凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも鎌倉仏教が興らなかったら 3

2008年04月20日 | 歴史「if」
 前回の続き。
 浄土教は、もちろん鎌倉仏教以前より日本に伝来している。長野善光寺の秘仏本尊は、百済伝来の日本最初の仏像だということだが、これは阿弥陀三尊である。もっとも日本書紀には公伝のときの仏像は釈迦如来だったと記されているが、いずれにせよ相当古いことは想像に難くない。
 むろん比叡山延暦寺でも当初から教学のひとつとされている。最澄を継ぐ天台座主三世の円仁は「常行三昧堂」を建て、天台僧は「南無阿弥陀仏」と念仏しながら修行した。
 ここから後に法然が登場するのだが、その前に「往生要集」を著した恵心僧都源信が現れる。源信は観想念仏(後述)を重視したとされ、貴族用仏教と思われてしまう節もあるのだが、称名念仏の重要性もしっかり説いている。
 称名念仏で思い出すのは空也だろう。民間救済としての浄土教の先駆者であり、念仏を唱えつつ社会事業を行った。ただ、空也は10世紀、源信も11世紀初頭までである。末法思想が席巻し、また民衆の救済欲求が飽和状態に達した12世紀後半にもしも空也や源信が登場したのであれば、また浄土信仰もどういう道を歩んだか。だが歴史はこの時期に法然という天才を配剤する。

 現在では「極楽浄土」「大往生」「他力本願」といった言葉が頻繁に日常会話に登場するほど浸透しているとも言えるが、そもそもそういう言葉の原点である浄土信仰というものは、いったいどういうものか。これが難しい。
 浄土信仰の根本経典と言えるものは「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」のいわゆる浄土三部経であるが、こんなの難しくて読めない。僕も解釈本を読んだ程度であると先に言い訳をしておく。
 物語として読めば観無量寿経などは相当に悲しい。マガダ国の王子である阿闍世(アジャセ)、彼が提婆達多(ダイバダッタ)にそそのかされて父である国王頻婆娑羅(ビンバシャラ)を幽閉する。国王夫人であり阿闍世の母の韋提希(イダイケ)は、ひそかに身体に密を塗り幽閉下の国王に会いそれを与えて永らえさせる。それを知った阿闍世は母親も幽閉する。
 韋提希は釈迦に泣き濡れて叫ぶ。この悲劇は如何、と。私はこの濁悪の世を願わない。憂い無き処を説き願えないか、と。釈迦はそのとき、韋提希に十方世界の浄土を示現させる。韋提希はその中で、阿弥陀如来の極楽浄土を望むのである。
 韋提希は釈迦によって極楽浄土を観た。だが衆生はその術がない。どうすれば極楽浄土へ往生出来るのか。その方法を釈迦は説くのであるが、その方法は「観想」なのである。太陽が西方に沈みゆく姿を心に焼きつける「日想観」から始まり、水を、土を観て浄土を想い、そして順々に極楽浄土を観想する。阿弥陀仏を想い、自在身観に至るまで13の段階を追う。その観法は「狂気に近い想像力の訓練」と梅原猛氏は言う。確かに極楽浄土が目前に現れるまでには相当の精神集中が必要だろう。韋提希は極楽世界の姿を観て、歓喜に包まれ迷いが晴れ、極楽浄土への往生を願うのである。
 長々と書いてしまったが、では何故に極楽浄土へ往生出来るのか。本来は自力で修行して解脱するのが悟りであるはずなのに、浄土へ生まれ変われればどうして悟りが開けるのか。それは阿弥陀仏がそう本願を立てたからである。無量寿経では、阿弥陀仏が法蔵菩薩として修行していたとき四十八の誓願を立て(本願)、一切衆生の救済を願い、自らの国(浄土)に来る者は全て悟りを得られるものとし、この願いが成就せねば悟りを開かないと誓った。そして阿弥陀仏は既に菩薩から如来となっているのだから、この本願は叶えられているということである。故に、死して阿弥陀仏の極楽浄土へ生まれ変われば(往生)、悟りを開き成仏出来るのである。極楽浄土へ往生することを願いさえすれば。
 そう言われれば、皆極楽浄土への往生を願うだろう。これが浄土教であると僕は一応理解するが、これではなっていないと叱られるかもしれないが。

