明日はおそらく七転八倒!

勝手に新選組。
自分は新選組が好きなので、勝手に新選組を始めます。
あくまで、勝手にってのがミソです。

ボヤキ

2015-01-27 17:41:22 | 小言
「おっちゃん、久しぶり」

「おう、久しぶりだな。おまえも、見ないうちにだいぶ年取ったなあ」

「そりゃ、最後にあったのじいさんの葬式依頼だもん。年もとるよ」

「そうだよなあ。昔は俺たちも一世風靡したんだけどなあ・・・オレたちこのまま一発屋で消えるのかな?」

「おっちゃん!悲しい事言うなよ!」

「でもな、時代の流れには逆らえないよ・・・」

「何が時代の流れだよ!おっちゃんはアイドルの握手券とかついてくるし、まだまだ人気じゃん!ボクなんて・・・ボクなんて・・・」

「そうゆうなよ、みんなの目的は握手券であって、だれもオレには期待してないよ」

「そんな事無いよ!おっちゃんはみんなに期待されてるよ!」

「え?オレが!?まさかー」

「いや、本当に。例えば・・・

カラス除けとか!」

「・・・」

「・・・」

「・・・ああそうね。カラス除けね・・・」





ちなみにじいさん。

焼き肉の巻

2015-01-26 23:26:51 | 勝手に新選組
本日の勝手に新選組は少し趣向を変えて、フィクションにしてみようと思う。

富良野にて、カツシゲさんと肉を焼いて食べてきた。

しかし昔の日本では魚は食べても、獣肉を食べるといった習慣が無かったようだ。(禁止ではない)

禁止ではないし、坂本龍馬の好きな食べ物は軍鶏鍋だったという話もあるようで肉を食べていた人たちはいたようだ。

新選組も、残飯を豚に食べさせて、豚が太ってきたら豚を食べていたようだ。

また、豚を殺すとき「ぶーぶー」豚が言うもんだから、近所迷惑にもなったという話もある。

きっと、打ち上げやなんかのときに肉を食べていたのだろう。

ということで・・・

題して「仮想、みんなでお肉を食べながら乾杯の巻!」

そんなわけで、勝手に新選組。

幹事
土方歳三

参加者
近藤勇
沖田総司
永倉新八
原田左之助

日にち
1863年10月6日(文久3年8月25日)

