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人生ラベリント

人生は迷路!! 芸術と日常、たまにミスコン・ネタも紹介しちゃうブログ。
最近はバレエ・ネタに執着中😅💦

ラレド音楽学校(2)

2012年05月18日 | 思い出
いやはやFacebookには困ったもンダ。

誰のページでもFacebookのページを開いていると、右下の方から粋なり知り合いからチャットの書き込みが現れたりする。

つまり、Facebookにアクセスしている間、既に『友達』として承認されている相手なら、一方的にチャット要求が出来る仕組みなので、

っっって、つまり~~~居留守は使えないっチュウ訳だから、気が付いたらイヤでも応えチャッてる。

すると、コレが永遠に続くんジャアなかろうかくらいにシツッコかったりするので、モ・・・閉口~~~。(汗)

しかも、中南米向けにスペイン語オンリーに的を絞っちゃっタので、ソロソロど~~しようか、ナンて思っているところダヨ。


と言う訳で、今日のテーマ『ラレド音楽学校』に関係した写真をFacebookに載せたので、ココにも1枚載せておくネ。




この写真の日付が1983年と言うから、今から丁度29年前ダ。

コチャバンバのエドゥアルド・ラレド音楽学校では、我が輩の通常の活動は4本柱だった。

1)高校生対象の授業でグループ・レッスンの『発声法』(15~20名くらい)
2)当学校の教師対象に希望者への声楽の個人指導(もう忘れたけど、確か5~6名いたと思う)
3)外部から募集した生徒への声楽の個人指導(出入りが激しかったけど、可成りいた)

以上が声楽関連で、他に、
4)中学生対象のピアノ個人指導(5名)


さて、今日の写真は、ピアノの5人の可愛い女子生徒を誘って、皆の都合の良い日に、アイスクリームを食べに連れて行った時のものだ。

ボリビアの小学校が5年制なので、中学生とは言え、当時の彼女達は日本で言う小6から中2くらいだったと思う。

皆とても純粋で天真爛漫、でも多少おしゃまで、全く屈託がなかった。


ピアノ・レッスン日のある日、写真右から二人目の生徒(この中では最年少)が、レッスン中に人の足を見て、ビ~~~~~ックリして足を指差しながら『●●●(我が輩の名前、ココではみな名前を呼びつけ)、人前で靴を脱ぐナンて・・・・・ 』と本当にタマゲて言った。

そう、気が付かなかったけど、自分はいつの間にか靴を脱いで、その靴の上に足を載せていたのダ。

その時は、『ヘェ~~~、靴を脱いジャアいけないンだ・・』と、言われたこと自体が初めての経験だったのでフ~~ン と思った程度だったケド、それからズ~~ッと後、2度目に業務でラパスに赴任して、隊員時代からのボリビアの友人が自宅に訪ねて来た時に、何となく履いてたスリッパを脱いで素足でソファーに足を載せたらスッゴくビックリされて、『人前で靴を脱ぐことは人前でパンツを脱ぐに相応しい』様なことを言われちゃった。(汗)

同じラテンでも地域によるケド、マ~~、習慣の違いは大きいネ。




ラレド音楽学校(1)

2012年05月15日 | 思い出
ここのところFacebookに振り回されて、ウッカリとこのブログの更新が滞っチャッてた。

そのホドホドにするつもりのFacebook関連で情報を漁っていたら、思わぬところに辿り着いちゃったりして、その一つが、今日紹介する映像ダヨ。


1994年にメキシコに赴任して少し落ち着いた頃、週末だったんだろうか テレビを付けたらOTI本選会が始まっていた。

そう、中南米では知らない人がいないほど有名なOTIも、日本では余り知られてないかも知れないから簡単に説明すると、『ラテンアメリカ・テレビ機構』(OTI)が主催する歌謡フェスティバルのことで、主に中南米カリブ地域のラテン語圏とスペイン、ポルトガル各国から選出された代表が参加する新曲コンテストで、毎年異なった地域で開催されている。

その日は何となくテレビを付けたら始まっていたので、ただ何となくボンヤリと見ていた。

ボリビア代表はいつ出て来るんだろうか

そんなことを思いながら見てたのは、自分にとって生まれて初めて住んだ外国がボリビアだったからで、青年海外協力隊員として過ごした2年間は特に思いで深く、自然と期待と興味を持って見ていたのダ。


いよいよボリビアの番になり、曲目、作曲者、指揮者が紹介され、そして歌手名が紹介された。

歌い手はヒルカ・グティエレスです。

エエ~~~~~、マ、マサか~~ (汗)

