凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

泉谷しげる「寒い国から来た手紙」

2007年03月03日 | 好きな歌・心に残る歌
 ここしばらく、冬の北海道を知らない。
 正確には今年の正月に函館を少し歩いたけれども、なんとなしに入り口で引き返しただけのようにも思う。だから余計に北の国を思う。
 友人が流氷を見に行ったらしい。彼も忙しくてとんぼ返りだと言っていたが、久しぶりに喫茶「停車場」でコーヒーを飲んで満足だったようだ。このおっさんは最近独身に戻り、どうも第二の青春を謳歌している様子。いいことか悪いことかの判断は出来ないが、腰が軽くなることは確かなようだ。

 いつの間に僕はこんなに旅に出ないようになってしまったのだろう。昔は忙しくて土日がまともに休めなかった。なので、続けて休みがあるとまず旅立つことを考えた。忙しくない時期は、毎週末、月4回旅に出た。こんなことをやっていたのでもちろん貯金などなかった(酒の呑みすぎが金欠の原因だったのかもしれないが)。
 体力とバイタリティーが無くなったとは考えたくない。ただ感受性は若い頃と比べて完全に磨耗しているような気がする。
 前述の友人は言う。「でも流氷見たらやっぱり鳥肌が立ったぞ」
 そうだな。気持ちの持ちようなのかもしれない。その友人は年上なのだから。

 その友人が好きな泉谷しげるも今はおじいさんであるらしい。孫と「火垂るの墓」を見ていつも泣いていると言っていた。好々爺だ。時代は移りゆく。だが僕は昔のエレックレコード時代の泉谷しげるなどリアルタイムでは知らない世代で、尖がっているポーズをしている泉谷しげるしか知らないのだ。古館伊知郎に「節度を持った無法者」と呼ばれ、「そろそろ乱入してください」とディレクターに言われて靴を当らないように投げる人。そんな「いい人」のイメージを持ってしまう。僕ですらそうなのだから、今の若い人にとっては、泉谷しげるがフォークシンガーであったことなど全く知らない人もいる可能性がある。
 だが、この人は本来、反骨の人だったはずなのだ。今は爪を隠しているだけであるのかもしれない。

 泉谷しげるが小室等、吉田拓郎、井上陽水とフォーライフレコードを設立したときは僕はまだ小学生。ニュースでその話題を知ったが、泉谷しげるという人をその当時はほとんど知らなかった。もちろん「春夏秋冬」という名曲はさすがに聴いたことがあったけれども、知っていたことはそこまで。

  季節のない街に生まれ 風のない丘に育ち 夢のない家を出て 愛のない人に逢う

 この曲は泉谷しげるの代表曲であり不朽の名曲である。アレンジを変える前の方が心に沁みていい。
 ギターを弾くようになった中学生の頃には、もう泉谷しげるはロック・アレンジを前面に押し出していた。「デトロイト・ポーカー」あたりからリアルタイム。なんて歌詞の聴き取りにくい歌い方をする人だと思った。
 そのあたりから泉谷しげるという人が耳に引っかかりだしてくる。

  地図から見れば我が国は 見劣りするくらい小さく 望みはセコく人一倍 自信を持つほどに のむほどに
  貧しき者は美しく思われ 富あるものは卑しく 夢を語るは禁じられ ただ ただ割り切れと

 「国旗はためく下に」を聴いた時は本当に格好いいと思った。こんな歌を今でも歌える人は…あとは忌野清志郎くらいかもしれないなあ。

  国旗はためく下に集まれ 融通の利かぬ自由にカンパイ
 
 「寒い国から来た手紙」を始めて聴いたのが中学の時か高校の時かは忘れた。いつも歌いおわればギターの弦が2、3本切れているような激しい歌を歌う泉谷しげるにしてはとても優しい曲。

  冬の国から都の隅へ便りが届く 壊れた夢にしがみ付かずに早く帰れと

 故郷から夢を抱いて出てきた若者の挫折。思い切りたいのに思い切れない。故郷の方が寒いはずなのに、この街はもっと寒い。そんな情景が浮かぶ。強がって強がって。
 今、現実にしがみ付いている僕には様々な思いが沸き起こるうただけれども、僕にはもうひとつの情景がまた浮かび上がる。若い頃、感受性の強かった頃に見ていた風景。それが僕の心象風景としての故郷であるなら、その思いは旅をしていた頃の自分に結びつく。

