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夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

三島由紀夫「橋づくし」を歩く

2005年08月19日 | 読書
三島由紀夫 (近代浪漫派文庫)
三島 由紀夫
新学社
私は月に一度くらい、同じく三島ファンの友達と三島作品について一篇ずつ話し合う読書会をやっている。メンバーは35歳から73歳までの老若男女。職業も主婦から会社員までさまざま。

昨年夏は、特別イベントとして、短編「橋づくし」の道行を辿る、という行事を企画した。

「橋づくし」は、十五夜に、願い事をしながら無言で所定の橋を全て渡るとその願いがかなうという言い伝えを、柳橋の二人の芸者と料亭の早大生の箱入り娘とその使用人の女4人が、それぞれの願いを抱えて、銀座の7つの橋で実践するという物語だ。

十五夜というわけにはいかないが、みんなでこの小説の通りに歩いてみよう、という企画である。

小説の通り、三吉橋からスタートしようとしたのだが、橋の袂に「橋づくし」の文学碑を発見し、一同記念撮影。
ここからは一言もしゃべってはいけない。

橋を渡る前と後に手を合わせる。

次は築地橋。
入船橋
暁橋
聖路加病院のところに来た。

この次の堺橋が見当たらず、困った。

大体、文庫本を片手に歩くが、そこに出てくる川の水はなく、埋め立てられて道路になっていたり、何の用途にも使われていない場所もあり、風景はすっかり様変わりしているのだ。
しかし、言葉を発すると願が破れるので、一同無言で探す。
公園のようになっていて、最後の備前橋はすぐそこにあるのに、どうしても橋が見つからない。
しかし、土の上に、板を張り欄干のようなものが両端にある部分を発見、これかもしれないということでこれを礼をして渡る。

最後の備前橋を渡ったら、そこは築地本願寺の前。
三島の葬儀が行われた場所というのも符牒である。

一同、何とか無事に終えて、ほっとした。

なお、原作では、芸者の一人は腹痛でretire、もう一人は知り合いの老妓に声をかけられ破願、早大生の娘は最後の橋の袂で警官に不審尋問され失敗、結局、母親の言いつけで付き添いに連れて来た女中のみなだけが成功するが、一見愚鈍な田舎娘に見える彼女は、ただの付き添いでありながら、不審尋問にも頑固に黙りとおして主人に答えさせるなど、願かけを誰よりも周到に冷静に貫徹した、という、三島らしい人間洞察のある見事な短編である。

願い事は他人にいってはいけないので、ここには書かないが、それは実現し、時々自殺を考えるほどつらい職業生活においても、一条の光になったということだけ付言しておく。

読書会の友達は、「あんな楽しいことは本当になかった。また何か企画して」と何度もいうので、現在検討中。
季節が良くなったら、本郷、水道橋、後楽園等の「天人五衰」に出てくる場所めぐりでもしようか、と思案している。馬込文士村散策もいいなあ。

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功名が辻・関ケ原

2005年06月23日 | 読書
NHK大河ドラマ 功名が辻 第一巻 [DVD]
司馬遼太郎,大石静
ジェネオン エンタテインメント
功名が辻 1 (文春文庫 し 1-17)
司馬 遼太郎
文藝春秋
写真は、千代の生地として有力視されている郡上八幡にある銅像。

大好きな上川隆也が主演する来年の大河ドラマ『功名が辻』を読んだ。

しかし、山内一豊は人がいいだけで、妻のアドバイス等と関が原前夜の家康へのゴマすり(本書では書いていないが、後述の『関が原』には、さらにそれが井伊直政のアイディアを盗んだものであることがわかり、ますますとほほ…)で出世したかなり情けない人物として描かれていてちょっとがっかり。
四国に国入りしてからの、長曾可部家の家来へのだまし討ち・虐殺なども、ちょっとひどい。お茶の間向けのドラマでどうごまかすのだろう。

豆知識:
例の馬は、買ってすぐに、小牧長久手(今万博やっている所)の戦いでなくした。
高知という地名は、築城した場所が沼地で「河内」といったのの漢字をかえた。
名古屋と四国に多い祖父江さん、実は一豊の家老の名。得心。
名古屋に多い乾ももう一人の家老。ちなみに板垣退助の最初の名は乾退助


『功名が辻』で関が原前夜の攻防が描かれ、興味を持ったので、同じく司馬遼太郎の『関が原』全三巻も読んだ。

30年近く前の、加藤剛、松坂慶子主演の長時間ドラマでは、主人公石田三成は聖人君子のように描かれていたが、原作では、もっと人間くさい。

というよりも、私自身に似ていると思われるキャラクターで、とても他人事と思えなかった。

「人は利のみで動き、利がより多い場合は、豊臣家の恩義を古わらじのように捨てた。小早川秀秋などはその最たるものであろう。権力社会には、所詮義はない」

「孟子は列強のあいだを周遊し、孟子もまた騒乱世に生き、権力社会にはそういう観念や情緒が皆無であることを知り、みずから空論であると気づきつつもないものねだりをして歩いたのであろう」

「三成という男がこれほど明敏な頭脳をもちならが、人間に対する認識が、欠落したようにくらい」

「彼は潔癖で、激しく不正を憎んだがそれは狭さに通じた。そして、人情に逆らうところがあったため、横柄者というそしりを受けた。」

能力もあり、私心もなく、公正・清廉潔白に仕事をやっているのに、なぜか敵を作る。
関が原の家康の勝利は、豊臣恩顧の大名、加藤清正らを味方にできたことに多くを負っているが、朝鮮戦役での三成の報告(彼らに言わせれば告げ口)により、秀吉に蟄居を命じられたことを逆恨みし、ただひたすら三成憎しの思いから、豊臣家への忠義すら二の次になったのだ。三成にすれば、一切の私心なくやるべき職務を果たしただけなのだろうが、無駄に敵を作ってしまい、それが致命傷になったのだ。

その報告とは、清正が和睦交渉を邪魔しているという報告なのだが、清正が明の使者に対して、豊臣姓を下賜されていないにも関わらず、豊臣清正と署名したという動かぬ事実があり、明らかに三成に正義はある。
「○○されていないにもかかわらず、××と署名した」とか、「蟄居を命じられた」とかいうのが、また…。

新旧執行部への私への憎しみも、これに類したものなのだろう。
人間の社会というのは、正しいか正しくないかとは違う論理が支配しているということが、自分の身に引き寄せてもよく頭では理解できる。
しかし、それがどうしても心で納得できないから、私の苦悩は果てしないのだ。

処刑直前に「水がほしい」と所望し、「柿ならあるが」といわれたら、「柿は丹毒によくない」といって笑われたというのも、私でもこういうことをいいそうだ。

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社



司馬遼太郎は、歴史上の人物の造型が非常にうまく、それを現代の自分の状況にも当てはめることができるところが、サラリーマンに受けるのであろう。

『項羽と劉邦』を読むと、自らが有能なplayerであるよりも、自らは無能でも、有能な部下が回りに集まるようにした方が成功する、という組織における真理を何より雄弁に物語っている。これって、義経と頼朝の関係にも似ている。
『国盗り物語』は、信長と光秀というタイプの全く違う天才がたまたま主従の関係になったことによる悲劇を描いている。
『花神』の大村益次郎像は、有能な実務家というのがすなわち有能なマネージャーではないという真実を語る。

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三島由紀夫展

2005年06月21日 | 読書
今年は三島由紀夫生誕80年ということで、神奈川近代文学館で、特別展示や連続講演会が行われた。

私は単なるアマチュア研究者だが、学生時代から研究会で田中美代子先生とも親しくさせていただいているし、山中湖の三島由紀夫文学館で毎年行われるシンポジウムにたびたび参加させていただいている。今、山中湖の文学館の中心的な人物である佐藤秀明氏や井上隆史氏とも懇意にさせていただいており、今回、招待券を頂戴した。

特別展は、この二人が監修しているだけあって、非常に見ごたえのあるすばらしい内容だった。
それぞれのテーマにつけられた説明も、よく整理され、調査された結果をうかがわせるものだった。
三島由紀夫展は、大規模なものとしては、亡くなる直前に東武デパートで、1979年に伊勢丹デパートで、行われたことがある。
伊勢丹のときは高2だったけど、もちろん行って、月の小遣いとほぼ同額のカタログも買って、今も大切に持っている。

