明日はおそらく七転八倒!

勝手に新選組。
自分は新選組が好きなので、勝手に新選組を始めます。
あくまで、勝手にってのがミソです。

明里

2015-07-25 21:32:48 | 勝手に新選組
本日は新選組の屯所でもあった八木さんの息子、八木為三郎の証言を元に書かれた子母沢寛の小説に出てくる人物。

ただ、証言を元に書いてはあるものの、永倉新八や山崎丞が残した文献にはそのようなことが残されていないので、子母沢寛の創作ではないかと言われている。

そんな人物。

明里。

そんなわけで、勝手に新選組。

名前
明里(あけさと)

生誕
不明

死没
不明

出身
不明

逸話
明里のことについてはほとんど不明である。

そんなこともあり、創作の人物と言われているのだろう。

いつ生まれたかもわかっていないが、山南敬助が切腹する1865年のときに21歳か22歳ぐらいの年齢だったそうだ。

そんな明里は京都島原の天神(芸妓のことだそうだ)だったらしい。

そして、武家の妻になってもおかしくないような上品で美人な人だったそうだ。

ということぐらいしかわかっていない。

創作の可能性が高い。

そんな明里がいた島原という所は、(そんなイメージないかもしれないが)老若男女、家族でも楽しめる所だったそうだ。

輪違屋や角屋など、新選組行きつけのお店も、島原にはあったそうだ。

ちなみに、角屋は芹沢鴨暗殺の夜、芹沢を酔っぱらわせる為に宴会を開いた場所だ。

宴会後、芹沢鴨は暗殺されている。

一応、確認の為にもう一度言っておこう。

こんなこと起きてるけど、島原は家族でも楽しめる所だそうだ。

そうゆうわけで、山南敬助も娯楽を求めて島原に行っていたことだろう。

そんな時に明里と出会ったようで、明里と山南はお付き合いをするようになるわけだ。

でも、山南は局中法度により切腹することになる。

山南が切腹する直前、明里が猛ダッシュで「山南敬助さーん!」と山南敬介の名前を連呼しながらやってきたそうだ。

そして、山南敬助の居る部屋の窓をドンドンと叩いたわけである。

すると障子が開いて山南が現れたわけである。

その山南の姿を見た明里は泣き崩れたそうだが、山南の方は以外にも涼しい顔で「まったねー」という始末。

だけど、明里の鳴き声があまりにもうるさかったのだろう。

そこに警備の人がやってきて、明里を連れて行こうとしたのである。

しかし、明里は「イヤだイヤだイヤだ」と駄々をこねて格子を掴んで離れなかったそうだ。

そんな明里の姿をみた山南は、あろうことか

障子を締めたのだ。

なんて冷たい人なんだろうか。

明里が不憫じゃないか!

そんな姿を物陰に隠れ見ていたのが、八木為三郎だったそうだ。

八木為三郎の気配の消し方というのは、家政婦は見た!のそれだったという噂だ。

それからすぐに、山南は切腹してしまったそうだ。

そしてその後、明里はどうなったのかは不明だそうだ。

自分が思うに明里についてはおそらく、全部創作だろう。

そもそも、山南敬助が創作を思わせる人物だ。(山南さんは実在したと思うけど)

それに、新選組の総長が切腹になるような事件だ。

この情報が外部に漏れたら、山南の逃亡を手助けする人とかも出てくるだろう。

1回隊を脱走されただけでも局中法度を重んじる新選組には、汚点でしかない。

それが切腹を目前にして、もしまた逃げられたなんてことになったら、とんだ赤っ恥だ。

だから、こんな情報が外部に漏らすわけがない。(ただ、新選組は意外といい加減だったから、情報だだ漏れだったかもしれない)

ということで、自分は明里は、創作の人物なんじゃないかなと、勝手に思うのである。

石田散薬

2015-07-24 21:24:32 | 勝手に新選組
本日は夏の土用丑の日である。

幕末時は太陰暦で明治以降は太陽暦とかなんとかで、正確な日にちは違うらしいのだが、(夏の土用丑の日は8月にもう一回あるが)この土用丑の日に村中総出でミゾソバ、通称牛額草を刈ったそうだ。

で、このミゾソバというのは土方歳三が売り歩いていた、あの『石田散薬』の原材料だ。

ということで、本日は

石田散薬。

そんなわけで、勝手に新選組。

名前
石田散薬(いしださんやく)