○もしも法然が出家していなければ
 法然は美作国(岡山)の押領使であった漆間時国の子として生まれた。母親は秦氏の出身である。幼名勢至丸。漆間時国は地方豪族であり、武士と定義していいと思う。押領使(令下の官)に任命されるのであるからかなりの実力者であっただろう。その長男として生を受けた法然は、このままであれば出家など考えられなかったはずである。当然漆間家を継ぐ立場である。
 だが、漆間家を突然不幸が襲う。対立勢力であった明石貞明の夜討によって、父時国が落命する。時に法然9歳。このとき法然は幼子ながら矢を射て貞明の眉間に突き刺さったともいう。法然もここで殺されても不思議ではないのだが(これもif)、生き延びた。武士としては家を再興、そして仇討ちを目指す生き方になろうかとも思えるのだが、時国の遺言により出家の道を選ぶこととなる。
 法然は出家し後比叡山に入ることになるのだが、法然がこの道を選ばなければ仏教の歴史は相当変わったことになったに違いない。以下それを考えたい。
 法然は勉学を重ね、ついに専修念仏に辿り着く。
 それまでの浄土信仰は、多岐の方法があった。源信は前述した「観想念仏」を重視していた。観無量寿経に説かれる観想である。極楽浄土に念をこらせよ。だから、貴族は浄土を思い浮かべ易いように、藤原道長は法成寺を、頼道は平等院を建立し、浄土を再現した。確かに源信は観想を理想としたが、しかしそれが出来ない人々には、様々に段階を設け、最終的には称念をせよ、と説いた。阿弥陀仏を心に念じ、声に出して称えるのである。
 これを法然は、称名念仏一本槍にした。観念は難行である。易行の方が勝っていると。そして、その他の行を全て捨て、念仏を選択し、専修に念仏を称えなさいと。
 この根拠は前述の無量寿経にある阿弥陀仏の四十八の誓願の第十八願にある。「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」と記され、私が仏になれば、十方世界の全ての人々が、信楽(シンギョウ 教法を信じこれに喜び従う)に心至り、私の浄土に生まれたいと願い、十念(十回念仏)をしても、若しも生まれない者あれば、私は正覚(悟り仏に成る)にならない、と阿弥陀仏は言うのである。
 十というのは、数少なくても、という意味であろう。ここに至り法然は敢然と他の行を捨て称名念仏に帰するのである。そして、比叡山を下り大衆に説き始める。
 これは「易行・選択・専修」の始まりである。誰にでも出来る方法。これは法然より始まる。この方法論は、親鸞はもとより後の道元や日蓮もこの影響下にあると言ってもいいのではないか。
 そして大衆救済。歴史的に見れば、民衆の救済を目指したのは法然が最初ではなく、念仏には空也が既に居る。また、古くは行基の存在が光る。仏教は鎮護国家のためにあった、とはこの話の最初に書いたが、民衆の救済のために立ち上がった先達は鎌倉仏教以前にも存した。
 だが行基の活動した時代は、ようやく三世一身法が世に出た時代。後に墾田永年私財法が発布されるが、まだまだ民衆が力を持てる時代ではなかった。それでも行基は教団を形成し民衆と共にあったが、国家はこれを弾圧し、後に国家はこれを取り込もうとする。そして行基は大仏造立のための勧進(資金集め)に従事することになる。
 国家公務員である官僧に対し、そこから飛び出た行基のような遁世僧には、布教の基盤となるべき教団が必要だが、それを後押しする民衆は被搾取側でありまだ力が無かった。ところが、平安時代も後半になると、地方の民衆は豪族となり力を蓄え、それが武士となっていく。荘園が増え国家は先細り、民衆の時代がやってくる。後にその労働者階級は強力な労働組合(幕府)を作り上げて国家(朝廷)を凌駕する。その流れの中で法然は登場する。
 法然の思想は、多くの人に受け入れられた。保元・平治の乱。源平合戦。戦争が続き末法の世と言われた。人は皆救われたい。だが、戦争に明け暮れる武士、米作りに追われる農民には寺に入って修行など出来ない。法然は念仏さえ称えれば極楽浄土に往生して、その浄土で悟りを開ける、成仏出来るのだと説くのだ。こうして浄土宗は教団を形成し隆盛していく。
 そうして考えれば、法然は鎌倉仏教そのものであるように思える。このタイミングに、専修念仏を説いた法然無くして、その後の仏教は考えにくい。日本の仏教思想を解脱から救済へ、また倫理哲学から宗教へと決定付けたのも、最終的には法然であるようにも思える。そして、法然無くして親鸞はまず生まれなかったのではないか。