登場した女性は・・・、そう、大分と大人になったけれど、正にヒルカその人だ。

ボリビアの任期が終わったのが丁度10年前だったので、高校2年生くらいだったヒルカが大人っぽくなって当然だろう。

音楽専門学校と同レベルくらいの音楽教育を情操教育の一環として織り込んだ実験校『ラレド音楽学校』(小4~高まで)で、自分が当時受持った高校生を対象とした発声法のクラス(15名程度のグループ・レッスン)に、確か2年生くらいだったヒルカがいた。

元々、チョッとコケティッシュで愛嬌があり、陽気で人なつこくってアッケラカンとした彼女には良く笑わせられたもので、練習してこずに歌の試験を受けた時でも、全く怒るどころか笑ってしまったほど憎めない子だった。

そんなヒルカがテレビで、しかもOTI本選会にボリビア代表で登場したンだから、モ・・ビックリ仰天そのものだった。


と言う訳で、その時の映像をご覧あレ~~

あっ、因に、この時、彼女が歌った曲は6位に入賞したヨ。


GILKA GUTIERREZ EN LA OTI



< http://youtu.be/g0rBNrQzw_g >




今日この頃(94)

2012年04月16日 | 思い出
いや~~、チットも捗ってない部屋の整理。

今日も重い腰を上げて、処分出来る本は何れかと見始めた途端に、手が止まってしまった・・。

っって、この本、



大分前、メキシコに居た時だったか ボリビアの友人から郵送されて来た『ボリビアのクラシック・バレー史』で、この友人、マルタ・トリコが前半を執筆した、言わば、彼女の若かりし頃の伝記物でもあるのだ。



内表紙に『私の愛する特別な友達へ』と記されている。


マルタと知り合ったのは、遥か30年前に遡る。

当時は青年海外協力隊に参加して、ボリビアはコチャバンバ市に位置するエドゥアルド・ラレド音楽学校で多くの生徒に指導していたのだが、生涯学習コースで外部から習いに来たアリシアの妹がマルタだった。

生徒とは言っても、アリシアは当時45歳くらいの一般医(つまり、お医者さん)で4人の子持ち、ダンナも同業の医者だ。

アリシア達とは、クリスマスも含めて良く家に招待してくれたり、ダンナがスペイン語を教えに我が家に来てくれたりと、家族の様に接してくれていた。

そんな訳で、アリシアの家に行く度に、独身のマルタとは良く顔を会わせたもので、2度目にボリビアのラ・パスに赴任した時も、マルタの友人の精神科医、カティア共々、結構頻繁に顔を会わせたものだ。



彼女達とは、更にメキシコでも2回会っている。

当時、頭脳明晰な精神科医のカティアは、ボリビア代表で良く外国の学会に参加しており、更に、カティアの妹がメキシコの病院に勤務する整形外科医だったので、マルタも一緒に遊びに来たのだ。





で、このマルタだけれど、若くしてボリビアのトップ・バレリーナになり、ドイツ政府の招待で給費留学もしたのに、20歳過ぎ頃から脊髄に生まれながらの障害(突起物)があることが判明し、それでも、痛みと戦いながら踊りに没頭したそうだ。

しかし、痛みは日に日に酷くなって行き、手術も数回受けたものの、非常に危険な部署であるところから何も快方には向かわず、遂には踊りを諦めざるを得なくなった辛い過去を背負っている。




自分がボリビア滞在中、2度ばかり、キューバ政府の招待で手術を受けに行き、自分も数百ドル餞別を渡したけれど、当時から、キューバは財政上の大問題を抱えていたので、結局、何もされずに帰っている。

あぁ、そうだ。一度、彼女の生徒の発表会で『白鳥の湖』の2幕を上演すると言うので、我が輩が舞台セット代を全額寄付したことがあったナ~。


と言う訳で、部屋の片付けをしないと・・・。





メキシコの思い出(5)

2011年07月10日 | 思い出
日本の物価高の中でも、生活して行く上で特に困るのが、鉄道やバスの運賃だ。

これらの運賃は、ココ数十年の間に極端に値上がりしている。

最近、ホンの数ヶ月間、東京の版画工房に通ったが、安くない毎月の月謝以上に掛かった交通費には閉口したものダ。

多少の材料費も入れて毎月5万円以上も工房通いだけに掛かるのは、貰っているか貰っていないか分からないくらいの年金生活者にとって、余りにも比重が重過ぎる。

それにつけても、昨年まで滞在したメキシコと日本とでは、ものにもよるけれど、余りの物価の違いに驚く。

例えば、贅沢品が高いのは何処も同じで、日本のが高いものもあればメキシコの方が物により高かったりもするが、これが生活上、最低限必要な『もの』に関しては、国のバックアップが強いメキシコの方が比べ物にならないくらい断然安い。

