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人生ラベリント

人生は迷路!! 芸術と日常、たまにミスコン・ネタも紹介しちゃうブログ。
最近はバレエ・ネタに執着中😅💦

ご無沙汰です。

2009年04月23日 | 思い出
お晩です。

アッと言う間に時が過ぎて行っている様な~~。

ご無沙汰してました!!



今日は、以前~~~の珍事を思い出したので、チョッと紹介してみます。

今から15年以上前のこと。
当時は少しの間、日本勤務でした。




事務所で、去るスタッフから聞かれた。

●●さん(自分のこと)、慰安旅行に行きませんか?


とっさに、言うべきか迷ったけれど、次の瞬間、自分の口から出た言葉^^。

『イヤン!』(いあん)




- - - - -(一瞬の静けさ)- - - - -

- - - の後、



ゲラゲラゲラゲラ~~~~~~!!!



聞きそびれた人達が、

『えっ?今ナンて言った??』

エエエ~~~~、

ゲラゲラ~~~、ギャヒヒ~~~!!!

辺り一面が笑いの渦に覆われて~~~~~、

15分くらいはみんなで笑った!!!


チョッと、コソバユい思いで。




そう言やあ、

別のセクションの若い可愛い女性スタッフから、

自分のことを

『おちゃめ』って形容されたっけか。

でも、『おちゃめ』ね~~~??

コレって、女の子に対して表現する言い回しじゃあなかったっけカ???