効果
捻挫、打ち身、筋肉痛、関節痛、腰痛、接骨、切り傷、刀傷。

服用法
熱燗の日本酒と一緒に飲むらしい。(一包、3.75g)

子どもとかはどうしてたのかわからないけど、日本酒と飲めるってことで、人気があったみたいだ。

そしてお酒と飲まないと効果はなかったそうだ。

概要
石田散薬とは石田村の散薬。

だから石田散薬という、なんのひねりもないネーミングだ。

この薬は土方歳三の実家で作られていたという。

その、作り方は1700年頃に伝承されたらしい。

そして伝承したという人というのが、土方家曰く

「河童明神から教えてもらった」

らしい。

河童明神がなんだか知らないけど、とにかく作り方を教えてくれた人は河童なんだとか。

怪しい薬だ。

そんな石田散薬も1948年まで製造されていたそうだ。

ただ残念ながら、1948年に薬事改正法により当時の厚生省が「科学的調査研究が出来てないんだよ!」と言って薬効を認めず、製造が中止されたそうだ。

ただ、それでも「石田散薬しか飲まない!」という老人たちもいたそうだ。

一種の中毒症状だろうか?

その石田散薬だが土方歳三記念館に、製造を中止した頃の薬が未だに少し残っているそうだ。

ただ、そんな石田散薬を土方家の人たちは

「古くて、飲めない」

と言っているそうだ。

そりゃ、そうだ。

そんなこと、言われなくてもだいたい予想はつく。

そんな石田散薬の作り方が、土方歳三記念館のブログに書いてあったので、簡単に書いておこうと思う。

1、7月に刈ったミゾソバを天日干し、乾燥。
(ミゾソバは北海道、本州、四国、九州の沼地や小川、湖岸にあるらしい。稲作地帯や用水路の脇に生えてるのもあるらしい。見た目は蕎麦に似ているそうだ)

2、それを小さく切る。

茎部分は取り除くそうだ。

3、小さくしたヤツを黒焼き。

焦がさないように、注意するのがポイントだそうだ。弱火から中火でじっくりと炒るといいらしい。

4、炒っているときに、たまに煙が上がるようだ。

そしたら、日本酒をかける。

当時は、口に含んで霧にしてかけてたそうだが、霧吹きとかでいいそうだ。

5、小一時間、炒り続けると茶色っぽくなってくるようなので、そこに日本酒をたらす。

すると、色が一気に黒くなるそうだ。

6、そしたら乾燥。

7、乾燥したら薬研ってヤツで薬を細かく粉末にする。

粉薬みたいに細かくなったら完成だそうだ。

自分も時間があったら作ってみようと思う。

ただ、当時の厚生省は認めていないし、老人たちは中毒症状でてるし、そもそも河童から教わった薬なんて怖くて飲めないと、勝手に思うのである。

天然理心流

2015-07-21 22:16:01 | 勝手に新選組
徳川幕府250年の歴史の中で日本の武術というのは停滞していたそうだ。

しかし、江戸時代後期から末期にかけて、日本国内の情勢が変化し始めると、停滞していた武術に活気が戻り始めたそうだ。

その中でも、特に有名なのが千葉周作の玄武館『北辰一刀流』、斎藤弥九郎の練兵館『神道無念流』、桃井春蔵の玄武館『鏡新明智流』だ。

この3つは「位は桃井、技は千葉、技は斎藤」と言われ、幕末江戸三大道場とも言われている。

そんな中、幕末の動乱の中心地、京都で血の雨を降らせた新選組の中心人物。

近藤勇、土方歳三、沖田総司は幕末江戸三大道場どころか、当時は全くの無名(現在は新選組の影響で有名だけど)、の流派だったわけである。

しかも「多摩の田舎剣法」と周りから笑われ、この三大道場からは「芋道場」とも呼ばれれていたそうだ。

本日はそんな

天然理心流。

そんなわけで、勝手に新選組。

名前
天然理心流(てんねんりしんりゅう)

概要
天然理心流の流祖は近藤内蔵助長裕という人で、鹿島新当流(戦国時代に塚原卜伝が興した剣術の流派だそうだ)の系統だという。

そんな近藤さんが、1789年~1801年の間に天然理心流をおこしたそうで、剣術、棍棒術、柔術、気合術からなる総合術だったそうだ。(現在は剣術だけ継承してるんだとか)