場所
叙々苑

概要
このお話はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

これは、八月十八日の政変後、京都守護職会津藩藩主松平容保さんから新選組の名を頂いたために田舎者の試衛館道場からの同士が集まり焼き肉を行っていたという。

しかし、沖田は約束をすっぽかして屯所の前で子ども達と遊んでいたそうである。

時間には、当然間に合わなかったようだ。

そうゆうわけで土方が怒っていると、沖田がやってきたようだ。

怒りの頂点に達した土方は沖田に「お前切腹!」と言い、それに対し沖田は「鬼かよ!」と言い返したのだ。

このせいで土方が『鬼の副長』と呼ばれるよういなったらしい。

そんな土方は店に入るなり、女の店員をナンパしたそうだ。

鬼のかけらも無い。そしてチャラい。

そしてこんな句を歌っている。

「しれば迷い しなければ迷わぬ 恋の道」

チャラい。そして、イタい。鬼っていうかナルシストだ。

一同は、土方の病気がまた始まったと言って、土方を無視して「とりあえず生!」と注文したようだ。

その後、この事を土方はこう語っている。

「オレはさんざん総司をまっていたのに、あいつはオレを無視しやがったんだ。なんて冷たいヤツなんだ」と。

恋の道に迷った、あんたが悪い。

そんなこんなで、注文した肉とお酒が来て、乾杯。

原田はいつもなら酒を飲むが、その日は「腹の傷がうずくぜ!」と言って現代でいうノンアルコールを注文していたそうだが、一口飲むなり

「パンチが足りない!」

と文句を言うのだった。

エラそうなヤツだ。

一同は「お前、ノンアルコールで酔っぱらったのかよ!」と口々に言うが原田の怒りは治まらず、店員を呼びつけクレームを言ったそうだ。

モンスターである。

クレームを言われた店員はこう言ったそうだ。

「ノンアルコールですから!」

全くその通りだ。

原田はぐうの音も出なかったそうで、いつもの勢いは完全に無くなり、一人でしっぽりとノンアルコールをちびちび飲んでいたそうである。

しょうがないヤツだ。

そんな中、永倉は我武者羅に肉を焼きまくる。

焼きまくるののはいいが、近藤がいちいちいちゃもんをつける。

「まだ焼けてない」だの、「これは焼き過ぎだ」だの。

しまいには「その箸で生の肉触ったろ?その箸で焼けた肉触るなよ!」と言って店員に「スイマセン。新しいお箸ください!」なんて言ったそうだ。

なんて、めんどくさいヤツなんだろうか。

そんなわけで永倉は近藤にたいし「わがままなヤツ!」と言ったそうだ。

そんなこんなで、黙々と肉を食べ続ける隊士たち。

あまりにも静かすぎるもんだから沖田が

「人って、カニを食べる時と、焼き肉を食べる時って本当に黙るんですね」

と言ったかどうかはわからないが、あまりにも静かだったのでこの事を土方は

「来た人に もらいあくひや 春の雨」

と句にして歌ったようだ。

意味は、春って雨降ったらやる事無くて、遊びに来てくれたお客さんもあくびするよね。それにつられてオレもあくびするよね。それぐらいヒマ。という事らしい。

そんなこんなで、2次会は行きつけの角屋で行ったそうだ。

土方は幹事のくせに2次会には参加しなかったようで、気がついたらいなかったそうである。

チャラ男はどこで何をやっていた事やら・・・。

こんな奴らが新選組で、本当にいいのだろうか?

京都焼き討ちを防ぐ前に、「焼き肉焼いても今日焼くな!」と言ってやりたいと、勝手に思うのである。

鈴木三樹三郎

2015-01-25 22:13:26 | 勝手に新選組
最近は池田屋関連が続いたので、気分を変えて・・・

九番隊の組長をやっていたにもかかわらず、兄の存在に隠れてあまり目立たない隊士。

九番隊組長、鈴木三樹三郎。

そんなわけで、勝手に新選組。

名前
鈴木三樹三郎または三樹三郎(すずき みきさぶろう。または、みきさぶろう)

別名
鈴木多聞
三樹荒次郎、多聞
三樹忠良

生誕
1837年8月15日

死没
1919年7月11日

出身
常陸(現在の茨城県)

