ビールというアルコール飲料が僕は抜群に好きなわけではないのです。
といって嫌いな訳ではもちろん無いのだけれど。
もちろん相対比較して、ということです。というのは、ビールはずっと飲み続けられないからなのだ。
ビール(或いは発泡酒なども含めて)は、水分量に対してその含有アルコール量が少ない。つまりアルコール度数が低いのだ。ということは、酔いだけを求めて酒を呑むわけではないけれども、もし日本酒や焼酎と同様に酔おうとしたならば、腹タプタプになることうけあいである。食事をしながらの飲酒ということになると、ビールをひたすら飲んでいると食べ物が食べられなくなってしまう。そういったところにも問題はあるのだ。
従って、宴席でもビールは最初の一杯だけ、としたいのが本音。しかし宴席では「まあ一杯」という場合が多いので、なかなかビールのグラスを置く事は出来ないのだよなぁ。まあ宴会では諦めるしかないか。
しかし、確かに最初の一杯のビールは美味いのだ。これは間違いない。だから、よく旅館の食事などで「食前酒」なるものがセットされているのを見ると頭にくる。最初の一杯はビールと決めているのに何故「当旅館自慢のさくらんぼ酒でございます」なるものを飲まねばならんのか。そのような甘い酒よりまず喉を潤す一杯のビールを僕は所望しているのだ。とにかく人の好みを聞きなさいって。(と言って、あのリキュールの類いの食前酒を否定しているわけではありません。あくまで僕は、そういう酒はデザート感覚なので後に回したいと思っているだけです。)
最初の一杯のビールが何故美味いのか。それは、体内の水分含有量に多分に影響されているような気がしてしかたがない。のどが渇いていると実にビールは美味い。ビールを飲む前に水とかを飲んじゃうとビールの美味さが半減してしまう。血液ドロドロになるからそういう飲み方は止めろ、という人も確かに居ますがのどが渇いている状態がビールには最高なので、身体に悪いと知りつつ止められない。そこまで健康を犠牲にして飲むのだから、余計食前酒なんぞ飲みたくないのだなぁ。
さて、ここまでは前置きでして。
僕がどうしても我慢できないビールの飲み方は、風呂に入りながら飲むことである。
温泉、特に露天風呂を併設している旅館などでは、実に解放的な気分になる。特に広い露天風呂で抜けるように青い空を見ていると実に気分爽快だ。そんな露天風呂に入っていると…。
「プシッ」というプルトップを開ける音がする。ふとその方向を見やると、露天風呂に入りながら缶ビールをゴクゴクと飲んでいるのだ。その人は職場の先輩である。いい忘れたが社員旅行でのことである。
「おい○○(僕の名前)、お前の分のビールもあるぞ。早く飲め」
その人は好意でやってくれているのである。僕は建前上笑顔でそのビールをいただいた。
「いやーやっぱり風呂に入りながら飲むビールは最高だな」
そんなわけはないのだ。風呂に入っているときのビールが最高なんて考えられない。最高なのは風呂上りのビールに決まっているじゃないか。
ビールの美味さは身体の水分含有量に左右される。温泉にゆっくりつかって、新陳代謝が活発になって充分汗をかいた後のビールが最高なのだ。特に温泉はじんわりと温まる。風呂から出て浴衣を着たあたりで、汗の量は最高潮に達する場合が多い。
なのに、風呂に浸かっている最中にビールをゴクゴクなんてとても考えられない。まだ充分に身体が温まらず汗も掻いていない状態ではダメだ。しかし、汗がにじみ出てくるまで待っていたらビールはぬるくなってしまう。どちらにせよいいことはない。それに身体にもよくはなさそうだ。露天風呂の解放感に騙されて、「こういうシチュエーションではビール飲むもの」と決め付けてしまってはいけない。もっと冷静に考えてくださいよ。
ついでに言及すると、よくお湯に日本酒の徳利を浮かべて…なんて場面がありますね。風呂に浸かりながら一杯、また一杯。いかにも良さそうだが、僕はあれにも疑問を抱いている。
一度そういうことをやった経験がある。といって注文したわけではなく、パック料金に含まれていたのだ(全く団体旅行ではいろいろなサービスが込みな場合が多い)。それで試してみた。さすがに風呂場で徳利はマズいので木製の銚子に入って出てきた。それを桶に入れて浮かべて呑む。
うーん、さすがに酔いが廻る。温泉のせいで血の巡りが良くなっているからだ。おっと、目が廻るぞ。これは長く浸かっているわけにはいかないな。もう出ないと調子悪くなっちゃう…。
これではなんのための温泉かわからない。
酒もビールも出てからゆっくり呑みなさい。温泉に浸かるときはそれに集中しよう。でないとせっかく温泉に入りに来たのにもったいないぞ。露天風呂に浸かりながら飲むビールが最高なんてのは幻想だ。まあ本人がそれでもいいと言うならしょうがないけど他人に強要するな。僕は風呂上りの一杯のビールの至福を是が非でも享受したいのだ。邪魔するない。
なお、全然酒と関係ない余談を。
銭湯では僕もビールはあまり飲まない。自動車で行っている場合も多いし、まだ日が高いこともあるからだ。そういうときは牛乳が定番…らしいのだが、僕はコーヒー牛乳の方が好き。しかし本当に好きなのは「フルーツ牛乳」である。これがあると必ず飲む。もし無ければ… 「森永マミー」かな。
といって嫌いな訳ではもちろん無いのだけれど。
もちろん相対比較して、ということです。というのは、ビールはずっと飲み続けられないからなのだ。
ビール(或いは発泡酒なども含めて)は、水分量に対してその含有アルコール量が少ない。つまりアルコール度数が低いのだ。ということは、酔いだけを求めて酒を呑むわけではないけれども、もし日本酒や焼酎と同様に酔おうとしたならば、腹タプタプになることうけあいである。食事をしながらの飲酒ということになると、ビールをひたすら飲んでいると食べ物が食べられなくなってしまう。そういったところにも問題はあるのだ。
従って、宴席でもビールは最初の一杯だけ、としたいのが本音。しかし宴席では「まあ一杯」という場合が多いので、なかなかビールのグラスを置く事は出来ないのだよなぁ。まあ宴会では諦めるしかないか。
しかし、確かに最初の一杯のビールは美味いのだ。これは間違いない。だから、よく旅館の食事などで「食前酒」なるものがセットされているのを見ると頭にくる。最初の一杯はビールと決めているのに何故「当旅館自慢のさくらんぼ酒でございます」なるものを飲まねばならんのか。そのような甘い酒よりまず喉を潤す一杯のビールを僕は所望しているのだ。とにかく人の好みを聞きなさいって。(と言って、あのリキュールの類いの食前酒を否定しているわけではありません。あくまで僕は、そういう酒はデザート感覚なので後に回したいと思っているだけです。)
最初の一杯のビールが何故美味いのか。それは、体内の水分含有量に多分に影響されているような気がしてしかたがない。のどが渇いていると実にビールは美味い。ビールを飲む前に水とかを飲んじゃうとビールの美味さが半減してしまう。血液ドロドロになるからそういう飲み方は止めろ、という人も確かに居ますがのどが渇いている状態がビールには最高なので、身体に悪いと知りつつ止められない。そこまで健康を犠牲にして飲むのだから、余計食前酒なんぞ飲みたくないのだなぁ。
さて、ここまでは前置きでして。
僕がどうしても我慢できないビールの飲み方は、風呂に入りながら飲むことである。
温泉、特に露天風呂を併設している旅館などでは、実に解放的な気分になる。特に広い露天風呂で抜けるように青い空を見ていると実に気分爽快だ。そんな露天風呂に入っていると…。
「プシッ」というプルトップを開ける音がする。ふとその方向を見やると、露天風呂に入りながら缶ビールをゴクゴクと飲んでいるのだ。その人は職場の先輩である。いい忘れたが社員旅行でのことである。
「おい○○(僕の名前)、お前の分のビールもあるぞ。早く飲め」
その人は好意でやってくれているのである。僕は建前上笑顔でそのビールをいただいた。
「いやーやっぱり風呂に入りながら飲むビールは最高だな」
そんなわけはないのだ。風呂に入っているときのビールが最高なんて考えられない。最高なのは風呂上りのビールに決まっているじゃないか。
ビールの美味さは身体の水分含有量に左右される。温泉にゆっくりつかって、新陳代謝が活発になって充分汗をかいた後のビールが最高なのだ。特に温泉はじんわりと温まる。風呂から出て浴衣を着たあたりで、汗の量は最高潮に達する場合が多い。
なのに、風呂に浸かっている最中にビールをゴクゴクなんてとても考えられない。まだ充分に身体が温まらず汗も掻いていない状態ではダメだ。しかし、汗がにじみ出てくるまで待っていたらビールはぬるくなってしまう。どちらにせよいいことはない。それに身体にもよくはなさそうだ。露天風呂の解放感に騙されて、「こういうシチュエーションではビール飲むもの」と決め付けてしまってはいけない。もっと冷静に考えてくださいよ。
ついでに言及すると、よくお湯に日本酒の徳利を浮かべて…なんて場面がありますね。風呂に浸かりながら一杯、また一杯。いかにも良さそうだが、僕はあれにも疑問を抱いている。
一度そういうことをやった経験がある。といって注文したわけではなく、パック料金に含まれていたのだ(全く団体旅行ではいろいろなサービスが込みな場合が多い)。それで試してみた。さすがに風呂場で徳利はマズいので木製の銚子に入って出てきた。それを桶に入れて浮かべて呑む。
うーん、さすがに酔いが廻る。温泉のせいで血の巡りが良くなっているからだ。おっと、目が廻るぞ。これは長く浸かっているわけにはいかないな。もう出ないと調子悪くなっちゃう…。
これではなんのための温泉かわからない。
酒もビールも出てからゆっくり呑みなさい。温泉に浸かるときはそれに集中しよう。でないとせっかく温泉に入りに来たのにもったいないぞ。露天風呂に浸かりながら飲むビールが最高なんてのは幻想だ。まあ本人がそれでもいいと言うならしょうがないけど他人に強要するな。僕は風呂上りの一杯のビールの至福を是が非でも享受したいのだ。邪魔するない。
なお、全然酒と関係ない余談を。
銭湯では僕もビールはあまり飲まない。自動車で行っている場合も多いし、まだ日が高いこともあるからだ。そういうときは牛乳が定番…らしいのだが、僕はコーヒー牛乳の方が好き。しかし本当に好きなのは「フルーツ牛乳」である。これがあると必ず飲む。もし無ければ… 「森永マミー」かな。
グダグダと話し続けるのは蕎麦屋では「粋」でないのだがブログなので勘弁してもらう。前回の続き。
さて、昔はわざわざ東京にまで出かけていって「蕎麦屋で酒を呑む」をやらなくてはいけなかったのだが、最近はうどん王国関西にも旨い蕎麦を出す店が増え、それに伴い、呑める蕎麦屋もあちこちに出来てきた。もちろん伝統はないが、そういうことにこだわらなければさほど問題ではない。
ただ、最近の「こだわりの蕎麦屋」には肌に合わない店も多いのである。
以下は、僕が勝手に一人で思っていることであり、店の好みは人それぞれなのでブツブツ言うのを許して欲しいと思う。
僕は蕎麦屋で呑むときの気分は、「ちょっと独りで一杯やりたい」からである。そういう気分だから蕎麦屋に腰をかける。決して晩餐気分ではない。これは「粋」を身上とする江戸っ子の方々もわかってくれると思う。
しかるに、最近の「酒も呑める蕎麦屋」はちょっと違うのだ。
あくまで「悪い」と言っているのではない。もちろん好みの問題だと断わっておきます。
ひとつに、まず肴が充実し過ぎている。天ぷらを頼むと、コゴミやタラノメなどの山菜、果ては鯊や穴子などが綺麗に盛られて登場することがある。おいおい、蕎麦屋で天ぷらと言えば海老かかき揚げに決まっているじゃないか。あわててメニューを見ると(品書きとは言わない)、実に刺身が充実している。今日は鯒とアオリイカがお薦めだそうだ。うーん…。
そもそも、蕎麦屋の酒のアテというのは、蕎麦の種物の流用から始まったはず。だから、板わさ、玉子焼き(蕎麦汁で作る)、焼海苔、天ぷら、芋わさび、鰊の棒煮くらいがせいぜいのところ。蕎麦屋だから、蕎麦が主であって、酒のために肴をわざわざ作るなんてことはなかった。また客もそういうもので呑みたいから来るのであって、刺身が食べたければ居酒屋か割烹に行く。そういうところに限って「そばがきは出来ない」とか言う。不思議でしょうがない。これでは蕎麦も出す小料理屋だ。
酒も実に充実していたりする。「十四代と神亀はうちでは全部そろっています」などと言う。酒の種類が巻紙に書いてある。うーん…。まず酒を選ぶだけで時間がかかってしまう。
蕎麦屋の酒、といえば品書きには「酒」としか書いてないのが普通。「正一合」などと書いてあると嬉しいものだ。それでも酒の種類が聞きたくなって聞けば「ウチは灘の生一本でぃ! べらぼうめ」などと威勢良く言ってくれたりすると更に嬉しいのだがまあそれはさておき。
酒や肴が充実していて何が文句があるんだ、と言われそうで全く困るのだが、蕎麦屋にそれを望んではいないのである。つまり「トリ貝の炙りに雲丹豆腐、それに久保田の大吟醸」を所望するときには銘酒居酒屋へ行く。「酒」と頼んだら直ぐに出てくるのが蕎麦屋。もちろん不味い酒は論外だが、美味しい酒を吟味して、客には「燗か冷やか」を選ばせるに留まって欲しい。それでこそ蕎麦屋だ。
並木藪の酒は「菊正宗」の樽で、樽の香りがまことにかぐわしくて旨い。イメージとして灘の酒は合うな。悪名高い灘の酒だが、「菊正宗」「剣菱」「多聞」とか言われると雰囲気が出て結構嬉しい。(「大関」や「日本盛」「沢の鶴」はどうかと言われれば困るが)
そんなふうに蕎麦屋には「シンプルさ」を求めたいのだが、もう一つ言うとすれば、蕎麦屋には「独酌をしたいから行く」のである。
一人で杯を傾ける楽しさ。なにものにも煩わされず呑む楽しさ。それを求めて蕎麦屋へ行く。そして、蕎麦屋で何時間も呑み続けるなんてちょっと考えられない。短時間でさっと切り上げる。連れ立って宴会をやりに行くのではないし、またしたくはないのだ。
従って、酒肴を充実させ酒の種類を整えるということがかなり疑問なのだ。そういうことは居酒屋でやれば良い。また、愚痴を言いつつチビチビ同僚とさしつさされつ呑むのにも向かない。さっと呑んでさっと手繰ってさっと切り上げる。そうでないと蕎麦がのびるぞ。
だから、最近出来てきた「蕎麦ダイニング そ・Bar」(例えばですが)なんて名前のお洒落な空間なんてのは理解に苦しむ。ワインとカクテルを充実させました、だと? 間接照明にしてスタイリッシュな雰囲気作り。カウンター席がずらり。あげくの果てに「蕎麦は塩で食べて下さい」。好みだから勝手と言われればそれまでだが僕は絶対に行かない。おそらく池波先生も行かないだろう。
やはりこれは伝統なのだろうか。伝統がないとそういう方向に走るのだろうか。東京在住の人は実に羨ましい。まだまだ「粋」な蕎麦屋が健在なのだから。
さて、昔はわざわざ東京にまで出かけていって「蕎麦屋で酒を呑む」をやらなくてはいけなかったのだが、最近はうどん王国関西にも旨い蕎麦を出す店が増え、それに伴い、呑める蕎麦屋もあちこちに出来てきた。もちろん伝統はないが、そういうことにこだわらなければさほど問題ではない。
ただ、最近の「こだわりの蕎麦屋」には肌に合わない店も多いのである。
以下は、僕が勝手に一人で思っていることであり、店の好みは人それぞれなのでブツブツ言うのを許して欲しいと思う。