天然理心流は総合術なんだけど、「俺は剣術だけ学びたい」と思えば剣術だけを、「僕は柔術だけでいいや」と思えば柔術だけを、学ぶことが出来たそうだ。

そして近藤さんは江戸に道場を構えていたそうだが、近隣の農村に出向いて稽古とかをしていたようだ。

そして2代目の近藤三助は多摩地域や現在の埼玉や神奈川など広範囲で天然理心流を普及したわけである。

ただ、2代目の近藤三助は何を考えたのか、あろうことか

指南免許、印可

を誰にも与えず、46歳でこの世を去ってしまったのである。

そんなわけで、天然理心流には後継者が居なかったそうだ。

一応、3代目は近藤周助(近藤勇の義父)が継いだみたいだ。

ただ、近藤周助は剣術の免許しか受けていないそうで、剣術、棍棒術、柔術の三術の免許を受けている人は他に何人かいたそうだ。(気合術は2代目行以降なんでか、だれもやらなかったそうで、2代目で途絶えてしまったそうだ)

そうゆうわけで、周助がなんで近藤姓を名乗って3代目を引き継いだのかは謎である。

そして周助が1839年に江戸市谷甲良屋敷(現在の新宿区市谷柳町25番地)に道場を移転。

近藤勇たちが集まった、試衛館道場を開いたのである。

そして1861年に近藤勇に4代目を譲ったそうだ。

その後、5代目は沖田総司が引き継ぐ予定だったけど(近藤勇が沖田に5代目を譲りたいと勝手に手紙に書いてただけ)、沖田総司が死んでしまったので、近藤勇の甥、近藤勇五郎が5代目を引き継いだりしたそうだ。

こんな天然理心流の特徴は、稽古では木刀を使う古流剣術だそうで、稽古は同じ型を何度も繰り返す、型稽古と呼ばれるものらしい。

そして、竹刀は弱いが実戦ではめっぽう強い剣術(自称)で、気合いで相手を怯ませ(無理矢理?)相手に隙を作らせて、その隙に技を繰り出すそうだ。

池田屋事件の時、池田屋からは近藤勇の甲高い叫び声が町中に聞こえてきたそうで、それぐらい凄い気合いだったようだ。(それで敵が怯えて、近藤はほぼ無傷だったとか)

ただ、甲高いってのが気になる。

きっと安田大サーカスのクロちゃんみたいな変な声だったんだろうなと、勝手に思うのである。

宮川信吉

2015-07-17 22:31:37 | 勝手に新選組
本日は新選組局長の近藤勇の従弟。

宮川信吉。

そんなわけで、勝手に新選組。

名前
宮川信吉(みやがわのぶきち、もしくは、しんきち、とも言うらしい)

生誕
1843年

死没
1868年12月7日

出身
武蔵国多摩

流派
天然理心流

役職
平隊士
伍長

性格
詳しい性格はわからない。

ただ、新選組に入隊する前は新選組に強い憧れを抱いていたようなので、近藤勇や土方歳三に憧れていたのではないかと思う。

ニックネーム
宮川だし『大助花子』にしよう。

逸話
信吉は多摩の農家、宮川弥五郎の次男として生まれたそうだ。

そして、信吉の母リノは近藤勇の妹のようだ。

そんなわけで、信吉は近藤勇の従弟に当たるのだ。

そんな信吉は1862年12月に従兄の近藤勇の天然理心流、試衛館道場に入門。

剣術だけでなく、書のお勉強もしたそうだ。

そんなこんなで、「やったー。おれも試衛館道場の仲間入りだー!」と喜んでいたら、たった2ヶ月後の1863年2月に近藤勇、土方歳三、沖田総司など試衛館道場の一派は浪士組に参加。

上洛してしまい、信吉は取り残されてしまったのである。

そして、試衛館道場事態もほとんど閉鎖状態。(一応、佐藤彦五郎とかが留守を預かっていた)

そうゆうこともあって、信吉は「おれも新選組に入りたい!」と思うようになり始めたそうだ。

そんな1865年4月、新選組は江戸で第2次隊士募集を行うのだ。

それに信吉は応募。

信吉は晴れて、新選組「番外」として入隊したそうだ。(土方の秘書とかをしたそうだ)

