凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

さとう宗幸「岩尾別旅情」

2006年04月19日 | 好きな歌・心に残る歌
 さとう宗幸さんという人の名前をこの間話をしていたら若い人は知らなかった。うーむそうなのかもしれないな。「2年B組仙八先生」なんてのはもう四半世紀前の話。ここで生徒だったヤックン薬丸裕英はもう4児の父で「はなまるパパ」だし三田寛子は梨園の妻だ。なんだかつい最近のことのように思うのだけれども時が移るのが早い。(てなことを尤もらしく書いているがプロレスの裏番組だった○八先生シリーズは全然見ていなかった。ヤックンも三田寛子も考えれば同世代だなあ)
 話がずれたけれども、その若い人に、じゃあ「青葉城恋歌」を知っているかと問えば「知っている」とのこと。なんでも合唱コンクールで歌ったらしい。なるほどこの歌はもうそういう位置づけなのだな。

 さとう宗幸さんが「青葉城恋歌」でデビューしたいきさつはよく知られている。
 仙台育ちで当時の「うたごえ喫茶」を中心に音楽活動を始め、一度東京で就職したものの、音楽への情熱止まず仙台へ戻り(ここで東京で音楽活動を始めないというところがいいな)、アルバム自主制作などをしていた。
 仙台のFMでDJをしていたときのこと。番組に寄せられた詩に曲をつけるというコーナーで、名曲「青葉城恋歌」が生まれる。昭和52年のことだった。

  広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず 早瀬躍る光に揺れていた君の瞳
 
 これはよく出来た曲だと本当に思う(何と言う生意気な言い方か)。素晴らしい詩にさとう宗幸さんが渾身の曲をつけた。この曲は発表と同時にリクエストが殺到、仙台を中心にどんどん評価が高まり、翌年全国発売、ついに全国で大ヒットとなる。

  ときはめぐり また夏が来て あの日とおなじ通りの角
  吹く風やさしき杜の都 あの人はもういない

 この詩を書いた星間船一というリスナーの方は今どうされているのかは分らないけれども、心に沁みるうただと思う。過ぎた日の還らない想いを杜の都の風に託して淡々と語るその言葉は胸を打つ。
 こうしてブレイクしたさとう宗幸さんは、その後歌手としてはもちろん、俳優やコメンテーターとして確固たる位置を築いて現在に至っている。

 「青葉城恋歌」で全国デビュー、同時に100万枚ヒットというとんでもない実績は、ややもすれば「一発屋」ということになってしまう。それは「母に捧げるバラード」の武田鉄矢氏も同様だったと思うが、苦労されたのではないかと思う。幸いにして「仙八先生」となり新たな境地を開拓されたのでよかったのだが。
 歌手としては、「青葉城恋歌」に続く二曲目のリリースを知らない人が多い。さとう宗幸さんの他の曲は、仙八先生の主題歌「萌ゆる想い」やCMソングとなった「もっとわかりあえる明日へ」などを挙げる人が多い。
 もちろん知っている人は知っている。宗幸さんの二曲目は「岩尾別旅情」である。

  北の果て知床の吹く風は冷たく 波荒いオホーツクに白いカモメは遊ぶ

 この曲は印象に残ったが青葉城恋歌ほどヒットはしなかった。メロディーが寂しすぎたからかもしれない。当時買っていた音楽雑誌に楽譜が載っていたのでコピーはしたが、僕もしばらくは片隅に置いていた。この曲が再び僕の中で復活するのはやはり、それから何年か経って北海道は知床、岩尾別の宿を訪れてからである。

 初秋の北海道。僕は北海道を自転車で旅していた。最北端宗谷岬からオホーツク沿岸を南下して知床に向っていた。そのときのことは大塚博堂「旅でもしようか」に書いたことがある。
知床に辿り着いた僕は、ウトロよりも少し先の岩尾別にあるユースホステルに荷を下ろした。ここはかつて電気も通っていないランプの宿だった(僕が訪れた20年前は既に自家発電をしていた)。
 この宿に、僕よりさらに何年も前に宗幸さんが訪れて、この「岩尾別旅情」を書き上げて置いていったという。

