本日は昨日の亀つながりにしようと思う。
亀太郎ではないが、名前に亀がつく。
あの坂本龍馬からも可愛がられてみたいで、池田屋で新選組と戦った人。
望月亀弥太。
そんなわけで、勝手に明治維新。
名前
望月亀弥太(もちづき かめやた)
生誕
1838年11月23日
死没
1864年7月8日
出身
土佐藩
流派
不明
性格
すぐ熱くなる人だったようだ。
ニックネーム
画像は無かった。
自分の脳みそでは亀弥太から連想できるニックネームは
『キャメロン』
しかない・・・。
逸話
望月亀弥太は坂本龍馬のお友達の望月清平の弟という事で、亀弥太も龍馬と仲良しだったと思われる。
そんな亀弥太は兄清平と一緒に土佐勤王党(尊王攘夷派)に入ったようだ。
ただ、清平の名前は残っているが、亀弥太の名前はなぜか残っていないようだ。
そして尊王攘夷派の組織五十人組として江戸に行ったようだ。
その後、勝海舟のから航海術を学び、坂本龍馬が「お前も海軍操練所へ来なよー」と言うもんだから、神戸海軍操練所に入る。
ところが藩から、亀弥太に帰国命令が出たようだ。
このころ、土佐では八月十八日の政変の影響で土佐勤王党は弾圧されていたようで、元土佐勤王党ではあっても亀弥太は凄いお仕置きがまっていた事だろう。
しかし、亀弥太は海軍操練所でまだやりたい事もあったのか「勝先生、修行がしたいです」と言って、脱藩し土佐には戻らなかったようだ。
脱藩した後は長州藩邸で潜伏させてもらったり、いろいろお世話になったようだ。
そこで、過激な尊王攘夷思想を持つ人たちと知り合う。
過激な尊王攘夷派の人たちは言った。
「尊王攘夷を達成する為のいい作戦があるんだ。今度、池田屋でそのための会合があるんだ、キャメロンもきなよ」
亀弥太は「うん。わかった」と言って池田屋での会合に参加したようだ。
しかし、その会合が新選組にバレて新選組が「御用改めである」なんていいながらやってきたようだ。
亀弥太はもちろんのこと、尊王攘夷派の人たちも新選組に負けない強者たちだったようだが、突然の奇襲である。
尊王攘夷派の人たちはびっくりしたことだろう。
刀も池田屋の人に預けていたという話もあり、仕方なく脇差し等で応戦したようだが、突然の奇襲という事もあり新選組の勢いには勝てなかったようだ。
尊王攘夷の人たちは次々に倒れていったようだ。
しかし亀弥太は、「おみやーん!おみやーん!」と叫びながら(これは司馬遼太郎の創作)池田屋から命からがら脱出に成功するのであった。
ちなみに、「おみやーん!」とは土佐藩の言葉で気合いを入れたりするときにつかう言葉だったようだ。
池田屋から脱出に成功したはいいが、追っ手が追いかけてくるわけだ。
亀弥太は池田屋から、必死の思いで長州藩邸にたどり着いたのである。
助かったと亀弥太は、ほっとしたことだろう。
しかしあろうことか、長州藩邸は門を開けなかったのである。
この会合に集まった人たちは、長州の中でも過激な尊王攘夷思想の人たちだったもんで、この計画が表沙汰になると、あまりよろしくないと思ったのだろう。
そんなわけで、亀弥太は長州藩邸にたどり着いたけど、追っ手も追いかけてくるわけで、助からないと悟り自害。
坂本龍馬も勝海舟も、亀弥太の死を嘆いたようだ。
勝海舟は開国論者であり幕府の人間だった。
その勝海舟の元で亀弥太は航海術を学んでいた。
それなのに、なぜ亀弥太は幕府を倒したかったのかはわからない。
土佐勤王党の人たちや仲間だった人たちが、次々に殺されていくのが事が許せなかったのかもしれない。
勝海舟には恩があったけど、亀弥太はすぐに熱くなる性格だったみたいで、仲間たちを殺されて、黙っていられなかったのかもしれない。
その後、起こる禁門の変は池田屋事件の復讐でもあると言われている。
結局、争いでは次の争いを生むだけであると勝手に思うのである。