今回の特別展で気づいたことを:
○自決直前に投函したドナルド・キーン氏宛の遺書が、コロンビア大学から提供されていた。本物を初めて見たが、胸に迫る内容だった。
キーン氏の講演会には何度か参加したことがある。
数年前、世田谷で行われた講演会で私が質問したら、帰りに、年配のご婦人に声をかけられた。
その後、澁澤龍彦の夫人だった矢川澄子氏の訃報に接し、写真を見てあのときの方だと知った。
○「春の雪」の冒頭に出てくる日露戦争の「得利寺附近の戦死者の弔祭」という写真の実物が見られたのも感激だった。
○私もよく知っている収集家の提供した楯の会制服・制帽、ちょっと虫食いがあるのがご愛嬌。
○三島が、「理解」という言葉を、「理会」と表記するのが気になっていたのだが、昭和15年の東文彦宛の書簡では、「理解」となっており、いつ頃から表記を変えたのか、調べてみたいと思った。
○昭和22年12月の高文試験の結果が、167人中138位というのにちょっと驚いた。当時はそれくらいの成績でも大蔵省に入れたのだろうか。川端康成宛の書簡に「日本勧業銀行の入社試験に落ちた」と書いてあった(それを見て、縁を感じてうれしかった。三島の影響も多分にあって文三から法学部に転部したが、大蔵省に就職するところまでは真似できなかったが、三島が落ちた会社には入れた、ということか)から、当時はそんなものなのかもしれない。
三島の作品の構造的な完璧さは、東大法科時代「刑事訴訟法の構造的な美しさに魅せられた」という三島(団藤先生は、「三島が刑事訴訟法でなく刑法に魅せられたなら自決しなかっただろう」と述べたらしい)だが、実体法の勉強にはそれほど才能がなかったのか、「豊饒の海」第三巻「暁の寺」に、びっくりする記述があった。弁護士本多繁邦が受任した製造物責任の事件で、薬が変質していたことを説明した後、「こうした民法上の不法行為は債務不履行で処理されるべきものが、向うは刑法上の詐欺罪で訴えてきた」という叙述があったのだ。
民法上の二大請求原因の区別がまさかついていないのでは?とかなりショックを受けたものである。
私も実は法律の試験勉強は苦手だった。(今でも苦手だからNYBarも苦労した)
小学校から大学2年までは、とくに試験勉強をしなくても、授業に出るだけで試験でいい成績が取れたのに、法学部に進学したとたん、相当な量の勉強をしなければ単位をとれなくなった。それまでは、「勉強があるから、したいことをする時間を削る」という発想がなかった、つまり、学校の課題以外の勉強を家でやることはなかったのに、生まれて初めて「勉強というのは、ある程度の量をこなさなければならない力仕事だったのだ」と気づいたのだった。
私は法律の研究は向いていても勉強は向いていないのかもしれない。
三島もやっぱり苦手だったのか…ということで正当化してはいけないのだが。
○初めて映画化された作品が「純白の夜」(木暮実千代主演)だったことを初めて知った。

講演会は、島田雅彦、堤清二、猪瀬直樹のに参加した。

島田氏は、自分の著書の宣伝ばかり(「豊饒の海」へのオマージュという三部作は、はじめの「彗星の住人」を読んだだけでひどいのでやめた)で、しかも、「春の雪」のキーワード中のキーワードである「勅許」(浅田彰も「構造と力」でこの点を取り上げているくらいだ)を、「ちっきょ」と読んでいるのが噴飯物だった。同業者なのに車谷長吉を「くるまたにちょうきち」と読んでいたしね。もう少し、勉強しろ、といいたい。

堤清二氏の話は、自決当日の話等、三島を身近で知っていた人らしい話しだった。楯の会の制服を西武デパートで作った(三島はドゴールの軍服と同じデザイナーを希望し、それが西武にいた日本人デザイナーだった)ことから、父の梓氏に「堤さんが、あんな制服作ったから倅が死んだ」と当夜いわれたというエピソードなど。
「らい王のテラス」で自分の肉体と引き換えにバイヨンができる、という思想が三島の中核をなしているという話は大変説得力があったが、主人公の王の名をバヤジャルマン7世、といっていたので、帰りのエレベーターで一緒になったとき「正しくはジャヤバルマンです」と告げたら、「教えてくれてありがとうございます」といっていた。

猪瀬直樹は、私の勤め先と浅からぬ縁のある人。
10年前に、三島の生涯を、親子三代官僚の物語として捉えなおした「ぺルソナ」を出したことが、実は現在道路公団の民営化をやるようなことにつながっている、と聞いて驚いた。
つまり、「ペルソナ」を書く過程で、今の日本の問題を作ったのが、官民一体の産業育成体制であること(とくに、偶然にも、三島の父梓氏の商工省で同期だった岸信介の作り上げた1940年体制〔これが1960年代の高度成長の礎になった〕が元凶であるとのこと)に気づき、構造改革に関与することになったというのだ。
本人も、「10年前、これを書いているときには、自分がこういう立場になるとは思わなかった。これを書かなければこういう仕事はしていないので、人間の運命というのは本当に面白いと思う」といっていた。
ペルソナ―三島由紀夫伝 (文春文庫)
猪瀬 直樹
文藝春秋




個人的には、「ペルソナ」よりも、太宰治のことを書いた「ピカレスク」の方が出来がいいと思う。実際、後者は、「こんな仕事を文芸評論家でない人にやられたら、本職は困るだろうな」と思うような傑作だった。

ピカレスク 太宰治伝 (文春文庫)
猪瀬 直樹
文藝春秋



文学を実証的に研究する、しかも、政治等、社会科学的な視点も入れる、という姿勢は、「法と文学」をやろうとしている私には参考になる点が多々ある。
「仮面の告白」の園子のモデルに会ったりして、丹念に取材し、「仮面の告白」が不必要なほど克明なノンフィクションである(このことを、加藤典洋氏は、記号論的に解説している)ことを調べている。
また、太宰との関係では、「斜陽」までは、全ての著作が初版どまりでそれほど売れていなかった太宰が、心中事件によってベストセラー作家になったことに三島も影響を受けていた、という解釈は面白かった。
大蔵省を辞めて、作家としての将来をかけた作品「仮面の告白」では、太宰に倣って、自分の半生を赤裸々にさらすことでいったん「死に」そのことによって、作家として成功しようとした、というのだ。

講演後のサイン会で、勤め先をいったら、今回の騒動のことはよく知らないようだった。

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「春の雪」竹内結子の役作り(ネタばれ注意)

2005年06月05日 | 読書
三島由紀夫の「豊饒の海」四部作の第一部「春の雪」が映画化される。

前から、「覇王別姫」の陳凱歌(チェンカイコー)が映画化したい、といっていたので、期待していたが、セカチューの人か…。

三島ファンの友達と話したが、もちろん、松枝清顕役も綾倉聡子役も気に入らない。
しかし、では誰ならいいか、というと、今の若い役者でこういう重厚な原作の人物を演じられるような奥行きのある人っていないよな…と思う。

それよりも、本多繁邦や蓼科の役の方が難しいので、誰がやるか、そちらの方が、気になるな。
蓼科は樹木希林あたりかな。いずれにせよ、この二人は主人公以上に演技がうまくなければ台無しになる。

本多繁邦は、松枝清顕の親友で、次々と生まれ変わっていく主人公を見守る四部作全体を通じての狂言回しのような登場人物。控訴院判事になり、弁護士に転じて大成功するが、自らを「最醜の機構」と呼び、「人生が不如意である」ことを体現するような人物であり、私は、感じ方がこれほど自分と似ている人間はいないと、中学生ではじめてこれを読んだときから自分を投影し、法学部に移って司法試験を目指したのも、「どうせ私は本多、それなら法曹になるべき」というきわめて文学的な動機だったのだ。

本多繁邦は、晩年本郷の屋敷に住む。
法学部に進学しても、法律の勉強になじめず、小説ばかり読んでいた私は、大学の行き帰り、今にも、小路から、絹江の押す車椅子に乗った本多繁邦が現れそうな気がしていた。私にとっては、そちらの方が、大学の講義で聞く根抵当権や訴因変更よりも、よほど現実的な世界だったのだ。(それが法科大学院で教鞭を取るようになったのだから運命とは面白い)

竹内結子をはじめて見たのは、つかこうへい原作のドラマ「ロマンス」で、宮沢りえの妹役で出ていたとき、そのあと朝ドラのヒロインに選ばれたのは知っていたが、ずいぶん売れているようだ。

2001年の『白い影』では、30年前に山本陽子がやった役をやっていた。
田宮二郎の方が圧倒的に良かったが、小橋医師役をやっていた上川隆也とその後しばらく付き合っていたのは非常に気がもめた。(前のドラマでは小橋医師の役は、山本旦がやっていた。直江医師の恩師の役で今回出ていた山本学の弟。間に山本圭がいる)

昔2時間ドラマでは、古谷一行と市毛良枝がやっていたが、市毛は今回竹内の母役というのが時代の流れか。

その後、藤木直人と「あすか」で、堤真一と「ランチの女王」で、内野聖陽と「不機嫌なジーン」で共演し、好きな役者はほとんど公私いずれかで共演されてしまった、ととても悔しかった。