  丘の上に立つ一輪のエゾニューの花によれば 茜色の空に光る小さな星ひとつ

 その宿では、夜半に宿泊者が集って、毎夜「岩尾別旅情」を皆で歌うことになっていた。古い時代のYHのしきたりであるが、その頃はそれもまた心地よかったものだ。今ではそんな「ミーティング」なる集まりをやっている宿は少ないだろうけれども。
 その地で僕は長逗留した。知床は歩きたいところが多い。知床の話は今までにもあちこちで書いてきているので繰り返すことはやめるけれども、思い出が多い。
 羅臼岳の山頂から見る山々の連なりと国後島。奥深い山懐にある羅臼湖の神々しいまでの美しさ。カムイワッカの目に滲みる湯。知床五湖とハマナスコケモモミックスのソフトクリーム。チニタクルの木彫り。斜光線に映える原生林。キタキツネやエゾシカ。熊の足跡。サケマス孵化場から見る夕陽。満天の星。旅人の笑い声。記念撮影と住所交換。そして歌声。

  「いつの日かまた逢える」と笑顔で別れてきた君の声が今も聴こえる その日までさようなら
 
 「岩尾別旅情」にはあの初秋の北海道の痛切な思い出が凝縮しているように思える。
 さとう宗幸さんは「四つの島から」「ねむるオンネトー」「北の旅」など旅人の歌をよく歌っている。やはりかつてはこの人も旅人だったのだ。

 さて、この「岩尾別旅情」には裏話があるらしい。かつて宗幸さんが大学を卒業して東京で就職していたとき、東京のラジオ局が「岩尾別旅情」を流し、さらにその思い出話を聞きたいと宗幸さんに取材してきたという。その出来事から、宗幸さんの音楽への情熱が再燃して仙台へ戻るきっかけになったという。この話は僕は以前どこかのメディアで読んだ記憶があるのだが出典がはっきりしていない。
 この話が本当だとすると、その時既に「岩尾別旅情」はレコーディングされていたのだろうか。この話はもちろん「青葉城恋歌」など形もない頃の昔。宗幸さんが仙台へ戻って自主制作アルバム「バラ色の人生」を出すのは当然この時より後のこと。どういう経緯で東京のラジオ局が「岩尾別旅情」を流したのだろうか。おそらくラジオ局のディレクターさんが旅人だったのだろうとは思うけれども、詳しい経緯を知っている人は教えて下さらないだろうか?


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中1の教科書 (NAO)
2006-04-21 19:54:28
音楽に「世界に一つだけの花」は、納得

大塚愛の「スマイリー」は、ホ~

でも、国語に小田和正の「僕等の時代」と中島みゆきの「誕生」が載っていたのには驚き

どんな授業をするんでしょうね
返信する
そいつは驚き。 (凛太郎)
2006-04-21 23:02:37
こんばんわ。いつもありがとうございます。

それにしても、バラエティーにとんでますね教科書は(汗)。もはや僕にも授業の想像がつきません。

教科書というのは何年もかけて作るものなので(使用前年に採択業務と展示会、検定はまたその前年、なので執筆作成ともなると3年前になっちゃう)、「スマイリー」が載っている事が本当に信じられません。すごいなぁ。
返信する
お久しぶりです (双子座の男O)
2006-04-22 13:17:24
お久しぶりです。

『岩尾別旅情』いいですよね。

宗さんですが、実はHPの掲示板に質問をしたことがあるんですが、その時、本人からレスをいただきました。

質問内容は、

「『娘をよろしく』と言う曲を歌っているようですが、それは大塚博堂のですか?」

「ジョルジュ・ムスタキの『ある日恋の終わりが』を歌ってますが、それは大塚博堂訳詩でしょうか?それとも高野圭吾訳詩でしょうか?」

「母親に手紙を書いたシチュエーションの歌を聞いた記憶があるんですけど、なんていう曲でしょうか?」

の3つです。

で、回答が

「『ある日恋の終わりが』は高野圭吾さんの訳詩です。『娘をよろしく』は大塚博堂さんのです。『過ぎ去りし想い出は』も歌ってます。私と博堂さんは、お互いにデビューが遅かった同士でウマが合い、生前は親しくさせていただきました。今でも、藤公之介さんと会うと自然と博堂さんの話になりますね。母親の歌は、デビューする前に歌っていた歌かもしれません」