 学生の頃、冬に流氷を求めて北海道を彷徨っていた。オホーツク沿岸に住む人には迷惑とすら言われる流氷も、都会から来た僕のような旅人を気取った若者には憧れだった。
 流氷は、やってきたと思ってもすぐにまた岸から沖に離れていく。紋別に接岸したぞ、と言われて行ってみればもう沖へと離れている。猿払では沖で雄大に流れている風景が見られるぞ、と聞いてやってくれば影も形もない。そんなことの繰り返し。
 稚内で「流氷を見る船」というのに乗ったことがある。流氷を追いかけて沖へと出る船。海に浮かぶ幾万もの氷の塊りを見たくて僕は船に乗り込んだ。船はレーダーで流氷を感知しているはずだから、必ず見られるはず。しかし行けども行けども白く広がる海は見えない。もう領海侵犯じゃないのか? と心配した矢先、ようやく船は流氷群に突入した。亀甲型をしたデカい氷塊が見渡す限りに浮かぶ。さすがに感動した。
 船には、何故か稚内市長が乗っていた。旅の者だ、と言うと、ちょっと話さないかと市長が言う。僕は若かったのだろう。流氷の素晴らしさと、稚内の風景への憧れを市長に大いに語った。市長は「そこまで稚内を好きになってくれて嬉しい」といい、そしてこう言った。「卒業したら稚内に住まないか?」
 もちろん軽口だろう。だがそのとき僕の心は大いに揺れたことを告白する。ひとつの岐路だったと言えば大げさか。でも若気の至りで後に両親に「市長がそういうから行ってもいいか」と相談したことは事実だ。結局そんなことは実現しなかったが。
 その時にも「寒い国から来た手紙」を聴いていた。あの流氷群と泉谷しげるの声が重なり合った情景を記憶している。

 オホーツク海に面したサロマ湖は冬になると完全に結氷する。真っ白に広がる日本第三位の湖であるサロマ湖の向こうに流氷が接岸していると聞き、またやってきた。
 サロマ湖の岸から、海に繋がる砂嘴まで5、6kmはあるのだろうか。そこをノルディックスキーで行く。大変なようでいて、湖の上だから真っ平である。時間はかかるがさほど疲れない。
 砂嘴まで行くと、接岸したばかりの流氷が盛り上がっている。色はあくまで青い。ここに雪が降り積もってしまうと真っ白でなんだかよくわからなくなるのだが、接岸したての氷塊は青い色をしているのだ。美しい。
 持ってきたナイフで流氷を砕き、さらにグラスに入れウイスキーを注いでオンザロック。こういう幸せはなかなか味わえない。帰りはヘロヘロだったが。

  夢はまだ醒めてないからしばらく此処に居る ひねてないのにひねくれてみて無理に出す返事

 流氷を確実に見るなら網走から知床へ向かう海岸線がいい。アムール川から流れ出た氷塊は南下し北海道に当たるのだが、地図で見ればわかるがオホーツク沿岸と知床半島はちょうどその氷塊の受け皿のような地形になっている。なのでここに流氷がたまる。この受け皿のような海岸線に、釧網本線が沿って走っている。かつては勇網線が流氷列車として有名だったが、もう廃線になって久しい。今はこの釧網本線が唯一の流氷列車である。
 僕は釧路から鈍行列車で網走を目指した。斜里駅を過ぎると列車は海沿いを走る。ただ完全に海際を走ってくれるわけでもなく、なかなか流氷を目前に見ることは叶わない。僕は「オホーツクに一番近い駅」として名高い北浜駅で下車した。
 釧網線の網走~斜里間はずっと無人駅が続くのだけれど、その無人駅が活用されて店になっている。こういうのは楽しい。藻琴駅は喫茶「トロッコ」。止別駅はラーメン店の「駅馬車」。 浜小清水駅は軽食喫茶「汽車ポッポ」。そして北浜駅は喫茶レストラン「停車場」である。冒頭に書いた、離婚したおっさんがコーヒーを飲んだのはここなのだ。
 ここは、駅を降りればもう目の前がオホーツク海である。もちろん流氷がドンと接岸している。接岸したてなのか、まだ青さを保っている。僕はやっぱりしばしそこに佇んでしまった。
 ずっと佇んでいては寒いので「停車場」に入り、コーヒー。暖まる。窓からも流氷は一望だ。ただ幸せを噛みしめる。
 しばらくしてそこを出て、徒歩で数分の涛沸湖へと足を伸ばした。ここは冬でも完全結氷せず、白鳥がたくさんやって来ていると言う。それを見にボツボツと歩いた。初夏であればこの涛沸湖の傍には原生花園が広がり、花が咲き乱れるスポットだが今はただ白い原野である。もう黄昏時が迫り、陽は斜光線となってきていた。
 白鳥は居た。鳴き声が煩いほどである。餌となるものを何も持っていなかったのだが、白鳥達は逃げずに寄って来る。
 ふと視線を前方に上げれば、斜里岳が夕陽を浴びて真っ赤に染まっていた。
 よく晴れたこんな日は、雪で真っ白の山に夕陽がまともに当たる。ただでさえ雄々しく聳える斜里岳がこんなに赤く染まる風景を見ることが出来るとは思わなかった。周りは白鳥の鳴き声だけがただ響く。なんと神々しいことか。徐々に山は紫色に色を変え、その向こうに連なる知床連山もまた光り輝いている。こんな風景を見られるとは。僕は日没まで立ち尽くすしか術を知らなかった。