今度、妊娠・結婚という報道がされたが、聡子は妊娠するという役なので、妊娠中に撮影しているというのは、役作りにはいいのかもしれない。

と思っていたら、「あすか」で、菓子職人になるために断髪式をやるというシーンがあり、これも、落飾して門跡寺に入るという聡子の役作りにいい経験になっていたのだなあ、と思った次第。

それにしても、父親で上司役の藤岡弘、1970年代の和菓子職人なのに、あの髪型は変だ。
仮面ライダー1号の本郷猛のときとおんなじだもん。
断髪後は娘の方が短いぢゃないか。短髪にできない事情があるに違いないと、雨の中のシーンとか、乱闘シーンとか、つい食い入るように頭部を見てしまう。

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仙台育英高校・夜のピクニック(ネタばれ注意)

2005年06月05日 | 読書
前の項に続いて、事件と文学作品の関連妄想。

仙台育英高校の生徒さんが亡くなった事件で、(不謹慎と怒らんといてください)恩田陸の『夜のピクニック』を思い出した。高校生のウォークラリーの話だったから。

この小説、無冠の帝王だった作者にいろいろな賞をもたらしたが、私はあまり感心しなかった。

評論家は、「たった一晩の高校生たちのことを描いただけで、何の事件も起きないのに、これほどの感動を与える筆力がすごい」とほめていたが、そこが全く違うと思う。

だって、シチュエーション自体がありえないほど劇的なんだもん。
本妻の息子と愛人の娘が同級生だけど、周りには秘密にしている。だけど、ウォークラリーの間にそれぞれの親友たちにはわかってしまう。
なーんていう、小説や映画でしかないような劇的な設定にしておいて、「何の事件も起きない」ってのはないんじゃないの?

恩田陸は、小説自体はこれしか読んでいないが、原作を映画化・ドラマ化した「六番目の小夜子」「光の帝国」「木曜組曲」はどれもすばらしいと思った。
とくに、「木曜組曲」は、「文学者は芸術を完成させるために自分の命も顧みない」という浪漫主義を今時正面から描いていて、とても新鮮な出色の映画だった。

それらに比べて、この作品がとくにいいとは思えなかった、ということだ。

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脱線事故:その名にちなんで

2005年06月05日 | 読書
「その名にちなんで」は、ジュンパ・ラヒリ(Jhumpa Lahiri)という、「停電の夜に」でピューリッツア賞等たくさんの賞を総なめにしたインド系アメリカ人作家の新作小説だ。

久しぶりに小説世界にどっぷりつかる喜びを味あわせてくれた小説だった。

物語は1968年にボストンで出生する主人公ゴーゴリのインド生まれの父母が結婚する前から始まる。父親が大学生の頃、祖父の家から帰宅途中にインドの地方で列車の脱線事故で九死に一生を得る。数百人の乗客がほとんど亡くなった事故で、彼が助かったのは、祖父からもらい、事故直前まで読んでいたロシアの作家・ニコライ・ゴーゴリの本のページが風になびいたのが、救助隊員の目に留まったからだった。

この事故によってマサチューセッツ工科大学大学院への留学を決意し、そのままボストンで大学教授になるた父は、写真1枚でカルカッタから嫁いできた妻が産んだ長男に「ゴーゴリ」と名づける。
その家族の、約30年にわたる物語なのだが、とりたてて何も劇的なことが起こらないのに、これほど胸を打たれるのはなぜだろうか。

主人公は、この名前に呪縛を受けていると感じ続け、エール大学に入学する機会に改名してしまう。余談だが、民法研究者として興味を引いたのは、米国では改名手続がものすごく簡単なのだな、ということ。日本では、正当事由がないと、改名は認められない。

しかし、呪縛していたのは、名前でなく、移民国家アメリカで誰もが避けて通れないアイデンティティの問題なのだ、ということが、この家族の物語を通じてたくみに描かれているのだ。

それにしても、インド系のアメリカ人は、これほど同じ民族としか付き合わなかったり、祖国の習慣に固執するものなのか、それともベンガル系だけなのか、ということも発見の一つだったし、主人公が生まれたハーバード大学の近くにあるMount Auburn病院は、私が3月の出張のとき、毎日その前をバスで通っていた病院なので、懐かしかった。ハーバード留学時代の論文指導教授のWestfall先生が、ご本人は南米に長期出張中だったが、Watertownにある自宅マンションに泊まらせてくださった(バルコニーからチャールズ川が見下ろせる高級マンションだった)。鍵を管理人に預けていってくださったのだ。そこから、ハーバードロースクールに行くのにも、地下鉄の駅に行くのにも、バスで通ったのがこの病院だった。

家族の物語を淡々と描いているが、オハイオの大学にサバティカルのために単身赴任してまもなく心臓発作で亡くなった父を、母が「お父さんは、私に一人暮らしに慣れさせるためにひとりでオハイオに行ったのよ」というくだりには、号泣させられた、うまい、としかいいようがない。

また、文学作品に生涯にわたって影響を受ける人生というのも、とても親近感をもてるものだった。

この小説を読んだのは、4月はじめ。
その際、「こんな大きな脱線事故は日本では無縁だ」と思ったら、今度の事故の悲報に接し、あまりのことに、今まで感想文を書けなかった。

このブログでも、日本がどんなにefficientな国か、ということを書いたことがある。
イギリスに留学していた頃、IRAのテロのこともあり、しょっちゅう遅れたり止まったりするロンドンの鉄道にうんざりして、現地の友達に「日本では、電車が遅れると新聞記事になる」といったら、驚いて「イギリスでは、時間通りだとニュースになるのよ」といわれたことを思い出す。

しかし、ご遺族の方は、朝送り出した愛する人に、もう二度と会えなくなるとは夢にも思っていなかっただろう。
私も、夫がS本に来た週末、日曜の夜夫を送り出してから、「中央高速で事故」、などというニュースをTVで見ただけで、「もし、夫だったら私も生きていられない」と涙が出てしまう。
亡くなられた方とご遺族の無念を思うと、言葉がない。

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桐野夏生・『I'm sorry, Mama』『白蛇教異端審問』(ネタばれ注意)

2005年04月12日 | 読書
I'm sorry, Mama

実は、2月末から3月にかけてのボストン出張中に読んでいた。
両親が誰とも知らず、娼家で育った女主人公が、冷酷な殺人を重ねていくというピカレスク・ロマンなのだが、ヒロインの造形よりもむしろ、彼女に関わるいろいろな人間がそれぞれに面白い。それぞれの、人生で背負った業や醜さが非常にリアルに描かれ、そちらの方に引き込まれた。
女主人公・アイ子はむしろ、読者をこのような多様な業をもつ人間の人生にいざなう狂言回しにすぎないのではないか、とさえ思えてくる。

その中の一人である、ホテルチェーンの女性社長は、ある実在の人物を容易に想起させる。
(本人から苦情が来なかったのだろうか)
そのホテルに旅行中夫と泊まったことがあるが、ビジネスホテルなのに、お風呂がトイレ一体のユニットバスでなく、洗い場でお湯を流せる家庭のような仕様になっていることや、タオルが、青とピンクの2色になっている(利用者がそれぞれまちがえないように)ことが、ユニークでいいサービスだな、と感心した。
しかし、看板に自分の肖像を使うのはいいが、片手で自分の髪の毛を引っ張っているのは、ちょっと違うのではないかと思った(容姿や服のセンスについては全く論点にするつもりはない)。自分の髪の毛を引っ張るという動作には、いろいろなimplicationが考えられるが、いわゆるしなを作る、性的魅力をアピールする、いらいらした時のしぐさ(私は論文の原稿が進まない時とか、いらいらすると自分の髪の毛を引っ張る癖がある)、等が考えられるが、いずれもホテルビジネスとは何の関係もない動作であり、社長として自分の経営するホテルを宣伝する看板でこういう動作、というのは違うのではないか、という違和感である。

小説のラストは、ヒロインが追っ手を逃れるため、隅田川に飛び込み泳ぐシーンで終わっている。
これは、藤山直美主演『顔』(傑作だと思う)のラストを髣髴とさせる。

『白蛇教異端審問』
エッセイ集を初めて読んだが、ジェンダーの視点による社会時評、書評の的確さに改めてファンになる。もっとエッセイを書いてくれればいいのに。

前半は、直木賞受賞日記を含む身辺雑記なのだが、後半のタイトルと同名の文章は、不当な批評への抗議だった。
笙野頼子の純文学論争のようなことを桐野もやっていたとは知らなかった。
こういうのは消耗するし、徒労感を覚える作業なのだが、やらなければ筋が通せないと思ってやるのだろうな、でも大変だな、ぼろぼろになるよね、と他人事でなかった。