でした。

また、違うときに

「カラオケで『青葉城恋唄』歌ったら、ベンチに腰掛けているひげの人が出てきて、よく見たら本人だった。結構若い映像ですね」

と投稿したら

「懐かしい映像ですね、あれは、映画のシーンで、この映画で船越栄一郎さんがデビューしたんですよ」

と、また本人から、レスがきました。

いい人ですよねえ。

こんな話ばかりしてもあれですので、『岩尾別旅情』の話を。

実は、私、北海道ですが、土曜日の10時頃に、知床のホテルのCMとともにこの曲が流れてきて、すげえいい曲だな!と感じました。

カラオケで『岩尾別旅情』歌いたくなってきましたね。

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ありがとうございます。 (凛太郎)
2006-04-22 16:56:16
見ていて下さっていたのですか。感謝です(涙)。



お話拝見して、非常にあたたかい気持ちになりました。双子座の男Oさんの好きな大塚博堂さんと宗幸さんとのかかわり。

宗幸さんはかつてシャンソンを中心に歌われていたというのは聞いた事がありました。あの美声ですから、感情のこもったシャンソンはよく似合うだろうなと勝手に想像していたのですが、そういえば遅いデビューといい、シャンソンが出発点だったことといい、博堂さんとの共通点がいくつもありますね。



それにしてもやはり「いい人」ですね。この素敵なエピソードを聞き、あのあたたかい笑顔の人は間違いなく善人だろうと思ってはいましたが、それが確信できる話ですね。いいお話をありがとうございました。



双子座の男Oさんは北海道ですか。この「岩尾別旅情」がCMで使われているとは知りませんでした。そうなるとあちらではメジャーな曲なのでしょうね。なんだか少し嬉しくなりました。
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岩尾別旅情レコード (獺流れ旅)
2008-11-11 08:19:35
岩尾別旅情は昭和49年頃に発売されております。
私は昭和48年頃岩尾別YHに泊まり、宗幸さんの岩尾別旅情を知りました。そしてこれがシングルレコードで発売されたことを知り、昭和50年頃、仙台の友人に購入を頼んだのです。しかし売り切れ(発売終了?)で買えずに、レコード屋さんの私有物を拝み倒して譲ってもらい、私の手元に届いたのです。従って、少なくとも昭和50年以前にレコードが発売されていたと思われます。青葉城恋歌のアルバムに含まれている岩尾別旅情とはアレンジが異なり、さらに寂しげな曲でした。
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>獺流れ旅さん (凛太郎)
2008-11-11 23:54:40
本当にご教授感謝致します。なるほどそういうことだったのですか。

やはり「バラ色の人生」よりも以前で、東京から仙台に帰られて少し経たれた頃でしょうか。お話によりますと限定発売の様子ですから、やはり自主制作、今で言う「インディーズ」ですね。
しかし、凄いものをお持ちですね。「お宝」などと安っぽく呼んではいけないほど貴重なものではないでしょうか。
アレンジもさらに寂しげであったと。その寂しさは、昭和61年のもうランプの宿ではなくなっていた岩尾別YHしか知らない僕では本当は分からない寂しさであるのかもしれませんね。

繰り返しますが、貴重なお話を本当にありがとうございました。
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17曲目 (さくぞう)
2011-07-06 11:24:31
17曲目の書き込みになります。
「岩尾別旅情」…
僕が岩尾別YHに泊まったのは、85年8月後半だったかなぁ。
当時僕はまだ、うぶな旅人だったので、斜里からのバスの道すがら沿道に北キツネが見えると感動して写真撮ったりしてましたっけ。
スレてくると「キツネかぁ、また居るワイ、夏のキツネはみすぼらしいのぅ…」なんですけれどね!
「岩尾別旅情」うー、歌ったのかなぁ?記憶が曖昧です。当時はまだ「みんなで歌う」「みんなで遊ぶ」「みんなで踊る」なんて宿は結構ありましたから記憶に残っていないのではないかと思います。
僕の場合は「遥かなる想い」「哀しみのバラード」みたいに宿泊前から知っている歌だと記憶に残るようです。
仙八先生の主題歌「萌ゆる想い」は見ていたので、覚えています。