僕は蕎麦屋で呑むときの気分は、「ちょっと独りで一杯やりたい」からである。そういう気分だから蕎麦屋に腰をかける。決して晩餐気分ではない。これは「粋」を身上とする江戸っ子の方々もわかってくれると思う。
しかるに、最近の「酒も呑める蕎麦屋」はちょっと違うのだ。
あくまで「悪い」と言っているのではない。もちろん好みの問題だと断わっておきます。
ひとつに、まず肴が充実し過ぎている。天ぷらを頼むと、コゴミやタラノメなどの山菜、果ては鯊や穴子などが綺麗に盛られて登場することがある。おいおい、蕎麦屋で天ぷらと言えば海老かかき揚げに決まっているじゃないか。あわててメニューを見ると(品書きとは言わない)、実に刺身が充実している。今日は鯒とアオリイカがお薦めだそうだ。うーん…。
そもそも、蕎麦屋の酒のアテというのは、蕎麦の種物の流用から始まったはず。だから、板わさ、玉子焼き(蕎麦汁で作る)、焼海苔、天ぷら、芋わさび、鰊の棒煮くらいがせいぜいのところ。蕎麦屋だから、蕎麦が主であって、酒のために肴をわざわざ作るなんてことはなかった。また客もそういうもので呑みたいから来るのであって、刺身が食べたければ居酒屋か割烹に行く。そういうところに限って「そばがきは出来ない」とか言う。不思議でしょうがない。これでは蕎麦も出す小料理屋だ。
酒も実に充実していたりする。「十四代と神亀はうちでは全部そろっています」などと言う。酒の種類が巻紙に書いてある。うーん…。まず酒を選ぶだけで時間がかかってしまう。
蕎麦屋の酒、といえば品書きには「酒」としか書いてないのが普通。「正一合」などと書いてあると嬉しいものだ。それでも酒の種類が聞きたくなって聞けば「ウチは灘の生一本でぃ! べらぼうめ」などと威勢良く言ってくれたりすると更に嬉しいのだがまあそれはさておき。
酒や肴が充実していて何が文句があるんだ、と言われそうで全く困るのだが、蕎麦屋にそれを望んではいないのである。つまり「トリ貝の炙りに雲丹豆腐、それに久保田の大吟醸」を所望するときには銘酒居酒屋へ行く。「酒」と頼んだら直ぐに出てくるのが蕎麦屋。もちろん不味い酒は論外だが、美味しい酒を吟味して、客には「燗か冷やか」を選ばせるに留まって欲しい。それでこそ蕎麦屋だ。
並木藪の酒は「菊正宗」の樽で、樽の香りがまことにかぐわしくて旨い。イメージとして灘の酒は合うな。悪名高い灘の酒だが、「菊正宗」「剣菱」「多聞」とか言われると雰囲気が出て結構嬉しい。(「大関」や「日本盛」「沢の鶴」はどうかと言われれば困るが)
そんなふうに蕎麦屋には「シンプルさ」を求めたいのだが、もう一つ言うとすれば、蕎麦屋には「独酌をしたいから行く」のである。
一人で杯を傾ける楽しさ。なにものにも煩わされず呑む楽しさ。それを求めて蕎麦屋へ行く。そして、蕎麦屋で何時間も呑み続けるなんてちょっと考えられない。短時間でさっと切り上げる。連れ立って宴会をやりに行くのではないし、またしたくはないのだ。
従って、酒肴を充実させ酒の種類を整えるということがかなり疑問なのだ。そういうことは居酒屋でやれば良い。また、愚痴を言いつつチビチビ同僚とさしつさされつ呑むのにも向かない。さっと呑んでさっと手繰ってさっと切り上げる。そうでないと蕎麦がのびるぞ。
だから、最近出来てきた「蕎麦ダイニング そ・Bar」(例えばですが)なんて名前のお洒落な空間なんてのは理解に苦しむ。ワインとカクテルを充実させました、だと? 間接照明にしてスタイリッシュな雰囲気作り。カウンター席がずらり。あげくの果てに「蕎麦は塩で食べて下さい」。好みだから勝手と言われればそれまでだが僕は絶対に行かない。おそらく池波先生も行かないだろう。
やはりこれは伝統なのだろうか。伝統がないとそういう方向に走るのだろうか。東京在住の人は実に羨ましい。まだまだ「粋」な蕎麦屋が健在なのだから。
僕は池波正太郎先生の食味随筆を愛読している。「食卓の情景」はもちろん繰り返して読んでいるが、その中で
「ひとりで酒がのみたくなったら、私はまず蕎麦屋でのむ」
という一節に憧れた。粋ですね。また、「散歩のとき何か食べたくなって」の一節、
「のまぬくらいなら、蕎麦やへは入らぬ」
という断固たる姿勢にもシビレた。このような随筆を最初に読み憧憬を持ったのはまだ未成年の頃だったからずいぶんマセたガキだったわけだけれども、自分で酒が呑める身分になったら絶対に「蕎麦屋で一杯」をやろうと固く心に誓ったものだ。
さて、大人になってようやく酒を呑んでもよいと世間が認めるようになった頃、蕎麦屋で酒を呑もうと思ったのだが、僕の生まれた街は京都であり、関西は「蕎麦屋で一杯」の文化圏では残念ながら無かった。やっぱりこれは江戸なのだな。その後しばらくして東京へ行く機会も増え、ようやく蕎麦屋で酒を呑むことが出来るようになった。
初めて入ったのは浅草の「並木藪」だった。まだ日も暮れる前、ここで初めて独酌をした。大人になったなぁとしみじみしたものです。
その後「かんだやぶそば」「池之端藪」「まつや」「室町砂場」など名だたる名店に腰を掛け、独りで悦に入ることを覚えた。まことに結構なことである。男の酒ここに極まれリ、と池波先生のダンディズムを見習って背筋を伸ばしてスイッと杯を手に取りニヤリとする、傍から見ればまことに気色悪いが本人はいたって至福なのである。
しかし、「蕎麦屋で一杯」はなかなか難しいことではあるのです。何より粋でないといけない。そこで疑問になるのが、「本当に蕎麦で呑んでいいのか」ということである。
蕎麦屋に入ったら、まず酒を頼む。これは当たり前。「蕎麦屋では冷やに限る」という説もあるのだが、これは特にそうこだわらなくてもよいと思う。季節と自分の気分で燗をしてもらうのもよい。まずは蕎麦味噌などが付いてくるのでそれを嘗めながら一杯。
そして肴を頼む。蕎麦屋には旨いものが揃っている。店にもよるが、並木藪だと焼海苔。かんだやぶだと天たね(かき揚げ)、あいやき(合鴨焼き)。室町砂場だと玉子焼きが有名。まず僕はいたわさを頼んだりする。蕎麦屋の蒲鉾は普通、焼き目がついたのは出てこない。白一色だ。そういうものに山葵をちょいとつけて食べつつ酒を呑む。幸せですなぁ。
さて、ここでひとつ問題が生じる。それは「蕎麦を頼んでそれで呑んでもいいのか」ということである。
僕は香り高いもり蕎麦を少しづつ手繰りながら呑むのが実に好きなのだが、「蕎麦は呑み終わってから食べるもの」という意見もある。うーむ。冬だとちょっと奢って鴨南蛮を頼んで、辛目の汁を啜りつつ呑むのがまたいいのだが、どうなのだろう。「冷や酒をカッ食らって蕎麦の二、三枚も手繰って暖簾蹴飛ばして出て行く」のが江戸っ子として最も粋だ、という説もあり難しい。まあ僕は江戸っ子ではないので野暮に蕎麦啜りつつ呑むことも許してもらう。
さらに、「抜き」問題というのがある。「抜き」とはご承知の方も多いと思うが、例えば「天ぬき」だと天麩羅蕎麦から蕎麦を抜いたもの、つまり汁に天麩羅が浮かんだだけの吸い物、と解釈すればいい。同様に「鴨ぬき」なども存在する。
こうして辛目の汁を啜りながら呑むのは実に旨いのだが、たいていはこういうものは品書きに載っていない。つまり「裏メニュー」である。なので、関西から来た一見の客がこういうものを常連でもないのに頼んでよいものか? との疑問がつきまとう。頼んだとしても「は? ぬきですか?」などと知らん振りをされたらどうしようかという恐怖心もあって、なかなか勇気が出ないものである。
東京の老舗で一度だけ頼んだことがある。そのときはすんなりと注文が通ったのだが、まわりにいる人たちの視線が実に気になった。みんなジロジロ見るのである。おそらく「あいつ一見の若造のくせに江戸っ子ぶりやがって」という視線に違いない(被害妄想)。それ以来どうも注文できないでいる。なかなかに難しいのである。
関西人の僕は、構えずに呑むことがまだ出来ずにいたりする。自然体でいくには修行が必要なのかもしれない。しかし、「蕎麦屋で一杯」は楽しいことは楽しいのでついつい時間があればやってしまうのだ。
もう少し話したいのでまた次回に。
「ひとりで酒がのみたくなったら、私はまず蕎麦屋でのむ」
という一節に憧れた。粋ですね。また、「散歩のとき何か食べたくなって」の一節、
「のまぬくらいなら、蕎麦やへは入らぬ」
という断固たる姿勢にもシビレた。このような随筆を最初に読み憧憬を持ったのはまだ未成年の頃だったからずいぶんマセたガキだったわけだけれども、自分で酒が呑める身分になったら絶対に「蕎麦屋で一杯」をやろうと固く心に誓ったものだ。
さて、大人になってようやく酒を呑んでもよいと世間が認めるようになった頃、蕎麦屋で酒を呑もうと思ったのだが、僕の生まれた街は京都であり、関西は「蕎麦屋で一杯」の文化圏では残念ながら無かった。やっぱりこれは江戸なのだな。その後しばらくして東京へ行く機会も増え、ようやく蕎麦屋で酒を呑むことが出来るようになった。
初めて入ったのは浅草の「並木藪」だった。まだ日も暮れる前、ここで初めて独酌をした。大人になったなぁとしみじみしたものです。
その後「かんだやぶそば」「池之端藪」「まつや」「室町砂場」など名だたる名店に腰を掛け、独りで悦に入ることを覚えた。まことに結構なことである。男の酒ここに極まれリ、と池波先生のダンディズムを見習って背筋を伸ばしてスイッと杯を手に取りニヤリとする、傍から見ればまことに気色悪いが本人はいたって至福なのである。
しかし、「蕎麦屋で一杯」はなかなか難しいことではあるのです。何より粋でないといけない。そこで疑問になるのが、「本当に蕎麦で呑んでいいのか」ということである。
蕎麦屋に入ったら、まず酒を頼む。これは当たり前。「蕎麦屋では冷やに限る」という説もあるのだが、これは特にそうこだわらなくてもよいと思う。季節と自分の気分で燗をしてもらうのもよい。まずは蕎麦味噌などが付いてくるのでそれを嘗めながら一杯。
そして肴を頼む。蕎麦屋には旨いものが揃っている。店にもよるが、並木藪だと焼海苔。かんだやぶだと天たね(かき揚げ)、あいやき(合鴨焼き)。室町砂場だと玉子焼きが有名。まず僕はいたわさを頼んだりする。蕎麦屋の蒲鉾は普通、焼き目がついたのは出てこない。白一色だ。そういうものに山葵をちょいとつけて食べつつ酒を呑む。幸せですなぁ。
さて、ここでひとつ問題が生じる。それは「蕎麦を頼んでそれで呑んでもいいのか」ということである。
僕は香り高いもり蕎麦を少しづつ手繰りながら呑むのが実に好きなのだが、「蕎麦は呑み終わってから食べるもの」という意見もある。うーむ。冬だとちょっと奢って鴨南蛮を頼んで、辛目の汁を啜りつつ呑むのがまたいいのだが、どうなのだろう。「冷や酒をカッ食らって蕎麦の二、三枚も手繰って暖簾蹴飛ばして出て行く」のが江戸っ子として最も粋だ、という説もあり難しい。まあ僕は江戸っ子ではないので野暮に蕎麦啜りつつ呑むことも許してもらう。
さらに、「抜き」問題というのがある。「抜き」とはご承知の方も多いと思うが、例えば「天ぬき」だと天麩羅蕎麦から蕎麦を抜いたもの、つまり汁に天麩羅が浮かんだだけの吸い物、と解釈すればいい。同様に「鴨ぬき」なども存在する。
こうして辛目の汁を啜りながら呑むのは実に旨いのだが、たいていはこういうものは品書きに載っていない。つまり「裏メニュー」である。なので、関西から来た一見の客がこういうものを常連でもないのに頼んでよいものか? との疑問がつきまとう。頼んだとしても「は? ぬきですか?」などと知らん振りをされたらどうしようかという恐怖心もあって、なかなか勇気が出ないものである。
東京の老舗で一度だけ頼んだことがある。そのときはすんなりと注文が通ったのだが、まわりにいる人たちの視線が実に気になった。みんなジロジロ見るのである。おそらく「あいつ一見の若造のくせに江戸っ子ぶりやがって」という視線に違いない(被害妄想)。それ以来どうも注文できないでいる。なかなかに難しいのである。
関西人の僕は、構えずに呑むことがまだ出来ずにいたりする。自然体でいくには修行が必要なのかもしれない。しかし、「蕎麦屋で一杯」は楽しいことは楽しいのでついつい時間があればやってしまうのだ。
もう少し話したいのでまた次回に。
今日は鴨南蛮そばを夕食の一品に加えてしまった。日本酒が絶妙に合うのだなこれが。
これまでパンで酒が呑めるか?そして飯で酒が呑めるか?を書いたので、炭水化物第3弾として、「麺」についても書く。どうもすみません。
麺で呑む、というのはもはや普通のことだろうなぁと思う。ご飯やパンを引き合いに出した時よりも、自分自身でも書いていて抵抗がない。あとは、それぞれの相性の問題だろう。
パスタにワインを合わせる人は多いと思う。ただ、僕はワインには実に疎いので、組み合わせをどうしたらいいのかは判らない。基本的にはパスタはイタリアのものだからキャンティがいいのか。まあそういうこだわりはともかくとして、やっぱり白ワインを僕はいただくけれど、それで果たしていいのか。カルボナーラに赤を合わせていた人がいて、やはりパンチェッタとチーズだから赤なのか、と納得したりしていたけれど本当なのか。ペスカトーレはやはり白だろうけど、ミートソースだと赤なのか。いやはや早速無知を露呈している。
結局僕が摂取するアルコールの中で、ワインの頻度が極端に少ないためによくわかってないんだな。まわりに教えてくれる人もなく、これ以上言及するのは止めよう。
では、麺でビールが飲めるか、と言えば、これはやはり焼きそばの出番となるだろう。しかも、上等な広東風海鮮炒麺などではなく、鉄板で作るソース焼きそばが相性抜群だろうと思う。お好み焼き然り、大阪式串カツ然りだが、ソース系の食べ物はビールをどうしても呼ぶのではないだろうか。
しかし、ラーメンにビールは似つかわしくないのだな。ラーメンなどは当然汁物の範疇であり、ビールのようにゴクゴク飲む水分過剰のアルコール飲料にはどうしても合わないと思ってしまう。だって、ビール飲んでラーメン食べたらお腹がタプタプになるじゃないか。
それなのに、「ラーメンにはビールだ」と主張する人がやはり居る。この人も元上司なので困るのだが、何軒か酒場をハシゴした後、そろそろ締めよう、とラーメン屋に行くと、必ずこの元上司は「ビール! !」と声を張り上げるのだ。
その人が飲むのはむろん勝手だし、とやかく言う筋合いのものではないことは充分判っている。しかし、こういうシチュエーションでは絶対に僕にも注いでくるわけで、全く困ったことなのだ。さっきまで散々呑んだんだからもうビールはいいじゃないですか。
しかし、その人は断固としてビールを注文する。一度、僕は一計を案じて酒が置いてないラーメン屋に誘導したことがあった。こだわりのラーメン屋はアルコール抜きで勝負しているところがある。
「とりあえずビールを一本ちょうだい」
しかしこの店にはビールが無いのだ。「すいませーん、ビール置いてないんですよぉ」
「何? それは困ったな。おい○○(僕の名前)、店を替えるぞ。ラーメンにビールが無いのではしょうがない」
頑なに「ラーメンにはビール」と決めているのである。僕はもう諦めた。以前「カレーライスにビール」と必ず言う人の事を書いたが、この元上司はその人と同一人物である。