チョッと、コソバユ過ぎる思いで~~。


ジュゼッペ・ディ・ステファノの他界

2008年07月10日 | 思い出
この記事は、『ミス・ユニバース』とは関係がないので、悪しからず!
~~~~~~~~~~~

知らなかった。
ジュゼッペ・ディ・ステファノが亡くなっていた。

昨日、当地で発行されている雑誌『プロ・オペラ』に、追悼の記事が載っていたのだ。

ジュゼッペ・ディ・ステファノと言えば、往年の名テナーとして、世界中の多くの人々から慕われたオペラ歌手だ。
でも、分からない方でも、『マリア・カラスがオナシスと別れた後の最後の愛人』と言えばお分かり頂けるかも知れない。

記事を検索して分かったのだが、2004年12月にケニアの別荘(別の記述によると、ケニアで食事に外出した先)で夫人と共に賊に襲われ、意識不明のままミラノまで搬送され、2回の手術を経て、3年数ヶ月に亘る昏睡状態の末、ミラノの自宅で、今年の3月3日に逝去されたという。

ディ・ステファノは、きちんとした音楽教育を受けた方ではなかったが、生まれ持った天性の美声と強靭な声帯、そして、情熱的な音楽性により脚光を浴びた人だ。
ただ、破天荒なハチャメチャな性格の人で、生まれながらの女たらしでもあった様で、普通一般に、声楽に従事している人には理解出来ない様な不摂生も、平気でしていたという。
特に、マリア・カラスとの愛人問題は、家庭内にまで持ち込み(同じ家に、一時、マリア・カラスを住まわせていた)、家庭を破壊してしまった人だ。

昔の録音からも分かるように、若い頃の彼は、リリコ・レッジェーロの輝く美声を縦横無碍に操り、これぞイタリアン・テナーの真髄だと言わんばかりに、我々を魅了したものだ。
自分が音大の学生の頃は、級友の下宿先に数人で集まり、よくディ・ステファノの歌声を聴いて発奮されたものだ。

彼は日本にも馴染みが深く、NHKが招聘した『イタリア歌劇団』の引越し公演に参加したし、リサイタルでも何回か来ていた。(NHKで良く放映されていた。)
メキシコにはもっと馴染みが深く、マリア・カラスがスカラ座にデビューする以前の確か1951年頃、マリア・カラスと一緒にメキシコに来て、『椿姫』その他を歌っている。
それが皮切りとなり、ディ・ステファノは頻繁にメキシコをよく訪れるようになった。メキシコ・シティに長期滞在して、声楽の指導に従事した時期もあったようだ。
本人自身、メキシコを第二の故郷と慕い、然も凄く義理堅い人だった様で、既にオペラからは引退した後年、メキシコで最後のリサイタルを開催している。

実はこの最後のリサイタル、当方、聞きそびれてしまったのだ。
確か、今から10数年近く前だと思った。
仕事でメキシコに長期滞在している頃だ。
車で市内を移動中、偶然、目先に『ジュゼッペ・ディ・ステファノ・リサイタル』の看板が目に入った。
一瞬、目を疑った。
その時は、ディ・ステファノがメキシコと繋がりがある等と言うことは知らなかったし、既に公の舞台からは退いて久しかったので、ホントにビックリ仰天ものだった。
然も、リサイタルの日にちは、『その日』一日のみ!
もう、どんな事をしてでも行きたかったけれど、急のことで(垂れ幕を見たのが当日の午後7時過ぎ)事情が許さず、涙を呑んで諦めた経緯がある。

実はその数年前、休暇を日本に申請して許可され、イタリアに24日間の旅行を敢行したことがあった。(在外勤務って、この点、ラッキーだ。)

目的は、オペラの同期の女友達に会いに(けんか別れしたけど)と、オペラ鑑賞だった。
移動先では真っ先にその地の主要劇場を訪れ、出来るだけオペラのチケットを入手するのを日課にしていたが、ローマ滞在中に、カラカラ浴場で『トゥーランドット』の演目に接することが出来た。
それまで、野外劇場でオペラを聴いたことが無かったので、興味半分で聴きに行くことにしたのだ。
ただ、ホテルからはチョッと遠かったし、不便そうな場所だったので、多少の気後れのまま、タクシーでカラカラ浴場まで行った。
会場は、既に、着飾った人々で溢れかえっており、入口付近には、歴代の『トゥーランドット』関連の衣装やポスター等が展示されていた。
でも、劇場とは違う雰囲気だし、へんぴな知らない場所にいる不安さから、ああ来なけりゃあ良かった、と凄く後悔したものだ。

劇場(浴場内)には、特設舞台と客席が設置されており、人々で溢れかえっていたが、ナンか場違いな雰囲気で落ち着かず、中々始まらなかったので、今ここで立ち去ろうかどうしようかと思い悩んでいた。
殆ど気持ちが外に出る方向に傾きかけて、『出よう!』と思った時に、指揮者が登場して直ぐ第一幕が始まった。

始まって直ぐにカラフ(王子)の登場だ。
有名なテノール歌手なのだが(名前忘れた)、好きな声ではない。
それに、やっぱり野外劇場は良く無い。
野外だから音が飛ぶので、音響装置を使って音声を拡大しているのだ。

この王子がドラを叩くと、待ってました!トゥーランドットの登場だ。
ドラは、氷のように冷たい姫君に求婚した印だ。