>番組に寄せられた詩に曲をつけるというコーナーで、名曲「青葉城恋歌」が生まれる。
知らなかったです。下種な話ですが、契約形態によっては、このリスナーの方、巨万の富を得たのかもですね!
まぁ、「一本でもにんじん」のような結末だったのかもしれませんがねぇ…
権利は、ラジオ局とかね!

カムイワッカ…同宿者(男5女3)くらいでわいわい歩いて行きました。始発のバスよりも早く到着しようと、かなり早い時間に出発しました。
今はNGなのでしょうが、みんな裸足で岩場を登って、滝つぼで素っ裸で入浴しました。
先ずは、男衆だけで入ってから、「折角ここまで来て、入らないのは勿体無いよ!幸い我々以外は誰も居なかったので、絶対見ないから今入っちゃいなよ。男が来たらば停めておくからさ」って感じで女性も無事入浴できました。
その間に丁度別の女性のグループが登ってきたので、「今がチャンスです。早く入っちゃって下さい」って入れてあげたら、感謝されましたっけか。

初めてヒッチしたのも知床でした(だって斜里バス高いんですもん!)

一人で真冬の男の涙を下まで降りるなんて、今思うとゾッとしてしまうことも平気でやってました。
どうしても、ひるね岩に上がりたかったし、凍った滝を見たかったのです。
滑って落ちていたらば、凍死か、全身打撲か…ですよねぇ!!!無知とは怖いものです。
足元は内地で買ったスノトレだし、食事は、朝食時に多めに頂いたパン、缶コーヒーと飴玉程度

いやいや、生きていて良かったです。
「生きていてもいいですか」なんてね~!

凛太郎さんて、冬の男の涙行かれましたかぁ?
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>さくぞうさん (凛太郎)
2011-07-07 06:23:43
最初に申し上げておきますが…冬の男の涙なんて行きませんんから(汗)。さすがにそこまでは(笑)。あそこ、降りられても登れるかどうか。
今は確か夏も立ち入り禁止になりましたよね。

多分、85年だと「岩尾別旅情」は歌われていたと思うんです。これで始まり、観光案内と何曲かおりまぜて「おもかげ色」で終わるというパターン。
しばらくしてYHの経営者が代わってしまい、何だか新しい流行歌とかを歌うようになったまでは知っています。以後は行ってません。
カムイワッカも、最近は様相が変わったとか。立入規制や監視員まで居ると聞きます。僕らの時代もあそこは人は多かったわけですが、今思えば牧歌的時代だったのかもしれません。なんせ世界遺産ですからね。
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「おもかげ色」 (さくぞう)
2011-07-07 17:57:11
「おもかげ色」を歌った記憶はなんとなくありますね!

そうですか、男の涙は行かれてませんか?!
でも、当時は当然雪道なのですが、階段状になっていて、下りも登りも難なくできてしまったのですよ!

しかし、折角行ったのに、当然といえば当然ですが、「ひるね岩」には、こんもりと雪が積もっていて上がることさえできませんでしたぁ。

そうですね、男の涙は完全に立ち入り禁止みたいですね!「乙女」も昔は先端まで入れたけれども今は無理になっているようですね!

おっしゃる様に牧歌的だった気もしますネ
(当時はそんな風には思いませんでしたがねぇ~)
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>さくぞうさん (凛太郎)
2011-07-08 05:52:41
へぇ…階段状になってたんですか。それなら行けないこともなかったのかな。夏に行った印象で、冬は相当に厳しいのだろうなと思っていましたので。
僕は、冬の知床は一度しか経験がなく、あまり天候には恵まれなかったのでそれほど多くは出歩いてないんですよー。
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