○もしも蓮如による浄土真宗復興がなかったら
 僕の家は真宗門徒ということである。そんなことじいさんが死んで葬式をするまで知らなかった。「門徒もの知らず」という言葉がありこれは他宗(の信者)が「仏教の作法を知らない」と揶揄する言葉なのだが、自分の家の宗旨も知らないとはもの知らずにも程がある。
 だが自分が真宗門徒に生まれたと知っても、いまだに僕は浄土宗と浄土真宗の違いについて明確に知らない。両宗とも南無阿弥陀仏と称名念仏をすることが往生の要であるからである。同じように思える。
 「他力本願」という言葉は、浄土真宗の核心でもある。
 前述した無量寿経の四十八の誓願の第十八願は「念仏往生の願」であり、だから極楽浄土往生を願って例え10回でも「南無阿弥陀仏」と称えれば往生出来るのだ、と法然は説く。
 仏教で悟りを得て成仏するには「自力」でその境地に達することが必要だった。だから修行をした。禅宗が坐禅をするのも法華宗が題目を唱えるのも、それ一本に絞っているために易しい修行ではあるが、あくまで自力による成仏を目指す。だが浄土信仰は、阿弥陀仏の本願によって救われるので(他力)、その教えにすがるために念仏を唱える。
 ここから先は僕にも誤解があるかもしれないし頭から信用しないでいただきたいが、その法然の説く南無阿弥陀仏の称名念仏はやはり「易行」であるということではないだろうか。阿弥陀さま私を助けてくださいと願って念仏を口に出して唱える。さすれば救われる。それが、最も簡単な行なのである、ということではないだろうか。
 親鸞は、さらにそこから一歩進めたと思われる。つまり阿弥陀仏は、四十八願を既に実現して如来となっているのであり、極楽浄土は既に開かれていると考えられる。したがって、その本願によって衆生全て救済は約束されている、いやもう既に現時点で救われているのだ、と説いたのではないか。
 だから、救われたいがために唱える念仏など、阿弥陀仏の慈悲を理解していない行為である。本願によって衆生は救われているのだから、この上何を求めて念仏するのか。それは阿弥陀仏の「絶対他力」を信じていない行為である、と真宗では説くのではないだろうか。
 真宗で「南無阿弥陀仏」と唱えることは、阿弥陀さまにすがるための行ではない。それは、救っていただいたことに感謝する念仏なのである。絶対他力を信じ感謝の心を忘れないことが最も肝要なことである、と親鸞は説いていると僕は理解しているが、違うかな。自信はないけれど難しいのでとりあえずそう思っている。
 親鸞は相当革命的であったと言える。親鸞の思想を突き詰めれば、既に救われているにもかかわらず自力の修行など弥陀の本願を信じていない行為である。戒律も修行のひとつでありこれも捨てる。この捨律によって、親鸞は妻帯するのである。女犯戒は戒律の中でもかなり重要なものであるが、それを捨てる。よっぽどのことだろう。
 このことによって、親鸞には子孫が出来る。戒律護持の仏教において、子孫を持つ僧侶などあくまで公的には存在し得なかったのだが、親鸞はそれをやった。かくして、親鸞の子孫はその血脈を受け継ぎ続いていくことになる。