亀太郎ではないが、名前に亀がつく。
あの坂本龍馬からも可愛がられてみたいで、池田屋で新選組と戦った人。
望月亀弥太。
そんなわけで、勝手に明治維新。
名前
望月亀弥太(もちづき かめやた)
生誕
1838年11月23日
死没
1864年7月8日
出身
土佐藩
流派
不明
性格
すぐ熱くなる人だったようだ。
ニックネーム
画像は無かった。
自分の脳みそでは亀弥太から連想できるニックネームは
『キャメロン』
しかない・・・。
逸話
望月亀弥太は坂本龍馬のお友達の望月清平の弟という事で、亀弥太も龍馬と仲良しだったと思われる。
そんな亀弥太は兄清平と一緒に土佐勤王党(尊王攘夷派)に入ったようだ。
ただ、清平の名前は残っているが、亀弥太の名前はなぜか残っていないようだ。
そして尊王攘夷派の組織五十人組として江戸に行ったようだ。
その後、勝海舟のから航海術を学び、坂本龍馬が「お前も海軍操練所へ来なよー」と言うもんだから、神戸海軍操練所に入る。
ところが藩から、亀弥太に帰国命令が出たようだ。
このころ、土佐では八月十八日の政変の影響で土佐勤王党は弾圧されていたようで、元土佐勤王党ではあっても亀弥太は凄いお仕置きがまっていた事だろう。
しかし、亀弥太は海軍操練所でまだやりたい事もあったのか「勝先生、修行がしたいです」と言って、脱藩し土佐には戻らなかったようだ。
脱藩した後は長州藩邸で潜伏させてもらったり、いろいろお世話になったようだ。
そこで、過激な尊王攘夷思想を持つ人たちと知り合う。
過激な尊王攘夷派の人たちは言った。
「尊王攘夷を達成する為のいい作戦があるんだ。今度、池田屋でそのための会合があるんだ、キャメロンもきなよ」
亀弥太は「うん。わかった」と言って池田屋での会合に参加したようだ。
しかし、その会合が新選組にバレて新選組が「御用改めである」なんていいながらやってきたようだ。
亀弥太はもちろんのこと、尊王攘夷派の人たちも新選組に負けない強者たちだったようだが、突然の奇襲である。
尊王攘夷派の人たちはびっくりしたことだろう。
刀も池田屋の人に預けていたという話もあり、仕方なく脇差し等で応戦したようだが、突然の奇襲という事もあり新選組の勢いには勝てなかったようだ。
尊王攘夷の人たちは次々に倒れていったようだ。
しかし亀弥太は、「おみやーん!おみやーん!」と叫びながら(これは司馬遼太郎の創作)池田屋から命からがら脱出に成功するのであった。
ちなみに、「おみやーん!」とは土佐藩の言葉で気合いを入れたりするときにつかう言葉だったようだ。
池田屋から脱出に成功したはいいが、追っ手が追いかけてくるわけだ。
亀弥太は池田屋から、必死の思いで長州藩邸にたどり着いたのである。
助かったと亀弥太は、ほっとしたことだろう。
しかしあろうことか、長州藩邸は門を開けなかったのである。
この会合に集まった人たちは、長州の中でも過激な尊王攘夷思想の人たちだったもんで、この計画が表沙汰になると、あまりよろしくないと思ったのだろう。
そんなわけで、亀弥太は長州藩邸にたどり着いたけど、追っ手も追いかけてくるわけで、助からないと悟り自害。
坂本龍馬も勝海舟も、亀弥太の死を嘆いたようだ。
勝海舟は開国論者であり幕府の人間だった。
その勝海舟の元で亀弥太は航海術を学んでいた。
それなのに、なぜ亀弥太は幕府を倒したかったのかはわからない。
土佐勤王党の人たちや仲間だった人たちが、次々に殺されていくのが事が許せなかったのかもしれない。
勝海舟には恩があったけど、亀弥太はすぐに熱くなる性格だったみたいで、仲間たちを殺されて、黙っていられなかったのかもしれない。
その後、起こる禁門の変は池田屋事件の復讐でもあると言われている。
結局、争いでは次の争いを生むだけであると勝手に思うのである。