夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

三島由紀夫展

2005年06月21日 | 読書
今年は三島由紀夫生誕80年ということで、神奈川近代文学館で、特別展示や連続講演会が行われた。

私は単なるアマチュア研究者だが、学生時代から研究会で田中美代子先生とも親しくさせていただいているし、山中湖の三島由紀夫文学館で毎年行われるシンポジウムにたびたび参加させていただいている。今、山中湖の文学館の中心的な人物である佐藤秀明氏や井上隆史氏とも懇意にさせていただいており、今回、招待券を頂戴した。

特別展は、この二人が監修しているだけあって、非常に見ごたえのあるすばらしい内容だった。
それぞれのテーマにつけられた説明も、よく整理され、調査された結果をうかがわせるものだった。
三島由紀夫展は、大規模なものとしては、亡くなる直前に東武デパートで、1979年に伊勢丹デパートで、行われたことがある。
伊勢丹のときは高2だったけど、もちろん行って、月の小遣いとほぼ同額のカタログも買って、今も大切に持っている。

今回の特別展で気づいたことを:
○自決直前に投函したドナルド・キーン氏宛の遺書が、コロンビア大学から提供されていた。本物を初めて見たが、胸に迫る内容だった。
キーン氏の講演会には何度か参加したことがある。
数年前、世田谷で行われた講演会で私が質問したら、帰りに、年配のご婦人に声をかけられた。
その後、澁澤龍彦の夫人だった矢川澄子氏の訃報に接し、写真を見てあのときの方だと知った。
○「春の雪」の冒頭に出てくる日露戦争の「得利寺附近の戦死者の弔祭」という写真の実物が見られたのも感激だった。
○私もよく知っている収集家の提供した楯の会制服・制帽、ちょっと虫食いがあるのがご愛嬌。
○三島が、「理解」という言葉を、「理会」と表記するのが気になっていたのだが、昭和15年の東文彦宛の書簡では、「理解」となっており、いつ頃から表記を変えたのか、調べてみたいと思った。
○昭和22年12月の高文試験の結果が、167人中138位というのにちょっと驚いた。当時はそれくらいの成績でも大蔵省に入れたのだろうか。川端康成宛の書簡に「日本勧業銀行の入社試験に落ちた」と書いてあった(それを見て、縁を感じてうれしかった。三島の影響も多分にあって文三から法学部に転部したが、大蔵省に就職するところまでは真似できなかったが、三島が落ちた会社には入れた、ということか)から、当時はそんなものなのかもしれない。
三島の作品の構造的な完璧さは、東大法科時代「刑事訴訟法の構造的な美しさに魅せられた」という三島(団藤先生は、「三島が刑事訴訟法でなく刑法に魅せられたなら自決しなかっただろう」と述べたらしい)だが、実体法の勉強にはそれほど才能がなかったのか、「豊饒の海」第三巻「暁の寺」に、びっくりする記述があった。弁護士本多繁邦が受任した製造物責任の事件で、薬が変質していたことを説明した後、「こうした民法上の不法行為は債務不履行で処理されるべきものが、向うは刑法上の詐欺罪で訴えてきた」という叙述があったのだ。
民法上の二大請求原因の区別がまさかついていないのでは?とかなりショックを受けたものである。
私も実は法律の試験勉強は苦手だった。(今でも苦手だからNYBarも苦労した)
小学校から大学2年までは、とくに試験勉強をしなくても、授業に出るだけで試験でいい成績が取れたのに、法学部に進学したとたん、相当な量の勉強をしなければ単位をとれなくなった。それまでは、「勉強があるから、したいことをする時間を削る」という発想がなかった、つまり、学校の課題以外の勉強を家でやることはなかったのに、生まれて初めて「勉強というのは、ある程度の量をこなさなければならない力仕事だったのだ」と気づいたのだった。
私は法律の研究は向いていても勉強は向いていないのかもしれない。
三島もやっぱり苦手だったのか…ということで正当化してはいけないのだが。
○初めて映画化された作品が「純白の夜」(木暮実千代主演)だったことを初めて知った。

講演会は、島田雅彦、堤清二、猪瀬直樹のに参加した。

島田氏は、自分の著書の宣伝ばかり(「豊饒の海」へのオマージュという三部作は、はじめの「彗星の住人」を読んだだけでひどいのでやめた)で、しかも、「春の雪」のキーワード中のキーワードである「勅許」(浅田彰も「構造と力」でこの点を取り上げているくらいだ)を、「ちっきょ」と読んでいるのが噴飯物だった。同業者なのに車谷長吉を「くるまたにちょうきち」と読んでいたしね。もう少し、勉強しろ、といいたい。

堤清二氏の話は、自決当日の話等、三島を身近で知っていた人らしい話しだった。楯の会の制服を西武デパートで作った(三島はドゴールの軍服と同じデザイナーを希望し、それが西武にいた日本人デザイナーだった)ことから、父の梓氏に「堤さんが、あんな制服作ったから倅が死んだ」と当夜いわれたというエピソードなど。
「らい王のテラス」で自分の肉体と引き換えにバイヨンができる、という思想が三島の中核をなしているという話は大変説得力があったが、主人公の王の名をバヤジャルマン7世、といっていたので、帰りのエレベーターで一緒になったとき「正しくはジャヤバルマンです」と告げたら、「教えてくれてありがとうございます」といっていた。

猪瀬直樹は、私の勤め先と浅からぬ縁のある人。
10年前に、三島の生涯を、親子三代官僚の物語として捉えなおした「ぺルソナ」を出したことが、実は現在道路公団の民営化をやるようなことにつながっている、と聞いて驚いた。
つまり、「ペルソナ」を書く過程で、今の日本の問題を作ったのが、官民一体の産業育成体制であること(とくに、偶然にも、三島の父梓氏の商工省で同期だった岸信介の作り上げた1940年体制〔これが1960年代の高度成長の礎になった〕が元凶であるとのこと)に気づき、構造改革に関与することになったというのだ。
本人も、「10年前、これを書いているときには、自分がこういう立場になるとは思わなかった。これを書かなければこういう仕事はしていないので、人間の運命というのは本当に面白いと思う」といっていた。
ペルソナ―三島由紀夫伝 (文春文庫)
猪瀬 直樹
文藝春秋




個人的には、「ペルソナ」よりも、太宰治のことを書いた「ピカレスク」の方が出来がいいと思う。実際、後者は、「こんな仕事を文芸評論家でない人にやられたら、本職は困るだろうな」と思うような傑作だった。

ピカレスク 太宰治伝 (文春文庫)
猪瀬 直樹
文藝春秋



文学を実証的に研究する、しかも、政治等、社会科学的な視点も入れる、という姿勢は、「法と文学」をやろうとしている私には参考になる点が多々ある。
「仮面の告白」の園子のモデルに会ったりして、丹念に取材し、「仮面の告白」が不必要なほど克明なノンフィクションである(このことを、加藤典洋氏は、記号論的に解説している)ことを調べている。
また、太宰との関係では、「斜陽」までは、全ての著作が初版どまりでそれほど売れていなかった太宰が、心中事件によってベストセラー作家になったことに三島も影響を受けていた、という解釈は面白かった。
大蔵省を辞めて、作家としての将来をかけた作品「仮面の告白」では、太宰に倣って、自分の半生を赤裸々にさらすことでいったん「死に」そのことによって、作家として成功しようとした、というのだ。

講演後のサイン会で、勤め先をいったら、今回の騒動のことはよく知らないようだった。
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