人生ラベリント

人生は迷路!! 芸術と日常、たまにミスコン・ネタも紹介しちゃうブログ。
最近はバレエ・ネタに執着中😅💦

修士課程奮闘記(5)

2008年05月10日 | 学校
思えば、この修士課程に入学するに当たって、色んな人達にお世話になった。

入学前に受講した短期間の『銅版画教室』に通い始めた頃、2階のロビーで、一見、乞食かと見間違えしそうな、髭ボウボウの小汚い身なりのオッサンに声を掛けられた。
その本人いわく、『美術解剖学』教室の助手を務めていると言う。
凄く親切な人だが、どう見ても教養が有りそうには見えない。

『美術解剖学』??ンン・・・。
兎に角、美術の美の字も知らない状態だったので、修得出来るものなら何でも習得してみたかった。好奇心から興味を示したら、一度工房に見に来いと言うので、早速、工房を覗きに行ってみた。

その工房も『銅版画教室』と同じで、生涯学習コースの為の教室だ。
その工房に習いに来い、来い、と言うが、『2つのコースを一度に習うのは、金銭的に難しい』と言ったら、『だったら、先生に掛け合ってあげる』と言う。
何でも、そのクラスの先生は凄く親切な人なので、もし受講したいのなら授業料をタダにしてもらえるように頼み込んであげる、と言うのだ。

で、その甘い言葉に乗って、のこのこと後に付いて、再度工房を訪問したが、その日はあいにくと別の先生がいた。
せっかく来たんだからと思って、その別の超フトッチョの中年の先生に聞いてみたら、『皆お金を払っているんだから、講座料を払うのは当たり前だ』とけんもほろろに言われてしまった。

そりゃあそうだ。言われるのはごもっとも。
ただ、講座料は、メキシコ人と外人とでは10倍違うシステムになっている。例え生涯学習コースとはいえ、UNAM(メキシコ国立自治大学)傘下の組織なので、指定の規則が有り、当時、確か、半年間(実際は4ヶ月くらい)の講座料が、外人は5万円くらいだったと思う。(メキシコ人は5千円)

払って払えない金額ではなかったが、『銅版画教室』の方で既に支払っていたので、当たって砕けろで、再チャレンジすることにし、別のその親切な先生のいる日に行ってみた。

その工房の先生は彫刻家で、でも、医学部を卒業したドクターだ。
凄い人格者に見えた、80歳くらいの小柄なおじいさん先生で、自分の初めての版画の作品とその下絵を見せたところ、凄く褒めてくれて、『何時でも授業に参加して良いから来い、授業料のことは心配するな』と言ってくれた。

ウァーィ!待ってました~!と小躍りした自分。
一時は、『余りにも図々し過ぎて無理だろう』と半分諦めかけていたので、その言葉を聞いて急に元気になってしまった。

その講座は、月曜日から金曜日まで、1日、確か4~5時間、生徒達でビッシリと埋まっている教室で、授業内容は、先生の説明による『人体解剖学』と、『粘土による人体模型』の制作があるが、他に週2~3回、希望者だけを対象とした『ヌード・デッサン』も行っていた。

この『人体解剖学』の先生の説明は、余りにも生徒が多いのに、先生の声が小さくて聞き取れず、自分は早々と退散してしまい、『粘土による人体模型』は、木の土台に針金で芯を作り、そこに粘土で人体の模型を、既存のモデルを見ながら制作して行くもので、見るよりも実際に作った方のが容易いと思ったが、あんまり面白くなくて途中で尻切れとんぼ状態になってしまった(でも、受講してた中年の婦人が当方の作品を見て、ホントかどうか、これほど旨い作品をここで見たことが無い、と絶賛されたけど)。

他方、ヌード・デッサンは、これは絶対に必要だと思ったので、一回の参加料15ペソ(150円)を支払って、出来るだけ参加するようにした。
しかし当初、若い子達が、いきなり目の前でスッポンポン状態になったのを描くことに戸惑ったものだが、慣れてしまうとなんでもないことだ。彼ら(男女)は皆、ダンスの専門家達で、アルバイトで小銭を稼ぎにきているのだ。