私は『OUT』で直木賞をもらうべきだったと思う。
実はそのころ、本当の名作は賞を逸して、その次回作で受賞というパターンがあった。
なかにし礼も、『長崎ぶらぶら節』もよかったけど、前作の『兄弟』の方がはるかに名作だった。

ところで、数日前、偶然同じ大学の別部局の教員のHPを初めて見たら、ちょっと関連妄想だった。
というのも、彼の日記に、パトリシア・ハイスミスの記述があったが、このエッセイ集にもハイスミスのことが書いてあったからだ。

桐野氏は、ハイスミスのセクシャリティーから、アメリカ的父系社会やその流れをくむアメリカミステリー界に合わなかったので、アメリカ生まれなのにヨーロッパで活躍したのでは、と分析している。

桐野氏の描く人間の救いがたい心の闇に通じる世界があるようなので、今度ぜひ読んでみよう。


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江戸川乱歩の土蔵公開

2005年01月29日 | 読書
去年の8月のことだから、だいぶ前になるが、友人と、池袋の東武デパートでやった江戸川乱歩展と、公開された土蔵を見に行った。

これは、豊島区が区をあげてやっていた乱歩関連のイベントに、乱歩の家を買い取り、保存・補修をしている立教大学が協賛してやっていた催しだ。大學と地域の理想の関わり方の一例を見たような気がした。

江戸川乱歩は、小学生の頃から愛読していたが、「パノラマ島綺譚」や「陰獣」のような耽美怪奇ものが好きだった。『黒蜥蜴』は三島が戯曲化し、両立しない生と美の関係を描く傑作だが、
明智小五郎もののミステリーの中にははどうも、トリックの説明がきちんとなされないものが多いのが気持ち悪かった。私はなんであれ、全ての謎にいちおうきちんとした説明がなされないといやなのだ。
だから、本格推理の横溝正史にはすぐのめりこんで、中学時代には全著作を読破した。
後輩に当たる横溝は、乱歩にずいぶん苦言を呈していたようだが。

江戸川乱歩展を見て、気づいたことは、乱歩が無類の整理魔・記録魔で、かつ自分大好き人間だと言うことだ。自分の名前が出ているものは、新聞の書籍広告欄にいたるまで全て切抜きしてスクラップし、詳細なコメントまでつけている。そういうスクラップ・ブックがすごい数残されている。

古今東西のミステリーに使われたトリックを細かく分類し解説した「トリック分類表」というものも作成している。非常におたっきーな細かさなのだが、これを見て、私がどうしても解せなかったのは、「動物が犯人」という分類のところに、エドガー・アラン・ポーの古典中の古典『モルグ街の殺人』[オランウータンが犯人)が記載されていなかったことだ。

この作品がどれくらい古典中の古典かというと、たとえば、
昨年、初めて本格推理に挑戦した貴志祐介の『硝子のハンマー』を読むとそのことがよくわかる。
介護会社の社長が密室の社長室で殺されるという、本格ミステリーの王道を行く作品なのだが、
[以下、ネタばれがあるので、注意してください)

開発途中の介護猿と介護ロボットが、犯行現場にあったのだ。
これが実際に犯行に使われたのではないが、これは、目くらましと同時に、貴志が本格推理に初挑戦するに際し、偉大な先達にささげたオマージュなのだろうと、誰でもピンと来る。
ちなみに、介護ロボットの方は、京大SF研出身の夫に聞いてわかったが、最近映画化されたアシモフの『わたしはロボット』へのオマージュなのだろう。

何より、ポーは乱歩がペンネームももらった作家、読んでいないはずはないのだが…。

土蔵の方は、長蛇の列に並んだ末、ほんのとば口しか見せてくれないのはちょっとがっかり。
でも、乱歩はレタリングも得意で、整理した資料の箱に見事な文字でタイトルをつけているのにも感心した。

この西池袋の家は、1934年に引越し、ついの住処となったところ。
ちょうどその直前に、久世光彦の『1934年冬ー乱歩』を読んでいたので、「あの失踪のあと、心機一転引っ越したのがここか…」と感慨深かった。

乱歩は、1934年はじめ、大スランプだった。
1933年11月に「新青年」に連載を開始した『悪霊』は、とうとう謎ときの答えを思いつかず、1934年2月に連載休止と謝罪文を出したくらいだ。
それで、家族にも編集者にも告げずに失踪し、麻布の外国人専用ホテルに滞在していた、という設定の小説が、『1934年冬ー乱歩』である。
そこで乱歩が書いた劇中小説も、久世のオリジナルなのにまるで乱歩そのものだし、なぞのアメリカ人女性客が、当時誰も気づかなかった、エラリー・クイーンとバーナビー・ロスが同一人物だと見抜いたり、すばらしい傑作小説で、それまで、向田邦子がらみのエッセイしか読んだことのなかった久世光彦を本当に見直した。

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1月17日の涙

2005年01月22日 | 読書
1月17日に、東京から移動中のバスの中で、文章を読んでいて2度、人目もはばからず泣いてしまった。

一つは、阪神淡路大震災から10年目ということで、元神戸消防署長という人が日経新聞の文化欄に書いていた文章だ。
助けを呼んでいる人全員を助けることができないという状況下で、消防士たちは、トリアージュ(被救助者の優先順位の選択)、つまり、誰を助け、誰を見殺しにするか、という残酷な選択を余儀なくされ、彼ら自身がPTSDに苦しんでいる、という事実に、涙が出た。
9.11以来、消防士という職業に人気が集まっている。昨年も、「火消屋小町」や「め組の~」という消防士を主人公にしたドラマが放映されていたが、つくづく、消防士というのは本当に立派な職業だなと思う。警察官も危険を冒すが、権力もまた行使できる。消防士は危険だけで、権力はなく、体もきつい。つまり、本当に犠牲的精神がないと務まらない仕事だ。
私が小学生のときも、お父さんが消防士で殉職した同級生がいたなあ。

そんな消防士の方々の心の痛みを思い、災害が人類に与える試練にまた思いを致した。
この大學に赴任するとき、「地震の危険だけは減ったな」と思ったらとんでもなかった。
活断層が真下を通っていて、ものすごくリスクが高く、市の広報で、耐震構造に建て替えれば補助金が出ると言う告知もしていた。
私は、それまで何の縁もゆかりもなかったこの地に一人で来て、夫を東京に残して大地震で命を落とす運命なのだろうか?

もう一つは、柳美里の「8月の果て」の、従軍慰安婦の悲惨という言葉では言いつくせないような地獄を読んで、涙が止まらなくなった。

NHKと朝日新聞の泥仕合、肝心の放映されたものの編集前とあとの違いを知りたいのだが。
本当の敵は政治的圧力なのに。

これは、作者の祖父で、戦争で中止されなければオリンピックでマラソン金メダルまちがいなしといわれた李雨哲とその一族の物語だ。
私は小学生の頃、ベルリンオリンピックで金メダルを取ったのに、日本の国旗を付けさせられた朝鮮人マラソン選手のことを描いた「消えた国旗」を読んで、衝撃を受けたが、その孫選手のことも出てくる。
また、「恨」を増幅させていく一族の運命を見て、柳美里の激しい生き方が宿命的なものなのだとわかったりした。
また、美里(みり)は、雨哲の故郷密楊(ミリヤン)からとっていることもわかった。

雨哲の弟雨根は、太平洋戦争後に、共産主義活動のために生き埋めにされ殺されるが、その淡い初恋の相手英姫が、戦争中騙されて従軍慰安婦にさせられたという設定。

柳美里、芥川賞受賞の「家族シネマ」はそれほど感心しなかったが、父親を殺す在日の少年を描いた「ゴールド・ラッシュ」で、才能を確信した。
その後、未婚の母になると同時にかつての恋人東由多加の末期がんを看取るというすさまじい生活を描いた「命」シリーズもとてもよかった。ただし、東との間にできて堕胎した水子のいくつもの位牌に拝む姿はちょっとついていけないものがあった。
確か「男」という古いエッセイに、「自分が子供をもつと想像したとき思い浮かぶのは、団地のベランダから赤ん坊を投げ捨てる自分の姿だ」なんて書いていたのに、実際に母親になるとちがうのだな、と思った。

プライバシー裁判の記者会見のとき切迫流産しそうだったという事実にも驚いたが、「石に泳ぐ魚」は、法と文学というテーマでいつか三島由紀夫の「宴のあと」と比較して論文を書いてみたい。

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亡国のイージス

2005年01月08日 | 読書
が、今度真田広之で映画化されるらしい。
仙石伍長の役だが、原作では、主人公は如月行で、仙石はそれを助けるわりとおじさんキャラだったのでちょっと意外だった。

原作は大変傑作と思うが、ずっと気になっていたのは、1996年、ショーン・コネリーとニコラス・ケイジが主演した映画The Rockに似ているということだ。
これって、誰も指摘していないのだろうか。もししていたらぜひご教示いただきたい。