  帰る人より残る人の終わりのない顔 優しい冬がもしあるならそれも見てみたい
  まぼろしよ 早く消えてくれよ 乾いた笑顔は僕には似合わない

 「寒い国から来た手紙」とは全然関係のない話をしているけれども、僕にもうひとつ故郷があるとしたら、あのときの心象風景なのかもしれない、と思ったりもする。あの頃にはもう帰れない。しかし、帰れと叫ぶもう一人の自分が居ることにも気が付いている。気づかないふりをいつもはしているけれども、「寒い国から来た手紙」というのは、あの頃の自分からの手紙なのかもしれないとぼんやりと思っている。

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5 コメント

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いつも手紙を出している。 (まるちゃん)
2007-10-03 11:19:19
まるちゃんも あの頃お金もないのに お休みになると旅に出たよ。
目指したのは いつも寒いところだった気がするな。
一日中電車に乗ってるだけだったことも。
車窓からの雪を見るだけで終わっても 翌週もまた出かけたんだ。
あの頃自分に出した手紙は いつだって『いま』に届いてる。
あの頃と同じ風景は見られない ってことを確認させられちゃうけどね。
そして 今も手紙を書く。
この手紙は もっともっと時間が過ぎてから読むんだろな。
読んで胸が痛くなくなる頃に。
返信する
また手紙が届いたよ (凛太郎)
2007-10-04 22:27:12
僕も手紙を書いているんだ。
昔は書けなかったんだけれどもね。
ここしばらく、ようやく書けるようになったよ。
少しは大人になれたのかな。
だってね。
もっと前だったら、つらくて書けなかったよ。
ふりかえるのがこわかったから。
あの頃の僕と今の僕とは違うってわかっちゃうから。
でもね、それも僕だったってことを認めないと。
前を向いて胸を張るためにはね。
だから一生懸命手紙を書く。
いつだって歩いてきた道を振り返れるように。
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12曲目 (さくぞう)
2011-06-23 08:44:29
12曲目の書き込みになります。
寒い国から来た手紙…
なんか、本当に旅人の歌って気がします。しかも長期放浪型というか、居候型かな?

全ての歌詞に僕なりの思い入れがあります。
歌うたびの決まった風景が頭に浮かんできます。

特に♪帰る人より、残る人の終わりのない顔♪なんてね。
大概の見送りの光景では、帰る人は寂しそうで、送る側は元気一杯って感じですもんね。

最近この曲を聴きたくなってyoutubeを見たらば、拓郎が弾き語りで歌っているのを見つけました。
見事に自分の歌にしている様に見えました。(真横では本人の泉谷が聞いている映像でした)

いやいや、素晴らしい曲ですよね。
とっても単純なコード進行なのに! やはり歌は「詩」なんだろうか?
この曲は泉谷の中では数少ない歌詞を聞き取り易い曲かもですよね。
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>さくぞうさん (凛太郎)
2011-06-24 03:08:58
不思議ですね。僕も、このうたは何故か旅の追憶が重なるんです。別に旅のうたじゃないのですけれども。
僕の心象風景は、記事に書いたとおりです。こんな感じで浮かんできます。

拓郎氏の弾き語り、聴いてきました。あれはあれでいいですねー。うたとしての完成度は高くなったかも。旅の香りがするのは泉谷氏のほうなんですが。^^
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旅の香り (さくぞう)
2011-06-24 08:40:10
>旅の香りがするのは泉谷氏のほうなんですが。^^

そうそう、全くその通りですね!!!
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