但し、トゥーランドットが提示する3つの『謎』が解けなければ、直ぐさま絞首刑にされる。

トゥーランドットは、確か、エヴァ・マルトンだった。
ドラマチック・ソプラノの、この役を歌える歌手は限られている。
なんせ、周りを圧倒する様な、ボリュームのある強い声を要求されるからだ。
でも、このマルトン、アッチコッチでこの役を歌うので、自分もこの時、既に2回くらい生声を聞いていたので、チョッと、『またか』という感じではあった。

1幕が終わって、多少、聞き飽きていたオペラなので、『やっぱり帰ろうかな』と思ったが、もう一幕聴いてからにしようと思い留まり、2幕を迎えた。
2幕の後半と3幕に、『皇帝』役が少しだけど歌うシーンがある。
とは言っても、大した役ではない。
テノールの役だけれど、高音の無い中音域の声域で歌う役で、普通よく、若い頃、テノール歌手としてならした人が歌うことが多く、自分が聴いた経験では、殆どの公演で、声が小さい人が多かった。
で、有名だった歌手が、この役を歌うことは、先ず、無いことだ。

当然、聴く方にしてみれば、全く期待なぞしておらず、物語の成り行きだけを追っていた・・・。

皇帝が歌い出した。
・・・・・え!!???
一瞬、息が止まるかと思った・・・。
そこには、聴きなれた良く響く声が、広い空間を隅々まで満たしている。
まさしく、ジュゼッペ・ディ・ステファノ、その人の声だった・・・。
慌ててプログラムを見た。
ジュゼッペ・ディ・ステファノの名前があった!

驚きと、思わぬ所で出会った感動で、全身に鳥肌が走った。
当時、ディ・ステファノは、公の場からは既に身を引いており、歌っていることすら知らなかったのだ。
既に70歳は越えていた筈だ。
でも、目の前で聴こえるその声は、現役歌手以上の素晴らしい響きのある声だ。
実際、この公演で、一番素晴らしい声を聴かせていたのは、ジュゼッペ・ディ・ステファノ、その人だったのだから、驚き呆れ返る。

帰らなくて良かった!!
思わぬ贈り物をされた心境で、耳に残るその歌声を心に留め、充実した気持ちで、カラカラ浴場を後にしたのだった。

ジュゼッペ・ディ・ステファノ、享年86歳。
感動をありがとう!


野ばら

2008年05月12日 | 思い出
5月7日付けの当ブログで、『二つ目の転機』となった『あること』について述べましたが、今日は、自分に取って、まさに『一つ目の転機』となった本日のテーマ『野ばら』について、遠ーーーい昔を思い出しながら、記述してみたいと思います。

・・・・・・・・・・・
このブログを読んでおられる方なら、当方のことを、『チョッと変わった人』という印象を受けるだろう。思い起こしてみると、確かに『チョッと変!!』だった。

幼稚園生の頃などは、兄達と外で遊ぶ等ということには興味が無く、例えば家で、デタラメな歌を歌いながらデタラメな踊りを踊っていたりと・・、あぁ、あの頃、既に『奇人変人』の兆候があったのかも知れない。

・・・・・・・・・・・
・・・・・我が家は貧しかった。
それでも、未だ当時は父が働いていたし、それなりに生活は成り立っていたのだが、上の兄弟達が絵画教室に通えていたものが、物心ついた時には、家にはそれほどのユトリがなくなっていたので、自分の場合は、習い事等とは全く縁のない幼少時を過ごしていた。

小学校の低学年頃には、一番上の姉と一緒に、小学校や中学校で習う唱歌を毎日のように良く歌っていたものだ。兄弟が使った音楽の教科書が唯一の教材で、姉にあやふやなメロディーを教えてもらって、片っ端から歌っていた。

小学校3年生の時だったと思う。
近所の映画館で、ウィーン少年合唱団が出演したドイツ映画の『野ばら』が上映され、母親に連れられて見に行った。
多分、自分から『見たい』と言ったんだろうと思うけれど、母親にしても、こんな末息子を見て、何か感じるものがあったのだろう。

映画館は盛況で満員だった。
立ち見をしている人達の間をすり抜けて、後ろの方でもどうにか見えるところに立って見始めた。

孤児の、自分と似た様な年齢の男の子が、主人公だ。
拾われたおじいさんに連れられて、ウィーン少年合唱団の寄宿舎、アウガルテン・パレスに行き、入団のオーディションを受ける。
その時に歌うのが、ウェルナー作曲の『野ばら』だ。

この歌は大好きで、もう既に自分でも良く歌っていた曲なので、この男の子が歌い出した途端、余りの感動から、全身に鳥肌が立つのが感じられた。
映画は、全編に亘り名曲の数々で埋め尽くされ、シューベルトの『聴け聴けひばり』やヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』等、既に教科書の末端で見慣れたものも多かった。
そして、上映中、何回も全身に鳥肌が立った、そんな経験は、今では忘れられない遠い昔の懐かしい思い出だ。

当時、我が家にあった音響製品と言えば唯一、ラジオだった。
もう、既に古くボロボロだったが、それからは、そのラジオで『美しき青きドナウ』等のウインナ・ワルツを片っ端から聞き出したものだ。