流派
北辰一刀流

役職
九番隊組長

性格
物事を軽く考えて、流行に流れやすかったようだ。
あと、兄思いとも言われている。

ニックネーム
本日は珍しく、参考に出来る画像がある。

それがこちら。





なんとなく、香川照之さんに似ている・・・。





そんなわけで『大和田常務』にしたかったが、残念な事に『常務』は既に原田左之助のニックネームだ。

ちなみに自分は音尾琢真さんと香川照之さんが似ていると思っている。




この画像はあんまり似ていないが・・・

というわけで、『オッティ』にしようと思う。

逸話
この鈴木三樹三郎は九番隊組長を任されたりしているが、かわいそうな事に伊東甲子太郎の弟という印象が強いために、九番隊組長の印象が薄くなりがちである。

一応、九番隊組長であり、しかも赤報隊の二番隊隊長だったようだ。

兄とは一緒に新選組に入り、当然御陵衛士にもついて行ったりと、兄と行動をよく共にしている。

しかし、兄が水戸に出るときは三樹三郎はついて行かず村に残り、父の漢学塾を引き継ぐ。

しかし、三樹三郎は学問が嫌いだったようだ。

漢学塾なんて出来るわけが無いのだ。

三樹三郎はあろうことか、子どもたちと毎日戦争ごっこをしたようだ。

そのせいで、保護者たちの反感をかい、漢学塾は閉鎖してしまったようだ。

けしからんヤツだ。

その後、兄、甲子太郎に従い新選組に入隊。

兄が甲子太郎という事で、九番隊組長に任命される。

実戦部隊の隊長も任されたが、剣術はからっきし、部隊指導も全然だめだったようだ。

当然、剣術はからっきしなので九番隊でも全くと言っていいほど活躍できなかったようだ。

剣術がからっきしなので、永倉新八によく指導してもらっていたようだが、軽い性格で今で言うとチャラ男的なヤツだったもんで、遊びほうけていたそうだ。

しかも、流行とかに敏感なヤツだからいっちょまえに京都風の服で着飾っていたらしい。

しょうがないヤツだ。

そして、御陵衛士を結成。

油小路で兄、甲子太郎が殺されたとき「助けに行くのはオレ一人で十分っすよ。もしオレが近藤勇に殺されたら復讐してくださいよ。まあ、そんなこと万が一も無いっすけどね」なんてエラそうな事を言っている。

剣術はからっきしのクセにだ。

がしかし、直後にビビったのか「礼儀正しく行けば、流石に殺されないよね?一応、元仲間だし・・・」と言ったようだ。

どうしようもないヤツだ。

結局、篠原泰之進に「そんなのんきなことばっか言ってんじゃないよ!」と怒られて、みんなと一緒に渋々油小路に行ったようだ。

そして、新選組が待ち構えていると気づいた瞬間、誰よりも早く、真っ先に逃げ出したのである。

呆れてものが言えない。

そんなわけで、生き延びた三樹三郎は伊東派の人たちと一緒に、赤報隊に入る。

そこでなぜか、二番隊隊長を任せられたようだ。

そしていわゆる「偽官軍事件」に巻き込まれ、牢獄へ・・・。

その後釈放され、千葉県裁判所の職員等やったりして、四等警部になったようだ。

天皇巡幸沿道警備指揮長とかもやったようだ。

その後、大正8年まで生き、83歳で無くなったそうだ。

子孫の話によると、非常に謙虚な人だったそうだ。

絶対にウソだ。

きっと、適当な事ばっかり話していたら、そうゆう話になったのだろうと勝手に思うのである。

吉田稔麿

2015-01-24 22:01:24 | 勝手に明治維新
本日も池田屋事件つながりである。

生きていれば、初代総理大臣になったとも言われる人。

吉田稔麿

そんなわけで、勝手に明治維新。

名前
吉田稔麿(よしだ としまろ)