 親鸞は、既に衆生は救われているのだ、だから安心しなさい、そして阿弥陀仏に感謝の心を常に持ちなさい、と自らの生ある限り布教に勤めた。だがこの考え方により、教団を持とうとはしなかった。教団を形成して念仏行を勧めなくても既に衆生は救われているからである。なので、親鸞の死後はこの教えは徐々に消え行く運命にあったと言える。このままでいけば、親鸞は法然の高弟のひとりとしてしか認識されず、その教えもしっかりと伝わったかどうかは疑問である。よくて浄土宗の一派として残った程度だっただろう。しかし、親鸞には子孫が居た。
 親鸞の曾孫にあたる覚如は親鸞の伝記を編み、本願寺を成立させ、教団を形成した。浄土真宗はここから始まったと言っていい。覚如は事実上の開祖である。そしてこの血脈から、室町時代に布教の天才、蓮如が登場することになる。
 蓮如の時代は、本願寺も衰亡し、浄土真宗も親鸞の弟子の系譜となる他派が隆盛し、また他宗の勢いも強く本流であるはずの親鸞の血脈は消えんとしていた。だが蓮如は青蓮院の一末寺に転落していた本願寺を中興し、布教活動に尽力し、福井に吉崎御坊を建立して北陸での布教を大いに広げるなど勢力を拡大し、最終的には大阪に石山本願寺を建立するなど教団を確固たるものにした。その急激な伸張はすさまじい。そして、この本願寺真宗教団が、歴史的に重要な役割を果たすことになる。
 衆生は全て救われていると定義する浄土真宗。死しても極楽浄土が待っている。これは力強い。本当に親鸞の言う教義と合致しているのかは僕にはわからないが、領主に対する忠誠は現世のうたかたであるが、弥陀の本願は永劫である、とすれば、死をも恐れぬ集団が形成されることも可能性としてある。事実、加賀一向一揆は守護大名を倒して真宗門徒が一国を支配した。一向一揆は全国に波及し、最終的には石山本願寺で織田信長と対峙するまでに至る。
 織田信長の天下統一を妨げたもの。その最大のものは、毛利でも武田でも上杉でもなく、この石山本願寺を中心とする真宗門徒である。
 三河一向一揆は家康の家臣も取り込み家康を窮地に陥れ、長島一向一揆では信長の弟も戦死している。本拠である石山本願寺の攻防戦、その戦闘は10年に及び、最終的に天皇が仲裁に入って和睦したが、決して信長に屈してはいない。信長は宗教勢力と対峙し、比叡山焼き討ちは有名であるが、この真宗門徒との戦いは最も精力を遣ったはずだ。もしも一向一揆が無かったとすれば、信長はもっと早くに天下統一を成しえただろう。信長は浅井長政に裏切られて三年足踏みしたが、この本願寺勢との戦争はそれ以上に影響があったかもしれない。本能寺もあったかどうか。信長が自ら天下統一を成しえていたとしたら、日本の歴史は全く違う側面をたどった可能性が高い。