○どちらも、軍隊(自衛隊は軍隊ではないが)の上官が、部下を思うあまり、国家に反逆する。
○どちらも、洋上に立てこもる(亡国は戦艦、映画の方はアルカトラズ島)
○どちらも、若者と年上の二人のコンビが決死の覚悟で反逆者と戦う。
○どちらも、反逆者のリーダーは途中で非を認めて自決する。
○どちらも、反逆者に便乗して別の目的を果たそうとする悪者がおり、最後は高所から落下する際鋭いポール様のものに、串刺し状になって死ぬ。

もちろん、これらの類似性だけでは到底盗作とはいえないし、法的には問題ない。また、亡国の方は、反逆者リーダーと若者(実際の父子関係には恵まれずそこから悲劇が生まれるという設定)の間に父子のような交流ができたり、デビュー作で江戸川乱歩賞受賞の「トゥウェルブYO]でも父子関係にこだわった作者の系譜を引いている等の深みがある。

でも、出版(1999年)に3年先立つこの映画から何らかのインスピレーションを得ているのは確かなのだろう(全部偶然というのは難しかろう)から、そのことはむしろきちんと公言した方が、創作者としては潔いのではないかと思うが、いかがだろうか。

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宮尾本・平家物語

2005年01月05日 | 読書
今年の大河の原作というので、年末年始に全4巻を読んだ。

といっても義経はあまり出てこない。
弁慶との出会いの場面もなく、第4巻でいきなり弁慶が1シーンだけ出てきたりする。
別途「義経」という小説もNHK出版から出るらしい。

以下、思いつくままに。
1.清盛が、権謀術数家というよりは、人情に厚く、同族・友達思いで、強運による栄華を彼らとshareしているうちにああなった人物、という描き方をされていたこと。
有名な「頼朝の首をわが墓前に供えよ」という遺言も、一族を発奮させるための時子の捏造であったという解釈が、女性作家らしく斬新だった。
2.平家の血筋を絶やさぬため、二位の尼(時子)と西海に沈んだのは、安徳天皇でなく、異腹の弟守貞親王で、安徳天皇は守貞親王を装って生き延びた。
3.ドラマではいつもすごく美化されている、建礼門院徳子が、わりとボーっとしたあまり賢いとはいえない人物に描かれているのも新鮮だった。
4.木曽義仲がものすごい野蛮人、uncivilized personとして描かれているが、木曽は当時信州の一部、信州人ってやっぱり歴史的にこんなものなのか?と思った。
5.お徳という狂言回し的に使える人物が出てくる。これを大河でナレーションも兼ねて白石加代子がやるのが一番の楽しみ。
6.でも、なぜ肝心な大原御幸がカットされているのだろう。最後の方で作者が息切れしてしまったとしか思えない。これが平家の白眉と思うのに。
7.知盛の人間的魅力をもっと描いてほしかった。個人的には木下順二『子午線の祀り』の知盛が大好き。1999年に野村萬斎(同じ高校の後輩。姉上が同学年で隣のクラスだったので、父兄会で万作氏をよくみた)が新国立で演じた時、「見るべきほどのものは見つ」という科白に鳥肌がたった。
8.敦盛と熊谷直実のエピソードももう少し詳しく書いてほしかった。私は名前が似ているので、昔からこの場面には執着がある。ちなみに、通信販売等で「名前の漢字を教えてください」と電話で聞かれるたび、いつも「敦盛の敦です」といっているのだが、わかる人はめったにいないのが非常に嘆かわしい。最近信長がドラマに出るたびに舞っている「人間五十年下天(化転ともいう)のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を得て滅さぬもののあるべきか」は幸若舞(司馬遼太郎は「謡曲」と誤記しているが)『敦盛』だし、現に「敦盛をひとさし」なんて科白もあるのに。「新平家物語」では勘九郎がやっていたが、今回は誰がやるのだろう。
9.電車のキセルのことを薩摩守忠度から「薩摩守を決め込む」といったりしたが、もう死語になっているようなのは残念(斬り?!)。でも、西に落ちる前に俊成に和歌を託したというエピソードには毎度泣ける(『新平家物語』では中尾彬がやっていたのよね)
10.滝口入道と横笛のエピソードは、20年前嵯峨野の滝口寺に行ったとき、えらく感動して、入道の「剃るまでは恨みしかども梓弓、まことの道に入るぞうれしき」という歌を絵皿に描いたりしたな(今もリビングに飾ってある)と思い出した。
11.義経は義朝の八男だが、叔父鎮西八郎為朝(滝沢馬琴の名作で、三島由紀夫が歌舞伎にした「椿説弓張月」の主人公)既に八郎を名乗っているので、九郎にしたとこれで初めて知った。

それにしても、あの、親子兄弟で殺し合う時代を、巧みな権謀・裏切りで泳ぎきった後白河法皇のあの節操のない政治力、あれこそ現在の私が最も見習うべきものなのだろう、とわかってはいるのだが…。

【おまけ】
大河の義経と静といえば、
『義経記』の尾上菊五郎:冨司純子(これが縁で結婚)
『新平家物語』の志垣太郎
『草燃える』(1979年)の国広富之:友里千賀子(『おていちゃん』ヒロイン。朝ドラのヒロインは一度は大河で使ってやるという暗黙の了解があるらしい(今回の静も『てるてる家族』の石原さとみ、中越典子も建礼門院役で出ている。「新選組!」おその役の小西美帆もそのせいだろう)が、このキャスティングはあんまりだという声が高かった)。源義時役で松平健がブレイクした作品でもある。その恋人で大場景親(加藤武)の娘・茜が松坂景子。最初は伊東祐親(まだブレイクしていない滝沢栄)の思われ人で頼朝との確執の理由として設定されている。
当時はビデオなど自宅になかったから、修学旅行中に困ったことを覚えている。
『武蔵坊弁慶』(かつてNHKでは水曜日も歴史ドラマをやっていた)の川野太郎。
弁慶は中村吉右衛門で、その妻が荻野目慶子、娘が高橋かおりで、那須与一の標的になるという設定。荻野目も当時は清純派だったが、男を死に追いやるくらいの凄みが女優の仕事にはプラスに働くこともあると思う。高橋も後に三田村邦彦との不倫報道があってちょっとびっくりした。

『炎立つ』の野村宏伸
などがあるが、歴史的には『炎立つ』のちょっと軽薄な義経像が最も実像に近いらしい。

あと、ドラマになると、主人公の女関係を奇麗事にしすぎるのがいや。
跡継ぎがなければ滅びるのが武家社会なのだから、また、息子もいつ死ぬかわからない乱世なのだから、たくさんの子供を作るために蓄妾するのは当時の常識であり棟梁の義務。それを、現代の一夫一婦制イデオロギーから合理化するための不自然な設定を作ったりするのがどうも苛つく。

「常盤御前判決」という裁判例は今考えるとものすごいジェンダーバイアスむき出しの考え方だ。やっぱり司法界ってジェンダー的には遅れている。

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笙野頼子・金毘羅

2005年01月02日 | 読書
書評等で話題になっている「金毘羅」を読んだ。
話題になっているからでなく、今生きている作家の中で一番好きで、著作は全て読んでいるので、最新作を読んだということなのだが、今までの彼女の集大成というべき傑作だった。
ついでにいうと、三島賞に続き、芥川賞受賞コメントで「文学の神様に感謝したい」と言っていた意味が、この作品でよくわかった。

純文学論争もよかった(現存日本人作家の中で純文学を背負ってたっているのは彼女だと思う)が、フェミニスト文学者としても一流だと思う。
「水晶内制度」は「ジェンダーと法」で課題図書の一冊に選んだ。

「金毘羅」でも、以下のようなくだりに、眼からうろこが落ちた。

「「本当は男」である女はさまざまな課題を課せられるだけではない。現実の差別社会の矛盾を全て引き受けながら、その矛盾から一切眼を背けていなければならない。つまり、魂が壊れていなければ成立しないのです」

実は2000年11月25日に地下鉄で彼女に会ったことがある。トレンチコートを着て立っていた。
偶然にも私は九段会館で行われた憂国忌に行く途中だった。
彼女は後述するように佐倉からめったに遠出しないようなので、本当にすごくラッキーだ。
三島由紀夫に次いで好きだと思う私の気持ちが通じたのだろうか。
「笙野頼子さんですよね」と話しかけたら、ものすごく意外そうに「よくわかりましたね」といっていた。新宿で詩人の人たちと座談会があるとのこと。「手紙はどこに書いたらいいでしょうか」ときいて、その出版社にすぐ手紙を書いたのだけれど、もちろん返事はなかった。