別名
栄太郎

生誕
1841年3月16日

死没
1864年7月8日

出身
剣術・柳生新陰流
槍術・宝蔵院流

性格
師匠松蔭は稔麿の性格を『陰頑』と言っているみたいだ。
無駄口を聞かず、真面目だったらしい。

ニックネーム
参考になる画像とかはない。

とりあえず、師匠が吉田松陰という事で『松蔭じゃない方の吉田』とでも、呼んであげよう。

逸話
まず、稔麿はの名前に着いてだ。

稔麿は吉田と名乗っているが、吉田姓は自称だそうだ。

おそらく、師匠吉田松蔭からとったのだろう。

そんな、稔麿の家は貧乏だったらしく、13歳の時に江戸の長州藩邸に働いたりしていたようだ。

そして、16歳のときに、松下村塾に通い始めて、吉田松陰に出会ったようだ。

ただ、松蔭を師匠と言ってる割に、松蔭には反抗的な態度だったようだ。

そんな、松下村塾に通っていた伊藤博文とは幼なじみだったようで、伊藤のことを「青びょうたん」と呼んでいたらしい。

失礼極まりないヤツだ。

それはそうと、松下村塾では高杉晋作、久坂玄瑞らと『松蔭門下の三秀』呼ばれ、さらにに入江九一をあわせて『松門四天王』と呼ばれている。

という事だが、松陰が幕府の役人たちを暗殺しようと考え始めた時期から、松蔭とは距離をとり始める。

師匠が「役人を暗殺する」なんて無茶な事をいうから止めてあげたのに「お前らなんか弟子じゃねー!」なんて言われたら距離も置く事だろう。

その上、稔麿の両親は松蔭の事をよく思っていなかったようで、両親が「もう、松蔭さんのところに行くのはやめた方がいいよ」なんて言ってたみたいだ。

そりゃ、黒船に乗り込んだときに小舟が流されて帰れなくなるような、間抜けな人を師匠なんて慕っていたら両親としては心配になることだろう。

そうゆうわけで、松蔭と距離をとり始めるようだが、心の奥では松蔭を尊敬していたようで松蔭の慰霊祭には出ているようだ。

その後高杉晋作の奇兵隊に参加したようだ。

そこで奇兵隊に影響されまくり、屠勇隊という差別を受けていた人たちから成る組織を作ったようだ。

あとは、朝陽丸と言う幕府の軍艦に、烏帽子に直垂という姿で乗り込んだようだ。

こうゆうところは、師匠ゆずりの無鉄砲さである。

そうこうしていると、池田屋事件が勃発。

稔麿は、最初から池田屋にいたと言う話と、仲間を助けるため池田屋に行ったら殺されたという話がある。

稔麿は生きていれば初代総理大臣になったと言われているほどの、逸材だったようだ。

そんな稔麿がなぜ京都焼き討ちなんて無謀な事を考えたかわからない。

ただ、師匠ゆずりで思いついたら行動せずにはいられない性分だったのだろう。

ある意味、稔麿は師匠の教えをしっかりと守ったのだと勝手に思うのである。

池田屋事件

2015-01-23 22:30:54 | 勝手に新選組
本日は、昨日チョロっと話が出たので、せっかくなんでとある事件を語ろうと思う。

勝手に新選組という事なので、新選組側に偏った書き方になってしまうかもしれないが・・・。

日本中に新選組の名を轟かせた。

新選組、幕末に興味が無い人も聞いた事があるだろう。

池田屋事件。

そんなわけで勝手に新選組。

名前
池田屋事件(いけだやじけん)

別名
池田屋事変
池田屋騒動
洛陽動乱

勃発
1864年7月8日(元治元年6月5日)

場所
京都三条河原町

概要
池田屋事件とは池田屋に集まった尊王攘夷派の志士たちを新選組が襲撃した事件だそうだ。

池田屋事件では肥後藩の宮部鼎蔵や長州藩の吉田稔麿などの逸材といわれた攘夷派の志士達が戦死してしまったようで、そのせいで、明治維新が一年遅れたと言われている。(逆に攘夷派を刺激して維新を早めたともいわれている)

人斬り集団、新選組が起こした、残虐極まりない事件である。

ただ勘違いしないでほしいのは、当時、新選組の役割は現在でいう警察である。

当時の京都は毎晩のように尊王攘夷派の人間たちが「天誅!」なんて言ったりしながら、人を斬りまくっていそうだ。

そんな攘夷派の人間から京都の治安を守るのが新選組の役割だったようだ。

そんなわけで、新選組は普段から京都の町を巡回していたようだ。

そんなある日、いつものように巡回していると怪しい男を発見したようだ。

その男は桝屋喜右衛門と名乗り、桝屋という炭問屋の主だと言う。

しかし、調べてみれば、桝屋喜右衛門ではなく、古高俊太郎という男だったようで、桝屋の地下室からは大量の火薬が見つかったみたいだ。

「おやおや?これは一体何かね?」と驚いた土方歳三が古高を拷問するわけである。

すると、恐ろしい事が発覚する。

八月十八日の政変以降、長州藩の人たちは「京都に居たらダメ!」と言われていた。

そして、幕府と朝廷が仲良く公武合体を進めていた。

そんな状況を焦った長州藩の人たちが、ダメって言われているのに京都に潜入していたようだ。

しかも、そんな状況を打開するために

『京都焼き討ち』

を計画していたのだ。

古高は「風が強い日に京都に火をつけんだよ!そんでもって町が混乱している隙に中川宮を幽閉して、一橋慶喜と松平容保を暗殺して、孝明天皇を長州に連れ去るんだよ!」という。