うどんではなかなか酒を呑もうとは思わない。僕にとってはうどんはどうも酒の対象とはならないのだ。確かに「そば屋で一杯」というのはよくあるけれども「うどん屋で一杯」というのはほとんど聞かない。相性悪いのかなぁ。感覚として以前に書いた「ご飯で酒を呑む」に近いものがあるような感じなのだ。
例外として「うどんすき」という食べ物がある。しかしあれは鍋物の範疇と考えるべきだろう。
しかし、冷麦や素麺といった食べ物はうどんの延長線上にあるような気がして、とても酒の出番はなさそうなのだけれど、夏の暑い日、よく冷やした素麺に焼き茄子、もろきゅう、そして麦焼酎のロックというのが僕には最高の取り合わせのように思えるのだ。いかにも「暑気払い」という感じがする。
山口瞳氏は、ここに冷やしトマトも欲しい、と書いていた。先達に同じ嗜好の人が居てくれて嬉しい。
さて、僕には人には理解されない「麺と酒」の取り合わせがある。
野田知佑さんや椎名誠さんの著作に書いてあったことなので、全く賛同者がいないとは思えないのだが、人に話すとみんな否定的なので、あんまり言わなくなった。それは「インスタントラーメンにウイスキー」である。しかも、アウトドアでやると楽しい。
僕はずっとキャンプ旅行もしていたし、今でもPキャン(パーキングキャンプ 車中泊)はやるのだが、そういうときに屋外でウイスキーを呑みつつ、インスタントラーメンを食べるのだ。
おっと、もう眉を顰めた人が居るな。
そういう時のウィスキーはバーボンがよく似合う。しかも、汁物であるラーメンが相手なのだから当然ストレートが望ましい。喉が焼けるような感じがアウトドアらしくて良い(自己満足)。
でも誰も理解してくれない。まあいいけど。東海林さだお氏はチャーハンでウイスキーを呑むと書いていた。そっちの方より理解はされやすいと思うのだけれど…。(どっちもどっち)
ぐだぐだと書いていたら長くなった。本当は「蕎麦と酒」について書こうと思っていたのだけれども既に饒舌すぎて収拾がつかなくなっているのでこのへんで。
これまでパンで酒が呑めるか?そして飯で酒が呑めるか?を書いたので、炭水化物第3弾として、「麺」についても書く。どうもすみません。
麺で呑む、というのはもはや普通のことだろうなぁと思う。ご飯やパンを引き合いに出した時よりも、自分自身でも書いていて抵抗がない。あとは、それぞれの相性の問題だろう。
パスタにワインを合わせる人は多いと思う。ただ、僕はワインには実に疎いので、組み合わせをどうしたらいいのかは判らない。基本的にはパスタはイタリアのものだからキャンティがいいのか。まあそういうこだわりはともかくとして、やっぱり白ワインを僕はいただくけれど、それで果たしていいのか。カルボナーラに赤を合わせていた人がいて、やはりパンチェッタとチーズだから赤なのか、と納得したりしていたけれど本当なのか。ペスカトーレはやはり白だろうけど、ミートソースだと赤なのか。いやはや早速無知を露呈している。
結局僕が摂取するアルコールの中で、ワインの頻度が極端に少ないためによくわかってないんだな。まわりに教えてくれる人もなく、これ以上言及するのは止めよう。
では、麺でビールが飲めるか、と言えば、これはやはり焼きそばの出番となるだろう。しかも、上等な広東風海鮮炒麺などではなく、鉄板で作るソース焼きそばが相性抜群だろうと思う。お好み焼き然り、大阪式串カツ然りだが、ソース系の食べ物はビールをどうしても呼ぶのではないだろうか。
しかし、ラーメンにビールは似つかわしくないのだな。ラーメンなどは当然汁物の範疇であり、ビールのようにゴクゴク飲む水分過剰のアルコール飲料にはどうしても合わないと思ってしまう。だって、ビール飲んでラーメン食べたらお腹がタプタプになるじゃないか。
それなのに、「ラーメンにはビールだ」と主張する人がやはり居る。この人も元上司なので困るのだが、何軒か酒場をハシゴした後、そろそろ締めよう、とラーメン屋に行くと、必ずこの元上司は「ビール! !」と声を張り上げるのだ。
その人が飲むのはむろん勝手だし、とやかく言う筋合いのものではないことは充分判っている。しかし、こういうシチュエーションでは絶対に僕にも注いでくるわけで、全く困ったことなのだ。さっきまで散々呑んだんだからもうビールはいいじゃないですか。
しかし、その人は断固としてビールを注文する。一度、僕は一計を案じて酒が置いてないラーメン屋に誘導したことがあった。こだわりのラーメン屋はアルコール抜きで勝負しているところがある。
「とりあえずビールを一本ちょうだい」
しかしこの店にはビールが無いのだ。「すいませーん、ビール置いてないんですよぉ」
「何? それは困ったな。おい○○(僕の名前)、店を替えるぞ。ラーメンにビールが無いのではしょうがない」
頑なに「ラーメンにはビール」と決めているのである。僕はもう諦めた。以前「カレーライスにビール」と必ず言う人の事を書いたが、この元上司はその人と同一人物である。
うどんではなかなか酒を呑もうとは思わない。僕にとってはうどんはどうも酒の対象とはならないのだ。確かに「そば屋で一杯」というのはよくあるけれども「うどん屋で一杯」というのはほとんど聞かない。相性悪いのかなぁ。感覚として以前に書いた「ご飯で酒を呑む」に近いものがあるような感じなのだ。
例外として「うどんすき」という食べ物がある。しかしあれは鍋物の範疇と考えるべきだろう。
しかし、冷麦や素麺といった食べ物はうどんの延長線上にあるような気がして、とても酒の出番はなさそうなのだけれど、夏の暑い日、よく冷やした素麺に焼き茄子、もろきゅう、そして麦焼酎のロックというのが僕には最高の取り合わせのように思えるのだ。いかにも「暑気払い」という感じがする。
山口瞳氏は、ここに冷やしトマトも欲しい、と書いていた。先達に同じ嗜好の人が居てくれて嬉しい。
さて、僕には人には理解されない「麺と酒」の取り合わせがある。
野田知佑さんや椎名誠さんの著作に書いてあったことなので、全く賛同者がいないとは思えないのだが、人に話すとみんな否定的なので、あんまり言わなくなった。それは「インスタントラーメンにウイスキー」である。しかも、アウトドアでやると楽しい。
僕はずっとキャンプ旅行もしていたし、今でもPキャン(パーキングキャンプ 車中泊)はやるのだが、そういうときに屋外でウイスキーを呑みつつ、インスタントラーメンを食べるのだ。
おっと、もう眉を顰めた人が居るな。
そういう時のウィスキーはバーボンがよく似合う。しかも、汁物であるラーメンが相手なのだから当然ストレートが望ましい。喉が焼けるような感じがアウトドアらしくて良い(自己満足)。
でも誰も理解してくれない。まあいいけど。東海林さだお氏はチャーハンでウイスキーを呑むと書いていた。そっちの方より理解はされやすいと思うのだけれど…。(どっちもどっち)
ぐだぐだと書いていたら長くなった。本当は「蕎麦と酒」について書こうと思っていたのだけれども既に饒舌すぎて収拾がつかなくなっているのでこのへんで。
パンで酒が呑めるのか? という話を書いた。ちょっとくだらないつながりかもだけれども、「ご飯で酒が呑めるのか?」についても書く。
もちろんこれは好みの問題であって人がどうこう言う筋合いのものではない。好きなようにやっていただいたら良いことではあるのだが。
本で読んだのだが、「日本酒の最高の肴」は米だそうだ。その人に言わせると、米つぶを一つづつ楊枝で刺し、醤油にちょいとつけて口に運びつつ酒を呑む。幸せらしい。日本酒は米で出来ているからその原材料で呑むのが一番らしい。そうなると、ブドウを食べながらワインを呑み、サツマイモを食べつつ芋焼酎を呑むのが良いのだろうか。試していないのでわからない。
「酒茶漬け」というものも存在するらしい。農家の豪快なおっちゃんは、さんざん酒を呑んだあとシメとして飯に酒をぶっかけて喰う人もいる由。これはキビしそうだ。「これが喰えないとホントの酒呑みでねぇ」という金言も読んだことがある。イヤハヤ恐ろしい。
「酒ずし」というものは存在する。鹿児島の郷土料理で、酢のかわりに酒を使う。これは食べたことがある。思ったよりも食べやすかったが、本当に「美味い!」と言えるまでにはやはり慣れが必要なような気がした。
僕個人の感覚から言えば、「酒は酒、飯は飯」とわけて食べたいのが本当のところ。長年の習慣からきている刷り込みなのかもしれないが、食卓でご飯茶碗を持ちながら酒盃を同時に傾けるもというのには違和感がある。ただし繰り返すように個人の自由であって呑みたい人は呑めばいい。
肝心なことは、人に流儀を強制しないことだろう。
「カレーライスにはビールが最高」という人を知っている。元上司だが。それはそれでかまわない。この人の問題点は「カレーを食べるのにビールを呑まないのはおかしい」と他人に強制する点にある。全く困った人なのだが、幸いにしてカレーの席に同席する機会が少なかったので事なきを得ている。
困るのは寿司屋なのだ。
このことは以前に自分のHPで書いたことがあるのだけれど、僕は寿司屋で酒を呑むのは好きだ(回転寿司は別として)。新鮮な魚をつまみに酒を呑むのはたまらない。しかしあくまで酒は酒、ご飯はご飯で食べたい。なので魚をまず切ってもらい、充分に呑む。そのあとで、お茶を注文し握ってもらうのが理想だ。物事には順番というものがある。
以前(かなり前だが)上司と寿司屋に行った時のこと。「まず呑もう。なんでも好きなものを食え」というので、僕はまずサザエの刺身を注文した。呑むと言うのでつまみを頼んだわけなのだが、上司は「握りを頼まんかいっ」と言う。しょうがないので白身の握りを頼んだら「さー呑め」とビールを注いでくる。口の中で寿司とビールが…。
その人がそうして食べるのが好きだというのを止めようとは思わない。しかし、いかにその人のオゴリだからと言ってこっちにまで強制しないでもらいたいのだ。「トロを食べろ」とトロを注文して僕に勧め(話がそれるが味の濃いものは後で食べたいのがホンネだ。トロやアナゴは後から食べたい)、トロを食べると即座にビールを呑めという。これでは流し込むよりしょうがない。その上司は完全に握りを酒の肴として認識しているのだが、これではこっちは食べた気がしない。文句は言えないが、あまりにも寿司がもったいなく感じたのは確か。
こういうことが一度や二度ではなかったのだ。また、当時の上司だけではなく他の人とでも「寿司を食べながら酒」という場面に遭遇している。出来ることならもうよく好みを熟知している人以外とは寿司屋に行きたくない。あくまで酒肴は酒肴、寿司は寿司だ。
そういってお前は絶対に寿司と酒を一緒に食しないか? と言われれば例外はある。
駅弁で有名な富山の鱒すし。これは、実に冷酒に合うのである。綺麗に切り分けたものでなくまるのままの鱒すしにかぶりつき、湯呑みに酌んだ常温の純米酒。これは実に美味いのだ。先ほど言っていたことと矛盾していると言われれば一言もないのだがこれは合う。
所謂押し寿司の系統なら酒に合うのでは、といろいろ試してみたが、全部が合うとは言い難かった。京都の上質の鯖寿司があったときに呑んでみたが、あまりピタリとくるとは思わなかった。むしろ、安い鯖のバッテラの方が酒に合う。これは本当に好みだと思う。
寿司ではないが、確か「美味しんぼ」に固く握ったにぎりめしとキュウリの古漬けでコップ酒を呑む、という話を読んだことがある。人の好みはいろいろだ。前夜の冷や飯に味噌汁をかけてやはり酒を呑む話も読んだ。
これらの話は独創性があっていい。気をつけなければならないのは、それを他人に強要しないこと。これが一番肝要なのだ。
いつか酒茶漬けも試してみるか。僕には無理かもしれないけどなぁ。
もちろんこれは好みの問題であって人がどうこう言う筋合いのものではない。好きなようにやっていただいたら良いことではあるのだが。
本で読んだのだが、「日本酒の最高の肴」は米だそうだ。その人に言わせると、米つぶを一つづつ楊枝で刺し、醤油にちょいとつけて口に運びつつ酒を呑む。幸せらしい。日本酒は米で出来ているからその原材料で呑むのが一番らしい。そうなると、ブドウを食べながらワインを呑み、サツマイモを食べつつ芋焼酎を呑むのが良いのだろうか。試していないのでわからない。
「酒茶漬け」というものも存在するらしい。農家の豪快なおっちゃんは、さんざん酒を呑んだあとシメとして飯に酒をぶっかけて喰う人もいる由。これはキビしそうだ。「これが喰えないとホントの酒呑みでねぇ」という金言も読んだことがある。イヤハヤ恐ろしい。
「酒ずし」というものは存在する。鹿児島の郷土料理で、酢のかわりに酒を使う。これは食べたことがある。思ったよりも食べやすかったが、本当に「美味い!」と言えるまでにはやはり慣れが必要なような気がした。
僕個人の感覚から言えば、「酒は酒、飯は飯」とわけて食べたいのが本当のところ。長年の習慣からきている刷り込みなのかもしれないが、食卓でご飯茶碗を持ちながら酒盃を同時に傾けるもというのには違和感がある。ただし繰り返すように個人の自由であって呑みたい人は呑めばいい。
肝心なことは、人に流儀を強制しないことだろう。
「カレーライスにはビールが最高」という人を知っている。元上司だが。それはそれでかまわない。この人の問題点は「カレーを食べるのにビールを呑まないのはおかしい」と他人に強制する点にある。全く困った人なのだが、幸いにしてカレーの席に同席する機会が少なかったので事なきを得ている。
困るのは寿司屋なのだ。
このことは以前に自分のHPで書いたことがあるのだけれど、僕は寿司屋で酒を呑むのは好きだ(回転寿司は別として)。新鮮な魚をつまみに酒を呑むのはたまらない。しかしあくまで酒は酒、ご飯はご飯で食べたい。なので魚をまず切ってもらい、充分に呑む。そのあとで、お茶を注文し握ってもらうのが理想だ。物事には順番というものがある。
以前(かなり前だが)上司と寿司屋に行った時のこと。「まず呑もう。なんでも好きなものを食え」というので、僕はまずサザエの刺身を注文した。呑むと言うのでつまみを頼んだわけなのだが、上司は「握りを頼まんかいっ」と言う。しょうがないので白身の握りを頼んだら「さー呑め」とビールを注いでくる。口の中で寿司とビールが…。
その人がそうして食べるのが好きだというのを止めようとは思わない。しかし、いかにその人のオゴリだからと言ってこっちにまで強制しないでもらいたいのだ。「トロを食べろ」とトロを注文して僕に勧め(話がそれるが味の濃いものは後で食べたいのがホンネだ。トロやアナゴは後から食べたい)、トロを食べると即座にビールを呑めという。これでは流し込むよりしょうがない。その上司は完全に握りを酒の肴として認識しているのだが、これではこっちは食べた気がしない。文句は言えないが、あまりにも寿司がもったいなく感じたのは確か。
こういうことが一度や二度ではなかったのだ。また、当時の上司だけではなく他の人とでも「寿司を食べながら酒」という場面に遭遇している。出来ることならもうよく好みを熟知している人以外とは寿司屋に行きたくない。あくまで酒肴は酒肴、寿司は寿司だ。
そういってお前は絶対に寿司と酒を一緒に食しないか? と言われれば例外はある。
駅弁で有名な富山の鱒すし。これは、実に冷酒に合うのである。綺麗に切り分けたものでなくまるのままの鱒すしにかぶりつき、湯呑みに酌んだ常温の純米酒。これは実に美味いのだ。先ほど言っていたことと矛盾していると言われれば一言もないのだがこれは合う。