地方の大学に赴任し、昨年音羽に引っ越した後は、雑司が谷から佐倉に引っ越した彼女にますます親近感をもった。彼女は雑司が谷のマンションの駐車場で、他の住人が気まぐれに餌をやっていたために集まっていた野良猫を、その住人が飽きて放置したあと、近隣と戦いながら保護し、ついにはその猫たち(5匹)のために、佐倉に一戸建てを購入して引っ越したのである。
雑司が谷のそばを通るたびに「ここは笙野さんも通った道かしら」なんて思ったりしている。

毎年のように参加している山中湖三島由紀夫文学館の三島由紀夫文学セミナーで、一昨年、加藤典洋、大塚英志、清水良典という顔ぶれだったのも面白かった。
純文学論争で笙野さんの天敵が大塚氏、そして、笙野さんの伝記「虚空の戦士」を書き、彼女から「武士は己を知る者のために死す」とまで信頼されているのが清水氏だからだ。
シンポジウムはもちろん面白かった(文学の話が記号論に及ぶと大塚氏が「もう帰りたくなってきた」といったのにはちょっとびっくりしたが)し、清水氏から笙野さんの話がたくさん聞けたのもうれしかった。


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東野圭吾『幻夜』『白夜行』(ネタばれ注意)

2004年09月23日 | 読書
1.幻夜
少し前になるが、東野圭吾『幻夜』を読んだ。
これは、『白夜行』の続編ともいえる作品であり、これを読んで、東野圭吾という作家を見直したきっかけになったのだが(どれくらい感心したかは以下に感想文を添付)、『幻夜』はどうもいただけなかった。『白夜行』では、主人公二人の魂が寄り添っていたのに、『幻夜』では、男が女に一方的に利用されるだけで、せっかくの傑作である前作まで台無しになるような後味の悪い作品だった。

ちなみに、「見直した」というのは、彼の昔の江戸川乱歩賞作品『放課後』についてはそれほど感興を覚えなかったからだ。
私は、江戸川乱歩賞作品を、小説が対象になってから最初の受賞作仁木悦子『猫は知っていた』から、昨年までのものを(今年のは図書館の順番がまだ廻ってこない)全部読んでいる。
最近は質が落ちてきたが、昔の受賞作品はすごかった。
トリックや人間心理の描写が卓越しているだけでなく、『写楽殺人事件』では写楽の正体についての謎解き、『20万光年の孤独』には、考古学等、ミステリーを切り離しても、十分通じる世界が描かれていたし、『伯林1888年』では森鴎外、『猿丸幻視行』では折口信夫という著名文学者が主人公だったりして、重厚な作品世界を作り出していた。『アルキメデスは手を汚さない』の小峰元の作品(古代哲学者の名を冠したもの)も全部読んだけど彼は筆を折ったのだろうか?
一番すきなのは、大谷羊太郎の『殺意の演奏』。
高校の文化祭でミステリー劇の脚本を担当したのだが、この作品のトリックがあまりに気に入っていたので、トリックだけ使わせてもらった。
今はトラベルミステリーで荒稼ぎしている西村京太郎も、乱歩賞作品は『天使の傷痕』という、障害者差別を扱うきわめてまじめな社会派の作品だった。
そういえば、桐野夏生についても、受賞作品『顔に降りかかる雨』はそれほど感心しなかったが、『OUT』で示された才能には驚嘆し、今では全ての作品を読破している。最近では東電OL事件をモデルにした『グロテスク』に心酔した。

2.白夜行
普通、小説を読むということは、書いてある内容を鑑賞することであり、読者は受身であり作家は書く文章だけで勝負しなければならない。そうした常識を覆し、書かれていないことこそ最も重要であり、読者は想像力を総動員してそこで何が起こったかを推量するという、いわば読者の想像力が主役の小説である。革命的な手法ではないだろうか。
「白夜の中を歩くような人生」を生きる男と、彼を「太陽のかわり」として「陽のささない人生をやっと生きてきた」女の、出会いから別れまでの約20年間の魂のふれあいをを綴る作品だが、二人が実際に会っている場面は一度もなく、彼ら二人による完全犯罪の被害者たちの経験のみを語り、その背景にある二人の瀕死の魂の結びつきを読者に想像させる。そのうちに、読者にも次第に主人公の影にもう一人の主人公が寄り添っているのが見えるようになり、胸を締め付けられるような思いがしてくる。彼らを負う刑事が「君は本当に『一人』なのか」と思わずつぶやくように。
また、少なくとも4人の殺害、強姦、窃盗等の凶悪犯罪を描きながら、ミステリーでなく清冽な純愛小説の読後感を与える点も特異だが、それは、幼い頃、二人が大人の酷い仕打ちを受け「魂を奪われ」て以来、「自分たちの魂を守る」ためにしてきたことだと納得できるからである。
さらに、1970年代から90年代の、オイルショック等の事件やヒット曲等の社会風俗が丹念に描写されている点や、電気工学科出身の作者らしくコンピュータ・ソフトの偽造、ネットワークへの不正侵入など、IT技術の進歩に伴う彼らの犯罪の進化も緻密に描いている点も、特筆に価する。鋏、切絵細工、小物入れ、キーホルダーの鈴といった小物使いのテクニックも出色。
自分もこの作品に参加したのだという快い疲労感とともに、聖夜のラストシーン、ジングルベルの音がいつまでも読者の胸に響く。果たして二人の魂は救済されたのであろうか。
 
3.他の作品
本格的に読み始めたのは『白夜行』以来だから、そんなに読んではいないが、
『秘密』(映画化)『分身』(1993年作品だが最近胚移植による生殖医療が現実化しており、時代を先取りしていたんだなあ)『殺人の門』『ゲームの名は誘拐』(藤木直人で映画化)『手紙』『超殺人事件』(一部が『世にも不思議な物語』西村雅彦でドラマ化)。
どうも最近の作品では、他人を意のままに操る人間の悪意が描かれているような気がする。

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2002/3/29~4/1洛陽・開封・鄭州の旅

2004年09月23日 | 読書
一、3月29日(金)
九龍の中港城から朝9時45分発のフェリーに乗って深土川の蛇口へ、約1時間で到着。
そこで他の参加者(総勢10名)や現地ガイド(中国旅行社の鐘雲氏)と会って、バスで約1時間ほどの深土川空港へ。新空港は旧空港の隣に1995年に作られたもので、硝子張りの天井はロンドンのガトウィック空港を思わせる。香港・広州の空港と近いので、中国政府は国際線をあまり就航させず、国内線に特化する政策とのこと。
空港で昼食を食べたら、ワンタンメンが25元 もするのに、ぬるくてまずく、びっくりした。 
13時50分の搭乗機までのバスは、飛行機の目の前で20分ほど停車してしまい、ドアも開かない。中国人がどんどんと足を踏み鳴らす等の抗議をしてやっとドアが開いたが、先が思いやられる出来事であった。
機内(深土川航空)は思ったよりずっと清潔で、機内食の食器等も7年前(別の会社だが)に比べるとずいぶんましになった。機内エンターテインメントもついていて、画面で山
口百恵の「絶唱」という古い映画のハイライト場面をやっていたのにもびっくり。
予定より30分以上遅れて、鄭州の空港に着いたのは、16時30分。待っていたガイドは、陳利明という若い女性。
今日の予定の観光は明日にして、1時間ほどかかって開封のホテルに直行。高速道路から見た途中の光景は、一面の小麦畑の中に、菜の花(油用)と、ピンクの桃の花、白いりんごの花があり、夢のように美しい景色だった。街に入ると、店の看板にはやたら「補胎」という字が目についた。後で聞いたら、「胎」は「タイヤ」の音訳で、タイヤ修理の店ということらしい。また、たくさんある「摩托」という言葉は「モーターバイク」の音訳とのこと。
さらに市街に入ると、「矛盾洗衣粉」とか、「矛盾」という言葉の入った会社名等が目につく。「もしかしたら、矛盾という言葉の語源になったエピソードはここの市場で生まれたのかな」と思いあとでガイドに確認したらそうだった。また、映画「千と千尋の神隠し」に出てきたような古い街並みがいくつかあった。
バスの中の説明:河南省は日本の2分の1の面積で一億人の人口を養っており、四川省から成都が中央政府の直轄地として独立したために、最も人口の多い省。主な産業は農業。
ホテルは吉祥酒店という三ツ星ホテル。到着してすぐ、ホテルで夕食をとった 。ラフテーのような豚肉の煮込みや、いろいろな野菜料理、柔らかい豆腐料理等、10種類以上の料理が出て、味も良かった。岩佐さんの提案で全員で自己紹介。その後、近くの「鼓楼夜市」を見に行った 。道路の両側にいろんな露天が並んでいる。麺を打つ実演や、もち米で作ったケーキのようなお菓子(八宝飯。一皿4元)、交易の地(開封は、交易の中心だったため、回族も多く、清真料理の屋台にウイグル人のような風貌の人もいた。京劇の劇場に「服務員月薪400元」という広告が出ていた。
ホテルに帰ってから、7階のサウナに行った。サウナは壊れており、かわりに大きな桶みたいな風呂釜にお湯を張ったものに入った。フェイシャルマッサージ・パックと体のマッサージ(天井のレールにぶら下がって体の上を滑ったり、踏んだり、体操みたいな格好をしたりというタイ式マッサージのようなダイナミックなもの。仕上げに自分のポニーテールの髪の先で撫でてくれるというユニークなサービスも)を1時間半やってもらって128元 。日本人の客は初めてだという女の子にとても一生懸命やってくれたのでチップを渡そうとしたが断られ、そんな中国人は初めてなので感心した。

