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町内の例年行事の成田さんのバス・ツアーに同行した。
成田山 少々呆けていますが・・・
無垢の床板・・・厚いね~ビックリ
疲れた~・・
帰りのバスでなぜか目が覚めるとバスの窓に夕日が一杯・・・
築地本願寺の傍で・・昭和が一杯の民家の化粧板壁・・ササラ押し縁 鎧板貼り壁(板厚:2分3里?)
懐かしい香りがした・・・ふるさとの家と同じ板貼り
家に帰ると塩ラーメンをカミさんに作ってもらい食べた。
疲れていた所為か うまかったね~
末筆ですが きょうのバスツアーでは会長さんを初め役員の方々や同行された町内の方々の親切な心配りに深く感謝いたします。
もう足腰が弱くなったので参加も 多分 今年で終りでしょうね。
皆さまホントにお世話になり有難うございました。
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http://mainichi.jp/opinion/news/20130123k0000m070121000c.html 以下全文
余録:「軍事行動が繰り広げられる場の4分の3は多かれ…
毎日新聞 2013年01月23日 01時16分
「軍事行動が繰り広げられる場の4分の3は多かれ少なかれ不確実性の霧によって覆われている」。プロイセンの軍人、クラウゼビッツの言葉である。いったん戦闘状態に入れば戦場は予測不能な事態が積み重なり「戦争の霧」がたちこめる
▲そんな霧の中に無防備な民間人が閉じ込められたようなアルジェリア人質事件だった。世界中が息をのんだ犯人グループへの政府軍の攻撃だが、「作戦終了」発表の後も拘束された人々の安否についてなお情報が錯綜(さくそう)した
▲つのる不安の中、ひたすら無事を祈るしかない人質の家族にはあまりにむごい霧の中の時間である。その果てに明かされた惨状はさらに無慈悲なものだった。人質多数の死が明らかとなり、その中で日本人犠牲者が確認された。人々の祈りを「戦場」は冷たく拒んだ
▲拙速(せっそく)に見える強襲にも相応の理由があったのかもしれない。多くの人質を惨殺した犯人の非道より先にアルジェリア政府を非難しては倒錯になろう。ただあまりに痛ましい結末を目(ま)の当(あ)たりにすれば、犯人掃討(そうとう)のために人質の犠牲をいとわなかった非情もうらめしい
▲思えば日本人も、他の国々の人質たちも豊かな未来に向けた資源開発をめざし、愛する家族と別れて砂漠のプラントへと出向いていた人々であろう。だが、その砂漠はまた人の情をあざ笑うかのような荒々しい力が流血をいとわない闘争を繰り広げる世界でもあった
▲むろん砂漠とて異界でも何でもない。私たちが暮らす平和な日常と同じ空気が満ちる同じ世界の一部である。無残に断たれた犠牲者の志は、私たちがこれからの世界でなすべきことを問いかける。
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つぶやき ぶやき
シナ事変の始まりも匪賊(毛沢東軍)が蒋介石軍と関東軍の両方の陣に夜陰に紛れて発砲したのがきっかけとかネットで読んだ気がするが案外本当かもしれない。
関東軍も まさか匪賊の仕業とは思わなかったのでは?当時 日本では満州奥地にいるゲリラを匪賊と呼んでいた。戦後・・・・匪賊と呼んでいたのが毛沢東軍のことだったと知る。
尖閣列島が目にチラ・チラしてへんなことを思い出しました。もう寝ます。
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