凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも源義経が卓越した政治眼を持っていたら

2007年04月14日 | 歴史「if」
 源義経という人物は、近年本当に評価が変わってしまった。
 はっきりしたことはわからないのだが、少なくとも戦前は、彼はヒーローであったと思う。父義朝の敗戦と死亡によって、母である美しい常盤御前は敵である平清盛の寵愛を受けるようになる悲劇。幼少から鞍馬寺に預けられ、そこを抜け出し奥州へ。さんざん苦労をしたあげく徒手空拳で兄頼朝の挙兵に参じ、軍を率いて木曽義仲、そして憎き平氏を空前の戦術であっという間に滅亡に追い込む。しかし梶原景時の讒言によって頼朝に疎まれ、鎌倉へ入ることも叶わず追討を受け流浪の挙句奥州に立ち戻り、そして庇護者である奥州の王者、藤原秀衡が亡くなった後は、息子泰衡の裏切りに遭い31歳の生涯を閉じた。奇跡を起こした天才であり美男子でありながら悲劇的な結末。「判官贔屓」という言葉も生み、皆に愛された武将であったはずだ。

 しかし近年の評価は、どうも「義経は自滅」というふうに変わってきている。その戦術が天才的であるということは誰もが認めるものの、大局的視野に欠けて、頼朝の足を引っ張ったという説。
 その説の中核に、「義経検非違使任官事件」というものがある。
 頼朝はそのとき、関東独立を目指していた。当然独立であるから、その賞罰権は鎌倉にある。しかし義経は、勝手に後白河法皇から平氏討伐の恩賞として検非違使に任官してしまうのである。
 本来は、検非違使に任官するにせよ、頼朝が朝廷に奏上しての上でないといけない。関東独立とは言っても朝廷を否定する立場ではないから、官位は否定しないが、その任官権は鎌倉にある。関東軍は、頼朝の指揮下にあってこそ一枚岩でいられる、鎌倉の権威はそこにあるのに、鎌倉政府の承諾もなしに勝手に任官を受けるということは、鎌倉政府(幕府)の威厳を損ねることになる。頼朝の面目丸つぶれである。しかも弟なのだ。これを認めれば幕府の屋台骨が揺らぐ。
 後白河の狙いはまさにそこにあり、頼朝、つまり鎌倉政府の力を人間の名誉欲によって削ごうとしたわけで、相当後白河もしたたかだが、ホイホイと何の疑問も無く任官を受けた義経は実に重要な失態をしてしまったというわけだ。
 しかしそれが分からず、「何故源氏の名誉となる朝廷の任官を受けていけないのだ」と義経は反旗を翻し、後白河に頼朝追討の院宣を出させるのである。やってはいけないことをしてしまった。
 ということで、義経は鎌倉の存在意義を、長である頼朝の弟でありながら揺らがした、なんの戦略眼もない阿呆だったという説になるのである。

 阿呆は気の毒だとは思うが、僕もおおむねはその考えに賛同する。義経は残念ながら鎌倉政府というものの存在意義、そして頼朝の意図を理解してはいなかったのだろう。
 しかしである。
 頼朝は、このことによって相当得をしたのではないのか。
 歴史を結果論で言っては「if」などを書いていることの否定にも繋がってしまうので危険だが、頼朝はこのことによって後白河を脅し、全国に守護、地頭を設置する権利をもぎ取るのである。これこそが、鎌倉幕府が関東の独立政権ではなく全国規模に広がる政権へ向かう第一歩であり、「革命」の根幹であったのだから。
 頼朝は政治家としては本当に凄腕であると思う。鎌倉政府の基本は「関東政権」であり、関東の武士(地主)の権益を守ろうとしたところから出発している。頼朝の戦力の後ろ盾となった上総権介広常をはじめ、一所懸命であった武士たちは、それ以上のことは望んではいなかった。別に平氏を滅ぼさなくとも、自分たちが安定した領地運営を出来ればそれでよかったのだ、と推測できる。しかしながら頼朝は、それを一気に全国版へと押し上げたのだ。
 具体的には、反逆者義経を追討しなくてはいけない。後白河を脅して、義経に与えた頼朝追討の院宣を取り消させ、義経追討の院宣に切り替えさせる。そして、そのためには、どこに逃げたかわからない義経を探さなければいけない。なので全国的に「義経追捕使」を置く事を認めさせる。これが後に「守護」へと繋がっていくのである。そして、追捕には兵糧がいる。そのため頼朝は全国に「地頭」を置く事を認めさせたのだ。
 これが鎌倉全国政権の始まりである。頼朝の支配は全国についに及び、朝廷に奏上しなくてもいい「官職」をも手に入れたのだ。頼朝は後に「日本国総追捕使・総地頭」となる。
 これらは、義経が反旗を翻さなければ出来ないことである。そしてそのことで権謀術策に長けた後白河の上前を撥ねることに成功したのだ。義経様々である。