二、3月30日(土)
1.鉄塔
朝、8時半にホテルを出発し、鉄塔へ。
開封は、魏、梁、晋、後漢、周、北宋、金の七つの王朝の都があったところ。特に、北宋時代は張択端の「清明上河図」にあるように、運河が掘られ、黄河と揚子江の交叉する場所でもあったことから交易の街として栄えていたが、現在では度重なる黄河の氾濫(特に14世紀の明代のもの)で運河や北宋時代のものはほとんど全て(鉄塔は丘の上に建っていたため残ったが、それでも基底の部分は埋もれたまま)地中に埋もれているとのこと。発掘したくても、地下水があるため困難ということであった。色が遠目には鉄のように見えるので「鉄塔」と呼ばれているが、実際は、緑色を基調としたたくさんの瑠璃瓦で作られている。瓦の一つ一つは仏像等の形の彫り物(浮き彫りではなく凹)があるが、同じパターンがいつもあるので型で焼いたものらしい。八角形13層あり、高さ55.88m。一層に一つ風を通す穴があいている。「開封寺」という寺の一角をなす仏舎利塔だったが、現在も原型をとどめているのはこれだけ。現在北西に傾いているのは、季節風の影響。元々は、120mの木造の塔で、季節風を計算し、初めから南東に傾けて作っていたが、落雷で崩壊したとのこと。
この説明から、中国では、風向きを、日本と反対に、風の行く先で「南風」等ということが判明して面白かった。
敷地内の売店に「清明上河図」のコピー (本物は今台北の故宮にある)や中国画の刺繍等が売っていた。
2.大相国寺
次に、大相国寺へ。日本の相国寺と区別するために「大」がつけられたというこの寺は、555年創建。広い境内には、まず初めの建物に布袋様の像があり、その裏には韋駄天。横には、それぞれ剣、傘等の持ち物を持った四天王が二人ずつ控えている。2番目の建物は大仏殿で、釈迦を挟んで右に文殊、左に普賢の各菩薩像があり、全て金箔が施されている。3番目の建物には、千手千眼観音像がある。昔、3人の娘のある太守が不治の病にかかり、生きた人間の手と眼を食べれば治るといわれたが、長女は子供がいるから、次女は結婚したばかりだからと断り、三女は喜んで父のために死んだ、それを神様が憐れんで千の手と眼を送ったとのこと。リア王のような伝説は万国共通らしい。銀杏の木の一本彫りに金箔を貼ったという4面の像は、全てお釈迦様を掲げており、たくさんの手の中に眼がある。実際の手の数は1056とのこと。一番奥の建物の左横にはここで修行したという空海の像があるが、中国語の説明の中に、「長岡国立大学で勉強した」というような件があり、長岡京のことかな?側には、「松山なんとか講」(お遍路さんの組織と思われる)による寄付を記念するプレートがあった。讃岐出身の空海だから四国に縁があるのか。深土川のネイルサロンの楊小姐に姓別の占(10元)をお土産に買った。
3.宋代一条街
次は、前の日にバスから見えた宋代一条街を見学。宋時代の建物を清時代に再現したものということ。建物は日光東照宮にそっくりな色使いと釘代わりに使われている独特のコネクティングポイント(管なんとか方式というらしい)があった。門の前には、2頭の象。鄭州を表わす漢字は「豫」、昔この辺に象がいたということ。野性の象を人間の知恵でコントロールすることから、豫定の「豫」の語源となり、転じて文明の曙にもなったという、黄河文明の発祥の地らしい由来に感動。門の両脇にある古い建物の向かって左側は銭湯、右側は中国銀行の支店として使用されているほか、他の建物も立派に現役の店として活躍している。他の似たような古い街並みは書店街だった。
さらに、河陜山会館(河南省、陜西省、山西省の同郷会、昔交易の中心だったため複数の地方出身者が集った)という、関羽が祭ってある場所に行った。やっぱり日光東照宮みたいな建物。門を入って中庭の先にある本堂の入口の上には「威震夏華」という文字が。夏は開封にあったとされる中国最初の王朝だから、関羽の威光が中国のすみずみまで行き渡るという意味とのこと。他にも、関羽が重症を負い手当を受けながらも碁に興じるという豪傑振りを示す絵とか、奥には、繁塔等、開封のたくさんの名所が写真(白黒だが)で紹介され、中庭を囲む建物の向かって左のものには、「清明上河図」そっくりに作った立体ミニチュア模型もあった。
昼食は、鄭州に行き、ガイドさんの会社と同じビルにあるレストランで。
4.洛陽
その後、洛陽ガイド李さん(男性)と合流して、洛陽へ。
洛陽は、人口130万人の都市で、洛河の北側という意味。川の土手に日の当たる北側が陽、南側が陰だから。
ちなみに、簡体字って面白いと改めて思ったのは、陽の簡体字がこざとへんに「日」、陰の簡体字がこざとへんに「月」と書くことで、元の字ではなく、陰陽五行説を忠実に反映している中国らしい略し方だと妙に感心してしまった。
夏、殷、東周、後漢、西晋、魏、北魏、隋(煬帝)、唐(則天武后)の九つの都があったことから、「九朝の都」ともいう。ちなみに、中国では私たちが歴史で習ったように「前漢・後漢」といっても通じない。なぜなら、長安に都があった時代を西漢、東の洛陽に都のあった時代を東漢といっているから。なぜ、日本の歴史教育はこれに合わせないのだろう。
5.白馬寺
白馬寺の前はきれいに整備された公園になっている。
ここは、後漢時代68年にできた中国最古の仏教寺院で仏教発祥の地とされている。インドへ派遣した僧が白馬にまたがって帰ってきたことが由来といい、門前には一対の馬の石像がある。北魏時代、洛陽には3000以上の寺があったが、現存しているのはこれだけ、といっても、戦乱や火事で焼け、現存の建物の中で最古のものも元代のもの。
大雄殿には十八羅漢があり、乾漆法という中が空洞のつくりになっている。上の欄間には、ヒンズー寺院にあるガルーダにそっくりな「大凰」という鳥の浮き彫り。竜を食べて困るので、如来をよんで供物を差し出させたら、以降食べなくなったという由来のある絵だった。奥には、元代に再建したという後漢公邸の避暑地があり、左に竺法蘭、右に摂摩騰という二人のインド高僧の墓があり、中の四角い水溜りはお金を投げて浮くと運がいいといわれている。そこの売店で、仏教の発祥地にあやかろうとブレスレット型の数珠を20元で買った。
この避暑地の入り口の手前の向かって左側には空海の立像があり、大相国寺で見た、松山なんとか講が日中国交正常化20周年で(1992年)立てたらしい。
6.漢魏古城
運転手さえ知らなかった、畑の中にある、昔の城壁の後。でも、言われないとわからないただの、土塁が少し残っているところ。でも、20世紀世界10大考古学発見の一つとのこと。のちに河南省博物館でここで発掘されたものを見ることになる。
7.水席料理
その夜は、真不同飯店という、100年以上の伝統のある有名料理店で、洛陽名物水席料理を食べた。則天武后の好物という宮廷料理で、スープをはじめ、水っぽい煮込み料理等が次々に出てくる。10種類の菜と3種類の主食、そしてデザートは以下のとおり。
① 牡丹燕菜(大根の細切りの煮たもの)
② 洛陽熱貨(豚肉のもつ煮込み)
③ 洛陽肉片(豚肉の味噌煮込み)
④ 料子風+中国語のふかひれを表す漢字
⑤ 鶏蛋餅(トルティーヤみたいなもの)
⑥ 酸湯焦炸丸(揚げた紅芋入りすっぱいスープ)
⑦ 西辣魚片
⑧ 女乃湯火屯吊子(豚の腸)
⑨ 火会四件(豚の肝臓)
⑩ 三色火会蟹
⑪ 油炒八宝飯(鼓楼夜市で売っていたもち米で作った一見ケーキのような甘いお菓子)
⑫ 蜜汁人参果
⑬ 五香芝麻餅
⑭ 白飯
⑮ 米酒満江紅
⑯ 洛陽酥肉
⑰ 条子捉肉
⑱ 洛陽海参(紅芋の粉を固めてナマコに見立てたもの。海がないのでナマコはぜいたく品)
⑲ 円満如意湯(ウイグル料理に似た卵スープ)
⑳ 果物(いちご、みかん、りんご)
スープが後のほうででてくるのは、ウイグル料理に似ている。やはり、交易の中心だったところにはウイグル文化が残っていて、ウイグル料理店も多い。