忘れもしない、小学校4年生に進級したある日。
音楽の先生が、歌の試験を行うと言う。その時の課題曲がこの『野ばら』だった。
自分に取っては歌い込んでいた曲だったし、あの主役の男の子の、力を抜いたボーイ・ソプラノの歌唱方法(ウィーン少年合唱団員の吹き替え)が脳裏に焼き付いていたので、皆の前で自信を持って歌った。

生徒全員の試験を終えた後、音楽の先生が、2人の名前を呼んだ。
一人は、他の学校から転校して来たばかりの男の子で、何でも、地域の歌唱コンクールで2位に入賞したと言う実績を持つ子だ。
で、もう一人が自分だった。

二人に、もう一度、皆の前で歌えと言う。
自分の番になってから、まるでアウガルテン・パレスでオーディションを受けているかのように、先ほど以上に感情を込めて歌った。
今思えば、多分、先生は、何か、感動した面持ちだったようだ。

音楽の授業が終わり教室に戻ってから、今度は、担任の先生が皆の前で、『音楽の先生が、●●●君(自分)は、素晴らしく歌が上手くなったと絶賛していましたヨ』と褒めまくってくれた。
この時の感動と自信は、多分、人格形成期の過程の中で、自分というコンセプトを形作る重要な、そして、最初に出会った大きな要因になったのであろうと自覚する。

しかし、当時は、父親の体調が日に日に悪化して行った時期で、午後の6時頃には、何時も床に就いていた。
当方が小学校5年の時、父が、床で吐血し、それからは入院生活がずっと続くことになるのだが、まさに、極貧へ真っ逆さまに下降して行く序章でもあったのだった。

その頃、当方は、兄姉の音楽の教科書とラジオという唯一ならぬ唯二の教材を基に、既に、シューベルト作曲の歌曲集『冬の旅』、『美しき水車小屋の娘』、そして『白鳥の歌』等を、ラジオで聞き始めていた。

これらの曲は、教科書の末端に載っていた『菩提樹』、『溢るる涙』や『セレナーデ』等から知識を得たもので、誰から教わった訳でもなく、自分でラジオから聴き出したものだ。
たまたま『冬の旅』を聴いていたら、良く歌っていた曲『菩提樹』に出会い、そこで初めて『冬の旅』の一曲であることを知ったり、聞き覚えのあった『セレナーデ』を『白鳥の歌』の一連の歌曲の中に発見したりと、今思えば、小学生にとってはもの凄い出会いだったのだが、音楽の知識も無く、楽器を習っていた訳でもない一小学生に、それら多数の歌曲を理解出来る訳も無く、ただ『好き』という興味が、自分をラジオの方に導き、耳を傾かせたのだった。

因に、『冬の旅』は24曲から成る歌曲集で、『水車小屋の娘』は20曲、『白鳥の歌』は14曲から成る。

当時、ラジオの番組には、『FMリサイタル』等のクラシック音楽を扱ったものも幾つか有り、声楽界の大御所、中山悌一や、毎日音楽コンクールに入賞したばかりの新進バリトン、友竹政則などが、これらの歌曲集を歌っていたので、ラジオに耳を付けて、音量を最小にして良く聴いていたものだ。
何故、最小かと言うと、ちょっとでも音量を上げようものなら、兄達から『ウルセーッ!』と怒鳴られたからだった。


『あること』

2008年05月07日 | 思い出
昨日の当ブログで、ついうっかりと述べてしまった『本当に切羽詰まらないと動かないという悪い習慣は、自分が中学2年生の時に受けた『あること』が動機になっているのかも知れない』と言う件(くだり)について、昨日の約束なので述べることにしますが、実のところ、自分の恥なので本当は述べたくない心境です。

この『あること』を述べるには、そこに辿り着くまでの経過がありますので、その前の状態から述べて行くこととします。

・・・チャンチャンチャンチャンチャン・・・。
タイムトンネルで過去の世界へ~!☆◇▲◎→?&▽♂%★♀♪!

元々というか昔から勉強がダイッ嫌いだった自分だが、実は知能指数は凄く良かったのに、授業を聴いていなかったし何も勉強をしなかったので、当然、大した成績ではなかった。

中学一年生の頃は、背丈がどっちかと言うと高い方だったので、後ろの方の席だったのだが、授業中、顔だけは先生の方を向いているものの、何時もボーーーーッとして、頭の中は『あっち向いてホイ!』ってな感じで、本当にボワボワボワ~状態か、さもなければ、授業とは全く関係の無い別世界の空想にふけっていたものだ。

忘れもしない中学1年生の2学期の修了式の日、クラスの女の先生が通信簿を我々に配る前に、彼女の人生の中で、凄いことに遭遇した様な口ぶりで話し始めた。
『私の教員生活ン十年(確か13年だったか)の中で、今回、初めて、成績が1から5まである人がいました。云々~~。』
後はどんなことを言ったのか覚えていないが、『へ~~、世の中には変わったやつがいるものだ』と、他人事のように聞いていた。

で、その後で、一人ずつ名前を呼ばれて、通知表を受け取ったのだが・・・・、ホントーにビックリたまげた!!
その『1から5』の成績が付けられたのは、何と、自分だったのだ!