その代表例が交通費、特に鉄道やバスの運賃だろう。


メキシコ・シティの鉄道と言えば、唯一、地下と地上に網羅したメトロがあり、市民の足として皆から重宝がられている。




市の中心地辺りを軸に、縦横に鉄道網が走っており、今現在も新たなラインが建設され続けているメトロは、その乗車賃の安さはぴか一で、ナンと乗り継ぎも含めて一律タッタの3ペソ(約20円)ダ。

つまり、乗ってから降りるまで、どんなに乗り換えても20円なのだ。

だから、田舎の着の身着のままの人達も乗るので、たま~~には(ホントにたまにだケド)靴を履いてない人を見掛けたり、いつぞやは、混んでいる中で空いている席があったので、何となく座ったら、ヤッタラ臭くって『えっ?ナンだ??』と辺りを見たら、隅に『ウンコ』(大汗)!!!

慌てて席を立ったケド、マ・・色んな人が乗って来て、見てると社会勉強になるヨ。

だから、当然??ヤバい人なんかも乗って来て、スリ・カッパライや恐喝なんかもタマにはあるみたいデシ、用心用心。
自分は被害にあったことは無かったケドネ。


そんな、タダも同然の乗車賃に慣れて来た自分に取って、日本の乗車賃の高さは、驚きを通り越して驚異に値しチャっているので、最近は、東京辺りに出向くのも、何か用事がない限り、成る可く控えている有様だ。

ア~~~~~~、日本って、住みにくい・・・・・。




(参考資料)
http://es.wikipedia.org/wiki/Metro_DF
http://www.metrosdelmundo.com.ar/americadelnorte/mexico/metro-mexico-df.php



ホンジュラスの思い出(2)

2011年02月14日 | 思い出
中米ホンジュラスでお手伝いさんを見つけることは、都会に出て働きたい女性が多い為かさほど難しいことではなかったけれど、往々にしていい加減だったり適当にいつの間にか出来ちゃった子連れだったりで、その実、人選がナカナカ難しい印象を持っていた。

実際に自分の場合、滞在3年間のうち、お手伝いさんは3人替わり、1人目、2人目は共に子連れで、3人目が前出の独身&根っからのクリスチャン&ズケズケ勝ち気のイネスだった。

当時の彼女の年齢は、確か50ン歳。
我が家に来る前は、アメリカに出稼ぎに行って、ホテルの客室清掃係を12年間して、確か1年ほど前にホンジュラスに戻って来てたんだと思う。

彼女も多くの出稼ぎ者同様に、ホンジュラスから陸路でメキシコを経由して、アメリカに不法入国したまま12年間も居座り、それでも、行動半径が職場と住まいと教会だけだったので、警察に職務質問されることさえ無かったそうだ。

この彼女、頭にくると平気でガーガー言う気性の激しさが気になったけれど、人一倍の潔癖さと生真面目さが際立って、その点だけでも、普段仕事で殆ど家を空けていた自分に取っては有り難いことだった。


ある日曜日の朝、寝起きで居間に行くと、(日曜だけ休みなので)何時もならば既に出かけている筈なのにその日に限って未だ外出しておらず、何か言いたそうな感じを受けはしたものの、自分も直ぐに出かけなければならない用事があったので、アタフタと準備をしてイネスのことまでは気が回らなかった。

で、その日の夜、7時過ぎにイネスが凄く疲れた表情で戻って来た。

『オイェ、ナンか凄く疲れてるみたいだけど、どうしたの?』と聞くと、

言おうか言うまいか躊躇した素振りの後で、

『実は、今日はお金を1レンピーラも持ってなかったの。それで、電話台のところに置いてあった2レンピーラ?(いくら置いてあったか覚えてないけど、確か日本円で10~20円くらいなもの)をバス賃に借りたかったけど、セニョールは忙しそうにしてたので言い出せなかったの。』

『エ~~ッ、でも、妹さんの家までどうやって行ったの??』

『徒歩で行ったワ。行きも帰りもだから、さすがに疲れちゃって・・・。』


確か、徒歩だと片道3時間くらい掛かったと思う。

でも、給料を上げているのに、一体どうしたことかと聞き出すと、このイネス、身内を凄く大切にしてて、ダンナのいない子持ちの妹さんに、毎月、給料が出ると直ぐにお金を上げているそうで、その月は特に可愛がっている姪の費用の為に殆どのお金を上げちゃって無一文だったそうなのだ。(*住み込みで食事付きなので、家にいる分にはお金は一銭もかからない。)

そんなイネスに、少しばかり心が痛んで、次回から、そう言う時は必ず自分に言う様にと、念を押しておいたのだった。