その日の夜は、洛陽大酒店に宿泊。

三、3月31日
1. 龍門石窟
待ちに待った龍門石窟へ。
伊河をはさんで、西山が龍門山、東山が香山。
後漢時代までは伊闕といったが、皇帝の住むところは「竜宮」と呼ばれたところから、後漢時代に「龍門」と呼ばれるようになった。
今回見たのは西山だけだが、東山にも石窟はある。また、頂上に白楽天の墓がある。
北魏時代の494年、都が大同から洛陽に遷されたときから始まり、北魏時代に3分の1、あとの3分の2は、それ以降の時代、唐代にわたって作られ、2、345の石窟、2,800以上の石碑、十万体の石仏がある。
(1) 万仏洞
唐代、860年から20年かかって作られた。阿弥陀仏の上にある54の蓮。天井の蓮の中に「永隆」の文字が見える。
(2) 蓮花洞
525年から527年に作られた。中央の釈迦像には顔がない。天井には蓮の花があり、最小の2cm大の仏像がある。
(3) 奉先洞
一番有名な洞、というより、階段を上っていった先にある巨大な盧舎那仏は、則天武后に似せて作られたとのこと。像の高さ17.14m。耳だけで1.9m。則天武后が化粧料を寄付して875年から55年がかりで作らせたとのこと。奈良東大寺の大仏に似ているので、これを見た遣唐使が伝えたのではないかといわれている。腕は唐代の地震で破損。両側には、大相国寺等でおなじみの配列:カショー、アナンの弟子と文殊・普賢菩薩、そして四天王がまわりにいるが、自然崩壊している。
(4) 古陽洞
「龍門二十品」という書の名品のうち、十九品がここにあるので書家がよく訪れる。
仏像の顔が長いので鮮卑人をモデルにしたといわれている。
(5) 薬方洞
門のところに、漢方薬140種類の作り方が彫ってあるのでこういう。
(6) 賓陽三洞
中洞、北洞、南洞の三つの洞がある。中洞は宣武帝が80万人を動員して作らせた北魏時代のもの。南洞は唐代のものなので北魏に比べてふくよか。
(7) 潜渓寺洞
入り口のすぐ脇にある阿弥陀仏のある洞。

敦煌や新疆ウイグル自治区にある石窟と比べると、簡素。
第一に、彩色がない(あるいはほとんどはげている)
第二に、敦煌や新疆では、中央の仏の裏にもうひとつ空間があって、涅槃物があったりしたが、龍門のは単純な一室構造ばかりだった。
今度是非、この違いがどこからくるか調べてみたい。
2. 関林堂
1593年建立、660アールの敷地。219年孫権に殺された関羽の首塚があるところ。
中国にはほかにも二箇所関羽の墓があるが、首があるここが最重要といわれている。
「林」というのは、聖人、偉人の墓のことだが、「林」という言葉が使えるのは、孔子と関羽だけ。
入り口の前に印鑑を彫る人がいたので、100元で作ってもらった。
門の左に、関羽が曹操に捕らわれて、家来になることを勧められたときに、竹の葉に模した詩で劉備に変わらぬ忠心を伝えた墨絵がある。「哀謝東君意 丹青独立石莫嫌孤曹談終久不彫霊」。門の上の「成容六合」は西太后の書といわれている。六合とは、天地東西南北のこと。
一堂の次、二堂では、孫権のいる南京の方角をにらみつけている関平がおり、三堂は寝殿。
裏の売店で、梅の花のような白い模様が自然に出ている火山石でできた文鎮と、関羽の記念切手を買った。
3. 少林寺
少林寺は494年にインド僧のために建てられた
少林寺のある中岳、太室岳(1492m)、少室岳(1512m)を合わせて中岳嵩山といい、中国五岳のひとつ。太室は正妻、少室は愛人という意味があり、愛人の方が愛されることから、高さが逆転しているという説があるそう。
(1)塔林
塔林は、僧の墓が林立する場所。最高15mの墓が224基あり、七層という点は同じだが、時代によって形が違う。四角:隋唐宋、丸:元、六角:明清。唐代最古の塔は、楊貴妃の体型を模してずんぐりしているといわれている。
僧の死後、弟子が寄付金を募って建立するので、①地位、②弟子の数、③功徳がそろわないと立派な墓ができない。独立した墓を建てられなかった僧については、「普通塔」にまとめていれるので、普通塔は追加できるよう入り口が開いている。ただし、普通塔のレベルも功徳によってちがう。小僧さんようの「普通童行」もある。
先代29代少林寺方丈の墓は1990年(死亡は1987年)に建てられた立派なもの。
(2)少林寺本堂
門の「少林寺」の文字は、康煕帝の揮毫といわれる。
三大火災(唐、宋、1928年の国共内戦)で消失したが、1980年代に再建した。映画「少林寺」は、李世民(太宗)を少林寺の僧が助けた話。それに謝意を示すために太宗が彫らせた石碑に「世民」のサインが残っている。
僧80名と在家弟子1000名が暮らしている。尼僧用の住居は別のところにある。
樹齢1400年という銀杏の雄木は結婚しない僧になぞらえたもの。そこにあいているたくさんの穴は拳法の練習でできたものだという。
庭にある明代の粥を炊いた鍋は深く、人の背より高いが、料理僧は拳法の技で天井からぶらさがって混ぜたらしい。
また、日本の寺にもたくさんある、亀の甲羅に石碑が乗っているもの、少林寺にもたくさんあったが、あれは亀でなく、「贔屓」という、竜の九番目の子供だということがわかった。この子だけ姿かたちが違うので、同情されかわいがられたところから「贔屓」という言葉ができたのだろうか。
(3)立雪亭(達磨亭)
527年にできた。小乗仏教の盛んな中国で大乗仏教を布教しようとして、受け入れられなかった達磨大師は、9年間近くの山にこもった。恵可が弟子入りしようとしたが拒まれたため、誠意を示すために、雪の中に立ち続けた上、自分の腕を切り落としたという逸話からこの亭ができた。
(4)少林寺拳法見学
近くにあるたくさんの拳法学校のひとつで、生徒がパフォーマンスを見せてくれた。中にはたった6歳の子供もいて、拳法そのものはもちろん、その前に時間をかけて呼吸法で気を整えているところはとても興味深かった。外でも生徒がずっと訓練をしていた。
なぜか、この辺には一人っ子政策のスローガンの看板がたくさんあって、「少生優生」とか、「丈夫有責」とかでかでかと書いてあった。
この日は鄭州の索菲持国際飯店に宿泊。夜は一時間100元のマッサージに。

四、4月1日
1. 黄河遊覧船
船で黄河を遊覧。海のように広大な河。そして、泥が多い。途中で船を降りた場所は、河の中洲のようなところだが、ジャンプするとその部分が凹むのにすぐ戻るという面白い現象がみられる。
2. 河南省博物館
非常によく整理されて英語の説明もついている良い博物館で、黄河文明の発祥地河南省の面目躍如。とくに、墓の副葬品「明器」のすばらしさにはうなった。家や台所の精巧なミニチュアとかが、昔のお人形さんごっこみたいに作られて、副葬品として埋められていたのだった。

夕方、飛行機で深土川へ、そして船で香港へ。

五、ガイドさん
今回の旅行が楽しかったのは、ガイドさんが優秀でいい人だったことに負うところが大きい。
陳利明という洛陽出身、1978年10月19日生まれの女性のガイドさんで、去年の夏に大連外国語学院日本語学科を卒業したばかりで、鄭州の旅行会社に勤めている。男性のような名前なのは(中国でもそう)、姉3人の後に生まれたため、誕生後1ヶ月で一人っ子政策が施行されたそう。河南省からはその年ただ一人日本語学科に進学し、卒業時も200人中4番だったという秀才。卒論のテーマが「はとがの使い分け」というのにはびっくり。将来は学者になるのが夢だそうで、博物館の説明も、研修会にあらかじめ参加するなど、とても熱心で誠意ある対応には感心した。
昨夏のシルクロード旅行で中国人に偏見をもってしまったが、考え直した。
こういう人との出会いこそ、旅の醍醐味と思わせるガイドさんだった。
また、同行者がみな、知的好奇心のある方ばかりだったので、いろいろ教えてもらったりして楽しい時間をすごすことができた。

                                   

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