自分の名誉の為にも言っておくが、『1』を付けられたのは、後にも先にもこの時だけだったのだが、この『1』は内容から見ても酷すぎると思った。

でも、兎に角、その頃まで、『2から5』と言うのは自分の定番だったので、今思えば、『あっても不思議ではないかな』と言う感じではある。

自分の人生の出発点において、『二つ目の大きな転機』となったのは、まさに2年生になった時だった。(『一つ目の転機』は・・・、コレ、また近いうちに書くこととします。)

クラス替えがあり、新たな同級生達に混じって、初日は緊張した面持ちだ。
当時は内弁慶で、学校では猫を被って凄く大人しくしており、授業中に手を上げて発言するなんていうことは、考えられない行為だった。

初日はホーム・ルームが暫く続き、学級委員を選ぶ段階になった。
先生が先ず、委員になりたい希望者を募ったが、一人も手を上げない。それで、次に『誰か』を推薦することになった。
学級委員長と学級委員を計4名だったか?選ばなくてはならないのだが、当時は学級委員と言うと、絶対的に勉学優秀な生徒しか選ばれないので、自分には全く関係の無い世界で、例の如く他人事のように上の空だった。

頭の中で、ボーーーーーッと音を立てて、一番後ろの席に座っていたのだが、前に座っていた男子生徒が、『ハイ!』っと元気よく手を挙げたかと思うと、後ろを振り返って当方の名札を見て、『●●●君!』と大きな声で自分の名前を呼んだ!!!
『えっ!?うそっ!』・・・・・モ・・・、顔面蒼白・・・。
(委員なんて出来る訳がない。どーしよう。今、断ろうか・・。でも、皆の前で、手を挙げて『出来ません』なんて言えないし・・。いや待てよ、今は推薦だけだ。自分が選ばれるなんて絶対に有り得ないから、もう少し様子を見よう。)

・・ところが、運命とは過酷なもので、あれよあれよと言う間に、自分が委員の一人に選ばれてしまったのだった。
断るにも断れない・・・。
ガーーーーーーーン!!
(頭の中は真っ白・・・。)

学校の帰り、亡霊の如く重い足取りで、家路についた。
もう、全身脱力感。
母親が心配して言った。
『また風邪でも引いたのかい?』
(風邪で熱が出ると、何時も黙り込んでいたのだ。)

こんな『バカ』が学級委員になってどうするんだ・・・。
自分に問いかけても返事は返って来ない。
どうしよう・・・、どうしたら良いんだ・・・。
学級委員は、勉強が出来なければいけない・・・。
勉強?自分に勉強することが出来るのだろうか??
教科書を見たって、何が書いてあるのか全然分からない・・。
●●●は『バカ』だったなんて、誰にも知られたくないし・・。
こうなったら、出来るか出来ないか、兎に角、勉強をしてみるしかない!!!

それまでは、夜の7時頃にはもう寝ていたのに、その日から、毎日毎日、学校から帰ってから、夜の9時頃まで勉強して、勉強して、勉強した!
それまでは、小学校の時から何に~も勉強をして来なかったので、その空白たるや大変なものだ。基礎知識が全くと言って良いほどなかったので、当初は教科書を読んでもチンプンカンプン。

この作業は、主に国語、数学、理科、社会、英語と、全主要教科に亘って行う必要があったので、1教科毎に丁寧に勉強していくゆとりは無かった。兎に角、判っても判らなくても、毎日繰り返して要所要所を『理解するつもり』で読んでいった。
そのうちに、不思議なことに、少しずつ氷山の氷が溶けて形が見えて来るのが感じられ、何か、頭の中が知識で一杯になった様な感覚を覚えたものだ。

その結果・・・、ジャ~~~~ン!
2年の1学期の成績は、一気に7点上がった!
1年の3学期には、さすがに『1』は無かったので、主に主要科目を中心に、2が4になり、3が5に一気にあがったものもあった。
ホントに・・嬉しかった・・・。
職員室に担任の先生から呼ばれて、凄く褒められたことが昨日の如く蘇る。

そして、その勢いに乗って、自然と自分に自身が付き学級委員もこなし、2学期の成績も引き続き良くなったのだが・・・・・・・。

その頃、隣に座ったやたらがたいの大きい男子生徒が、何処そこの公園にはアベックがいっぱい来て、この間ノゾキをしたとか、そんな面白い話しばかりするものだから、自分の耳が『ダンボ』になり、そのうちに、だんだん勉学への気力が失せていった。(ホントに瞬間湯沸し器のお湯状態だ。)

元々、勉強をすることが習慣ずいていない、にわか仕立てだったので、勉強をしなくなるとメッキは直ぐ剥げてしまう。
3年生になって、周りが受験勉強に熱中し出し、『参考書を何冊終えた』等と言う話しを聞くと、『へぇ~、凄いなぁ』と丸で他人事のように我関せずで、頭の中は、また、ボーッ。増々、勉強への関心が失せていったものだった。

この時の経験は、『何時でも出来る』という妙な自信として自分に定着してしまい、『土壇場で何かをする』習慣が、年齢を増すと共に増々酷くなり、最近では、本当に切羽詰まっても尚、『まだ大丈ブイ!』みたいな、『先天性グーダラ性格』が露呈して、自分に拍車をかけてしまっているこの頃です。

モ・・、どうしようもないネ。