魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

宇野浩二「枯木のある風景」

2013-01-25 01:23:01 | エッセイ 文学
宇野浩二「枯木のある風景」/                                                                          吉野 光彦


 「枯木のある風景」は、いわゆる大患ののちの、宇野浩二の復帰第1作である。
 宇野浩二――というと、今では近代文学を専門に研究している者しか読まないような、忘れられた作家であるが、大正8年(1919年)に「蔵の中」と「苦の世界」で文壇に登場して以来、大患期の数年は除くとしても、没する昭和36年(1961年)まで約50年間、読者も多く、ほとんど畏敬の念にも似た尊敬を受けつづけた、第一流の作家であった。

 その宇野浩二を、このところ私は読みつづけている。というのは、復帰第1作の「枯木のある風景」について、論文を1つ書こうと思い立ったからである。

 この作品は、あの特異な画風を残して死んだ小出楢重をモデルとしたことでもよく知られている。
 その小出と親友であった画家・鍋井克之が宇野浩二とも親友であったので(3人とも大阪人だ)、2、3度会ったこともあり、何よりもその作品と死に方につよい印象を受けていたので、宇野はこれを久しぶりの小説に仕上げようと考えて書き始めたのだった。

 昭和2年(1927年)の6月から7月にかけて、文壇と世間に大きな衝撃を与えたのは、芥川龍之介の自殺と宇野浩二の発狂であった。大正期はえぬきの作家である2人の作家が相次いで戦列を離れたことで、世間はよき大正文学の時代が名実ともに終わりを告げたと知らされたのである。
 宇野の精神疾患そのものは、2年ほどで治癒したようだが、文壇に復帰するまでには6年ちかい歳月を要した。若い無名時代に童話を書いて糊口をしのいだことがあったけれど、今回もまた宇野浩二は童話を書いて経済的な困窮に耐えた。しかし本格的な小説は、なかなか書けなかったのである。

 宇野がこの素材を書こうと考えたのは、鍋井克之から次のような話を聞いたからである。
 小出楢重は、亡くなる1、2年前から画技がますます冴えてきたが、それとともに肉体が次第に衰えてきて、目がショボショボして老人のような目つきになってしまった。これを漫画のように表現すると、頭ばかりがいやに大きくなり、それを支える肉体がしだいしだいに痩せ細った挙句、すうっと死んでしまった、というのである。
 この話がいたく心に残ったのであった。

 宇野は大患後の困窮期であったのに、二科展に出品された小出の「横たはる裸婦」2点のうち1点を「欲しくてたまらなくなり」月賦のような形で購入している。このときふたりの間に交換された書簡が残っているが、それほど宇野にとって小出は尊敬に値する画家だったのである。
 このような下地があったにしても、宇野が芸術家の作品と肉体との異常な関係に創作欲を刺激されたことは、興味深い事実である。その根底に小出の芸術に対する深い尊敬があったのは間違いない。また宇野自身、大患によって、芸術家の肉体と作品の関係について無関心ではいられない事情もあったであろう。

 とはいっても、鍋井という親友がいたにしても、宇野は画家の内情についてまったく無知である。そこで宇野は小出の3冊のエッセイ集――小出楢重はその飄逸な文章にも多くのファンを持っていた――を買ってきて熟読し、そこからいくつかのエピソードを得て作中に書きこんだ。また鍋井から、可能なかぎり、画家の生活について話を聞いたであろう。

 にもかかわらず、いざ書きはじめると、筆はなかなか進まなかった。16枚書いたところで、ついに前に進まなくなった。宇野は「九夏三伏」の夏の3ヶ月を苦闘し、途中で別の作品を書きはじめたりしたが、それは我慢して「枯木のある風景」に戻った。そして三ヶ月あまり後に、ある日突然、現在の冒頭の数行が浮かび、それから筆は進み出したそうである。

 紀元節(2月11日)の朝、雪に気づくと島木(鍋井)は奈良へ写生旅行に行こうと思い立った。そうして出かけてから3日の間に、スケッチしたりしながら島木は、最近、異常なほど画境が深まってきた友人・小泉圭造(小出)のことを考えつづける。なかでも島木の頭から離れないのは、その3ヶ月ほど前の10月末に芦屋のアトリエに小泉を訪ねた時に見た、2つの未完成の絵のことであった。

 その1つは家の近くの景色をただ描いただけのものであるが、前景に、切り倒されたばかりの丸太が数本ころがっている。そして野の向こうに2つばかりの建物があるのはともかく、野の果てに高圧線の鉄塔が描かれ、そこから左右に出た無数の電線が画面の半分を覆っているという暗鬱な光景であった。

 この絵について小泉圭造は「これからは、芭蕉風に、写実と空想の混合酒を試みてみよと思ふんや。題して『枯木のある風景』といふのはどうや」と自信にみちて言った。
 島木は、この言葉に衝撃を受けた。それで今もしきりにそのことを考えつづけているのである。そこへ家から小泉圭造の死を告げる電報が来て、島木はあわてて弔問に駆けつける。
 小泉の遺骸のそばには、故人の絶筆となった2つの絵が黒いリボンをつけて飾ってあった。

   島木新吉は、亡友の遺骸に黙禱してから、ずゐぶん長い間、その二つの絵を見くらべ、見つめた。
   島木は、しかし、「枯木のある風景」にも異常な敬意をはらつたが、「裸婦写生図」の方により多くの敬意をはらつた。

 この最後の思いがけない1行が、この作品を傑作にしているのだ。試みに、最後の1行を抜いてみると、この作品は、ある異常な画家の異常な死を描いた佳作、ということにとどまるだろう。しかしたった1行を加えることによって、作品は得体の知れない芸術の闇を読者の前に黒々と投げかけて終わるのである。

 私の論は、この1行の意味を、抽象的ではなく具体的に論証することが目的である。宇野はこの作品を文学へ昇華するために、おそらく2つの虚構を作中で行っている、というのが私の推定である。
 図書館へ行って小出楢重の画集を眺めたり、そのエッセイや鍋井克之のエッセイを読んだり、これまでに書かれた諸家の評論を読んだりしながら、私もまた猛暑らしいこの「九夏三伏」を、この作品と格闘しながら過ごすつもりである。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