所謂押し寿司の系統なら酒に合うのでは、といろいろ試してみたが、全部が合うとは言い難かった。京都の上質の鯖寿司があったときに呑んでみたが、あまりピタリとくるとは思わなかった。むしろ、安い鯖のバッテラの方が酒に合う。これは本当に好みだと思う。
寿司ではないが、確か「美味しんぼ」に固く握ったにぎりめしとキュウリの古漬けでコップ酒を呑む、という話を読んだことがある。人の好みはいろいろだ。前夜の冷や飯に味噌汁をかけてやはり酒を呑む話も読んだ。
これらの話は独創性があっていい。気をつけなければならないのは、それを他人に強要しないこと。これが一番肝要なのだ。
いつか酒茶漬けも試してみるか。僕には無理かもしれないけどなぁ。
サンドウィッチは手で軽くつまめるものでないと酒が呑みにくい、という話を書いたけれども、果たしてサンドウィッチをアテにして酒を呑む人がいるのだろうか? という疑問を持たれる方もいると思う。パンで酒、とは日本人であればすぐに結びつくものではないからだ。
日本人の感覚からして、パンは主食である。ファミレスのセットメニューはパンかご飯を選ばせる。その感覚からいけば、パンと酒は同時には摂れないもの、と考えても不思議ではない。
しかし、僕は以前人と話をしていてビックリしたことがある。その人は「アンパンで日本酒を呑む」らしいからだ。
マンジュウで酒を呑む人の話は本で読んだことがあった。理由は「酒の辛さが際立つ」ことにあるらしい。しかしそういう人と実際には会ったことがなかった。ところが、一足飛びに「アンパンを肴」の人に出会いかなり驚いたことを憶えている。理由はマンジュウと同じことらしい。
僕は聞いていてかなり気持ち悪かったのだけれど、個人の好みにどうこういう筋合いのものではない。その人が幸せであれば良いのだ。一緒にやろう、と言われたら拒否するが。(その人もジャムパンやクリームパンではダメらしい。)
そういう特殊(?)な人はさておき、チーズフォンデューでワイン、であれば何ら問題はないだろう。フランスパンを手ごろな大きさにしてとろけたチーズを絡ませて食べ、ワインを口に運ぶ…。考えただけで美味そうである。
フランス料理のフルコースを考えてみれば、食卓には常にパンが置かれている。料理を食べ、パンを齧り、ワインを呑む。極めて普通のことである。日本の宴席だと、刺身だのてんぷらだのと次々と出て大いに酒を呑み、最後に〆でごはん、というパターンが確立しているので違和感があるが、パンと酒はそれほど相反するものではない。
ということで、僕はサンドウィッチで呑むのが実はかなり好きなのである。しかも旅の途中限定で。
自転車やクルマで旅をするときには出来ないが、汽車旅だと可能なことがある。それは、「流れる風景を見ながら酒を呑む」ことだ。
旅に出るということ、それはかなりの開放感を伴う。夜行列車に限らず、朝からでもつい一杯、と考えてしまうのは酒呑みの性だ。朝酒なんぞ怒られるので旅先でしか出来ない。
ちょっと余談だけれども、汽車に乗りながら呑む酒といえば、普通は缶ビールを連想する人が多いだろう。今はどこでもビールが手に入るし気軽だ。列車がガタン、と動き出した途端、プシュッとプルトップを引く音があちこちに聞こえる。ああ旅だなぁと確かに思う。
しかし、旅情という側面からいけば、僕は圧倒的にウイスキーを選ぶ。
ウイスキーの小瓶というものは、一昔前は旅の友としてカッコとした地位を築いていたものだった。よく、瓶のフタにウイスキーをちょっとづつ注ぎ、振動でこぼれないように口の方をフタに近づけて呑むオヤジを見かけたものだった。あのチビチビとした風情は実に旅情があったと僕は思う。
しかし時代は移り、列車で呑む酒は缶ビールが圧倒的になった。ワンカップの日本酒派もまだ居るが、ウイスキー派は壊滅状態になっているのが現状だろう。確かにビールも美味いが、あれはトイレが近くなって困る。それに旅情を醸し出す「チビチビ」が出来ないじゃないか。グイッとやってプハー。直ぐに飲み終えてしまうので長旅では間がもたないと僕は思うのだが。
上等のウイスキーでなくても良い。むしろ安いトリスやレッド、ハイニッカこそ似合う。流れる車窓を見ながら少しづつチビチビとやる。徐々に陶然となる頃には日頃のストレスから脱却している自分に気がつくことになる。
話がそれたが、そういうときにアテとして食べるのに、僕はサンドウィッチを好むのである。
こういうとき、タマゴサンドなどはちょっと合わない(あくまで個人的好みですよ)。ツナやハムサンドでまあまあ。圧倒的に好きなのはカツサンドである。
そりゃデパ地下で「まい泉」のカツサンドでも買って列車に飛び乗れば上等だが、さほどでなくてもいい。コンビニのチキンカツサンドでも結構美味い。サンドウィッチを食べ、ウイスキーをチビリとやりながら都会から離れていく車窓を眺めていると、これぞ至福だという思いがわきおこって来る。オヤジだと笑うなら笑いなさい。
チープな感じもまたいいものだ。こういうときデリカテッセンで売っている、具が山のように挟まったサンドウィッチは完全に合わない。座席でボロボロこぼしていたらそれこそ白い目で見られる。朝からウイスキーを呑んでいるだけでも噴飯モノだと言われるのに。
日本人の感覚からして、パンは主食である。ファミレスのセットメニューはパンかご飯を選ばせる。その感覚からいけば、パンと酒は同時には摂れないもの、と考えても不思議ではない。
しかし、僕は以前人と話をしていてビックリしたことがある。その人は「アンパンで日本酒を呑む」らしいからだ。
マンジュウで酒を呑む人の話は本で読んだことがあった。理由は「酒の辛さが際立つ」ことにあるらしい。しかしそういう人と実際には会ったことがなかった。ところが、一足飛びに「アンパンを肴」の人に出会いかなり驚いたことを憶えている。理由はマンジュウと同じことらしい。
僕は聞いていてかなり気持ち悪かったのだけれど、個人の好みにどうこういう筋合いのものではない。その人が幸せであれば良いのだ。一緒にやろう、と言われたら拒否するが。(その人もジャムパンやクリームパンではダメらしい。)
そういう特殊(?)な人はさておき、チーズフォンデューでワイン、であれば何ら問題はないだろう。フランスパンを手ごろな大きさにしてとろけたチーズを絡ませて食べ、ワインを口に運ぶ…。考えただけで美味そうである。
フランス料理のフルコースを考えてみれば、食卓には常にパンが置かれている。料理を食べ、パンを齧り、ワインを呑む。極めて普通のことである。日本の宴席だと、刺身だのてんぷらだのと次々と出て大いに酒を呑み、最後に〆でごはん、というパターンが確立しているので違和感があるが、パンと酒はそれほど相反するものではない。
ということで、僕はサンドウィッチで呑むのが実はかなり好きなのである。しかも旅の途中限定で。
自転車やクルマで旅をするときには出来ないが、汽車旅だと可能なことがある。それは、「流れる風景を見ながら酒を呑む」ことだ。
旅に出るということ、それはかなりの開放感を伴う。夜行列車に限らず、朝からでもつい一杯、と考えてしまうのは酒呑みの性だ。朝酒なんぞ怒られるので旅先でしか出来ない。
ちょっと余談だけれども、汽車に乗りながら呑む酒といえば、普通は缶ビールを連想する人が多いだろう。今はどこでもビールが手に入るし気軽だ。列車がガタン、と動き出した途端、プシュッとプルトップを引く音があちこちに聞こえる。ああ旅だなぁと確かに思う。
しかし、旅情という側面からいけば、僕は圧倒的にウイスキーを選ぶ。
ウイスキーの小瓶というものは、一昔前は旅の友としてカッコとした地位を築いていたものだった。よく、瓶のフタにウイスキーをちょっとづつ注ぎ、振動でこぼれないように口の方をフタに近づけて呑むオヤジを見かけたものだった。あのチビチビとした風情は実に旅情があったと僕は思う。
しかし時代は移り、列車で呑む酒は缶ビールが圧倒的になった。ワンカップの日本酒派もまだ居るが、ウイスキー派は壊滅状態になっているのが現状だろう。確かにビールも美味いが、あれはトイレが近くなって困る。それに旅情を醸し出す「チビチビ」が出来ないじゃないか。グイッとやってプハー。直ぐに飲み終えてしまうので長旅では間がもたないと僕は思うのだが。
上等のウイスキーでなくても良い。むしろ安いトリスやレッド、ハイニッカこそ似合う。流れる車窓を見ながら少しづつチビチビとやる。徐々に陶然となる頃には日頃のストレスから脱却している自分に気がつくことになる。
話がそれたが、そういうときにアテとして食べるのに、僕はサンドウィッチを好むのである。
こういうとき、タマゴサンドなどはちょっと合わない(あくまで個人的好みですよ)。ツナやハムサンドでまあまあ。圧倒的に好きなのはカツサンドである。
そりゃデパ地下で「まい泉」のカツサンドでも買って列車に飛び乗れば上等だが、さほどでなくてもいい。コンビニのチキンカツサンドでも結構美味い。サンドウィッチを食べ、ウイスキーをチビリとやりながら都会から離れていく車窓を眺めていると、これぞ至福だという思いがわきおこって来る。オヤジだと笑うなら笑いなさい。
チープな感じもまたいいものだ。こういうときデリカテッセンで売っている、具が山のように挟まったサンドウィッチは完全に合わない。座席でボロボロこぼしていたらそれこそ白い目で見られる。朝からウイスキーを呑んでいるだけでも噴飯モノだと言われるのに。
昼食を摂りに喫茶店(ちょっとこじゃれた喫茶店だが)に入った。
メニューに「ローストビーフサンド」なるものがあり、なんとなしにそういうものが食べたい心境だったのでオーダーした。暫し待ったところで運ばれてきたのだが、それを見て僕は思わず唸ってしまった。
「これは果たしてサンドウィッチか?」
皿の上に軽くトーストされたパン、その上にローストビーフが乗っておりグレイビーソースがたっぷりとかかっている。ワンプレートで隣にはサラダとフライドポテト。その横に、もう一枚パンが置いてある。そのパンをローストビーフの上に乗っければサンドウィッチになるという寸法だ。ナイフとフォークが添えてある。僕はアタマを抱えた。
確かにローストビーフの肉汁は下敷きになったパンが余すところなく吸っている。しかし、パンは肉汁とソースのおかげで手では持てないほど濡れそぼっている。これはナイフで切って食べざるを得ないだろう。しかし、かぶせて食べなさいと言わんばかりに置いてあるもう一枚のパンの処遇はどうすればよいのだろう。
結局そのビーフ&下敷きパンをナイフで切りつつ食べ、もう一枚のパンを合いの手につまむ、といった按配となった。味はいいのだ。しかし、これはもはやサンドウィッチとは呼ばないのではないか? だいたい食べにくくてしょうがない。これならローストビーフにパンが別皿についてきた方がよっぽど食べやすいじゃないか。
そもそもサンドウィッチというものが成立したのは、イギリスの貴族であるサンドウィッチ伯爵ジョン・モンターギュが、ギャンブルをしながら摂れる食事として、トーストの間にコールドビーフをはさんだ軽食を考え出したのが由来、と聞いている。したがって、手でつまめるものであったはずだ。食べやすさ、が主眼であったのにどうしてわざわざ食べにくくするのか。
オープンサンドウィッチというものがあることくらい僕も知っている。しかしこれは北欧の方で一般的な食べ物で、いわゆる「カナッペ」に近いものだと了解している。大きな食パンの上にどっちゃりと具を乗せたものではなく、あくまで食べやすいサイズのもの。パンの上にうず高く具をのっけ、手に持って食べようものならソースやドレッシングがあふれ出してベタベタになるようなシロモノではなかったはず。
思うに、これはアメリカ渡来の食べ方なのだ。ハンバーガーも然り。マクドナルドならともかく、ちょっと上等のハンバーガーショップだと、バンズの上にこれでもかとパテだの目玉焼きだのレタスだのを乗っけてくる。うず高く積まれているので崩れて倒れてしまう。それをどうやって食べるのかというと、バンズを挟んでグシャっと潰して食べるのだ。手が汚れること請け合いである。口の周りもベタベタ。あっちこっちから色々なものが溢れてこぼれるので急いで食べなければならない。食べるのにワザがいる。
なんでそこまでして「ハンバーガー」として食べなければいけないのか。理解に苦しむ。しかしこういうのは「豪快」「贅沢」「食べ応え大」「さすがアメリカ」などと賞賛されるのが普通なのである。何かが逸脱しているように思えてしょうがない。
見た目の悪さを言っているのではないのである。韓国のビビンバは徹底的にかき混ぜて食べる。見た目は悪いが確かにその方が美味い。それに食べやすい。しかし、アメリカ(そう決め付けていいかは問題かもだが)のサンドウィッチ並びにハンバーガーは「食べにくい」のである。なのに、何故もてはやされるのか。僕にはわからない。
フランス式サンドウィッチ、というのもある。かの地はフランスパンであるからして、バゲットを切り、そこにチーズだのハムだのを挟んで食べる式のものである。バゲットは硬いのが多いので噛み切るのに苦労する場合が多いが、まあこれは許容範囲としよう。手が汚れるように作ってはいないからだ。サンドウィッチの本来のあり方である「トランプをしながらでも食べられる」という定義から逸脱していない。ここからは好みの問題になるが、僕はイギリス式が食べやすい。ネットで調べると、本場フランスでも昨今は伝統のバゲットサンドより食パンを使ったものの方が好まれてきているらしい。食べやすさも一つの要因だろう。マナーの国フランスで、齧ると溢れそうになるものが尊ばれるとは考えにくい。
酒の話にまでいかなかったが、僕の本音は、手を汚して食べなければならないようなものだと「グラスが持ちにくい」ので呑んべぇとしてはやりにくいな、というのが根底にある。
手が汚れたりするのが好きな人に文句を言う筋合いではないので自由にしていただいたらよい。しかし、メニューに「食べにくいけど豪快サンドウィッチ」とちゃんと書いておいたら僕だってブツブツ言わないのである。あくまでも普通に「サンドウィッチ」と書くなら、手で軽くつまめるものにしておきなさい、という希望です。
メニューに「ローストビーフサンド」なるものがあり、なんとなしにそういうものが食べたい心境だったのでオーダーした。暫し待ったところで運ばれてきたのだが、それを見て僕は思わず唸ってしまった。
「これは果たしてサンドウィッチか?」
皿の上に軽くトーストされたパン、その上にローストビーフが乗っておりグレイビーソースがたっぷりとかかっている。ワンプレートで隣にはサラダとフライドポテト。その横に、もう一枚パンが置いてある。そのパンをローストビーフの上に乗っければサンドウィッチになるという寸法だ。ナイフとフォークが添えてある。僕はアタマを抱えた。
確かにローストビーフの肉汁は下敷きになったパンが余すところなく吸っている。しかし、パンは肉汁とソースのおかげで手では持てないほど濡れそぼっている。これはナイフで切って食べざるを得ないだろう。しかし、かぶせて食べなさいと言わんばかりに置いてあるもう一枚のパンの処遇はどうすればよいのだろう。
結局そのビーフ&下敷きパンをナイフで切りつつ食べ、もう一枚のパンを合いの手につまむ、といった按配となった。味はいいのだ。しかし、これはもはやサンドウィッチとは呼ばないのではないか? だいたい食べにくくてしょうがない。これならローストビーフにパンが別皿についてきた方がよっぽど食べやすいじゃないか。