番外ということで、もしかするとこのときは正式な隊士ではなかったのかもしれない。

それでも、翌月の5月には一番隊平隊士という記録があり、沖田総司も「信吉君は無事です。僕の隊で頑張ってます。家族の皆さん心配なさらずに」みたいな手紙を近藤勇のお兄さん、宮川音五郎に送っているので、このときには正式に一番隊の隊士だったのだろう。

その沖田総司率いる一番隊といえば、戦闘の第一線に行くような、精鋭部隊だ。

しかも、伊東甲子太郎が1867年に御陵衛士を結成して新選組を抜けると、信吉の位は、平隊士の中では2番目だったそうだ。

信吉の剣の腕は相当凄かったのだろう。

そんな信吉は、油小路事件では大石鍬次郎とかと、伊東甲子太郎をやっつけている。

近藤や土方も、信吉の剣の腕を信頼していたのだろう。

そして1868年12月7日に天満屋事件が勃発する。

これは約一ヶ月前に起きた坂本龍馬、中岡慎太郎襲撃事件の報復として海援隊と陸援隊の隊士たちが紀州藩の三浦休太郎を襲撃しようとしていたそうだ。

そんなもんだから、新選組が三浦休太郎を護衛することになったのである。

そして、新選組は斎藤一や大石鍬次郎とか7人を三浦休太郎の下に派遣。

その中の一人が、信吉だったそうだ。

そして、海援隊、陸援隊の隊士が三浦休太郎を襲撃。

しかし、三浦休太郎は新選組の護衛のおかげで無事だったのである。

ただ、このときに信吉は死んでしまったのである。

もちろん、殺し合いはダメだ。

ただ、信吉は憧れだった新選組の隊士として、しかも精鋭部隊の一番隊にもなれてよかったなと、勝手に思うのである。

御楯組

2015-07-13 20:20:38 | 勝手に新選組
御楯組と御楯隊というものがある。

組と隊の違いだけど、別物だ。

本日はそんな

御楯組

について。

名前
御楯組(みたてぐみ)

逸話
大将は高杉晋作。

副将は久坂玄瑞。

そして品川弥二郎など松下村塾の塾生を中心に、攘夷決行のために作られたのが御楯組である。

この松下村塾の塾生たちを指導していた、吉田松陰の教えの一つが『知行合一』という教えだそうだ。

この知行合一とは「知識とは行動におこして初めて意味を持つ」ということ、要するに「知識を持てるだけじゃ無意味。行動を起こさない人に価値はないんだ」ということらしい。

そんなわけで、攘夷思想の強い吉田松陰の弟子たちは「オレたちは無意味なんかじゃない!攘夷を決行してやる!」と息巻くわけである。

そんな中、大名行列に紛れ込んでしまったイギリス人を薩摩藩士たちが殺害した、生麦事件が発生したのである。

この情報を聞いた松下村塾の塾生たちは「ああもう!薩摩に先越されたー!」早くオレたちも攘夷を決行しなきゃ!」と焦るわけである。

当時、外国公使たちは武蔵国金沢(現在の金沢八景駅周辺)でよく遊んでいたそうだ。

そんなわけで、高杉晋作たちは「そこで外国公使を殺害しよう!」と計画。

この計画を久坂玄瑞が土佐藩の武市瑞山(武市半平太ともいう)に話してしまったのだ。

噂というのはどこから漏れるかわからないものだ。

武市瑞山に話してしまったことで、土佐藩藩主の山内容堂に、山内容堂から長州藩藩主の跡継ぎ、毛利定広にもこの計画が伝わってしまったのである。

そして「これは謀反である!」と言われてしまったもんで、この計画をしていた人たちは櫻田邸内に謹慎処分になってしまったのである。

計画はもちろん未遂に終わってしまったわけだ。

しかし、こんなことでめげない高杉晋作たち。

謹慎中の仲間たちで攘夷を誓う血判状を作成。

これを御楯組と名付けたのである。

そして御楯組12名は、1863年12月12日に品川御殿に建設中だった英国公使館を焼き討ち(世に言う、英国公使館焼き討ち事件)を起こしたのである。

この事件の後、御楯組は解散したのであった。

ただでさえややこしい時代なのに松下村塾の塾生はさらに話をややこしくするもんだ。

とにかく新選組と松下村塾の塾生はややこしいヤツばっかりだと、勝手に思うのである。