 さらに、この浄土真宗の隆盛ということにおいて、僕はもうひとつの可能性を考えてしまうのである。
 浄土真宗という宗教は、もちろん仏教であると考えられるし、その教義は「解脱から救済へ」と前述したけれども、現世においては弥陀の本願を信じて安心し感謝するわけで、それも一種の解脱であると考えられなくはない。往生すれば極楽浄土であるが、現世においてはそれを信じることによって穢土である現世に光明を見出すわけであるから。しかし、この時期の浄土真宗は、多くの人が指摘しているが一神教に近い様相を呈していたという側面も否定は出来ない。
 もちろん仏教に唯一神は居ない。居るのは数多くの悟りを開いた如来である。だが、浄土信仰はその中から阿弥陀如来を「選択」し、その本願を唯一の拠りどころとする。これは、生半可に考えれば、感覚的には一神教に近づいてしまう。
 仏教の教義(仏教に教義は無いとも言われるが便宜的にそう言う)は難しい。僕もこの記事を書くのにさんざん考えている。それより「阿弥陀さまを信じなさい。皆を救ってくださっているのだから」と単純に言われると分かりやすい。一神教に近づくのもある程度可能性として考えられることなのではないか。また、時代がそれを望んでいたとも言える。とくに戦国時代はそうだろう。弱肉強食の下克上の時代に、絶対的な力に帰依したいと願う民衆の思いは飽和していたのではないか。救ってくれる神を見つけてすがりたいのだ。そこに浄土真宗が合致したとしても不思議ではない。
 様々な本によると、この当時真宗門徒は全国の人口のかなりを占め、一説には6~7割を占めたのではないかという試算もあるそうである。
 そこで考えられるのだが、もしも蓮如が登場せずこの浄土真宗がここまで浸透しなかったとしたら。日本の民衆は、これ以降に伝来したキリスト教へとかなり傾斜したのではないか。
 乱世で飽和していく救済への欲求。それを浄土真宗が埋めていたことは考えられることだと思う。もしもここに阿弥陀信仰がなければ、人々は救いを求めて唯一神であるGodへと雪崩を打っていた可能性もゼロではない、と思えてしまうのである。人々は追い詰められていたのだ。
 もしも日本にキリスト教がもっと浸透していたならば。これを考えると様々なことが想起されるのである。表層で捉えれば、この大航海時代のキリスト教布教活動は欧州の植民地化政策と表裏一体であり、日本はかなり危なかったかもしれないという想像がまずある。むろん武力装備の極致にあった日本の戦国時代であり、欧州との距離、またスペインやポルトガルの以後の没落過程を考えると、そう一朝一夕に日本占領を想像することは出来ないのだが、可能性は否定できない。
 信長は南蛮貿易を推進していたし、キリスト教も黙認していた。ただしそれは数の論理であって、クリスチャンが日本を席巻する勢いにでもなれば、これを敢然と叩き潰す側に回ったであろうことは想像に難くない。本願寺を潰そうとしたのを照らし合わせればまずそうなっただろう。そうすれば、西欧はどういう態度に出るか。本願寺を支援した毛利のような立場に立つだろう。これはややこしいことに成りうる。そして、信者たちの激しい抵抗は、後の島原の乱を考えても想像がつく。日本はどういう方向へ行くだろうか。完全なキリスト禁教など不可能であったかもしれない。さすれば、天皇制などはどうなったかな。尊皇攘夷なんて思想はありえたかな。こういうことを考えるのは「歴史if」の醍醐味なのだが、様々な問題がありそうなのでこのくらいにしておく。
 そして、もっと根本的なことも考えられる。日本人の思考の方向性にも影響が出たのではないかということ。
 日本は、諸外国と交流の歴史は長いとはいえ、島国であることも影響し独自の文化を成熟させてきた。遣唐使の廃止や鎖国政策など、国を閉ざして内部熟成を続けた期間も長い。しかしてこの時期に、西欧的思想、倫理哲学がどっと入り込んでいたとしたら、果たしてどうなっていたのか。聖徳太子以来の和の思想は滅びたか。また島国根性が消え、グローバル的視野を持つ国民が育ったか。
 いろいろ考えることは出来る。明治以降の文明開化の波を想像すれば足る、とも言えるかもしれないが、僕は戦後の、現在の若者の思考の様相に雛形が見えるような気がしてしょうがない。むろん、これ以上書くことは僕の筆に余るのでここで止める。