そもそもサンドウィッチというものが成立したのは、イギリスの貴族であるサンドウィッチ伯爵ジョン・モンターギュが、ギャンブルをしながら摂れる食事として、トーストの間にコールドビーフをはさんだ軽食を考え出したのが由来、と聞いている。したがって、手でつまめるものであったはずだ。食べやすさ、が主眼であったのにどうしてわざわざ食べにくくするのか。
オープンサンドウィッチというものがあることくらい僕も知っている。しかしこれは北欧の方で一般的な食べ物で、いわゆる「カナッペ」に近いものだと了解している。大きな食パンの上にどっちゃりと具を乗せたものではなく、あくまで食べやすいサイズのもの。パンの上にうず高く具をのっけ、手に持って食べようものならソースやドレッシングがあふれ出してベタベタになるようなシロモノではなかったはず。
思うに、これはアメリカ渡来の食べ方なのだ。ハンバーガーも然り。マクドナルドならともかく、ちょっと上等のハンバーガーショップだと、バンズの上にこれでもかとパテだの目玉焼きだのレタスだのを乗っけてくる。うず高く積まれているので崩れて倒れてしまう。それをどうやって食べるのかというと、バンズを挟んでグシャっと潰して食べるのだ。手が汚れること請け合いである。口の周りもベタベタ。あっちこっちから色々なものが溢れてこぼれるので急いで食べなければならない。食べるのにワザがいる。
なんでそこまでして「ハンバーガー」として食べなければいけないのか。理解に苦しむ。しかしこういうのは「豪快」「贅沢」「食べ応え大」「さすがアメリカ」などと賞賛されるのが普通なのである。何かが逸脱しているように思えてしょうがない。
見た目の悪さを言っているのではないのである。韓国のビビンバは徹底的にかき混ぜて食べる。見た目は悪いが確かにその方が美味い。それに食べやすい。しかし、アメリカ(そう決め付けていいかは問題かもだが)のサンドウィッチ並びにハンバーガーは「食べにくい」のである。なのに、何故もてはやされるのか。僕にはわからない。
フランス式サンドウィッチ、というのもある。かの地はフランスパンであるからして、バゲットを切り、そこにチーズだのハムだのを挟んで食べる式のものである。バゲットは硬いのが多いので噛み切るのに苦労する場合が多いが、まあこれは許容範囲としよう。手が汚れるように作ってはいないからだ。サンドウィッチの本来のあり方である「トランプをしながらでも食べられる」という定義から逸脱していない。ここからは好みの問題になるが、僕はイギリス式が食べやすい。ネットで調べると、本場フランスでも昨今は伝統のバゲットサンドより食パンを使ったものの方が好まれてきているらしい。食べやすさも一つの要因だろう。マナーの国フランスで、齧ると溢れそうになるものが尊ばれるとは考えにくい。
酒の話にまでいかなかったが、僕の本音は、手を汚して食べなければならないようなものだと「グラスが持ちにくい」ので呑んべぇとしてはやりにくいな、というのが根底にある。
手が汚れたりするのが好きな人に文句を言う筋合いではないので自由にしていただいたらよい。しかし、メニューに「食べにくいけど豪快サンドウィッチ」とちゃんと書いておいたら僕だってブツブツ言わないのである。あくまでも普通に「サンドウィッチ」と書くなら、手で軽くつまめるものにしておきなさい、という希望です。
普段呑む酒は普通酒で充分だが、正月とかハレの日はやはりいい酒が呑みたいもの。すなわち吟醸酒や純米酒である。これらの酒は現在「特定名称酒」と呼ばれている。
以前は、日本酒造組合で日本酒の製造品質表示には自主基準を定めて表示していた。しかし、これに対して国税庁が平成になってから基準を国のほうで規定するとして、細かくそれぞれについて表示基準を決めた。
お上がやったことに追随するのもシャクではあるが、しょうがないので従う。
吟醸酒については先日言及したのだけれど、細かく言うと4パターンに分かれる。すなわち純米大吟醸、純米吟醸、大吟醸、吟醸である。純米~とつくやつは米と米こうじだけで造られている。つまりあとの大吟醸、吟醸はアルコールが添加されているわけだ。
では大吟醸と吟醸はどう違うのか? それは米の削り方である。すなわち大吟醸が精米歩合50%以下、吟醸が60%以下である。大吟醸は米を半分以上削ってしまうのだ。なんとも贅沢なものである。米の真ん中の部分だけを使って醸すのだ。そりゃ高いはずである。
さて、吟醸は確かに美味いのだけれど、吟醸香といわれるフルーティーな香りが時として邪魔をする場合も無いではない。つまり、食べ物と合わせるのは不向きだと僕は考えている。
僕の酒を呑むときの基本は、「食べ物を美味く食べるために」呑むのであって、あくまで肴が主で酒が従である。だから吟醸は滅多に呑まない。一年のうちに何回あることか。今年は正月に義兄と吟醸酒を呑みそこねたので、次はいつ呑むかは定かでない。うちには今貰いものの大吟醸が一本あるので、それはヘルニアが完治して酒解禁となった日に呑むだろう。いつ呑めることやら…。
(追記:05年3月12日に投薬を止めました。それに伴い完治ではありませんが医者と相談して酒を解禁しました)
本醸造は、精米歩合70%以下で、添加するアルコールの量を白米の総重量の10%以下に抑えた酒。僕はこれを一番よく愛飲している。どちらかと言えば淡麗で食べ物の味の邪魔をしない。普段呑む酒は本醸造か、普通酒(糖類添加はない、アル添の多少多いもの)である。それで充分である。
なお、特別本醸造というのもあって、これは精米歩合60%以下だ。では吟醸とどう違うのか? それは吟醸造り(低温発酵)をしたか否かの点だ。
純米酒は先日言及したように米と米こうじだけで造られている酒である。ただ、純米酒と名のるにはそれ以外に要件があった。
あった、というのは、以前は精米歩合が規定されていた。純米酒は70%以下、特別純米酒は60%以下で造ることになっていた。現在も特別純米酒については変わっていないが、純米酒は精米歩合は自由になっている。そんなに米を削らずに造っても純米酒とみなす、ということである。
以前は「米だけの酒」と表記したものがあり、純米でありながら特定名称の基準を満たさない酒があった。それとややこしい、という判断からだろう。
まあこれはさほど騒ぐに値しないことかもしれない。米だけで造っていれば「純米酒」であることは間違いなく、看板に偽りがあるわけではない。あまり削らないと雑味が多くて旨くないのだが、ウソをついているわけではない。そのかわり「特定名称酒すべてに精米歩合を1%きざみで表記する」ことが義務づけられた。消費者は精米歩合を見て純米酒を選べばいいのである。
さて、純米酒を語るに当たって、避けて通れない問題がある。それは「米ぬか糖化液精製装置」のことである。
前述したように吟醸などの酒は米を削って造る。大吟醸で50%以下、中には30~40%以下にまで削る造りもある。削ったあとには大量の米ぬかが出来る。多く削れば米ぬかも真っ白だ。
この米ぬかを糖化精製して、みずあめ状のものを作ることが出来る。またもう少し技術を使えば、米ぬかを発酵させてアルコールも造れるという。それを三増酒などに添加するのだ。これはリサイクルでありコストダウンとも言える。
しかし、これら糖類やアルコールは「米」から造られているのである。醸造アルコールは普通、さとうきびなどを発酵して造ったアルコールを用いる。これを添加すれば純米酒とは言えない。しかし添加物も全て米が原料であれば…。
三増酒だって純米酒と言い張ることだって可能となる。米ぬか糖類を使った場合は表示をするとの自主基準は業界にあるらしいが、あくまで「自主基準」である。これはウワサの範疇でしかないけれども、、米ぬか糖化装置は結構出回っているらしい。特定名称酒造りの一つの「抜け道」となっていなければ良いのだが。
これ以外にも、吟醸香を後から付け香した「吟醸酒」なども実際あるらしい。またこれはあってはならないことだが、「アル添純米酒」も存在すると聞く。いやはや情けない現状である。「見抜けない消費者が悪い」と言うなかれ。業界ぐるみで人をたぶらかす姿勢を容認することは出来ない。
真面目に造っている蔵もあるのである。国、国税庁とメーカーはつるんでないで反省し、消費者騙しに走るな。普通酒は「日本酒テイスト飲料」とちゃんと言え。そのかわり国税庁は税率を下げろ。米ぬか糖類を使用したらリサイクルで環境に配慮したと自慢しろ。健全な日本酒業界をしっかりと作り上げてほしいものである。「国民の酒」なのだから。
以前は、日本酒造組合で日本酒の製造品質表示には自主基準を定めて表示していた。しかし、これに対して国税庁が平成になってから基準を国のほうで規定するとして、細かくそれぞれについて表示基準を決めた。
お上がやったことに追随するのもシャクではあるが、しょうがないので従う。
吟醸酒については先日言及したのだけれど、細かく言うと4パターンに分かれる。すなわち純米大吟醸、純米吟醸、大吟醸、吟醸である。純米~とつくやつは米と米こうじだけで造られている。つまりあとの大吟醸、吟醸はアルコールが添加されているわけだ。
では大吟醸と吟醸はどう違うのか? それは米の削り方である。すなわち大吟醸が精米歩合50%以下、吟醸が60%以下である。大吟醸は米を半分以上削ってしまうのだ。なんとも贅沢なものである。米の真ん中の部分だけを使って醸すのだ。そりゃ高いはずである。
さて、吟醸は確かに美味いのだけれど、吟醸香といわれるフルーティーな香りが時として邪魔をする場合も無いではない。つまり、食べ物と合わせるのは不向きだと僕は考えている。
僕の酒を呑むときの基本は、「食べ物を美味く食べるために」呑むのであって、あくまで肴が主で酒が従である。だから吟醸は滅多に呑まない。一年のうちに何回あることか。今年は正月に義兄と吟醸酒を呑みそこねたので、次はいつ呑むかは定かでない。うちには今貰いものの大吟醸が一本あるので、それはヘルニアが完治して酒解禁となった日に呑むだろう。いつ呑めることやら…。
(追記:05年3月12日に投薬を止めました。それに伴い完治ではありませんが医者と相談して酒を解禁しました)
本醸造は、精米歩合70%以下で、添加するアルコールの量を白米の総重量の10%以下に抑えた酒。僕はこれを一番よく愛飲している。どちらかと言えば淡麗で食べ物の味の邪魔をしない。普段呑む酒は本醸造か、普通酒(糖類添加はない、アル添の多少多いもの)である。それで充分である。
なお、特別本醸造というのもあって、これは精米歩合60%以下だ。では吟醸とどう違うのか? それは吟醸造り(低温発酵)をしたか否かの点だ。
純米酒は先日言及したように米と米こうじだけで造られている酒である。ただ、純米酒と名のるにはそれ以外に要件があった。
あった、というのは、以前は精米歩合が規定されていた。純米酒は70%以下、特別純米酒は60%以下で造ることになっていた。現在も特別純米酒については変わっていないが、純米酒は精米歩合は自由になっている。そんなに米を削らずに造っても純米酒とみなす、ということである。
以前は「米だけの酒」と表記したものがあり、純米でありながら特定名称の基準を満たさない酒があった。それとややこしい、という判断からだろう。
まあこれはさほど騒ぐに値しないことかもしれない。米だけで造っていれば「純米酒」であることは間違いなく、看板に偽りがあるわけではない。あまり削らないと雑味が多くて旨くないのだが、ウソをついているわけではない。そのかわり「特定名称酒すべてに精米歩合を1%きざみで表記する」ことが義務づけられた。消費者は精米歩合を見て純米酒を選べばいいのである。
さて、純米酒を語るに当たって、避けて通れない問題がある。それは「米ぬか糖化液精製装置」のことである。
前述したように吟醸などの酒は米を削って造る。大吟醸で50%以下、中には30~40%以下にまで削る造りもある。削ったあとには大量の米ぬかが出来る。多く削れば米ぬかも真っ白だ。
この米ぬかを糖化精製して、みずあめ状のものを作ることが出来る。またもう少し技術を使えば、米ぬかを発酵させてアルコールも造れるという。それを三増酒などに添加するのだ。これはリサイクルでありコストダウンとも言える。
しかし、これら糖類やアルコールは「米」から造られているのである。醸造アルコールは普通、さとうきびなどを発酵して造ったアルコールを用いる。これを添加すれば純米酒とは言えない。しかし添加物も全て米が原料であれば…。
三増酒だって純米酒と言い張ることだって可能となる。米ぬか糖類を使った場合は表示をするとの自主基準は業界にあるらしいが、あくまで「自主基準」である。これはウワサの範疇でしかないけれども、、米ぬか糖化装置は結構出回っているらしい。特定名称酒造りの一つの「抜け道」となっていなければ良いのだが。
これ以外にも、吟醸香を後から付け香した「吟醸酒」なども実際あるらしい。またこれはあってはならないことだが、「アル添純米酒」も存在すると聞く。いやはや情けない現状である。「見抜けない消費者が悪い」と言うなかれ。業界ぐるみで人をたぶらかす姿勢を容認することは出来ない。
真面目に造っている蔵もあるのである。国、国税庁とメーカーはつるんでないで反省し、消費者騙しに走るな。普通酒は「日本酒テイスト飲料」とちゃんと言え。そのかわり国税庁は税率を下げろ。米ぬか糖類を使用したらリサイクルで環境に配慮したと自慢しろ。健全な日本酒業界をしっかりと作り上げてほしいものである。「国民の酒」なのだから。
前回少し言及した世に言う「三増酒」はいつ、そしてなぜ出来たのだろうか。
日本酒のアルコール添加、そして『三倍増醸法』は戦中戦後の米不足で酒を造ることなど出来なかった時代の対策として(酒がないと酒税を徴収することも出来ないから敗戦国家が税収を増やそうとして)始められたものである。これは致し方ないとしても、悪しき慣例として戦後に至ってもそれは継続していた。
僕は、さまざまな酒があっていいと考えている。三増酒だって、それじたいに罪があるわけではない。罪深いのは国、そして国税庁、そして三増酒を「銘酒」と表記して売るメーカーである。
酒には、醸造酒、蒸留酒、混成酒の3つの種別がある。説明は不要だと思うが、醸造酒は穀物ないし果実を発酵させて造る酒、蒸留酒はそれを蒸留し酒精分の濃度を高めた酒、混成酒はその造られた酒に添加物を混入させた酒である。混成酒の代表としては「リキュール」があり、いずれも香味や糖分を添加配合した酒である。
混成酒に分類されるものはまだある。梅酒がそうだ。そして「みりん」も混成酒だろう。
そして、日本酒も純米酒以外は、正にこの「混成酒」であることは疑う余地はない。
だったら、混成酒と表示すればよかろう。なのに本醸造酒のみならず普通酒、そして三増酒までもが「醸造酒」としてまかり通っているこの現状に大いなる問題があるのだ。国とメーカーがグルになったこの状態は許すことが出来ない。
ビール会社のここ数年の企業努力と国との戦いはよく膾炙しているのでご存知の方も多いだろう。税率を下げるために「発泡酒」を造り、最初は不味かったが後にその味のレベルを「ビールと変わらない」程度にまで上昇させ、その発泡酒に増税しようと国がすれば、今度はビールと麦焼酎をブレンドさせて「ビール風味のリキュール」まで登場させた。麦芽以外の原材料を用いた「第3のビール」などいずれもビールではない、と言い続けている。「発泡酒」という言葉はすっかり「庶民の味方」として定着した。