このデッサンはクロッキーで、5~10分くらいでポーズを変えて行くもので、1時間半、ビッチリと描いて行かなければならず、終わるとホント、視界も脳神経も疲れてクタクタになったものだ。

この後、この先生には、直ぐに別のことでお世話になるとは思っても見なかったが、修士課程受験には、美術関係者2名の推薦状が必要で、自分の場合は日本での美術経験が皆無だったので日本に知り合いはおらず、従って、この『人体解剖学』のドクターと『銅版画教室』の美人で親切で気さくな先生の2名に推薦状をお願いすることになり、2名からは、素晴らしい推薦状を用意して頂いた経緯がある。

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修士課程奮闘記(4)

2008年04月29日 | 学校
本課程の新入生の中には、自分以外に日本人は一人もいなかった。
唯一、一級上に韓国の若い女性がいたが、忙しそうにしているにも拘らず、右も左も分からない変な日本人のおっさんを、何かと親身に面倒を見てくれたので、ほぼ倍の年齢の違いなのに直ぐ仲良しになった。

外人と言えば、同期には他に、コロンビア、ベネズエラ、チリ、エクアドル等、一級上には、スペイン、プエルト・リコ、アルゼンチン、チリ等のラテン諸国から勉学に来た人達が多数いた。
つまり、彼ら全員、スペイン語を母国語とする国から来た人達ばかりだったのだ。

従って、彼らにとったら、メキシコは外国とは言え同じスペイン語圏なので、授業自体には何も支障がなく、直ぐに溶け込めているかの様に見えたが、かたや、自分はスペイン語圏に長く滞在して来たとは言え、語学音痴と言うか、先天性ナマケモノで、語学学習の様な毎日コツコツと知識を積み重ねて行く作業は大の苦手で敬遠して来たので、ここに来て、そのツケが一気に露呈してしまったかのようだった。
そんなこんなで、当初から一歩後ろに引き気味の体制で、恐る恐る授業に挑んで行ったものだ。

授業は総てが参加型だ。
引っ込み思案の自分にとっては過酷な現場だった。
ラテン人は、心臓だけでは無く、体中に毛が生えているのかと思うくらい、物怖じせずにドンドン言いたいことを言い、授業に参加して行く。
まったく、神経というものを、持ち合わせていないみたいだ。

兎に角、彼らの授業中の言動には、想像に絶するものがある。
一人が発言すると、他の者達も同調、或いは否定したりして、授業はカンカンガクガク騒然となる。

全員の中で唯一、自分一人のみが雰囲気に圧倒されて、自然と体がスッと後ろに後退して行く。そんな有様だから、周りから見たら浮いた存在だったのだろう。

この参加型の授業の最たるものが、『現代アート・セミナー』だった。
第一回目の授業で伝えられた、『近・現代の美術運動の中から一つ選んで、皆の前で発表する』というショッキングな課題を前に、どうしたら良いものかと思案に暮れてしまった。
思い余って、顔見知りの他の銅版画コースの助手を務めている30代後半の親切な女性に、『いやー、困った』と自分の心境を語って聞かせた。
自分に取ったら、良くある世間話の延長線上で、パニくっている状況を説明したまでのことだったが、とんでもなかった。彼女、気を利かせてしまったのだ。

その翌日だ。
午後、その工房に顔を出したら、その彼女いわく、『もう調整して来たから心配するな』と言う。
つまり、彼女、気を利かせて、と言うよりも、気を利かせ過ぎてしまって、あの後、直ぐに『現代アート・セミナー』の先生のところへ言って代替案を提案し、その先生もその代替案を受け入れた、と言うのだ。
その代替案というものは、授業に参加せずに、代わりに技術習得を目的として『副科』の実習コースを受ければ良いと言うものだった。

で、彼女の指示に従って、直ぐにその先生の事務所兼工房を訪問した。
当方が、未だ美術経験が浅いこと等、一通りの話しが伝わっており、その先生いわく、『副科』のコースを一学期間受けて、その点数を『現代アート・セミナー』の成績にするという。そして、『現代アート・セミナー』の授業は受けなくても良いと言う。

確かに有り難いのだが、しかし、こんなイレギュラーなことをして良いものか、と途方に暮れてしまった。

他方、専科の銅版画実習クラスは、相変わらず休講続きだった。
担当教官は美貌の女の先生だったが、聞くところによると、以前患った乳ガンの後を隠す為に行った整形手術が仇となり、状況を悪化させてしまったそうで、ガンを再発してしまったのだった。