 もしも義経が、鎌倉政府の意図を実によく理解し、頼朝の忠実な部下という立場を守っていたならば。或いは、義経の資質に問題があったとしても、義経配下に有能な参謀がいてしっかりとした助言があったとしたなら。

 義経は平氏を滅亡させ、後白河に甘い任官の罠を仕掛けられても動ぜず、鎌倉に凱旋し、その功労として鎌倉政府の重職に就いていた可能性もある。侍所別当というのが相応しいかもしれない。平氏を滅ぼすということは関東政権にとってはさほど重要ではないことであったかもしれないが、それでも全国にその武力は鳴り響いたのだ。
 義経は、その後も頼朝の忠実な部下であろうとしたかもしれない。しかし鎌倉の実力者も一枚岩ではない。義経を担ごうとする武士団も出現するやもしれず、そうすると義経の意図することに反して鎌倉政府分裂の旗頭に押されてしまうかもしれない。そういう危険性を義経は孕んでいる。

 ここからは相当に穿った見方になるし、そんなアホなと言う人もいるだろう。僕もそんなアホなということを書こうと思っているのだが、義経は鎌倉政府樹立と全国支配のための人身御供となったという見方は出来ないか。

 義経が自ら進んで、頼朝のために何もわからんボンと化して、官職をわざと受けて追われて逃げ、頼朝を日本国総追捕使・総地頭に押し上げたのだ、と書けば、それはいかになんでもだろう。(これで僕は一篇の小説が書けるような気がするが)
 しかしながら、こういうこともある。これは平家物語なので史実とは違うと思うが、義経の立場として興味深い記述もある。義経が壇ノ浦で「自ら先陣をする」と言い、梶原景時が「あんたは大将軍じゃないか」と言ったら義経が「そうじゃない。頼朝様が大将軍であって、僕もあんたも同格の軍奉行だ」と言って梶原景時の先陣願いを退けたという。義経もよくわかっているじゃないか。自分の立場が。過剰な功名心はひとまず措いて、だが。

 実際はどうなのだろう。僕は、頼朝が義経を追い詰めた可能性があると思っている。
 まず、源氏一門を頼朝は引き上げる人事を行った。源範頼は三河守。平賀義信は武蔵守。しかし義経には何も与えない。一番の功労者であるはずなのに、である。これにはいろいろな見方もあるだろうが、頼朝の挑発ととれなくもない。
 そして腰越で義経を足止めし、追い返す。義経は実は鎌倉入りしたとの異説もあるが、それはひとまず措く。義経は所領を没収される。にもかかわらず平宗盛の処断をさせ、京に戻った義経に源行家追討を命じたりする。まだ使おうとしているのか。そして、ついに頼朝は土佐坊昌俊という刺客を送る。
 頼朝の鎌倉での立場もわかるし、そうせざるを得なかったというのが通説である。しかしこれは挑発と見られなくもない。ついに義経は謀叛へと向かうのである。

 頼朝は果たしていつから、鎌倉政府の全国支配を目論んでいたのだろうか。「惣追捕使・地頭設置」のアイデアはいつから持っていたのだろうか。大江広元のアイデアであると言われるが、これは義経が謀反人とならなければ成立しない。それにしては時間がなさすぎるのである。義経が壇ノ浦で平氏を滅ぼして後、謀反を起こすまでわずか半年に過ぎない。土佐坊が義経を襲って、義経がついに踏ん切りをつけて頼朝追討の院宣を出させたのが10月末、11月の初旬には頼朝は逆に義経追討の院宣を出させ、守護(追捕使)と地頭の設置を求めているのである。電話一本で連絡がつく時代じゃないのだ。早すぎる。

