「紫式部」と呼ばれる女性がいたのだ、と。式部は官職であり「紫」は愛称。複数居てもおかしくない。この墓に眠る紫式部はこの「紫野」の地に住んでいたんだと近所のばーちゃんたちは教えてくれた。さすれば「紫野式部」だったのかもしれない。
この地は内裏からはかなり北に離れた場所である。近くには蓮台野という葬送の地もある。宮廷の女房である藤原氏の紫式部が住んでいたとは考えにくいのだ。やはり別の紫式部がこの地に居たのだ。
この小野氏の紫式部が「源氏物語」に関わっていたのではないのだろうか。「源氏物語」には様々な人物の手が加わっている。そうして出来上がった源氏物語を編纂した人物が「小野紫式部」であったのかもしれない。あるいは最後の執筆者とも考えられる。小野紫式部によって源氏物語は完成をみたのかもしれない。
それがいつの間にか「藤原紫式部」と取り違えられて伝播し、平安末期には為時の娘が書いたと信じられてしまったのではないだろうか。「紫式部日記」もその頃書かれたものであったのかもしれない。
小野氏は、小野妹子を祖とし、詩文や芸能に優れた一族。有名な小野小町もいる。日本の歌舞の伝承に深く関わっているとされ、また前述の篁の冥界伝説にもあるように闇の世界にも通じていたとされる。
源高明から始まった源氏物語の怨恨の系譜。この「幻の源氏王朝譚」は様々に写本され書き足されて反藤原氏の間で静かに育っていったのだろう。それが最終的に、日本の文学芸能の影の部分を担ったとされる小野氏の手により完成され、ベールを被せられて世に流布したのかもしれない。最終作者は小野「紫式部」。このように考えればすっきりといくのでは、と考えるのだがどうだろうか。
そして、源氏物語の最終章「夢浮橋」は、浮舟が出家遁世した「小野の里」で静かに幕を閉じるのだ。
参考文献:藤本 泉「源氏物語の謎」「王朝才女の謎」他
僕は、隠してもしょうがないので書くけれども京都の「紫竹」というところで生まれ育った。隣には「紫野」という町もあり紫野高校の出身である。ここいらへんには「紫式部さんが住んでたんやで」という伝承が残っている。近所のばーちゃんらはそう僕に教えてくれた。
「紫式部の墓」というのも残っている。校区内だった。小さい頃からそこには出入りしていた。なので紫式部には思いいれが普通よりちょっとだけ深い。
その紫式部とはどういう人だったのだろう。
わかっていることは少ない。生没年も定かでない。一条天皇の中宮彰子に仕えた女房であるということ。そして源氏物語の作者であると伝えられること。
源氏物語には署名はない。それではどうして紫式部が源氏物語の作者とされるのか。
この時期、公家の日記は多く残されており、一級史料とされるが、同時期の日記等には紫式部の名前は全然出てこないのである。わずかに、藤原実資の日記「小右記」に「藤原為時の娘の取次ぎで中宮彰子と話をした」という文言が記されているだけである。為時の娘が紫式部とされる女性だ。同時期の史料に出てくるのはたったこれだけなのである。中宮彰子の父である関白道長の日記にも紫式部は全く登場しない。同様に源氏物語も登場しない。
結局紫式部と源氏物語を結びつける史料は「紫式部日記」しかないのである。他に直接的な史料は一切ないのだ。
この紫式部日記は、もちろん紫式部本人が書いたものと伝承され、そうであるからこそ紫式部の人となりと源氏物語執筆状況の研究に使われてきた。しかしながら、この日記には不審な点が多いらしいのである。本当に本人が書いたものなのかどうか。言葉の遣い方、語句や敬語の用法などから、「紫式部日記」というより「紫式部記」あるいは「紫式部伝記」の方が相応しいのではないか、との見方も出てきている。後世になって紫式部を顕彰(?)する目的などで書かれたのではないか、ということである。既に源氏物語=紫式部という伝承があって、その図式にのっとって後世書かれたものであれば、かなり内容を割り引かざるを得ない。
紫式部日記には、中宮彰子に仕える女房としての日常の他に、紫式部が源氏物語を書いたと匂わせる記載がいくつかある(あくまで匂わせているだけではっきり書いたとは言っていない。これも不思議だ)。
左衛門督が「わかむらさきやさぶらふ」と紫式部を呼ぶくだり(「若紫」か「我が紫」か議論は分かれるが源氏物語の作者に対して洒落たのだと言われる)。また天皇が源氏物語を読んで、「日本紀をよく学んで描かれている」と感心するくだり。そして道長が、源氏物語を書く人ならば「すきもの(好色)」なのだろう、と詠みかけて紫式部が否定するくだり、などである。