その先生には申し訳ないけれど、自分に取っては不幸中の幸いで、数ヶ月間のこの休講を他の授業に専念することが出来たのだ。
また、その間に、論文と作品制作のテーマについて計画を練ることが出来たし、大枠のコンセプトも構築出来た重要な期間だった。

そして、この頃には、この専科の代替の先生の候補が噂され始めていた。

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修士課程奮闘記(3)

2008年04月22日 | 学校
このテーマ、うっかりしてたら、前回からもう2週間も経ってしまっていました。スイマセン!
もし宜しかったら、前回の『修士課程奮闘記(2)』は4月8日付ですので、興味のある方は再読してみて下さい。
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1年生の1学期の必修科目は、4教科で、『論文研究セミナー』と『専門実習』の他は、『現代アート・セミナー』と『副科』だ。

この『副科』というのは、幾つかのコースのうち、好きなものを一つ選んで受講するもので、1年の1-2学期は主に美術系の技術実習コースが多く、2年目の3-4学期は理論コースが殆どだ。
自分の場合、兎に角、余り負担になるものは避けたく、また、美術の技術経験が皆無に等しいので、『専門実習』コースと同じ分野の銅版画コースで、然も、入学前にチョッと受講した生涯学習の女の先生のところでなら手を抜けそうだったので、彼女のコースを受講することにした。

他方、もう一つのネックになるものが、『現代アート・セミナー』だ。
この授業、第一日目に、もう音を上げてしまった。
先ずこの時点で、当方、近代の美術については、受験時のにわか勉強で仕込んだホンのごくわずかな概要しか理解しておらず、現代アートに至っては全く白紙の状態だったので、1学期間に実施する内容を聞いて、アッ・・・ゼーン!とした。

先生いわく、『当然、皆はこの修士課程に入る前に、専門大学等で近・現代の美術については研究して来ている筈で、言わば、美術のオーソリティーだ。従って、この授業では、現代アートとは何ぞや等と言う馬鹿げた説明はしない。各人、1900年代後半の美術潮流の中から一つ選択して、それについて調査研究したものを、一人ずつ、この授業時間内に発表してもらう。発表の仕方は各自自由だが、パワーポイントを使ったり、云々~~~~。』
グア~~~~、入学しなきゃア良かった・・・・・。
もう、言葉が出ない・・・。

また、『論文研究セミナー』は、もっと大変で、本シリーズの(2)にも記したが、先ず、卒論のテーマと大まかな内容を決めなければならない。
然も、先生いわく、『今学期の後半に、一人ずつ、各自論文の『プロトコル』について、発表してもらう。作品の制作研究も論文に組み込む人は、それも含めること。また、学期終了前に、書き出しの『プロトコル』の箇所を提出してもらう。』

ほーーーんとに、もう、お手上げ状態だ。

唯一、楽なコースは『副科』の銅版画コースだ。
入学前に受講した生涯学習コースで、既に知った顔ぶれが多く、神経を使わなくて済む唯一の場所だ。何時もならば、行くだけ行って、ペラペラ喋って暇をつぶしてから帰っていたのだが、いくら気楽だからと言っても、今回は修士の授業として出席するので、少し気持ちを入れ換える必要があった。

先ず、何をテーマに制作するか、この課題は、論文内容に合致していなければならない。ただ、自分としては、美術の知識に限界があり、自分の表現出来る範囲にも限界があったので、おのずと制作テーマの範囲は絞られて来た。

無理をせずに、自分の気持ちの中から自然に湧き出る表現が、『シンボリズム』的なのは、入学前から気付いていたので、先ず、そこにテーマを絞ることにした。
『シンボリズム』とは、日本語で『象徴主義』と言い、簡単に説明すると、『印象派』の後、19世紀末にパリで興りヨーロッパ全土に広まった美術潮流だ。
例えば、昨年の夏だったか、東京の国立西洋美術館で開催された『ギュスターヴ・モロー展』を見た方なら、どんな感じの作品か分かると思うが、『世紀末芸術』とも言われる類いの作品群だ。
自分の元々の専門が音楽だったので、この表現には凄く同調するものを感じ、これならば無理をせずに調査研究に入って行けそうだった。