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6 コメント

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Unknown (バディーロジャース)
2008-05-05 21:17:34
 ものすごく久しぶりに貴兄のサイトを開き驚きました。宗教について長大な論文を書いてますね。
 実は私も宗教が好きです。浄土真宗とキリスト教がよく似ていることはわかります。司馬遼太郎など読んでるとフムフム…となりますから。でもやっぱり両者はかなり違うのではないか思います。
 じゃなかったら石山攻めをした信長が、キリスト教を禁止にしなかった理由がわかりません。信長も信徒も真宗とキリスト教の違いがわかっていたと思います。
 キリスト教は神が人間となってこの世に来た(歴史に関与している)といっているのですが、仏教の如来にはそうした観念はありません。キリスト教は仏教の如来や須弥山、極楽などすべて架空の世界だと信徒に説きます。
 当時両宗教がどのような布教をしていたか知らないのですが、如来とゼウスはよく似ているが、やっぱりおらが信じてる真宗はキリスト教とは違うと民衆レベルでもわかっていた・感じていたのではないでしょうか。
返信する
>バディさん (凛太郎)
2008-05-06 18:10:40
これはご無沙汰です! その節はお世話になりました!
と…論文などという大それたもんじゃないです(汗)。ブログ記事にしては長いですが。歴史的側面だけを書こうと思って始めたのですが、どうしても仏教の中身に触れずに話を進めることができなくて、わからんくせにいろいろ書き連ねてしまっています。

いくつか観点はあると思うのですけど。
まず信長の見方なんですけれども、信長は宗教弾圧というよりも、宗教団体弾圧の側面のほうが大きいと思うのですね。その仏教宗派の教義(というものがあるとすれば)にアタマにきて滅ぼそうとしたのではなく、その宗派が敵対勢力と化したので弾圧したのではと僕は考えているのですが。
この時代、真宗や延暦寺の他に、法華宗も武力を持ち一揆も起こしました。その法華宗に対し、信長は「安土宗論」を執り行いvs浄土宗で法華宗の負けを宣言し、幹部を処刑し法華宗の特徴である「折伏行為」を禁じます。勢力弱体化を図ったと解釈します。
そして法華宗が信長に敵対しなくなった時点で、弾圧行為は止めてしまうのですね。あの本能寺は法華宗大本山であることからもそのことが伺えます。協調したと見ていいかと。敵対勢力でなければ信長は寛容です。
例えば、もしも奈良興福寺が鎌倉時代のような勢力を持ち続けていて信長に反旗を翻したとすれば、やはり延暦寺のように焼き討ちを敢行されていたのではないでしょうか。ですが、大和国守護職を担っていた興福寺は南北朝以来没落し、三好氏、そして松永久秀、筒井順慶らの登場で信長に敵対する実力は失っていました。興福寺文書には信長を「上様」と記しているとか。なので信長は捨て置いたのだと考えられます。
延暦寺は浅井・朝倉と結び、また真宗は断固として信長に敵対しました。なので滅ぼそうとした。長島一向一揆は皆殺しという恐ろしい手段をとりましたが、しかし石山本願寺が武力解体した後は、禁教令などは出していません。ある意味「信教の自由」は敵対さえしなければ保証していたのではないかと思えるほどです。

キリスト教は、南蛮貿易の利点もあり信長が保護したとも考えられますが、この時点でキリスト教が信長の敵対勢力となり得なかったことも弾圧しなかった理由ではないでしょうか。そこまで(畿内の)キリスト教は力を持っていなかった。もしも本能寺がなく信長が九州平定に乗り出したと仮定して、九州のキリシタン大名たちが信者と共に対信長共同戦線を張ったとすれば、信長は敢然と弾圧を開始したのではと僕は思うのです。
バディさんがおっしゃるように、信長も真宗とキリスト教の違いはわかっていたと思います。おっしゃる通り。信長はよく「自らが神になろうとした」として安土城に「"天主"閣」を設け違う神を信じる宗教を弾圧したと言われますが、そこまでではなかったのではないでしょうか。ただ、敵対勢力であったために、武田や上杉と対峙したようにそれら団体と対峙したのでは、と考えています。