これらが事実とすれば、もうこの彰子に仕えていた時期に源氏物語は発表されていることになる。少なくとも若紫の巻は流布していて、それが紫式部の筆になることを宮廷人は知っている。
そうなると、何故道長をはじめとする人々は一言も源氏物語と紫式部について触れないのか。「小右記」の「藤原為時の娘」という記述が唯一なのである。もちろん「源氏物語」「紫式部」についての記述は見当たらない。他の詩歌などについての批評は多く載せられているというのに。
また、ちょっと時代は下がるが菅原孝標女の「更級日記」に源氏物語の記述がある。ようやく「源氏」が流布したとの証拠が現れた。しかし彼女は光源氏に憧れているが、紫式部については全く言及していない。菅原孝標女と紫式部は縁者である。何故触れないのか。
少なくともこの時代は「源氏物語」=「藤原為時の娘で中宮彰子に仕えた紫式部」ではなかったのだと考えるのが正しいのではないか。そして後世に源氏物語の筆者が紫式部だという評価が定まって、のちに「紫式部日記」が伝記として編まれたのではないか。
じゃあ紫式部が源氏物語の作者ではないのか。そうは断定できない。書いたのは紫式部で流布が遅れたために道長その他の当時の宮廷人の日記に書かれなかった、ということも考えられる。しかし以前にも書いたように、藤原氏の出身で道長の娘である中宮彰子に仕える紫式部が、こっそり藤原氏批判の物語を書くのはどうしても不自然なのである。考えにくい。
紫式部という人物が架空の人物では? という説も読んだことがある。しかし、藤原為時の娘で紫式部という女人は実在したらしい。それは歌集「紫式部集」が残されており、勅撰和歌集に和歌が選ばれていることから言える。断定は出来ないが、平安半ば以降の勅撰和歌集に伝説上の人物を取り上げることはないと考えていいのではないか。なので紫式部は存在するのである。もう一点面白いことは、個人歌集「紫式部集」にはあの800首近く和歌が載せられている源氏物語から一首も選られていないのである。これは不思議なことではないのか。
僕はこのことが、逆に紫式部という人物が存在する証明になっていると思うし、紫式部と源氏物語が関係ないことを示していると思うのだがどうか。
では何故、源氏物語が紫式部作ということになったのだろうか。
冒頭の話(式部の墓の話)には続きがある。
紫式部の墓は、塚である。こんもりと盛った土であり墓石は後世のものだと考えられる。工場地の片隅でありまた大通りに面して騒がしいところであるが、それはさておき不思議なことは、この紫式部の墓の隣には小野篁が葬られているのである。
小野篁。才人でありながら反骨の人物であり隠岐に流されたこともあった。文人、歌人として知られる。また冥界へ通じていて閻魔大王の副官をしていたとの伝説もある。面妖な人物だ。
この小野篁と紫式部が何故並んで葬られているのか?
ニセ物だろうと断定するのは容易い。だが、墓は後に作られたものであったとしても、何故紫式部と小野篁が同じところに埋葬されたことにしなくてはならないのか。二人を結びつける何かがあるから墳墓が並んでいる、と考えるのが自然だ。普通に考えれば墓が並んでいれば夫婦である。少なくても同じ一族。しかし紫式部は藤原氏のはずであり、篁と結婚もしていないし時代が違う。
これはやはり「もう一人の紫式部」が居たと考えるのが自然だろう。藤原氏の紫式部(為時の娘)以外に小野氏にも「紫式部」と呼ばれる女性がいたのだ、と。式部は官職であり「紫」は愛称。複数居てもおかしくない。この墓に眠る紫式部はこの「紫野」の地に住んでいたんだと近所のばーちゃんたちは教えてくれた。さすれば「紫野式部」だったのかもしれない。
この地は内裏からはかなり北に離れた場所である。近くには蓮台野という葬送の地もある。宮廷の女房である藤原氏の紫式部が住んでいたとは考えにくいのだ。やはり別の紫式部がこの地に居たのだ。
この小野氏の紫式部が「源氏物語」に関わっていたのではないのだろうか。「源氏物語」には様々な人物の手が加わっている。そうして出来上がった源氏物語を編纂した人物が「小野紫式部」であったのかもしれない。あるいは最後の執筆者とも考えられる。小野紫式部によって源氏物語は完成をみたのかもしれない。
それがいつの間にか「藤原紫式部」と取り違えられて伝播し、平安末期には為時の娘が書いたと信じられてしまったのではないだろうか。「紫式部日記」もその頃書かれたものであったのかもしれない。
小野氏は、小野妹子を祖とし、詩文や芸能に優れた一族。有名な小野小町もいる。日本の歌舞の伝承に深く関わっているとされ、また前述の篁の冥界伝説にもあるように闇の世界にも通じていたとされる。