ただ、この『シンボリズム』の感覚は日本人には結構受けが良く、シンボリズ的な作品を描く人も多いのに反して、ここメキシコでは、『シンボリズム』等というと、先ず、『シンボル』とごちゃ混ぜにする人が多く、このパリ版の『シンボリズム』については、造詣の無い人が意外に多い事に気が付いた。(*確かに、スペイン語版の『シンボリズム』関連の書籍には、この、パリで興った『シンボリズム』と『シンボル』を中心とした『シンボリズム』の両方が存在する。)

そして、自分が作品を作るのを横で見て、『こいつ、何ンか奇妙なのを作りやがるな』程度にしか感じてないのか、結構受けつけない様子を見せる生徒が多いと感じたが、ただ、これに反して、後で気が付いた事だが、自分に対する先生達の評価はガラリと異なって、可成り好意的に見られていたようだった。

(この項、続く。)

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修士課程奮闘記(2)

2008年04月08日 | 学校
昔から、特に外出する用事がないと、朝起きてからシャワーも浴びず、歯も磨かず、ヒゲも剃らず、ダラダラと一日を過ごしてしまう悪い習慣がある。(キタナ~~~ッ!)
でも、この退廃的習慣は今始まった訳じゃあ無くって、若い時からだから始末が悪い。一度、家でダラダラし始めると、もう最後、縦のものを横にも動かさない、先天的ナマケモノなのだ。

で、こんな自分が50半ばで修士課程に入学したのだ。しかも未知の美術部門に!
今後、どうなるんだろうと、見えない先を考えても始まらないので、頭の中をカラッポにしたまま、取りあえず初日を迎えた。


(*当方が通った学校正面。正面壁左下に、ドナテルロ作『聖ゲオルギウス』の像があったが、数台の屋台が、雨避けテントを張るため、綱をこの像の胴体や首に巻き付けて、その重さに引っ張られて地面に転落!無惨な姿になってしまった。)



ーーーで、学校で先ず安心!
自分の年齢に近い年配層を2~3人見かけたので、『目立たなくって済むーー』と、取りあえず、ホッ!

でも、自分が選択した銅版画の工房に行って焦った。
版画専攻は、確か9名だったか。生徒と言っても、美術大学の講師をしたり、美術の高校で教鞭をとっている人達ばかりだったのだから、モ、顔面蒼白!

でもこのコース、先生の都合で授業の休講が続いたため、シビレを切らした同級生達から文句が出始め、数人が事務局宛の嘆願書を作成して、我々にサインするよう求めて来た。自分としては、付録で入学させてくれた様な意識があったので、入学当初から事務局とガタガタしたく無かったし、余り強硬な姿勢を見せると、我々のみならず、学年全部に被害が及ぶ可能性があるので、文書では提出せずに、口頭で他の先生への振替を依頼する程度にすべきと意見した。

結局、(皆の名前は明記したみたいだが)サイン無しの文書を提出したようで、その後、その女の先生が工房に顔を出して、もの凄く怒っていた記憶がある。
しかし、授業は引き続き休講のままだった。

他方、実習以外に大切な授業が、『研究論文セミナー』だ。
つまり、卒論を書くコースなのだが、受験時に提出した各自のプロジェクトを、より具体的に調査研究しながら実施して行くコースだ。でも、自分の場合、受験時に提出したプロジェクトは全く使い物になら無い代物だったので(無理も無い、何を計画して良いのか全く見当がつかなかったのだから)、コレは、真面目に計画し直す必要があった。

先ず、殆どの生徒が、論文に作品制作を組み込む様式なので、自分もその方法に従うことにしたが、何をテーマにしたら良いのか、さっぱり見当がつかない。
チョッと焦った。

ここでは、みんな、現代アートばかりだ。
でも、自分にとっては、アカデミックなアートだって理解出来てないのに、現代アートを論文のテーマにするなんてことは、100パーセント無理だ。
どーする!?

アア!!入学したばっかりなのに、もうピンチ!!