比べて日本酒はどうであろう。国は三増酒も清酒として認め、同様に税金を課す。メーカーは反抗して、「普通酒は日本酒じゃない」と言って税率を下げる運動をすれば「庶民の味方」なのだが、廉価で出来る三増酒が日本酒と同様に売れることをいいことに国と癒着して現状維持を続ける。
吟醸造りは確かに労力がかかる。値段も張る。それとひきかえに三増酒も造ってバランスを取ろうとでもしているのか。あまりにも消費者をバカにしている。
メーカーそして消費者は、「取りやすいところから税金を取る」国に対してもう少しプロテストしてもいいのではないか。三増酒を造り続けるのなら、かつてそれが国の増税対策に使われたという汚名をそそぐ為にも、「庶民の味方の混成酒」として税率を下げる方向に運動してもいいのではないか。ビール会社のように。
僕は、さすがに三増酒は呑みたくない。醸造用糖類の舌にのこるべたつきはいかんともし難く、頭痛を誘発するのも困りものだ。しかし、全否定するわけではない。そういう酒もあっていいし、これは好みの問題だ。日本酒マニアは三増酒を含めた普通酒を目の仇にして撲滅を叫ぶが、僕はそこまで思っていない。撲滅すべきは国と国税庁のズルさとメーカーのプライドの無さだ。純米大吟醸と三増酒が同じくくりにされていて何故怒らないのか。
三増酒は苦手だが、僕は糖類無添加の「普通酒」なら日常よく呑む。毎日吟醸酒ばかり呑むわけにもいかず、それに吟醸は料理に合いにくい(個人的見解)。基本は本醸造だが、懐具合も考えて普通酒だって呑む。この「普通酒」という言い方には疑問が残るが(なんでアル添が普通なのか)便宜上そう呼ぶ。
純米酒絶対主義者や吟醸しか呑まない日本酒マニアにはアホ呼ばわりされるだろうが、普通酒はさほど悪いものではない。糖類や酸味料が入っていればどうも僕はいけないが、アル添だけなら、「日常の酒」としては充分すぎる。吟醸などの「特定名称酒」はハレの日に呑んで、普段は普通酒で良い。料理の味を殺さなければよし。酒とはそうかしこまって呑むものでもなかろう。
問題は表示だけだ。まず「普通酒」と言う名称は止め、添加酒ないし混成酒とちゃんと言ってくれ。そしてアル添何%とちゃんと書け。三増酒はそう大きく表示しなさい。「清酒テイスト飲料」や「日本酒テイスト飲料」という名称で売り出しなさい。消費者はちゃんと中身を知って買う。国は混成酒の税率をもっと下げろ。そういうふうに、「ちゃんと」正常な状態にしてほしいのである。
日本酒のアルコール添加、そして『三倍増醸法』は戦中戦後の米不足で酒を造ることなど出来なかった時代の対策として(酒がないと酒税を徴収することも出来ないから敗戦国家が税収を増やそうとして)始められたものである。これは致し方ないとしても、悪しき慣例として戦後に至ってもそれは継続していた。
僕は、さまざまな酒があっていいと考えている。三増酒だって、それじたいに罪があるわけではない。罪深いのは国、そして国税庁、そして三増酒を「銘酒」と表記して売るメーカーである。
酒には、醸造酒、蒸留酒、混成酒の3つの種別がある。説明は不要だと思うが、醸造酒は穀物ないし果実を発酵させて造る酒、蒸留酒はそれを蒸留し酒精分の濃度を高めた酒、混成酒はその造られた酒に添加物を混入させた酒である。混成酒の代表としては「リキュール」があり、いずれも香味や糖分を添加配合した酒である。
混成酒に分類されるものはまだある。梅酒がそうだ。そして「みりん」も混成酒だろう。
そして、日本酒も純米酒以外は、正にこの「混成酒」であることは疑う余地はない。
だったら、混成酒と表示すればよかろう。なのに本醸造酒のみならず普通酒、そして三増酒までもが「醸造酒」としてまかり通っているこの現状に大いなる問題があるのだ。国とメーカーがグルになったこの状態は許すことが出来ない。
ビール会社のここ数年の企業努力と国との戦いはよく膾炙しているのでご存知の方も多いだろう。税率を下げるために「発泡酒」を造り、最初は不味かったが後にその味のレベルを「ビールと変わらない」程度にまで上昇させ、その発泡酒に増税しようと国がすれば、今度はビールと麦焼酎をブレンドさせて「ビール風味のリキュール」まで登場させた。麦芽以外の原材料を用いた「第3のビール」などいずれもビールではない、と言い続けている。「発泡酒」という言葉はすっかり「庶民の味方」として定着した。
比べて日本酒はどうであろう。国は三増酒も清酒として認め、同様に税金を課す。メーカーは反抗して、「普通酒は日本酒じゃない」と言って税率を下げる運動をすれば「庶民の味方」なのだが、廉価で出来る三増酒が日本酒と同様に売れることをいいことに国と癒着して現状維持を続ける。
吟醸造りは確かに労力がかかる。値段も張る。それとひきかえに三増酒も造ってバランスを取ろうとでもしているのか。あまりにも消費者をバカにしている。
メーカーそして消費者は、「取りやすいところから税金を取る」国に対してもう少しプロテストしてもいいのではないか。三増酒を造り続けるのなら、かつてそれが国の増税対策に使われたという汚名をそそぐ為にも、「庶民の味方の混成酒」として税率を下げる方向に運動してもいいのではないか。ビール会社のように。
僕は、さすがに三増酒は呑みたくない。醸造用糖類の舌にのこるべたつきはいかんともし難く、頭痛を誘発するのも困りものだ。しかし、全否定するわけではない。そういう酒もあっていいし、これは好みの問題だ。日本酒マニアは三増酒を含めた普通酒を目の仇にして撲滅を叫ぶが、僕はそこまで思っていない。撲滅すべきは国と国税庁のズルさとメーカーのプライドの無さだ。純米大吟醸と三増酒が同じくくりにされていて何故怒らないのか。
三増酒は苦手だが、僕は糖類無添加の「普通酒」なら日常よく呑む。毎日吟醸酒ばかり呑むわけにもいかず、それに吟醸は料理に合いにくい(個人的見解)。基本は本醸造だが、懐具合も考えて普通酒だって呑む。この「普通酒」という言い方には疑問が残るが(なんでアル添が普通なのか)便宜上そう呼ぶ。
純米酒絶対主義者や吟醸しか呑まない日本酒マニアにはアホ呼ばわりされるだろうが、普通酒はさほど悪いものではない。糖類や酸味料が入っていればどうも僕はいけないが、アル添だけなら、「日常の酒」としては充分すぎる。吟醸などの「特定名称酒」はハレの日に呑んで、普段は普通酒で良い。料理の味を殺さなければよし。酒とはそうかしこまって呑むものでもなかろう。
問題は表示だけだ。まず「普通酒」と言う名称は止め、添加酒ないし混成酒とちゃんと言ってくれ。そしてアル添何%とちゃんと書け。三増酒はそう大きく表示しなさい。「清酒テイスト飲料」や「日本酒テイスト飲料」という名称で売り出しなさい。消費者はちゃんと中身を知って買う。国は混成酒の税率をもっと下げろ。そういうふうに、「ちゃんと」正常な状態にしてほしいのである。
僕らが酒を呑み出した頃は、酒と言えば、「特級」「一級」「二級」の級別で酒がランク付けされており、そしてまだ「地酒」ブームも来ていなくて、せいぜい「越の寒梅」が知られている程度だったと思う。銘柄はまだまだ「灘の生一本」という言葉が生きていたし、「菊正宗の特級」が最上のように信じられていた時代だ。呑む酒は男なら「辛口」と言えばよかった。酒に関する知識などは嫌われるウンチクの最たるもので、ほぼ相手にされなかったと言っていい。
「越の寒梅」の二級が最高だ、と言う人が居て「どこがです?」と聞くと、「二級酒ってのはさらっとして薄いから二級なんだよ。特級は濃いんだ。だから特級なんだが。けど寒梅は二級がサラリとしていいんだ」と通ぶって的外れのことを言って得々としていた上司を思い出す。そんな人に「これは吟醸なんですよ」と言ったところで「お前はなんにも判っていない」と言われるのがオチだったあの頃から、日本酒の世界はずいぶんと進展したと思う。とあるいわし料理専門の居酒屋で、「この酒は醸造ですから、冷で呑んでください」とすすめられたことも思い出す。「醸造って、本醸造のこと?」と聞き返すと、「もちろん本物です。ニセじゃありません」などと怒られたことも思い出す。意味がわからない。醸造って言葉をどういう意味で使ったんだ。あの居酒屋のオヤジは今どうしているだろうか。
そんな時代も終わり、今や純米だの吟醸だの山廃だのという言葉を知っていないと逆に通用しない世の中になり、居酒屋でも銘柄と種別を指定して注文するのが当たり前になった。地酒も、「越の寒梅」を含む三梅の時代から、〆張鶴、八海山、久保田の新潟シリーズの時代、そして菊姫、天狗舞の石川シリーズの時代、そして諏訪泉の時代、神亀の時代、鶴の友の時代、鄙願の時代、十四代の時代、磯自慢の時代とどんどん移り、今や自分だけ知っている銘柄を指定するのが「通」の時代となった。こうなるともう僕はついていけない。
余談だけれど、今本格焼酎はようやく個別銘柄の時代なのだろうな。伊佐美、森伊蔵、百年の孤独等のいわば「焼酎界の越の寒梅」からようやく脱却し(時間がかかったけど)、さまざまな美味い銘柄を消費者が探すようになった。これもいいことである。プレミアがつく時代は早く終わって欲しい。
世の中はそうやって酒呑み天国となり、まことに結構なことではある。銘柄は相性もありこれが一番とはもちろん言えるものではない。もちろん、一つの蔵元が造る酒の中にも様々な造り方があり好きなものを選べばいいだろう。
酒の造りには前述したようにさまざまに分類が出来る。もう酒呑みにとっては常識のことであるが少し整理してみたい。
分類としては、まず酒の原材料からアプローチ出来る。まず「純米酒」。米100%で醸された酒である。ここが日本酒の不思議なところであり外国人に理解を求めるのに難しいところだ。日本酒が「ライスワイン」であるなら米100%は当たり前だと思うだろう。しかし日本酒はそうでないのが説明に窮するところである。まあしかし国柄と思ってもらわないとしょうがない。
「本醸造酒」とは、米100%の純米酒に少しのアルコールを加えたもの。基本は白米1tに対し120ℓ以下のアルコール添加。好みだけれど、純米酒の重い感じに比してやや軽くスッキリ感じの味になり、こちらを好む人も多い。
それ以外の酒は「普通酒」である。醸造用アルコールが本醸造以上に添加されている。「三増酒」と呼ばれているものもあり、本来の酒である純米酒部分は1/3しかない。3倍に増やすから三増酒なのだ。そんなに薄めればむろん日本酒の味もしなくなるので、糖類や酸味料、ブドウ糖水飴などを添加して味を整える。こうなるともはや「ライスワイン」などとはとても紹介出来ない。
さて、ここで他の日本酒の分類、吟醸酒とか生酒とかに言及していくのが普通だけれども、それはちょっと置いて、普通酒というものについて少しだけ言いたい。立場だけ言っておく。僕は「普通酒」を特に目の仇にしているわけではない。
長くなったのでまた次回。
「越の寒梅」の二級が最高だ、と言う人が居て「どこがです?」と聞くと、「二級酒ってのはさらっとして薄いから二級なんだよ。特級は濃いんだ。だから特級なんだが。けど寒梅は二級がサラリとしていいんだ」と通ぶって的外れのことを言って得々としていた上司を思い出す。そんな人に「これは吟醸なんですよ」と言ったところで「お前はなんにも判っていない」と言われるのがオチだったあの頃から、日本酒の世界はずいぶんと進展したと思う。とあるいわし料理専門の居酒屋で、「この酒は醸造ですから、冷で呑んでください」とすすめられたことも思い出す。「醸造って、本醸造のこと?」と聞き返すと、「もちろん本物です。ニセじゃありません」などと怒られたことも思い出す。意味がわからない。醸造って言葉をどういう意味で使ったんだ。あの居酒屋のオヤジは今どうしているだろうか。
そんな時代も終わり、今や純米だの吟醸だの山廃だのという言葉を知っていないと逆に通用しない世の中になり、居酒屋でも銘柄と種別を指定して注文するのが当たり前になった。地酒も、「越の寒梅」を含む三梅の時代から、〆張鶴、八海山、久保田の新潟シリーズの時代、そして菊姫、天狗舞の石川シリーズの時代、そして諏訪泉の時代、神亀の時代、鶴の友の時代、鄙願の時代、十四代の時代、磯自慢の時代とどんどん移り、今や自分だけ知っている銘柄を指定するのが「通」の時代となった。こうなるともう僕はついていけない。
余談だけれど、今本格焼酎はようやく個別銘柄の時代なのだろうな。伊佐美、森伊蔵、百年の孤独等のいわば「焼酎界の越の寒梅」からようやく脱却し(時間がかかったけど)、さまざまな美味い銘柄を消費者が探すようになった。これもいいことである。プレミアがつく時代は早く終わって欲しい。
世の中はそうやって酒呑み天国となり、まことに結構なことではある。銘柄は相性もありこれが一番とはもちろん言えるものではない。もちろん、一つの蔵元が造る酒の中にも様々な造り方があり好きなものを選べばいいだろう。
酒の造りには前述したようにさまざまに分類が出来る。もう酒呑みにとっては常識のことであるが少し整理してみたい。
分類としては、まず酒の原材料からアプローチ出来る。まず「純米酒」。米100%で醸された酒である。ここが日本酒の不思議なところであり外国人に理解を求めるのに難しいところだ。日本酒が「ライスワイン」であるなら米100%は当たり前だと思うだろう。しかし日本酒はそうでないのが説明に窮するところである。まあしかし国柄と思ってもらわないとしょうがない。
「本醸造酒」とは、米100%の純米酒に少しのアルコールを加えたもの。基本は白米1tに対し120ℓ以下のアルコール添加。好みだけれど、純米酒の重い感じに比してやや軽くスッキリ感じの味になり、こちらを好む人も多い。
それ以外の酒は「普通酒」である。醸造用アルコールが本醸造以上に添加されている。「三増酒」と呼ばれているものもあり、本来の酒である純米酒部分は1/3しかない。3倍に増やすから三増酒なのだ。そんなに薄めればむろん日本酒の味もしなくなるので、糖類や酸味料、ブドウ糖水飴などを添加して味を整える。こうなるともはや「ライスワイン」などとはとても紹介出来ない。
さて、ここで他の日本酒の分類、吟醸酒とか生酒とかに言及していくのが普通だけれども、それはちょっと置いて、普通酒というものについて少しだけ言いたい。立場だけ言っておく。僕は「普通酒」を特に目の仇にしているわけではない。
長くなったのでまた次回。
今年帰省できなくて残念だったのは妻の田舎で義兄と酒盛りが出来なかったことだ。
義兄は実は「日本酒マニア」であって、僕のようにアルコールであればなんでも、というような大雑把な男ではない。本州の端に住んでいて、都会のように銘酒を専門に取り扱うような酒屋とてなく、ネット接続もしていないのでインターネットで購入も出来ない。地道に長年人脈を培って全国の銘酒を取り寄せて賞味している執念のマニアである。尊敬に値するのだ。
酒の呑み方もしっかりしていて、周りが「やれ呑めそれ呑め」のおっちゃんばっかりなのに対し、「酒は味わって呑まねばならない」というこだわりの男であるからして、実に一緒に呑んでいて安心なのだ。いつも飛び切りの吟醸酒を用意していてくれているので、誠に今年は残念至極なのである。
さて、吟醸酒とは果たしてなんだろうか?
