origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

アドルノ・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)

2008-01-22 15:44:19 | Weblog
>>
始めにロゴスはあった。ロゴスは主とともにあった。ロゴスは神であった
(「ヨハネによる福音書」)
<<
百科全書派やヴォルテールを輩出した18世紀啓蒙主義には、以下の2つの特徴があると思う。
1人類の科学的進歩を信頼し、科学の発展とともに世の中が改善されていくと考える。
2人間の理性(ロゴス)を信頼する。
1の点においては、啓蒙主義は反キリスト教的である。キリスト教終末論においては、世の中は次第に悪化していき、最後の終末(「ヨハネによる黙示録」)でイエスが再臨し、救いが訪れると考える。終末に至るまでは、世の中は悪化していくのである(仏教の末法思想もこれに近い)。それに対して啓蒙主義は、むしろ原初から文明が進歩し、人間の社会が次第に良くなっていくと考える。これはキリスト教の終末論と相反する思想であり、啓蒙主義が当時のカトリック教会からあまり歓迎されなかったのもここに一つの理由があるだろうと思われる。
しかし2の点においては、啓蒙主義はキリスト教神学、キリスト教の新約聖書(はじめにロゴスありき)、そしてそれらが基盤としたギリシア哲学の伝統を引き継ぐ思想体系である。ヘラクレイトス以降、ロゴス(言葉、理性、論理)というものは、プラトン、アウグスティヌス、啓蒙主義と西洋の哲学者にとって極めて重要な意義を持つ概念であった。
ジャック・デリダのロゴス中心主義(logoscentric)批判・並びに脱構築は、西洋の哲学におけるロゴスの絶対性・優位性を問い直すことで、これまでの哲学者たちの論理的な構築というものを崩し、プラトンの哲学やアウグスティヌスの哲学を新たに解釈し直す、というものであった。しかし、デリダ以前でも、ギリシア的ロゴスに対する批判というものは存在していた。例えば、フランス革命を嫌い、理性よりも伝統に重きを置いた保守主義者エドマンド・バークは、人間のロゴスというものが絶対的に信頼すべきものではないということを理解していたと思う。この西洋のロゴス批判というものを考える上で、おそらくデリダと同等に重要性があると考えられる思想家は、アドルノ・ホルクハイマー(以下、A&H)であろう。
近代が生み出した資本主義・自由主義に対する批判は、19世紀からあった。初期社会主義者やマルクス・エンゲルスの資本主義批判はあまりにも有名であるし、社会主義者ではないがヤーコプ・ブルクハルトも近代の資本主義と資本主義に依存しなければ生きていけない近代的な人間の姿を批判している。
ニーチェと交友関係のあったブルクハルトの歴史観は興味深いものである。彼はギリシアの文化・芸術を礼賛した。そしてギリシアから、古代ローマ、中世ヨーロッパという歴史の中でギリシア的なものが継承されてきたと考える。しかしそのようなギリシア以来の歴史的伝統を崩してしまったのは、近代であった。近代は、歴史的伝統を度外視し、歴史を知らないタブラ・ラッサ(白紙)の状態で歴史を進めようとした。タブラ・ラッサとはジョン・ロックの用語だが、ここでブルクハルトが暗に批判しているのは啓蒙主義・並びに科学主義を奉じる近代の人々のことなのだろう。中世の人間は資本主義に依存しなくとも生きていくことができた。しかし近代はそうではない。近代の病とは、これまでの歴史的伝統を断ってしまうというところから生じているのである。
ブルクハルトの近代批判に比べると、A&Hの近代批判はラディカルである。『啓蒙の弁証法』の中で、「啓蒙」と「神話」という対立概念を挙げる。前者を人間のロゴスによる啓蒙主義・合理主義であり、後者は原初的な非合理的な自然である。「神話」的なものを「啓蒙」的なものが抑圧する。この抑圧は、しかし近代に始まったものではない。これはホメロスの時代から既に始まっていたのだ、とA&Hは考える。
彼らの有名な『オデュッセイア』解読の中で、オデュッセウスはロビンソン・クルーソーの祖として捉えられる。経済学者は、島の中で自足自給していくロビンソン・クルーソーの中に、合理主義的・資本主義的人間の姿を見出した。マルクスは資本と労働の配分という事実が『ロビンソン・クルーソー』の中に含まれているということを指摘している。A&Hは、何とオデュッセウスの中にまで資本主義的・合理主義的な人間の姿を見出す。既にロゴスによる非合理的な自然への侵犯は、『オデュッセイア』の中で始まっていた。オデュッセウスは妻ペネロペに言い寄る108人の男性を次々と殺害していったが、その残忍な殺害もオデュッセウスの英雄譚の中に回収されていく。108人の殺害は、『オデュッセイア』において合理化されている。
A&Hの理性批判は、文化産業批判や反ユダヤ主義批判となって展開していく。かつては理性というものが何らかの目的のために用いられるものであったのに関らず、近現代においては理性はそれ自体が目的となっている(カント的に言うならば理性が即自的になっている)。啓蒙主義・合理主義は絶対的な目標を失い、啓蒙主義・合理主義そのものが目標となってしまっているのである。反ユダヤ主義を合理主義からの非合理主義への侵犯という観点で批判しているのも興味深い。ユダヤ教はある不幸をそれが不幸であるからという理由だけで耐え忍ぶ。このような不幸を合理化しない態度こそが、合理主義にとっては脅威なのである。アドルノの「エンドゲーム論」においては、そのような合理主義からの逃避が重要視される。
A&Hの批判の鮮やかさは、彼らが統一的な思想体系をつくっていないことにも起因しているように思う。田川建三はイエスのことを、思想体系を持たない「批判的主体」だと考えたが、A&Hもそれに近いと思う。結果的に彼らはある思想体系に自身の思考が還元されてしまうことを防いだ。A&Hは、理性やそれに基づく啓蒙主義・合理主義・文化産業というものを批判する主体であり、「脱構築」理論のような思想体系を持つ思想家ではない。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。