(この項、続く。)

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修士課程奮闘記(1)

2008年04月03日 | 学校
今日のテーマに入る前に、一点お知らせがあります。
先日から、画像を取入れることが出来ず四苦八苦していた件ですが、やっと、どうにか取入れることが出来ました。
『森理世というミス・ユニバース(続き6)及び(続き7)』から画像を取入れましたので、是非見てみて下さい。より分かり易いかと思います。
では、今日のテーマ。
―――――――

一昨日のことだけど、中古車屋に行って来た。
なんか急に車が欲しくなって、10日前くらいからインターネットの中古車販売欄で適当な物件を捜しては、中古車販売会社巡りを始めている。
でも、何で車なんだ!金が底をついて来たっちゅうのに!!

車を持たなくなってから、はや5年半。
つまり、仕事を退いてから、もう5年半も経つのだ。

以前から、自分としてはなるべく早く仕事を辞めて、アートに没頭してみたいと言う夢があったので、早速メキシコに来て(というか戻って:本件、その内に触れることがあるかと思う)、美術関連の教室を受講してみたくて講座を捜し始めた。とはいっても、当時はただ単に1年程度チョッと息抜きをして、また、その内に仕事を探すんじゃあないかなあと、その程度に軽く考えていたのだが。

で、ある学校に電話して聞いてみると、一般人対象のコースがあると言う。実は、ここが後で入学することになる修士課程の学校だったのだが、当時はこの歳で、今さら授業を受けよう等ということは更々考えもせず、ただ単に、趣味として油絵とかデッサンを習おうとしていただけなのだ。

早速、学校を訪問した。
この学校では、一般人向けの生涯学習コースというか、つまり、カルチャー・センターも併設されている。自分としては、習えるものなら何でも良かったので、先ず、昼の時間帯の講座を中心に捜し始めた。

ソカロ周辺は治安が悪いと言われており、昼は人混みの多い雑多な場所なのに、夜になると、人っ子一人通らない地域に激変するので危険だと多くの人から脅されていたのだ。しかし、当時は、殆どの講座が夕方から夜に集中していた。

事務局で聞いたら、ソチミルコに大学があり、そこでも一般人対象の講座を設けていると言う。そっちにも行ってみたが、結局、安全面と距離面を考慮して、ソカロの学校で、月曜日から木曜日まで、午前10時頃から午後2時頃にかけて銅版画の講座を受けることにした。

凄く感じはいいけど、教え方がメチャクチャいい加減な女の先生だったのだが、習い始めてから2か月くらい経った頃、「○○○(自分のこと)だったら、ここの修士課程に入れるよ」と言われて、「えっ、ウソっ!!」と思った。
全く考えもしなかったことだ。
そもそも、自分の学歴は音楽。日本では、大学で同じ専門分野を修了していることが大学院を受験できる最低条件だが、当地では大学さえ卒業していれば、異なった専門分野の大学院を受験出来る資格があるのだ。

初めは冗談かと思って受け流していたが、ある時、急に気が変わった。(一晩寝たら気が変わる気質。)
「受験して見よう!」

しかし、指定されている書類を提出する期限が目前に迫っている。
それからは、何をどうしたのか忘れたが、バッタバッタと慌ただしい期間を過ごし、期限ギリギリに各種書類を纏めて提出した。中には、自分の作品を写真に収めた作品集も提出する義務があったが、自分の場合は、ここの講座を受講する前には何も美術経験がなかったので、練習で走り描き(ドライポイント)した作品も含めて、たったの4作品のみを提出するのがやっとだった。
つまりは、たったの3ヶ月未満だけの銅版画経験で、受験したことになる。(凄い心臓!)

その後が、また大変。
書類提出後、受験日まで、一ヶ月無い!
受験日2週間前に、やっと手に入れたゴンブリッチ著の西語版『美術史』と、その対訳本(日本題名『美術の歩み』(上)(下))の両方を見比べながら、丸2週間、食材を仕入れに外出する以外は家にカンズメ状態で、朝から晩まで本にかぶりつき、勉強した。
これこそ、マサに『にわか付け』!!
ホンの短期間で、美術史の概要が勉強出来たのだから、落ちても本望だった。

で、合格!!!(嬉し~~~っ!!)
この後、大変な試練が待っているとも知らず!

(この項、続く。)

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