普通に言えば、吟醸香と言われるフルーティーな香りと吟味と言われる上質の旨みを持った特別の日本酒のことである。もともとは全国新酒鑑評会に出品して金賞を狙うために杜氏が特別に醸した酒で、一般には出回らないものであった。
大学時代に、となりのゼミの教授が酒マニアで、自宅に遊びに行った際に初めて呑ませて貰った。それは鑑評会用の酒を横流ししてもらったもので、ラベルが貼られていない。教授もどこの蔵の酒かわからないという。一口呑んで、その爽やかな香りと味わいに恐れ入った。アルコール臭など微塵も無く、果実のような香りと舌に残らないサラリとした味わい。今まで「村さ○」や「○老の滝」で呑んでいた必ず頭痛がする日本酒とは全く別物の味わいだった。
その当時はまだ知識も無く、こういう「吟醸酒」が一般に売られていることを知らなかった。社会に出て自分でちゃんと呑めるようになってから、少しづつ味わうようになっていったものだ。しかしいかんせん高価で、おいそれと呑める対象ではなかった。まだまだ量を必要としていた時代でもあったので。
定義的に言うと、吟醸酒と呼ばれるための条件がある。それはまず造り。吟醸酒は時間をかけてゆっくりと造られなければならないということ。醪の段階で低温でひと月ほどかけて造る。醪(もろみ)とはつまり蒸し米や酒母(酵母)、麹、水を仕込んだ段階のもの。これをじっくりと発酵させる。あとは国税庁の基準として、精米歩合が60%以下であるということ。つまり、米の40%は糠として削り落としてしまうわけだ。もったいない話だが、酒造りに適した部分は米の真ん中の「心白」と呼ばれる部分で、外側は雑味のもととなってしまう。したがって、酒にして旨い部分だけを抽出するのだ。50%以下の精米歩合だと大吟醸酒ということになる。
もうひとつあって、それは添加アルコールの量が白米重量の10%以下であるということ。これについてはいろいろ難しいので後日書きたいと思う。むろん醸造アルコールを添加しない場合は「純米吟醸酒」となる。
詳しくはコミックス「夏子の酒」を参照してください。
とにかく手がかかる贅沢な酒だ。しかし最高の味わいを持ち、陶然とした心地に誘ってくれる。
そういう上質の酒を義兄は用意しておいてくれるので、帰省したかったのだが残念だ。また次の機会を楽しみにすることにしよう。
ところで、吟醸酒の呑み方なのだけれども、これは実に困ったことなのだ。何故なら、旨すぎるので「肴」を必要としないからだ。本来は食事の最初に一杯、ないしは食後酒としてあるがままで呑むのが正しい呑み方なのであろう。しかし義兄はいつも何升も用意しているので、必然的に大量に呑むこととなってしまう。むろん「ほとんど何も食べずに」だ。これはなかなかに身体に悪い。たいていはひっくり返ってしまう始末だ。田舎での滞在時間が短いとはいえ、そんなに欲張って呑まなくてもいいものを、といつも反省するのだが、根がいやしいために「今しか呑めない」と思うとついついすすんでしまうのだ。いくつになってもアホだなぁと自省の正月を毎年続けているのである。
義兄は実は「日本酒マニア」であって、僕のようにアルコールであればなんでも、というような大雑把な男ではない。本州の端に住んでいて、都会のように銘酒を専門に取り扱うような酒屋とてなく、ネット接続もしていないのでインターネットで購入も出来ない。地道に長年人脈を培って全国の銘酒を取り寄せて賞味している執念のマニアである。尊敬に値するのだ。
酒の呑み方もしっかりしていて、周りが「やれ呑めそれ呑め」のおっちゃんばっかりなのに対し、「酒は味わって呑まねばならない」というこだわりの男であるからして、実に一緒に呑んでいて安心なのだ。いつも飛び切りの吟醸酒を用意していてくれているので、誠に今年は残念至極なのである。
さて、吟醸酒とは果たしてなんだろうか?
普通に言えば、吟醸香と言われるフルーティーな香りと吟味と言われる上質の旨みを持った特別の日本酒のことである。もともとは全国新酒鑑評会に出品して金賞を狙うために杜氏が特別に醸した酒で、一般には出回らないものであった。
大学時代に、となりのゼミの教授が酒マニアで、自宅に遊びに行った際に初めて呑ませて貰った。それは鑑評会用の酒を横流ししてもらったもので、ラベルが貼られていない。教授もどこの蔵の酒かわからないという。一口呑んで、その爽やかな香りと味わいに恐れ入った。アルコール臭など微塵も無く、果実のような香りと舌に残らないサラリとした味わい。今まで「村さ○」や「○老の滝」で呑んでいた必ず頭痛がする日本酒とは全く別物の味わいだった。
その当時はまだ知識も無く、こういう「吟醸酒」が一般に売られていることを知らなかった。社会に出て自分でちゃんと呑めるようになってから、少しづつ味わうようになっていったものだ。しかしいかんせん高価で、おいそれと呑める対象ではなかった。まだまだ量を必要としていた時代でもあったので。
定義的に言うと、吟醸酒と呼ばれるための条件がある。それはまず造り。吟醸酒は時間をかけてゆっくりと造られなければならないということ。醪の段階で低温でひと月ほどかけて造る。醪(もろみ)とはつまり蒸し米や酒母(酵母)、麹、水を仕込んだ段階のもの。これをじっくりと発酵させる。あとは国税庁の基準として、精米歩合が60%以下であるということ。つまり、米の40%は糠として削り落としてしまうわけだ。もったいない話だが、酒造りに適した部分は米の真ん中の「心白」と呼ばれる部分で、外側は雑味のもととなってしまう。したがって、酒にして旨い部分だけを抽出するのだ。50%以下の精米歩合だと大吟醸酒ということになる。
もうひとつあって、それは添加アルコールの量が白米重量の10%以下であるということ。これについてはいろいろ難しいので後日書きたいと思う。むろん醸造アルコールを添加しない場合は「純米吟醸酒」となる。
詳しくはコミックス「夏子の酒」を参照してください。
とにかく手がかかる贅沢な酒だ。しかし最高の味わいを持ち、陶然とした心地に誘ってくれる。
そういう上質の酒を義兄は用意しておいてくれるので、帰省したかったのだが残念だ。また次の機会を楽しみにすることにしよう。
ところで、吟醸酒の呑み方なのだけれども、これは実に困ったことなのだ。何故なら、旨すぎるので「肴」を必要としないからだ。本来は食事の最初に一杯、ないしは食後酒としてあるがままで呑むのが正しい呑み方なのであろう。しかし義兄はいつも何升も用意しているので、必然的に大量に呑むこととなってしまう。むろん「ほとんど何も食べずに」だ。これはなかなかに身体に悪い。たいていはひっくり返ってしまう始末だ。田舎での滞在時間が短いとはいえ、そんなに欲張って呑まなくてもいいものを、といつも反省するのだが、根がいやしいために「今しか呑めない」と思うとついついすすんでしまうのだ。いくつになってもアホだなぁと自省の正月を毎年続けているのである。
例年正月は妻の実家に何日かはお邪魔している。雪深い青森だ。
津軽の正月というのは面白いもので、メイン行事は31日になる。ちゃんと調べたわけじゃないのだけれども少なくとも妻の実家の集落はみんなそうだ。
31日の昼からもう宴会が始まる。おせち料理といったチマチマしたものではない。まず、鱈を一尾買ってくる。白子が入っていたら最高だ。身は昆布締めにして刺身でいただく。残った頭や骨は、翌日じゃっぱ汁(郷土料理)として出てくる。
その他にもイカやホタテ、ソイなどのさまざまな刺身が並ぶ。一年で最高のご馳走だ。男衆はとにかくそれで酒をかっくらう。なんせ昼間から始めるので時間は無限といっていいほどあり、一升瓶がまわりにゴロゴロした頃ようやく日も暮れ、「年越し」の行事が終わる。それでみんなひとつ「年をとった」ことになるのだ。
翌日はみんな二日酔いだ(笑)。文字通り「寝正月」となる。
津軽の正月料理といえば欠かせないのは「けの汁」という料理。大根や人参、蕗などの山菜などを細かく切って大鍋いっぱいに煮ておく。主婦が正月に楽をするための料理だ。いわばこれが「おせち」とも言える。その他、酢だこ、なまこ酢、こあえ(真鱈の子と人参を合えたもの)など独特の料理がある。結構生ものが多い。寒いので腐らないのだ。むこうでは腐る、悪くなることを「下がる」と言う。鮮度が落ちないように食事が終われば暖かい部屋から土間の台所にすぐにもっていけば「下がる」ことはない。火の気のないところは冷蔵庫より冷える。
初めて参加したときは驚いたものだ。僕の実家の京都では、せいぜい大晦日は年越し蕎麦を食べるくらいしかしない。あくまでメインは翌一日だ。
京都では、絵に描いたような正月を過ごしていた。一日は早朝に起き、初詣を済ませた後家族で集まり「お屠蘇」を祝う。そして雑煮とおせち料理という算段だ。雑煮は京風の白味噌を使ったもの。おせちは、煮しめ、出汁巻卵、ゴマメ、黒豆、棒鱈、カズノコ、紅白ナマス、きんとんなどが重箱に収まる。本来であれば「睨み鯛」などもあってしかるべきだが僕の実家はさほど裕福ではなかったのでそれは無かったが。
家庭によって違うのだろうが、僕の実家では父が呑まないせいで、酒っ気がほとんど無かった。お屠蘇さえも口をつけるだけだった両親では無理もない。妻の実家の酒の消費量を教えたときは両親とも驚いていた。しかし、呑んべの僕にとっては結構津軽の正月は気にいっている。ただ、無性に故郷の正月が懐かしくなるのは致し方ないもので、たいてい一月の第一土日で里帰りするのだがどうしても京都の正月料理と雑煮を所望してしまう。母親も老いてきたので「もう面倒くさい」というのだが、元気なうちはワガママをきいてもらうことにしよう。
今年はどちらの正月にも参加出来ないのは残念であったけれども、まあ来年を楽しみにしよう。
(えっ! 正月にもう来年の正月の話をするのか? 鬼が笑うどころじゃないぞ…)
津軽の正月というのは面白いもので、メイン行事は31日になる。ちゃんと調べたわけじゃないのだけれども少なくとも妻の実家の集落はみんなそうだ。
31日の昼からもう宴会が始まる。おせち料理といったチマチマしたものではない。まず、鱈を一尾買ってくる。白子が入っていたら最高だ。身は昆布締めにして刺身でいただく。残った頭や骨は、翌日じゃっぱ汁(郷土料理)として出てくる。
その他にもイカやホタテ、ソイなどのさまざまな刺身が並ぶ。一年で最高のご馳走だ。男衆はとにかくそれで酒をかっくらう。なんせ昼間から始めるので時間は無限といっていいほどあり、一升瓶がまわりにゴロゴロした頃ようやく日も暮れ、「年越し」の行事が終わる。それでみんなひとつ「年をとった」ことになるのだ。
翌日はみんな二日酔いだ(笑)。文字通り「寝正月」となる。
津軽の正月料理といえば欠かせないのは「けの汁」という料理。大根や人参、蕗などの山菜などを細かく切って大鍋いっぱいに煮ておく。主婦が正月に楽をするための料理だ。いわばこれが「おせち」とも言える。その他、酢だこ、なまこ酢、こあえ(真鱈の子と人参を合えたもの)など独特の料理がある。結構生ものが多い。寒いので腐らないのだ。むこうでは腐る、悪くなることを「下がる」と言う。鮮度が落ちないように食事が終われば暖かい部屋から土間の台所にすぐにもっていけば「下がる」ことはない。火の気のないところは冷蔵庫より冷える。
初めて参加したときは驚いたものだ。僕の実家の京都では、せいぜい大晦日は年越し蕎麦を食べるくらいしかしない。あくまでメインは翌一日だ。
京都では、絵に描いたような正月を過ごしていた。一日は早朝に起き、初詣を済ませた後家族で集まり「お屠蘇」を祝う。そして雑煮とおせち料理という算段だ。雑煮は京風の白味噌を使ったもの。おせちは、煮しめ、出汁巻卵、ゴマメ、黒豆、棒鱈、カズノコ、紅白ナマス、きんとんなどが重箱に収まる。本来であれば「睨み鯛」などもあってしかるべきだが僕の実家はさほど裕福ではなかったのでそれは無かったが。
家庭によって違うのだろうが、僕の実家では父が呑まないせいで、酒っ気がほとんど無かった。お屠蘇さえも口をつけるだけだった両親では無理もない。妻の実家の酒の消費量を教えたときは両親とも驚いていた。しかし、呑んべの僕にとっては結構津軽の正月は気にいっている。ただ、無性に故郷の正月が懐かしくなるのは致し方ないもので、たいてい一月の第一土日で里帰りするのだがどうしても京都の正月料理と雑煮を所望してしまう。母親も老いてきたので「もう面倒くさい」というのだが、元気なうちはワガママをきいてもらうことにしよう。
今年はどちらの正月にも参加出来ないのは残念であったけれども、まあ来年を楽しみにしよう。
(えっ! 正月にもう来年の正月の話をするのか? 鬼が笑うどころじゃないぞ…)
酒をいったいなんのために呑むのだろうか。
人によっていろいろな解釈があるだろう。「味わうため」「酔うため」いずれも正解だと思う。酒というものはずいぶんと人の手がかかって造られている。それはどんな酒でも同じだ。自然界にある穀物や果実から酒精を醸し出すのは大変なこと。だからこそ、自然の恵みと人々の営みに感謝して、あるがままで酒を味わい、酔うべきだと僕は思っている。
しかしこの季節とくにそうなのだが、「会話の潤滑油として」から始まり「相手を酔わせるため」「相手だけを酔わせるため」そして「本音を吐かせるため」「無礼講だと相手を嵌めるため」等々、考えられない目的で酒が消費されている。
酒とはコミュニケーションの道具ではないと僕は思っている。酒は嗜好品だ。それは、ラーメンやコーヒーでコミュニケーションを普通とらないのと同じだ。ただ味わい楽しむために呑むのが正しい。それなのになんで酒はそうはならないのか?