源高明から始まった源氏物語の怨恨の系譜。この「幻の源氏王朝譚」は様々に写本され書き足されて反藤原氏の間で静かに育っていったのだろう。それが最終的に、日本の文学芸能の影の部分を担ったとされる小野氏の手により完成され、ベールを被せられて世に流布したのかもしれない。最終作者は小野「紫式部」。このように考えればすっきりといくのでは、と考えるのだがどうだろうか。
そして、源氏物語の最終章「夢浮橋」は、浮舟が出家遁世した「小野の里」で静かに幕を閉じるのだ。
参考文献:藤本 泉「源氏物語の謎」「王朝才女の謎」他
女性のタイプを話すとき、源氏物語の登場人物に擬して話すとなんだかみやびな気分になりますね。雨夜の品定めではないですが(笑)。紫式部もいろいろなタイプの女性について書いてくれたのはありがたいことでした。
アラレさんのblogはスタイルが決まっていますので、源氏物語の思い出を少しづつ散りばめて書かれるのも一興ですよね。みゆきさんのうたには源氏物語に登場してもいいような女性像がたくさんおられるような気もします(笑)。
いろいろなお話こちらこそありがとうございました。
源氏物語の話をするときに、決まって浮かぶのが高校時代なんですよね。
楽しい思い出とともに
源氏があるっていう感じでしょうか。
今の私は、花散里か空蝉に惹かれる反面、朧月夜でいたいと願う気持ちもあったりして…
しかし、二人の会話、源氏を知らない方には
暗号のようでなんか、ちょっと…おもしろいですね。
楽しませていただきました。
ありがとうございます。
これはあまり突っ込んだ話はしないほうがよさそうですね。確実に知っている名前が出てきそうだ。ネットの世界も狭い(笑)。ただ、不思議なご縁ではありますね。(^-^)
紫式部は本文でも書いたように確実に存在したと思っています。「めぐりあひて見しやそれとも…」と詠んだ宮廷歌人は間違いなく居る。ただ、もうひとりの紫式部もいると僕は思っています。夢を壊すようなことになったら申し訳ないのですが。
石山寺の紫式部の部屋を僕も訪れたことがあります。あれも伝承ですがちょっと紫式部を身近に感じる瞬間です。本文では言及しませんでしたが、何故石山寺に式部の部屋があるのか? ということを考えたことがあります。
琵琶湖西岸は、小野氏の本拠地なのです。小野妹子は近江出身で、妹子や、字の上手い小野道風を奉った神社もあり、地名も残っています(JRにも「小野駅」があります)。このように近江に紫式部の伝承が残っていることからも(父の任国越前への道程である北部ならともかく)、小野氏との因縁が僕には想像されてしまうのです。
紫式部は美しかったのかそうでないのか。もはやわかりませんが、実に人間観察眼は優れていたのでしょうね。女性が全く類型的に描かれていないことからもよくわかります。
アラレさんも源氏物語に対する思い入れを綴られてはいかがでしょうか。
P.S. 生霊となるほどの情熱的な女性とお逢いしたい気もしますが実際には怖い(笑)。僕は結局雲居の雁のような人が最近はいいなと思います。昔は朧月夜に憧れたものですが。人間落ち着くと安全策に走るものなのでしょうか(笑)。
京都の地が忘れられない地になったきっかけの恋
その恋のお相手が住んでいたのが紫竹でした。
大好きな源氏物語の話
そして、その話を書いている人が
紫竹で生まれ育った。
なんか、すごく縁(えにし)を感じました。
紫式部が実存しなかったという仮説は私も知っています。高校の頃、その話を読んで
でも、実在して欲しいと思ったんです。
紫式部は、聡明だったけれど、美しくはなかった。男の人にも縁がなかった。
だからこそ、女の哀しさを描けたのだという
話もありますね。
修学旅行で石山寺に紫式部が源氏を書いていた部屋というのがあり、そこを見学した時は
とても感動していました。
長い時が経てば、その人が実在したかどうかを照明するものもなくなります。
美しさと華やかさに無縁だった女が
自分の言葉をつづることで1000年の時間を経てもなお、名を留められることにロマンを感じます。
だから、実在して欲しいと思います。
源氏は女の声なき声と無念の作品とも
言われます。
ひそかに私は現代の紫式部に憧れて
ひたすら、
人間観察をしているのかもしれません。
とっても楽しい源氏のお話
また機会があったら続けてくださいね。
P.S
生き霊になってまでも、誰かを恋しく思える情熱が持てた六条の御息所にはなれそうにないですが
不器用に、好きな人を待ち続ける末摘花には、なれるかなぁ~それも疑問だ(笑)