origenesの日記

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山之内靖『マックス・ウェーバー入門』(岩波新書)

2008-01-22 17:35:22 | Weblog
エドワード・サイードは『オリエンタリズム』の中でマックス・ウェーバーを批判している。彼がイスラム研究(「世界宗教の経済倫理」)においても後続の学者に多大な影響を与えたのはなぜか。サイードによれば、それは彼がイスラムに対して綿密に研究していたからではなく、単に当時のオリエンタリストたちによって構成されたイスラムに対する類型概念を、ウェーバーがなぞっていたに過ぎないからだ、という。
このサイードによるウェーバー批判が、ウェーバーを研究する学者たちにとって決定的なものであったかどうかはわからない。ただ、ウェーバーに対する(部分的なものも含めた)批判というのは、おそらくサイードだけではなく、それこそパーソンズやジンメルを始めとして無数に存在するはずであり、それらの批判に対して何らかの応答をすることなしに今日においてウェーバーを研究する意義はないのであろう。
この入門書は、今まで大塚久雄のような優れた学者によって、近代的、もしくはドイツのプロテスタント神学的、と考えられてきたウェーバー像を乗り越え、ウェーバーをニーチェとともに近代知の限界に立っていた人物として再構成しようと試みている。ウェーバーのニーチェに対する評価は必ずしも肯定的なものではなかったというが、著者はウェーバーの重要な著作である『古代ユダヤ教』に注目した上で、キリスト教の伝統を相対的に見なす視点がウェーバーの中に存在したことを明らかにした。そしてニーチェと同じように、ウェーバーがソクラテス以前、ソフォクレス時代の古代ギリシアに強く魅力を覚えていたということを指摘する。果たしてウェーバーは本当に近代プロテスタンティズム神学の精神を社会学へと生かした学者だったのか。ニーチェとウェーバーは本当に切り離して考えなければならないのか。本書は、著者の師匠に当たる大塚久雄の学問的業績に対する最上の回答の一つであり、私たちは大塚久雄と山之内靖という2人の優れた論者の中に断絶したウェーバーを、自分の思考の中で把握しなければならないのである。
ところで、『古代ユダヤ教』というのも魅力的な著作だ。私の友人はこの著作に対して、「フロイトの『モーセと一神教』と同じ匂いがする」と評していたが、「価値自由」という概念において逆説的に「絶対的な客観性など存在しない」ことを明らかにしたウェーバーだからこそ、このような単身で古代を解き明かしていく行いが可能となったのだろう。

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