 この「守護・地頭」はもしかしたら、頼朝が平氏の残党狩りのための手段として大江広元に考え出させたのではないかとも思う。
 頼朝も、こんなに早く平氏が滅びるとは予想していなかったのかもしれない。まだまだ生き残ると思っていた。義経はやりすぎた。安徳天皇と三種の神器は奪還すべきだが、平家をまだ生かしておいた方がよかったのだ。頼朝は、後白河に三種の神器を捧げた上で、まだまだ戦力として残る朝敵平氏に対し、神器の恩に着せて「惣追捕使と地頭を置かせてくれ」と後白河に交渉する予定だったのではないだろうか。
 しかし平氏は滅んだ。なので、このアイデアの対象を義経に変換したのではないか。
 惣追捕使と地頭を設置するには必ず仮想敵がいなければならない。しかしもう平氏は滅んでいる。なので義経に謀反をさせるべく追い込んだのではないだろうか。仮想敵を義経とするために。
 と言って、土佐坊昌俊に討たれていたらもうそこで終わりじゃないか、との意見もあろうかと思うけれども、あの義経がそうやすやすと討たれるものではない。だから、その前に梶原景季に行家追討などを命じさせたりして警戒心を煽っていたのかもしれない。さすれば土佐坊は使い捨てだな。これも気の毒だが。

 そして、逃げた義経を頼朝は長い時間泳がすのである。せっかく全国に追捕使を置いたのに二年も捕まえない。それは、惣追捕使と地頭を既成事実(既得権)とするための時間稼ぎのためでもあるが、もうひとつ重要なのは、義経が奥州に逃げ込むのを待っていたのである。
 奥州は頼朝宿願の地である。それは以前に書いた。→もしも平氏と源義仲が手を結んでいたら
 頼朝の望みどおり、義経は奥州に庇護されるまでいったのだ。よくぞ義経奥州入りした、と頼朝が喜んだかどうかは知らないが、これを理由に頼朝は奥州征伐を敢行した。ちょうど都合のいい時期に藤原秀衡も死んでくれている。
 頼朝は奥州を手中にし、征夷大将軍を任官する。筋書き通り、と言えばいいのだろうか。

 判官贔屓ではないが、昨今の義経の評価の暴落度合いは凄まじい。大河ドラマの主役をやったところで、さほど株が上がったようにも思えない。
 頼朝の全国制覇。これは義経あってこそであるという評価は可能であると思う。惜しむらくは有能すぎた。これで、義経がタイトルに書いたように卓越した政治眼を持っていたらどうなっていただろうか。任官もせず忠実な頼朝の配下としてふるまい、さらに戦術的にももっと有能で、安徳天皇と三種の神器を確保までしていたらどうなっていただろうか。
 鎌倉の政府は分裂するに違いない。頼朝が義経を後継とすることは北条氏が許さない。後白河法皇はここぞとばかり暗躍するだろう。そうして、鎌倉政府の主導権争いが激化することを企んだであろう。
 結果として、義経は鎌倉幕府成立のために身を投げ出したことになるのだ。結果論であることはわかっている。まさかこれが仕組まれた筋書きであるとまでは僕も思ってはいない。

 しかしながら…義経は大怨霊となってもいいのに、義経を大々的に鎌倉は祀ってはいない。何故だろう。義経は全て承知の上で踏み台になったのではないか。そんな荒唐無稽なことを夢想したりする。だから、綿密な計画の上に義経は死なず北行したのではないか。自らの役割を果たして。これはもちろん空想であるし、その大元に判官贔屓があるというのは百も承知である。

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4 コメント

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Unknown (納得)
2012-09-25 11:38:17
書いていらっしゃる通り、判官びいきを踏まえて上で、
納得の内容でした。
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どうも♪ (凛太郎)
2012-09-27 05:54:14
まあ、こんなふうに考えるとつじつまが合ったりするんですね(笑)。
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Unknown ()
2016-01-18 17:11:04
どっちかというと頼朝は、武家社会をつくった張本人といえるから、明治維新~戦前の天皇現人神の時代だとどちらかといえば朝廷(天皇)に楯突いてる人物ですからね

そういう意味でも義経が持ち上げられる雰囲気があったんじゃないかとおもうけど
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>稲さん (凛太郎)
2016-01-21 06:28:00
なるほど。
義経は浄瑠璃や歌舞伎の題材として人気があったわけで、江戸時代以来の判官贔屓が継続されていたのかという考え方でしたが、頼朝悪役化のために相対的に持ち上げられたかも…ということもあったかもしれませんね。
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