さて、もしも真宗がここまで勢力拡大していなければキリスト教が日本を席巻したのでは、というifは、僕も絶対そうなっていたとは考えてはいません。ただ、可能性はゼロではなかったのでは、という程度です。歴史の分岐点として考えています(このカテゴリの趣旨はいつもそうなんです^^;)。面白おかしく書いてすみません(汗)。
むろん真宗とキリスト教の違いについては本文中でも言及していますし、僕もかなり違うと考えます。ただ、民衆が救済ということ一点で捉えた場合、どちらもニーズに合致していたのではという考えはまだ捨て切れません。もちろん「生半可に考えれば」ですけれども。
真言宗が即身成仏を目指し、禅宗も自力で悟りに至ろうとする。法華宗も題目行により現世での悟りを目指します。浄土信仰は「他力」ですね。絶対的な阿弥陀の力で救われる。でもここまででは、まだキリスト教とは圧倒的に違いがあります。一神教でもなく、数多くの如来の中から阿弥陀仏を選択しているだけです。
しかし、この親鸞の教えは、蓮如以降どうも先鋭的になっていくようで。孫引きで恐縮ですが、三河一向一揆の場面で「主従の縁は一世限り、弥陀の本願は永劫のもの」という言葉が出てきます。こうなるとかなり近い。親鸞も蓮如もそこまでは説かなかったと思うのですが、独自に発展してしまった感があります。
決して教義が似ているとは思えない。けれども、救済を求める民衆には、そんな細かいこと以上に救われたい願望があり、それが真宗を望まれる「かたち」にして信仰を深めたようにも思えます。これは、僕がそう考えてしまっただけのことで正解ではないかもしれませんが。
そして、この救済願望はキリスト教がすんなりと受け入れられる下地にもなりうるのでは、と考えたのです。もしもここに真宗なかりせば。

キリスト教布教で言いますと、布教当初は仏教へのすり寄りも見られますね。「ゼウスは大日如来と同形だ」とまで言います。なんだか本地垂迹説みたいですね(笑)。また、受け入れる側や従来の仏教界も、仏教の新宗派的にキリスト教をとらえていた節があります。やわらかな形で日本には入ってきたことを伺わせます。いきなり如来否定までにはいかない。
しかし、もちろん徐々にキリスト教は仏教否定に入ったでしょう。段階をおって。異宗教排除は十字軍を見ているとよくわかります。仏教風に言うと「折伏」を旨としていますから。
僕は、本文中にも書きましたが島原の乱と一向一揆の根底を流れるものに、実に近いものを感じるのです。宗教的にはむろん違うものとしても、行動をひとつのベクトルに向けるパワーと言いましょうか、そういうもので共通点を感じる。
江戸時代、薩摩藩はキリシタン禁教と共に「念仏停止」も行いますね。どっちも為政者にとっては怖い存在であったということでしょう。真宗はキリスト教とは競技的には確かに違う。しかし歴史的なパワーとしてみた場合、共通項がいくつも感じられるのです。

また長くなりました。すみません(汗)。
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Unknown (バディ・ロジャース)
2008-05-06 20:34:29
凛太郎さん
 プロレス技だけじゃなく、信長時代の宗教状況について面白く勉強させてもらいました。次ぎはラリアットぐらい強烈で破壊力のある仏教についてのブログを楽しみにしています。
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>バディさん (凛太郎)
2008-05-08 21:37:50
とんでもないです(汗)。生意気に書き連ねてしまいました。
仏教は哲学ですから難しいですね。僕も考えても考えても分からない部分が多いです(分かれば悟れるのか^^;)。なので、これ以上はもう無理かと。背伸びはもう出来ません(汗)。
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Unknown (わたさん)
2016-04-07 19:25:21
法然さんの素晴らしさを親鸞さんはわかってらっしゃった
現在の浄土真宗をみて宗祖が自分である事に驚かれるだろう
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>わたさん (凛太郎)
2016-04-19 05:15:04
>現在の浄土真宗をみて宗祖が自分である事に驚かれるだろう
本当にそうだと思いますね。
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