「まあ一杯どうぞ」「ぐっとやってください、ぐっと」「まだいけるでしょ? 遠慮なさらずに」「もっとじゃんじゃん呑みなさいよ」「おい、もっと呑めよ! !」
これではわんこそばをやっているのと一緒だ。ゲームならば楽しいが、酒はもっと自分の好きなように呑ませてくれよ。またそうやって勧めている人の意識下はどんなものなのだろう? 相手をとにかく酔わせなければいけないという強迫観念が刷り込まれているのだろうか。
日本の因習は美しいものが多く文化は守らなければならないが、こういう悪習は改められて欲しいものです。こういう文化社会であるので、勧めない人は気の利かない人間と言われる。
僕も「接待」という仕事をやる。この仕事は正に相手を酔わせていい気分にさせる仕事だ。本当に自己嫌悪に陥る。情けなくて、仕事が終わった後また一人で呑む。接待中は酔うことは絶対無い。
仕事の付き合いも気が重い。呑んだら仕事の話なんかはしたくないのだ。話は会議室か、せいぜい喫茶店まで。だいたい呑んで話して仕事上のいいアイデアが浮かぶわけがないのだ。「ノミニケーション」などと言う言葉がまだ横行しているのは信じ難いが、早く絶滅して欲しい。その点、若い人はそういうところからどんどん脱却している。いいことだ。
「潤滑油」として酒を使わなければ会話が出来ない幼稚な大人から早く卒業しよう。そして、酒の美味さをもう一度思い出そう。夏にさんざん歩き回って汗びっしょりの後に飲む夕方のビール、寒い冬に凍えた身体を溶かしてくれる燗酒、初詣の神社でカワラケで呑む樽の御神酒、満足いく舞台や映画を見たあとでしみじみと呑むブランデー、キャンプで焚き火を前にして呑むバーボン、いずれも美味なはず。
しかしながら、なかなか同じように思ってくれる人は現れず、結局僕は独りで独酌するのがいちばん酒が美味いと思ってしまうのだ。「文士の手酌」で済む友人はなかなか出来ない。
忘年会シーズンのため愚痴っぽいことを少し。
人によっていろいろな解釈があるだろう。「味わうため」「酔うため」いずれも正解だと思う。酒というものはずいぶんと人の手がかかって造られている。それはどんな酒でも同じだ。自然界にある穀物や果実から酒精を醸し出すのは大変なこと。だからこそ、自然の恵みと人々の営みに感謝して、あるがままで酒を味わい、酔うべきだと僕は思っている。
しかしこの季節とくにそうなのだが、「会話の潤滑油として」から始まり「相手を酔わせるため」「相手だけを酔わせるため」そして「本音を吐かせるため」「無礼講だと相手を嵌めるため」等々、考えられない目的で酒が消費されている。
酒とはコミュニケーションの道具ではないと僕は思っている。酒は嗜好品だ。それは、ラーメンやコーヒーでコミュニケーションを普通とらないのと同じだ。ただ味わい楽しむために呑むのが正しい。それなのになんで酒はそうはならないのか?
「まあ一杯どうぞ」「ぐっとやってください、ぐっと」「まだいけるでしょ? 遠慮なさらずに」「もっとじゃんじゃん呑みなさいよ」「おい、もっと呑めよ! !」
これではわんこそばをやっているのと一緒だ。ゲームならば楽しいが、酒はもっと自分の好きなように呑ませてくれよ。またそうやって勧めている人の意識下はどんなものなのだろう? 相手をとにかく酔わせなければいけないという強迫観念が刷り込まれているのだろうか。
日本の因習は美しいものが多く文化は守らなければならないが、こういう悪習は改められて欲しいものです。こういう文化社会であるので、勧めない人は気の利かない人間と言われる。
僕も「接待」という仕事をやる。この仕事は正に相手を酔わせていい気分にさせる仕事だ。本当に自己嫌悪に陥る。情けなくて、仕事が終わった後また一人で呑む。接待中は酔うことは絶対無い。
仕事の付き合いも気が重い。呑んだら仕事の話なんかはしたくないのだ。話は会議室か、せいぜい喫茶店まで。だいたい呑んで話して仕事上のいいアイデアが浮かぶわけがないのだ。「ノミニケーション」などと言う言葉がまだ横行しているのは信じ難いが、早く絶滅して欲しい。その点、若い人はそういうところからどんどん脱却している。いいことだ。
「潤滑油」として酒を使わなければ会話が出来ない幼稚な大人から早く卒業しよう。そして、酒の美味さをもう一度思い出そう。夏にさんざん歩き回って汗びっしょりの後に飲む夕方のビール、寒い冬に凍えた身体を溶かしてくれる燗酒、初詣の神社でカワラケで呑む樽の御神酒、満足いく舞台や映画を見たあとでしみじみと呑むブランデー、キャンプで焚き火を前にして呑むバーボン、いずれも美味なはず。
しかしながら、なかなか同じように思ってくれる人は現れず、結局僕は独りで独酌するのがいちばん酒が美味いと思ってしまうのだ。「文士の手酌」で済む友人はなかなか出来ない。
忘年会シーズンのため愚痴っぽいことを少し。
僕は現在、椎間板ヘルニアで治療中のため禁酒中である。酒を口にしなくなってもうかれこれ4ヶ月になる。22歳で社会に出て以来、こんなに呑まない期間が続いたことはない。おかげさまで肝臓はもう完全にオーバーホールを終えているだろう。以前よりも元気になっているに違いない。体内から「早く酒を! 酒を!!」と急かされているような気がする。…妄想か。
なんでこんなに呑んべぇになってしまったのだろう?
初めてアルコールを摂取したのがいつだったかはもちろん憶えていないが、多分正月のお屠蘇だったと思われる。そのくらいしか機会がない。
我が家は両親が全く呑まない家庭で、うちにアルコールなど常備してはいなかった。オヤジはビール一杯で真っ赤だし、双方の祖父も呑まない。実に不思議だ。母方の曽祖父が大酒呑みだったと話に聞くだけだ。遺伝子はあったのだろうがよくわからない。
それでも昔は弱かった。友人と酒を呑むようになったのは高校生のときだと記憶しているが(おいおい)、その頃は実に弱かった。コンパで呑んではひっくり返り、友人の肩を借りて青息吐息で帰宅したことなどまだ憶えている。まあ高校生だから当たり前とも言えるが。
大学に行くようになってどんどん酒量が増えてきた。20歳を迎える頃にはもういっぱしの酒呑みになっていて、友人の下宿で一升瓶を抱え放吟しながら呑むのが日常になっていた。ただムチャな呑み方をしていたとは思う。記憶を失うことは無かったのだが、後から考えてもどうも説明のつかない行動をとることは多かった。突然川で泳ぎたくなったり(実際泳いだ)、屋根や電信柱に上ったり(実際上った)、バス停を移動させたり(絶対にマネしてはいけない)、道のマンホールが突然憎くなってエルボードロップやニードロップを落としたり(鉄には勝てない)…などと不可解な行動をしたのはその頃。
卒業間際に、2人で3升の酒を呑んだのが最大値だと思う。
社会に出れば、付き合いや接待などで必然的に飲酒の機会は増える。ストレスもあり「ちょっと一杯」の誘惑もあり、なにより自分で自由になる金を稼ぐことができたので、どんどん酒に溺れていったと言っていい(汗)。20代半ばまでは「酒豪」のレッテルを貼られていた。後に追突事故でムチウチ症になるまでこの状態は続いたと言っていい。
ムチウチ症の時は1ヵ月程度で酒を呑めるようになったが、以前ほどの酒量は無くなった。経済的に酔えるようになったのはよかったとしておこう。ただ飲酒の習慣は完全に身に付いて離れず、結婚後も晩酌は欠かせない人間になってしまった。(ヘルニアが完治してまた飲酒が出来るようになれば、更に呑める量は減るのだろうか?)
呑んべぇとなったことには功罪は確かにある。ただ呑むと楽しいので、このブログ内では「罪」の方は切り捨てて話は進めていきたい。
なんでこんなに呑んべぇになってしまったのだろう?
初めてアルコールを摂取したのがいつだったかはもちろん憶えていないが、多分正月のお屠蘇だったと思われる。そのくらいしか機会がない。
我が家は両親が全く呑まない家庭で、うちにアルコールなど常備してはいなかった。オヤジはビール一杯で真っ赤だし、双方の祖父も呑まない。実に不思議だ。母方の曽祖父が大酒呑みだったと話に聞くだけだ。遺伝子はあったのだろうがよくわからない。
それでも昔は弱かった。友人と酒を呑むようになったのは高校生のときだと記憶しているが(おいおい)、その頃は実に弱かった。コンパで呑んではひっくり返り、友人の肩を借りて青息吐息で帰宅したことなどまだ憶えている。まあ高校生だから当たり前とも言えるが。
大学に行くようになってどんどん酒量が増えてきた。20歳を迎える頃にはもういっぱしの酒呑みになっていて、友人の下宿で一升瓶を抱え放吟しながら呑むのが日常になっていた。ただムチャな呑み方をしていたとは思う。記憶を失うことは無かったのだが、後から考えてもどうも説明のつかない行動をとることは多かった。突然川で泳ぎたくなったり(実際泳いだ)、屋根や電信柱に上ったり(実際上った)、バス停を移動させたり(絶対にマネしてはいけない)、道のマンホールが突然憎くなってエルボードロップやニードロップを落としたり(鉄には勝てない)…などと不可解な行動をしたのはその頃。
卒業間際に、2人で3升の酒を呑んだのが最大値だと思う。
社会に出れば、付き合いや接待などで必然的に飲酒の機会は増える。ストレスもあり「ちょっと一杯」の誘惑もあり、なにより自分で自由になる金を稼ぐことができたので、どんどん酒に溺れていったと言っていい(汗)。20代半ばまでは「酒豪」のレッテルを貼られていた。後に追突事故でムチウチ症になるまでこの状態は続いたと言っていい。
ムチウチ症の時は1ヵ月程度で酒を呑めるようになったが、以前ほどの酒量は無くなった。経済的に酔えるようになったのはよかったとしておこう。ただ飲酒の習慣は完全に身に付いて離れず、結婚後も晩酌は欠かせない人間になってしまった。(ヘルニアが完治してまた飲酒が出来るようになれば、更に呑める量は減るのだろうか?)
呑んべぇとなったことには功罪は確かにある。ただ呑むと楽しいので、このブログ内では「罪」の方は切り捨てて話は進めていきたい。
カクテルをいただきに最初にバーを訪れたのは、社会人になって一年くらい経った頃だったと思う。多分漫画か何かの影響だと思うけれど。
地方都市に転勤で住んでいたので、ホテルのラウンジとかではなく、一軒家のバーだった。そこで、疲れたとき短い時間を過ごすことがしばしばあったものだ。
しかし、カクテルには詳しくはならず、まあ頼むものは決まっていた。既に酔っ払って一息つきたいときにはジントニックなどのロングドリンク、そうでないときは定番物しか頼まなかった。つまり、マティーニ、マンハッタン、ダイキリ、サイドカー、というラインナップ。これを気分によって使い分け。まあ、ジンベースかウイスキーか、ラムかブランデーか、といった気分程度のことなのだけど。
バーテンダーさんは初老の人で、余計な事は全く言わない人だった。聞けば教えてくれたけれど。でもまあ、古いジャズが流れる中、心地よい時間を過ごすには丁度いい空間だったので、いつも同じカクテルを飲みながらも充足していたわけだ。必ず、そこは一人で訪れていた。
まあ、特に変わったカクテルを頼まなかったのはこっちの準備がないせい、と言うか、何頼んでいいのかわかんなかっただけというのが正直なところ。マティーニもダイキリも美味しかったし、それで十分だったし、バーテンダーさんに「こんな気分なんですけどどういうのがいいでしょうか?」などと言うキザなセリフは小説かコミックスの中だけだろうともちろん思っていた。
しかし、実際にそういうセリフを言う人っているんだよねぇ…。
いつものようにマンハッタンを飲んでいた夜、僕の近くに腰を下ろしたお客さんは、
「今日○○さんとデートの約束したんだ。最高にハッピー。どこまでも澄んだ青空のような○○さんのイメージでカクテルを一杯ちょうだい♪」
こういう人本当に居るんだ…(汗)
バーテンダーさんも困ると思うのだが、直ぐに作って出していたのは流石だな、と思いました。プロですねぇ。
またあるとき。鼻の下にヒゲを生やした吊りバンドのおっちゃんが、女性連れで現れた。まあ隣の女性は、叶姉妹の姉の顔をかなり長くした、見るからに厚化粧の女性と思ってください。格好も叶姉妹のようにバブリーで背中が大きく出ている。はっきりいって場違いだがそれを言うわけにはいかない。サスペンダーのオヤジは、高笑いをしてごきげん。どうもウマヅラ叶恭子は愛人のようだ。オヤジはとうとう言った。
「彼女のイメージでオリジナルカクテルを作って欲しい」
本当にそんなセリフ言う人が居たとは信じられないが実際に居たのだ。そんなのカクテルにトウガラシとかコショウとかを入れてやればいいのに、と思いながら見ていたがさすがプロのバーテンダーは顔色も変えずに仕事にとりかかっていた。
その後サスペンダーオヤジはカクテルに命名したらしいが、それを聞かずに帰っちゃったのは今でも痛恨だ。
( テスト lintaro's barから転載 )
地方都市に転勤で住んでいたので、ホテルのラウンジとかではなく、一軒家のバーだった。そこで、疲れたとき短い時間を過ごすことがしばしばあったものだ。
しかし、カクテルには詳しくはならず、まあ頼むものは決まっていた。既に酔っ払って一息つきたいときにはジントニックなどのロングドリンク、そうでないときは定番物しか頼まなかった。つまり、マティーニ、マンハッタン、ダイキリ、サイドカー、というラインナップ。これを気分によって使い分け。まあ、ジンベースかウイスキーか、ラムかブランデーか、といった気分程度のことなのだけど。
バーテンダーさんは初老の人で、余計な事は全く言わない人だった。聞けば教えてくれたけれど。でもまあ、古いジャズが流れる中、心地よい時間を過ごすには丁度いい空間だったので、いつも同じカクテルを飲みながらも充足していたわけだ。必ず、そこは一人で訪れていた。
まあ、特に変わったカクテルを頼まなかったのはこっちの準備がないせい、と言うか、何頼んでいいのかわかんなかっただけというのが正直なところ。マティーニもダイキリも美味しかったし、それで十分だったし、バーテンダーさんに「こんな気分なんですけどどういうのがいいでしょうか?」などと言うキザなセリフは小説かコミックスの中だけだろうともちろん思っていた。
しかし、実際にそういうセリフを言う人っているんだよねぇ…。
いつものようにマンハッタンを飲んでいた夜、僕の近くに腰を下ろしたお客さんは、
「今日○○さんとデートの約束したんだ。最高にハッピー。どこまでも澄んだ青空のような○○さんのイメージでカクテルを一杯ちょうだい♪」
こういう人本当に居るんだ…(汗)
バーテンダーさんも困ると思うのだが、直ぐに作って出していたのは流石だな、と思いました。プロですねぇ。
またあるとき。鼻の下にヒゲを生やした吊りバンドのおっちゃんが、女性連れで現れた。まあ隣の女性は、叶姉妹の姉の顔をかなり長くした、見るからに厚化粧の女性と思ってください。格好も叶姉妹のようにバブリーで背中が大きく出ている。はっきりいって場違いだがそれを言うわけにはいかない。サスペンダーのオヤジは、高笑いをしてごきげん。どうもウマヅラ叶恭子は愛人のようだ。オヤジはとうとう言った。
「彼女のイメージでオリジナルカクテルを作って欲しい」
本当にそんなセリフ言う人が居たとは信じられないが実際に居たのだ。そんなのカクテルにトウガラシとかコショウとかを入れてやればいいのに、と思いながら見ていたがさすがプロのバーテンダーは顔色も変えずに仕事にとりかかっていた。
その後サスペンダーオヤジはカクテルに命名したらしいが、それを聞かずに帰っちゃったのは今でも痛恨だ。
( テスト lintaro's barから転載 )