土方は焦った事だろう。

京都焼き討ちなんかしたら、全然関係ない一般の人たちも巻き込まれるわけであり、どれだけ人が死ぬかなんて想像もできない。

そんなわけで「この計画を止めなければ!」と捜査を開始する。

捜査の結果、池田屋か四国屋のどちらかで京都焼き討ちのための会合が開かれるということが発覚。

というわけで、隊を二つに分けて池田屋と四国屋のそれぞれに向かう事にしたそうだ。

近藤隊は池田屋へ、土方隊は四国屋へ向かったようだ。

近藤隊は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助など10人。

土方隊(松原隊とも言われている)は土方歳三、井上源三郎、斎藤一、原田左之助など24名。(諸説あり)

池田屋に着いた、近藤は

「御用改めである!」

と言ったそうで、新選組の姿を見た池田屋の主は焦ったもんだから、2階に向かって「皆様!旅客改めですよー」と言ってしまったのだ。

そんなわけで近藤勇は2階に敵が居る事に気づき、近藤は階段を駆け上がり、それに沖田がついて行ったそうだ。

最初に池田屋に乗り込んだのは諸説あるが、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、というのは間違いないようだ。

そうして、戦闘が始まるわけである。

戦闘が始まると、なんともまあ、タイミングが悪く沖田は肺炎のため吐血し、倒れてしまったようで、藤堂に至っては額を斬られ血が噴き出し、その血が目に入って何も見えない為に戦線を離脱する。

そうなると、池田屋の中にいる新選組は近藤と永倉だけである。

その永倉も手を斬られ、左手の親指の付け根の肉は削がれて、刀も折れてしまったみたいだ。

そんな中、近藤だけは無傷だったようだ。

近藤も何度も敵に囲まれて絶体絶命のピンチに陥ったようだが、持ち前の気合いと根性と威圧感に敵は手も足も出なかったそうだ。

ちなみに近藤の愛刀虎徹も刃こぼれでぼろぼろになっていたそうだ。

ただ、本物の虎徹はそんなぐらいじゃ、刃こぼれしないらしい。

それはそうと、そんな絶体絶命のピンチに土方隊が駆けつけたようだ。

原田とか井上は、今までの遅れを取り戻そうと必死に頑張ったようだ。

原田に至っては頑張りすぎて当時の風聞書にあろうことか

「原田左之助は勇敢に戦いましたが残念な事に戦死しちゃいました」

と書かれてしまったようだ。

原田はきっとこう言った事だろう。

「オレ、生きてるよ!」

そうして、会津の援軍もやってきて、戦況は新選組の方に傾き、このまま新選組の勝利で幕を閉じる。

この件で新選組は会津からは500両、幕府からは600両の報賞金を貰ったようだ。

この事件は、あくまで『京都焼き討ち』を防ぐためのものだったという事。(もちろん、だからといって人を殺していいわけではない)

そして、新選組が人をたくさん斬っている印象があるが、これは相手は当然抵抗するわけで、捕縛するには人数が少しばかり足りなかったので、苦肉の策だったという事。

現に古高俊太郎は生きたまま会津に受け渡しているし、池田屋でも土方隊が到着後は人手にゆとりができたために、斬ることよりも捕縛第一優先に作戦が変わっているのである。

どんな理由であれ、人を殺すのは絶対にいけない事ではある。

ただ、新選組に偏った考えではあるけど、あくまで京都焼き討ちを防ぐためであり、新選組は人斬り集団なんかではない。

あくまで、京都守護職会津藩お預かり新選組としての役割を全うしたのだ。

新選組が京都を焼け野原になるのから防いだのだと勝手に思うのである。